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[5165]永好さんにたずねたいこと リー 08/1/3(木) 1:15
[5171]Re(1):永好さんにたずねたいこと 永好和夫 08/1/3(木) 18:51
[5208]Re(1):永好さんにたずねたいこと 永好和夫 08/1/5(土) 19:38
[5209]Re(1):永好さんにたずねたいこと 永好和夫 08/1/6(日) 1:57
[5210]Re(2):永好さんにたずねたいこと ピッポ 08/1/6(日) 5:12
[5211]Re(3):永好さんにたずねたいこと 永好和夫 08/1/6(日) 13:30
[5215]Re(2):永好さんにたずねたいこと リー 08/1/6(日) 23:33
[5217]Re(3):永好さんにたずねたいこと 永好和夫 08/1/7(月) 3:34
[5219]Re(4):永好さんにたずねたいこと とほほ 08/1/7(月) 10:35
[5252]Re(4):永好さんにたずねたいこと リー 08/1/13(日) 0:22
[5253]Re(5):永好さんにたずねたいこと 永好和夫 08/1/13(日) 2:19

[5165]永好さんにたずねたいこと
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 リー E-MAIL  - 08/1/3(木) 1:15 -

引用なし
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   ハンドルネームをリーとしています。

▼永好和夫さん:
>世の中ほとんど強者に都合よく、弱者に都合が悪くなるようにできているんですね。それが現実なのです。私も多くの在日の方がたと付き合っていますが、常に日本人である私に都合よく、在日に都合悪くなってしまうのです。自分で対等でなければならない、自分は生意気だ、と自覚していても、公正な立場にならなくなっているのです。ですから、私は在日の人びととお付き合いするときは、自分は偽善者であることを認識して不公平な付き合いをしています。
>
>ポストコロニアリズムを学ぶとこの辺がよくわかります。在日の人たちは、日本の暴力的空間で虐げられて育ってきていますから、逆に自ら私と対等であることを拒否してしまうのです。とくに朝鮮総連の人たちは、ごくわずかでも自分たちを理解してくれる日本人に対してわらをも掴む思いで大切にしてくれます。ほとんどの日本人が『日本人と在日が対等であることはあってはならないこと』と思っているのと同様に、在日の方がたも『在日と日本人が対等であることはあってはならないこと』と思っているのです。植民地主義というのは本当に恐ろしいものだと思います。北朝鮮もそうですよ。北朝鮮に行ってみればわかりますが、日本人にとって北朝鮮は『地上の楽園』ですよ。ものすごく大切にしてくれます。私たちでなく、ごく一般の人が北朝鮮に行っても、ものすごく大切にしてくれます。北朝鮮の政府にとって、日本人は神様ですよ。朝鮮人のような人間扱いしません。日本人にとって日本人が北朝鮮の人びとと対等であることはあってはならないことであると同様のことが北朝鮮の人びとにとっても言えるのです。このように差別を差別と認識できないから、対等であると錯覚してしまうことこそが最も問題なのです。
>
>黒人と白人の対等性を叫ぶマルコムXは殺害されました。日本人と沖縄人の対等性を叫ぶ野村浩也氏は日本人だけでなく、沖縄人からも非難されています。野村浩也は極めて明快で論理的です。しかし、日本人と沖縄人は対等であることはあってはならないことなのです。これが正義なき現実社会なのです。
>
>私も在日朝鮮人専門雑誌『統一評論』12月号に最近寄稿しました。この内容は、朝鮮総連の機関紙『朝鮮新報』に5回の連載で大部分が載っています。朝鮮新報のHPで内容を見ることができます。このとき、『拉致問題は因果応報』と書いて寄稿したら訂正されてしまいました。現実社会では、日本人と在日が対等であることはあってはならないことなのです。従って、日本人と在日の基本的人権を対等とみなした議論はやってはならないことなのです。日本社会では在日は日本人の奴隷でなくてはならないのです。
>
>『試行錯誤』にも在日の方で書き込んでおられる方がいますが、自分たちを恐ろしくさげずんだ記述をしています。『試行錯誤』の世界でも、日本人と在日が対等であることはあってはならないことなのです。
>
>私を含め、日本人というのは本当に罪深く、恥ずかしい人間だと思います。


永好和夫さん、けっこう突っ込んだ理論展開をされてますね。一人の在日朝鮮人として、感想の域で問うてみたくなったので投稿します。ポストコロニアリズムから対等でない状況を以下のように述べておられますね。

ほとんどの日本人が『日本人と在日が対等であることはあってはならないこと』と思っているのと同様に、在日の方がたも『在日と日本人が対等であることはあってはならないこと』と思っているのです。

この辺りの表現は、ほとんど双方の当事者としての側に立って考察された末の表現なのかも知れませんが、おおむね的を射てると私には思われました。そこに人と人を隔てる「壁(対等ではないと云う)」がある場合、それを少なくとも現実のものとして認識しないでいるなら、「壁」はいつまでも存続していくわけです。たとえばかつて、指紋押捺拒否をしていた在日で、「人権や平和を唱える日本人たちよ、まず踏んでいるその足をどけてくれ」という趣旨の発言をしていた人がいました。その場合の、さしずめ永好さんは「足を踏んでいるぞ」と発言する極めて稀な日本人であると思われます。

しかしそんなあなたは個人的に稀ではあっても、ある種の結論にも到達していますね。あなたを含めて、日本人というのは本当に罪深く恥ずかしい人間であると云う。私が「問う」というより、たずねてみたい点は、仮にあなたが真からそう認識していたと仮定すると、それがどんな気分で、その後、どのような発想や展望になるのかという点です。

朝鮮人の立場から、近現代史を経ると、「恥ずかしくて罪深い日本人像」というのは、おっしゃる通りであって、それを理解するのは本来であるなら決して難しいことではありません。しかし同時に、何としてもそれは認めないぞという人々の気持ちも理解できます。無論、到底納得できるメンタリティーではありませんが。だから永好さんが本当にそう認識していたとすると、日本人社会においては今後も圧倒的に稀な存在としてあり続けることに疑いの余地はないと思います。そういった状態を、永好さんはどのように思われているのでしょうか?という点をおたずねしたいわけです。

逆に在日朝鮮人の立場から指摘すると、マジョリティーのほぼすべてが「恥ずべき罪深い存在」の範囲となってしまいます。現実にはそうなんですが、こういう認識であり続けるのは、朝鮮人という属性を越えて、人としてかなりつらい心理状態であるわけです。それは日本人の罪を不問にしたいというのでは決してなく、それが現実であればあるほどに、人としてまわりの人々をそのような視点で直視しなくてはならないという点こそ、かなりつらい思いをするわけです。これは虐げられているからつらいという角度とは無縁のつらさです。ましてや日本人に遠慮しているわけでもありません。なぜなら朝鮮人とは、日本人を責めるためや批判をするだけの存在ではないからです。だからといって罪を許してやろうなどと考えているわけではありません。反省なき加害者たちを前にして、それは不可能というものです。ですからダメな状態が続く限り、それはどこまでいってもダメでしかありえません。

たとえば「無知は罪だ」という言説があります。これは無知であり続ける対象者からすれば、当然のことながら何ら論理的批判として成立しません。それは知る努力以前に、知りたくないという意識がある限り、永遠に無知でいられるわけです。日本人の大半がそのような状態でいながら、「狭き門」をくぐりぬけて、知る努力をしたとしましょう。そうやって到達した結論が、「日本人の罪深さと恥」であったとしたら、それを克服できるようなアイデンティティーを形成することは、比較の上で良心的な戦後民主主義世代にしても私はお目にかかったことがありません。おそらくそこには「絶望」しか見出せないのではないのだろうかとも思うわけです。これは同情しているわけではありませんよ。それほどに国民国家にどっぷりと骨の髄まで浸かりきってしまっているのだと映っています。

私が永好さんにたずねたい点はすでに述べましたけれど、前述した「壁」を「壁」として直視すると、マイノリティーとしてどのような対応をすればよいのかという発想程度は当然のことながらそれぞれなりにあるものなのです。本投稿ではそれを詳しくは述べませんけれども、それは日本人から視ると、一見、在日が屈服しているように映る人もいるにちがいありません。しかし在日というのはそのような存在ではないということを曖昧ながらも伝えておきたいと思う次第です。初めての投稿ですので、とりあえずこの辺りで失礼します。
119 hits

[5171]Re(1):永好さんにたずねたいこ...
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 永好和夫 E-MAIL  - 08/1/3(木) 18:51 -

引用なし
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   ▼リーさんへ:

醜い一日本人としてお答えいたします。
>
>永好和夫さん、けっこう突っ込んだ理論展開をされてますね。一人の在日朝鮮人として、感想の域で問うてみたくなったので投稿します。ポストコロニアリズムから対等でない状況を以下のように述べておられますね。

いいかげんに書きました。日本人に都合がいいように書きました。厳密に書くことは”書いてはならないこと”ですし、ほとんどの日本人には決して理解してもらえないで、相手が逆ギレして百害あって一利なし、時間の無駄です。
>
>ほとんどの日本人が『日本人と在日が対等であることはあってはならないこと』と思っているのと同様に、在日の方がたも『在日と日本人が対等であることはあってはならないこと』と思っているのです。
>
>この辺りの表現は、ほとんど双方の当事者としての側に立って考察された末の表現なのかも知れませんが、おおむね的を射てると私には思われました。

日本人については、メンタル面では認識しているかいないかに拘らず、ほとんどの日本人の実態です。現実面では紛れも無い事実です。在日の方については考察すれば、メンタル面では、さまざまではないかと思います。認識が弱い方は、日本社会の『同化を迫る暴力』によって打ちのめされてしまった『被害者』であって、それは日本人による犯罪行為の結果というべきでしょう。現実面では紛れも無い事実ですね。

『同化』が在日社会で問題になるのは、日本社会という暴力空間が在日に対して、同化しなければ窒息死するような心理、環境を作り出して強制的に同化させている点です。そしていくら同化しても、それは奴隷が拷問から開放されたようなもので、奴隷であることには変わりません。一方、在日の側から見れば、同化は拷問状態から逃避していくように見えてしまうことは致し方ないと思います。つまり、同化が本当に自由(同化前と同化後で社会的にすべて同じ待遇)であるならば問題ありませんが、同化は朝鮮人からの逃避に捉えられて批判の対象となる。つまり、朝鮮人ように振舞えば振舞うほどひどい弾圧を受ける、日本人のように振舞えば弾圧がある程度軽減される、というような倒錯した在日社会を作り出してしまうことです。正しい生き方をしようとすればするほど強く虐待される、という倒錯した世界です。

すべてが巨悪の日本人の責任です。在日には一切責任はないんです。『在日問題』というのは『日本問題』です。この日本人の責任認識が日本人にないんですね。ですから改善しようとしないし、改善を叫んでるいわゆる『良心的日本人』もほとんどが、外面的な差別の状態だけに目がいって本質を見ていない、自分こそが犯罪者であることの自覚がないんです。そして改善することは、自分たちが何か良いことをするのだと勘違いするんです。改善することは日本人にとって『義務』なんですね。在日と日本人が同等であることが本来は当然でなければならないはずです。ですから、不平等を平等にすることは、なんら褒められたことではないんです。罪を償うことは当然のことであって、何か良いことをしたわけではありませんよね。これを善意に理解しているところが、『良心的日本人』の傲慢さ、倒錯した思考なんです。自己満足です。甚だしくは名誉や金もうけのためにやってる人がたくさんいらっしゃいますね。

このような状態を改善することは日本人には理論的にはできるんです。なぜなら強者である日本人の意思で一方的に差別しているからです。弱者である在日が改善する手段は唯一『最悪の方法』つまりテロ以外にはありません。朝鮮が日本にやったことがまさにそれですね。拉致は100%日本の責任、朝鮮には責任はありません。一部の家族が戻ってきたことに日本は感謝しなければなりません。これが正しい認識なんですね。しかし、『正しいことは現実では”あってはならないこと”なのです』。『拉致問題』は『日本問題』なんです。(さらに対等性という点から考察すると、正しいことがより厳密に立証できますがここでは述べません)。

そこに人と人を隔てる「壁(対等ではないと云う)」がある場合、それを少なくとも現実のものとして認識しないでいるなら、「壁」はいつまでも存続していくわけです。たとえばかつて、指紋押捺拒否をしていた在日で、「人権や平和を唱える日本人たちよ、まず踏んでいるその足をどけてくれ」という趣旨の発言をしていた人がいました。その場合の、さしずめ永好さんは「足を踏んでいるぞ」と発言する極めて稀な日本人であると思われます。

「足を踏んでいるそ」と発言するだけでは現状は変わりません。踏むのを止めて初めて対等な立場です。指摘することすら極めて稀なのが現実なら、実行は”あってはならないこと”では。。。。
>
>しかしそんなあなたは個人的に稀ではあっても、ある種の結論にも到達していますね。あなたを含めて、日本人というのは本当に罪深く恥ずかしい人間であると云う。私が「問う」というより、たずねてみたい点は、仮にあなたが真からそう認識していたと仮定すると、それがどんな気分で、その後、どのような発想や展望になるのかという点です。

学問的考察は『感情』をすべて排除して『論理』つまり知性だけで行ないますから、結論を出すまでは容易です。”あってはならないこと”を発言することは、いろんなものが飛んできたり会社を辞めなくてはならなくなったりしますから勇気が要ります。

結論を出すまでは感情抜きです。さてどうすればよいか、となると現状との乖離のひどさを考えると途方に暮れるばかりです。ですから偽善者として現状を少しでも改善していく方途を模索するのが現実的な思考を考えてどのように行動するかを考えています。具体的には、現在では朝鮮新報に載せていただいたようなことを一人でも多くの日本人に訴えていくことを考えています。展望は日朝国交正常化が在日社会の環境改善にも絶対必要です。これは朝米関係改善と連動しています。朝米関係が紆余曲折しながらも良い方向に向いていますから。それと在日社会については5.17合意の破壊工作をやったのは日本政府ですから、完全白紙ではありません。6.15の精神を日本人が少しでも理解して在日社会をよりよくするように努力しなければならないと考えています。

>朝鮮人の立場から、近現代史を経ると、「恥ずかしくて罪深い日本人像」というのは、おっしゃる通りであって、それを理解するのは本来であるなら決して難しいことではありません。しかし同時に、何としてもそれは認めないぞという人々の気持ちも理解できます。無論、到底納得できるメンタリティーではありませんが。だから永好さんが本当にそう認識していたとすると、日本人社会においては今後も圧倒的に稀な存在としてあり続けることに疑いの余地はないと思います。そういった状態を、永好さんはどのように思われているのでしょうか?という点をおたずねしたいわけです。

対等であるという当然なことを論理的に導き出すのは容易です。『気持ち』というのは感情です。どのように私が思うかというと、いろいろありますが一点だけ指摘いたします。日本の教育が『狂育』や『脅育』になって、誤った価値観や人生観を子どもたちに植え付け、思考停止状態の人間を作り出していることが問題なんだと思います。日本社会は、事大主義や拝金主義が蔓延して、一般国民は権力の奴隷になりきったロボットのような人間の集団ですね。日本人でも弱者を虐待して使い捨てにしてますから。日本人の人権も蹂躙するんですから、在日の人はゴミ同然の扱いですね。社会的には人間の形成の場である教育をまともにしないと不可能です。個人的には、現実と”あってはならない状態”のギャップを常に認識して行動するしかないと思ってます。
>
>逆に在日朝鮮人の立場から指摘すると、マジョリティーのほぼすべてが「恥ずべき罪深い存在」の範囲となってしまいます。現実にはそうなんですが、こういう認識であり続けるのは、朝鮮人という属性を越えて、人としてかなりつらい心理状態であるわけです。それは日本人の罪を不問にしたいというのでは決してなく、それが現実であればあるほどに、人としてまわりの人々をそのような視点で直視しなくてはならないという点こそ、かなりつらい思いをするわけです。これは虐げられているからつらいという角度とは無縁のつらさです。ましてや日本人に遠慮しているわけでもありません。なぜなら朝鮮人とは、日本人を責めるためや批判をするだけの存在ではないからです。だからといって罪を許してやろうなどと考えているわけではありません。反省なき加害者たちを前にして、それは不可能というものです。ですからダメな状態が続く限り、それはどこまでいってもダメでしかありえません。

すべて日本人側の問題です。日本人が『あってはならない状態が正常な状態』であることを認識してこそ本当の意味での『謝罪』ができるのだと思います。戦争責任を取ることは、責任があまりにも巨大すぎて事実上不可能であることは明らかです。そういう意味では対等の立場からいつまでたってもダメだというのは現実だと思います。そしてこのことこそが醜い日本人の傲慢さと恥知らずなことなのです。ですから、現実的には、できる限りのことをやって、あとはひたすら地にひれ伏して在日の方がたに許しを請うしかないと思います。
>
*以下のご質問につきましては、ここではとても書ききれません。倒錯した虚構に日本社会では、当然のこと、正しいことは、”あってはならないこと”、”言ってはならないこと”、”書いてはならないこと”ですから。

したがいまして、以降は下へご質問いただければお答えいたします。

〒862−0972
熊本市新大江一丁目17−20−401
永好和夫
Tel(K)090-6421-8577
e-mail:248z7y@bma.biglobe.ne.jp

ご質問、ありがとうございました。思いつくままに書きましたので、不正確なところや間違いも多々あるかと思います。なお、リー様のご質問が、「試行錯誤」されてる方が、わずかでも”あってはならないこと”について考えていただくきっかけになれば幸いです。
144 hits

[5208]Re(1):永好さんにたずねたいこ...
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 永好和夫 E-MAIL  - 08/1/5(土) 19:38 -

引用なし
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   ▼リーさまへ:
>
在日問題(本質は日本人の問題)を議論するする上では、加害者が、まず自己批判、そして自国批判をすべきであるのは当然です。その意味で、F.ファノンやマルコムXの論理を基にしたポスコロ批判を述べたものです。もちろん、これは一つの視点であり、このような見方が絶対に正しいとかすべてであるわけではありません。多角的な視点から考察して、在日の方がたに対する差別、偏見がなくなり、(物質面、精神面ともに)自由で人間的な生活ができるような方向へと模索していくことこそが大切であると考えています。
>
>【逆に在日朝鮮人の立場から指摘すると、マジョリティーのほぼすべてが「恥ずべき罪深い存在」の範囲となってしまいます。現実にはそうなんですが、こういう認識であり続けるのは、朝鮮人という属性を越えて、人としてかなりつらい心理状態であるわけです。】

日本人が普段の生活において、自分が日本人であることを意識していないのと同様に、在日の方も(差別がないなら)自分たちが在日であることを意識しないで生活するのが本来普通であるのではないかと思います。ところが、在日に対する差別、偏見、迫害、歴史歪曲、靖国参拝、など恥知らずな日本人の行為が在日の方がたに対して、”在日は朝鮮人、つまり日本人の奴隷なのだ”という認識を強制させているのだと思います。指紋押捺が典型的です。指紋押捺すること事態は在日の方がたに物理的な暴力を加えるわけではないけれども、日本人と在日の差別を強制することです。このことが在日の方がたの心をどれだけ踏みにじっているか。この認識がほとんど全くないのが恥知らずの日本人です。

【それは日本人の罪を不問にしたいというのでは決してなく、それが現実であればあるほどに、人としてまわりの人々をそのような視点で直視しなくてはならないという点こそ、かなりつらい思いをするわけです。】

日本の朝鮮植民地支配はもちろんのこと、在日の歴史だけを振り返っても、日本がどれだけ朝鮮民族に巨悪の加害を加えてきたかは明らかです。そのことに対して日本は全く責任を果たしてないといってもたいした間違いではありません。そして、現在でも祖国は分断されたままであり、在日の方がたは暴力的社会の中で暮らさなければならない状態です。これだけの加害、暴力を受けながら、相手(日本人)は反省するどころか、逆に差別を強要しているのですから、つらい思いをされるのは当然であると思います。私たち日本人がすべて悪いのです。

【これは虐げられているからつらいという角度とは無縁のつらさです。】

別の見方をすれば、在日を含め、韓国・朝鮮人が巨悪の日本の戦争犯罪行為、在日を虐待してきた行為に対して、日本が責任を取らないことを許している、ということになります。これはとてつもなく『寛容な態度』です。それに対して日本人は謝罪するどころか指紋押捺のようにさらに差別をして在日の心を踏みにじる。逆ギレの最たるものではないでしょうか。やりきれない気持ちになるのは当然であり、日本人の私としては申し訳なくて返す言葉も見つかりません。

【ましてや日本人に遠慮しているわけでもありません。】

お気持ちとしてはそうだと思います。遠慮して『つまり結果的には巨悪の犯罪を許してあげているのに』、逆ギレされていると常に認識していたら、気が狂ってしまうと思います。そこに倒錯した思考を必然的に強制されている点があり、植民地主義の罪の深さであるということがいえると思います。

日本人は巨大な暴力を朝鮮人に振るって朝鮮人を虐殺、虐待など計り知れない犯罪を犯しておきながら、『朝鮮人には日本人に暴力を振るうな!』。これが日本の『平和主義者』という偽善者です。F.ファノンはこのことを『(強者は弱者に対して)暴力だけでなく、「非暴力」という「暴力」も独占している』というように表現しています。自分たちにはよくて相手はダメというのは二重基準で対等ではありません。ですから、対等な立場であるならば、在日には日本人を虐待する『権利』があるわけですね。ところが、現実は弱者である在日には強者である日本人に、この『権利』を行使することは極めて困難ですね。これが正義なき社会の現状です。対等な立場からいえば在日は日本人に対してテロをやる『権利』があるんです。また、この論理を日朝間において当てはめれば、日本にとって『拉致は自業自得』、というのは自明の理ですよね。

【なぜなら朝鮮人とは、日本人を責めるためや批判をするだけの存在ではないからです。だからといって罪を許してやろうなどと考えているわけではありません。反省なき加害者たちを前にして、それは不可能というものです。】

『罪を許している』というのがまぎれも無い現実です。メンタルな面で『罪を許したら』、在日は完全に自らが『在日は日本人の奴隷である』ということを認めたことになってしまいます。これが不可能であることは当然でしょう。

【ですからダメな状態が続く限り、それはどこまでいってもダメでしかありえません。】

あまりにも当然なことです。ですから、日本人は在日をはじめアジアの人びとに対して謙虚になって謝罪、贖罪しなければならないのです。そして、アジアの人びとの『寛容の精神』に学ばなければならないと思います。そのためには歴史や現在の在日の迫害されている状況について外面的、表面的に事実を認識するだけではだめで、日本人が自分たちの罪の深さを認識する努力をすることが大切だと思います。
101 hits

[5209]Re(1):永好さんにたずねたいこ...
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 永好和夫 E-MAIL  - 08/1/6(日) 1:57 -

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   ▼リーさまへ:

【たとえば「無知は罪だ」という言説があります。】

たとえば、でなくてまさにそのとおりだと思います。「無知」が「無恥」、恥知らずを作り出しているのはあきらかですね。「狂っていること」を「当然のこと」と認識しているから、「当然のこと」が「狂っている」ように認識されるという倒錯した社会が出来上がってしまうんだと思います。

 たとえば、極悪非道の戦争犯罪の最高責任者が『平和国家ニッポンの象徴』なのを、ほとんどの日本人が当然のように思っているんですから、これだけでもどれだけ侵略戦争と植民地支配で苦しめられたアジアの人びとの心を傷つけているか計り知れないものがあると思いますよ。そして伊藤博文の千円札が登場したりするのですから、これは完全に挑発行為ですね。今でも一万円札をみていると、日本はアジアの人びとを蔑視しているのは歴然としていると思いますね。

【これは無知であり続ける対象者からすれば、当然のことながら何ら論理的批判として成立しません。それは知る努力以前に、知りたくないという意識がある限り、永遠に無知でいられるわけです。】

『狂っていること』を『当然のこと』と信じて疑わない人には何を言っても無駄ですね。もっとも、自分たちに都合がわるいことは、わかっていても認めたくない、という事もたくさんあると思います。在日の差別は、差別を差別と認識していない点が問題であり、戦争責任は表面上は、自分たちに都合が悪いことは認めたくない、というエゴイズムから来ており、このエゴイズムが戦争犯罪の罪の深さを認識できない原因になっているのではないかと思います。

【日本人の大半がそのような状態でいながら、「狭き門」をくぐりぬけて、知る努力をしたとしましょう。そうやって到達した結論が、「日本人の罪深さと恥」であったとしたら、それを克服できるようなアイデンティティーを形成することは、比較の上で良心的な戦後民主主義世代にしても私はお目にかかったことがありません。】

狂った日本社会では「狭き門」をくぐりぬけることは『やってはならないこと』と認識されますから、お目にかかったことがないのではないでしょうか。ようするに、在日と日本人が対等であることは、『あってはならないこと』、『いってはならないこと』、『書いてはならないこと』なんです。ですから、日本人は罪深く恥知らずな人間で、日本は世界最悪の『人権蹂躙国家』のままなんです。

【おそらくそこには「絶望」しか見出せないのではないのだろうかとも思うわけです。】

まったく思考すればするほど絶望的です。本当に申し訳なく思っております。

【これは同情しているわけではありませんよ。それほどに国民国家にどっぷりと骨の髄まで浸かりきってしまっているのだと映っています。】

同情することは、自ら倒錯した世界に足を踏み入れることになります。同情すべきでないことは歴然としています。日本という国が骨の髄まで腐りきっていることこそが問題なのです。これを『美しい国』などといっている政治家が首相になるのですから、本当に絶望的だと思います。日本のようなひどい国は滅びてしまった方が人類のためだと思うこともありますね。
>
【前述した「壁」を「壁」として直視すると、マイノリティーとしてどのような対応をすればよいのかという発想程度は当然のことながらそれぞれなりにあるものなのです。】

問題は強者である日本人にあるわけで、弱者でしかもマイノリティーである在日には全くないし、対応すべきは専ら日本の側にあることは明らかです。在日の側からの対応は非常に限られて困難であるのですが、それでも最大限の努力をし続けたので、ひどい状態であってもある程度の権利や自由を勝ち取って現在に至ったのではないでしょうか。

【本投稿ではそれを詳しくは述べませんけれども、それは日本人から視ると、一見、在日が屈服しているように映る人もいるにちがいありません。】

多くの日本人にとって在日の方がたは視野にないと思います。そして無意識で差別、弾圧していると思います。ネットに在日の方のことを書き込む人の多くは在日の方がたが『優遇されている』というような倒錯した認識です。外面的にはひどく差別、弾圧されているのは紛れも無い事実です。内面的にはほとんどの日本人とは比べ物にならないほど知性があり、ひ弱な日本人とは比べ物にならない精神の強さがあると私は認識しています。多くの日本人が在日の方がたのような差別、弾圧を加えられたら発狂してしまうと思います。

【しかし在日というのはそのような存在ではないということを曖昧ながらも伝えておきたいと思う次第です。】

私は日本人ですから在日の方々のお考えがわかるはずもないことは言うまでもありません。また、そのようなひどい環境で生きていませんからなおさらだとおもいます。理解できないのは仕方ないとしても、共に生きていく人びととして理解する努力をしていかなければならないと思っております。

【初めての投稿ですので、とりあえずこの辺りで失礼します。】

ありがとうございました。
102 hits

[5210]Re(2):永好さんにたずねたいこ...
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 ピッポ E-MAIL  - 08/1/6(日) 5:12 -

引用なし
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   これだけ長々と書き連ねていながら、何処にも事実に即した議論がないのにはビックリしました。

挙句に、

>私は日本人ですから在日の方々のお考えがわかるはずもないことは言うまでもありません。また、そのようなひどい環境で生きていませんからなおさらだとおもいます。理解できないのは仕方ないとしても、共に生きていく人びととして理解する努力をしていかなければならないと思っております。

これじゃあ、『ものみの塔』よりひでえや。

>私は人間に過ぎませんから神のお考えがわかるはずもないことは言うまでもありません。
という曽野綾子とアンタは同類というか、曽野綾子の粗末なコピーだね。

まさか「総連」も「共和国」も、こんな男を論者として便用するはずがない。

心を入れ替えることが思想性だなんて大声でわめく連中は、事実認識や歴史理解がないから、何度でも「心を入れ替え」、なんどでも容易に「転ぶ」ことができる。「心を入れ替え」さえすれば、事実も歴史も、白を黒に黒を白に、塗り替えて疚しいことがないのだから。

きちんと立論もせずに「私の言ってることに反論してください」というアンタの物言いは、数年前にある掲示板で議論をした日本歴史修正主義の草分け「ホロコーストはなかった」西岡某とよく似ているし、よってたかってくるネトウヨといっしょだよ。
(この精神内科医も30ぐらいまではかなり過激なサヨクだったと自称していたよ)
102 hits

[5211]Re(3):永好さんにたずねたいこ...
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 永好和夫 E-MAIL  - 08/1/6(日) 13:30 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>これだけ長々と書き連ねていながら、何処にも事実に即した議論がないのにはビックリしました。
>
>挙句に、
>
>>私は日本人ですから在日の方々のお考えがわかるはずもないことは言うまでもありません。また、そのようなひどい環境で生きていませんからなおさらだとおもいます。理解できないのは仕方ないとしても、共に生きていく人びととして理解する努力をしていかなければならないと思っております。
>
>これじゃあ、『ものみの塔』よりひでえや。
>
>>私は人間に過ぎませんから神のお考えがわかるはずもないことは言うまでもありません。
>という曽野綾子とアンタは同類というか、曽野綾子の粗末なコピーだね。
>
>まさか「総連」も「共和国」も、こんな男を論者として便用するはずがない。
>
>心を入れ替えることが思想性だなんて大声でわめく連中は、事実認識や歴史理解がないから、何度でも「心を入れ替え」、なんどでも容易に「転ぶ」ことができる。「心を入れ替え」さえすれば、事実も歴史も、白を黒に黒を白に、塗り替えて疚しいことがないのだから。
>
>きちんと立論もせずに「私の言ってることに反論してください」というアンタの物言いは、数年前にある掲示板で議論をした日本歴史修正主義の草分け「ホロコーストはなかった」西岡某とよく似ているし、よってたかってくるネトウヨといっしょだよ。
>(この精神内科医も30ぐらいまではかなり過激なサヨクだったと自称していたよ)


永好です。お答えする前に、題目【永好さんにたずねたいこと】とあるように、リーさんが私(永好)個人に対して質問したものです。ですから私はリーさんに対して個人的な意見を述べたものです。

ピッポさんのこの投稿は意味不明です。リーさんへの回答ではありませんし、私(永好)対して、何を質問しているか、質問していることがわかりませんし、横槍を入れて単なる私に対して非難しているとしか受け取れませんから。もしろん、私を非難することは自由ですよ。

ただ、こういうことは自重されたほうがいいと思いますよ。なぜなら、相手を挑発する行為以外の目的が感じられませんし、反社会的で平和を希求する人の取る態度とは思えませんから。「試行錯誤」の掲示板を設けた意図にも反するのではないでしょうか。みんなで反戦、平和を模索していくのが目的だったのではないでしょうか。

それからですね。たとえば、ピッポさんの私個人に対する↓の質問をみるとですね。

>Q2,それから、コンタミDNAとはどういうことでしょうか?(ピッポさんの私に対する質問)
>
>コンタミ(contaminated)というのは『汚染』です。外部から(他人の)DNAが試料に混入している試料という意味で、コンタミDNAを鑑定すると、試料そのものではなくて、他から混入したDNAを鑑定してしまう恐れがあるため、正確なDNA鑑定はできません。

自己紹介に有るような方とは思えないおぼつかなさですね。

私の回答が不十分だったかも知れないのは認めますが、個人に対する質問というのは、ある程度の礼儀というものが必要ではないでしょうか。一般的な掲示板の書き込みは相手に回答を『要求』しているのではなくて、回答者は自分の意思で自由に書き込むという形式をとっています。

しかし、個人に対する質問は相手に回答を『要求』しているわけですから、その回答が気に食わないからといって相手を誹謗することは非常に失礼なことです。恥ずかしいと思いませんか?すこしは道理をわきまえたらいかがですか。
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[5215]Re(2):永好さんにたずねたいこ...
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 リー E-MAIL  - 08/1/6(日) 23:33 -

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   リーです。
熱の入った投稿の対応ありがとうございます。
質問は、個人メールにということでしたので、ここでは質問を避けて、思うところを述べさせてもらいます。永好さんは、感情を排して科学的あるいは知性的な論理を投稿では重要視されていますね。
その上で、一人の日本人として朝鮮人に対しては、ひたすら謝罪するということですが、近現代史を客観視する考察と、謝罪は別物ではないでしょうか?たとえば、科学的、合理的、客観的あるいは論理的な謝罪というものは、成立する性質なのでしょうか?私にはそれは疑問です。

たとえば理解を促すプレゼンについて、私が学んだことのひとつに「知・情・意」という三要素についてのバランスの重要性があります。文字通りの、知識や知恵の「知」、思いやりや人情等々の「情」、そして意思の「意」というそれぞれのバランスですね。そのうちのどれかが欠けても、相手にうまく伝わらないという話でした。もっとも本掲示板では、「知」が最も重要視されている傾向にあるようですが、だからといって「情」と「意」が、まったく存在していないわけではありますまい。なにより「知」のみで他者の痛みを理解することはかなり困難ともいえるのではないでしょうか。

私は、「知」のみを起点とし、「知」のみで終息するという条件であったとしたなら、永好さんがおっしゃる日本人社会における在日朝鮮人の存在は、確かにゴミのような扱いであることに同意しますよ。特に同化を拷問に例えておられましたが、「知」という客観性からすれば、その通りだと思います。たとえば、永好さんは繰り返し、正しいことは、”あってはならないこと”、”言ってはならないこと”、”書いてはならないこと”と指摘されておられますね。それを倒錯した虚構の日本社会であるとも。しかしそれを理解したとすれば、当事者としては断然、黙っていることはできません。勝つ見込みが絶対にないからといって、争いをやめてしまうほど、少なくとも私は寛容ではないし、お人よしでもありません。実際に在日の近代史に着目すれば、絶対に負ける争いに身を投じていった数知れぬ人々の存在もあるものです。

総じて社会の問題や矛盾に正面から本気で立ち向かえば、おそらく立場は異なるものの、誰しもがマイノリティーになってしまうと私は考えています。たとえば永好さんも似たようなことを指摘されていましたが、私がひとつの事象に対して一つのアクションを起こしたら、日本人からは「反日」と呼ばれ、同胞からは「親日」と呼ばれたことも少なくありません。もっとも当時、私にはすでにそれらが「外野」にすぎないという免疫も有していましたから、さほど気にしたわけでもありません。

さて、日本はおっしゃられる通りの国であることを知っています。でもそれはおっしゃられるように徹頭徹尾、日本の問題でしょう?永好さんの意図は、朝鮮人をひきあいに出して、日本の閉塞状態を説くのであれば、安易に謝罪を本掲示板で表明するより、もう少しポイントを絞られたほうがよいと思います。つまり指摘されている日本の問題のポイントはどこかっていう話です。制度的に虐げられている在日の存在を出しても、効果がないことは永好さんも充分に自覚されているでしょう。そこから先の肉迫した論理展開を期待しています。その際には、本掲示板に参加している一人としてまたレスをつけさせていただきます。
無責任な投稿に思われたらごめんなさい。では。
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[5217]Re(3):永好さんにたずねたいこ...
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 永好和夫 E-MAIL  - 08/1/7(月) 3:34 -

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   ▼リーさまへ:

【質問は、個人メールにということでしたので、ここでは質問を避けて、思うところを述べさせてもらいます。永好さんは、感情を排して科学的あるいは知性的な論理を投稿では重要視されていますね。】

議論で客観的性を保つためには、まず感情を排して論理的に思考するのが最も妥当であると思います。感情が大切ではないというのでは決してありません。感情は人それぞれですから、たとえば自分が気に入った人の意見には同調したくなりますし、気に食わない意見に対しては受け入れ難いというのは、大方の人情というものです。また、現状の問題点を把握する場合。『あるべき状態』がわからなければ現状の問題点を認識することすら困難です。『どのようにあるべきか』を認識することがまず大切ではないでしょうか。このように考えて感情を排した論理展開を示しました。現実にどのように対応しなければならないか、という点についてはさまざまな視点から考察する必要があるのは当然です。私の意見はあくまで一つの視点にすぎません。

【その上で、一人の日本人として朝鮮人に対しては、ひたすら謝罪するということですが、近現代史を客観視する考察と、謝罪は別物ではないでしょうか?たとえば、科学的、合理的、客観的あるいは論理的な謝罪というものは、成立する性質なのでしょうか?私にはそれは疑問です。】

科学的な謝罪などはありません。合理的、客観的な謝罪というのも非常に疑問であることは同感です。過去の罪というのは元通りに復元することができませんし、それまでに受けたさまざまな苦痛をなくすことはできませんから。ですから謝罪というのはすべて感情の問題だと思います。つまり誠意を尽くして許しを請うということです。そのためにも謝罪する側が相手の受けた傷について深く反省することが大切だと思います。
>
【たとえば理解を促すプレゼンについて、私が学んだことのひとつに「知・情・意」という三要素についてのバランスの重要性があります。文字通りの、知識や知恵の「知」、思いやりや人情等々の「情」、そして意思の「意」というそれぞれのバランスですね。そのうちのどれかが欠けても、相手にうまく伝わらないという話でした。もっとも本掲示板では、「知」が最も重要視されている傾向にあるようですが、だからといって「情」と「意」が、まったく存在していないわけではありますまい。】

おっしゃるとおりだと思います。人間は感情の塊のようなもので、感情を殺して知性で議論することは不可能に近いともいえます。ですから『あるべき状態』について思考するのではなくて『現実的な対応』について建設的な議論をするためには、お互いが誠意をもって議論する(意思)と相手を思いやる気持ち(情)は大切だと思います。しかし、ネットによる議論では、相手が不特定多数で、どのような意思や感情をもっているかわかりません。このような不特定多数を対象とした議論の場として論理的説明をしたものです。また、感情に支配されてしまうと誤った対応をしてしまうことは、現在の朝鮮半島の分断や在日の方がたの状態を当然のような感覚で考えている日本人が多いことからも注意しなければならないことであり、それを戒めるためにも論理的な記述をしたものです。

【なにより「知」のみで他者の痛みを理解することはかなり困難ともいえるのではないでしょうか。】

そのとおりだと思います。とくに心の痛みは相手の『気持ち』を理解しようとする努力なしには全く不可能です。そのためには、まず、相手の痛みを作った原因、結果を知って想像力を働かせる『知性』が必要だと思います。
>
【私は、「知」のみを起点とし、「知」のみで終息するという条件であったとしたなら、永好さんがおっしゃる日本人社会における在日朝鮮人の存在は、確かにゴミのような扱いであることに同意しますよ。特に同化を拷問に例えておられましたが、「知」という客観性からすれば、その通りだと思います。たとえば、永好さんは繰り返し、正しいことは、”あってはならないこと”、”言ってはならないこと”、”書いてはならないこと”と指摘されておられますね。それを倒錯した虚構の日本社会であるとも。】

ことばというものはそれ自身に感情を内包していますから、完全に感情抜きの表現法というのはありません。私が現状のひどさを表すために使ったことばがリーさまを傷つけてしまったならば、心からお詫び申し上げます。私は感情抜きに論理的に考察した現状を記述しようとしたものです。それから逆説的になりますが、投稿は不特定多数の方が閲覧するものですから、私自身を戒めるため、そして閲覧者に倒錯した虚構の社会を認識してもらうためにこのような表現になってしまいました。

【しかしそれを理解したとすれば、当事者としては断然、黙っていることはできません。勝つ見込みが絶対にないからといって、争いをやめてしまうほど、少なくとも私は寛容ではないし、お人よしでもありません。】

それが在日に方がたの精神力の強さではないかと思っております。日本人でも差別的な社会で、毎年3万を優に超える自殺者、30自殺未遂が起きています。また労働組合の組織率は5%で先進国で最低です。日本人は団結して闘うことを知らないんです。そして精神的に在日の方がたよりも比べ物にならないくらい弱いですね。

【実際に在日の近代史に着目すれば、絶対に負ける争いに身を投じていった数知れぬ人々の存在もあるものです。】

ポスコロ批判で有名なマルコムXの著書に『たとえいかなる手段をとろうとも』と題した書物がありますが、そのような闘志が韓国・朝鮮人にはありますね。在日の方がたの歴史、韓国における光州闘争などもそうですし、朝米関係の歴史や六カ国協議を見ていても平和に酔い痴れた日本人とは比較にならないと思います。

【総じて社会の問題や矛盾に正面から本気で立ち向かえば、おそらく立場は異なるものの、誰しもがマイノリティーになってしまうと私は考えています。】

資本主義社会というのはそういうもので、民主主義とはおよそかけ離れた世界だと思います。支配と隷属の社会ですから。ごく一部の資本家、資産家以外の人びとは権力者の奴隷ですね。会社でも社長は労働者が民主主義的に選んだ人ではないし、上司と部下が人間的に対等でないことからも明らかです。ただ、それは愚民化した日本の民衆が自ら『民主主義的』に民主主義を放棄したのであって、在日と日本人の関係とは根本的に違いますけど。

【たとえば永好さんも似たようなことを指摘されていましたが、私がひとつの事象に対して一つのアクションを起こしたら、日本人からは「反日」と呼ばれ、同胞からは「親日」と呼ばれたことも少なくありません。もっとも当時、私にはすでにそれらが「外野」にすぎないという免疫も有していましたから、さほど気にしたわけでもありません。】

それが現実ではないでしょうか。沖縄人である野村浩也氏が『無意識の植民地主義』というポスコロ批判の本を出して日本人はもちろんのこと沖縄人からも批判されています。私も小さなアクションを起こしましたがそこらじゅうで顰蹙をかってます。しかし、在日の方がたの困難、そして加害者であることを認識すればほとんど気になりません。「試行錯誤」の世界でもいろいろいってくる人がいますが、全く気になりません。
>
【さて、日本はおっしゃられる通りの国であることを知っています。でもそれはおっしゃられるように徹頭徹尾、日本の問題でしょう?】

まったくそのとおりです。すべて日本人の責任です。

【永好さんの意図は、朝鮮人をひきあいに出して、日本の閉塞状態を説くのであれば、安易に謝罪を本掲示板で表明するより、もう少しポイントを絞られたほうがよいと思います。】

逆説的ですが、本来あるべき姿と現実との乖離を論理的に示して問題提起するために書きました。日本人の問題ですから、不特定多数の閲覧者に見てもらうのが目的です。自分たちがやってきたこと、そして現在やってることについての認識がなくては改善することはできませんから。

【つまり指摘されている日本の問題のポイントはどこかっていう話です。制度的に虐げられている在日の存在を出しても、効果がないことは永好さんも充分に自覚されているでしょう。】

これは非常に多くの問題があり、原因についても歴史的な問題や社会システムやナショナリズムなどなど考察する点があまりに多く一言で述べることはできないと思います。多くの人びとで建設的に議論して問題点を浮き彫りにして改善していかなければならないと思います。また、それぞれの問題についてさまざまな市民団体が不十分ながら実際に取り組んでいます。しかし、大部分の日本人が在日の方がたに対する差別、暴力を容認しているのが問題です。要するに、日本人は『民主主義的』に在日の方がたを差別、弾圧している、この現実を変えていかないと抜本的な改善が難しいということではないでしょうか。

それから、一日本人市民としてはできることは限られてしまいます。多くの人が連帯、団結して闘っていくことこそ大切だと思います。問題意識が弱く、視野狭窄に陥ったり、自己主張ばかり強くて不寛容な性格が市民運動を妨げているのではないかと思います(自己反省も含めて)。

【そこから先の肉迫した論理展開を期待しています。その際には、本掲示板に参加している一人としてまたレスをつけさせていただきます。】

総括的な点についてはあまりにも問題が広いので、具体的な点に関して問題提起をしていただければ、私の考えを申し上げます。

【無責任な投稿に思われたらごめんなさい。では。】

ありがとうございました。失礼な記述、誤解を招く記述や誤りがありましたらお許しくださいませ。
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[5219]Re(4):永好さんにたずねたいこ...
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 とほほ E-MAIL  - 08/1/7(月) 10:35 -

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   ▼永好和夫さん:
>私の意見はあくまで一つの視点にすぎません。

ひとつの視点というのは、その視点から見たときに矛盾なく物事が解決される場合に正当化されるのです。
なんどもいいますが永好和夫さんの視点には圧倒的に欠けている、そして欠かしてはならない矛盾があるのです。それが「人権」です。

私と永好和夫さんの主張と言うのは似ているのです、と言うより同じ主張をしているのですが永好和夫さんの論理構成は間違っているのです、ですから矛盾点が出てきてしまいそこを追求されていくととんでもない回答が現れるのです。

以下は私の「日本人のお行儀」と言う論考からの引用です、参考にされてください、この論考からはたびたび引用しているのですがどうやら読んでもらっていないようです、一度暇なときにでも読んであげてください。
以下日本人のお行儀より。
さてここで持ち出したラーテナウの言葉と彼の共産主義への対応とは関係ない。
もちろん講和条約に対するラーテナウの自暴自棄的な言動とも見ることもできる。
周知のように、ドイツはこの講和条約を受け入れる以外にその主権を維持する道はなく、そしてラーテナウの言葉のように主権を放棄することはなく、ドイツ国民議会は講和条約への調印後共和国憲法を発布しワイマール共和国の過酷な道のりがはじまるわけである。ワイマール共和国はカップクーデターを皮切りにあらゆる右翼勢力からの攻撃を受け最終的にナチズムが台頭するようになる。ラーテナウの言動はこうした右翼勢力を扇動する結果になったのかもしれない。

私は、現日本が本当に民主主義国家であるならば、対中外交(対中に限らないが)においてこのラーテナウの言葉の実践こそが日本人民のあるべき立場だと思う。国民国家と言う概念や価値観に依存して生きていく以上その国民国家が犯した罪は永劫にその責と業を国民が背負う。国民国家の概念から超越した世界秩序がありえないのであれば、そしてその国家が民主主義を維持しようとするなら、それ以外に日本人民がその尊厳と良心を両立させて生き残る道はない。
中国に主権を渡したところで何もおそれるものはない。我々日本人は「民主主義者」である、香港がそうあるように日本もそのようにあればよい。日本がそうなった時にはじめてそれこそ中国本土の民主化は我々(その時の我々は中国人民である)の民主主義の為の緊急課題となるのである。

戦争責任問題は私に問う。
「戦後に生まれた我々に戦争の責任はあるのか?」
私はこう答える。
「我々にはもちろん責任はない、が国民国家の国民である責任として、その体制からもたらされた富により私の命は存在するのであり、正しい歴史を後世に伝えねばならない。」

さらに懐疑的な私の中の戦争責任回避論者は問う。
「個人(少なくとも戦後に生まれた個人)にどうしようもなかった戦争、に対して何らかの責任を負わせる事は個人としての人権を侵すものではないか?」
「個人の人権を生かすと言うことは、他者の人権の尊重に他ならない、犠牲者またはその遺族の人権を尊重することこそ己の人権を護る事になる」

懐疑的な回避論者はまだおさまらない。
「他人の犯した人権侵害について関係のない個人が責を負うのか?」
「国民国家の国民である以上その責から逃れられない。」

こうした終わりのない議論をしているときに私はふと気がつく。
この議論は所詮は「国民国家」の国民である事の枠から超越せねば、延々と続く。そしてなぜ自分が「国民」であるのか?「国民」ではない自分はありえないのか?となり、そして「国民」であればこそ「人権」を有するのか?と帰結する。
そして私の解答は否である、人権は万人に与えられた権利であり私が国民である必要はない。
しかし国民である事は逃れられない現実なのだ。

****氏の言説にある通り「中国の排他的ナショナリズム」が「民主主義の敵」であるとしても、その国境の外側からそれを攻撃する事はできない。なぜなら外部ナショナリズムに対抗できるのは内部ナショナリズムだけであるからだ、この内部ナショナリズムは往々にして民主主義の御旗の下に正義の衣を着ており、この内部ナショナリズムもまた「民主主義の敵」になりかねない。民主主義者である我々にできることは己を支配するものへの警戒であり他国の「民主主義の敵」に対する警戒または攻撃は国民国家体制下の世界秩序の上では無意味であるか否かは結論できないが少なくとも無効である。

本稿冒頭において一次大戦後のドイツに触れたのはその良いモデルであるからだ。確かにヨーロッパの国民国家としてのあり方と日本のそれとではその歴史に大きな隔たりがありラーテナウのような思考が日本に生まれるにはその成立からして無理がある。
また、日本は当時ドイツが突きつけられたような苛烈な条約を強要されたわけでもない、どころか周辺諸外国からは賠償を免責されており連合諸国の積極的支援を受けている立場である。しかし国民国家概念の上に安穏として生活しその繁栄を享受する以上ラーテナウの言説の正しさは認めざるをえない。

であれば「一国平和主義」と言う言葉がよく使われるが「一国民主主義」ももはや成り立たない。つまりこれは、敗戦国だから、戦争犯罪を犯した国家だから、と言う枠にもとらわれない事になる。己の民主主義(一国民主主義)を守るために、他国(それが民主主義の敵であるとしても)を攻撃する、と言う行為そのものが己の民主主義をも破壊する事に他ならない。戦争を否定する我々は「一国民主主義」がもはや成り立たない事に気がついたのである。国境がある以上他国の民主化に言及する時、情報戦略、非民主国家人民へ対する民主国家内の全ての情報公開、がこれまでのところ最善の方策である、そのためには国境の内側にいる我々の民主社会こそが真の民主主義国家として成熟しておらねばならないのだ。

がしかしこの戦略も己を安全な位置に置きながら中国人民に多量の血を流させる事になる可能性を否定できない。鉄のカーテンやベルリンの壁の崩壊は一縷の希望を持たせるものであるかもしれないが、現在流されている大量の血は例外ではなかった事を示唆しているようにも見える。イラクで人質に取られた方々の行動は正しかったのだ、イラクの民主化の為にはその支配下へ飛び込むしかない、そして飛び込んでいった彼らの勇気はたたえられるべきものである。

戦争を否定する我々は政治的外交的いかなる制裁処置をも発動する事はできない。だが自衛権の行使は国民国家の体制化にあってはその正当性を免れる事はできないが、それは己の民主主義をも破壊する。
であるからこそ軍備廃棄の正当性はラーテナウの言説によりこそ付与される。
日本の民主主義がそこまで成熟するには100年いや何百年かかるのかはわからない、しかしその事に気がついた私がとるべき行動はハッキリしている(それが如何に非力であったとしても)。

本来民主主義に国境はいらない、が、現実に国境が存在する。となれば民主主義が「民主主義の敵」を倒すにはその敵の支配下においてのみ有効である。
中共が政治的外交的措置としてそれを持ち出したときにはじめて、それを論難する事ができる、しかもあくまでその立場(ラーテナウの言説にある立場)を固守すべきである。その立場を崩そうとする国内勢力にこそ日本の国境の内側にいる民衆は警戒せねばならず、そうではない中共への論難は国境内での「民主主義の敵」を勢いづかせるだけである。

****氏は言う。
> ****

また実証史学を批判して上野千鶴子氏も言う。
---
「自由主義史観」を主張する人々を、「デマゴーク」や「プロバガンディスト」と呼んで、相手にするに足りない、と斥けるのは容易である。だが、その見方の背後で、「真理」に奉仕する学問の「客観性・中立性」の神話が、無傷で保存されるとすれば、その危険もまた指摘しておかなければならない。
---「ナショナリズムとジェンダー」上野千鶴子著、青土社---
としながらも、【わたしの意図も、「自由主義史観」」一派との論争にはない。】と続けている。
#上記文の注釈で上野氏は「日本の戦後史は必ずしも単純な実証主義に還元されない」と説明している。

上野氏の著述は6年前(1998年第一刷)である。「取るに足りない」とした時に誰が取るに足りない教科書が検定を通る、と予想できたであろうか。誰がたった一校でもそれを採用する学校が出てくる、と予想できたであろうか。
そして公教育が「取るに足らない教科書」の全面採用に至った時も、そんなデタラメな教科書を信じる若者などいない、と我々は言うだろう、それこそ取るに足らない教科書なのだから。大戦前の知識人は常にそうして己の良心を欺いてきたのだ。

原爆を作った科学者は言うだろう「こんな馬鹿げた爆弾を使う馬鹿げた国家はいない」と。抑止力の為にこそある、と。そうして己の良心精神性を維持する「確かに私が作ったがその使用には絶対反対である」
アインシュタインは天国で被爆犠牲者に対面しながらもそう思っているだろうか?

私はここでも「悪魔の飽食」森村誠一から引用したい。
---
民主主義というものは、本質的に脆い。それは民主主義に反する主義思想をも体内に抱含する。自分を破壊し、覆そうとする敵対思想をも認めなければ民主主義は存在し得ないところに、この体制の脆さと宿命があるのだ。

民主主義の敵を認めて、ひとたび敵(ファシズム=独裁主義)の天下になれば、ふたたび民主主義を取り戻すために多量の血が流されねばならないことは、歴史の証明するところである。民主主義はその敵に対する絶えざる疑惑と警戒の上に辛うじて維持される。

われわれが「悪魔の飽食」を二度と繰り返さないためにも、民主主義を脅かす恐れのあるものは、どんなささやかな気配といえども見逃してはならない。われわれは民主主義の敵に対して警戒しすぎるということはないのである。そのことをこの実録によって再確認できれば筆者の幸せこれにまさるものはない。
---新版悪魔の飽食、森村誠一著、角川文庫、301P---

となれば、国民国家の国民であることに喘ぎながらも私にはモグラ叩きを続けていくより術はない。見たくない現実(中共のナショナリズム)を見ないのではない、見えている現実に対してできる事をせねばならないのである。
あくなき自由への追求も民主主義に与えられた宿命であり、これこそが見えているのに見たくない、が見なくてはならない現実なのではないか。
私は「お行儀の良い民衆」が【民度(石原慎太郎語録における)】が高いのか否か判定できない、自由である事の真の姿はもっと醜いはずである。程度問題ではあるかもしれないが、お行儀の良い若者を形成する社会には胡散臭さを感じる、戦中日本人民のお行儀は世界一であったであろう。若者のお行儀が悪くある事も自由である事の本質的な姿である。そして大人と喧嘩するのである。

128 hits

[5252]Re(4):永好さんにたずねたいこ...
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 リー E-MAIL  - 08/1/13(日) 0:22 -

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   遅れながらのレスです。
あえて印象の範囲で観念論を述べさせてもらいます。

▼永好和夫さん:
>ことばというものはそれ自身に感情を内包していますから、完全に感情抜きの表現法というのはありません。私が現状のひどさを表すために使ったことばがリーさまを傷つけてしまったならば、心からお詫び申し上げます。私は感情抜きに論理的に考察した現状を記述しようとしたものです。それから逆説的になりますが、投稿は不特定多数の方が閲覧するものですから、私自身を戒めるため、そして閲覧者に倒錯した虚構の社会を認識してもらうためにこのような表現になってしまいました。

かつて詩人の金時鐘氏は、民族差別の克服について日本人から問われた際に次のように語っていました。「たとえばバスや電車に乗っても、そこに在日朝鮮人がいるかも知れないという意識があるかどうかだ」と。30年も前に語られたこの示唆的な言葉は、ニューカマーの存在がめずらしくなくなった現在においてもさほど変質することなく通用してしまっている言葉であると捉えています。

つまり不特定多数の中に在日朝鮮人はすでに存在しているわけです。従って在日朝鮮人をも含めた不特定多数という対象に対して、倒錯した社会の認識を求めるということになります。たとえば個人的に私は、「倒錯した社会」を自分の存在以上に上位に位置づけているわけではありません。社会という概念を前提とした力関係においては、客観的に個人はちっぽけな存在であることも知っていますが、だからといって「倒錯した社会」観から個人の生き方に影響や制約を受けることを由としていないわけです。換言すれば、そのような社会を受け入れることを決して認めないわけですね。むしろその点については「反社会的」でさえあり続けるわけです。

この辺は、微妙な領域ではないでしょうか。おっしゃるように確かに客観的現実として、むちゃくちゃな差別政策の中で生きてきたわけですが、それでも生きてきたという点も現実として存続してきたわけです。この類の「生」は、今後も歴史的に世代を超えて受け継がれていくにちがいないと私は考えています。「倒錯した社会」を訴えていくことは必要ですが、ややもすると存続してきた「生」を包含した批判論は、危険であると思うんです。これは傷つくといったような次元の話ではなく、むしろ「倒錯した社会」を生身の人間像に注入してしまうという転倒した状況を導くような結果さえ引き起こしかねないのではないかとも思われるわけです。

単純に指摘してしまえば、誰のための、何のための批判あるいは議論なのかという方向性が伴っていなければ、平和や人権を口実に虐殺を行う権力構造に吸引されてしまう危うさもあるような気がします。
今後の活躍を期待しています。
また個人メールさせてもらいます。
では。
118 hits

[5253]Re(5):永好さんにたずねたいこ...
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 永好和夫 E-MAIL  - 08/1/13(日) 2:19 -

引用なし
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   ▼リーさまへ:
>
>かつて詩人の金時鐘氏は、民族差別の克服について日本人から問われた際に次のように語っていました。「たとえばバスや電車に乗っても、そこに在日朝鮮人がいるかも知れないという意識があるかどうかだ」と。30年も前に語られたこの示唆的な言葉は、ニューカマーの存在がめずらしくなくなった現在においてもさほど変質することなく通用してしまっている言葉であると捉えています。

意味深長なこどばですが、私もそのように思います。むしろ近年のほうがひどくなっていると思うと本当に申し訳なく思っております。
>
>つまり不特定多数の中に在日朝鮮人はすでに存在しているわけです。従って在日朝鮮人をも含めた不特定多数という対象に対して、倒錯した社会の認識を求めるということになります。

おっしゃるとおりです。本来あるべき状態というものを認識してこそ、現在のひどい状況を認識できるのではないかと思いまして一つの視点として書きました。もちろん一面的な記述になってしまったことは確かで、いろいろな視点や考え方があると思います。現実的に具体的にどのようにしていくかについて述べてたものではありません。


たとえば個人的に私は、「倒錯した社会」を自分の存在以上に上位に位置づけているわけではありません。社会という概念を前提とした力関係においては、客観的に個人はちっぽけな存在であることも知っていますが、だからといって「倒錯した社会」観から個人の生き方に影響や制約を受けることを由としていないわけです。換言すれば、そのような社会を受け入れることを決して認めないわけですね。

当然だと思います。わたしたち日本人が正さなければならないのです。


むしろその点については「反社会的」でさえあり続けるわけです。

現実の差別的な日本社会が「反社会的」なのであって、これを「社会的」と倒錯している社会からみれば「反社会的」と言えると思います。本来ならば、在日の方がたが差別や弾圧に抗って生きてきたことは「反社会的」な社会を「社会的」なものに正そうという生き方ということでしょう。

>
>この辺は、微妙な領域ではないでしょうか。

非常に難しい問題だと思います。そういう意味で微妙な領域といえるでしょう。在日の方がたを「反社会的」というならば、そのような行動を取らざるを得なくなった原因が日本社会の暴力的構造にある、ということになるでしょう。


おっしゃるように確かに客観的現実として、むちゃくちゃな差別政策の中で生きてきたわけですが、それでも生きてきたという点も現実として存続してきたわけです。この類の「生」は、今後も歴史的に世代を超えて受け継がれていくにちがいないと私は考えています。

このようなことは決してあってはならないことですが、現在のひどい状況をみますと改善の見通しは立たないのが現実だと思います。


「倒錯した社会」を訴えていくことは必要ですが、ややもすると存続してきた「生」を包含した批判論は、危険であると思うんです。

記述に問題点があることは認めます。ただ、あくまでこのような差別的な社会を作り出している私を含めた日本人に対する批判として書いたものであって、在日の方がたの「生」に対して批判はもちろん問題提起したものではありません。


これは傷つくといったような次元の話ではなく、むしろ「倒錯した社会」を生身の人間像に注入してしまうという転倒した状況を導くような結果さえ引き起こしかねないのではないかとも思われるわけです。

そのような意図は全くございません。そのように思われるのでしたら、私の記述に問題があったためです。申し訳ございませんでした。

>
>単純に指摘してしまえば、誰のための、何のための批判あるいは議論なのかという方向性が伴っていなければ、平和や人権を口実に虐殺を行う権力構造に吸引されてしまう危うさもあるような気がします。

誰のため:日本社会(日本人)に対する批判です。

何のため:本来あるべき状態の認識を一つの視点から述べたものです。そのことにより、現実のひどい状況を認識するためです。

戦争がそうであるように、差別や弾圧も平和や人権を口実に行なわれるものであることは全くその通りだと思います。「テロとの戦い」を名目にアメリカが65万とも言われる無辜のイラク人を虐殺しました。そして日本は「北朝鮮の脅威」を口実に共和国や朝鮮総連、在日朝鮮人にはどんなひどいことをやってもかまわないというような社会的雰囲気を作っています。

11日の朝鮮新報に最高裁が京都・同胞障がい者年金訴訟の上告を棄却した記事が載っていました。日本というのは本当に恥ずかしい国だと思います。日本国民の無知と無恥が差別を当然のようにしてしまっているのです。

>今後の活躍を期待しています。

私一人でできることは限られていますが、それでも微力ながら在日の方がたが少しでも住み良い社会になるよう努めていく所存です。

>また個人メールさせてもらいます。
>では。

お待ちしております。どうもありがとうございました。
137 hits

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