|
在日活動家である韓国人二世の李順愛(イ・スネ)さんが『戦後世代の戦争責任論』(岩波ブックレットNo467)という本を書いておられます。その中の終わりの部分(pp.50〜51)の第五章で、次のように書いています。
5.戦後世代の問題
前述したように、90年代に入って歴史とナショナリティの問題が日本社会でクローズアップされてくる背景の一つに、戦後生まれの世代の問題がある。ここへの理解がないと現在の事態はとらえがたいと思われるので、最後に言及しておきたい。 昨年、一人の若者がテレビの討論番組で、「どうして人を殺してはいけないのか」という問いを投げかけた。それを見た大江健三郎は、「まともな子どもなら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ」(『朝日新聞』97年11月30日)と書いた。そうした大江の見解に、灰谷健次郎が、「子どもを子どもたらしめているものの一切を抹殺しかねない悪気流」(同年、12月3日)漂う日本社会にあって、あの若者を「まともじゃない」と一蹴できる資格が大人にあるだろうかと反問しながら、ある高校生の発言を紹介している。「じいさんらのやらかした戦争に、なんでオレらが責任持たなあかんねん」。そう言い放つ高校生はしかし、「従軍慰安婦」だったフィリピン女性の証言を聞きながら、「目が本当に真剣でした」という。(以下略)
まず、在日韓国人李順愛さんは、大江氏の見解と灰谷氏の見解のどちらの意見を求めているか、冷静になって在日の文章を読んで考えていただきたいと思います。
大江氏はノーベル賞受賞者で灰谷氏はほとんど無名です。しかし、大江氏がどんなに地位、名誉、名声があろうとも、知識人として落第であることは明らかです。なぜなら、『知識人』とは一般国民に正しいことを教えることが職業であるからです。ここで、正しいこととは、戦争責任をいい加減にしている政府と国民、南北の分断、在日社会における矛盾そして、和田春樹先生が『絶望的にひどい状態』と形容した日本社会の暴力空間で虐げられた在日の『心の叫び』を国民に伝える責任、すなわち『戦争責任のあり方』であると思います。
灰谷氏が正しいことは、戦争被害者である在日韓国人がここで証明しているのです。それならば、戦争責任を負ったすべての日本人は灰谷氏の意見を尊重すべきでしょう。そして
『どうして人を殺してはいけないのか』
という問いを、私(永好)ではなくて、在日韓国人の問いとして、すべての日本人は正対しなければならないでしょう。そして、この問いを抹殺することが、『子どもを子どもたらしめているものの一切を抹殺しかねない』ということを、認めなければなりません。
『善悪二言論』は私でなくて、戦争被害者が否定しているのです。戦争責任を負った日本人にこれを否定する資格がありますか?多くの在日はもちろん、戦争被害を受けて苦しんでいるアジアの人びとも灰谷氏の意見を求めているのです。教育を受ける「子ども」には責任はありません。大江氏の意見を尊重するような、ほとんどすべての日本人が戦争責任に対する認識が不十分なのです。
反社会的で狂った学校教育が灰谷氏がいうように『子どもを子どもたらしめている一切を抹殺』して狂った大人をつくり、狂った大人が自分の子どもを自分の持ち物にして「子どもの人権」を蝕み、狂った学校に入れるという悪循環が、時代主義と拝金主義が蔓延し、アジアから『人権蹂躙国家』と言われるような骨の髄まで腐りきった日本社会を作り出し、これを「まともな社会」と錯覚させているのです。
「狂ったものをまともである」と信じ込むと、「まともなものが狂ったもの」に見えてしまうという倒錯した社会をつくるのです。北朝鮮を狂った国のように見る人は、「自分の国は正しい」と錯覚しているのです。北朝鮮がまともな国なのです。国家権力はこのような倒錯した世界を作り出して国民を『洗脳』するのです。ですからいつまでたっても日本社会は狂ったままなのです。改善策は原因を知ることが大切です。原因が分からなければ改善のしようがないのです。
このような巧妙を極めた国家権力のメディアを利用した国民洗脳工作を見抜くには一般市民には、素人が手品のからくりを見破ろうとするようなものです。大江健三郎もダメでした。現在、世界で最も尊敬されている知識人チョムスキー(Noam Chomsky)の意見に耳を傾けるべきでしょう。
『メディア・コントロール』(集英社新書)
あるいは、李順愛さんに直接あって、地にひれ伏して意見を伺うのもいいと思います。アジアの人びとの『寛容の精神』に甘えていないで、本当に戦争責任を取ろうと思うのならば・・・・・
| |