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岡崎久彦サンが迷走しています。
富田メモが報道された当初は、「尊き人の為に」説。 つまり、昭和天皇の取り巻きが昭和天皇を「平和主義者」として描くための作文だ、を主張していましたが、1週間ぐらいたって違うおかしな方向にいってしまったようです。
平成18(2006)年8月2日[水]
■【正論】元駐タイ大使・岡崎久彦 釈然とせぬ昭和天皇のご発言メモ --------------------------------------------------------------- http://www.sankei.co.jp/news/060802/morning/seiron.htm
全体に陛下らしいご風格見えず
≪戦犯を認めてはおられず≫ 昭和天皇のご発言メモ、私はいまだに釈然としない。何度も読み返してみたが、昭和史についての私の知識から言ってどうしても昭和天皇のお言葉と読めないのである。
英国風の君臨すれども統治せず、を信条としておられた陛下が、こんなに乱暴に、A級戦犯の合祀(ごうし)と御親拝中止を自分の御意思で結びつけられるだろうか。
そもそも戦争犯罪者というものについて、昭和天皇は、「占領軍にとっては犯罪者であっても、日本にとっては功労者」あるいは「朕(ちん)の忠良なる臣僚」とおっしゃったこともあり、日本の犯罪者と認めておられない。
また戦犯に限らず、戦後の政治家、靖国宮司について、ご自分の臣僚の悪口をこんなに露骨におっしゃるだろうか。
具体的に論争すれば、ああだこうだという反論はあり得よう。ただ、私の感じるのは、全体の流れに昭和天皇らしいご風格が見えないことである。
この陛下のお言葉らしくないものが、どうして出てきたかの理由を考えて色々なことを想定してみた。
富田元宮内庁長官が、当時の時流から考えて、陛下のためを思って、陛下が平和主義者、戦争反対だったことをことさらに強調しようとしたのか、あるいは警察庁の先輩でありボスである後藤田元官房長官の靖国参拝中止の政策を、背後で宮内庁からバック・アップしようとしたのか、とも思った。
しかし、それはいずれも、富田氏のような忠実な官僚がすることとしては大胆に過ぎる。
≪一対一のメモだったのか≫
あるいは陛下のご健康の衰えのためかとも思った。しかし、当時の陛下が、健康はともかくご判断力の上で、そこまで衰えられていたという証言もないし、また、私としては到底信じられない。
そうしているうちに妙なことに気が付いた。テレビでも新聞でも公表されているこの文書の末尾の1行である。それは、「・関連質問 関係者もおり批判となるの意」と読める。
「関連質問」というのは、宮内庁内の記者会見の際、常用される言葉の由である。これを普通に読めば、「その後関連質問が出たが、その趣旨は(批判された人々の)親族なども居るので、批判がましくはないか、ということであった。」ということになる。
これは明らかに富田氏の質問ではない。記者会見の後の記者からの質問である。
また、私は確認はしていないが、その前のページに「PRESS(プレス)の会見」という字があるようである。
とすると、これは、陛下と富田長官の一対一のメモでなく、何らかの記者会見のメモである。
関連質問の内容からすれば、オフレコの記者会見であったろうが、いずれにしても陛下ご自身の記者会見とは、到底思われない。天皇陛下にこういう関連質問がされる可能性は、富田氏からも、記者団からもあり得ない。
そもそも、記者会見のような場所で昭和天皇がこういう発言をされる可能性は、既に述べた私の個人的感触だけでなく、少しでも昭和天皇のことを知っているすべての人が否定するところであろう。
昭和天皇が富田氏に一対一でひそかに語られたということで、わずかに信憑性(しんぴょうせい)(既に述べたように私はそれも疑っている)が生まれるのである。
≪徳川氏会見メモの可能性≫
その後、私自身が確かめたわけではなく、ひとから聞いた話であるが、陛下87歳の御誕生日前日の昭和63年4月28日に、どんな記者会見があったかといえば、昭和天皇ご自身によるものはなく、その前の4月12日に勇退された徳川侍従長が、それまで職務上、固く沈黙を守っていられたのが、元侍従長として自由な立場で記者会見を行ったことがある由である。
そこには富田氏も長官として同席し、メモを取っていた、という事実があるようである。
この徳川氏の記者会見に同席された方のメモ、少なくとも記憶があれば、この問題は解明される可能性が出てくる。ただ、もう18年前のことであり、出席者が誰も残っていないとすれば、この問題は解決されないままになってしまう可能性もある。
その場合、私としてはこのメモの信憑性に疑いをもったままであろう。私の尊敬し個人的にも親しい歴史学者たちが、おおむねその信憑性を信じていると新聞が報じている中で、私だけは異端者となるがそれもやむを得ない。(おかざき ひさひこ)
日経が、4月25日の昭和天皇記者会見についての確認をとるための面会だ、といってることを無視しているようです。評論家岡崎氏も産経しか読まない読者なのでしょうか。
そうしてあろうことか、すでに(8月2日現在)妄説だと論証され尽くした「私=徳川侍従長」説に飛びついています。
そこのところを再度抜き出すと
その後、私自身が確かめたわけではなく、ひとから聞いた話であるが、陛下87歳の御誕生日前日の昭和63年4月28日に、どんな記者会見があったかといえば、昭和天皇ご自身によるものはなく、その前の4月12日に勇退された徳川侍従長が、それまで職務上、固く沈黙を守っていられたのが、元侍従長として自由な立場で記者会見を行ったことがある由である。
元タイ大使の外交官氏は、随分と不確かなウワサに飛びついたものです。 そうして、この不確かなウワサが嘘であることがばれるには時間がかかるとタカをくくっていたようです。
この徳川氏の記者会見に同席された方のメモ、少なくとも記憶があれば、この問題は解明される可能性が出てくる。ただ、もう18年前のことであり、出席者が誰も残っていないとすれば、この問題は解決されないままになってしまう可能性もある。
ところがどうでしょう。わたしが、 「徳川侍従長 記者会見」でGoogleってみましたところ、18年前のことは或るブロガーによって、岡崎投稿の10日も前に既に解決されていたのでした。
児童小銃2006-07-24 ■[社会] 昭和天皇と徳川侍従長の記者会見 http://d.hatena.ne.jp/rna/20060724/p2
28日のメモは29日の報道を控えた確認作業か何かの際のメモかと思われますが、実際そういうことがあったのかどうかは未調査。
さて、例のメモは徳川侍従長の引退記者会見のメモではないかという説が流れていますが、28日にそのような会見はあったのでしょうか?
やはり G-Search
で「徳川義寛」で検索したのですが、28日以降では上の検索結果に含まれるものしかありません。これは陛下の会見で徳川侍従長についてのやりとりがあるからです。
そこで検索範囲を広げたところ、こんな記事を見つけました。
毎日新聞
勇退の徳川侍従長が会見、昭和史のエピソードなどを語る 1988.04.12 東京夕刊 9頁 社会 写図有 (全1,556字)
記事の冒頭を引用します。
勇退の徳川侍従長が会見、昭和史のエピソードなどを語る
1988.04.12 東京夕刊 9頁 社会 写図有 (全1,556字)
宮中の生き字引、尾張徳川家の血筋、学者肌、頑固−−。様々な人物評を贈られた徳川義寛侍従長が半世紀を超える侍従生活に終止符を打つ。侍従に就任したのは2・26事件の年の昭和十一年十一月。戦前、戦後の激動の中で、天皇、皇后両陛下の素顔に接し、皇室を支えてきた。次の侍従長は生っ粋の行政官。天皇の側近も大きく様変りする。
十二日午前の記者会見で徳川さんは「いつも陛下のおそばで教えていただいているうちに五十年がたってしまった」と退官に当たっての感想を語った。さらに「乾徳(けんとく)をつねに仰ぎてひたぶるに 仕へまつりぬこの五十年(いそとせ)を」と、今朝の心境を託した歌を披露した(乾徳とは天皇の徳の意味)。六十年十月、侍従長に就いた際「微風のような仕事をしたい」と述べたが、陛下の手術という“嵐”を無事乗り越え、皇居の新緑を渡る春風に送られて、昭和史のステージを去る。
徳川侍従長の会見は4月12日なのです。4月28日ではありません。なお、検索範囲は5月31日まで広げましたが、29日の陛下の会見記事以降は一つもヒットしていません。
つまり、徳川氏が28日に(なぜか)再び記者会見を行い、しかもそれが朝日・毎日・読売で一切報道されない(もしくは何者かの陰謀によりこの三紙のデータベースから報道されたはずの記事が消された!)と考えない限り、徳川侍従長の会見メモ説はありえません。 以上。
どうやら、産経も岡崎久彦氏も、直ぐにばれてもいいから沢山のデマを流して富田メモを葬り去ろうと決意したようです。(・・・ということはデマ屋宣言?)
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