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[2934]A級戦犯 靖国合祀・昭和天皇が不快感 ピッポ 06/7/20(木) 17:26
[2935]Re(1):A級戦犯 靖国合祀・昭和天皇が不快感 ピッポ 06/7/20(木) 17:39
[3015]【資料】1988.4.25天皇記者会見の内容 ピッポ 06/7/30(日) 19:59
[3026]Re(2):秦郁彦氏の毎日への寄稿文 たんこなす 06/7/31(月) 19:46
[3049]Re(2):メモと手帳のありさま ピッポ 06/8/3(木) 9:54
[3050]Re(2):保坂正康の評価 ピッポ 06/8/3(木) 10:22
[2936]Re(1):A級戦犯 靖国合祀・昭和天皇が不快感 とほほ 06/7/20(木) 17:47
[2966]靖国問題の論点 とほほ 06/7/24(月) 18:36
[2937]さぁ、どうなるか? 張った張った! gallery 06/7/20(木) 18:14
[2939]Re(1):かんなんしんく ピッポ 06/7/20(木) 19:05
[2940]Re(1):さぁ、どうなるか? 張った張った! gallery 06/7/20(木) 22:47
[2938]Re(1):松平永芳宮司と筑波藤麿宮司 ピッポ 06/7/20(木) 18:45
[2972]Re(2):松平永芳宮司「誰が御霊(みたま)を汚したのか」 ピッポ 06/7/25(火) 8:54
[2941]Re(1):トクダネ日経とトクオチ各社の続報 ピッポ 06/7/20(木) 22:52
[2942]Re(2):日経「小泉純一郎首相は・・・」 ピッポ 06/7/20(木) 22:54
[2943]Re(2):日経「安倍晋三は・・・」 ピッポ 06/7/20(木) 22:56
[2944]Re(2):朝日「小沢一郎は・・・」 ピッポ 06/7/20(木) 23:00
[2945]Re(2):朝日「・・・政界に波紋・・・」 ピッポ 06/7/20(木) 23:04
[2946]Re(2):毎日メイン記事 ピッポ 06/7/20(木) 23:22
[2947]Re(2):毎日、小泉 ピッポ 06/7/20(木) 23:24
[2948]Re(2):産経 ピッポ 06/7/20(木) 23:28
[2969]Re(3):産経21日朝刊 一方でデマ形成 ピッポ 06/7/24(月) 21:56
[2953]Re(1):岡崎久彦が考案した詐術 ピッポ 06/7/21(金) 14:57
[2955]Re(2):岡崎久彦が考案した詐術 ピッポ 06/7/22(土) 1:37
[3105]Re(3):岡崎久彦のチョンボ「正論」 ピッポ 06/8/9(水) 12:27
[3106]Re(4):岡崎久彦のチョンボ「正論」 とほほ 06/8/9(水) 12:47
[3107]Re(5):岡崎久彦のチョンボ「正論」 ピッポ 06/8/9(水) 13:45
[2957]Re(1):【資料】日本会議メールマガ ピッポ 06/7/22(土) 11:44
[2968]Re(2):【資料】日本会議メールマガ ピッポ 06/7/24(月) 20:07
[2970]Re(3):【資料】日本会議メールマガ 渡辺 06/7/24(月) 22:05
[2971]Re(4):彼らの思考回路が分からん ピッポ 06/7/24(月) 23:40
[2974]Re(3):【資料】日本会議メールマガ ピッポ 06/7/25(火) 17:05
[2975]Re(4):【資料】いぬぶし議員「秘密の大計画」以来の大一番 ピッポ 06/7/25(火) 17:14
[3008]Re(5):【資料】天皇を無視したい今どきウヨク ピッポ 06/7/30(日) 1:48
[2963]Re(1):A級戦犯 靖国合祀・昭和天皇が:徳川証言 渡辺 06/7/24(月) 2:50
[2964]Re(2):A級戦犯 靖国合祀・昭和天皇が:徳川証言 ピッポ 06/7/24(月) 12:58
[3136]Re(1):靖国合祀聞かれたら断った 広田弘毅元首相の遺族 ピッポ 06/8/11(金) 9:21
[3137]Re(2):靖国合祀聞かれたら断った 広田弘毅元首相の遺族 ピッポ 06/8/11(金) 9:31 [添付]
[4363]Re(1):A級戦犯 靖国合祀・昭和天皇が不快感 どろっぷ 07/4/26(木) 20:52
[4366]Re(2):A級戦犯 靖国合祀・昭和天皇が不快感 ピッポ 07/4/27(金) 8:48 [添付]
[4375]Re(3):A級戦犯 靖国合祀・昭和天皇が不快感 うさぎ 07/4/28(土) 7:08
[4376]Re(4):A級戦犯 靖国合祀・昭和天皇が不快感 ピッポ 07/4/28(土) 8:00
[4378]Re(4):A級戦犯 靖国合祀・昭和天皇が不快感 どろっぷ 07/4/28(土) 15:49
[4377]Re(3):A級戦犯 靖国合祀・昭和天皇が不快感 ピッポ 07/4/28(土) 11:28
[4367]Re(1):A級戦犯 靖国合祀・昭和天皇が不快感 ピッポ 07/4/27(金) 11:02
[4404]Re(1):「富田メモ研究委員会」の最終報告 ピッポ 07/5/5(土) 9:55

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[2972]Re(2):松平永芳宮司「誰が御霊...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/7/25(火) 8:54 -

引用なし
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   平成 4年10月 3日「東京レディーズ・フォーラム」での講演後に、
文藝春秋社発行の『諸君(H.4年 12月号)』に掲載
以下の文章は、靖国神社社務所が平成4年(1992年)に発行した小冊子『靖国神社をより良く知るために』にも掲載とのこと。


サイト、「鎮守の杜プロジェクト」より
http://homepage.mac.com/credo99/public_html/index.html
誰が御霊(みたま)を汚したのか 
http://homepage.mac.com/credo99/public_html/8.15/tono.html

冒頭部分のみ引用

     
  誰が御霊(みたま)を汚したのか 
   「靖國」奉仕十四年の無念
 
  あの総埋大臣の無礼な公式参拝は忘れられない。
政治権力との癒着を後任に戒め、私は職を離れた。
 
   靖國神社元宮司 松平 永芳 
  
     この三月で靖國神社のほうを引かせていただきました。十三年九カ月、ほぼ十四年間、ご奉仕させていただいたことになります。宮司を仰せつかったのが昭和五十三年、あとでまた申し上げるかもしれませんが、当初はお断りしつづけた。ところがどうしても逃げきれなくなって、お引き受けしたときに定年制を採用したのです。宮司は七十三歳、権宮司七十歳、禰宜以下は六十八歳ー。と申しますのは、「トップは十年」というのが私の持論でして、十年以上同じトップが続くと、人事や運営にどうしても偏りができてしまう。当時、私は六十三歳でした。それで宮司の定年を七十三歳にしようと(笑)。ところが十年の予定で始めた整備計画でお社の修築が意外に長びいたり、次にお願いする宮司さんを探したりで、持説通りには参りませんでした。

    私は神職の出ではございません。もともとはエンジニアです。戦前生まれで、松平とか徳川と付きますと、「宮司さん、学習院でしょう」とよくおたずねになるんですが、通いましたのは、靖國神社の隣組の暁星です。それは父の教育方針によるものでした。学習院ですと、教師は身分上は宮内官史ですから、お若い殿下方や華族の息子・娘にたいし、教育者として言うべきことをピシピシ言っているのかどうか。生徒は生徒で、多くの使用人に傅(かしず)かれ恵まれた育ち方をしている子が多い。そういう中に男の子はやれない、ということでございました。その点、外国人の経営する学校は「l+1=2」以外に、躾や人問教育もしてくれるだろうと。それで暁星に入れられたのです。またそのころの暁星は、カトリックでありながら、キリスト教臭の全くない、秀れた学校でした。

    晩星中学から海軍機関学校を経て、艦隊や陸上部隊勤務で南方におりました。戦後は、自衛隊ができるとともに、考えるところがあって陸上自衛隊に入ったのです。若い現役のころから陸海軍の将校教育に非常に批判的でありまして、自衛隊がまた誤らないように、どうしても設立当初の防衛大学校の教官にしてほしい、陸でも海でもいい、そう願っていたのが一つ。もう一つは、私の父(松平慶民)は、戦後のもっとも厭な時代に宮内大臣を仰せつかりました。赤旗を押したてた群衆が「天皇の台所を見せろ」と叫んで、皇居に入り込んでくる。そんな時代で、苦慮する父の姿を身近に見ておりました。皇宮警察は宮内大臣直轄から警視庁に移る。人員は削滅される。むろん近衛兵はいない。それで、いざというとき皇居を守護するためには、海の上でプカプカ浮かんでいるわけにはいかない。まァ、そういったことも考えて、海軍出身のくせに陸上自衛隊に入った次第です。その自衛隊を定年になり、旧藩地の福井から、市の博物館へ来てくれというので参りました。ですから海軍から陸上自衛隊ヘ、そして博物館館長、それでいきなり宮司と。何が本職だか分らない(笑)。そのよ!
うな経歴ですので、神職を養成する学校へは行つておりませんし、講習も受けていない。自ら"無免許宮司"と称しておりました(笑)。

    なぜ、そんなことができるかと言いますと、靖國神社は単立の神社で、神社本廳には属していない独立王国なんです。神社本廳は人事権も全くもっていない。靖國神社は戦後、国の手を離れ、やむをえず宗教法人になりましたが、法人として認可された靖園神社現則というものがあり、さらに社憲というものがある。この現則と社憲によって運営されていまして、宮司の任免については、宮司推薦委員会によって推された人間が、総代会で認められればよいことになっております。別に神職でなくてもかまわないわけです。前の宮司が亡くなったのが、五十三年の三月でした。その後釜にと私を口説かれたのが元最高裁長官の故石田和外先生で、「宮司になれ」「いや、ならない。絶対、そういう大役はお受けできない」と、さんざん逃げまわったのですが、四カ月目にとうとう、不譲慎ないい方ですが、無埋やり押し込まれてしまいました。

    私は死所を得ないまま、今日まで生き残った軍人ですし、ご奉仕するからには、命をかけてさせていただくけれど、自分は「経営」というものを一度も経験したことがない。それが、私が固辞した一番の理由でした。この神社は先細りになることが分っている神社なんです。やがて、ご遺族、戦友がいなくなる。おまけに「国家」を大切にする教育は、戦後一切されていない。先細りは目に見えている。そういうお社の責任者に、経営経験のないものが就くべきじゃない。そう考えてお断りしつづけたわけです。

    しかし、結局、お引き受けせざるをえなくなりました。もっとも家の宗旨は神道ですし、また自衛隊で防衛庁の戦史室に長くおりましたのも、靖國神社でご遺族との応接、御祭神調査などに大いに役立ちはいたしました。


以下

@軍人だけではない御祭神 
@創建の姿のままに
@「国家護持」に断固反対
@政治の渦中に巻き込まない
@心すべきは権力への迎合
http://homepage.mac.com/credo99/public_html/8.15/tono.html
参照
66 hits

[2974]Re(3):【資料】日本会議メール...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/7/25(火) 17:05 -

引用なし
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   以下も、日本会議首都圏地方議員懇談会 のサイトより
http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-428.html

日本会議は8月15日をデマで乗り切る戦略か?

 
  2006年07月25日
日経は「富田メモ」を公開すべきー藤尾発言の可能性あり
日本会議のメールマガを転送します。

 宮内庁の富田元長官の「非公式メモ」が公開された翌日の21日、ある新聞社の取材を受けました。テーマは、靖国問題で、次のようなやりとりをしました。

記者 「昭和天皇のご発言メモについてどう思いますか」
筆者 「昭和天皇様の前で富田長官がメモをとるとは思えないので、恐らく、このメモは、ご会見の後に、走り書きしたものと思われる。新聞記者の方ならおわかりでしょうが、このような、あとでまとめた断片的なメモは、一字一句正確に書き留めたものではなく、メモの走り書きだけでご発言を正確に再現できるとは思わないでしょう」
記者 「確かにそうですね。あとでまとめたメモだけでは、話の内容を正確に読み取ることは不可能です。
筆者 「そうでしょう。それに、もしこのメモに、昭和天皇様が、中曽根総理の反対で靖国参拝にいけない、とおっしゃられていたとしたら、どうされますか。そのメモをみて、昭和天皇は靖国参拝をしたかったのに、それに反対した中曽根総理はけしからんという紙面を作られますか」
記者 「そうした紙面は確かに作りません」
筆者 「要するに、貴社の方針に沿ったメモだから、大々的に紹介しているだけであって、それは恣意的な政治利用にあたるのではないですか」
記者 「それはそうですね」
筆者 「ですから、あくまで、これが昭和天皇のご発言をまとめたものであるにしても、それを断言するためには、なぜこのメモのご発言を昭和天皇のものだと断定したのか、その根拠をきちんと提示してもらいたいと思いますね。そのうえで、これまでの昭和天皇のお考えなども踏まえ、その真意を慎重に検討すべきであって、特定の政治的主張に利用することは慎むべきではないでしょうか」
記者 「おっしゃる通りですが…」

 この「メモ」を、日本経済新聞は独占し、弁護士に預けたまま、公開しようとしていません。

 しかし、日本経済新聞は、「このメモは、富田長官が昭和天皇のご発言をまとめたもの」と断定し、その具体的な根拠をきちんと示していません。ことは重大な問題ですので、メモの全体像も含め、きちんとした情報公開が必要だと思います。

---------------------------------------------------------------

 それに関連して、以下のようなメールを会員からいただきましたので、転送します。富田長官メモには、紹介されている言葉の前に、 「藤尾(文相)の発言」 という文字があったことから、あれは、藤尾文相の発言を書きとめたものではないか、という疑問が出でいるというのです。
 
このような疑問に、日本経済新聞はしっかりと答える責務があると思います。

【兵庫県のMさんより】
昭和天皇のご発言という触れ込みだったメモが、実は藤尾元文相のものだったことが分かったようです。
下記の掲示板の写真をご参照下さい。
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1715328

「藤尾(文相)の発言」という言葉が、新聞等で引用された文章のすぐ上にあり、意図的にこの言葉を隠して報道したとしか考えられません。

-------以下、上記URL内の文章のみ引用します。-------------
さて、この画像を良く見て見ましょう
日経の記事になった発言の前にも文章があります

その全文

 前にもあったが どうしたのだろう
 中曽根の靖国参拝もあったが
 藤尾(文相)の発言。
 =奥野は藤尾と違うと思うがバランス感覚の事と思う、単純な復古ではないとも。

私は或る時に、A級が合祀され、その上、松岡、白取までもが、筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが松平の子の今の宮司がどう考えたのか
 易々と松平は平和に強い考えがあったと思うのに、親の心子知らずと思っている。だから 私あれ以来参拝していない。それが私の心だ。

はい、そうです、
中曽根総理大臣の靖国参拝を中止したことが話題になっていた当時の、藤尾元文相の発言です昭和天皇の発言ではありません

藤尾正行といえば1986年中曽根内閣で文部大臣に登用された後、「戦争で人を殺しても殺人には当てはまらない」「韓国併合は合意の上に形成されたもので、日本だけでなく韓国にも責任がある」などの発言して問題にされ中曽根に罷免された人です。当時、タカ派と呼ばれ、「放言大臣」とか揶揄されていました。

さてこのメモの中で「奥野」という名前も出てきますね奥野という人はどういう人なのでしょう?

奥野誠亮はこの当時国土庁長官藤尾氏と同じようにタカ派と呼ばれ「従軍慰安婦は商行為」とか日中戦争について「あの当時日本に侵略の意図は無かった」とか発言し同じく国土庁長官を辞任させられています。

その奥野氏は「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の初代会長でもあるわけです。

つまり靖国神社参拝推進派 藤尾氏と奥野氏、同じタイプのタカ派と呼ばれていましたが実は靖国参拝を推進する奥野氏と違い、藤尾氏は靖国参拝をしていないのです。また「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」にも参加していません。

つまり、藤尾氏のこの発言は同じタイプと言われるが行動が異なる奥野氏のことに触れるとともに、自分(藤尾氏)が何故、靖国参拝をしないのか、その理由を発言したものなのです。

さらに昭和天皇が参拝を止めたのは1975年です。しかしA級戦犯の合祀は1970年に決定されています。当時、合祀は宮司預かりとなっており、実際にはA級戦犯合祀されたのは宮司が変わった1978年

1975年当時に1978年に合祀されることもわかり得ないのに、それを理由として参拝を中止したと言うのは辻褄が合いませんね。

つまり、この発言は昭和天皇の参拝取りやめに関する発言では無いのは明白で、藤尾元文相が参拝を中止した理由を述べた発言です。
マスゴミの捏造報道もいい加減にして欲しいものですね( ´∀`)

【Mさんより】
世間を騒がせている、所謂「昭和天皇ご発言」を、↓のURLで写真をもう一度見てみよう。

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1715328

この写真から確実にいえるのは、日付は4/28、そしてこのメモは4項目めであることです。(メモの一番上を参照)

最低限、1―項目のメモに何が書いてあったのかを我々は知る必要があるし、それらを見れば誰の発言か分かる筈である。ところが、日本経済新聞は産経新聞に対してこの1−3項目に関しては見せられないと言ったそうだ。


ところで、この写真を見て気づくのは、この所謂「ご発言」のメモの前のページだが、実はこれもメモ帳に直接書いたものではなく別の紙に書いたものを貼ったか、或いは別の紙に書いたものをコピーしたものを貼ったように見うけられる。

しかも、「ご発言」のメモの貼り付け方と違い、紙全面に糊を付けて貼ってある。

このメモ帳は、そもそも直接書くものではなく、別のメモ用紙を貼りつけるスクラップブックのようなものなのか?こうなると、このメモ帳自体が怪しい。違和感はまだある。↓この写真を見て欲しい。

http://ca.c.yimg.jp/news/20060720133420/img.news.yahoo.co.jp/images/20060720/jijp/20060720-04602612-jijp-pol-view-001.jpg

後ろに過去のメモ帳らしきものが並べられているが、過去のものは大きさも形式も同じノートなのに、左側にある62年のものは、まったく違う形式な上、9月から12月までの3ヶ月のものなのに厚さも断然分厚い。
また、それに比べて今回のメモはまた一段と大きさも形式も違うようだ。

少なくても10年も同じようなメモ帳にメモを取っておられた人が62年になって急にメモ用紙でとるようになり、その次の年にはまた別のスタイルのノートに書くようにしたと?

そうこう書いているうちに、「ご発言」メモの前のページを画像反転してコントラストを調整するなどしてくださった方があるのを見つけたの
で、それを見てみた http://tech.heteml.jp/2006/07/post_638.html

これを見ると表題は「※ Pressとの会見」となっているようです。残念ながらすべては読めませんがその中で「4.29に吐瀉」なら「昭和62年4月29日、昭和天皇の86歳のお誕生日をお祝いする、「祝賀の儀」の後、「宴会の儀」が宮殿の大食堂豊明殿で行われた。この宴会の最中に天皇陛下が戻されたのだ。」という事実に合致するが、メモの日付とは整合性がとれない。4:29とも読めなくは無いが、ちょっと不自然。

また、このメモ(4.)の内容の前段階3.があるはずと思いましたが、何故か3.がありません。もしかしたら3.に奥野発言に関するコメントがもっとあったはずなのにそのメモ用紙が無くなっているかもしれません。

昭和天皇のお言葉をメモしているのにもし、そのメモを紛失しているとしたら富田氏はとんでもない人ということになりますね。高松宮様のご薨去は、昭和62年2月3日なので、このメモが昭和63年のものというのは合っているのでしょう。このメモ、調べれば調べるほど不可解です。

【福井県のKさんより】
いつも、日本会議のメールを楽しく読ませていただいております。
富田メモの件ですが、突然この時期に、富田元宮内庁長官のメモが出てきたのか疑問に思う一人です。ひとつは、小泉総理の8月15日靖国神社阻止。もうひとつは、総裁選挙が絡んでいるのだろうと思います。

私はこの件の黒幕は中曽根元総理であろうと思います。まず、小泉総理は、反中曽根政治で、中国の圧力で靖国参拝を中止した中曽根氏に対して、中国からの批判があろうと靖国参拝を続行している。

小泉・中曽根は天敵関係にある。

それはどこでメモとつながるか、まず、メモを書いたのは富田元宮内庁長官です。彼は警察官僚出身です。そのメモ情報はそれらのラインの人が知ってたのでしょう。

つまり、内務省人脈であり、その頂点にたつのか中曽根氏です。中曽根内閣の官房長官を勤めた後藤田氏(元警察庁長官)の部下が富田氏(元警察庁警備局長)です。

また、その数週間前に古賀衆議院議員(遺族会会長、靖国神社総代)が、A級戦犯分祀論を個人的見解として述べました。そして、靖国神社総代を辞職する。

遺族会は「分祀問題は靖国神社が判断する問題」として触れないことにしている。それをあえて会長がA級戦犯分祀論を述べている。その後に天皇のメモ、はたして偶然の一致なのか、密接に関連しシナリオがあったと推測する。

中曽根元首相、山崎拓元幹事長、古賀元幹事長あたりが中心人物か、ともあれ、天皇を政治利用する人達を徹底的に追及し、小泉総理が8月15日に靖国神社に参拝できる環境(世論)をつくるべきです。
以上、私の意見ですが、今後とも宜しくお願いします。


69 hits

[2975]Re(4):【資料】いぬぶし議員「...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/7/25(火) 17:14 -

引用なし
パスワード
   藤尾(文相)の発言説はガセネタ扱いと思ったら、
日本会議の梃入れで、宣伝開始か?

「秘密の大計画」以来のデマ大一番

いぬぶし秀一の激辛活動日誌
http://blog.goo.ne.jp/inuhide
http://www.enpitu.ne.jp/usr9/98044/diary.html
同掲示板
http://www.e-towncom.jp/iasga/sv/eKaigi_Main?uid=531&aid=0&s=761,388&11538149
87 hits

[3008]Re(5):【資料】天皇を無視した...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/7/30(日) 1:48 -

引用なし
パスワード
   今回の富田メモ騒動でわかったことは、日本の現代ウヨクたちが揃って天皇の意向を無視したがっている、ということだ。
不思議なことだがとても面白い現象だ。私が覗いたものだけだが、ちょっとindexしてみたい。

(1)特記すべきは今日はじめてWEBでみた、天皇発言は無視できないというウヨクの人の意見。これを最初に読むと、他がただの功利主義にしか見えない。
No.44272:天皇と靖国、その関係の修復を願って
http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=1054&forum=1

(2)サンケイや日本会議の主流は、昭和天皇発言をウソだとは言っていない。昭和天皇はA級合祀に反対なのではなく、特定の人物が嫌いなだけだ(東条は大好きだ)。といった感じ。主張の目的は小泉の8/15参拝実現。
★産経7/21主張
http://www.sankei.co.jp/news/060721/morning/editoria.htm
★日本政策センター伊藤哲夫氏
http://www.seisaku-center.net/modules/wordpress/index.php?p=280
http://www.seisaku-center.net/modules/wordpress/index.php?p=282
★昭和天皇が嫌いな人間の予想がはずれた、上坂冬子
http://www.sankei.co.jp/news/060721/morning/seiron.htm
★天皇発言を無視し、分祀はできない一点張りの、大原康男
http://www.sankei.co.jp/news/060723/morning/seiron.htm
★天皇の私的発言は無視しろの。百地章
http://www.sankei.co.jp/news/060726/morning/seiron.htm
★桜井よしこは、上記など請け売りのごった煮。

(3)サンデープロジェクトで何をいったか、ネトウヨたちにさっぱり理解してもらえなかったのは
★「尊き人のために」の岡崎久彦
http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=1054&forum=1
これは1年前からの持論。天皇がなにを言おうと侍従たちの創作だと一蹴できるので、絶対無視、絶対不敗の理論だ。

(4)2chで騒いだ「日経記事捏造論」も、天皇発言無視の変化球、紛れ球の一種だろう。
★2chラーによるまとめ
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=teconomy&page=4&nid=2391217
など
★そのペダンチック・バージョン
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2006/07/post_2401.html
紙面の日経を全く読んでないことが露呈
★2ch請け売り藤尾発言派はご存知、いぬぶし大田区議
http://www.enpitu.ne.jp/usr9/bin/day?id=98044&pg=20060722
http://www.e-towncom.jp/iasga/sv/eKaigi_Main?uid=531&aid=0&s=761,391&11541901
★2ch請け売り徳川侍従長派の依存症のひと
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2006/07/post_5e43.html
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2006/07/post_6c2b.html
★そのまた請け売りの衆議院議員候補、長尾たかし
http://blog.goo.ne.jp/japan-n/e/8c043cd7777d6ea86feec625f1d6f835
さすが衆議院議員候補だけあって、コメント欄には丁寧な批判文

とりあえず以上ですが、右といわれる人たちの生態観察としては面白い。
81 hits

[3015]【資料】1988.4.25天皇記者会...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/7/30(日) 19:59 -

引用なし
パスワード
   1988.4.25天皇記者会見(記事は4.29)の内容がWEBに貼られていましたので紹介します。
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2006/07/post_6c2b.html#comments
より

891 名前:(´・ω・`)(`ハ´  )さん 投稿日:2006/07/21(金) 16:56:43 ID:B8ulHPiq
天皇誕生日 「大戦が一番いやな思い出」 87歳の陛下、ほお伝う涙/記者会見
1988.04.29 (1)

 「体調はよく回復したし、疲れることもなく、だいぶ余裕があると思います」−−
天皇陛下は、八十七歳の誕生日を前にした記者会見で、太平洋戦争についてや、
病気のため中止となった沖縄訪問への意欲を、一つひとつ言葉を選ぶように語られた。
「大戦のことが一番いやな思い出」と語りつつ、ほおに一筋、涙も見せられた。
昨秋の手術から七か月。「健康時の八、九分まで体調が戻られた」と側近も驚くほどの
めざましい回復ぶりを示されている陛下は、暖かくなった今月から、ほぼ連日、宮殿や
生物学御研究所に通われている。お住まいの吹上御所では、出版を予定している
「皇居の植物」の執筆にお忙しい毎日。ご進講も多方面のテーマを希望され、
公務にも強い意欲を燃やされている。

 二十五日に行われた記者会見での陛下の主なご発言は次の通り。

 −−昨年の手術から半年余りたちましたが、最近のご体調はいかがでしょうか。

 「体調はよく回復したし、四月に入ってから、ほとんど毎日宮殿や生研(生物学
御研究所)に出かけています。いっこう疲れる様子もなく、だいぶ余裕があると
思いますが、侍医の意見を尊重して無理のないように努めています」

 −−手術が決定した時、どのようにお思いになりましたか。

 「医者を信用して、何ともそういうことは感じませんでした」

 −−皇后陛下のご体調はいかがですか。

 「皇后は腰の痛みは安定したようでありますが、まだ、ひざの故障があるので
歩くのが不自由でありますから、女官の介添えが必要なのであります。
そのほかのことについては、落ち着いたようであります」

 −−生物学の研究も再開されましたが、「皇居の植物」の執筆などで苦心された
点をお話し下さい。

 「普通の学者は研究に専念できますが、私の立場では、公務の余暇にしなければ
ならないので、研究がどうしても断続的になります。だから、成果をまとめるためには、
長い年月が必要であります。植物の場合は、林道等の開発のために消失することもあります。
動物の方は動くことが多いので観察はなかなか困難でありますし、天候のために、
イソ採集や海底の観察ができないこともあります」

 −−先日、五十年以上にわたり陛下にお仕えした徳川義寛侍従長が退任しましたが。

 「徳川侍従長に対しては、思い出も深いのでありますが、特に終戦の時に玉音盤をよく
守ってくれたこと、戦後、全国を巡遊した時に岐阜の付近で歓迎の人波にもまれてロッ骨を
折ったことがあります。裏方の勤務に精励してくれたことを感謝しています。
また、ヨーロッパやアメリカの親善訪問の準備をよくしてくれたので、訪問はだいたい
成功したように思われます。年齢のためにこのたび辞めることになりましたが、
非常に残念に思います」


913 名前:(´・ω・`)(`ハ´  )さん 投稿日:2006/07/21(金) 16:59:24 ID:B8ulHPiq
天皇誕生日 「大戦が一番いやな思い出」 87歳の陛下、ほお伝う涙/記者会見
1988.04.29(2)

 −−陛下が即位式(昭和三年十一月)をされてから六十年になりますが、
第二次世界大戦について、改めてお考えをお聞かせ下さい。

 「何と言っても、大戦のことが、一番いやな思い出であります。戦後、国民が相協力して
平和のために努めてくれたことをうれしく思っています。どうか今後とも、そのことを国民が
忘れずに、平和を守ってくれることを期待しています」

 −−日本が戦争に進んだ最大の原因は何だと思われますか。

 「そのことは、人物の批判とかそういうものが加わりますから、今ここで述べることは
避けたいと思います」

 −−沖縄訪問について、お気持ちをお聞かせ下さい。

 「病気のため、沖縄の旅行を中止したことを今も残念に思っています。
その時に、健康が回復したら、なるべく早い時に旅行したいと考えを述べましたが、
今日も、その精神につきましては何も変わっていません」

読売新聞社



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[3026]Re(2):秦郁彦氏の毎日への寄稿...
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 たんこなす E-MAIL  - 06/7/31(月) 19:46 -

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   書評日記  パペッティア通信 
http://plaza.rakuten.co.jp/boushiyak/diary/200607280000/
より転載します。

 
●  合祀の手順の説明を 秦郁彦(日本大学講師)

従来の推定を裏付ける第一級の歴史資料
靖国神社は天皇参拝の中断覚悟で決断
 
 日本経済新聞社が入手した故富田朝彦元宮内庁朝刊の日記とメモに、目を通す機会を得た。日記は1986年まで、メモ手帳は86年から昭和天皇が崩御される半年前の88年6月までで、両者は重複していない。

 日記は害して簡潔だが、メモは天皇の発病(87年9月)以降は病状を記録する意味もあってか詳しくなり、昭和天皇も信頼する富田氏に言い残しておきたいとの気持ちもあってか、自らさまざまな話題を取り上げ、秘話的なエピソードを含めて語っている。皇室の内情に触れた部分もあり、全面公開は無理だろう。

 第一級の歴史資料であることはすぐに分かったが、この時期に公開することによる波及効果の大きさを思いやった。

 富田氏は天皇が亡くなられた直後の89年1月9日から数回、「亡き陛下をしのぶ」と題したエッセーを読売新聞夕刊に寄稿している。比べてみると、日記やメモを参照しつつ書かれたことは明らかだが、今回発表された靖国神社関連の話題への言及はない。

 さて、論議の的になっている富田メモの靖国部分の全文についてだが、97年に故徳川義寛侍従長の「侍従長の遺言 昭和天皇との50年」(注 岩井克己 聞き書き・解説 朝日新聞社刊)が刊行されて以来、他の関連証言もあって、天皇不参拝の理由がA級戦犯の合祀にあったことは研究者の間では定説になっていた。徳川氏は松平永芳宮司とのやりとりを、「天皇の意を体して」とあからさまには書いていないものの、関係者や研究者はそのように読み取ってきた。

 したがって、私は富田メモを読んでも格別の驚きはなく、「やはりそうだったか」との思いを深めると同時に「それが私の心だ」という昭和天皇発言の重みと言外に込められた哀切の情に打たれた。なぜか。

 応対した徳川氏がA級合祀に疑問を呈したところ、「『そちらの勉強不足だ』みたいな感じで言われ、押し切られた」(「侍従長の遺言」)という。また、当時の靖国神社広報課長の馬場久夫氏によると、「こういう方をおまつりすると、お上(天皇)のお参りはできませんよ」(21日付毎日新聞朝刊)と宮内庁の担当者から釘を刺されたという。

 つまり、当時の松平宮司は天皇の内意を知らされた時、今後の天皇参拝が不能となってもかまわないという覚悟のうえで合祀に踏み切ったことになる。それは「私は就任前から『すべて日本が悪い』という東京裁判史観を否定しないかぎり、日本の精神復興はできないと考えておりました」という松平氏独特の歴史観に発していた。

 しかも、合祀を期待していなかったはずの遺族(と本人)の事前了解もとらず、神社の職員に口止めしてこっそりまつったため、半年後に共同通信がスクープ報道するまで、国民も知らされていない。松平路線を継承しているかに見える現在の靖国神社は、当然の手順を踏まなかった理由を説明する責任があると考える。



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[3049]Re(2):メモと手帳のありさま
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 ピッポ E-MAIL  - 06/8/3(木) 9:54 -

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   メモと手帳のありさまについての日経記事を紹介します。

日本経済新聞 2006/07/23付 33面かこみ記事
 
 富田朝彦元宮内庁長官が残した日記・手帳(富田メモ)を公表するに当たり、日本経済新聞はその筆跡、内容などを詳細に分析し、現代史の専門家の意見も聞いた。その結果、書き込まれていた行事、出来事の日付や内容は事実と整合性があり、メモの信頼性は高いと判断した。

 富田メモにはいくつかの特徴がある。まず日記は一部年をまたいでいるが、一年で一冊の体裁。期間は一九七五年から八六年まで。内容は昭和天皇の言葉や宮内庁での出来事のほか、家族や友人のことなど多岐にわたり、写真や新聞の切り抜きなども数多く張り付けられている。必ずしも毎日書き続けられていたわけではなく、日付の間隔がかなり空いている部分もある。

 一方、手帳は背とじの取れたものを含めると二十数冊。表紙に「T・TOMITA」の名前の入った手帳が八七年から九七年まで。その日の予定、出来事が小さな字でびっしりと書き込まれている。ただ、箇条書きが多く、天皇の言葉を詳しく書いた部分はほとんどない。

 これと様相を異にする別の手帳が八七、八八年の二年分ある。八七年分は二つに分かれており、それぞれ五センチ近い分厚さ。八八年の手帳も二冊ある。内容もそれまでの年の手帳とは一変し、毎日の出来事や出会った人物との会話、宮内庁が抱える課題などが詳しく書き込まれている。

 なぜこの二年分の手帳の内容が詳しくなったかは不明だが、日記が八六年で途絶えていることから、手帳が日記代わりになったのではないかと見られる。

 この二年間の手帳の特徴は書き込みのあるメモ用紙が至る所に張り付けられている点。出来事や発言を手近のメモ用紙に書き込み、あとで手帳に張り付けたのではないかと見られる。昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に不快感を示した言葉が見つかった手帳は、すべてメモ用紙を張り付けた形になっている。

 その内容は手元にあるメモ用紙にことあるごとに書き込んでいたのではないかと見られ。一日の出来事すべてが書き込まれているのではないかと思えるほど詳細。一日の出来事を思い出しながら書く日記とは違い、タイムラグが少ないことの書き込みはより正確な記述といえよう。


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[3050]Re(2):保坂正康の評価
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 ピッポ E-MAIL  - 06/8/3(木) 10:22 -

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   毎日新聞(平成18年7月28日付朝刊11面)の「論点」より

保坂正康(作家)の評価
  
健康に不安をもった天皇の『公式』発言 A級戦犯合祀への不満を追認するもの

 
 このメモの靖国神社についての部分は字数にしてわずか125字程度だが、きわめて歴史的な意味をもっている。昭和天皇の個人的直話が明らかにされるのは、逝去後の『昭和天皇独白録』以来のことと思われるが、今回のこの直話はいささかの推測を重ねれば、昭和天皇自身が自らの健康に不安をもち、これだけは語っておきたいとの強い意思があったことが窺(うかが)われるのである。しかも昭和天皇は側近に対してもその職務に応じて、話す内容を変えるのだが、宮内庁長官にその意思を伝えたことは公式のものであり、いずれ明らかになったとしてもかまわないとの考えがあったとさえ思える。

 一部の論者がこの富田メモについて、その信憑(しんぴょう)性を疑っているが、この125字が伝えている歴史的事実を検証すると、そういう疑い自体あまりにも史実に鈍感だということがわかる。私の見るところ、この富田メモが伝えている内容はすでに知られていることであり、ただひとつ欠けていたのは、昭和天皇自身のそれを裏付ける史料があるかないかということだった。今回のこのメモはすでに語られていることが追認されたとの意味をもっている。…

 …富田メモでの昭和天皇の怒りは松平宮司の歴史観にもあるように思う。というのは、松平氏は戦犯合祀について宮司職をはなれたあとにある講演で、日本の戦争状態は1952年4月28日までのアメリカを中心とする連合国の占領下でも続いていたと自身の歴史観を披瀝(ひれき)した。したがってこの間のA級戦犯の死者(絞首刑の7人以外の7人)も戦死扱いだというのだ。東京裁判は戦時下の不当な軍事裁判ということになる。この歪んだ戦争観に、昭和天皇は怒りをもっていたことがわかる。それが『松平(注・永芳氏の父慶民氏。天皇側近)は 平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている』という表現である。

 さらに最後の『それが私の心だ』は、天皇の怒りは頂点に達しているとの意味である。私はこの最後に記されている7文字を読みながら、天皇が2・26事件時の本庄繁侍従武官長を叱(しか)りつけた強い表現をなんども思い浮かべた。


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[3105]Re(3):岡崎久彦のチョンボ「正...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/8/9(水) 12:27 -

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岡崎久彦サンが迷走しています。

富田メモが報道された当初は、「尊き人の為に」説。
つまり、昭和天皇の取り巻きが昭和天皇を「平和主義者」として描くための作文だ、を主張していましたが、1週間ぐらいたって違うおかしな方向にいってしまったようです。


平成18(2006)年8月2日[水]
■【正論】元駐タイ大使・岡崎久彦 釈然とせぬ昭和天皇のご発言メモ
---------------------------------------------------------------
http://www.sankei.co.jp/news/060802/morning/seiron.htm

全体に陛下らしいご風格見えず

≪戦犯を認めてはおられず≫
 昭和天皇のご発言メモ、私はいまだに釈然としない。何度も読み返してみたが、昭和史についての私の知識から言ってどうしても昭和天皇のお言葉と読めないのである。

 英国風の君臨すれども統治せず、を信条としておられた陛下が、こんなに乱暴に、A級戦犯の合祀(ごうし)と御親拝中止を自分の御意思で結びつけられるだろうか。

 そもそも戦争犯罪者というものについて、昭和天皇は、「占領軍にとっては犯罪者であっても、日本にとっては功労者」あるいは「朕(ちん)の忠良なる臣僚」とおっしゃったこともあり、日本の犯罪者と認めておられない。

 また戦犯に限らず、戦後の政治家、靖国宮司について、ご自分の臣僚の悪口をこんなに露骨におっしゃるだろうか。

 具体的に論争すれば、ああだこうだという反論はあり得よう。ただ、私の感じるのは、全体の流れに昭和天皇らしいご風格が見えないことである。

 この陛下のお言葉らしくないものが、どうして出てきたかの理由を考えて色々なことを想定してみた。

 富田元宮内庁長官が、当時の時流から考えて、陛下のためを思って、陛下が平和主義者、戦争反対だったことをことさらに強調しようとしたのか、あるいは警察庁の先輩でありボスである後藤田元官房長官の靖国参拝中止の政策を、背後で宮内庁からバック・アップしようとしたのか、とも思った。

 しかし、それはいずれも、富田氏のような忠実な官僚がすることとしては大胆に過ぎる。

≪一対一のメモだったのか≫

 あるいは陛下のご健康の衰えのためかとも思った。しかし、当時の陛下が、健康はともかくご判断力の上で、そこまで衰えられていたという証言もないし、また、私としては到底信じられない。

 そうしているうちに妙なことに気が付いた。テレビでも新聞でも公表されているこの文書の末尾の1行である。それは、「・関連質問 関係者もおり批判となるの意」と読める。

 「関連質問」というのは、宮内庁内の記者会見の際、常用される言葉の由である。これを普通に読めば、「その後関連質問が出たが、その趣旨は(批判された人々の)親族なども居るので、批判がましくはないか、ということであった。」ということになる。

 これは明らかに富田氏の質問ではない。記者会見の後の記者からの質問である。

 また、私は確認はしていないが、その前のページに「PRESS(プレス)の会見」という字があるようである。

 とすると、これは、陛下と富田長官の一対一のメモでなく、何らかの記者会見のメモである。

 関連質問の内容からすれば、オフレコの記者会見であったろうが、いずれにしても陛下ご自身の記者会見とは、到底思われない。天皇陛下にこういう関連質問がされる可能性は、富田氏からも、記者団からもあり得ない。

 そもそも、記者会見のような場所で昭和天皇がこういう発言をされる可能性は、既に述べた私の個人的感触だけでなく、少しでも昭和天皇のことを知っているすべての人が否定するところであろう。

 昭和天皇が富田氏に一対一でひそかに語られたということで、わずかに信憑性(しんぴょうせい)(既に述べたように私はそれも疑っている)が生まれるのである。

≪徳川氏会見メモの可能性≫

 その後、私自身が確かめたわけではなく、ひとから聞いた話であるが、陛下87歳の御誕生日前日の昭和63年4月28日に、どんな記者会見があったかといえば、昭和天皇ご自身によるものはなく、その前の4月12日に勇退された徳川侍従長が、それまで職務上、固く沈黙を守っていられたのが、元侍従長として自由な立場で記者会見を行ったことがある由である。

 そこには富田氏も長官として同席し、メモを取っていた、という事実があるようである。

 この徳川氏の記者会見に同席された方のメモ、少なくとも記憶があれば、この問題は解明される可能性が出てくる。ただ、もう18年前のことであり、出席者が誰も残っていないとすれば、この問題は解決されないままになってしまう可能性もある。

 その場合、私としてはこのメモの信憑性に疑いをもったままであろう。私の尊敬し個人的にも親しい歴史学者たちが、おおむねその信憑性を信じていると新聞が報じている中で、私だけは異端者となるがそれもやむを得ない。(おかざき ひさひこ)


日経が、4月25日の昭和天皇記者会見についての確認をとるための面会だ、といってることを無視しているようです。評論家岡崎氏も産経しか読まない読者なのでしょうか。

そうしてあろうことか、すでに(8月2日現在)妄説だと論証され尽くした「私=徳川侍従長」説に飛びついています。

そこのところを再度抜き出すと

 その後、私自身が確かめたわけではなく、ひとから聞いた話であるが、陛下87歳の御誕生日前日の昭和63年4月28日に、どんな記者会見があったかといえば、昭和天皇ご自身によるものはなく、その前の4月12日に勇退された徳川侍従長が、それまで職務上、固く沈黙を守っていられたのが、元侍従長として自由な立場で記者会見を行ったことがある由である。


元タイ大使の外交官氏は、随分と不確かなウワサに飛びついたものです。
そうして、この不確かなウワサが嘘であることがばれるには時間がかかるとタカをくくっていたようです。

 この徳川氏の記者会見に同席された方のメモ、少なくとも記憶があれば、この問題は解明される可能性が出てくる。ただ、もう18年前のことであり、出席者が誰も残っていないとすれば、この問題は解決されないままになってしまう可能性もある。


ところがどうでしょう。わたしが、
「徳川侍従長 記者会見」でGoogleってみましたところ、18年前のことは或るブロガーによって、岡崎投稿の10日も前に既に解決されていたのでした。


児童小銃2006-07-24
■[社会] 昭和天皇と徳川侍従長の記者会見
http://d.hatena.ne.jp/rna/20060724/p2

28日のメモは29日の報道を控えた確認作業か何かの際のメモかと思われますが、実際そういうことがあったのかどうかは未調査。

さて、例のメモは徳川侍従長の引退記者会見のメモではないかという説が流れていますが、28日にそのような会見はあったのでしょうか? やはり G-Search で「徳川義寛」で検索したのですが、28日以降では上の検索結果に含まれるものしかありません。これは陛下の会見で徳川侍従長についてのやりとりがあるからです。

そこで検索範囲を広げたところ、こんな記事を見つけました。

毎日新聞 勇退の徳川侍従長が会見、昭和史のエピソードなどを語る 1988.04.12 東京夕刊 9頁 社会 写図有 (全1,556字)

記事の冒頭を引用します。

勇退の徳川侍従長が会見、昭和史のエピソードなどを語る

1988.04.12 東京夕刊 9頁 社会 写図有 (全1,556字) 

 宮中の生き字引、尾張徳川家の血筋、学者肌、頑固−−。様々な人物評を贈られた徳川義寛侍従長が半世紀を超える侍従生活に終止符を打つ。侍従に就任したのは2・26事件の年の昭和十一年十一月。戦前、戦後の激動の中で、天皇、皇后両陛下の素顔に接し、皇室を支えてきた。次の侍従長は生っ粋の行政官。天皇の側近も大きく様変りする。

 十二日午前の記者会見で徳川さんは「いつも陛下のおそばで教えていただいているうちに五十年がたってしまった」と退官に当たっての感想を語った。さらに「乾徳(けんとく)をつねに仰ぎてひたぶるに 仕へまつりぬこの五十年(いそとせ)を」と、今朝の心境を託した歌を披露した(乾徳とは天皇の徳の意味)。六十年十月、侍従長に就いた際「微風のような仕事をしたい」と述べたが、陛下の手術という“嵐”を無事乗り越え、皇居の新緑を渡る春風に送られて、昭和史のステージを去る。

徳川侍従長の会見は4月12日なのです。4月28日ではありません。なお、検索範囲は5月31日まで広げましたが、29日の陛下の会見記事以降は一つもヒットしていません。

つまり、徳川氏が28日に(なぜか)再び記者会見を行い、しかもそれが朝日・毎日・読売で一切報道されない(もしくは何者かの陰謀によりこの三紙のデータベースから報道されたはずの記事が消された!)と考えない限り、徳川侍従長の会見メモ説はありえません。
以上。


どうやら、産経も岡崎久彦氏も、直ぐにばれてもいいから沢山のデマを流して富田メモを葬り去ろうと決意したようです。(・・・ということはデマ屋宣言?)
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[3106]Re(4):岡崎久彦のチョンボ「正...
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 とほほ E-MAIL  - 06/8/9(水) 12:47 -

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   ▼ピッポさん:
>どうやら、産経も岡崎久彦氏も、直ぐにばれてもいいから沢山のデマを流して富田メモを葬り去ろうと決意したようです。(・・・ということはデマ屋宣言?)

この方々は、ご自分に都合の悪い出来事は全て否定したいのですな(^^;
否定の仕方も全て同じ、証拠が出れば「証拠の証拠がない、、。」(笑)

そのうち「昭和天皇のまぼろし、ひろひとはいなかった」なんて本を出したりして(^^;(^^;
75 hits

[3107]Re(5):岡崎久彦のチョンボ「正...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/8/9(水) 13:45 -

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   ▼とほほさん:
>この方々は、ご自分に都合の悪い出来事は全て否定したいのですな(^^;
>否定の仕方も全て同じ、証拠が出れば「証拠の証拠がない、、。」(笑)
>
>そのうち「昭和天皇のまぼろし、ひろひとはいなかった」なんて本を出したりして(^^;(^^;

今回のこのことは、ネット時代のデマゴギーの製造過程、流布過程の研究に最適な素材だと思います。

たとえば、このブログ主サンは神霊教の方のようですが
http://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/14385c58e45a4ed03ab7abd317537fbc
ここを見ると、さまざまなデマがとっかえしっかえ現れては消え、メディアをかえて現れてはきえしていることが分かります。
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[3136]Re(1):靖国合祀聞かれたら断っ...
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 ピッポ  - 06/8/11(金) 9:21 -

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   2006年07月27日 共同通信
 
靖国合祀聞かれたら断った  広田弘毅元首相の遺族

 東京裁判で処刑されたA級戦犯で唯一の文官、広田弘毅元首相の孫で、元会社役員弘太郎さん(67)が27日、共同通信社の取材に対し、靖国神社への広田元首相の合祀(ごうし)について「靖国から事前に合祀の連絡はなかった。聞かれていれば断った」と話し、反対の立場を明らかにした。

 A級戦犯の遺族が合祀に異議を唱えたのは異例で、議論が高まっているA級戦犯の分祀問題にも波紋を広げそうだ。

 広田元首相は外交官出身で2・26事件後の1936年に首相になった。軍部の政治介入は激しく、わずか1年で首相を退いた後、日中戦争時には外相を務めた。東京裁判では一部の裁判官が無罪を主張したが、48年にA級戦犯として東条英機元首相らとともに処刑された。靖国神社は78年、ほかのA級戦犯13人とともに合祀した。


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[3137]Re(2):靖国合祀聞かれたら断っ...
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 ピッポ  - 06/8/11(金) 9:31 -

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1940年の広田弘毅元首相。抱かれているのは弘太郎氏=「広田弘毅」(葦書房)から
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A級戦犯、広田元首相の遺族 「靖国合祀合意してない」
2006年07月27日06時05分


 東京裁判でA級戦犯として起訴、処刑された広田弘毅元首相が靖国神社に合祀(ごうし)されていることについて、孫の元会社役員、弘太郎氏(67)が朝日新聞の取材に応じ、「広田家として合祀に合意した覚えはないと考えている」と、元首相の靖国合祀に反対の立場であることを明らかにした。靖国神社は、遺族の合意を得ずに合祀をしている。処刑された東条英機元首相らA級戦犯の遺族の中で、異議を唱えた遺族は極めて異例だ。

 靖国神社へのA級戦犯の合祀をめぐっては今月、昭和天皇が不快感を示したとされる88年当時の宮内庁長官のメモが明らかになっている。

 弘太郎氏は広田元首相の長男、弘雄氏(故人)の長男。6人いた元首相の子は、全員他界している。

 A級戦犯が合祀された78年当時について、弘太郎氏は「合意した覚えはない。今も靖国神社に祖父が祀(まつ)られているとは考えていない」と話した。靖国に絡むこれらの思いは「広田家を代表する考え」としている。

 広田元首相は処刑された7人のA級戦犯のうち唯一の文官。外相当時に起きた37年12月からの南京大虐殺で、残虐行為を止めるよう閣議で主張しなかった「不作為の責任」などが問われた。一方で軍部の圧力を受けつつ終始戦争に反対していたとの評価もあり、オランダのレーリンク判事は「軍事的な侵略を提唱した日本国内の有力な一派に賛同しなかった」などとして、元首相の無罪を主張する意見書を出している。

 広田家の菩提(ぼだい)寺は故郷の福岡にあるが、遺族は元首相の遺髪を分けて鎌倉の寺に納め、参拝している。55年4月、旧厚生省は横浜で火葬されたA級戦犯7人の遺灰を各遺族に引き渡そうとしたが、広田家だけは受け取らなかった。弘太郎氏によると、戦犯遺族でつくる「白菊遺族会」にも参加しなかった。

 弘太郎氏は「靖国神社に行くことはあるが、国のために亡くなった戦没者を思い手を合わせている。祖父は軍人でもなければ、戦没者でもない。靖国神社と広田家とは関係ないものと考えている」と話した。

 靖国神社広報課は「広田弘毅命に限らず、当神社では御祭神合祀の際には、戦前戦後を通して、ご遺族に対して御連絡は致しますが、事前の合意はいただいておりません」としている。

 広田元首相の伝記小説「落日燃ゆ」の著者、城山三郎さんは「広田さんのご遺族の思いを聞いて、やっぱりそうか、との思いが深い。ご遺族の言葉に付け足す言葉はない。広田さんだったらどう思うか、どうしただろうか、熟慮したうえでの考えだと思う」と話している。

    ◇

 〈キーワード:広田弘毅元首相〉 1878年生まれ。1933年9月に外相、2・26事件直後の36年3月に首相就任。再度外相に就いた直後の37年7月、日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件発生。紛争の泥沼化を防げなかった。敗戦後、東京裁判に起訴され、48年12月、東条英機元首相ら他の6人のA級戦犯とともに巣鴨拘置所で処刑された。

■合祀決定権は神社に

 靖国神社の合祀の審査は戦前、神社を所管する陸海軍省が行ったが、戦後は宗教法人となった神社に決定権が移り、旧厚生省や各都道府県に照会した戦死者らの資料に基づき判断した。審査の過程で遺族の合意を得ることはなく、過去には太平洋戦争で戦死した台湾先住民の遺族らが「無断で祀るのは民族の意思に反する」として合祀取り下げを求めたが、神社側は「神として祀った霊を分けることはできない」と断っている。


268 hits

[4363]Re(1):A級戦犯 靖国合祀・昭...
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 どろっぷ  - 07/4/26(木) 20:52 -

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   みなさん、こんにちは。

また新資料が出たようですね。

晩年の昭和天皇に仕えた卜部亮吾(うらべりょうご)元侍従(故人)の日記に、自らが亡くなる直前の01年に昭和天皇の靖国神社参拝取りやめについて、「A級戦犯合祀(ごうし)が御意に召さず」と記していたことが分かった。

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/m20070426k0000e040054000c.html

また高橋哲哉東京大学教授がパリの第八大学で行った「靖国問題」講演抄録が、フランスの月刊誌「ルマンド・ディプロマティーク」に掲載されています。

http://www.diplo.jp/articles07/0703-3.html

フランス誌といっても20カ国語で発行され、200万人の定期購読者がいるといいますから、影響力は大きいでしょう。
54 hits

[4366]Re(2):A級戦犯 靖国合祀・昭...
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 ピッポ E-MAIL  - 07/4/27(金) 8:48 -

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添付画像【TKY200704250367.jpg : 10.8KB】 写真左
故・卜部亮吾侍従の日記。宮中の動きや天皇、皇族方の言動が克明につづられている

写真右
噴火した伊豆大島で被災者らの見舞いを終え、高速船に乗り込む昭和天皇と卜部亮吾侍従=87年6月22日、東京都大島町の元町港で

どちらも
http://book.asahi.com/clip/TKY200704250363.html


▼どろっぷさん:
>また新資料が出たようですね。
>
>晩年の昭和天皇に仕えた卜部亮吾(うらべりょうご)元侍従(故人)の日記に、自らが亡くなる直前の01年に昭和天皇の靖国神社参拝取りやめについて、「A級戦犯合祀(ごうし)が御意に召さず」と記していたことが分かった。
>
> http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/m20070426k0000e040054000c.html
>
>また高橋哲哉東京大学教授がパリの第八大学で行った「靖国問題」講演抄録が、フランスの月刊誌「ルマンド・ディプロマティーク」に掲載されています。
>
>http://www.diplo.jp/articles07/0703-3.html
>
>フランス誌といっても20カ国語で発行され、200万人の定期購読者がいるといいますから、影響力は大きいでしょう。


どろっぷさん
こんにちは。

これで、「富田メモは捏造」論者は次に何というのでしょうかね。
卜部侍従はゆくゆくの日記公開を朝日新聞に託したようですね。
http://book.asahi.com/clip/TKY200704250363.html

「捏造」論者は、「アサヒに託したものだから信用できない」とでもいうのでしょうか?

記事情報はすぐにWEBから消えてしまいますので、採録しておきます。

■朝日
http://book.asahi.com/clip/TKY200704250363.html

逝く昭和と天皇、克明に 卜部侍従32年間の日記刊行へ
2007年04月26日

 晩年の昭和天皇と香淳皇后に仕え、代替わりの実務を仕切った故・卜部亮吾(うらべ・りょうご)侍従が32年間欠かさずつけていた日記を、朝日新聞社は本人から生前、託された。天皇が病に倒れて以降、皇居の奥でおきていた昭和最後の日々が克明に記されている。天皇の靖国神社参拝取りやめについては「A級戦犯合祀(ごうし)が御意に召さず」と記述。先の戦争への悔恨や、世情への気配りなど、天皇の人柄をしのばせる姿も随所に書きとめられており、昭和史の貴重な記録といえそうだ。

 日記で詳細をきわめるのが、昭和天皇の闘病から逝去までの記述だ。

 天皇が強い意欲を示していた戦後初の沖縄訪問は、体調の悪化で中止に追い込まれる。

 87(昭和62)年9月14日、「手術にふみ切る線で沖縄もムリと判断。(略)ついに来るべきものがきたということだが暗雲たれこめうつうつとして楽しまず 今後の諸問題のことが頭をよぎる」。

 腸のバイパス手術を受けた天皇は国事行為や公務への復帰に執念を燃やす。しかし、ブレーキをかける卜部侍従に「突然摂政にした方がよいのではと仰せ」(88年2月9日)。そんなことなら、天皇が重篤な場合などに立てられる摂政を決めたらどうか、といらだちをぶつけている。

 88年9月の吐血以降の容体、肉親の悲しみも痛々しい。見舞った皇族から「助けてとかどうにかならないかの頻発でお気の毒の由 点滴の針も難しくなる」(11月3日)。天皇の意識が遠のいていく中、意識をはっきり保たせるために侍医団は血中アンモニアを減少させる薬剤を使用していた。「今朝は反応がかなりはっきりしてこられた由 とにかく摂政の話を消すためにも意識混濁の表現は禁句と」(同29日)。肉親への反応も徐々に鈍っていく。「常陸宮同妃御参 殿下おもうさま(お父さま)と呼びかけ わずかに眼お開きか」(12月17日)

 翌89年1月7日、卜部侍従は、息を引き取った天皇の髪を整えひげをそる。「たんかにて御尊骸(そんがい)を御寝室からお居間にお移しする あまりに重いのに驚く」

 靖国神社参拝取りやめの理由についても記述されている。

 最後となった天皇の記者会見から数日後の88年4月28日。「お召しがあったので吹上へ 長官拝謁(はいえつ)のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」。「靖国」以降の文章には赤線が引かれている。

 昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀に不快感を吐露したとみられる富田朝彦宮内庁長官(当時)のメモも同じ日付。天皇は富田長官と前後して卜部侍従にも戦犯合祀問題を語っていたことになる。そして、卜部侍従は亡くなる直前、「靖国神社の御参拝をお取りやめになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」(01年7月31日)と記している。

 日記の随所にみられるのが、終戦記念日や原爆の日に律義に慎む天皇の姿だ。2・26事件の日もその一つだった。

 事件から41年たった77(昭和52)年2月26日。天皇は意外な言葉を口にする。「御就寝前 治安は何もないかとのお尋ね」。天皇のトラウマの深さがうかがえる。

 忍び寄る老いとの闘いも記録されている。75年2月17日、73歳の天皇は祈年祭の最中、賢所(かしこどころ)の中で2度倒れていた。その後の新嘗祭(にいなめさい)でも卜部侍従が天皇の体を支えており、高齢の天皇に祭祀がいかに過酷になったかがわかる。

 このほか、77年7月、皇后が那須で腰椎(ようつい)骨折した際の御用邸内の様子、皇后が次第に心身の不調に陥るプロセスや天皇の心配ぶり、また石油危機では御料車の使用をためらい、行革が叫ばれた時には歴代最長寿の祝賀をやめさせるなど国民感情に気配りする天皇の姿も記録されている。

 日記は「昭和天皇最後の側近・卜部亮吾侍従日記」全5巻として、5月以降朝日新聞社から順次刊行される。


■日経(富田メモ公開社)
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20070426AT1G2600E26042007.html

昭和天皇、晩年の思い克明・卜部侍従の日記明らかに
 昭和天皇の晩年の約20年間侍従を務めた故卜部亮吾氏の日記の一部が26日、朝日新聞の報道で明らかになった。日記は天皇が靖国神社に参拝しない理由について「A級戦犯合祀が御意に召さず」と記している。

 卜部氏は2001年7月31日付で「靖国神社の御参拝をお取りやめになった経緯、直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」と記しているほか、「靖国合祀以来天皇陛下参拝取止めの記事 合祀を受け入れた松平永芳(宮司)は大馬鹿」(同年8月15日)と書いている。

 闘病から逝去に至る記述も詳細。昭和天皇が体調不良を訴えた後の1987年9月14日には「手術にふみ切る線で沖縄もムリと判断。(略)ついに来るべきものがきたということだが暗雲たれこめうつうつとして楽しまず 今後の諸問題のことが頭をよぎる」と、天皇の悲願だった沖縄訪問が中止になった経緯をつづっている。(12:00)



■毎日
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20070426k0000e040054000c.html

A級戦犯合祀:「御意に召さず」…卜部元侍従が日記に記述

晩年の昭和天皇に仕えた卜部亮吾(うらべりょうご)元侍従(故人)の日記に、自らが亡くなる直前の01年に昭和天皇の靖国神社参拝取りやめについて、「A級戦犯合祀(ごうし)が御意に召さず」と記していたことが分かった。日記には、昨年7月に判明した故富田朝彦・元宮内庁長官の昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を示したことを示すメモの日付と同じ日に、昭和天皇から卜部侍従に靖国神社の戦犯合祀に関する話があったことを示す記述もあった。昭和天皇のA級戦犯合祀への気持ちが改めて浮き彫りになった。

 日記は卜部さんが侍従になった69年から亡くなる直前までの32年間、市販の日記帳33冊に書かれていた。靖国神社に関しては88年4月28日の日付で、「お召しがあったので吹上へ 長官拝謁(はいえつ)のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」とあり、「靖国」以降は赤線が引かれている。

 この日付は、昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀に関して、「私は 或(あ)る時に、A級が合祀され その上 松岡、白鳥までもが(中略)それが私の心だ」などとつづった富田元長官のメモと同じ日だ。富田元長官と前後して卜部さんが戦犯合祀についての気持ちを聞いたことになる。

 この時は、昭和天皇のこの問題への気持ちについての記述はないが、01年7月31日の日記には、「靖国神社の御参拝をお取り止(や)めになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」と記し、天皇が合祀に不快感を持っていたことをつづっている。

 日記は、昭和天皇の闘病についても詳しく記されている。昭和天皇が腸の手術を受けるため沖縄訪問を取りやめた際の87年9月14日には「ついに来るべきものがきたということだが、暗雲たれこめうつうつとして楽しまず 今後の諸問題のことが頭をよぎる」と不安をつづっている。

 また、2・26事件から41年たった77年2月26日に「御就寝前 治安は何もないかとのお尋ね」など戦中の記憶が消えない様子がうかがえる。石油危機では専用車の使用をためらったり、財政難を気にして小旅行を取りやめるなど、国民感情に気配りする姿も記されている。

 卜部さんは京大卒業後に人事院に入り、宮内庁に移って69年から約20年間昭和天皇の侍従を務めた。91年4月から皇太后宮職御用掛として香淳皇后に仕え、00年の香淳皇后死去に伴う大喪儀では、祭官長を務めた。02年3月に78歳で死去した。

 日記は、卜部さんが亡くなる約1カ月前に朝日新聞の記者に託し、遺志に基づいて朝日新聞が公開した。【桐野耕一】



■読売
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070426i107.htm?from=main1

A級戦犯合祀が御意に召さず、侍従日記に昭和天皇の不快感
 昭和天皇に仕えた故・卜部(うらべ)亮吾元侍従の日記に、昭和天皇が靖国神社への参拝を取りやめた理由について「直接的にはA級戦犯合祀(ごうし)が御意に召さず」と記されていることがわかった。

 昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感を示していたことは富田朝彦・元宮内庁長官の日記で明らかになったが、その事実が改めて確認された形だ。

 卜部日記は、1969年に侍従となってから32年間に及び、横書きの日記帳33冊に記されていた。日記は卜部元侍従の生前に朝日新聞社に託され、出版を予定している同社が26日に一部を公開した。

 靖国神社に関する記述は、88年4月28日の「お召しがあったので吹上へ 長官拝謁のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」と、2001年7月31日の「靖国神社の御参拝をお取り止めになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」の2か所。4月28日の「靖国」以降の記述には赤い下線が引かれていた。

 富田日記にあるA級戦犯合祀についての不快感と、卜部日記の戦犯合祀についての記述の日付は、ともに88年4月28日。昭和天皇は富田長官に続いて、卜部元侍従にも合祀について考えを語っていたことがわかる。

 昭和天皇は戦後8回、靖国神社を参拝したが、75年11月が最後。昭和天皇がその理由を明らかにしたことはなく、A級戦犯の合祀と、三木首相の参拝を契機に政治問題化したためという二つの見方があった。

 卜部元侍従は、京大卒業後に人事院入りし、69年に侍従となり、昭和天皇崩御後も皇太后宮職御用掛として香淳皇后に仕えた。2002年3月に78歳で亡くなった。卜部元侍従の日記は既に存在が知られており、内容の一部は読売新聞でも96年2月4日付朝刊で報じている。

(2007年4月26日14時28分 読売新聞)


で、産経の扱いは?
■産経
http://www.sanspo.com/shakai/top/sha200704/sha2007042713.html

A級戦犯合祀「御意に召さず」−侍従・卜部氏の日記に裏付け

 昭和天皇に侍従として仕えた故卜部亮吾氏=写真=が、天皇のA級戦犯合祀(ごうし)への思いや闘病生活など昭和後半の日常生活を側近として書き留めた日記が、26日までに見つかった。天皇が靖国神社参拝を取りやめた経緯について「A級戦犯合祀が御意(天皇の意向)に召さず」と記し、あらためてA級戦犯合祀に不快感を持っていたことが裏付けられた。


短か〜あ〜い!
68 hits

[4367]Re(1):A級戦犯 靖国合祀・昭...
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 ピッポ E-MAIL  - 07/4/27(金) 11:02 -

引用なし
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   卜部日記公開の報に接して、富田メモに関する手の込んだデマも、記録しておきます。


ぼやきくっきりさんのブログより引用
ttp://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid119.html
 
■『アンカー』富田メモ

 青山繁晴さんの「ニュースDEズバリ!」。今日は富田メモ。
 一言で言って、徳川元侍従長発言説。2ちゃんねるや新潮などで既出だし、特に目新しい事は言ってませんでしたが、いちおうポイントをまとめときます(あくまで要旨です)。


○青山氏は共同通信記者時代、昭和天皇の吐血、下血が始まってから崩御までの「天皇班」特命チームの一員だった。普段会わない皇居の奥の人たち(侍従、宮内庁の古文書扱ってるセクションの人、皇宮警官など)と仲良くしていた。
 そのうちの1人から、7月29日深夜から30日未明にかけて青山氏のもとに電話が入った。
 電話の主が言うには「青山さん、あのメモおかしいとすぐに気づいたでしょう?」「メモには昭和天皇が使うはずがない言葉が含まれている」。電話の主が指摘したのは以下の2点。

(1)「私」
 電話の主曰く、「昭和天皇は公式の場では別として、皇居の奥では決して『私』とは言わなかった。『朕』あるいは『自分』と言っていた」。
(2)「参拝」
 国民が靖国に行く時は「参拝」だが、天皇にとっては、自分は神社に祀られている一番最初の神=天照大神の子孫だから、自分の先祖の所に行くのに「参拝」という言い方は決してしない。

○青山氏は彼の言うことを全部鵜呑みにすることはなかったが、昭和天皇が実際に話された言葉を調べるため、ほとんど全部の記録にあたった。木戸幸一や近衛文麿の日記など。但し量が膨大なので、「私」「参拝」この二つの言葉だけにポイントを絞って調べた。

○「私」という言葉は使っていた。但し「俺」と書いている人もいる。「俺」はありえない。要はメモはあてにならないということでもある。
 靖国で「参拝」という言葉は使ってない。伊勢神宮に行く時は使っていた。靖国に「参拝」という言葉は1回しか使ってない。昭和天皇即位から昭和60年までの60年間調べたが1回しかなかった。1回しか出てこないのにこのメモで使っているのはおかしい。

○電話の主は指摘しなかったが、「A級」ないし「A級戦犯」という言葉は、膨大なプライベートな日記には1回も出てこない。自信を持って言える。たくさんの時間をかけて、最終的に昭和天皇語録も見たが、一切使っていない。
 また昭和天皇は戦争が終わった時に「自分が責任者だ」と自らおっしゃってる。東条や松岡をアメリカの立場から言うようなことは一切なかった。

○富田氏が誰かの発言をメモしてるのは間違いないが、これは徳川義寛元侍従長の発言ではないか。
 昭和天皇が亡くなる前年、4/25に記者会見された。天皇は体調が悪かった。記者は4/29の天皇誕生日用の記事を書かないといけない。記者会見が短くて真意がどこにあったかわからなかったので、4/28に富田氏が天皇に真意を聞いたのがあのメモだろうと報道ではなってる。これ自体疑問もある。わざわざ天皇陛下に聞くか?

○一方の徳川侍従長は4/12に退職。侍従長時代は口が堅くて会見でもほとんど何も言わなかった。1週間休んで参与(顧問のようなもの)になった。徳川氏にもっと話を聞きたいという記者がいたのは間違いない。
 徳川氏は4/28に参与として初出勤し、表には出てないが「ウラコン」をやった。裏の懇談で完全オフレコ懇談。これは懇談のさらに非公式なもので、懇談したこと自体世の中に出さないし、記事にもしない。あくまでバックグラウンドを知るためだけのもの。参与となって自由になった徳川氏と、特定の数少ない記者がウラコンをやった。その時に宮内庁長官だった富田氏も同席していた可能性が高い。その時のメモではないか。

○徳川氏の遺言集を見ると、「松岡は軍人でもなく死刑にもなってないのに合祀されるのはおかしい」「筑波は合祀しなかったのに松平が合祀したのはおかしい」と言っていて、メモの中身とぴったり一致。

○とはいえメモが天皇の発言だった可能性も否定できない。一人称は、メモ取る人によって発言した本人の言葉じゃないことを書いてしまうこともある。
 が、「伝言」で大事なことを考えるのはおかしい、天皇がこう仰ったからといって我々は右往左往しないこと。天皇は象徴であり、ご意見を尊重はしても決めるのは国民。天皇の気持ちによって内閣総理大臣の行動が変わるのはおかしいという考えを、天皇自身も持っていた。8/15の首相参拝がいいのか悪いのか、A級戦犯合祀がいいのか悪いのか、国民自身で判断するべき。


青山繁晴さんというと、元共同通信記者ということでテレビの顔出しが多いが、どうやらこの人、その御名前のように、都合の良い絵を書きたがるお方のようです。

「私」「参拝」「電話の主」そうして「裏コン」。
絵としては良くできています。だから売れるのでしょう。
61 hits

[4375]Re(3):A級戦犯 靖国合祀・昭...
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 うさぎ  - 07/4/28(土) 7:08 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>
>で、産経の扱いは?
>■産経
>http://www.sanspo.com/shakai/top/sha200704/sha2007042713.html
>

>A級戦犯合祀「御意に召さず」−侍従・卜部氏の日記に裏付け
>
> 昭和天皇に侍従として仕えた故卜部亮吾氏=写真=が、天皇のA級戦犯合祀(ごうし)への思いや闘病生活など昭和後半の日常生活を側近として書き留めた日記が、26日までに見つかった。天皇が靖国神社参拝を取りやめた経緯について「A級戦犯合祀が御意(天皇の意向)に召さず」と記し、あらためてA級戦犯合祀に不快感を持っていたことが裏付けられた。
>

>
>短か〜あ〜い!
十分に報道しているではありませんか!!最低限の報道はしているのだからGJ!と言ってあげる
べきだ、と思います。
今更ながらこのスレに出ている富田メモの話の一部を見て思ったのはここまで断言されると確かに
自分の知識が揺らいでしまうかも、ってこと。一人称を「朕」って称することがままある、って
のはネットに飛び交う有り得無いデタラメ、と決めつけていたのですが、何か
> 電話の主が言うには「青山さん、あのメモおかしいとすぐに気づいたでしょう?」「メモには
>昭和天皇が使うはずがない言葉が含まれている」。電話の主が指摘したのは以下の2点。
>(1)「私」電話の主曰く、「昭和天皇は公式の場では別として、皇居の奥では決して『私』と
>は言わなかった。『朕』あるいは『自分』と言っていた」。
とか書かれると(この場合「自分」って言ういかにも有りそうな部分が元で)ねえ。しかし、
デマを流す人々ってどういう心理状態なのか、今もって謎です。
 どろっぷさんへの私信:向こう、単なるちゃちゃいれでご免なさい。でも、私としては半分
真剣なのです。何か狭い日本列島がバベルの塔みたいになっている強迫観念がするので・・・。
70 hits

[4376]Re(4):A級戦犯 靖国合祀・昭...
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 ピッポ E-MAIL  - 07/4/28(土) 8:00 -

引用なし
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   ▼うさぎさん:
>>短か〜あ〜い!
>十分に報道しているではありませんか!!最低限の報道はしているのだからGJ!と言ってあげるべきだ、と思います。

そうですね。たぶん、配信した共同通信にGJ!。そう、繁晴さんの昔の職場に。


>> 電話の主が言うには「青山さん、あのメモおかしいとすぐに気づいたでしょう?」「メモには>>昭和天皇が使うはずがない言葉が含まれている」。電話の主が指摘したのは以下の2点。
>>(1)「私」電話の主曰く、「昭和天皇は公式の場では別として、皇居の奥では決して『私』とは言わなかった。『朕』あるいは『自分』と言っていた」。

>とか書かれると(この場合「自分」って言ういかにも有りそうな部分が元で)ねえ。しかし、

これって、戦前の昭和天皇のことでしょう。似たようなことを、チャンネル桜で岡崎久彦さんがいっていたので、電話の主とは彼かもしれないという疑いが、実は消えていません。

昔の事実を持って今の事実に置き換える、しかも、現場の事実ではなく世の中に流通したステロタイプで、というのが岡崎久彦さんの常套話術ですし。

だって、私が記憶してる限り、昭和天皇は園遊会などで「私は」としかいってませんでしたよ。「朕は」も「自分は」もきいたことがありません。myselfの意味で「自分が」、myの意味で「自分の」はつかったでしょうが?

繁晴さんが語彙を調べたという日記類も、なぜか戦前のものばかりですね。電話をうけて繁晴さんも岡崎流を急遽踏襲したのでしょうか? 少しばかり、そんな空想をする余地が残っています。

(繁晴さんは、絵描きさんかと思ったら小説家だったんですね。道理でストーリーがお上手なわけです。
http://shiaoyama.com/
しかし英語はお下手のようです。中学生並です。Rape of Nangking を「強姦都市南京」と訳すという、かつての私と同じ間違いをしでかし、10チャンネルのゴールデンで堂々と放送されてしまいました。)
75 hits

[4377]Re(3):A級戦犯 靖国合祀・昭...
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 ピッポ E-MAIL  - 07/4/28(土) 11:28 -

引用なし
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   サンケイの新しく詳しい記事です。
http://www.sankei.co.jp/shakai/koshitsu/070427/kst070427001.htm


「A級戦犯合祀御意に召さず」 昭和天皇 卜部侍従、日記に記述


 昭和天皇に侍従として仕えた故卜部(うらべ)亮吾氏が、天皇の闘病生活など昭和後半の日常生活を書き留めた日記が見つかった。日記は卜部氏が侍従になった直後の昭和44年12月から、宮内庁を退き、78歳で亡くなる直前の平成14年2月まで毎日記され、生前、朝日新聞に託していた。

 体調不良を訴えられた後の62年9月14日は、「手術にふみ切る線で沖縄もムリと判断」と記載。昭和天皇が悲願とされた沖縄訪問は中止になり、腸の手術を受けられた。

 公務復帰に強い意欲を示される天皇を側近がとりなす場面も。63年2月10日には「このようなダラダラした生活ではと 現在は冬ごもり 春きたりなばどの程度おやりいただくか目下検討中につきもう少しお待ちをと」。

 その年の12月17日に常陸宮ご夫妻がお訪ねになり、「殿下おもうさま(お父さま)と呼びかけ わずかに眼お開きか」。64年1月7日の逝去当日。御所内で遺体を運び「御尊骸(そんがい)を御寝室からお居間にお移しする あまりに重いのに驚く」と昭和最後の日を振り返った。

 一方、後年の平成13年7月31日の記述には「靖国神社の御参拝をお取りやめになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀(ごうし)が御意に召さず」と記されている。

 卜部氏は人事院から宮内庁入り。天皇代替わりの際は侍従職事務主管として実務を取り仕切り、その後は香淳皇后にも仕えた。


日記の要旨

 【財政に気配り】 「車を使って御出仕差し支えなきやとの思し召しの模様(中略)石油不足への御懸念なり」(昭和48年12月3日)

 歴代天皇最長寿の祝賀について「行財政改革の折から差し支えないかとの御懸念」(60年6月19日)、「祝賀は気になるから止めてもらいたいとの仰せ」(同月24日)

 【過酷な宮中祭祀(さいし)】

 「お立ちになるのが大変 前へお倒れそうで抱きかかえて」(58年11月23日)

 「もう少しお祭りに(中略)励んだ方がよいのではとの仰せ」(59年12月26日)

 【靖国神社合祀】 「長官拝謁のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」(63年4月28日)

 「靖国神社の御参拝をお取りやめになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」(平成13年7月31日)

 【闘病】

 「手術にふみ切る線で沖縄もムリと判断。(中略)ついに来るべきものがきたということだが暗雲たれこめうつうつとして楽しまず」(昭和62年9月14日)

 手術の翌年「突然摂政にした方がよいのではと仰せ」(63年2月9日)、「やはり摂政問題のくり返し このようなダラダラした生活ではと」(同月10日)

 「ご日常は平常どおり、侍従長と協議し予定は変更せず行けるところまで行くことに 沖縄は遠ざかる」(同年9月12日)

 「侍従長始め全員集まり崩御後とりあえず当面する問題について説明し心づもりをしてもらう」(同月26日)

 「常陸宮同妃 加藤(健三)侍医によると助けてとかどうにかならないかの頻発でお気の毒の由 点滴の針も難しくなる」(同年11月3日)

 「多少意識の混濁が見られるか」(同月15日)

 「東宮同妃・浩宮・礼宮御参 嫌だようの愁訴きこえる」(同月16日)

 「薬剤使用の結果今朝は反応がかなりはっきりしてこられた由 とにかく摂政の話を消すためにも意識混濁の表現は禁句と」(同月29日)

 「常陸宮同妃御参 殿下おもうさまと呼びかけ わずかに眼お開きか」(同年12月17日)

 「5時少し前 井原侍従から急変瞳孔が開いたと、すぐ起きて(中略)出かける。(中略)吹上へ、ちょうど6・33崩御拝訣 皇族・四長官・内親王等お口しめし(中略)鋏とひげそりにて御整髪奉仕(中略)たんかにて御尊骸を御寝室からお居間にお移しする あまりに重いのに驚く(中略)剣璽承継の儀 10時から宮殿松の間にて」(64年1月7日)

(2007/04/27 14:10)


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[4378]Re(4):A級戦犯 靖国合祀・昭...
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 どろっぷ  - 07/4/28(土) 15:49 -

引用なし
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   うさぎさん、どうもです。

>どろっぷさんへの私信:向こう、単なるちゃちゃいれでご免なさい。

いえいえ、ありがとうございます。
援軍はたのもしいです。
解説者さん、あれから黙り込んでしまいました。

>でも、私としては半分真剣なのです。何か狭い日本列島がバベルの塔みたいになっている強迫観念がするので・・・。

同感です。
これほど判ってもらえないものかと、改めて実感しました。
今後ともよろしくお願いします。
78 hits

[4404]Re(1):「富田メモ研究委員会」...
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 ピッポ E-MAIL  - 07/5/5(土) 9:55 -

引用なし
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   ■ 「富田メモ研究委員会」の最終報告
http://www.nikkei.co.jp/sp1/nt82/20070430NS000Y815130042007.html

富田メモ研究委員会 検証報告
 故富田朝彦元宮内庁長官が残した記録(富田メモ)を丹念に読み解くため、日本経済新聞社が設置した外部有識者を中心に構成する「富田メモ研究委員会」は、昨秋から半年余りにわたり様々な角度から検証した。その結果、すでに報道してきた部分だけでなく、富田メモの記述は詳細、正確であり、全体が昭和史の貴重な史料であることを確認した。1日、2日の特集でメモの抜粋と委員による座談会を掲載、併せて4日から外部委員の寄稿を順次掲載する。また、社会面で関連企画を連載する。

※太字は引用者による

 委員会は昨年10月から11回開催し、メモ全体の流れや文字、文体などの特徴を分析しながら、細部の検証を進めた。重点を置いたのは(1)内容に事実の裏付けがあるか(2)発言記録の場合、発言者が確定できるか(3)複数の解釈が可能な場合どう考えるか(3)史料として公表すべきかどうか――など。注釈を含む「富田メモ抜粋」は、委員会の結論としてまとめたものである。

 富田メモが史料として重要なのは、第一に昭和天皇の最晩年の生の声が記録されていることにある。天皇は1987年(昭和62年)9月22日に開腹手術を受けた。その後、年末に一部の公務に復帰してから富田氏が長官を退任する88年6月まで、容体は比較的安定していた。

 富田氏はこの間、用途を天皇との対話の記録にほぼ限った手帳を用意し、言上(ごんじょう=天皇への説明)内容や天皇の質問、発言を詳細にメモした。この手帳には87年12月28日から長官退任直前の88年6月10日まで、27回の言上すべてが記録されている。

 健康に不安を抱える中で、退任間近の富田氏に多くのことを語った天皇と、それを漏らさず聞き、記録しようとした富田氏の間の信頼関係、そして富田氏の緊張感がこの時期のメモには横溢している。82年―87年に首相を務めた中曽根康弘氏は「富田長官は誠実な人柄で天皇の信頼を得ていた」と証言している。

 富田氏は事前に項目を個条書きにしたメモを用意し、言上に臨んだ。富田氏の説明に対し天皇が幾つか質問や感想を口にし、富田氏が答える。さらに、時によっては言上と直接かかわりのないことを天皇が語り出す。2人のやりとりはこうした形で進んだ。

 例えば、富田氏は88年5月6日に言上したが、9日に今度は天皇からお召し(おめし=呼び寄せ)を受けている。この時は富田氏から特に報告はなく、天皇自らが若槻礼次郎元首相、吉田茂元首相、高松宮の思い出などを35分間にわたり語った。

 靖国神社参拝に関しても、自らの意志を富田氏に伝えたいという天皇の強い意思が感じられる、というのが委員の共通した見解だった。

 委員会では靖国神社に絡む記述をすべて抽出、分析した。しかし、靖国神社がA級戦犯14人を合祀した78年(昭和53年)10月、富田氏はすでに長官に就任していたが、当時の日記に合祀を巡る記述はなかった。また、合祀が報道された79年4月19日、故入江相政元侍従長の日記には「朝刊に靖国神社に松岡、白鳥など合祀のこと出、テレビでもいふ。いやになつちまふ」とあるが、富田氏はこの時期も「靖国」に言及していない。

 委員会では、昭和天皇の発言から遺言ともいえる様々な思いを読み取った。浩宮(現皇太子)さまの結婚には強い関心があり、繰り返し報告を求めたり予算面での心配まで口にしたりした(88年1月26日、3月29日など)。また、71年の訪欧や21年(大正10年)の皇太子時代の訪欧のエピソードを語る語り口からは、2つの旅行が生涯を通じた楽しい思い出だったことが改めてうかがえた(88年5月11日など)。富田氏の後任に政治家が就く懸念を抱いていたことも垣間見えた(5月20日)。

 進講者を何度も驚かせた政治、経済、社会に対する幅広い知識、関心や記憶力が、最晩年まで衰えなかったことも裏付けられた。

 委員会で記録を分析した結果、天皇とのやりとりはまず要点をメモし、時間をおかずに庁内の自室で整理した可能性が高い。言葉は肉声そのままに近い形で記録されているとみられ、昭和天皇の言葉遣いを研究するうえでも貴重である。

 富田メモの史料価値が高いもう一つの理由は、富田氏が公務を詳細に記録していたことにある。宮内省が戦後、宮内府を経て総理府外局の宮内庁になったのが49年(昭和24年)6月1日。富田氏は第三代宮内庁長官である。初代の田島道治氏の日記・手紙類は一部公表されているが、被占領期を含む昭和20年代の天皇・皇室をめぐる状況は昭和末期とは全く異なっている。25年間にわたり長官の職にあった第二代の宇佐美毅氏の記録類は、明らかになっていない。

 富田氏は皇室と無縁の警察官僚から宮内庁に転じた。詳細な記録をつけることで、象徴天皇制が安定する一方で天皇が高齢に向かう昭和50年代以降、宮内官トップの職務のあり方を模索し続けたといえるだろう。

 宮内庁には行政官庁としての「オモテ」と、侍従ら側近の「オク」という二重構造がある。「入江日記」だけでなく、昭和天皇の晩年まで仕えた徳川義寛元侍従長、卜部亮吾侍従の日記もオクの記録だ。これに対し、富田メモにはオクとは異なるオモテの職務や天皇との距離感、一般公務員とは異質の宮内官の職務の特徴が刻まれている。特に、87年(昭和62年)1月から88年6月の退任までの詳細な公務の記録からは、昭和から次の時代への代替わりも見据えて、いかに多様な仕事をしていたかが分かる。

 87年は昭和天皇の初めての沖縄訪問、皇太子夫妻(現天皇皇后両陛下)の27年ぶりの訪米が予定され、皇室にとって節目の年にあたっていた。2月に高松宮が逝去。富田氏は秩父宮以来34年ぶりの皇族の葬儀を取り仕切った。

 40歳間近の宜仁親王(桂宮さま)独立も具体化しつつあり、浩宮(現皇太子)さまの結婚問題も考えねばならなかった。そして9月には天皇に腸に通過障害があることが判明、富田氏は長官として開腹手術という重い決断をする。

 その間の庁内外の協議や内閣との折衝はこれまで詳細が知られていなかった。当時、中曽根内閣の官房長官だった故後藤田正晴氏は富田氏の警察庁時代の先輩で親しかったこともあり、特に頻繁に連絡を取り合った。

 天皇の開腹手術の方針が決まった後、87年9月18日に富田氏は後藤田氏に会った。その際の報告は、天皇の病気と、それに伴って派生する沖縄訪問中止、皇太子による天皇の公務(国事行為)の臨時代行、皇太子夫妻の訪米や宜仁親王独立問題の扱い、マスコミ対応など、対処すべき案件が網羅されていることが分かる。後藤田氏とは2日後の9月20日に再度会い、中曽根首相からの指示を受けた。

 後藤田氏は87年11月の竹下内閣発足で官房長官を退くが、富田氏はその後もしばしば相談に訪ねている。2人の関係を抜きに、この時期の宮内庁は語れない。

 宮内庁長官の職務の幅の広さは、メモの随所にうかがえる。87年8月10日には、岸信介元首相の通夜に侍従を遣わす際の天皇のお言葉から、天皇の「思し召し」にあった「安保改定」の語句が削られた経緯が簡潔に書かれている。

 富田氏は宮家との付き合いにも言及しているが(79年12月31日=2日付で掲載=など)、旧皇族と宮内庁との関係も、11宮家が皇籍を離脱した47年(昭和22年)から40年たってなお強いことも分かる。昭和天皇に皇室全体の家長という意識が生涯強かったこと、皇族との姻戚関係が背景にあるだろうが、委員会では、宮内庁長官の職務が一般官庁のトップといかに異なっているかを示す例に挙げられた。

 昨年7月に富田メモを報道した際、公開の是非とともに富田氏自身に公開の意志があったかどうかが問題にされた。委員会ではメモを読み込み、様々な意見を出し合った。共通していたのは、富田氏が(1)昭和天皇が亡くなることがはっきりした時点で、できる限り忠実に天皇とのやりとりを記録しようとした(2)公務について、世間一般の動きを見ながら宮中を記録するという複眼の視点を常に持とうとした――との見方だ。

 正確な記録を残し後世に役立てたいという富田氏の考えがメモには反映しており、公開は有意義なだけでなく富田氏の遺志にも沿うのではないか、というのが委員会の最終的な見解である。

 委員会の議論では意味の解明ができない個所も残った。富田氏の関心に沿って書かれたメモを正確に理解するためには別の記録との照合も必要で、今後、昭和天皇に関する史料の公開が進むことへの期待は各委員に共通していた。

 その意味では、入江元侍従長の「拝聴録」が見つかったことをうかがわせる記述が注目された(88年5月23日など)。この拝聴録は入江氏が昭和天皇の回想を聞き書きしたとされるもので、作業の様子は入江日記に頻繁に出てくる。宮内庁は「存在しない」として非公開決定をし、内閣府の情報公開審査会も2001年にその決定を妥当とする答申を出しているが、存在するとすれば扱いが広く議論されるべき問題であろう。

 日本経済新聞社は今回の一連の報道で富田メモの検証作業を終了、メモは富田家が公的機関への寄託などを検討する。

 研究委員会の委員は次の通り

 御厨貴氏(東大教授)▽秦郁彦氏(現代史家)▽保阪正康氏(作家)▽熊田淳美氏(元国立国会図書館副館長)▽安岡崇志(日本経済新聞特別編集委員)


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