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[3792]平頂山事件の犠牲者数 田辺説の検討 ゆう 07/1/3(水) 9:40
[3794]Re(1):平頂山事件の犠牲者数 田辺説の検討 タラリ 07/1/3(水) 16:02
[3797]平頂山の人口 熊猫 07/1/4(木) 0:11 [添付]
[3798]Re(1):平頂山の人口 熊猫 07/1/4(木) 1:43
[3828]平頂山村の人口 ゆう 07/1/7(日) 16:26
[3833]Re(1):平頂山村の人口 熊猫 07/1/7(日) 23:28 [添付]
[3834]失礼しました。 熊猫 07/1/8(月) 2:33
[3837]Re(1):平頂山村の人口 熊猫 07/1/8(月) 9:24
[3845]Re(1):平頂山村の人口 ゆう 07/1/8(月) 17:36
[3906]Re(1):平頂山村の人口 熊猫 07/1/20(土) 2:39
[3907]Re(2):平頂山村の人口 熊猫 07/1/20(土) 10:39
[3908]Re(3):テキストで表を表現する とほほ 07/1/20(土) 16:11
[3926]Re(4):テキストで表を表現する 熊猫 07/1/21(日) 3:26
[3936]Re(5):テキストで表を表現する とほほ 07/1/21(日) 23:01
[3910]Re(2):平頂山村の人口 ゆう 07/1/20(土) 18:47
[3925]Re(3):平頂山村の人口 熊猫 07/1/21(日) 3:16 [添付]
[3930]Re(4):平頂山村の人口 ゆう 07/1/21(日) 5:36
[3937]撫順の人口は7万人弱か? 熊猫 07/1/22(月) 5:23
[3938]訂正 熊猫 07/1/22(月) 5:34
[3942]撫順の人口再考 熊猫 07/1/26(金) 3:12 [添付]
[3950]南昌路(平頂山村は何処?) 熊猫 07/1/27(土) 10:15 [添付]
[3966]Re(1):南昌路(平頂山村は何処?) 熊猫 07/1/28(日) 9:07 [添付]
[3873]とりあえず、コンテンツアップのお知らせ ゆう 07/1/14(日) 8:52
[3881]本日、高尾翠さんとお会いしました。 熊猫 07/1/15(月) 0:08
[4138]追跡 田辺敏雄:1 熊猫 07/2/24(土) 23:06
[4757]撫順憲兵隊 熊猫 07/7/29(日) 0:38 [添付]

[3792]平頂山事件の犠牲者数 田辺説...
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 ゆう WEB  - 07/1/3(水) 9:40 -

引用なし
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   満州事件一周年を間近に控えた1932年9月16日、撫順炭鉱附近の「平頂山村」において、日本軍による住民無差別殺害が行なわれました。

「南京事件」などと異なり、この事件をめぐっては、「事実関係」についての議論はほとんどありません。議論となっているのは、「殺害人数」、あとは「川上大尉は事件に関与していたか」程度のマイナーな論点です。


「殺害人数」については、中国側は「三千人」を主張しています。一方、右派の論客田辺敏雄氏は「四百−八百人」説を主張しており、日本側のメディアでは、概ね「両論併記」で記述されることが多いようです。


以下、今私の手元にある資料をもとに「田辺説」についての検討を行なっていきます。なお、最初にお断りしておきますが、「犠牲者数」が「三千人」であっても「四百−八百人」であっても、この事件が「婦女子を含む民間人大量殺害」であった、という事実には変わりありません。


さらにお断りしておきますが、田辺敏雄氏は、東中野氏のように、ちょっと一次資料と照合すればたちまちのうちに「インチキ」がバレてしまう「ニセモノ」とは異なり、それなりの論者ではあります。

自分の足でデータを集め、認めるべきことは認める。しかし、譲れないところは譲らない。「南京事件」で言えば、板倉氏のようなイメージでしょうか。


「田辺説」のエッセンスを要約すると、以下のようになります。(『追跡 平頂山事件』P229以下)

1.事件の起こった9月16日は、休日ではなかった。従って、「成年男子の多くは、炭鉱に行っていたであろうし、女性も男ほどでないにしろ、家をあけていたはずである」。だから、「全住民が殺害されるはずはないのである。難を逃れた住民が多数あって当然であろう」。

2.部落人口が、三千人もいたはずがない。当時の満鉄関係者から得た証言によれば、二十数棟しか住居設備がなかった。「満州日報」昭和7年10月15日朝刊によれば、(匪賊による)被害状況は、「平頂山」村につき、「人口1,369 死者400」と記述されている。田辺氏はこの数字を、「被害者数はさておき、人口についてはまったく正しいか、あるいは極めて近い数値ではないかと思っている」。

3.「事件」の現場にいた兵士たちの証言は、大部分が「400人−800人」の範囲に収まる。



村の人口に「在宅率」をかけて、「400-800人」になる、というわけです。

一見したところでは、説得力があります。これに明確に反論している資料を探してみたのですが、とりあえずは見当たらない。また、いくら調べても、中国側の主張する「三千人」の根拠もはっきりしません。

現場から掘り出された骨が800体以上、まだまだ発掘は不完全なものであるので「3000人」という説明にも無理はない、という主張も見かけましたが、これをそのままネットに流したら、「バラバラになった骨を、誰が、どうやって「何人分」だと認定したのか」「その数字には中国側の「誇張」がないと言い切れるのか」という「突っ込み」を受けてしまいそうです。

(私は中国語が読めませんし、またとりあえずは、中国側の中文資料も入手できておりません。このあたりに「根拠」が示されているのかもしれませんので、どなたか「中国説」の根拠をご存知の方、ぜひ教えてください)


しかし、私が「田辺説」に疑問を感じたのは、「成年男子の多く」が「炭鉱に行っていたであろう」という田辺氏の「推定」と、中国側の「生存者」の証言が一致しないことでした。



莫徳勝さん

 事件当時、私は八歳、殺された妹は三歳でした。妹も一緒に父も母も、そして祖父も祖母もみな殺しされました。

(略)

 私たちの家族六人をはじめ村民の誰一人、そんな恐しい作戦が話しあわれていることなど、知るはずもありませんでした。

(石上正夫氏『平頂山事件 消えた中国の村』P102)


夏維栄さん

 証言内容は、父と母が凶弾に倒れた時、幼い夏さんを抱いて逃げてくれた父の弟、夏廷沢さん(当時二七歳)から、後で聞いた話である。

(略)

 夏さんの家は村の中央に近く、父(当時二九歳)、母(当時二五歳)、長男の維栄さん、叔父の廷沢さんの四人家族であった。

(石上正夫氏『平頂山事件 消えた中国の村』P110 )


韓樹林さん・趙樹林さん

 韓さんはその当時一二歳だった。両親のほか、長兄(当時二七歳)夫妻とその子供(同三ヵ月の女児)・次兄(同一五歳)の計七人家族である。日本軍のトラック第一陣が来たとき、父はまだ寝ていた。

(略)

 いっぽう趙さんは当時一一歳だった。父親は病気で失業していたので、母が毎日炭鉱の独身寮に通い、洗濯と着物のつくろいをしてわずかな賃金を得ていた。趙さんのほか、子供は姉(当時一七歳)と妹(同七歳)がいたから五人家族である。

(略)

 日本軍のトラックが来たとき朝食はすんでいたが、母はまだ炭鉱に出かける前の時間だった。

(略)

 こうして韓さんの七人家族も趙さんの五人家族も、銃剣に追われて家をとびだした


呉長慶さん

 一家五人のうち、父、母、祖母、おばが亡くなり、私は一人ぼっちになりました。私は二ヵ月間乞食をしながら暮らしをつなぎ、その後伯父を探し当てました。

(平井潤一『平頂山の惨劇―その経緯と生存者の証言』より=『季刊中国』2002年春季号P32)


楊占友さん

 後で知ったことだが、私の家族二十四人のうち四番目の不在の兄を除いて、難にあったのは二十三人で、脱出出来たのは、五人であった。

(小林実『リポート「撫順」1932』P87)


方素栄さん

 わが家は全部で八人でしたが、生き残ったのは私だけです。

(平井潤一『平頂山の惨劇―その経緯と生存者の証言』より=『季刊中国』2002年春季号P34)


呉景悄さん

 私は当時十三才で、家族は全部で十人でした。あの惨殺事件で生き残れたのは家族の中で私一人でした。母も、兄も、兄嫁も、弟も死にました。

(『平和日報』1947年7月 『平頂山堀骨視察記』=小林実氏『リポート「撫順」1932』P106)


 ご覧の通り、いずれも、家族のほぼ全員が殺された」という証言です。ここでは、田辺氏が「推定」するような、「男たちが炭鉱に行っていた」という事実を見出すことはできません。

 中国側証言に一定の「誇張」が含まれている可能性があることは、私も否定しません。しかし、「殺された家族の人数」という基本的なところで「誇張」を行なうとは、私には思われません。

 まして、上のうち、莫さん、方さんは、日本で「謝罪、賠償」を求める訴訟を起こしているのです。少なくとも「人数」については、これらの証言者たちは、自分の認識を正直に語っている、と見るのが自然でしょう。


 ひとつの「仮定」として、当時の撫順炭鉱が「二交替」勤務であったとすれば(『リポート「撫順」1932』P200以下のの勤務予定表では、「4:00-16:00」「16:00-4:00」の二交替となっています)、平日であっても炭鉱員の半数は家にいたはずです。しかしそれにしても、「出勤日の平日」の割りには、「在宅率」は非常に高い。


 しばらくこの「矛盾」をどう解くかで頭を悩ませたのですが、よく考えたら、この日は「炭鉱襲撃」の翌日でした。当然、「操業」にも影響したはずです。
(「平頂山事件」は、前日の「匪賊」(抗日反満ゲリラ)の撫順炭鉱襲撃への「報復」としておこなわれたものです)

 手元の『リポート「撫順」1932』を見返したら、しっかりと「操業中止」のデータが掲載されていました。「匪賊」の襲撃による、被害状況です。


小林実『リポート「撫順」1932』より
 建物工作物供用品等焼失 218,125円
 楊柏堡坑 約十五日間作業中止
 東岡坑  工場及び運炭桟橋焼失により能率低下、出炭減 51,000t
 東郷南坑 採炭中止
 東郷本坑 三日間作業中止 出炭減 30,000t
 老虎台坑 数日間作業中止 工人の退散多数

(同書 P60)



 これでは「炭鉱に行く」ような状況ではありません。

 さてでは、この日「平頂山」の村民たちは一体何をしていたのか。各「証言」を見ても、意外とデータは乏しいのですが、「匪賊の死体埋葬」を行なっていた、という記録がありました。



小林実『リポート「撫順」1932』より
 この兵士の屍体を、平頂山の村民が穴を掘って埋めている。これを目撃している日本人は多い。

 「武器も持たず、油をにじませたボロきれを、雑木の先にまいたのを、しっかり握っている匪賊を見た時、憎くもありましたが、何か哀れに思えたのを、覚えています。あれは、火をつけて、放火しようとしたのでしょうね。と証言する婦人。「中国人が、同じ中国人のために穴を掘る、胸中複雑なものがありました。」と話す老男性。

 平頂山村民、楊占友はこの死体埋葬を昼近くまでやっている。そしてその頃、平頂山の村は、昨夜の話でもちきりではあったが、いつもと変わらぬ平和な村であった。
(P63〜P64)



 よく読み返してみると、田辺氏もこのあたりは意識していたようではあります。

だが、十六日(金曜日)の平日であれば成年男子の多くは、炭鉱に行っていたであろうし、女性も男ほどでないにしろ、家をあけていたはずである。・・・また、操業不能下であっても、回復のための仕事はあったろうし、日給なので職場にでたという推察も成り立つであろう。(田辺敏雄氏『追跡 平頂山事件』P230)


「回復のための仕事はあったろう」・・・。これは、完全な「想像」にとどまります。

何よりも、被害者たちは「家族のほぼ全員がその場にいた」と口を揃えて証言しているのですから、少なくともこれらの証言を何の検討も行なわずに否定してしまうことは、フェアな態度とは言えないでしょう。


さて、これで氏の論理のうち「1」については「必ずしも説得力を持つ説明ではない」ことがはっきりしたと思います。田辺氏の論理では、「村民の大部分がその時村におり、その大半が殺された」ということを決定的にくつがえすことはできそうにありません。


長くなりましたので、「2」の「人口問題」についてはまた後日。

直観的に、「被害者数」は不正確だが「人口」は正確であろう、とする氏の「論理」に違和感を感じてしまったのですが、「満州日報」のこの記事を確認しないうちは、決定的なことはいえそうにありません。


なお「3」の「現場にいた兵士の証言」は、「加害側」には人数を少なめに証言する傾向があること、あのような状況で「人数」を数える余裕などあろうはずがなく「目視」で一目でわかるような人数であったとも思えないこと、から、これまた決定打とするには不十分なものであるように思います。
60 hits

[3794]Re(1):平頂山事件の犠牲者数 ...
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 タラリ E-MAIL  - 07/1/3(水) 16:02 -

引用なし
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   ▼ゆうさん:
>満州事件一周年を間近に控えた1932年9月16日、撫順炭鉱附近の「平頂山村」において、日本軍による住民無差別殺害が行なわれました。
>
>「南京事件」などと異なり、この事件をめぐっては、「事実関係」についての議論はほとんどありません。議論となっているのは、「殺害人数」、あとは「川上大尉は事件に関与していたか」程度のマイナーな論点です。
>
>
>「殺害人数」については、中国側は「三千人」を主張しています。一方、右派の論客田辺敏雄氏は「四百−八百人」説を主張しており、日本側のメディアでは、概ね「両論併記」で記述されることが多いようです。
>

>(私は中国語が読めませんし、またとりあえずは、中国側の中文資料も入手できておりません。このあたりに「根拠」が示されているのかもしれませんので、どなたか「中国説」の根拠をご存知の方、ぜひ教えてください)

本日、書店に立ち寄ったおりに『平頂山事件と天皇の軍隊』新日本出版社という本を読みました。被害者総数は「平頂山事件惨案」という報告書があり、一戸あたりの家族(?)数が何戸存在していたかを示す統計があります。すなわち1人からなる戸が何戸、2人からなる戸が何戸・・・16人からなる戸が何戸という統計があり、それを総計すると3071人となるそうです。戸数は20数戸というようなものではなかったはずで、1戸当たりの家族数が16人まであるということでした。

また、事件の現場の発掘は800人まで死体を掘り出したところで中止されています。周囲から死体の埋まっている場所を堀り起こし、中央にはなお、死体が埋まっていると見られる堆積が残されています。その堆積の大きさから見て総数で3000人程度の死体があったのは確実と見られています。
50 hits

[3797]平頂山の人口
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 熊猫 E-MAIL  - 07/1/4(木) 0:11 -

引用なし
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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : heityou.JPG
・サイズ : 53.1KB
  
添付画像【heityou.JPG : 53.1KB】  南京のような都市部と異なり、農村部の人口や被害者数は正確だったのではないでしょうか。タラリさんの提示した人口(3021人)は、平頂山の人口ではなく楊柏堡と平頂山の被害者数(3271人)のことではないかと思います。

 田辺説を真に受けると楊柏堡の全人口はたったの28人であったことになります。満州日報(1932年10月15日)は書類上の人口であり、実数とはかけ離れたものではないかと思います。

 中国側の情報は『平頂山惨案』トウ[イ冬]達(遼寧大学出版社)を買って調べるしかないと思います。

中国側のURL
http://www.chinanews.com.cn/news/2005/2005-05-14/26/574115.shtml
ゆうさんが参考にするレベルのものは見当たりません。探せば日本で紹介されていない証言等はあるかも知れません。
49 hits

[3798]Re(1):平頂山の人口
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 熊猫 E-MAIL  - 07/1/4(木) 1:43 -

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   田辺説
 「二十数棟の住居設備」に人口1369人。
 1棟に50人以上が居住していたということになります。平頂山村は1戸あたり50人以上の大家族であったとは考えられませんので、共同住宅であったということでしょう。
 住居設備の規模も解らないのに、1369人の人口の根拠にするのは本末転倒です。
 
 田辺説より、800戸が燃やされ3000人が殺されたほうが、数字としてはつじつまが合います。
62 hits

[3828]平頂山村の人口
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 ゆう WEB  - 07/1/7(日) 16:26 -

引用なし
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   「人口問題」につき、満州日報、昭和7年10月15日の記事を確認してきましたので、ご案内します。

***********************************

満洲日報 昭和七年十月十五日 

撫順県下被害者を 県公署当局で救済

 匪賊に蹂躙された跡



【撫順】 匪賊に蹂躙された撫順県下千金堡外六ヶ所の村民は目下家は焼かれ衣食はなく秋風冷たい昨今全く気の毒な状態にあるので

撫順県公署では右各村の被災民を救済するとともに各村の復興をはかるべく今回右に関する布告を公布するとともに夏県長を委員長とし救済委員会を組織し又奉天省公署より四万元、撫順炭鉱より三万五千元の救済基金を仰いで目下着々救済の望みをあげてゐるが、

委員会では中央に民会、建築、計画、宣伝調査の各部を設け又各村には現地委員会若干名宛を設けて罹災の程度其他を査定連絡してゐるが被災民に対しては目下一日一人十銭の食費を支給し又家屋建築補助として五人を一戸として五十円を支給しつつあり、

被災民はここもと随喜してゐるが、被害状況を示せば

 村 別     人口      死者
 千金堡   二、七九一    八六
 大東州   一、二八八    三七
 小東州     七九四     七
 東州河     九二〇     八
 寨承済     八九六    七五
平頂山   一、三六九   四〇〇
 楊柏堡      二八    一三
   計    八、〇八五   六二〇

(四面「満日各地版」 中上 三段記事)

***********************************


これを「人口」の最大根拠とするのが、田辺敏雄氏です。
前述したとおり「満洲日報」は平頂山村の人口を千三百六十九名、被害者数四百名とつたえている。被害者数はさておき、人口についてはまったく正しいか、あるいは極めて近い数値ではないかと思っている。信頼できないとする根拠がありそうにないのである。

日本の行政管地区の人口は、実に詳しく把握されていた。このことは当時の年鑑類を見れば明らかである。
(「追跡平頂山事件」P232)


日本側の研究者の間では、「田辺説(400-800人説)」を「諸説のひとつ」程度に位置づける見方が大勢です。他の研究者は、おそらくは上のデータも、「作為」が働いている可能性があると考え、あまり重きを置いていないものと推察されます。

ただし日本側研究者の論稿には、上の人口データへの具体的批判を見出すことはできません。辛うじて、中国側のトウ(にんべんに冬)達氏が、批判を行なっているようです。
これに対しトウ達は、「田辺説は日本人管轄範囲における人口数を基礎としたものであり、平頂山村は日本人管轄行政区に属しておらず、現地での裏づけ調査もない、従って田辺説は虚構だ」と批判している。
(高尾翠氏「天皇の軍隊と平頂山事件」P80-P81)


トウ達氏の「平頂山村は日本人管轄行政区に属していない」との説明が正しいのであれば、田辺氏への決定的反論となりますが、残念なことにその根拠がわかりません。

以上、私の手持ち資料からわかる範囲では、「両論併記」とするしかなさそうです。


以下、暗中模索。

ひとつの思いつきですが、「撫順炭鉱全体の中国人人口」と「日本人管轄行政区全体の中国人人口」がわかれば、その差が、「管轄地域外の中国人人口」である、ということになります。

この数字が十分に大きければ、少なくとも「日本人管轄地域外にも多数の人口があった」という説明にはなりえます。


このうち「管轄行政区域全体の人口」については、データがあります。
「事件当年(七年)の撫順(満鉄附属地)居住人口は下記の通りであった。(満鉄十二月調べ)

内地人(日本人)   (略)
朝鮮人         (略)
満洲国人(中国人)  人口 男33,906人 女9,948人 計43,854人
(小林実氏「リポート「撫順」1932 P21)


というわけで、「撫順炭鉱」全体の中国人人口のデータを探しているのですが、なかなかみつかりません。

「満鉄撫順炭鉱の労務管理史」という本に、「撫順炭鉱の労働者数」を35,511人とする資料があったのですが(P48)、年度ごとの人口の変動は大きいし、また「炭鉱労働者」以外の人口は見当もつきません。

もう少し、捜してみますか。


*皆様に、お礼を言い忘れておりました。最終的にどんなコンテンツになるのかまだまだ暗中模索中ですので、いろいろな視点からのコメントは、大いに参考になりました。お礼を申上げます。
94 hits

[3833]Re(1):平頂山村の人口
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 熊猫 E-MAIL  - 07/1/7(日) 23:28 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : heityou01.JPG
・サイズ : 165.8KB
  
添付画像【heityou01.JPG : 165.8KB】


>トウ達氏の「平頂山村は日本人管轄行政区に属していない」との説明が正しいのであれば、田辺氏への決定的反論となりますが、残念なことにその根拠がわかりません。

 日本人管轄行政区とは、満鉄付属地のことではないでしょうか?田辺敏雄さんも高尾翠さんも当時の正確な地図で確認はしていないようです。撫順の満鉄付属地の地図(1933年)を提示します。
 目印となる楊柏堡河千金堡から、平頂山村と思われる場所に×印をつけました。平頂山村の正確な位地図があると助かるのですが、トウ達氏の説に分がありそうです。ゆうさんの手元の地図と見比べて下さい。


86 hits

[3834]失礼しました。
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 熊猫 E-MAIL  - 07/1/8(月) 2:33 -

引用なし
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    Googl(谷歌)の地図で「平頂山惨案記念館」を確認しました。満鉄付属地かどうかは微妙な所です。憶測で×印をつけましたが、正確な位置に目星をつけており、我ながら勘が冴えています。エッヘン!
 中国側が調査したということは、満鉄付属地ではなかったと思います。田辺敏雄氏の地図だと、平頂山村は南昌路に沿って南北に細長い地形であり、その一部が付属地だとしても、全てが付属地とは思えません。
 田辺説の二十数棟というのは、趙樹林さんの証言にある「中国人炭鉱労働者寮」(『中国の旅』本多勝一)のことではないでしょうか?「当時の満鉄関係者から得た証言によれば、二十数棟しか住居設備がなかった」は平頂山村の近く(おそらく北側)にあった満鉄が管理する寮のことではないかと思います。
 提示した地図がどの程度正確か?平頂山村の正確な地形(範囲)はどうだったか?が問題になると思います。
92 hits

[3837]Re(1):平頂山村の人口
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 熊猫 E-MAIL  - 07/1/8(月) 9:24 -

引用なし
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   日本の行政管地区の人口は、実に詳しく把握されていた。このことは当時の年鑑類を見れば明らかである。

 田辺敏雄さんは、「年鑑類を見れば明らかである」であると、具体的資料は伏せています。もっとも平頂山の人口が解るような資料があれば、率先して提示しているはずです。この部分は自論の正当性を補強するための、せこいトリックであり読者にミスリードさせるものです。確かに南京・撫順レベルの人口であれば当時の年間類で解るでしょうが、それも正確かどうかは疑問であり「日本の行政管地区の人口」ではありません。ましてや、平頂山村の人口資料なんてありません。

「満鉄日報」に記載されている、千金堡楊柏堡は確実に満鉄附属地ではありません。全ての地域を調べる必要がありますが、軍隊も附属地の住民には手を出さなかったのではないかと思います。
91 hits

[3845]Re(1):平頂山村の人口
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 ゆう WEB  - 07/1/8(月) 17:36 -

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   熊猫さんの地図は、こちらのサイトのものですね。いやはや世の中、マニアックな趣味にハマっている方がいらっしゃるものです。
http://keropero888.hp.infoseek.co.jp/city/wuxun.html

余談ですが、この「世界飛び地領土研究会」サイト、なかなか楽しいものでして、私も「お気に入り」に入れて愛読しております。


私の手元にあるもので一番詳しいのは、「満鉄撫順炭鉱の労務管理史」所収の地図。「平頂山村」の名は出てきませんが、他の本の地図と照合すると、「村」の場所は熊猫さんの図の通りであるようです。


地図を見ると、「千金堡」は明らかに管轄区域外。「平頂山村」はちょっと微妙、というところでしょうか。念のため、当時の南満鉄株式会社作成の地図を、注文したところです。

「平頂山村」が管轄地域内か否かをめぐっては、田辺氏とトウ達(イ冬達)氏の記述、真っ向から対立します。

襲撃対象となった工人部落は満鉄所有で、同型の建物が二十数棟並んでいたという。(中略)以上は久野(朔太郎)氏の話にもとづいている。(「追跡 平頂山事件」P231-P232。なお、この「棟」は「長屋」であり、田辺氏は「一棟に六〜八世帯が居住し、一世帯平均六〜九名が住んでいたと仮定すれば」、「人口1,369人」という数字と「辻つまが合う」、と主張しています)

これに対しトウ達は、「田辺説は日本人管轄範囲における人口数を基礎としたものであり、平頂山村は日本人管轄行政区に属しておらず、現地での裏づけ調査もない、従って田辺説は虚構だ」と批判している。
(高尾翠氏「天皇の軍隊と平頂山事件」P80-P81)

田辺氏の記述の根拠は、当時の満鉄関係者の証言です。トウ達氏の方はよくわかりませんが、中国側の独自調査による情報であったのかもしれません。


いずれにしても、中国側証言を信頼するのであれば、「村民の死亡率」は極めて高かったはずです。私としては、「満洲日報記事にある「平頂山村人口1,369人、死者400人の数字は、被害を小さく見せたい日本側の作為である可能性を否定できない」を、とりあえずの結論としておきたいと思います。

*なお、「人口」については、こんな記述もあります。
満鉄が行なった撫順居住者戸口調査があるが、平頂山村としての記録はない。

次のような仕分けで、昭和三年度の記録がある。(「中国人人口」以外のデータは省略します)

東郷    人口 2,653
楊柏堡   人口 5,060
東岡    人口 1,970
老虎台   人口 4,461

この仕分けで、楊柏堡地区に平頂山村が含まれるなら、村民の数は相当なものであったと考えられる。
(小林実氏「リポート「撫順」1932」P85-P86)

92 hits

[3873]とりあえず、コンテンツアップ...
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 ゆう WEB  - 07/1/14(日) 8:52 -

引用なし
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   新コンテンツ「平頂山事件」、アップしました。
http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/heichouzan.html

とりあえずは「基礎知識編」。あちこちの資料をつなぎあわせて「平頂山事件」の経緯をまとめた程度のものではありますが、おそらくウヨさんから見ても文句のつけようのない内容でしょう。

続編として「犠牲者数論編」も考えていますが、こちらは誰も関心を持ちそうもない思い切りマニアックなテーマですので、「ご案内」をせずにこっそりとアップしてしまうかもしれません(^^;


最近、やたらと「通州事件」を強調する議論をあちこちで目にします。

しかし、「事件」としての「規模」を問題にするのであれば、明らかに「平頂山事件」の方が大きい。

また、「通州事件」は「傀儡政府の保安隊の反乱」であり、誰にも「責任」を求めようのない事件でしたが(日本側も「傀儡政府」に責任をかぶせてお終いにしてしまいました)、こちらは日本軍の正規部隊が正規の軍事行動として起こした「無差別虐殺事件」ですので、責任の主体はあまりに明確です。

「通州事件」を問題視する方のほとんどは、「平頂山事件」をご存知ないか、あるいは完全にスルーしてしまっています。私としては、強い違和感を感じざるをえません。
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[3881]本日、高尾翠さんとお会いしま...
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 熊猫 E-MAIL  - 07/1/15(月) 0:08 -

引用なし
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   ・・・・・ということで、本の宣伝!
 『天皇の軍隊と平頂山事件』高尾翠(新日本出版社)1800円
 著書のタイトルに天皇の軍隊を入れるのに拘ったとのことでしたので、既に読んだ方は高尾翠さんの熱い思いを再度認識していただきたいと思います。

 本を読んで疑問点がある場合は、著者に聞くのが手っ取り早い!こういったときの熊猫は行動力が違うのである。
 本来ならここで「あること」「ないこと」を適当に言って大法螺をふくところですが、高尾さんは試行錯誤をROMしており、残念ながら法螺話は次回にお預けにします。本日は実名で会ったのですが、いきなり「熊猫さん?」と言われたんじゃドキッとしますばい!まさか「試行錯誤」をROMってるなんて思いまへんがな。私が熊猫であることは家族も知らなければ、会社の同僚や友人も知らないのです。すごい勘のよさ!
・・・・・・・と言うことで、ゆうさんの紹介をする手間は省けました(^^)

 私の中では、エビデンスが貧相な田辺理論は崩壊しています。昭和3年の楊柏堡の人口5060人が、昭和7年の満州日報では28人となっておりその矛盾は検証されるべきです。
 平頂山事件は平頂山村だけでなく他の6つの地域住民の虐殺事件であり、田辺説の1369人は、南京国際安全区の人口を基準に南京事件を誤魔化す手口と同じです。
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[3906]Re(1):平頂山村の人口
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 熊猫 E-MAIL  - 07/1/20(土) 2:39 -

引用なし
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   ▼ゆうさん:
>このうち「管轄行政区域全体の人口」については、データがあります。
>
「事件当年(七年)の撫順(満鉄附属地)居住人口は下記の通りであった。(満鉄十二月調べ)
>
>内地人(日本人)   (略)
>朝鮮人         (略)
>満洲国人(中国人)  人口 男33,906人 女9,948人 計43,854人
>(小林実氏「リポート「撫順」1932 P21)

>
>というわけで、「撫順炭鉱」全体の中国人人口のデータを探しているのですが、なかなかみつかりません。

手許の撫順の人口資料を時代別に提示します。
日本人 朝鮮人 中国人 外国人 調査月
1930年 13,639 1,663 21,741 67 12月 (昭和十二年軍事年鑑)
1932年 - - 43,854 - 12月
1934年 20,315 3,891 55,489 36 12月 (1935撫順炭鉱概要)
1935年 17,639 2,555 32,288 33 6月 (昭和十二年軍事年鑑)
1938年 25,700 全体で203,800 6月 (昭和十四年朝日年鑑)
 人口移動があったというよりも、人口データそのものの信憑性を疑う必要があると思います。田辺氏の主張する年鑑類では人口なんて解りませんし、たった一つの人口資料を根拠なく信用できると強弁するのは、大人気ないと思います。
 『昭和十二年軍事年鑑』の資料の出所を追記します。1930年は外務省亜細亜局で、1935年は民政部総務司資料科となっています。

[管理人1回修正:表タグ打ち]
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[3907]Re(2):平頂山村の人口
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 熊猫 E-MAIL  - 07/1/20(土) 10:39 -

引用なし
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   とほほさん
 すいません、あまりにも表がぐちゃぐちゃになってしまいました(^^;
 お手数ですが修正をしていただけないでしょうか。
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[3908]Re(3):テキストで表を表現する
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 とほほ E-MAIL  - 07/1/20(土) 16:11 -

引用なし
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   ▼熊猫さん:
> すいません、あまりにも表がぐちゃぐちゃになってしまいました(^^;
> お手数ですが修正をしていただけないでしょうか。

一応タグで表を作りましたがコピペ用にテキストだけで表現してみます。

手許の撫順の人口資料を時代別に提示します
    日本人 朝鮮人 中国人 外国人 調査月
1930年 13,639 1,663 21,741 67  12月 (昭和十二年軍事年鑑)
1932年  -    -  43,854  -  12月
1934年 20,315 3,891 55,489 36  12月 (1935撫順炭鉱概要
1935年 17,639 2,555 32,288 33  6月 (昭和十二年軍事年鑑)
1938年 25,700 全体で203,800    6月 (昭和十四年朝日年鑑)
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[3910]Re(2):平頂山村の人口
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 ゆう E-MAILWEB  - 07/1/20(土) 18:47 -

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   「撫順炭砿概要」という小冊子があります。「南満洲鉄道株式会社」発行の小パンフレットで、どうやら毎年のように改訂されていたようです。私の手元には、3年分あります。

さらに、熊猫さんも、私が持っていない年の分が1部あるようです。

この4冊から、「附属地内」の「満洲国人(または中国人)」の人口推移をまとめておきましょう。

1925年12月    42,182人
1932年12月   43,783人
1934年12月   55;489人
1938年1月   170,036人 (「康徳5年1月」となっていますが、たぶん1938年でよろしいのではと)

ここまでは、そんなにおかしくない数字です。まずは撫順炭砿、順調な発展ぶり。最後の4年間でいきなり3倍増していますが、満洲国建国に伴う「撫順」の都市づくり政策の効果でしょうか。

この間、「1932年10月」の「平頂山事件」直後に人口は大幅減しているはずですから、「1931年」とか「1930年」とかの数字がわかると、面白いかもしれません。

(なお、前に触れた「1932年12月満鉄調べ」の数字は「43,854人」でした。まあ、誤差の範囲でしょう。)


ところがこれに、熊猫さんの資料を重ね合わせると、状況が一変します。

1925年12月  42,182人(撫順炭砿概要)
1930年12月  21,741人(昭和12年軍事年鑑)
1932年12月  43,783人(撫順炭砿概要)
1934年12月  55,489人(撫順炭砿概要)
1935年 6月  32,288人(昭和12年軍事年鑑)
1938年 1月  170,036人(撫順炭砿概要)

一見して、「昭和12年軍事年鑑」の数字と、「撫順炭砿概要」の数字が整合しないのです。「基準」が違うのか、「情報源」が違うのか。

一方、田辺氏が挙げているのは、新聞記事の文脈まら見て、おそらくは「撫順県公署」の「救済委員会」の数字でしょう。どちらかといえば、「満鉄」に近い情報源ではないか、という気がします。


私としてはむしろ、トウ達氏の論が正しいとすればの話ですが、「平頂山村」の一部、あるいは全部が「附属地内」になかった可能性がある、という事実を重視したいと思っています。

当然のことながら、当時は「戸籍制度」はありませんでしたから、上の数字は「戸口調査」でしか判明しません。おそらく流動が激しかったであろう「満州国人人口」をどこまで正確に把握できたのか。

そして実際の話として、「平頂山村」に「附属地外」部分があったとすれば、そこまで「戸口調査」がきちんと行われたのか。少なくとも私の手持ち資料からは、「附属地外」の人口まできちんと把握していた、というデータは出てきません。


そして、実はこの「撫順炭砿概要」、「附属地外」にも多数の人口があったであろうことの裏づけにもなるのです。

大正15年(1926年)3月15日 中国人従業員数 43,785人
大正14年(1925年)12月末  附属地内中国人人口 42,198人

時期は3か月ほどずれますが、「従業員数」よりも「附属地内人口」の方が少ない。「従業員」には当然「家族」もいるでしょうから、これは、「附属地外」に居住して「撫順炭砿」に通っていた「従業員」が多数存在していたことを示唆します。

なお、1932年になると、「附属地内人口」が「従業員数」を大きく上回るようになります。これはこれで、面白いデータです。


今後調べが進むとまた考えが変わるかもしれませんが、とりあえずは、「満鉄側は附属地外の人口を、附属地内ほどには十分に把握していなかった可能性がある。従って、新聞記事の「平頂山村人口」は確実なものではない可能性がある」程度を、今時点の中間的結論としたいと思います。

とりあえずは、「平頂山村」が本当に「附属地外」にハミ出ていたかどうかを確認しないと・・・(^^;
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[3925]Re(3):平頂山村の人口
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 熊猫 E-MAIL  - 07/1/21(日) 3:16 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : syuttan.JPG
・サイズ : 129.2KB
  
添付画像【syuttan.JPG : 129.2KB】 ▼ゆうさん:
>「撫順炭砿概要」という小冊子があります。「南満洲鉄道株式会社」発行の小パンフレットで、どうやら毎年のように改訂されていたようです。私の手元には、3年分あります。

 おお!「撫順炭砿概要」をご存知でしたか、私は1935しか持ちません。ゆうさんが持っているのなら買うんじゃなかったな(^^; 昭和7年分を注文したばっかしだもん(^^ゞキャンセルしちゃおかな・・・・・。

>この4冊から、「附属地内」の「満洲国人(または中国人)」の人口推移をまとめておきましょう。
>
>1925年12月    42,182人
>1932年12月   43,783人
>1934年12月   55;489人
>1938年1月   170,036人 (「康徳5年1月」となっていますが、たぶん1938年でよろしいのではと)
>
>ここまでは、そんなにおかしくない数字です。まずは撫順炭砿、順調な発展ぶり。最後の4年間でいきなり3倍増していますが、満洲国建国に伴う「撫順」の都市づくり政策の効果でしょうか。

 1938年の撫順炭鉱の出炭量が3倍になったのであれば、人口も3倍になったのだと思います。1934年までの撫順炭鉱の出炭量を提示します。残念ながら、1938年前後の出炭量の資料は手許にはありません。
 私の推論ですが、満鉄附属地の人口と撫順全体の人口の違いではないかと思います。つまり撫順では3分の1の中国人が満鉄附属地に、そして残りの3分の2は他の地域に住んでいたということです。昭和十四年朝日年鑑の「全体で203,800」という数字を見たときから、撫順の中国人の人口は、満鉄附属地の中国人の3倍ではないかと思っていました。「撫順炭砿概要」の人口は、満鉄附属地の人口です。しかし、1938年には満鉄附属地は無くなっていたはずです。
 1937年11月5日に『満州国における治外法権の撤廃および南満洲鉄道附属地行政権の移譲に関する日本国満洲国間条約』の調印がされています。実際には撫順はそれよりも早くから、行政権の移譲体制が整っていたのではないかと思います。
 
>ところがこれに、熊猫さんの資料を重ね合わせると、状況が一変します。

 私は田辺さんと違って、年鑑類の人口は信用していません。・・・というか、戸籍制度が曖昧な中国の人口を、年鑑類が正確に把握できているとは思えません。田辺理論は平頂山村が、満鉄附属地ではない限り破綻してしまうのです。

>1930年12月  21,741人(昭和12年軍事年鑑)
>1935年6月   32,288人(昭和12年軍事年鑑)
 これらは、満鉄附属地ではなく撫順全体の人口です。出所は説明した通りですが、附属地の人口より撫順全体の人口のほうが少ないとはありえないことですので明確な間違いです。年鑑類では人口は解らないということを実証するために提示しました。

附属地の人口3倍説を補強します。
 1934年の資料をベースに検証します。
 世帯あたり人数
 日本人:20,315人(4,300戸)、4.7人
 中国人:55,489人(8,457戸)、6.6人
 撫順炭鉱への就業率
 日本人:3,755人(人口20,315人)、18.5%
 中国人:40,134人(人口55,489人)、72.3%→やはり附属地以外からも就労していたということでしょう。人口を3倍(166,467人)にして計算すると24.1%になります。世帯あたり1.6人が就労していた計算になります。住民の24.1%が撫順炭鉱で就労していたというのは、非常に高い比率ではないかと思います。女性や子供の就労者もいたということではないでしょうか。
 大雑把ですが、撫順には15万人前後の中国人が居住していたというのが熊猫説です(^^)
 1938年の人口は、それを裏付けるものではないかと思います。そしてゆうさんが提示した、「大正15年(1926年)3月15日 中国人従業員数 43,785人」より、撫順炭鉱には4万人前後の中国人従業員がいて、この人数はずっと変わらなかったのではないでしょうか。
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[3926]Re(4):テキストで表を表現する
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 熊猫 E-MAIL  - 07/1/21(日) 3:26 -

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   とほほさん
 有難うございました。テキストだけでも表ができるのですね?
 う〜ん、スキルの差かなあ?私がやるとぐしゃぐしゃになるのに・・・・。
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[3930]Re(4):平頂山村の人口
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 ゆう E-MAILWEB  - 07/1/21(日) 5:36 -

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   私の手元には「撫順炭砿概要」昭和13年度版があります(この年には、「概要」がとれて、単に「撫順炭砿」という名に変っていますが)。

こちらによれば、昭和12年の出炭量は、「8,228」とのことです。昭和7年まで6000〜7000ぐらいでしたから、確かに「炭砿の規模が拡大したために人口が増えた」わけではないようです。

>「撫順炭砿概要」の人口は、満鉄附属地の人口です。しかし、1938年には満鉄附属地は無くなっていたはずです。

というのは、盲点でした。確かにこの説明で、「人口3倍増」の謎は解けます。


あとは、「平頂山村」が「附属地」内にあったかどうかですね。

「附属地内」と「附属地外」に跨っていたとすれば、「満洲日報」の記事は「附属地内」のみの数字、ということになり、問題は解決します。

全部が「附属地外」であれば、「満鉄は人口を正確に把握していなかった可能性がある」ということで、これまた解決です。

さて、もう一息・・・。
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[3936]Re(5):テキストで表を表現する
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 とほほ E-MAIL  - 07/1/21(日) 23:01 -

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   ▼熊猫さん:
> 有難うございました。テキストだけでも表ができるのですね?
> う〜ん、スキルの差かなあ?私がやるとぐしゃぐしゃになるのに・・・・。

というより、HTMLをどう表現するのか?と言うHTML仕様とブラウザの間での決まりごとなのです。

こういう表を作るときに大事なのだスペース(空白文字)なのですが、このスペースの半角と全角の使い分けがとても重要になります。

半角のスペースと言うのはいくつ連打してもブラウザは半角一個と判定して表示します。全角の連打はそのまま表示します。これを心得ておくと良いです。そして、等幅フォントを使うのがコツです。
投稿入力欄の右下に等幅と言うチェックボックスがありますでしょ?そこにチェックを入れておくのです。

#それにしても、今更あの程度の低レベルの否定論を投稿する勇気ある方がいるとは思ってもいませんで、油断してました(^^;
明らかに、当掲示板ルール
否定論者、歴史修正主義者、自由主義史観主義者またはその支持者、信奉者の方の反論は大歓迎しますがその宣伝には一切協力しません。これらの方々は必ず下記をクリックして新旧板過去ログを検索し既に論理破綻しているか否かを確認してから投稿してください。過去ログの同様の話題について反論がある場合はその論説に対して反論してください。単なる過去の否定論主張の繰り返しは【宣伝】と判定される場合があります。
に反してますので管理者として即刻削除すべきでした、皆様にはご迷惑をおかけしました、ありがとうございますm(__)m

画像掲示板で言及されていない「根拠ある捏造写真」と言うやつが飛び出してくれないか期待したこともありますが、やっぱりただの否定論おたくだったようですね(^^;
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[3937]撫順の人口は7万人弱か?
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 熊猫 E-MAIL  - 07/1/22(月) 5:23 -

引用なし
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   撫順の人口は7万人弱か?
 田辺敏雄氏によれば、昭和7年を基準に考えているのでしょうが、撫順の人口は7万人弱とのことです。満鉄附属地の日本人・朝鮮人・中国人の人口なら、私も同じ認識です。しかし撫順の人口となれば17万人〜20万人というのが妥当な数字ではないかと思います。
 撫順炭鉱の中国人従業員数
 1926年 43,785人
 1934年 40,134人
 1932年の従業員は事件前には4万人前後はいたと思われます。そして満鉄附属地の人口は43,783人ですので、15万人以上の人口が居ないと従業員の確保が難しいでしょう。撫順以外からの就労者もいたでしょうが、10万人以上の都市の就労者が皆、撫順炭鉱で働いていたのでは地域社会は形成されません。その人口に比例して、他の職業の人々も撫順に居たはずです。
 人口7万人の都市が撫順炭鉱を維持するのは不可能です。

>あとは、「平頂山村」が「附属地」内にあったかどうかですね。

 この際、平頂山事件の定義をはっきりさせては如何でしょうか?本多勝一氏が悪いわけではありませんが、平頂山村に固執すると事件の本質が見えなくなるような気がします。
 平頂山事件とは、千金堡・楊柏堡・栗家溝の住民殺害事件であり千金堡・楊柏堡は満鉄附属地ではありません。栗家溝そのものの存在は、事件の後に完全に抹消されてしまったので、附属地になるのかどうか判りません。平頂山とは正式な地名ではなく、地域の俗称です。満洲日報による平頂山村の人口が正しかろうと、田辺敏雄氏の1369人で平頂山事件の規模を論ずること自体が破綻しているのです。
 
熊猫の暴論
 満洲日報の記事は、栗家溝のことを平頂山と勘違いしているのではないかと思います。中国側の平頂山事件は、千金堡・平頂山・栗家溝ですから、平頂山とは楊柏堡のことだと思って間違いないでしょう。これは平頂山村が正式な地名ではなく、おおまかな地域の俗称であるための混乱ではないかと思います。
 楊柏堡・栗家溝とは別に平頂山村があれば、なおさら田辺敏雄氏の理論は破綻してしまいます。
 小田実氏が「満鉄が行なった撫順居住者戸口調査があるが、平頂山村としての記録はない。」のも、そして、ゆうさんが地図で平頂山を探しても見つからないのも仕方のないことなのです。だって、ないんだもん!(これがホントの平頂山否定派・・・・・てか?)
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[3938]訂正
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 熊猫 E-MAIL  - 07/1/22(月) 5:34 -

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   小田実→小林実
 たはははは・・・・・、小林と入力したらその後は、漫画家の名前を入力しそうになるのは私だけでしゃろか?習慣とは怖い!小林実はROMしとらんやろから、謝る必要もないでしょう。
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[3942]撫順の人口再考
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 熊猫 E-MAIL  - 07/1/26(金) 3:12 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : bujyun001932.JPG
・サイズ : 262.8KB
  
添付画像【bujyun001932.JPG : 262.8KB】  提示した地図は、1932年の『撫順炭鉱概要』からスキャンしました。火薬工場の南側の附属地の境界線から千金堡にかけて南昌路がないのが非常に気になります。同じ縮尺(1/50000)の翌年の地図には南昌路があります。
 日本軍は平頂山村を焼き払った後に道(南昌路)を造って証拠を隠蔽したという話しと辻褄が合います。
 事件の範囲と思われる箇所を円で囲みました。満鉄附属地の外側にあり、田辺敏雄氏の「日本の行政管地区の人口は、実に詳しく把握されていた。このことは当時の年鑑類を見れば明らかである。」は残念ながら、トウ達氏の「田辺説は日本人管轄範囲における人口数を基礎としたものであり、平頂山村は日本人管轄行政区に属しておらず、現地での裏づけ調査もない、従って田辺説は虚構だ」に完敗してしまったようです。



撫順満鉄附属地の人口
    日本人 朝鮮人 中国人 外国人 調査月
1931年 17,753 3,097 50,412 49  12月 (1932撫順炭鉱概要)
1932年 18,079 4,356 43,783 31  12月 (1933撫順炭鉱概要)
1934年 20,315 3,891 55,489 36  12月 (1935撫順炭鉱概要)

 事件直前の人口は1931年12月の数値が最も近いのではないかと思います。1932年12月は事件後ということでしょうか、中国人の人口が大幅に減少しています。


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[3950]南昌路(平頂山村は何処?)
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 熊猫 E-MAIL  - 07/1/27(土) 10:15 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : bujyun001933.JPG
・サイズ : 300.1KB
  
添付画像【bujyun001933.JPG : 300.1KB】 今回提示した地図は、1933年の『撫順炭鉱概要』からスキャンしました。前年の地図と比較して、鉄道が増線され延長しており南昌路が記載されていることが確認できます。
 林善岳(撫順県公所総務課長)が事件を隠蔽するために、平頂山村のあった場所は平らにして道路にしたと証言していますので、南昌路の場所が平頂山村となると思います。
 満洲日報が隠蔽記事を報道し、憲兵が死体を焼却し、撫順炭鉱が死体を埋め、県が道路を造って村そのものがあったころを隠してしまう、大プロジェクトであったことは間違いないでしょう。
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[3966]Re(1):南昌路(平頂山村は何処...
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 熊猫 E-MAIL  - 07/1/28(日) 9:07 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : yarinaosi.JPG
・サイズ : 300.1KB
  
添付画像【yarinaosi.JPG : 300.1KB】 再度南昌路の画像掲載。
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[4138]追跡 田辺敏雄:1
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 熊猫 E-MAIL  - 07/2/24(土) 23:06 -

引用なし
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   『追跡 平頂山事件』 22p
本多記者は日本の取材をまったくしていない。
 当然である!本のタイトルは『中国の旅』となっています。もっとも本多勝一の本が『日本の旅』或いは『日本と中国の旅』であったならば、田辺敏雄の主張も理解できなくはありませんが、『中国の旅』と銘打って日本を取材するほうが変です。

 それより、中国の取材をまったくしていない。困った右翼君を批判するべきでしょう。
 
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[4757]撫順憲兵隊
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 熊猫 E-MAIL  - 07/7/29(日) 0:38 -

引用なし
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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : bujyun05.jpg
・サイズ : 151.4KB
  
添付画像【bujyun05.jpg : 151.4KB】  何故か「画像資料検証専用板」では画像の提示ができませんでしたのでこちらを使わせてもらいます。ファイル形式の問題のようですが・・・・。

 前列中央の黒い手袋の人物が小川一郎准尉だと確信しているのですが、どなたか小川准尉の写真をお持ちの方がいらっしゃいましたらお願いいたします。
 肩の階級章の三本線より准尉であることは間違いないと思いますし、10人程度の撫順憲兵隊に准尉が二人いるということは考えられません。

以下は熊猫の想像です
 左端に立っている背の低い丸眼鏡の男と、サングラスの男は正式な憲兵隊員ではなく、外国人軍属ではないかと思われます。
手前の丸眼鏡の背の低い男
 昭五式軍衣は着用しているものの、憲兵の腕章と肩の階級章がありませんし襟章も憲兵のものではありません。正式な兵士ではなく金子守一(朝鮮人)ではないかと思います。
後ろのサングラスの男
 軍服ではなく、陸軍軍属の制服のようです。憲兵隊通訳の王長春(中国人)ではないでしょうか。

http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=657;id=imgbord#657
 平頂山事件当時の憲兵隊の写真の、便服を着用しているのが牟文孝と思います。
 
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