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この方は実名で、最初に虐殺の重機関銃隊に居たことの葉書をよこし、父(栗原利一)が年賀状を差し上げたところ否定するような返事をよこしています。筆跡は全く同じなので心変わりをしたのでしょう。
昭和59年8月9日
”残暑御見舞い申し上げます。 初にお便り申し上げます。私は本日(8/7)朝刊毎日新聞を拝見致しました。22頁にご貴殿の懐かしい半世紀にもなる戦争記事をよませていただき思い起こしました。ご貴殿は陸軍伍長で私は設備兵、上等兵でございました。九州、熊本の第六師団で出征致しました。同年12月14日ですが南京城攻略致しまして翌日無湖へ警備の出発際に私も出会いましてあの山に登 重機関銃で射撃致した一兵でございます。又後日詳しいことはお知らせします。後日部隊名はお知らせ致します。私は昭和三年兵でございます。”
年賀状
”輝かしき新春のお慶び申し上げます。 先日は年賀を戴きました。有難く拝見させて戴きました。就いてはご貴様は私は心当たりございません。私はS3年生れで郷土にも心当たりはなく日支事変にも参加致しました上官にも戦友にも心当たりがございません。ご返信を差し上げ様と思います。ご返信差し上げねばご無礼と思いまして末筆乍ら私とどこで何の事で対話した事をかんたんで宜しいですからお知らせ下さいませ。お願い申し上げます。 私は高血圧で左半身不随と脳血栓で二回倒れ去年は1月22日ゲートボールで寒さに負けて手足共シビレ病床にて今だ鍼灸で治療致している有様でございます。乱筆乱文でご無礼でございますが何卒お許し下さい。
私の子供×男×女健在でそれぞれ処々方法に永住しております。現在は二人で表記の処にママと二人で暮らしております。どうぞ何卒お許し下さい。今年は××の年であります。ごめんなさい。ご令室様によろしくお伝え下さいませ。
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