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[5100]某社での盗難事件について(III) 核心 07/12/30(日) 4:52
[5119]M社長の言動(1) 核心 07/12/30(日) 13:29
[5122]M社長の言動(2) 核心 07/12/31(月) 14:39
[5139]M社長の言動(3) 核心 08/1/1(火) 13:48
[5161]防衛研究所戦史部との関係(1) 核心 08/1/2(水) 22:22
[5205]防衛研究所戦史部との関係(2) 核心 08/1/5(土) 12:50
[5206]防衛研究所戦史部との関係(3) 核心 08/1/5(土) 13:42
[5218]平成18年2月11日(土) 核心 08/1/7(月) 9:58
[5234]平成18年4月12日(水)(1) 核心 08/1/10(木) 13:53
[5238]平成18年4月12日(水)(2) 核心 08/1/10(木) 23:14
[5239]平成18年4月12日(水)(3) 核心 08/1/11(金) 10:50
[5240]平成18年4月12日(水)(4) 核心 08/1/11(金) 13:03
[5241]平成18年5月19日(土) 核心 08/1/11(金) 13:43
[5242]平成18年5月20日(日) 核心 08/1/11(金) 15:27
[5243]平成18年5月24日(日) 核心 08/1/11(金) 15:38
[5244]平成18年6月1日(木) 核心 08/1/11(金) 16:42
[5246]平成18年6月2日(金) 核心 08/1/12(土) 1:57
[5247]平成18年7月8日(土) 核心 08/1/12(土) 9:05
[5250]森松俊夫氏の嘘2回(8月12日) 核心 08/1/12(土) 17:32
[5249]なぜ、S.M氏が犯人と言えるのか? 核心 08/1/12(土) 16:42

[5100]某社での盗難事件について(I...
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 核心 E-MAIL  - 07/12/30(日) 4:52 -

引用なし
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   某社での盗難事件について経緯を詳述して行きます。
概略は古文書保存をかかげる会社で、証拠がない、と言われて、いいように個人の私的持ち物が破壊され、一部が破り盗られたという前代未聞の破廉恥な事件です。
M社長も私の言っているクレイムの内容を知るにつれてその危うさを認識していったようです。
私に取っては思い出すのも不愉快な事件です。
この事件が契機となってスケッチ帳をネットで公開することにしたのです。
85 hits

[5119]M社長の言動(1)
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 核心 E-MAIL  - 07/12/30(日) 13:29 -

引用なし
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   この盗難事件の解明で一番重要なのは某社のM社長の言動でしょう。
M氏とは三度、会話しています。
まず最初は平成18年7月8日の会議です。
(この事件が多少とも手がかりが明確に残ったのは6月2日に花小金井派出所に届け出た時のK氏の対応と7月6日の小平警察署刑事課のS氏から某社への電話のお陰です。
6月2日にはS.M氏から即答で社内調査を拒否されているのですから。)
7月7日の技術部のO氏のメールで判るようにこの時点ではM社長は事の詳細を知りませんでした。
(現実には未だに、この事件の奥深さを知らず、こちらに有利な情報を話していただいたので助かっているのですが。)
7月8日の会議にはM社長、S.M氏、技術部長のO氏が居て、途中から実際に写真を撮影された技術部のM.S氏が参加されました。
M.S氏は実直そうないかにも技術畑の方と見受けられる人で、とてつもなく驚いた様子でした。
写真撮影は営業のS.M氏の指示に従いながら行なわれたということでした。
写真が無い頁の撮影が無かったり、有ったりするのもS.M氏の指示通りだったということになります。

この会議でのM社長の言動は以下の通りです。

一つは、実際のアルバムを見せたところ、確かに破り取られたようだ、と言われたことです。白い片が写真の無い頁にありましたから。
もう一つは、しきりに本多勝一氏のことを話したことです。
小学生の時に学校に本多氏が来られて話をされた、とかそういった類の話でした。
また、会社創設以来40年間で初めてのクレームだ、とも言われていたと思います。

この会議の途中で、6月2日のS.M氏の対応について話をしたところ、S.M氏が突然、その日は私と話をしていない、と言い出したのです。
私が困惑して、だったらNTTから通話の記録をとりよせます、と言うことになり、また万が一、家で写真が出てくることがあるかもしれませんから、と言って会議は終りになりました。
69 hits

[5122]M社長の言動(2)
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 核心 E-MAIL  - 07/12/31(月) 14:39 -

引用なし
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   次にM社長と話したのは、S.M氏からメールを頂いた(7月13日)後で、牛込署に出向く(8月4日)前です。

S.M氏からメールを頂いた時にはNTTの通話記録を受け取っていたのですが、S.M氏のような人は通話記録を渡したら渡したで、何とか自分に都合のいいような理屈を考えて来る人だ、と判ったので故意にお渡ししませんでした。
6月2日には電話口で、うちは顧客から預かった資料は預かった時の状態でお返ししています、社内調査をする必要はありません、と明確におっしゃっていたのに、7月8日の会議では、その日は私とは話してない、といい出し、この7月13日のメールでは社内調査をしないと言ったわけではない、などと言って来ているのです。

M社長は電話してすぐに、ベランダに出て話している、と言ってきました。
社員に聞かれるとまずいと考えていたようです。
M社長との話は以下のようなものでした。

まず、NTTからの通話記録をお知らせしました。
M社長からは、S.M氏のタイムカードを調べて、その時間より先に来ているか確認すればS.M氏が嘘をついたかどうかが判ると言うことでした。

次に、なぜ某社を選んだのか、と聞かれ、グーグルのスポンサーサイトになっていたからだ、と答えました。

次に、なぜそんなに長い間預けていたのか、と聞かれたので、年度末を控えているので打ち合わせは4月以降にしてください、とO氏から言われたからだ、と答えました。

また、某社としては被害届が警察に残るだけでも困る、といわれ、法的手段も辞さない、などとおっしゃるので、M社長は何学部をご卒業されていますか、と聞き、経済学部だ、との答えられたので、どうぞどうぞ私は×学部の出ですが、ここ数年は法律の勉強をしていて法律には非常に詳しいですから、と答えておきました。
弁護士に相談されましたか、と聞いたところ、未だだ、とのことでした。

その次に、自分の子供は牛込署で剣道(?)を教わっている、牛込署の署長も知っている、署長に頼んで被害届は取り下げさせる、などとも言ってました。

また、私の方から東史郎氏の話をしました。
一義的な証拠が無いのをいいことに、同じようなことをされた、と話しておきました。

また、S.M氏は7月8日以後は完全にまわりから浮いていて仕事も手に付かない状態だったけど、このごろどうにか落ち着いてきた、と言ったような話がありました。

最後は、私がS.M氏に送ったメールのことだったと思います。

S.M氏から7月13日のメールを頂いてから数通メールをお送りしていました。
最初は、自殺だけはしないように、という内容です。
M社長は、彼は自殺などはしないでしょう、と気楽に答えてました。

また、S.M氏が犯人でないとするとM社長が犯人なのかもしれない、なぜならM社長が私とは関係のない本多勝一氏の話をしきりにしていたからだ、という内容のメールも送っていました。
S.M氏はこのメールをM社長に見せて、助けを求めたようでした。
最初にメールを送ってきたのはS.M氏のほうからだ、と告げて電話を終りにしました。

(この電話の後で全てのメールをM社長にお送りました。)
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[5139]M社長の言動(3)
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 核心 E-MAIL  - 08/1/1(火) 13:48 -

引用なし
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   次にM社長と話したのは今年の10月15日です。

今年の夏ごろからメディアの取材の話があり、盗難の件などもお話したのですが、まさかそこまでは無いでしょう、といった反応でした。
そこでスケッチ帳とアルバムを調べなおしたところ、明確な損壊が明らかになりました。
告訴の手続を進めようと思ったのですが、S.M氏のメールをチェックしなおすと社内調査を行なう意思があるようにも読み取れます。
また、暫く前からM社長と森松俊夫氏が同じ苗字であることも気になっていました。
商業登記簿を取り寄せて確認したところ某社はM社長の同族会社であることがわかりました。

この日に牛込署のY氏に電話して、私が某社に電話を入れても差し支えないことを確認してからM社長に電話しました。

M社長の話は以下の通りです。

まず、アルバムの貼り札の件をお伝えしましたが、貼り札がどうであろうと、うちはお預かりした時の状態でお返ししているので社内調査を進める意思はない、との返答を得ました。

それから少し話をして、これだけは正直に答えて欲しいのだけど、と頼んで森松俊夫氏との関係をお聞きしました。
M社長は何でも正直にお答えしていますよ、といったついでに森松俊夫氏との関係をそれなりに具体的に回答されました。
私が森松さんは京都の出身ですよね、と切り出すと、よくご存知ですね、あの方は京都の下級武士の出で、戦史室のあと偕行社に行かれました。
戦史室は防衛庁舎(?)の2階にあって、責任者は原剛さんでした。
森松さんやHさんが部下で、私も複写の仕事で散々お世話になり、三人には随分可愛がられました、森松さんには、私は九州の八女の出ですから苗字は同じですが祖先は違いますね、とお話ししました、などと答えられたのです。

最後に、うちは右も左もやってますから、などと言われてしまいました。

私は某社と戦史室とがそれなりに関係のあることが判ればよかったので、それで電話を切らせて頂きました。
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[5161]防衛研究所戦史部との関係(1...
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 核心 E-MAIL  - 08/1/2(水) 22:22 -

引用なし
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   私が、なぜ戦史室を知ることになったのか、それはこの盗難事件が引き金です。

まず、なぜ破り盗りに気づいたのか。

そのころ、父から毎日新聞に連絡したという話が、私が父から聞いていた話と違っていたことに悩んでいました。
父は私には「毎日新聞の人が聞きに来たのはお父さんが最もよく知っていると聞いて探し当ててきたのだ。」と話していました。
いまから考えると、これは自分が一番よく知っているという父の自負心から出た言葉だと思います。
私はその当時の事情を知りたくて、誰が記事を書いたのか、毎日新聞社会部に電話しました。
そうしたところ、社会部の人から、新聞記者の名前がわからないか、名刺でもないか、と聞かれ(その時は父は1階でベッド生活でしたので)2階の父の部屋で名刺を探しました。
そこで、平林貞治氏の名刺を見つけ、平林氏が部隊編成写真に居たことを思い出し、自分の部屋に来て、アルバムをチェックして写真が無いことに気づいたのです。
少し調べたらアルバムの後半にあった部隊編成写真が全て破り盗られているのに気づきました。

翌朝の6月2日に被害届を花小金井派出所に提出しました。

このことにムカついて父の部屋に何かないか、探したところ阿羅健一氏の捏造記事の草稿コピーと4枚の名刺が糊付けされたA4判のカットホルダーを見つけたのです。

そこに森松俊夫氏、原剛氏の戦史室の電話番号を見て、戦史室の方にCD−Rを寄贈したい、と申し出たのです。
(父のスケッチ帳の評価を知りたかったものですから。)
とりあえず送ってくれ、との事でしたので戦史室あてのお送りしました。

それから暫くして戦史室のY氏から電話があり(その前に一度電話があり、母が受け、戦史室の方の多少大人気ない対応があったようですが。)、CD−Rは詳細に見させて頂きました、送り返させて頂きます、今後、お宅のものは何も要りません、と言われたのです。
72 hits

[5205]防衛研究所戦史部との関係(2...
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 核心 E-MAIL  - 08/1/5(土) 12:50 -

引用なし
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   みなさんもご存知の通り、森松俊夫氏と電話で話さなければこの事件の背景はわかりませんでした。

平成18年8月4日に牛込署に出向き、Y氏とH氏にお会いしてお話ししました。

その後、阿羅健一氏の捏造記事の草稿と4枚の名刺は見つかったのですが、名刺の時間と日付が自分の記憶と違っているのに困惑していました。

私のその時の記憶では本多勝一氏は昭和59年8月7日の午後、戦史室の両氏はそれより1週間以上後、と記憶していたのです。
(実際には父の日記の記録などから戦史室の両氏は8月8日の午前中、本多氏は8月10日の午後と判明するのですが。)

最初は原剛氏のお宅にお電話差し上げました。
電話番号が使われていない、などで電話が通じませんでした。
それで、森松氏にお電話差し上げることにしました。

森松俊夫氏には全く気の毒なことだったのですが、とりあえず「栗原利一の息子」と言うことで、2回お電話差し上げました。

1回目は、いつ来られたか、とお尋ねしました。
そうしたところ森松氏は快く「剣道をされていた方の息子さんですね。そうですねえ、毎日新聞の記事を読んで5日くらいしてから原さんと打ち合わせて、それからお電話差し上げて数日してからですから、記事から1週間以上はしてからお伺いしました。お父さんはスケッチブックをとても大事にされていましたよ。」といったことを言われたのです。

2回目は8月12日です。
何時間在宅されたかを知りたくて、またお電話差し上げました。
森松氏は「そうですねえ、1時間半くらい居ましたが、お父さんは駅のほうにコピーに行かれていたので、大した話は出来ませんでしたよ。」と答えられたのです。
そして、グーグルで検索して森松氏が著名な戦史研究家であることに対して敬意を表したところ「お父さんのスケッチブックはバラバラでした。」といったようなことを言われたのです。
実際に手元にあるスケッチ帳はバラバラではなかったので返事に窮していると「ジャーナリストの方が面白おかしく書くものだから。」と非常に怒られた様子で電話を切られたのです。

父が亡くなり、父の部屋の片付けなどを行なったところ、暫くして手帳が見つかり、それにも両氏の来られた日にちは8月8日と書かれてあり、それからまた暫くして森松俊夫氏の礼状が見つかり、森松氏自身の手で作成日が8月9日と記されていたのです。

また、日本「南京」学会会報にも森松俊夫氏と原剛氏の名前が会員と編集委員として掲載されている事も判りました。

以上のことから、まず(多分)森松氏自身がこの掲示板を読まれているのだと思います。
そして栗原証言採取の事情は森松氏などにとって、非常に不都合な事実なのだと思います。
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[5206]防衛研究所戦史部との関係(3...
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 核心 E-MAIL  - 08/1/5(土) 13:42 -

引用なし
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   栗原証言採取の今判っている事情は以下の通りです。

昭和59年7月31日に父から毎日新聞社会部O.K氏に電話しました。
8月1日(水)に毎日新聞、福永平和記者が午後4時すぎから取材に来られました。
(水曜日は私の勤務先のノー残業デーだったので私は福永氏が在宅している間に帰宅しています。)
8月7日(火)に毎日新聞、社会面(23面)に父の証言が掲載されました。

8月8日(水)に防衛研修所戦史室の森松俊夫氏と原剛氏が来られ、朝9時〜午後1時まで証言の採取などを行ないました。
(私はこの頃、コンピュータ関係のメーカーを相手先とした仕事をしていましたのでメーカーのお盆休みに合わせて長期休暇を取っていたと思います。両氏が玄関先から家の中に入って間もなく私は家を出ました。)

8月10日(金)午後、朝日新聞の本多勝一氏が取材に来られました。
(この取材に関しては本多氏から電話があった際に、相談を受けたのですが「歴史的なことなので事実を正確に話したほうがよい。」と父にアドバイスしました。
私は本多氏が玄関先に来てから帰るまで、玄関横の自分の部屋にいました。)

毎日の記事から3ヶ月くらいは頻繁に脅迫的電話が続きました。
朝、郵便受けの新聞と郵便を受け取るのが私の日課でした。
脅迫的郵便も来ていました。
(一部は栗原利一証言資料集に収めてあります。)
私はオフ会で話した事情で父には申し訳なかったのですが、全くほったらかしにしていました。
最初のころは「お前んちの馬鹿親父を出せ。」などと言う電話にも「お父さん、電話ですよ。」と応じていたくらいですから。

11月22日に阿羅健一氏が取材に来られました。
そして、翌年ゼンボウ3月号で”マスコミ人の良心が問われる「毎日」、「朝日ジャーナル」の捏造記事”と言う見出しのそれ自身が捏造である記事を書かれたのです。
(本多勝一氏には、大変、気の毒なことをしたと思います。)

それ以降の経緯は板倉氏などの書簡を読んで頂ければ判ります。
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[5218]平成18年2月11日(土)
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 核心 E-MAIL  - 08/1/7(月) 9:58 -

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   盗難事件の経過を書いて行きます。

なぜ、スケッチ帳のデジタル化を外部に委託しようと考えたのか。
貴重な資料であることは判っていたので、最初は近くのコンビニででもコピーだけでも取ろうか、と考えました。
ところが全ての紙が密着していて、コピーを取るために紙を折りまげただけでも資料が傷みそうだったのです。
それでスキャナーなどではなく、非接触型の機器によるデジタル化の出きる会社を探しました。

まず、古文書の永久記録化などを手がけている会社を探しました。
某社がグーグルのスポンサーサイトであり、古文書のマイクロフィルム化やデジタル化を手がけていることが判りました。
デジタル・カメラによる撮影でのデジタル化をこまかく説明してありました。
同業他社数社と較べても技術的な説明が明確で、とても気に入りました。
アルバムは近くの写真屋ででもデジタル化くらいは出きるだろうとも考えたのですが、ついでなので某社に依頼することにしました。

某社に連絡したのは2月11日(土)です。
技術部長のO氏と話をして、(自分として家に置いておくよりも預けておいたほうが防災上からも安全だろうと考えていたので)休日ではあるけれど午後2時に伺う約束をし、スケッチ帳とアルバムを某社に持ち込みO氏にお渡ししました。
O氏からは、年度末を控えていて忙しいので打ち合わせ等は4月に入ってからになります、と言われました。
O氏にはDVD(またはCD−R)にする時はスケッチ帳とアルバムは分けて頂きたい、とお願いしました。
スケッチ帳はデジタル化して原価でお配りするつもりでいたし、アルバムは肖像権などの問題もあるので自分用にデジタル化が出来てればいいだけだ、と考えていたので、別媒体にして欲しいとお願いしたのです。

多少はスケッチ帳などが盗難にあうことも考え、3月20日ごろ、小平警察署の公安課に相談したのですがT氏より、「南京」は右翼ではなく保守なので違法行為に出ることはない、といわれ安心していました。
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[5234]平成18年4月12日(水)(...
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 核心 E-MAIL  - 08/1/10(木) 13:53 -

引用なし
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   この事件で最も重要なのが4月12日の打ち合わせの日です。

4月に入ってから少しして技術部長のO.T氏に電話を入れ、12日に打ち合わせることにしました。
前回と同じく、入口のインターフォンを押し、中側からドアを開けてもらい玄関に入り、訪問者票に記入し、建物内に上がりました。
部屋に入ると少ししてO.T氏から営業部のS.M氏を紹介され、そのままS.M氏と二人で仕様の打ち合わせに入りました。

打ち合わせではS.M氏が私の希望を聞きながら、自分のノートに書き込んで行きました。
S.M氏は多くは下を向いたままでノートに書き込みを続けていました。
(技術的な知識はS.M氏の方が豊富だったので、私は彼の話を聞きながら自分の要望を伝えて行きました。)
打ち合わせがある程度進んだところで、私は長兄のことを思い出して涙だ止まらなくなり、暫くの間打ち合わせは中断されました。
(多分、このことでS.M氏の同情を買ったのかどうか、このあとでS.M氏からマイクロフィルムの法的証拠資料としての作成を提案され、それを了承して、そのための用紙に署名をしました。)

私は某社でスケッチ帳とアルバムを確認する機会がこの日を含めて4日ありました。
残りは、最初に資料を持ち込んでO.T氏に渡した2月11日(土)、
CD−Rを受け取りビュアーの説明を受けた5月19日(金)、
マイクロフィルムと資料を受け取った5月24日(水)です。

この間に某社で私が実際に資料を確認したのは、仕様の打ち合わせを行なった、この4月12日だけです。
まさか、盗難に会う、などとは考えていませんでしたから、スケッチ帳の枚数や写真の枚数も頁数も数えることも無く2月11日に手渡し、そして返却時(5月24日)に受け取っていました。
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[5238]平成18年4月12日(水)(...
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 核心 E-MAIL  - 08/1/10(木) 23:14 -

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   S.M氏とのスケッチ帳の撮影についての打ち合わせで、事件と関係のある箇所は、私の撮影に対する要望です。

スケッチ帳には表面が新聞や他の用紙で覆われた頁があります。
これらの頁では、覆われた新聞や用紙の下にもスケッチのあることをS.M氏に伝え、覆いとなっている頁とその下の頁の両方を撮影してもらわなければなりませんでした。
そのために、スケッチ帳を開き、それらの箇所をS.M氏に示しました。

以下がその例です。

(新聞の覆いのある頁)
http://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0020/0002.html
(新聞の下の頁)
http://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0020/0003.html

(下半分が折込広告の裏に書き込まれた頁)
http://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0040/0040.html
(折込広告紙の下の頁)
http://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0060/0041.html

コピーを取るだけでも剥がれることを心配しなければならないほど、密着していたスケッチ用紙でしたから、スケッチ帳を開いた時に、背表紙の横幅が1cmもあるような割れ目には気づきました。

私は(未だデジタルカメラによる撮影は行なわれていなかったのですが)撮影のために(というか撮影の準備か何かで)このような状態になったのか、と漠然と考え、特に注意をすることも無く、説明に入りました。

(これがスケッチ帳の中身と背表紙が剥がれた状態の写真です。)
http://www.kuriharariichi.com/sketch/to_0020/0006.html
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[5239]平成18年4月12日(水)(...
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 核心 E-MAIL  - 08/1/11(金) 10:50 -

引用なし
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   次に、アルバムの撮影についての打ち合わせに入りました。

アルバムはこの時点では全く個人的な記録と考えていましたので(私が物心ついてから、この二冊のアルバムはとても身近にありました。両親の若いときの写真や親戚や長兄の幼いときの写真なども含まれています。歴史的な記録とは全く考えていませんでした。)、スケッチ帳のCD−Rとは別の媒体で作るよう依頼しました。

このときはアルバムを一枚づつめくりながら、我が家に全く無関係の人の写真などの頁には黄色の×印のタグを付けて行きました。
タグを付けた頁は撮影から除外するようにお願いしました。

この時、すでにアルバムの後半の集合写真は殆どが破り盗られていました。
何かおかしい、とは感じましたが数枚の集合写真も残っていたためか、一度めくって指示して行っただけでしたので、それで終りになりました。

ここで全く奇妙な結果となったのですが、私は我が家に全く無関係の人の写真などにタグを貼って行ったのに、そのタグが貼りかえられているのです。
タグを付けた頁に一貫性のある説明がつけられない状態になっています。

なぜ、このような行為を行なったかは全くわかりません。
タグの枚数は私が当初、貼った枚数より少なくなっているようです。
我が家には無関係の人の写真の頁でも撮影の対象にされています。
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[5240]平成18年4月12日(水)(...
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 核心 E-MAIL  - 08/1/11(金) 13:03 -

引用なし
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   このアルバムの打ち合わせに関係して奇妙なことが起きました。

打ち合わせはS.M氏と私だけで行なっていたのですが、途中で技術部長のO.T氏が部屋に来られたときがありました。
そのときに、全員起立して手を後ろに組み、右前方上(写真の左上)のカメラの方を見上げている集合写真があったのですが、その写真の左上が日焼けして白くなっていました(このような写真の劣化があったこともCD−R化しようと考えた理由です。)。
部屋に入って来たO.T氏はその写真を指差して「あ、こんなに焼けてる。」と言ってその写真を指差して、また部屋から出て行きました。

この写真は比較的アルバムの中央にあったのですが、この写真も無くなっています。

この時のことを7月8日の会議の時に話したのですが、O.T氏は「私は部屋に居なかったから。」と言って否定されました。

暗黙的にか、明示的にか、O.T氏はS.M氏をかばっているようでした。

犯罪の実行の大半は平成18年2月11日(土)から4月12日(水)までの間に行なわれたのだと考えます。
ただ、スケッチ帳については、S.M氏が自ら「法的証拠資料の形式で。」と申し出ているので犯罪の実行行為は終了していた可能性はあります。
アルバムについては、犯罪行為は、4月12日(水)から写真撮影時まで、追加的に行なわれたと考えます。
78 hits

[5241]平成18年5月19日(土)
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 核心 E-MAIL  - 08/1/11(金) 13:43 -

引用なし
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   まず、この日はS.M氏より某社の製品のJPEGビュアーにより説明を受けました。
ビュアーでの操作の説明を受けてからは殆ど自分でCD−Rの中身を確認して行きました。
S.M氏は他の部屋で会議か打ち合わせを行なっていました。

S.M氏の話では、JPEGビュアーについては無料のソフトが差し上げられる、ただしその場合は開発元から研究者用なので配布先の署名をもらって欲しいと頼まれている、と言う話でした。
最初、電話ではCD−Rを配る時にJPEGビュアーを配るならば私が確認書に配った人の署名をもらい、それをまとめてS.M氏にお送りすればよい、と言う話でした。
最終的には、無料のJPEGビュアーを希望される人は、直接、S.M氏に連絡を取り、確認書を提出する方法で了解を頂きました。
(暫くの間、この掲示板に某社の社名やS.M氏の連絡先を掲載していたのはご存知の通りです。盗難が発覚してからは、CD−Rを受け取った人の実名や住所がS.M氏などに知れるのを怖れて削除しました。)

また、この日、S.M氏は、研究用のソフトを使う場合はCD−Rも無料で配布してもらわなければならないのだ、と言われました。

CD−Rには私の再三の要望にも係らず、スケッチ帳とアルバムが1枚の媒体に納められていました。

他人の肖像もたくさん含まれていることや、S.M氏の要望から、私としては、アルバムを見ればスケッチ帳の内容当時の風俗もわかると考え、また配った人に権利が多少でも移ることを嫌い、全て無料でお配りすることにしました。

私は自分用に署名してそのソフトを受け取りました。
81 hits

[5242]平成18年5月20日(日)
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 核心 E-MAIL  - 08/1/11(金) 15:27 -

引用なし
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   オフ会でCD−Rの中身を説明しました。

前の晩にビュアーを自分のパソコンにインストールし、CD−Rの中身はチェックしていました。

某社で使用したビュアーより、使い勝手が悪かったのですが、とりあえず拡大機能を使えば見れた、といったところです。

某社ででも自宅ででもオフ会ででも、CD−Rは見たのですが、スケッチ帳を中心にチェックしていたのでアルバムの写真の盗難には気づきませんでした。

CD−Rを見た段階ではスケッチ帳の裏表紙の剥がし跡には気づいていました。
(それで、写真の撮影のためにこのような状態になったのか、と考えた可能性はあります。)
90 hits

[5243]平成18年5月24日(日)
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 核心 E-MAIL  - 08/1/11(金) 15:38 -

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   5月19日(金)のCD−R受け取りの段階でS.M氏からは資料を返却したい、との話がありました。

量がかさばることと、CD−Rと一緒に持ち歩くと帰宅途中で襲われたような場合には、一挙にスケッチ帳の情報を失いかねないことから、マイクロフィルムの受け取り時に資料も受け取ることにしました。

この日に資料とマイクロフィルムを受け取り帰宅しました。

私としては、この後も、某社には仕事をお願いしたいと考えていたのですが、S.M氏から「栗原さんのものはディスクのデータも全て消去しました。本日で仕事は終わりました。」とだけ言われ、奇妙な気分でした。
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[5244]平成18年6月1日(木)
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 核心 E-MAIL  - 08/1/11(金) 16:42 -

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   この日、毎日新聞に最初に父(栗原利一)が話した経緯を知りたくなり、社会部に電話しました。
記事を書いた記者がわからないか、尋ねたところ、名刺がないかと聞かれ、2階の父の部屋を探し、平林貞治氏の名刺を見つけました。
それで、何度もアルバムで目にしていたので、階下の自分の部屋に戻りアルバムを調べたところ、あれほど何回も目にしていた写真が無い、ことに気づいたのです。
(この写真について某掲示板で書き込みをしたことがあります。興味を示した応答があったので、そのことは頭には残っていました。)

アルバム全体を調べると、アルバムの後半にあった集合写真が1枚も無いのに気づきました。

この晩はカリカリして多少いつもよりかは眠りは浅かったと思います。
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[5246]平成18年6月2日(金)
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 核心 E-MAIL  - 08/1/12(土) 1:57 -

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   6月1日の晩か2日の朝に110番しています。
最初に小平警察署にまわされ、事情を話したところ花小金井駅前の交番に行ってくれ、と言われました。

いずれにしろ6月2日の朝が来るのを待って午前8時すぎに、駅前交番に行きました。
怒り心頭といった具合で事情を話し、被害届を出したい、と伝えました。
この時、K氏から、まず相手の対応を確認して欲しい、と言われました。
私が、相手は確信犯なので電話口で断るに決まっている、と数回言いました。
K氏からは、でも手続き上必要なことなのでそうして欲しい、と言われ、家に帰り某社に電話しました。

某社に電話してS.M氏に取り次いでもらい、アルバムから写真が無くなっていることを伝えると「お預かりした資料は、お預かりした時の状態で返却している。」と返答され、この電話口で社内調査を断れば被害届を出すことになるが構わないか、と尋ねると「構わない。」と即答されました。

また、交番に戻り、S.M氏の対応をK氏に伝え、同僚のI氏に被害届を作成してもらいました。

家に帰っていると午前9時すぎにI氏が来られ、最初の某社に行った日を尋ねられました。
I氏を玄関に待たせたまま某社に電話して、電話に出た女性社員に訪問者票を調べてもらい、I氏に伝えました。
女性社員は最初は4月の日付を言ってきたのですが、それではなくて2月だ、と伝え2月11日の回答を得ました。

それから暫くして、スケッチ帳を安全な場所に保管することを考え、そのサイズを測っているなどした時に後ろの破れに気が付きました。
何がなくなったのか考え、彩色の南京市街図がなくなっていることに気が付き、追加で被害届を出しました。
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[5247]平成18年7月8日(土)
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 核心 E-MAIL  - 08/1/12(土) 9:05 -

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   このころの事態の動きは以下の通りです。

7月6日(木)に小平警察署刑事課に行き、スケッチ帳とアルバムを見せ、告訴の相談をしました。
S氏とN氏が担当です。

S氏には以前、家に20年余り続いている脅迫的電話の相談をしていました。
昭和59年8月7日以降頻繁にあった脅迫的電話が今も続いている、父が不本意な証言を強要され続けている、強要罪が適用できないか、といった相談です。
S氏からは無言電話などで相手先を特定するのは難しい、また20年前にかけ始めた人が今も続けているかは判別できないだろう、強要罪の適用は難しいと言われました。

また、N氏からは「この程度の証拠で告訴されたら、私達(捜査員)が苦労しなければならない、大変だ。」と言われました。
(刑事訴訟法を勉強した人ならすぐ判ることです。私がこの事件を深追いしなかった理由の一つです。S.M氏は最初から「写真が存在したという証拠がない。」と明確に何度も言われてましたから。)

7月7日に技術部長のO.T氏から前掲のメールが来ました。

7月8日に某社に伺い、前掲の会議を行いました。

7月13日にS.M氏からメールが届き、7月19日発行でNTTから発信明細も届きました。
それからM社長に電話しました(ベランダで電話している、といった時の電話です。)。

自分で指紋の採取を民間の調査会社に頼もうかとも考えたのですが、それなりの費用がかかり、また犯罪者が最初から手袋でもしていたら(古文書などを扱う会社なので大いにありえます。)と考え、実際の捜査の行なわれる牛込署に連絡を取りました。
7月20日すぎに連絡し、8月4日に伺うことになりました。
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[5249]なぜ、S.M氏が犯人と言える...
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 核心 E-MAIL  - 08/1/12(土) 16:42 -

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   この事件の背景については十分ご理解頂けたと思います。

では、なぜS.M氏が犯人(犯罪の実行行為者)と言えるのか?

一つは、某社の社内事情です。
某社のM社長が口にしたように、S.M氏しか某社ではこの資料を自由に扱える者がいなかった、という事情があります。
また、技術部のM氏が言われたように、いかなる不審な点があろうと、技術部のM氏はS.M氏の指示通りに撮影を進めただけなのです。

もう一つは、この犯罪の幼稚性と言うか、犯人は「南京」についてあまり知らない、と言う点です。
仮に森松俊夫氏などの指示を受けていたなら、スケッチ帳を(歴史的資料としての価値を失わせるほどに)バラバラにすることがどれほど重要なことか認識できたハズですが、それをしていません。
中途半端な破壊の仕方で、つまらない彩色市街図を1枚盗っただけです。
また、アルバムからも部隊編成写真を盗っただけで、両角業作氏と父(栗原利一)の関係を示す、両角氏のお見舞い写真などは盗られていません。

このCD−R化等の費用はたかだか20万円余りです。
S.M氏が自分の意思だけで、自己の一生を棒に振るほどの無意味な犯罪を犯した、とは考えられません。
彼は、誰かの意思の下でこれらの犯罪の実行行為だけを行なった、と考えるのが最も合理的な結論です。
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[5250]森松俊夫氏の嘘2回(8月12...
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 核心 E-MAIL  - 08/1/12(土) 17:32 -

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   平成18年8月4日(金)に牛込署に伺い、H氏とY氏に話をしました。

捜査の進展も期待できそうもなかったことから、ムカついて父の部屋に何かないか、と探したところ阿羅健一氏のゼンボウ昭和60年3月号の捏造記事の草稿コピーが綴じられたバインダーが出てきました。

そのバインダーの背裏には、名刺が4枚貼付されていました。
父(栗原利一)の、名刺に記入した日付と時間が私の記憶と違っていました。

(ここで捏造勢力は決定的間違いを犯すのです。それは森松俊夫氏の二度にわたる大嘘です。)

防衛研修所戦史室の原剛氏と森松俊夫氏の名刺には
 59 8.8.A9−1
と記入されていました。

私はその当時は戦史室が歴史の捏造に深く係っているなどと言うことは全く知りませんでしたから、それほどの躊躇もなく、森松俊夫氏にお電話差し上げました。
(最初は、原剛氏のご自宅にお電話差し上げたのですが、「使われていない。」との例の機械による応答があり、それで、森松俊夫氏にお電話差し上げることにしたのです。)

平成18年8月12日などの電話でのやり取りは前掲の通りです。

森松氏は最後に「ジャーナリストが面白おかしく書きたてるものだから。」と言われて、大いなる怒りの中で電話をお切りになったのです。
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