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[84]「週刊新潮の竹島=独島記事を批判する」 ピッポ 05/3/28(月) 17:38
[87]対論『竹島』はどちらのもの【東京新聞】 ピッポ 05/3/31(木) 2:00
[88]下條 正男 講演 ピッポ 05/3/31(木) 2:50 [添付][添付]
[89]下條氏の複雑方程式と半月城氏による批判 ピッポ 05/3/31(木) 3:47
[90]訂正です ピッポ 05/3/31(木) 4:12
[91]Re(1):「週刊新潮の竹島=独島記事を批判する」 ある書き込み 05/3/31(木) 10:42
[92]Re(2):「週刊新潮の竹島=独島記事を批判する」 ピッポ 05/3/31(木) 11:03
[98]Re(3):「週刊新潮の竹島=独島記事を批判する」 書き込M 05/3/31(木) 14:07
[100]Re(4):「週刊新潮の竹島=独島記事を批判する」 とほほ 05/3/31(木) 14:21
[145]Re(1):竹島=独島問題、櫻井よしこ氏を批判する ピッポ 05/4/8(金) 5:06
[4859]Re(1):「週刊新潮の竹島=独島記事を批判する」 さわだまさやす 07/10/6(土) 8:57
[4860]1905年は20世紀です。 熊猫 07/10/6(土) 20:33
[4865]Re(1):1905年は20世紀です。 さわだまさやす 07/10/7(日) 5:01
[4867]Re(2):1905年は20世紀です。 とほほ 07/10/7(日) 8:27
[4868]Re(3):1905年は20世紀です。 さわだまさやす 07/10/7(日) 15:39
[4869]Re(4):1905年は20世紀です。 とほほ 07/10/7(日) 16:23
[4870]Re(4):1905年は20世紀です。 とほほ 07/10/8(月) 1:56
[4872]Re(5):1905年は20世紀です。 さわだまさやす 07/10/8(月) 2:52
[4873]Re(6):1905年は20世紀です。 とほほ 07/10/8(月) 3:05
[4874]Re(6):1905年は20世紀です。 とほほ 07/10/8(月) 3:41
[4876]Re(7):1905年は20世紀です。 とほほ 07/10/8(月) 4:03
[4896]Re(7):1905年は20世紀です。 さわだまさやす 07/10/13(土) 20:34
[4897]Re(8):1905年は20世紀です。 熊猫 07/10/14(日) 0:42
[4900]Re(9):1905年は20世紀です。 とほほ 07/10/14(日) 8:56
[4875]Re(4):1905年は20世紀です。 とほほ 07/10/8(月) 3:49
[4895]Re(5):1905年は20世紀です。 さわだまさやす 07/10/13(土) 19:32
[4899]Re(6):1905年は20世紀です。 とほほ 07/10/14(日) 8:44
[4861]Re(2):「週刊新潮の竹島=独島記事を批判する」 とほほ 07/10/6(土) 21:19
[4863]Re(3):「週刊新潮の竹島=独島記事を批判する」 さわだまさやす 07/10/7(日) 4:28
[4866]Re(4):「週刊新潮の竹島=独島記事を批判する」 とほほ 07/10/7(日) 7:20
[4862]Re(2):「週刊新潮の竹島=独島記事を批判する」 秋時雨 07/10/6(土) 23:56
[4864]Re(3):「週刊新潮の竹島=独島記事を批判する」 さわだまさやす 07/10/7(日) 4:31
[4871]Re(4):「週刊新潮の竹島=独島記事を批判する」 とほほ 07/10/8(月) 1:58
[4877]Re(4):「週刊新潮の竹島=独島記事を批判する」 gallery 07/10/8(月) 15:01

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[84]「週刊新潮の竹島=独島記事を批...
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 ピッポ  - 05/3/28(月) 17:38 -

引用なし
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   半月城さんのAMLへの投稿を転載します。

私たちは、竹島=獨島問題に関しての韓国側の主張および根拠となる史料を殆ど知りません。報道されないからです。半月城さんのサイトである”半月城通信”には、これまでの論争資料が膨大にあります。これらを読めば、韓国側から見た日韓関係の歴史に触れることができます。しかし何分にも膨大です。
http://www.han.org/a/half-moon/

このたび、半月城さんは週間新潮の記事に反論を寄せました。週刊新潮の記事は、「竹島は17世紀から日本が統治していた」という、最近のWeb論調に反映しています。それに対する半月城さんの批判は、これまでの論考を要約したものともいえます。

なお勝手ながら、週間新潮の記事の主張をグリーンにしました。小見出しは私が付けました。

日本側の主張としては、おそらく週刊新潮は余りにも雑ではないかと思います。
もっと骨太の日本側論証を、どなたか紹介してくだされば幸いです。


==========================================================
[AML 0931] 週刊新潮の竹島=独島記事を批判する
http://list.jca.apc.org/public/aml/2005-March/000917.html
half-moon 
2005年 3月 27日 (日) 22:17:26 JST
==========================================================

  半月城です。

 『週刊新潮』には驚かされます。記事<「竹島」WARS!> において、小見出しに<竹島は「日本の領土」という決定的証拠の「古文書」>と仰々しくあるので、話半分にしてもさぞかし有力な証拠の古文書が出てきたのかなと期待していました。
  ところがどうでしょうか。「決定的証拠」の古文書とは大谷家の「竹島渡海由来記 抜書控」のみでした。この文書は、漁猟のために竹島(今日の鬱陵島)へ渡海していた大谷九右衛門が書いたもので、その内容は信頼性に欠け、とうてい「決定的証拠」になるような代物ではありません。

  実際、その内容ときたら、大谷家は江戸幕府から竹島を「拝領」したとか、さも領主になったかのような虚言を弄しており、信憑性がありません。史実は、大谷家と村川家が鳥取藩を通じて幕府から竹島(鬱陵島)への渡海免許をもらったにすぎません。
  当時は町人が幕府から領地を拝領できるはずもありませんし、それを裏づける資料などもちろんありません。そんな誇張に満ちた大谷家の文書を引用して同誌はこう記しました。



『週刊新潮』(05.3.31)

  江戸時代初期、日本では竹島を松島、鬱陵島を竹島と呼んでいた。「竹島渡海由来記 抜書控」という古文書は、元和4年(1618年)以降、伯耆藩(鳥取)の大谷・村川両氏が江戸幕府から両島を拝領し、鮑、アシカ等の漁猟、木竹の伐採などを行っていたことが記されている。
  この古文書に加え、1724年の古地図(伯耆藩差出 竹島図)などを収めた『島根県竹島の新研究』という書物が昭和40年に刊行されていた。著者は元島根県職員の田村清三郎氏で、昭和43年に54歳で他界した。


決定的証拠?

  日本の古文書に関する説明はたったこれだけです。そこには日本政府が日本領の根拠にしている古文書すら登場しません。新潮社にとってもそれらの古文書は根拠が薄く、無用の長物なのでしょうか。
  ともかく「竹島渡海由来記 抜書控」のみを「決定的証拠」とセンセーショナルに書く週刊誌の商業主義にはあきれるばかりです。

  しかも、上記の記事は歴史にうとい人が書いたようで、文中に「伯耆藩」とありますが、江戸時代に伯耆国はあっても「伯耆藩」は存在しませんでした。これを見ても、書き手は竹島=独島問題をほとんど理解していないのが赤裸々です。

  記事はそんなレベルなので、編集者が「竹島渡海由来記 抜書控」の史料価値をわからないのも無理はありません。その史料は領有権論争にはほとんど役立たず、そのため日本政府はその史料を知っていても、かつて韓国との竹島=独島論争においてはそれを引用すらしませんでした。とても「決定的証拠」にはなりえません。

  その史料を、単に元禄時代までに大谷家などが松島(竹島=独島)で経済活動を行っていた証拠とするのならともかく、これは「固有領土」の証拠にはほど遠い、箸にも棒にもかからない古文書です。

何が書かれてないか?

  つぎに、記事は書かれていることも重要ですが、何が書かれていないのかも時には重要です。特に竹島=独島問題の場合、多くの人は自分の結論に不利になるような重要史料を意図的に無視しがちです。
 『週刊新潮』の記事もそうした観点から見る必要があります。記事は大谷家などの経済活動がその後どうなったのか記していませんが、そこに竹島=独島問題の本質が隠されています。記事がそれを書くと「日本の領土」説はあやしくなりそうなので、週刊誌では取りあげなかったのでしょうか。それを具体的にみることにします。

竹島一件

  元禄時代、鬱陵島で日朝の漁民は二度はち合わせしましたが、それが機になり、日朝間で「竹島一件」とよばれる外交交渉が行われました。その経過を内藤正中氏はこう記しました。
      
3.松島は因幡 伯耆附属には無御座候

  無人島であると思い込んでいた竹島(鬱陵島)で、初めて朝鮮人に出会うのは1692年(元禄5)である。この年は53人が来ていたが、日本側は21人の少数であったので争うことはしないで、朝鮮人が作っていた串鮑のほか、笠、網頭巾、こうじ味噌を持ち帰って藩庁に届け出た。
  江戸の藩邸から幕府に対処方法を紹介したところ、すでに朝鮮人が退去しているとすれば、「何の構もこれなく」という回答であった。

  翌1693年、40人の朝鮮人が来ていた。そのなかの2人を捕えて米子に連行した。安龍福と朴於屯の両名で、米子で2か月にわたる取調べの後、幕府の指示で長崎奉行所に送られ、対馬藩により帰国させた。ついでに幕府は、対馬藩に命じて竹島は日本領であるから朝鮮人は出漁しないよう禁止措置をとることを朝鮮国に要請させた。
  この時 対馬藩が朝鮮王朝に宛てた文書には「本国竹島」と記して、日本領土の島であるという認識を示していた。また対馬藩の『朝鮮通交大紀』にも、1693年に朝鮮人が「我隠州竹島に来り」と、竹島が鳥取藩に所属するということを表明している。

  これに対する朝鮮側は、「倭人 所謂(いうところの)竹島、即 我国鬱陵島」と、一島二名であるといって朝鮮領であることを主張した。

 「竹島一件」といわれている日朝間の外交交渉は、釜山の倭館を舞台に3年間つづけられた。そして1696年(元禄9)1月28日に、幕府が老中4名の連署でもって、「向後 竹島へ渡航之儀 制禁 可申付旨 被仰出之候間」と、鳥取藩主に竹島渡航禁止令を達したのである。

  この達は、たしかに竹島への渡海を禁止しただけである。このことから、幕府は竹島の領有権を放棄したのではないという説もあるが、3年間にわたる日韓外交交渉が、竹島の領有権をめぐるものであった以上、そうした説は無意味である。竹島が朝鮮領の鬱陵島であることを幕府も認めることによって、竹島一件は決着したのである。

  その場合、松島(現竹島)はどうであったかが残る。しかし、もともと松島については、竹島に附属する島という理解で特段の取扱いはしてこなかった。そうである以上、松島について言及する必要もなかったのである。

  さらに幕府の決定に重大な影響を与えたと思われる鳥取藩の1695年(元禄8)12月25日付の文書がある。これは、前日の24日に幕府老中 阿部豊後守からの質問に対する鳥取藩の回答書である。
  幕府から鳥取藩への質問は7か条で、その第1に「因州 伯州え付候 竹島はいつの此より両国の附属候哉、先祖領地 被下候以前よりの儀 候哉」とあり、幕府としては、竹島が因幡 伯耆を支配する池田藩に所属する島と考えていたことがわかる。したがって、いつから因伯の領地になったかと問いかけるのである。

「竹島は因幡 伯耆附属には無御座候」

  これに対する鳥取藩の回答は、「竹島は因幡 伯耆附属には無御座候」であった。

  さらに第7項には、「竹島の外 両国え附属の島 有之候哉、並是又 漁採に両国の者参候哉」との質問がある。これに対する鳥取藩の回答では、「竹島 松島其外 両国之附属の島 無御座候事」と、竹島とともに松島についても、因伯両国に附属するものでないことを明言した。
  その結果、幕府は竹島が朝鮮領の鬱陵島であることを認めて、日本人の竹島渡海を禁止することになるのであるが、ここでの決定について 30年後の1724年(享保9)に鳥取藩がまとめた「竹島渡海禁止 並 渡海沿革」には、次のように記している。

 ・・・(省略)・・・

  なお、川上健三も竹島・松島が鳥取藩所属でないとしていることは「けだし当然」といっている。ただしその理由とするところは、竹島渡海事業が官許の公務であり、鳥取藩が直接関係していなかったためであるというが(川上前掲書,P84)、これは事実ではない。
  渡海免許も渡海禁止も幕府から鳥取藩主に出されており、鳥取藩としても毎年の渡海にあたって米や鉄砲の貸付をしていたのであるから、幕府直轄で鳥取藩は関係がなかったから、竹島・松島は因伯付属の島ではないと回答したのは「当然」とするわけにはゆかない。

  鳥取藩領と思われていた竹島、そして松島について、鳥取藩としては自らに附属する島ではないといったのである。
  領主なき土地はないのが封建社会の原則であるから、日本領土ではないといったことになる。下條正男の近著『竹島は日韓どちらのものか』には、このことについての言及がない(注1)。

原著注、川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(古今書院、1966年)


  下條正男氏の近著に鳥取藩の回答書が記されていないのは、けだし当然かも知れません。その史料からは竹島(鬱陵島)、松島(竹島=独島)は日本の領土でないという結論がおのずから導かれるので、何としてでも竹島=独島を日本領にしたい一念の同氏は、それを無視せざるをえなかったのでしょうか。
  この鳥取藩の回答書こそ、竹島=独島が日本の領土ではないとする「決定的証拠」ではないでしょうか。


于山島=竹島説が論破された?


 『週刊新潮』(05.3.31)P33

田村氏は遺作の中で韓国側の主張を次々と論破している。
先ず、于山島または三峯島と呼ばれていたのは竹島ではなく、鬱陵島だったと指摘している。それは『三国史記』(1145年)など多くの文献が于山国とは鬱陵島のことであり、三峯島も鬱陵島の別称だと明記しているからだという。



  15世紀、朝鮮の正史である『世宗実録』地理志に東海の島が江原道蔚珍県条にこう記されました(注2)。
 「于山、武陵二島は県の東の海中にある。二島はお互いに相去ること遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。新羅の時、于山国と称した。一に鬱陵島ともいう。その地の大きさは百里である(注3)」

  朝鮮王朝はおおむね鬱陵島(武陵島)と于山島をこのように理解していたのですが、古く日本の江戸時代以前は、東海の絶海にある島が本当に二島なのか、また于山島はどこにあるのかなど、空島政策をとっていたことも手伝って、必ずしも十分に把握をしておらず、于山島やうわさの三峯島探索などをめぐってしばしば混乱しました。

  こうした問題をクリアーにしたのが「輿地志」やそれを引用した文献でした。現在「輿地志」は現存しませんが、その引用文が下記のような史書に残されました。

(1)『疆界考』(1756)
 「按ずるに 輿地志がいうには 一説に于山 鬱陵は 本一島 しかるに諸図志を考えるに二島なり 一つはすなわちいわゆる松島にして けだし二島ともにこれ于山国なり(注
4)」

(2)『東国文献備考』「輿地考」(1770)
 「輿地志がいうには 鬱陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島なり(注5)」

  このように、東海には鬱陵島と于山島の二島があり、于山島は日本でいう松島であるとの認識が次第に確立しましたが、その背景には上に述べたた安龍福の言動が大きな影響を与えていました。

東海には鬱陵島と于山島の二島があり.安龍福の言動

  安は 1693年「竹島一件」の際、鬱陵島において日朝漁民が二度目にはち合わせしたとき、同島から日本へ連行されましたが、その時、かれは竹島=独島を経て鳥取藩へ来ました(注6)。
  竹島=独島を実見し、それが日本でいう松島であることを理解している安龍福は、1696年、今度はみずから鳥取藩へ抗議活動にやって来てきました。その時、かれは船に「朝鬱両島 監税将臣 安同知 騎」と墨書した旗をかかげました。
  これは日本では「朝鬱両島ハ 鬱陵島 日本ニテ是ヲ竹島ト称ス 子山島 日本ニテ松島ト呼フ」と理解されました(注7)。子山島は于山島の書き間違いとされます。

  安の訴えは竹島一件をめぐる日朝の外交交渉自体にほとんど影響を与えませんでしたが、安の言動は結果的に今日の竹島=独島問題に大きな影響を与えました。それは、日本でいう当時の竹島は朝鮮の鬱陵島であり、松島は于山島であり、ともに朝鮮領という認識を日本および朝鮮政府に定着させました。
  朝鮮では、于山島は日本でいう松島であるとの認識が官撰書である『万機要覧』(1808)、『増補文献備考』(1908)などに引き継がれました(注8)。

明治政府の「竹島=独島」放棄

  日本では「竹島一件」の結果は、明治時代になって再確認されました。内務省から鬱陵島と竹島=独島の取り扱い伺が出されたとき、国家の最高機関たる太政官は、竹島外一島、すなわち鬱陵島と竹島=独島は本邦に関係なしとする指令を1877年(明治10)に通達しました(注9)。このとき、明治政府は竹島=独島を放棄したことになります。
  こうした竹島=独島の認識は内務省や太政官のみならず、外務省でも同様でした。外国の誤った地図の影響で外務省内に松島・竹島について島名の混乱が起きたとき、公信局長の田辺太一は、松島が于山島であると正しく理解して下記のように記しました。

 「聞ク松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ 其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ 蔚陵島ノ朝鮮ニ属スルハ旧政府ノ時一葛藤ヲ生シ 文書往復ノ末 永ク証テ我有トセサルヲ約シ載テ両国ノ史ニ在リ」

日露戦争と「無主地」竹島の領土編入

  このように明治政府の関連機関は、竹島=独島は朝鮮領であると認識していましたが、日露戦争が起きるや、帝国主義的施策が台頭しました。戦争でロシアの艦隊を監視するため、竹島=独島に軍事目的の望楼を建てる必要が生じたからでした。
  政府は、漁師・中井養三郎から出された「リヤンコ島(竹島=独島)貸下願」を機に、竹島=独島を「無主地」であるとこじつけ、閣議で同島を竹島と命名し、ついに領土編入を決定しました。

  この時、朝鮮との事前協議など一切なく、また官報による公示もなく、こっそり行われました。公表は島根県告示という形をとりました。これでは、朝鮮が気づくのはとうてい無理なのはいうまでもありません。

 『週刊新潮』(05.3.31)P33

この(田村氏の)労作には日本が竹島=独島の領有に関し、国際法の要求する先占の要件を満たしていることが詳細に記載されているのだ。


  当時の国際法は「万国公法」と呼ばれ、帝国主義国家間の植民地獲得競争におけるルールが基本であり、侵略戦争が公然と認められているなど理不尽なものでした。そうした「狼どもの国際法」にたとえ適合していても、それは時には不当なものであり、いずれ清算されなければなりません。

固有の領土という主張はあとづけ

  竹島の場合、たとえそうした「狼どもの国際法」に照らしても、竹島=独島の領土編入は適法ではありません。慣習法である万国公法では領土先占の要件として、その地が「無主地」であることが必要条件ですが、竹島=独島の場合、日本政府は朝鮮領であることを知りながら、強いて「無主地」であると強弁して領土編入しました。これは「狼どもの国際法」に照らしてすら違法な略奪といえます。

  ここで注目すべきは、日本は竹島=独島を「無主地」とこじつけたことです。これはとりもなおさず、竹島=独島を「日本の固有領土」と考えていなかったことになるので特筆に値します。上記のような歴史的経緯からすれば当然の帰結です。
  それにもかかわらず、日本の外務省が「竹島は日本の固有領土」と繰りかえしているのはコッケイです。内藤氏も「固有領土論は根拠が薄いというのが実態(注10)」と批判しました。

国際司法裁判所


週刊新潮』(05.3.31)P33

外交評論家の田久保忠衛氏はこう語る。
 「田村氏の主張が正しいことは、日本が提議した国際司法裁判所への付託を韓国が拒否した一事でも明らか。韓国には自国領だと言えるだけの証拠がないのです」
妄言は韓国の方だった。



  何とも貧弱な論理展開です。外交評論家を自称する田久保氏は、竹島=独島に関する韓国の主張をほとんど知らないようです。上にその一端を書いたように、韓国領だといえる根拠はいくらでもあるし、また日本の「固有領土」ではないとする根拠もいくらでもあります。
  韓国にすれば、自国領として確信のある竹島=独島をあえて裁判沙汰にして、両国国民の民族的対立を先鋭化するような愚を避けようとするのが当然です。


  長くなりましたが、以上のように『週刊新潮』の記事はあまりにも的はずれで我田引水的であり、竹島=独島問題の本質にはまったくふれていません。真実を報道する使命をもつジャーナリズムの本義にはずれた、まったくお粗末な記事というしかありません。


(注1)内藤正中「竹島(独島)問題の問題点」『北東アジア文化研究』第20号,2004,P7、鳥取短期大学発行
(注2)半月城通信<『世宗実録 地理志』と于山島>
http://www.han.org/a/half-moon/hm093.html#No.679
(注3)『世宗実録 地理志』
「于山武陵二島 在縣正東海中 二島相去不遠 風日清明 則可望見 新羅時稱于山國 一云鬱陵島 地方百里」
  原文には句読点やスペースなどは一切ありません。以下同様。
(注4)申景濬『旅菴全書』巻之七、「疆界考」十二、鬱陵島
 「按 輿地志云 一説于山鬱陵本一島 而考諸圖志二島也 一則其所謂松島 而蓋二島倶是 于山國也」
(注5)申景濬『増補文献備考』巻之三十一「輿地考十九」蔚珍古縣浦条
 「輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」
(注6)(注)塚本孝「竹島領有権問題の経緯」『調査と情報』第289号、国立国会図書館,1996
(注7)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000,P100
(注8)半月城通信<下條正男氏への批判、朝鮮史書改ざん説>
http://www.han.org/a/half-moon/hm107.html#No.785
(注9)半月城の論文「日本の竹島=独島放棄と領土編入」
http://www.han.org/a/half-moon/hm095.html#No.698
(注10)東京新聞<対論『竹島』はどちらのもの>
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20050317/mng_____tokuho__000.shtml

 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

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以上転載
http://list.jca.apc.org/public/aml/2005-March/000917.html</font>
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[87]対論『竹島』はどちらのもの【東...
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 ピッポ E-MAIL  - 05/3/31(木) 2:00 -

引用なし
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   対論『竹島』はどちらのもの
〜 二人の識者に争点を聞いた
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20050317/mng_____tokuho__000.shtml


 日韓の新たな火種が炎となりつつある。その名は「竹島」。絶海の孤島ゆえに、歴史上、所在が両国の境界線上で浮かんでは消えていたが、島根県議会が十六日、県土であることを主張する条例案を可決し、にわかに注目を集めだした。問題に詳しい二人の識者に争点を聞いた。 (浅井正智)

◇下條正男・拓殖大教授

 ――竹島が「日本固有の領土」という根拠は。

 「一六六七年に松江藩士が書いた隠岐の巡視記録に、竹島と鬱陵(うつりょう)島が日本の『西北限』と記されている。これに先立つ一七年、鳥取藩の米子町人二人が幕府から鬱陵島への渡海許可を得た。幕府が鬱陵島とその途中にある竹島を領土と認識し実効支配していたのは明らかだ。この事実に基づき一九〇五年に明治政府は竹島を日本領土と閣議決定し、島根県が県土編入を告示した」

 ――韓国側の主張の問題点はどこにあるのか。

 「韓国側がよりどころにしているのは一七二八年の王朝の実録。この中に日本に密航した安龍福という人物が鳥取藩主と直談判し、鬱陵島と竹島が朝鮮領であることを認めさせたとの証言記録がある。また安龍福は『日本で言う竹島は朝鮮領である于山(うさん)島のことだ』とも語っている」

 「鬱陵島は五一二年、新羅に編入されて以来、朝鮮領と認められてきたが、于山島については朝鮮でも所在が明確でなかった。それを安龍福が日本に認めさせたとして英雄扱いされ、現在韓国の歴史教科書にも登場する。しかし日本の文献と突き合わせると、安供述は全くの虚偽だったことが判明している」

 ――幕府は一貫して竹島の領有意思を持っていたのか。

■絶海の孤島ゆえ争いは起こらず

 「絶海の孤島で、漁民ですら立ち寄らなかった竹島について領有権問題など起こりようもなく、幕府によって一六九六年に鬱陵島への渡海が禁止されたときも、竹島は問題にされなかった」

 ――竹島の実効支配は朝鮮側に移ったのか。

 「朝鮮側は一八八二年、鬱陵島を開拓すべきかを検討するため実地調査を行った。しかし竹島には近づいてもいない。朝鮮が竹島を領土と認識していなかった証拠だ」

 ――韓国は竹島が日本による朝鮮侵略の「最初の犠牲地」とみている。

 「一六九六年以降、竹島は日朝どちらにも属していない空白地になっていた。当時、統治者がいない土地を占領することは国際法の法理として認められており、竹島の日本編入を朝鮮に通告する義務もなかった」

 ――何が竹島問題の進展を妨げてきたのか。

■反論しない姿勢問題進展を阻害

 「竹島問題が起こると、韓国では日本側を妄言と決めつけ、日本はそれに反論もしてこなかったことに問題がある。大切なのは竹島が日韓どちらの領土かを争うことではない。竹島の日条例制定をきっかけに歴史的事実に基づいた議論が起こることを期待している」

 しもじょう・まさお 1950年長野県生まれ。国学院大学大学院博士課程修了。83年韓国に渡り、三星綜合研修院主任講師、市立仁川大学客員教授などを歴任。99年から拓殖大学教授。著書に「竹島は日韓どちらのものか」「日韓・歴史克服への道」など。

◇内藤正中・島根大名誉教授

 ――日本の外務省は「竹島は歴史的にも国際法上もわが国固有の領土」と主張しているが。

 「十七世紀半ばまでに、幕府が鳥取藩の米子町人に渡海許可を与えることなどを通じて実効支配していたというのが日本政府の主張だが、非常に粗雑な説明に終始しており、固有領土論は根拠が薄いというのが実態だ」

 ――渡海許可を得た町人の家に伝わる文書では、鬱陵島や竹島を幕府から「拝領」していたとある。

 「封建時代、土地はすべて領主のものであり、たとえ無人島であっても幕府が町人に分与することなど本来あり得ない。文書が書かれたのは、渡海許可を得た人物の二、三代後。子孫が先祖の業績を過大評価して『拝領』などの表現を使ったのだろう」

 ――ほかにどんな点で根拠が薄いのか。

 「日本は一六九六年に鬱陵島への渡海を禁じた。それは竹島の領有意思否定を意味する。日本政府は『当時幕府が禁じたのは鬱陵島への渡海であって竹島は禁じていない』と言うが、渡海禁止によって竹島に行く者も途絶えた。竹島は朝鮮のものと認識されたとみるべきだ」

 ――日本側が領有を否定したと考えられるのはこれだけか。

 「もう一度ある。明治時代に入ると鬱陵島に渡る日本人が再び出始めた。一八七六年に同島の開発申請が出されたのに対し、明治政府は翌年、鬱陵島とほか一島は『本邦とは関係ない』という太政官決定を下した。『ほか一島』は属島である竹島を指すとみられる。つまり、日本は江戸時代と明治時代に二度、竹島が無関係の島だと言ったが、領有意思を主張したことは一度もない」

 ――朝鮮側は長年、鬱陵島の無人化を実施した。属島の竹島は見たこともなかったはずで、結局、竹島はだれのものでもなかったのでは。

■大韓帝国勅令で属島管轄を宣言

 「一九〇〇年に大韓帝国勅令で鬱陵島を領土と宣言し、属島の『石島』を管轄するとした。石島は竹島のこととみられ、既に領有国は決まっていた」

 ――韓国側の主張に問題はないのか。

■解決の道閉ざす一国主義歴史観

 「確かに竹島問題の発端にある安龍福の供述について、韓国側の研究は日本側の史料を全く見ないまま事実として扱うという致命的な欠陥をもっている。一国主義の歴史観という点では韓国も同じだ。竹島問題が浮上するたびに、韓国メディアに登場するのは安龍福であるだけに、徹底した史実の解明が求められる」

 ――竹島問題の解決への道は。

 「日本政府は固有領土論からいったん離れたうえで、はじめから議論を立て直す必要がある。両国が揚げ足を取るだけでは何ら生産的な結果は期待できない。互いに史料を出し、冷静に話し合う共通の土俵をつくることが必要だ」

 ないとう・せいちゅう 1929年岡山県生まれ。京都大学大学院(旧制)修了。55年島根大学講師となり、68年教授。84−86年同大法文学部長を務め、93年に退官した。著書に「竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史」「日本海地域の在日朝鮮人」など。
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[88]下條 正男 講演
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 ピッポ E-MAIL  - 05/3/31(木) 2:50 -

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平成十五年十一月十五日
竹島北方領土返還要求運動島根大会での講演

下條 正男(しもじょう まさお)
(拓殖大学国際開発学部教授)
http://www.pref.shimane.jp/section/takesima/henkan/08.html
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 皆さん、こんにちは。今日は小学生、中学生、それから高校生の皆さんがいらっしゃいますので、話の内容をできるだけわかりやすくさせていただきたいと思います。  私は一九八三年から九八年末まで韓国におりました。韓国に渡った理由は、一九八二年に日本の歴史教科書問題が起こり、当時、大学院の学生だった私は、韓国に渡って実際にどんな歴史感覚を韓国の人々が持っているのか知りたいと思っていたからです。ところが、韓国で生活しているうちに十五年が過ぎてしまいました。そして、日本に帰るきっかけとなったのが実は竹島問題なのです。

 ちょうど九六年に日本と韓国の間で漁業問題に関連して「国連海洋法条約」が発効し、韓国では竹島を獨島と呼びますが、二月にそこに接岸施設をつくり日本の外務省が抗議することがありました。韓国ではそのことが大きく報道され、よせばいいのに私は、竹島は日本領だという内容の論文を韓国の雑誌に投稿しました。それ以来、韓国にいづらくなり、ついに九八年に帰国することになりました。


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1、 竹島問題の背景

 まず皆さんにお尋ねしたいのですが、竹島問題の発端、つまり竹島問題が起こることになった原因、あるいはその時代がいつであったのかご存じでしょうか。五十年くらい前、百年前、二百五十年前、三百年前、五百年前。なぜこんなことをお聞きするかというと、国際法的にも歴史的にも竹島は日本の領土だと言いながら、実はそこのところがわかっていないからです。

 今日のような集会は韓国でも行われています。「竹島(獨島)死守」です。それが正しいかどうかは別問題ですが、彼らは少なくとも歴史についてある程度勉強しています。そのため彼らからはすぐに答えが返ってきます。韓国の歴史教科書には、二ページにわたって竹島問題の背景が記されています。そこには歴史的に獨島は韓国領であると書いてあります。

 さて、先ほど三人の学生さんが一生懸命発表してくれました。感動いたしました。しかし、そういった子供たちが、もし韓国に行って竹島は歴史的にも国際法的にも日本の領土だと言ったとします。ですが、韓国側は教科書で勉強しています。それ以上、日本の子供たちは話ができるでしょうか。そういうことを考えると、私たちはもう少し竹島についての理解を深めておかないと、日韓の国際交流や相互理解は難しいと思うのです。

 北方四島の場合は住民がいたということで非常に身近な問題となっていますが、竹島の場合は無人島であったということ、それからもうひとつ考えなければいけないのは、なぜ竹島問題が一九五二年一月十八日に起こったのかということです。その原因は李承晩ラインです。では、李承晩ラインがなぜその日に宣言されたのでしょうか。

 これには大きな問題があります。竹島が日本の領土になって、島根県に編入されたのは一九〇五年です。そして、一九五二年一月十八日に李承晩ラインによって韓国領とされてしまうのです。それはなぜなのか。実は竹島問題の発端は、今から三百年前にさかのぼるのです。その間のさまざまな歴史が積み重なり、日本が一九〇五年、竹島を島根県に編入した時点というのは、韓国側から見ると自分たちの領土が奪われた日と映っていたのです。一九四五年に第二次世界大戦が終わり、韓国は解放されます。その時から韓国側には民族感情が高まり、復権運動が始まります。そして当時の李承晩大統領は竹島だけでなく、対馬島もまた我が領土であると盛んに主張し始めるわけです。

 その過程で竹島が大きな問題に発展していくのは、一九五二年四月二十八日に「サンフランシスコ講和条約」が発効し、その講和条約の中で竹島の処遇が大きく変化したことに起因しています。草案の段階では竹島は朝鮮領として記録されていましたが、最終案では日本領となります。つまり条約が発効すると竹島は朝鮮領ではなくなってしまうのです。そうなる前に韓国政府は、李承晩ラインを引いたわけです。事前に予防線を張ったのです。戦後の日韓正常化交渉は、この竹島問題の直後から始まっていきます。それから「日韓基本条約」締結の一九六五年まで十三年、長い交渉が行われていきます。

 その間、韓国は李承晩ラインを盾に何名くらいの日本人を抑留し、日本漁船を拿捕したと思いますか。三、九二九人が抑留され、三二八隻が拿捕されました。その過程で四十四名の方が死傷しています。公海上に引かれた李承晩ラインを根拠に拿捕するのは拉致と同じ状況です。その抑留した人々を韓国側は外交交渉の手段に使いました。もしこれらの人々を返してもらいたかったら、日本は賠償をしなさい、在日韓国人の法的地位を認めなさい、あるいはまた朝鮮半島に残してきた日本人の個人資産をゼロにしなさいという外交交渉です。その外交カードとなったのが竹島問題です。そして、その論拠となっていたのが歴史理解です。その韓国側の歴史理解が十分なものであったのかどうか。これについて今日は皆さんと一緒に考えてみたいと思います。

 竹島は一九〇五年に島根県に編入され、一九五四年九月に韓国によって武力占拠されます。したがって、二〇〇四年九月は竹島占拠五十周年の年となります。五十年以上経つと国際法上、自国の領土として主張するのが非常に弱くなります。今日皆さんがお集まりになったことはたぶん新聞報道されるでしょうが、韓国でも報道されればおそらく問題提起ということになります。ぜひ若い方にこの竹島問題に関する勉強を続けていってほしいと思います。

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2、 竹島問題の課題

 竹島問題が解決しない理由は、韓国側との間で対話がまったくないからです。日本側が何か言うとすぐ「妄言」です。なぜ「妄言」という言葉が出るのでしょうか。それは自分たちが絶対に正しいと思っているからです。そういう状況のときに、「返してください」、「歴史的にも私たちのものです」、「国際法的にも私たちのものです」と言っても通用しません。

 一番大きな問題は、長い間、日本側が竹島問題に関してあまりにも関心を持たなかったことにあります。日本側の竹島研究は一九六〇年代で終わっています。ところが、韓国側ではそれ以降もずっと続いています。この対応の差がとても大きいのです。

 一九六〇年代、島根県庁の職員であった田村清三郎さんが書かれた『島根県竹島の新研究』、それを受けて外務省の川上健三先生が書かれた『竹島の歴史地理学的研究』には実は問題があります。それは日本側の史料だけを使っていることです。韓国側の文献を使って反論していない。したがって、韓国側の主張と日本側の主張が合わないわけです。それ以降の韓国側の主張は、すべて日本の歴史研究は間違いである、歪曲であるという視点に立っていますから、日本側がどんなに返せと言っても返すはずがありません。そういう現状を認識しておかなければならないと思います。

 と同時に、歴史研究が行われなかった間に、日本の研究者の間にはすべて韓国の言うことが正しいというような人が出てきました。その人たちは韓国側から言うと「良心的日本人」ということになります。その「良心的日本人」と言われる人たちが書いたものを読んでみると、韓国の人が書いたものをまる写しにしています。「良心的」に写したのかどうか、それはわかりませんが、そういう意味では歴史研究が中断していたことが、竹島問題が解決しない課題の一つです。

 また韓国では、大統領が替わると必ず前の政権が政治的に問題となります。時代が過ぎると前の時代のことをあまりよく見ないわけです。まして日本が植民地支配をした時代をよく言うはずがありません。つまり、悪く言う、だめだった、いけないと言うことによって自分たちの正当性を主張していくのが韓国的発想で、それに対して「良心的日本人」がお手伝いをしているのです。これでは何も知らない人たちは何を信じたらよいか、竹島問題は混迷していかざるを得ません。

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3、 竹島問題の淵源

 こういう状態が五十年も続いています。そういうことを考えていくと、竹島問題はどうしたらいいのか、なぜ起こったのか、これはぜひ隠岐島の皆さんに考えていただきたい。なぜなら、竹島問題の淵源となる三百年前の事件には、隠岐島の方が関係しているからです。

 江戸時代の初めの頃、鳥取藩米子の大谷と村川の二つの家が幕府から許可を得て鬱陵島に漁に行っていました。これはアワビやワカメを取り、材木を切り出すためです。米子の両家は輪番で鬱陵島に渡航する際は、きまって隠岐島の福浦港で風待ちをして出航していました。そして風待ちの間に島前、島後を回り、乗組員の確保をします。当時、鬱陵島には二百石船で渡っていました。乗組員は二十一、二名です。そして、隠岐島でアワビ突きを二、三名、船のこぎ手を六名、計八、九名を連れて行きます。船主は米子ですが、実際にアワビ突き漁をしていたのは皆さんのご先祖なのです。

 事件は、一六九三年に米子の大谷家の船が鬱陵島に渡ったときに起こりました。たまたま前年くらいから朝鮮側からも漁民が来るようになっていて、漁場を争うことになります。鬱陵島に渡ってみると、アワビなどが干されているので、これはいけないというので大谷家の船頭等は、安龍福と朴於屯という二人を連れ帰ってきます。つまり、領海侵犯の現行犯逮捕です。はじめに連れてきたのが福浦です。そして、西郷町から松江藩の役人が来て取り調べをした後、米子に連れて行きます。

 そのとき鳥取藩は幕府に連絡します。幕府はそれを聞いて、朝鮮半島との外交窓口であった対馬藩を通じて朝鮮側に抗議させます。当時の朝鮮の政権は、日本に対してかなり協調的な政権でしたから、これは悪いことをしたとまず謝ります。しかし、そうこうしているうちに朝鮮では政権が替わって、前の政権がやったことは間違っていた、二人は拉致されたんだということになります。当時、鬱陵島は朝鮮からは行ってはいけない島でした。だから、本来この二人は朝鮮側からしても犯罪人だったわけで、朝鮮側で法が守られていたら処罰されていたはずです。ところが、日本の実情を知っているということで送還された後も生かされていきます。これは最近の例では大韓航空機爆破事件の金賢姫という女性のケースと似ています。本来なら犯罪人ですから処罰されるはずですが、そうしません。

 そういったことがあって、安龍福という人物は生かされているわけです。ところが、日本と朝鮮との交渉が難航していきます。それにしびれを切らした彼はついに仲間を誘って密航して隠岐島にやって来ます。そして、鳥取藩には自分でやってきます。なぜ彼は再びやって来たのか。それは、最初に鬱陵島で捕まって隠岐島にやってくる間に、彼は夕方の海上で島を見ていたのです。それも安龍福は鬱陵島と日本の間に「鬱陵島よりすこぶる大きな島」があると証言したのです。しかし、朝鮮では誰もそんなことを信用しない。それが気に入らないので、安龍福はそれを証明するために海を渡って再びやって来るわけです。

 そして帰国後、安龍福は「すこぶる大きな島」を日本の松島(現在の竹島)と証言し、それを朝鮮の于山島と供述するのです。安龍福がこのように竹島を朝鮮の于山島と誤解するのは、初めて鬱陵島に渡った際、島(于山島)を目撃していたからです。安龍福はその島を鬱陵島から船で東北に一日ほどの距離にあると目測していました。そして同行の朝鮮の漁民から教えられた島の名は于山島だったのです。  しかし竹島は鬱陵島よりはるかに小さい島で、鬱陵島の東南に位置しています。ですから、安龍福は実際に竹島を見ていません。見ていないけれども、安龍福はその島は自分たちの島(于山島)に違いないと思い込むわけです。朝鮮半島は三面を海に囲まれていますが、当時は航海術も造船技術も劣っていたので、外洋に出ることはありませんでした。そういう状況ですから日本に連れて行かれる途中のすこぶる大きな島は、鬱陵島の近くにあると錯覚したと思われます。そして、位置関係からしてもそのすこぶる大きな島はたぶん隠岐島のことだと思います(隠岐島の面積は鬱陵島の四・七倍の広さです)。それを自分たちの島、于山島だと思い込んでいたわけです。そして、本国に送還されて、朝鮮側で調べられても、自分の言うことを誰も信用してくれない。そこで証明しようとして再び渡ってきたのが一六九六年です。

 ところが、その前に江戸幕府では、対馬藩の藩主が亡くなって新たな藩主に替わったのを機に、鬱陵島の領有権問題を争うのは日本側が不利だ、文献上(『東国輿地勝覧』の「歴々見える」を朝鮮半島から鬱陵島が「歴々見える」と読み、鬱陵島は朝鮮領と解釈した)もこれは朝鮮のものだから返しましょうと決定しました。そして、一旦この領土問題が解決した後に、朝鮮から安龍福が密航して来て、問題が大きくなってしまうのです。それは安龍福が本国に帰って後、重大な発言をするからです。つまり、日本の松島(今日の竹島)は、朝鮮でいう于山島だと証言するのです。それが朝鮮の『肅宗実録』という編年体の歴史書に記録されることになり、後世に伝えられることになります。

 そして、その安龍福の証言は、さらに一七七〇年に『東国文献備考』に載せられていくことになります。ですが、竹島を朝鮮の于山島とした安龍福の証言は正しくありませんでした。于山島は鬱陵島の東北にありますが、竹島は鬱陵島の東南方向にあります。それに竹島は「すこぶる大きな島」ではありません。しかし、竹島は朝鮮でいう于山島なんだという証言がそのまま官撰の『東国文献備考』に載り、文献として残されていくのです。これが後に韓国側が竹島の領有権を主張する際、根拠のひとつとなっていきます。

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4、 竹島問題の発端

 文献として定着した後、時代が過ぎて明治維新を迎え、日本人がまた朝鮮半島に渡るようになってくる頃、『東国文献備考』を改訂して『増補文献備考』が編まれ、その中でも安龍福は日本をやっつけたということで過大評価されていきます。安龍福は韓国の歴史教科書では英雄として描かれる背景がここにあります。

 そして竹島問題が浮上することになった端緒は、一九〇五年以前から隠岐島の中井養三郎さんという方が、竹島でアシカ漁をしていたことの中にあります。そのとき、アシカ漁をするには領有権がはっきりしていないので、はっきりしてほしいということで、日本政府が調べた結果、竹島は以前にどこの国にも属していないということで島根県隠岐郡に編入することになりました。

 実はアシカ捕りは日本人だけで行ったわけではありません。アシカ漁に行く場合、隠岐島などから行く方法と、鬱陵島から行く方法とがありますが、鬱陵島から行くときはどうしても人夫が必要となります。そこで雇われたのが韓国人です。数社そういう会社があって、韓国人が雇われてやって来て、その前後から韓国側では獨島という呼称が使われはじめます。それ以前は、航海術も十分ではない、船もいい船ではない。したがって韓国の人が竹島に来るはずはなかったわけです。

 そして竹島が日本に編入されたということで、一九〇六年に島根県の方と隠岐島の方総勢四十五名が第二隠岐丸に乗って竹島視察に出かけています。これは、一九〇四年から〇五年にかけては日露戦争があったために外洋に出ることができなかったので、一九〇五年に竹島が隠岐郡に編入されたことを記念して竹島に渡ったのです。竹島は視察したのですが、天候が悪くなったため、隠岐島に帰るか、鬱陵島に行くかということで、鬱陵島に行くことになります。その時に一行の一人が、竹島が日本領になったということを発言したのです。それを聞いた韓国の官吏が、これは大変なことになったということで中央政府に報告することになります。その時から、竹島は日本に奪われたという歴史理解が韓国側に出来あがるのです。

 それが時代がずっと下って、先ほど述べたようにサンフランシスコ講和条約の中でまた問題化されて、そして韓国側としては竹島を死守したい、つまり奪われたものだから死守するということで結局韓国に編入してしまって、武力によって占拠していくことに繋がっていくのです。それが一九五四年九月です。そして日本側は、外務省等が一生懸命に調査したり、本に書いたりしたのですが、それも途中で終わってしまいました。以降、日本側はずっと沈黙していました。

 というのは、日本側が領有権を主張して、日本側の文献を根拠に抗議しても韓国側は一蹴してしまうからです。韓国側と論争する場合には、日本側の文献だけで論争ができますか。そうではないですね。外交交渉をする場合は、自己主張するだけでなく、相手側の欠陥を見つけだすことです。

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5、 韓国側の竹島領有権主張の論拠

 韓国側が主張しているものがどういうものかというと、まず『増補文献備考』の註に「于山島は倭の所謂松島(今日の竹島)なり」と書いてあるのがまずひとつの論拠です。しかし、これは安龍福の証言から七、八十年後に書かれたもので、于山島を竹島とする文献は安龍福の証言以前にはありません。そして、もうひとつがその『東国文献備考』を根拠に、『東国輿地勝覧』と『世宗実録地理誌』の中に于山島という島の名前を見つけ、これを獨島だと主張するものです。ところが、その時に『東国輿地勝覧』の「歴々見える」(20ページ参照)をどう読んだか。十七世紀末、日本と朝鮮の間で鬱陵島の領有権を争った際、朝鮮政府は、朝鮮半島から鬱陵島が見えると解釈して、鬱陵島の領有権を主張する根拠としていましたが、竹島問題が起こると韓国政府はそれを鬱陵島から竹島が見えると読んだわけです。

 おかしくないでしょうか。同じ文献が竹島と鬱陵島という全く違う島の領有権を主張する論拠にされてしまっているのです。この事実は、韓国側が領有権を主張する際に使った文献には歴史的根拠がまったくなかったということなのです。ただ、安龍福が于山島は松島だと言っただけのことです。それが文献に残っているから、于山島とあれば全部それにつなげていくんです。だから、韓国側は地図に于山島とあれば、それは全部竹島だという言い方をしてきたわけです。

 この「歴々見える」は本来どう読むべきか。中央集権国家であった朝鮮半島では中央が地方を支配していますから、地方がどのようになっていたのか地誌の中で知っておく必要があります。その際、鬱陵島のような島は、中央を中心として線を書いて、管轄する地方官庁から見える位置と方向が明記されているのです。そう書かれているので、「歴々見える」というのは鬱陵島から竹島が見えると解釈するのは正しくありません。鬱陵島の場合は、島を管轄する蔚珍県から「歴々見える」と解釈しないといけないのです。そういう意味では韓国側が文献を正確に読んでいないということです。

 では、なぜそうなったのか。それは安龍福という人物が言ったことが改ざんされていたからです。それを韓国側は気づきませんでした。日本の学者もまったく気づいていませんでした。そういうことを一九九六年四月に私は韓国の雑誌に投稿したのです。「竹島が韓国領であるという根拠は歪曲している」というタイトルですが、韓国でこういうことを書くのはちょっとこわいです。しかし、載せてくれます。ということは、韓国側は日本側が主張すれば乗ってくるということです。韓国にはそういう人たちがいるんです。ですから、我々はこういう会をここでやるのではなくて、ソウルでやってもいいですね。そのくらいの気持ちがないとこの問題はなかなか解決しないのではないかと思います。

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6、 竹島問題の弊害

 九六年に竹島で接岸施設の建設をはじめた後、韓国側では自分たちの実効支配を確実にするために、有人灯台をつくったり、戸籍や郵便番号をつくったり、国立公園化をしようとしました。それからもうひとつ、「日本海」をやめて「東海」にせよという主張をしました。つまり、日本海の中に獨島があるというのは、日本の領海にあるようでよくないから、韓国側の名前に改めよというのです。これも歴史的に見るとまったく嘘です。東海というのは、日本でいう東海道と同じです。東の海です。そういう意味でいうと、隠岐島の人たちが日本海を何と呼んでいたかというと、「北海」です。「東海」もそれと同じようなレベルです。それに対して、日本の新聞には事実だけを報道して、真実を報道していないものもありました。なぜそういう問題が起こっているかという報道ではありませんでした。このようなところにも竹島問題が解決できない理由が潜んでいます。

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7、 今日的課題

 そういうことを考えていくと、他の誰にも頼ることができません。一番大きな問題は、竹島だけではなくて、大和堆(大陸棚)です。日本海の中で一番大きな漁場です。これが乱獲の海のままでいいのかどうか。韓国にも皆さんと同じように漁業に生活をかけている漁民がいます。だから、お互いに仲良く漁場として使えるように、むしろ魚を増やす方向で環境問題を語っていくような場の中で竹島問題を捉えていくことがあってもよいのではないでしょうか。

 そういうことを考えると、ただいたずらに返せと言ってもなかなかうまくいきません。そういう意味では、我々自身が人材を育成するという意味で地域研究を深めていく必要があります。しかし、地域研究ということで東北アジア、北東アジアという言い方をすると、どうも経済的、あるいは政治的な問題だけを捉えてしまいますが、本来は歴史的な問題を踏まえていかないと、特に朝鮮半島との問題はなかなか解決ができません。実際、拓殖大学には国際開発学部ができましたが、実は日本で東洋学、東洋史の原点である満鮮史研究が始まったのは拓殖大学の周辺からです。その中で百年を記念してつくられたのが国際開発学部です。過去への取り組みは今、始まったばかりです。

 隠岐島の皆さん、そして、島根県、鳥取県、あるいは福井県、石川県の皆さんは全て大和堆に関係があります。そういう人たちが連帯して勉強していくような組織をつくらないと、隠岐島だけで騒いでもどうにもなりません。先ほど知事さんともちょっとお話ししたのですが、そういう席に今度は韓国の学生さんも呼んだらどうでしょうか。チャーター便で竹島を見てこちらに来ていただいて、できれば日本海の沿岸を歩いてもらい、いっぱい落ちているゴミがどこのゴミなのか見てもらう。そして、ゴミを一緒に拾ってもらうんです。そうやって環境問題を考えながら、日本海がこれでいいのか、そして最後に島はこれでいいのかというような、子供たちがもう一度冷静になる時間をつくり、その中で交流などを考えていく必要があります。それから、隠岐の小学生、中学生、高校生の皆さんには、今言ったような歴史の背後にあるものをぜひ勉強していただきたいと思います。そういうものがあれば、日本の政府もたぶん動けるでしょうし、政治に携わっておられる方も動けるでしょう。政治家の方だけが動くと「妄言」ということでつぶされてしまいます。それを「妄言」にしないためには、この隠岐島、特に五箇村が中心になっていかないと、竹島問題の解決はなかなか難しいのではないかと考えます。

 韓国はこちらが主張すると応えてくれるところです。その問題が解決できると、これからの日朝国交正常化交渉も少し楽になってきます。五十年前に韓国側が日韓の国交正常化交渉で日本の侵略的性格を強調する外交カードとして竹島カードを使いましたが、韓国側の竹島占拠の歴史的根拠が事実無根であったことが実証できれば、従来のように歴史問題を出して日本をけん制することが難しくなります。

 それは五十年間にわたり竹島の占拠を続ける韓国側の歴史認識が問題にされるからです。今日、北朝鮮は歴史問題では韓国側に同調し、拉致問題などで日本政府の外交攻勢をかわす際にも、過去の歴史を取り上げ、過去は日本封じ込めの常套手段となっています。

 ですが過去の歴史問題は、竹島問題に象徴されるように、再検討すべきことが多いのです。この時、竹島問題をきっかけに日韓の誤解を解き、相互理解を深めていければ、ともに北朝鮮に向かうことも可能です。その突破口となれるのは島根県であるし、隠岐島の皆さんだと思います。そういう意味で、竹島問題は一部地域の問題ではなくて、日本全体の問題として認識していくことができるのではないかと思います。


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[89]下條氏の複雑方程式と半月城氏に...
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 ピッポ E-MAIL  - 05/3/31(木) 3:47 -

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   下條氏は、日本側の歴史文献をいくら主張してもダメだ。韓国側の歴史文献を研究して、韓国側の論理の粗を探さなければならない、といって、竹島奪還運動の旗手になりました。

しかし、どうやら下條氏は韓国側の史書、王朝文献を見くびっていたようです。ストレートに読んだのでは、それぞれの文献そのもの欠陥が指摘できないので、いくつもの文献の間でとても複雑な連立複次方程式をたてたようです。

連立方程式の目的は、鬱陵島と獨島=竹島の二島は対ではない、韓国は竹島を知らずに、1906年を迎えた、ということです。1906年の竹島領有が、無宿地の領有として国際法的に認められるための有利な一線だからです。

しかし、その方程式は、簡単な足し引き算で答えを出さなければならないものを、無理やり複雑系に持ち込むものですから、あまり効果的ではないようです。

とくに下條氏の論理は、最近のネットウヨク的感情、すなわち「韓国人は感情的だ遅れた民族だ」という民族蔑視に寄りかかったものですから、韓国側に理解者を生むということにはなかなかならないようです。

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下条氏の連立方程式は、下条氏が勝手に立てた前提がいくつにも絡み合って、複雑に仕立てられます。著書を読んでも判りますし、下条理論を代弁しているサイトを読んでも、良く判ります。
Toron Talker 竹島(独島)メモ
http://toron.pepper.jp/jp/take/index.html

複雑系の破綻が理解できたのは、
このサイトと、半月城さんの論考を読み比べてわかったことでした。
このサイトは、韓国側史料を参照する上でも役立ちます。

韓国の古い歴史研究は逆効果、もうヤメだ、という声が国益論者の中からも起こってきました。http://www.ch-sakura.jp/bbs_thread.php?ID=135731&GENRE=sougou

史料を恣意的に読んでいって、それがうまくいきそうにないと、史料の方が悪いんだ、と言い出す。「南京事件は無かった論」で駆使した歴史修正主義的手法は、ここではあまり効果がないようです。

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下條正男氏への批判、朝鮮史書改ざん説
2004/11/14
Yahoo!掲示板「竹島」#6098
http://www.han.org/a/half-moon/hm107.html#No.785

半月城です。

下條正男氏に対する批判を継続します。今回は同氏の主張する「ある朝鮮史書の改ざん」をとりあげます。「ある朝鮮史書」とは、英祖の命により編纂された百科全書風の文献である『東国文献備考』の「輿地考」をさします。

その史料が正しければ、そこに引用された『輿地志』逸文によると、朝鮮は日本の史書より先に于山島とされる松島(竹島=独島)を認識していたことになります。そのためか、この「輿地考」と『輿地志』(1656)の検討は同氏にとって非常に重要なポイントになるようです。

ここでいう日本の史書とは『隠州視聴合記』をさしますが、実際のところ、朝鮮の史書が竹島=独島を認識したのはその史書より前であろうと後であろうと領有権論争にはほとんど影響しません。

というのも、下記に書いたように『隠州視聴合記』の記述をみると、日本の限界は松島や竹島ではなく隠州であり、竹島(鬱陵島)は朱印船がいくような外国の島であると認識されていたので、この史料は領有権論争に影響しないからです。
<下條正男氏への批判、『隠州視聴合紀』>

しかし『隠州視聴合記』(1767)こそが竹島=独島を歴史的に日本領とする不動の史料と誤解している下條氏にとっては、同書以前に竹島=独島を認識していた『輿地志』が存在したとなると、どうやら都合が悪いようです。

現在『輿地志』は伝わらず、引用文が『東国文献備考』と『疆界考』の二書に残されました。『疆界考』は、朝鮮歴代国家の領域を中心に記述した書ですが、両者とも申景濬が編纂しました。しかし、両書では輿地志からの引用の仕方が下記のように微妙にことなっています。

(1)『東国文献備考』「輿地考」(1770)「輿地志がいうには 鬱陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島なり(注1)」

(2)『疆界考』(1756)「按ずるに 輿地志がいうには 一説に于山 鬱陵は 本一島 しかるに諸図志を考えるに二島なり 一つはすなわちいわゆる松島にして けだし二島ともにこれ于山国なり(注2)」

引用の体裁ですが、(1)は上記の一節だけを特に小さな字で、(2)は上記の一節のみを段落を変えて記しました。いずれも、上記の部分は特に他と区別されて記述されました。
つぎに内容ですが、表現はちがっても内容はほとんど同じとみられ、申景濬は『輿地志』の解釈として于山島は日本の松島であり、于山国に属するとしました。ところがこれに異をとなえたのが、くだんの下條正男氏でした。
同氏は『疆界考』における『輿地志』からの引用は「一説に于山 鬱陵 本一島」の部分のみで、それに続く「しかるに・・・」以下の部分は著者である申景濬の考察であると主張して『疆界考』をこう読みくだしました。

<按ずるに、「輿地志に云う、一説に于山 鬱陵 本一島」。而るに諸図志を考えるに二島なり。一つは則ち其の所謂 松島にして、蓋し二島ともに于山国なり(注3,P101)>

同氏によれば、『疆界考』において于山島が松島であると考察した者は申景濬であり、それを『東国文献備考』ではさも『輿地志』からの引用であるかのように書いたのであり、これは『輿地志』の改ざんであると断言しました。
しかし、そもそもある事柄を同じ著者がある本では他書からの引用とし、別の本では自説として書くなんてありうるでしょうか? これは、下記のように自説をしばしば変える下條氏ならでは発想といえるかもしれません。
<下條正男氏への批判、勅令41号>


また、よしんばそうであったとしても『疆界考』における引用が単に「輿地志に云う、一説に于山 鬱陵 本一島」だけで終わるというのは、文脈上あまりにも不自然です。そもそも朝鮮史書で「一説」を持ちだすときは「本説」がともなうものであり、『世宗実録』など過去の文献でも本説と一説がともに書かれていました。

その場合、著者はもちろん本説を採用し、一説を正しくないと考えています。たとえば、1481年に成立した『東国輿地勝覧』を例にとりあげます。そこに于山島はこう書かれました。

「蔚珍縣 于山島、鬱陵島一に武陵という。一に羽陵という。二島は県の真東の海中にある・・・一説によると于山、鬱陵島は本来一島という」
<『東国輿地勝覧』と于山島> 

下條流でこの文献から「一説によると于山、鬱陵島は本来一島という」という部分だけ切りだせば、『東国文献備考』は一島説を採用したことになりかねません。しかし真実は、『東国文献備考』は見出しにあるように二島説を本説に採用し、付属の地図にも二島を描き、一説である一島説を排除しました。

これと同様に『輿地志』で「一説に于山 鬱陵 本一島」と書かれたのなら、その著者は一説を正しくないとみて、于山、鬱陵島を別々の島とする二島説を本説と考えていたとみるべきです。それが『輿地志』に反映されたと考えるのが妥当です。
したがって「しかるに諸図志を考えるに二島なり」と考えたのは『輿地志』の著者である柳馨遠であり、申景濬はそれを追認したにすぎません。同じく「于山はすなわち倭がいうところの松島なり」との一節も同様です。

こうした検証からすると、下條氏の下記「改ざん説」は成り立たないことはいうまでもありません。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
柳馨遠の『輿地志』の「一説に于山鬱陵 本一島」という文章は、まず申景濬の『疆界考』の按記で、于山島と鬱陵島が別々の島であることを主張するための材料として引用され、さらに「輿地考」の文中で洪啓禧の手が加わって、「輿地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂 松島なり」という形に改竄されていたのである(注3,P102)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

結局、この文章もまさに同氏のいう「我田引水的 文献解釈」のひとつとみられます。
以上の考察から、于山島と鬱陵島は別々の島で、于山島は日本でいう松島(竹島=独島)であるという認識は『輿地志』が書かれた1656年にはすでに成立していました。
この認識は、1432年の『世宗実録』地理志における下記の記述を継承、具体化したものといえます。
「于山、武陵二島は県の東の海中にある。二島はお互いに相去ること遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。新羅の時、于山国と称した。一に鬱陵島ともいう。
その地の大きさは百里(40km)である」
<『世宗実録』と于山島>

前回書いた安龍福は、于山島は松島(竹島=独島)であるという認識をどの時点でもったのかは不明ですが、かれは 1696年に日本へ乗り込んだとき、こう語りました。
「松島はすなわち于山島、これまた我国の地」
かれの渡日やその後の活動により、朝鮮で于山島=松島という認識はその後も一層強まり、『東国文献備考』や『萬機要覧』『増補文献備考』などの官撰史料で于山島は着実に朝鮮領と認識されました。また、日本でも朝鮮と同じ認識が確実になったのですが、これはすでに下記に書いたとおりです。
<江戸時代の「竹島一件」>


(注1)申景濬『増補文献備考』巻之三十一「輿地考十九」蔚珍古縣浦条「輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」
(注2)申景濬『旅菴全書』巻之七、「疆界考」十二、鬱陵島「按 輿地志云 一説于山鬱陵本一島 而考諸圖志二島也 一則其所謂松島 而蓋二島倶是于山國也」
(原文には句読点やスペースなどは一切ありません)(注3)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文藝新書,2004

http://www.han.org/a/half-moon/hm107.html#No.785

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

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下條正男氏への批判、竹島=独島放棄2004/12/ 5Yahoo!掲示板「竹島」#6152
http://www.han.org/a/half-moon/hm107.html#No.786


半月城です。
下條正男氏に対する批判を継続します。今回は、明治政府が松島(竹島=独島)を放棄した問題をとりあげます。

1877年、明治時代の最高国家機関たる太政官は、「竹島外一島」は本邦に関係なしと
心得るべきという指令を発し、竹島(鬱陵島)と松島(竹島=独島)を放棄しましたが(注1)、下條氏はどうしてもこれに承服できないとみえてこう記しました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
この太政官による審査は、十分とはいえなかった。「竹島外一島」の「一島」が、今日の竹島を指すのかそうでないのか、判然としないからである(注2)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

このように下條氏は「一島」がどこを指すのか判然としないと書きましたが、そんなことはありません。関係書類で「一島」は明確になっています。下條氏はその関係書類を恣意的に無視しているようです。
関係書類ですが、島根県が内務省へ提出した「日本海内 竹島外一島 地籍編纂方伺」
(「島根伺い」と略す)に、「現在まで古書や古い書状が伝えられていますので、別紙のように由来の概略や図面をそえ、とりあえず申しあげます」と書かれ、詳細な資料が添えられていることが記述されました(注3)。

その添付書類のひとつに「由来の概略」があります。この書類で「一島」がどこを指すのかが明らかになっています。
ところが、下條氏は「島根伺い」の存在にはふれても、領有権問題のキーになる重要な「由来の概略」、原文でいう別紙「原由の大略」についてはまったく無視しているようです。これも同氏のいう「我田引水的 文献解釈」ではないでしょうか。

下條氏が意識的に避けていると思われる「由来の概略」には何が書かれているのか、それについてはすでに書いたとおりなので、ここでは核心になる部分の口語訳を引用します。

「磯竹島、あるいは竹島と称する。隠岐国の北西120里(480km)ばかりのところにある。周囲およそ10里(40km)である。山は峻険で平地はすくない。川は3条ある。また滝がある。しかし、谷は深くうっそうと樹木や竹が繁り、水源を知ることはできない。
・・・次に一島あり。松島と呼ぶ。周囲30町(3.3km)である。竹島と同じ船路にある。隠岐をへだてる80里(320km)ばかりである。樹木や竹は稀である。また、魚や獣(アシカか)を産する(注4)」

この文に記載された松島、竹島の位置関係を整理すると下記のようになります。
隠岐 ー(80里)ー 松島 ー(40里)ー 竹島ここに記載された島同士の距離は、欧米の地図に影響されていない江戸時代の松島、竹島を記した他の史料ともよく合致します。また、島同士の相対的な距離関係や島の大きさや様子などが現在の竹島=独島および鬱陵島に大筋で合致するし、隠岐の沖合に上記の距離くらい隔たった島は明らかに鬱陵島と竹島=独島の二島しか存在しません。
したがって「島根伺い」で「外一島」と記載された松島は現在の竹島=独島をさしていることは疑いありません。これは「竹島日本領派」の塚本孝氏すら認めました。同氏はこう記しました。

「この“竹島”は鬱陵島のことであり“ほか一島”は同じく江戸時代に渡海した松島すなわち今日の竹島のことである(注5)」

ところが、下條氏は肝腎かなめの「島根伺い」の内容には目もくれず、例の「我田引水的 文献解釈」をもちだしてか、「一島」を松島(竹島=独島)と解釈しない理由をこう書きました。
<もしその「一島」が今日の竹島だったとすれば、「本邦関係これ無き」というはずがない。佐田白茅の報告を考察した際と同じ議論で、今日の竹島を日本領とする「書留」がすでにいくつもあったからである(注2)>

下條氏は「一島」が今日の竹島=独島かどうかを検討するのに、本丸である「一島」
を説明した「島根伺い」の関連文書を吟味するのではなく、かわりに三の丸あたりをこね回し、松島(竹島=独島)を日本領とする「書留」があるから太政官は「本邦関係これ無き」というはずがないとしました。その論法には唖然とせざるをえません。
それでも一応は下條氏の考えを聞いてみることにします。同氏は、松島(竹島=独島)を日本領とする「書留」として三つの資料を持ちだしました。
(1)『隠州視聴合紀』
(2)『竹島図説』
(3)『長生竹島記』

しかし、これらの文献は、松島(竹島=独島)を日本領とするにはほど遠い史料であることはすでに論破したとおりです(注6)。したがって、それらの「書留」がなんら根拠とならないことがはっきりした以上、下條氏の説は砂上の楼閣のように土台からくずれさるしかありません。
さらにつけ加えるなら「一島」を不明とする下條氏は、それなら「一島」はどこかという点にはまったくふれませんでした。それは竹島=独島以外に候補が考えられないので、安易にほかの島に比定するのが困難だったようです。

(注1)半月城通信<明治政府の竹島=独島放棄>(注2)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春新書、2004,P123(注3)半月城通信<島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(1)>(注4)半月城通信<島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(2)>(注5)塚本孝「竹島領有権問題の経緯」『調査と情報』第289号,1996,P5(注6)半月城通信<竹島=独島「日本の固有領土」説の検証>

http://www.han.org/a/half-moon/hm107.html#No.786

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国際司法裁判所への誤解2004/12/12Yahoo!掲示板「竹島」#6387
http://www.han.org/a/half-moon/hm107.html#No.787


半月城です。

Re:6333
>だから、日本政府は国際裁判所で白黒付けようと言うんでしょう。

ちょっと待ってください。現在、日本政府は竹島=独島問題を国際司法裁判所に提訴していると誤解している人が多いようですが、これは明らかな間違いです。
意外に思われるかもしれませんが、過去 50年間、「日本政府は国際裁判所で白黒付けよう」として動いたことは一度もありませんでした。ちなみに裁判に関して、外務省のホームページは下記のように書いています。

>(注2:1954年(昭和29年)9月、我が国は本件問題につき国際司法裁判所に提訴することを提案したが、韓国側は右提案を拒否。なお、日韓両国間では国交正常化の際に「紛争の解決に関する交換公文」を締結。)

このように、国際司法裁判に関する話は 50年以上も昔の話です。当時、日本政府は国際司法裁判所で勝てるかもしれないと本気で思いこんでいたようです。それというのも、韓国政府側に反論に必要な日本の史料がほとんどなかったので弱かったのと、竹島=独島をめぐる多くの真実がまだ公になっていない段階だったので、日本政府はよほど自信があったようです。
しかし、もし現段階で国際司法裁判で審議されるとなると、一番困るのは日本の外務省ではないでしょうか。それは外務省の情報隠しが満天下にさらされるためです。
たとえば、明治政府が竹島=独島を朝鮮との関係で放棄した事実です(注1)。あるいは「松島(竹島=独島)渡海免許」が存在しないという事実です(注2)。これらは、国立国会図書館の塚本孝氏のように、竹島=独島を日本領と考える日本の学者すら認めている事実です(注3)。

また、外務省が日本領の有力な根拠としてきた『隠州視聴合紀』は、実は逆に不利な材料になってしまい(注4)、「固有領土」の主張が根底から危うくなりました。それに追い打ちをかけるように、1905年の領土編入でも日本政府は竹島=独島を「無主地」と断定して「領土編入」したのであり、決して「固有領土」とは考えてはいなかったことも明らかになりました(注5)。
さらに元禄期の「竹島一件」の時、江戸幕府は松島(竹島=独島)の存在すら知らなかった事実も今では明らかになっています(注6)。こうした経緯からして、どうみても裁判で日本に勝ち目は薄いとみられます。そのためか、最近の竹島=独島が関係する日韓交渉、たとえば海洋法条約関連などで国際司法裁判所の件はおくびにも話題になりませんでした。

今や、情報隠しやウソまみれの外務省にとって、裁判は最も避けたい解決手段ではないでしょうか。もし、外務省に自信があるのなら、北方領土問題のようにしっかりした冊子ないしは資料集をつくっているはずと思われますが、現状はごく簡単なホームページのみでお茶をにごしているようです。
将来、もし外務省の本格的な資料集が出たら、そこで明治政府の竹島=独島放棄をどう記述するのか、その時を私は楽しみにしています。

(注1)半月城通信<明治時代における松島、竹島放棄>(注2)半月城通信<「松島(竹島=独島)渡海免許」>(注3)半月城通信<「竹島日本領派」の松島(竹島=独島)放棄への対応>(注4)半月城通信<下條正男氏への批判、『隠州視聴合紀』>(注5)半月城通信<竹島=独島の領土編入>(注6)半月城通信<竹島=独島と鳥取藩池田家文書>

http://www.han.org/a/half-moon/hm107.html#No.787
============================以上

[管理人一回修正:改行]
171 hits

[90]訂正です
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 ピッポ E-MAIL  - 05/3/31(木) 4:12 -

引用なし
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   訂正です(赤字部分)

> 連立方程式の目的は、鬱陵島と獨島=竹島の二島は対ではない、韓国は竹島を知らずに1906年を迎えた、ということです。1906年の竹島領有が、無宿地の領有として国際法的に認められるための有利な一線だからです

・・・韓国は竹島を知らずに1905年を迎えたことにすることです。1905年の竹島領有が、無主地の領有として・・・

です。
171 hits

[91]Re(1):「週刊新潮の竹島=独島記...
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 ある書き込み E-MAIL  - 05/3/31(木) 10:42 -

引用なし
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   >明治政府の「竹島=独島」放棄
>
>  日本では「竹島一件」の結果は、明治時代になって再確認されました。内務省から鬱陵島と竹島=独島の取り扱い伺が出されたとき、国家の最高機関たる太政官は、竹島外一島、すなわち鬱陵島と竹島=独島は本邦に関係なしとする指令を1877年(明治10)に通達しました(注9)。このとき、明治政府は竹島=独島を放棄したことになります。
>  こうした竹島=独島の認識は内務省や太政官のみならず、外務省でも同様でした。外国の誤った地図の影響で外務省内に松島・竹島について島名の混乱が起きたとき、公信局長の田辺太一は、松島が于山島であると正しく理解して下記のように記しました。
>
> 「聞ク松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ 其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ 蔚陵島ノ朝鮮ニ属スルハ旧政府ノ時一葛藤ヲ生シ 文書往復ノ末 永ク証テ我有トセサルヲ約シ載テ両国ノ史ニ在リ」

当時の竹島は明治政府当局には「リャンコ島」とみなされており、
松島は鬱陵島付近にある島嶼とみなされております。

>日露戦争と「無主地」竹島の領土編入
>
>  このように明治政府の関連機関は、竹島=独島は朝鮮領であると認識していましたが、日露戦争が起きるや、帝国主義的施策が台頭しました。戦争でロシアの艦隊を監視するため、竹島=独島に軍事目的の望楼を建てる必要が生じたからでした。
>  政府は、漁師・中井養三郎から出された「リヤンコ島(竹島=独島)貸下願」を機に、竹島=独島を「無主地」であるとこじつけ、閣議で同島を竹島と命名し、ついに領土編入を決定しました。
>
>  この時、朝鮮との事前協議など一切なく、また官報による公示もなく、こっそり行われました。公表は島根県告示という形をとりました。これでは、朝鮮が気づくのはとうてい無理なのはいうまでもありません。

鬱陵島郡守は独島(=「リャンコ島」)が鬱陵島郡所属である意見をもっていましたが、
これを駐日大韓帝国代表が1905年より前に
日本政府や日本漁民に公言したり発表したことは
ありませんでした。大韓帝国政府も1905年より前にそれを
駐韓日本代表に述べることもありませんでした。
 日本政府が韓国側に「リャンコ島」(韓国名独島)を日本領だということも
ありませんでした。
 すなわちお互いに公に相手に「リャンコ島」を自国領だという意見を述べることが
なかったことが今日の日韓竹島紛糾のもとになったものと思われます。

>

> 『週刊新潮』(05.3.31)P33
>
>この(田村氏の)労作には日本が竹島=独島の領有に関し、国際法の要求する先占の要件を満たしていることが詳細に記載されているのだ。

>

>  当時の国際法は「万国公法」と呼ばれ、帝国主義国家間の植民地獲得競争におけるルールが基本であり、侵略戦争が公然と認められているなど理不尽なものでした。そうした「狼どもの国際法」にたとえ適合していても、それは時には不当なものであり、いずれ清算されなければなりません。
>
>固有の領土という主張はあとづけ
>
>  竹島の場合、たとえそうした「狼どもの国際法」に照らしても、竹島=独島の領土編入は適法ではありません。慣習法である万国公法では領土先占の要件として、その地が「無主地」であることが必要条件ですが、竹島=独島の場合、日本政府は朝鮮領であることを知りながら、強いて「無主地」であると強弁して領土編入しました。これは「狼どもの国際法」に照らしてすら違法な略奪といえます。

当時の明治政府に「リャンコ島」が「朝鮮領」「韓国領」だという意識はありません。
145 hits

[92]Re(2):「週刊新潮の竹島=独島記...
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 ピッポ E-MAIL  - 05/3/31(木) 11:03 -

引用なし
パスワード
   ▼ある書き込みさん:
>鬱陵島郡守は独島(=「リャンコ島」)が鬱陵島郡所属である意見をもっていましたが、
>これを駐日大韓帝国代表が1905年より前に
>日本政府や日本漁民に公言したり発表したことは
>ありませんでした。大韓帝国政府も1905年より前にそれを
>駐韓日本代表に述べることもありませんでした。
> 日本政府が韓国側に「リャンコ島」(韓国名独島)を日本領だということも
>ありませんでした。
> すなわちお互いに公に相手に「リャンコ島」を自国領だという意見を述べることが
>なかったことが今日の日韓竹島紛糾のもとになったものと思われます。


ということは、下記の日本政府外務省見解は間違いということですね。

1.我が国の一貫した立場 (1) 竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国際法上も明らかに我が国固有の領土である。

(中略)

(ロ) 江戸時代の初期(1618年)、伯耆藩の大谷、村川両家が幕府から鬱陵島を拝領して渡海免許を受け、毎年、同島に赴いて漁業を行い、アワビを幕府に献上していたが、竹島は鬱陵島渡航への寄港地、漁労地として利用されていた。また、遅くとも1661年には、両家は幕府から竹島を拝領していた。

渡海免許≠拝領。でこれは、

(ハ) 1696年、鬱陵島周辺の漁業を巡る日韓間の交渉の結果、幕府は鬱陵島への渡航を禁じたが(「竹島一件」)、竹島への渡航は禁じなかった。

ただ attention が無かっただけのこと。

そうして日本政府は、韓国が固有の領土を主張するから、対抗上我が国固有の領土と言っているに過ぎない。

匿名氏さん、
そう理解してよろしいのでしょうか?
145 hits

[98]Re(3):「週刊新潮の竹島=独島記...
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 書き込M E-MAIL  - 05/3/31(木) 14:07 -

引用なし
パスワード
   >ということは、下記の日本政府外務省見解は間違いということですね。
>

>1.我が国の一貫した立場 (1) 竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国際法上も明らかに我が国固有の領土である。

>そうして日本政府は、韓国が固有の領土を主張するから、対抗上我が国固有の領土と言っているに過ぎない。
>
>匿名氏さん、
>そう理解してよろしいのでしょうか?

歴史的事実はともかく
国際法上のわが国固有の領土とは、サンフランシスコ講和条約に規定された
日本が放棄する地域、島嶼を除くカイロ宣言に規定された日本領をいいます。

150 hits

[100]Re(4):「週刊新潮の竹島=独島...
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 とほほ E-MAILWEB  - 05/3/31(木) 14:21 -

引用なし
パスワード
   ▼書き込Mさん:
>歴史的事実はともかく
>国際法上のわが国固有の領土とは、サンフランシスコ講和条約に規定された
>日本が放棄する地域、島嶼を除くカイロ宣言に規定された日本領をいいます。

じゃー、北方領土は諦めるのね?
181 hits

[145]Re(1):竹島=独島問題、櫻井よ...
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 ピッポ E-MAIL  - 05/4/8(金) 5:06 -

引用なし
パスワード
   [AML 1044] 竹島=独島問題、櫻井よしこ氏を批判する

  半月城です。

  櫻井よしこ氏が<「竹島」領有権を検証する>と題して週刊新潮に記事を書いて
いますので、この記事が妥当なのかどうか検証したいと思います。

  記事を具体的に見る前の準備として、重要な朝鮮の古文書をみておきたいと思い
ます。江戸時代、今日の竹島=独島は日本で松島、鬱陵島は竹島と呼ばれていました
が、松島は朝鮮でいう于山島であり、朝鮮領とする重大な記述が朝鮮の史書『東国文
献備考』輿地考にあります。
  この史書は1770年、朝鮮の文物や制度を集大成した類書として刊行された官撰書
ですが、この書の一分類である「輿地考」に于山島がこう記されました。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
『東国文献備考』「輿地考」(1770)
 于山島 鬱陵島
  東350里に在り 鬱は一に蔚と作る ・・・
  輿地志がいうには 鬱陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの
松島なり(注1)
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  このように「輿地考」は『輿地志』の記述を引用して、于山島が日本の松島(竹
島=独島)であると記録し、朝鮮の領有意識を示しました。さらに、この書は1908年
に『増補文献備考』として増訂されたので、朝鮮では于山島は朝鮮領で日本でいう松
島という認識が百数十年後にも再確認されたことになります。
  こうした『東国文献備考』の記述は、日本にとってきわめて不利な書であるだけ
に、それを必死でほじくり返したのが下條正男氏でした。また、その下條説を無批判
に採用したのが櫻井よしこ氏で、問題の『週刊新潮』(05.04.07)にこう記しました。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
改竄された歴史書
  問題はこの文献(『東国文献備考』)に登場する于山島が、本当に日本の松島、
つまり現在の竹島なのかである。結論から言えば、于山島は竹島ではなかった。下條
教授が説明した。
 「韓国側の主張の根拠、東国文献備考に引用されている『輿地志』はすでに存在し
ません。当然、輿地志の記述が本当にそのようになっているのか否かは確認できませ
ん。
  そこで輿地考の底本である『疆界考(きょうかいこう)』を検証しました。する
とそこには<輿地志>に云う。一説に于山鬱陵本一島>と書かれています。つまり于
山島も鬱陵島も同じ島だと書かれているわけです。
  重要なのは、この記述の跡に疆界考を著した人物の所見として、<而(しか)る
に諸図志を考えるに、二島なり。一つは則ち基(其の誤り、半月城注)の所謂(いわ
ゆる)松島にして、蓋(けだ)し二島ともに于山国なり>と書かれていることです。
  元々の輿地志には于山島が松島であり、日本の竹島であるとは一切書かれていな
かった。のみならず、于山島は鬱陵島のことだと記されていた。にもかかわらず、18
世紀に著された疆界考の解説の中で于山島は松島だという主張が作られていったので
す。それが『輿地考』で更に改竄されたのです」
  つまり、512年から竹島は朝鮮領だったという主張は成り立たないのだ。韓国側
の主張する最も古い歴史的根拠が改竄によるものだったと、文献を示して証明したの
は下條教授が初めてである。事実に沿って検証するという意味で日韓両国にとって非
常に意味深い。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  ここでまず問題なのは、下條正男氏の改ざん説が妥当かどうかです。同氏は、
『輿地志』は単に「一説に于山鬱陵本一島」とし、『疆界考』の著者である申景濬が
<而るに諸図志を考えるに、二島なり。一つは則ち其の所謂 松島にして、蓋し二島
ともに于山国なり>と考察したと記しましたが、結論からいえば、これは下條氏の我
田引水と思われます。
  正しくは、<しかるに諸図志を考えるに・・・>と考察したのは『輿地志』であ
り、改ざんなどはなかったと考えられます。その理由は下記に書いたとおりです。

 <下條正男氏への批判、朝鮮史書改ざん説>
http://www.han.org/a/half-moon/hm107.html#No.785

  その一方で、百歩譲って下條氏のいう改ざん説が正しい場合も考えておきたいと
思います。この場合『輿地志』の著者である柳馨遠は于山島と鬱陵島は同一の島と考
えたが、『疆界考』の著者である申景濬はそれを明確に否定し、諸図志を考察して、
鬱陵島と于山島は別々の島であり、于山島は日本でいう松島であったという解釈にな
ります。
  この場合、申景濬は自己の考えを『輿地志』の記述であるかのようにいつわって
までも『東国文献備考』に記述したことになります。すなわち、それほどに于山島は
松島であるという確信を強くもっていたことになります。その裏づけには「諸図志」
がひかえている構図になります。

  そうなると、下條氏や櫻井氏がいうように『輿地志』では于山島=松島という認
識が成立しないので、たしかに「512年から竹島は朝鮮領だったという主張は成り立
たないのだ」ということになります。
  しかし、その一方で朝鮮ではすくなくとも 1770年の官撰書『東国文献備考』で
は、引用の善し悪しは別にして、「于山国の一島である于山島は日本の松島である」
と強く確信していたという結論になります。
  このように、たとえ下條説の史書改ざん説を認めたとしても、朝鮮の于山島=松
島に対する領有意識はその時期が単に1770年にずれるのみで大勢に影響はありませ
ん。そこからは、櫻井よしこ氏がいう「于山島は竹島ではなかった」との結論は決し
てうまれません。

  なお、申景濬が于山島=松島であると確信するにいたった諸図志ですが、これは
『世宗実録』地理志(注2)などであるとみられますが、そのほかにも安龍福の証言
なども影響しているようです。
  それほど、漁夫・安龍福の足跡は大きな影響を与えたのですが、かれについても
櫻井よしこ氏は下條氏の説をウノミにしているようで、こう記しました。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  かれは1693年、江戸元禄時代に鬱陵島に渡ってきた。その時 日本人漁師に捕え
られ、隠岐島経由で鳥取藩に送致されて取り調べを受けた。やがて朝鮮に送還される
が、3年後の1696年に再び隠岐に密航した。下條教授がこの人物を語った。
 「朝鮮に戻った彼は、日本側(鳥取藩)に鬱陵島と于山島をもって朝鮮の地界とす
る、つまり両方が朝鮮領であると告げたとか、鳥取藩主と相対で話したなどと朝鮮側
に報告しています。しかし、そのような事実はなく出鱈目です。
  ところが、安龍福の語った<于山島は朝鮮領>というくだりは朝鮮王朝側の文献
に記載されていったのです」
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  たしかに帰国後における安龍福の自供は、基本的に手柄話なので、誇張や虚偽が
多いのは確かです。しかし、下條正男氏は「日本側(鳥取藩)に鬱陵島と于山島を
もって朝鮮の地界とする、つまり両方が朝鮮領であると告げた」ことをデタラメとし
ましたが、これだけは史実であることが判明しています。
  鳥取藩の岡島正義の『竹島考』などによると、1696年、安龍福一行が二度目に鳥
取藩へ着岸したとき、船の先頭には「朝鬱両島 監税将臣 安同知騎」と記した旗をか
かげていたと記録されました。監税将臣は、安の詐称であり、同知とは従二品の官職
をさします。
  この旗について、『竹島考』は「朝鬱両島ハ鬱陵島(日本ニテ是ヲ竹島ト称ス)
于山島(日本ニテ松島ト呼フ) 是ナリ」と記し、安龍福の意図を正しく理解しまし
た。

  この時の安龍福の目的は、旗の記載から明らかですが、鳥取藩にもあらかじめ隠
岐国代官から「竹島の義に付 御訴訟に参り候」との連絡が入っていました。しか
し、鳥取藩において安龍福がおこなった交渉の詳細は同藩に記録が残っていないよう
です。
  その理由は、鳥取藩が当初は誤ってかれらを外交使節として待遇したことにある
ようです。本来なら、外国との外交交渉は長崎藩がおこなうことになっているので、
かれらをそちらへ行かせるか、あるいは追い返すのが筋なのですが、そうしなかった
ので、そうした誤りを記録に残すわけにはいかなかったようです。

  滞在中、安龍福たちは鳥取藩主とは会えなかったことは確かなようです。そのか
わり「安龍福が、関白すなわち徳川将軍に宛てた訴状を鳥取藩の役人に渡していたの
ではなかろうか(注3)」とも推測されています。安龍福が日本で何らかの文書を提
出したことは記録にあり、日朝双方の共通認識になりました。

  安龍福は帰国後、越境の罪で処罰されましたが、その時のかれの活動により「鬱
陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島」という認識が強固
なものとなり、上に書いた『疆界考』や『東国文献備考』などに記述されました。
  なお、かれの于山島=松島という認識は、最初に日本へ連行されたときに竹島=
独島を経由して同島を実見しているので(注4)、そのときに一層確信したものと思
われます。

  以上のように、韓国が竹島=独島を韓国領とする根拠は『東国文献備考』などの
官撰書で明確になっているのですが、これを認めない立場(?)の櫻井よしこ氏は、わ
らをもつかむ思いか、日本の領有権を主張する米田健三氏の話をこう伝えました。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「日本側には竹島が日本領であることを明示する多くの歴史的経緯と資料がありま
す。江戸時代の1618年には鳥取藩の回船業者、大谷甚吉と村川市兵衛の両名が鳥取藩
を通して幕府に鬱陵島への渡海・開発を願い出て許可されています。彼らは鮑やアシ
カ漁で大きな利益を得ていました。
  地図を見て下さい。両名が渡海・開発を許された鬱陵島は竹島の北西、朝鮮半島
よりの位置にあります。つまり江戸時代には、竹島のみならず、ずっと先の鬱陵島も
日本領だったのです」
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  米田氏がいう「竹島が日本領であることを明示する多くの歴史的経緯と資料」と
は、結局は大谷家が幕府から鬱陵島を「拝領」したとかの虚言を記した大谷家文書で
あるようです。こうした私文書は、日本政府ですら竹島=独島の領有権を主張する際
にまったく用いなかったことはすでに書いたとおりです(注5)。
  櫻井氏が、竹島=独島を古来の日本領とする根拠は上の文につきるのですが、そ
こには日本政府が「固有領土」の根拠としている古文書はひとつも登場しませんでし
た。櫻井氏が不勉強なのか、それとも日本政府の根拠を薄弱と考えているのか、ある
いはその両方かも知れません。
  櫻井氏の不勉強といえば、下記の文が目をひきます。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1696年(元禄9年)、徳川幕府と李朝の間で鬱陵島の帰属問題が生じ、幕府は争
いを避けるために日本人の同島への渡海を禁じてしまった。
  江戸時代の日本は、武器としての刀が心を写しとる鑑となった時代でもある。争
いを好まなかった時代なのだ。
  結果として鬱陵島は朝鮮領となった。しかしその時でさえも竹島は明白に日本の
領土であり続けたのだ。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  櫻井よしこ氏は、幕府が鬱陵島を放棄した真の理由を勉強していないようです。
同氏はその理由を「刀の鑑」にしてしまいましたが、実は幕府の決定に影響を与えた
のは、幕府に対する鳥取藩の回答でした。
  これについては、前回の書き込み<週刊新潮の竹島=独島記事を批判する>に書
きましたが、重要な論点なので、内藤正中氏の論文をもう一度引用することにしま
す。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  さらに幕府の決定に重大な影響を与えたと思われる鳥取藩の1695年(元禄8)12月25
日付の文書がある。これは、前日の24日に幕府老中 阿部豊後守からの質問に対する鳥取
藩の回答書である。
  幕府から鳥取藩への質問は7か条で、その第1に「因州 伯州え付候 竹島はいつの此
より両国の附属候哉、先祖領地 被下候以前よりの儀 候哉」とあり、幕府としては、竹島
が因幡 伯耆を支配する池田藩に所属する島と考えていたことがわかる。したがって、い
つから因伯の領地になったかと問いかけるのである。

  これに対する鳥取藩の回答は、「竹島は因幡 伯耆附属には無御座候」であった。
  さらに第7項には、「竹島の外 両国え附属の島 有之候哉、並是又 漁採に両国の者
参候哉」との質問がある。これに対する鳥取藩の回答では、「竹島 松島其外 両国之附属
の島 無御座候事」と、竹島とともに松島についても、因伯両国に附属するものでないこ
とを明言した(注6)。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  竹島、松島が鳥取藩の領地でなく、天領でなければ日本の領土ではありません。
江戸時代「領主なき土地はないのが封建社会の原則」なので、そうした土地は異国の
地になります。この原則にしたがい、幕府は竹島を放棄し、その旨を対馬藩を通じて
朝鮮へ伝えて「竹島一件」は落着しました。
  櫻井氏は「結果として鬱陵島は朝鮮領となった。しかしその時でさえも竹島は明
白に日本の領土であり続けたのだ」と記しましたが、そのような事実はありません。
うえに述べたように、松島(竹島=独島)も因幡・伯耆両国に附属する土地ではなく、
やはり異国の地でした。
  そもそも、幕府は「竹島の外 両国へ附属の島」があるのかどうかと鳥取藩にた
ずねており、松島(竹島=独島)の存在自体をよく知らなかったようです。ましてや竹
島(鬱陵島)以上に領有意識はありませんでした。したがって「竹島は明白に日本の
領土であり続けた」というのは、櫻井氏の明らかな誤りです。

  この後、話は近代になりますので、稿を改めることにします。

(注1)申景濬『増補文献備考』巻之三十一「輿地考十九」蔚珍古縣浦条
 「輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」
(注2)半月城通信<『世宗実録 地理志』と于山島>
http://www.han.org/a/half-moon/hm093.html#No.679
(注3)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000,P106
(注4)塚本孝「竹島領有権問題の経緯」『調査と情報』第289号、国立国会図書館
,1996
(注5)半月城通信<週刊新潮の竹島=独島記事を批判する>
http://www.han.org/a/half-moon/hm109.html#No.796
(注6)内藤正中「竹島(独島)問題の問題点」『北東アジア文化研究』第20号
,2004,P7、
  鳥取短期大学発行

 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


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[4859]Re(1):「週刊新潮の竹島=独島...
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 さわだまさやす E-MAIL  - 07/10/6(土) 8:57 -

引用なし
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   古い投稿にレスを付けて申し訳ありません。

▼ピッポさん:
>半月城さんのAMLへの投稿を転載します。
>
>私たちは、竹島=獨島問題に関しての韓国側の主張および根拠となる史料を殆ど知りません。報道されないからです。半月城さんのサイトである”半月城通信”には、これまでの論争資料が膨大にあります。これらを読めば、韓国側から見た日韓関係の歴史に触れることができます。しかし何分にも膨大です。
>http://www.han.org/a/half-moon/
>
>このたび、半月城さんは週間新潮の記事に反論を寄せました。週刊新潮の記事は、「竹島は17世紀から日本が統治していた」という、最近のWeb論調に反映しています。それに対する半月城さんの批判は、これまでの論考を要約したものともいえます。
>
>なお勝手ながら、週間新潮の記事の主張をグリーンにしました。小見出しは私が付けました。
>
>日本側の主張としては、おそらく週刊新潮は余りにも雑ではないかと思います。
>もっと骨太の日本側論証を、どなたか紹介してくだされば幸いです。

週刊新潮の記事よりも、半月城氏の反論のほうが遙かにお粗末なものです。
一見説得力があるように見えるので、よく知らない人は引っかかるようです。
結論から言えば、日本が竹島を編入した1905年の時点で、韓国が竹島を領有していたという証拠は全くありません。さらに言うなら、韓国には竹島を記載した地図すら無いのが実情です。
Toron Tolkerを見てなお半月城氏に説得力を感じるなら、はっきり言って「引っかかって」るのです。
サンフランシスコ講和条約での取り扱いも、ラスク書簡やヴァン・フリート特命報告書で竹島は日本領ということで確認されています。
144 hits

[4860]1905年は20世紀です。
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 熊猫 E-MAIL  - 07/10/6(土) 20:33 -

引用なし
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   ▼さわだまさやすさん:
私は週刊新潮が正しいのか半月城さんが正しいのか解りません。
>>「竹島は17世紀から日本が統治していた」
これが、週間新潮の記事であると解釈します。これにたいして、半月城さんが反論したのであれば、「竹島は17世紀から日本が統治していた」ということを立証するべきではないでしょうか。
>結論から言えば、日本が竹島を編入した1905年の時点で、韓国が竹島を領有していたという証拠は全くありません。さらに言うなら、韓国には竹島を記載した地図すら無いのが実情です。
これは20世紀の話です。
週刊新潮の「竹島は17世紀から日本が統治していた」が論点であると解釈しますが如何でしょう?
152 hits

[4861]Re(2):「週刊新潮の竹島=独島...
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 とほほ E-MAILWEB  - 07/10/6(土) 21:19 -

引用なし
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   ▼さわだまさやすさん:
>週刊新潮の記事よりも、半月城氏の反論のほうが遙かにお粗末なものです。

と言う、さわだまさやすさんの主張のお粗末な点は多々あるので、時間の空いたときにでもお伺いしようと思っていたのですが熊猫さんがいきなり本質を付いてますので私も熊猫さんの尻馬に乗っかって伺います(^^ゞ

>一見説得力があるように見えるので、よく知らない人は引っかかるようです。
>結論から言えば、、、、。

として半月城論を否定してます。で、その根拠が、たったの以下の3行です。お粗末としか言いようがありません。議論の前提を理解していないと思います。

>サンフランシスコ講和条約での取り扱いも、ラスク書簡やヴァン・フリート特命報告書で竹島は日本領ということで確認されています。

まずこの手の議論をする方は得てしてダブルスタンダードな主張をする方が多いので先にそれを避けるためにさわだまさやすさんにお伺いしておきます。サンフランシスコ講和条約を根拠に領土問題の正当性を主張するのであれば「北方領土を日本は放棄すべきである」と主張されているのでしょうか?

さわだまさやすさんは領土問題とはどういうことなのか?と言うのをよくわかっていないのでは?
135 hits

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