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▼ゆうさん:
表の部分がどうなるか,試しに 1、画面(クリックすると拡大)右下の「等幅」にチェックを入れてみました 2、間隔を一度削除し、全角空白で打ち直しました。(半角空白ではズレが発生します) 3、HTMLタグを使わなくても、表様のものはが簡単に得られるかと思います。
(以下 ゆうさんの投稿)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
さて、時間ができたらこちらにも取り組もうと思っていたのですが、ja2047さんメモリアルサイト、「問答有用」での(どうでもいい)議論もどき、「平頂山事件」への取り組み(未完成ですが、なかなか面白くなりそうです)、と「宿題」が続き、こちらはすっかり遅れてしまいました。
さて、今回の「準備書面」では、東中野氏側は、「年齢問題」にえらく力を入れてきています。
これについては、私が「夏淑琴さんは「ニセ証人」か? 東中野修道氏『SAPIO』論稿をめぐって」で書いた通り、
>東中野氏の「論理」が成立するためには、最低でも、
1.マギーの書き残した「年齢」が確実なものであり、 2.夏淑琴さんの回想する「当時の年齢」もまた確実なものである、
という「大前提」が必要です。どちらか片方だけでも怪しげなものであるのならば、「年齢の相違」を材料に夏さんを「ニセ証人」と決め付けることはできなくなります。
http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/kashukukinsapio.html#3
ということに尽きます。資料によって「年齢」が異なるのであれば、そんな曖昧なデータでもって「決め付け」を行なうことはできません。
以下、今回の準備書面にそって、詳しく見ていきましょう。今ちょっと資料のない場所におりますので、何か勘違いがありましたら、ご指摘いただければ幸いです。
東中野氏側は、「「8歳の少女は原告と別人である」根拠として、3つの点をあげていますが、その「第1」です。
上記の摘示事実が真実である理由はすでに被告準備書面(第2及び第3)において述べたところであるが、まとめると次のとおりである。
第1に、本件書籍の246〜247ページに述べた第9の疑問点の記述のとおり、フィルム解説文中の「7ー8歳の妹」は刺殺されたと考えられる。そのように解釈するのが相当である。フィルム解説文中の生存した「8歳の少女」は、シア夫婦の子である刺殺された「7−8歳の妹」とは別人であると解される。したがって「8歳の少女」の姓はシア(夏)ではなかった。
これは、問題外といえるでしょう。原告側は「初歩的な英文和訳の誤り」を指摘し、東中野氏側はいや、やはりこれで正しい、と強弁しているようですが、それ以前、単純な「算数」の問題です。
マギーは、あちこちで、「在宅は13人、うち殺されたのは11人」という「数字」をはっきりとあげています。東中野氏の言う通り、もし「7-8歳の妹」と「8歳の少女」が別人であるのであれば、マギーは「14人、うち殺されたのは12人」と書くはずです。
念のため、並べておきましょう。
「其の家に十三人の人が住んで居つたのでありますが、唯二人の子供だけが逃げたのであります。」(極東軍事裁判 マギー証言)
「日本兵たちが最初に入城したときに、町の東南のある家にやってきて、みんなで13人その家にいた。8歳と3歳か4歳かの二人の小さな女の子のほかは、全部その家で日本兵に殺された。」(マギー日記 1月30日=「この事実を・・・2.」P328)
「それに一度、わたしがある家に行きましたら、そこでは11人殺されていて」(マギー マッキムへの書簡=「この事実を・・・2.」P342)
「第二一九件 ジョン・マギー氏のきくところでは、十二月十三日から十四日にかけて、城南に住む一家の家族一三人のうち一一人が日本兵に殺され、婦人たちは強姦され、手足を切断されたとのことである。生き残った二人の小さな子供が話してくれたのである。〔マギー〕」(「南京大残虐事件資料集 第2巻英文資料編」P116)
こんな初歩的な矛盾を、東中野氏はどのように解決しているのか。久々に「南京虐殺の徹底検証」を本棚から取り出してみて、思わず爆笑です。
第九に、家族の人数が違う。『南京安全地帯の記録』の事例二一九(マギーの説明)では総数は二家族で十三人であった。しかし、「日支紛争」のなかのマギーの記録では、十四人であった。(P246)
*「ゆう」注 「日支紛争のなかのマギーの記録」というのは、おなじみ「マギーフィルムの解説文」のことです。元の文はこちら。 http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/mondai/kasyukukin.htm#13
念のためですが、この「十四人」というのは、マギーが記した数字ではありません。この「解説文」にはマギーは「人数」を記しておらず、これは、東中野氏が、「ひとり、ふたり」と勝手に数えた結果の数字です。
つまり、「7、8歳の妹」と「8歳の少女」が別人であるというトンデモ解釈を前提として、自分で勝手に一人水増しした数字が、他の記録と違う、と文句を言っているわけです。
「別人だと解釈すると総人数が14人になってしまうから、これは同一人物であると見るのが自然」という当り前の発想を、なぜ持てないんでしょうね。
*なお、フォースターの「フォースター夫人への手紙」には「14人」の文字が見えますが、マギー自身がここまではっきりと「13人」と語っている以上は、単なる勘違い、と捉えておくべきところでしょう。
さて、次。
第2に、原告が昭和5年(西暦1930年)ではなく昭和4年(西暦1929年)の5月5日生まれであるとすれば、新路口事件当時(昭和12年12月)は中国式の年齢(数え年)で9歳であった。当時の中国では数え年で年齢を言うのが一般的であって、満年齢の8歳を用いることはなかった。その原告が仮にマギー師と面談した少女であったとすると、面談時(フォースター師の手紙の記載によると昭和13年1月26日)すでに数え年で9歳であった(当時中国の旧暦では昭和13年1月31日が旧正月でありその日からは10歳であるが、その5日前はまだ9歳と称していたと考えられる。)
原告が、自分の歳を「7−8歳」(数え年)と説明することは、あり得ない。フィルム解説文中に記録された人物10名の年齢はいずれも数え年による表示のはずである(数え年を満年齢表示に換算するのは不可能に近い。マギー師は聞き取ったままの数え年の年齢を書いたと考えられる。)。フィルム解説文中の「7−8歳の妹」(数え年)が原告である可能性は全くない。「数え年9歳の原告」=「数え年7−8歳の妹」=「数え年8歳の少女」という等式は成り立たない。原告代理人は、「原告は自己の正確な誕生日(5月5日)を知らない。」というが、仮にそうであっても、それは数え年による年齢表示において正確な誕生日はあまり意味がないというだけのことである。原告が自分の年齢を言えなかったということはあるまい。
私はこの部分、思わず目を疑いました。東中野氏、以前の論稿と、完全に主張を変えてきているのです。
念のため、「Sapio」論稿からです。
しかし最近になって存在が明らかとなった史料、たとえばマギーの4月2日付マッキム氏宛の手紙は、「中国式計算」で「9歳の少女」と「5歳の子供」が生き残ったと記録していた。マギーは数え年という「中国式計算」があることを知っていたのである。従って「8歳の少女」が数え年9歳(満8歳)であったことは否定できない。 http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/kashukukinsapio.html#3
ここで東中野氏は、はっきりと「数え年9歳」と主張しています。しかしそうであれば、上の東中野氏側主張に従えば「原告」は当時「数え年9歳」なのだから、何の問題もない。
そこで今回、東中野氏側は、わざわざ自分から持ち出した「否定根拠」である「マッキム氏の手紙」を無視する、というアクロバットをやってのけました。この手紙はなかったことにして、「マギーフィルムの解説文」では「7、8歳の妹」であったり「8歳の少女」であったりするのだから、「数え年9歳」の被告と同一人物ではありえない、というわけです。
結局、「マギーにとっても年齢は曖昧であった」と解釈しておくのが、一番自然でしょう。マギーが知りたかったことは「夏淑琴さんの年齢」ではなく、「事件の概要」だったのですから、「年齢」部分は適当に流したとしても、無理なからぬところです。
以下、「第2」についての「おまけ」です。
マギーが残した各種資料にある「被害者の年齢」を、表にしてみました。(どうしてもずれてしまいます。とほほさん、申し訳ありませんが、調整をお願いします)。原文は、K-Kさんの資料集、または私のサイトをご覧ください。 http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/mondai/kasyukukin.htm#01 http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/kashukukinshougen.html
マギー牧師の解説書 東京裁判証言 マギー日記 マッキム宛書簡
夏家 祖父 76 76 76 祖母 74 74 74
父 ? 母 ?
長女 16 16 16 16
次女 14 14 14 14
夏淑琴 7-8または8 8-9 8 9
妹 4 3-4 5(数え年)
赤ん坊 1 1 1 1歳にもみたない 馬家 父 ?
母 ? 子1 4 子2 2
「東京裁判証言」では、誰が誰のことであるのかよくわからない部分がありましたので、そこは省略しました。
まずこれらの年齢が「数え」なのか「満」なのか、という問題です。
マッキム宛書簡の「1歳にもみたない」
(less than a year
old)という表現に注目してください。おそらくは、「1歳未満の乳児」であったのだろう、と推測されます。しかしこの赤ん坊の年齢、他ではすべて「1歳」になっています。「0歳」という表現が見当たらない以上、これは「数え年」と考えるのが自然です。
さて興味深いことに、生き残った夏淑琴さんと妹以外は、すべての資料で年齢が一致しています。年齢が資料によってまちまちなのは、この二人だけなのです。
どうしてこういうことが起きるのか。以下は、私の全くの想像となります。
まず、夏さんの本当の年齢です。原告側準備書面によれば、こういうことであったようです。
「1929年5月5日という日付は,戦後になって新暦が採用された後に,親族の記憶を頼りに「生まれたのはこの時期だったのではないか」との推測に基づいて,便宜的に定めたものである(これは,中国のこの世代の老人にはよくあることである)。特に原告は,家族が全て殺されてしまっているため,なおさら正確な日付がわからず,1930年生まれだった可能性もある。」 夏さんが本当に自分の「年齢」を正しく認識していたのかどうかは不明ですが、上の「推測」が正しいものとするならば、とりあえずは事件当時は「数え年9歳」ということになります。
「マギー牧師の解説書」にある各人の年齢は、マギーが「叔母」からまとめて説明を受けたものではないでしょうか。その中で、夏淑琴さんは「8歳」または「7、8歳」と紹介されました。しかし、この叔母さんの「年齢認識」がかなりアバウトなものであったことは、私のサイトでも指摘した通りです。
そんな中で、夏さんは、自分の年齢を「9歳」と語ったのかもしれません。あるいは叔母さんが、「7歳」と言ったり「8歳」と言ったり「9歳」と言ったり、ふらふらしていたのかもしれません。
しかしマギーは、このあたりをあまり気にしなかったのか、「7-8歳」なり「8歳」なりでまとめてしまった。同一人物の年齢を「8歳」と書いたり「7−8歳」と書いたりするあたりにも、マギーが「年齢」にあまりこだわっていないことを伺わせます。
ただ後になって、「9歳」という数字を何となく思い出し、マギー自身も夏さんが何歳だったかはっきりとはわからなくなり、「8−9歳」になってみたり「9歳」になってみたりした。
まあ、以上は何の根拠もないただの「想像」ですが、要するにマギーは「年齢」はアバウトな数字で十分だと考えていた、ということだと思います。
さて、最後の「第3」です。
第3に、マギー師が「8歳の少女」との面談後まず最初に書いた日記(昭和13年1月30日付)では、次のように記録されていた。「家主ハ−の8歳になる娘は重傷を負いましたが、両親の死体に隠れて助かりました。さらに4歳になる妹も隠れていて助かり、二人はその後14日間も11人の遺体と、中国人がゴーバ(■巴)と呼ぶ鍋の底の焦げ付いた飯だけで生き延びていました。」(滝谷二郎『目撃者の南京事件−−−発見されたマギー師の日記』85〜86ページ。家主の名前については原文の英文タイプの文字がHa(ハー)なのかMa(マー)なのか判読がむつかしいが、現在ではHa(ハー)と読むのが正しいと解釈されているので、上記引用においてはハーと訂正して引用している)。すなわち、2人の姉妹が生き残ったとされ、その姉の方は家主哈の8歳になる娘であったとされている。
要するに東中野氏側は、「マギー日記」にも「マー(ハー)の八歳になる娘」という表現があるので、これは「夏」家の娘である夏淑琴さんのことではない、と言いたいようです。
しかしどうも、これは滝谷氏の「引用」の方に問題がありそうです。滝谷二郎氏の紹介する「マギー日記」を見ましょう。
一月三〇日。
今夕、アーネストと私は午後四時半にハンソンさんの家で中国の新年会(春節・旧正月)を祝いました。中国人が招いてくれたものです。中国人というのは一日二食で、朝九時と夕方四時の二回食事をします。今日は、乾燥した米のほか野菜が丼六杯も盛りつけられました。あちこちで祈祷の夕べが催され、集会が催されました。
この一週間の聞にまたひどい事件を耳にしました。私が近所の人と直接被害者から聞いたことですから、その真偽は疑う余地もありません。
一二月一三日。南京市内の南東にある新街口五番地にある家に、日本兵三〇人が押しかけました。マーという名の回教徒の家主が扉を開けたとたんに日本兵はマーを射殺し、ひざまづいて日本兵に"どうか他の者を殺さないで下さい"と懇願する同居人のシアも射殺し、さらに"どうして夫を殺した"と怒るマーの妻も射殺しました。
シアの妻は一歳の子供を机の下に隠し、自分も隠れたのですが日本兵に見つけられ数人に強姦され、銃剣で刺され局部に瓶を突っ込まれ、赤ん坊とともに銃剣で刺し殺されました。日本兵はさらに隣室にいた七六歳と七四歳になるシアの両親、一六歳と一四歳の娘を襲い、娘たちが強姦されそうになったので祖母がかばおうとすると祖母を射殺し、それを助けようとした祖父も殺しました。
二人の娘は日本兵に強姦され、刺し殺され局部に棒が突っ込まれていました。家主マーの八歳になる娘は重症を負いましたが、母親の死体に隠れて助かりました、さらに、四歳になる妹も隠れていて助かり、二人はその後一四日間も一一人の遺体と、中国人がゴーパ(鍋巴)と呼ぶ鍋の底の焦げついた飯だけで生き延びていました。
(滝谷二郎 『目撃者の南京事件 発見されたマギー牧師の日記』 P85〜P86)
「マギー日記」の原文(英文)は、『Eyewitnesses
to
massacre』に収められています。しかしその文は、滝谷氏が引用する上の文とは、なぜか全く異なっているのです。
英文→中文→日文という二重翻訳で、かつかなりの「俗訳」ではありますが、加藤実氏の訳によるものを紹介します。
l 月 30
日、日曜日
午後4
時30分に、フォースターとぽくとぽくらの人たちとで、ハンセンの家に集まって食事したのが、中国の農暦の正月を祝ってのことで、みんながぽくたちを、みんなといっしょに食べるのに招いてくれたんだ。みんないつもは一日二食で、朝
9 時と午後4時とにー食ずつだ。きょうは"乾いた"ご飯のほかに、どんぶり六つの"ツァイ"[Tsai = おかず]
もあって、みんなにしてみたら、それだけでもたいへんなご馳走なんで、いつもはほんとに貧弱なものしか食べてないからだ。
その席でフォースターが奨励をし、ぽくも隣りの部屋で、J.L..陳
[Ch'en]
の信徒たちにお奨めをした。午後の2時にも、ぽく小さな礼拝に参加したが、それはJ.L..陳が、シュルツ・パンティンの家にぽくたちと住まっている難民たちのためにやったもので、尼さん数人と若い見習い和尚さんも出席していた。
4時にフォースターが、自分の人たちのための晩祷もやった。水曜日に難民のための伝道集会をすると、彼が発表していて、金陵女子文理学院や金陵大学や、ぽくたちの住まいに金陵女子神学院でも似たような集会があり、華中メソヂスト教会の瀋
[Shen]
牧師が金陵女子神学院で、の礼拝をするんだ。
ぽくたちの働き人がこの企てで大きな役割を担っていて、ぼくらの人たちやぽくたちの家屋に住まっている難民たちのためだけでなく、金陵女子文理学院や金陵大学での集会のためにも
(
動いている。
この一週間に、ぼくもっとも恐るべきものを見、もっとも恥さらしな話を聞いたんだが、その真実性に疑いをさしはさむ余地のないのは、ぼくが直接に隣人からと、その場にいた8歳の小さい女の子から聞いて、よく解っているからなんだ。
日本兵たちが最初に入城したときに、町の東南のある家にやってきて、みんなで13人その家にいた。8歳と3歳か4歳かの二人の小さな女の子のほかは、全部その家で日本兵に殺された。
その8歳になる子の話すのを、そのおじさんの話や隣の年取った婦女の話と付き合せて、ぼくが確かめたんだが、8歳の子は背中と脇とに三ヶ所刺されたが、死ななかった。
死んだ人の中には、76歳のおじいさんと74歳のおばあさんに、母親に三人の娘が含まれていて、娘三人の年齢は16歳に14歳に1歳だ。娘さん二人はそれぞれ三回ほど強姦され、それから日本兵が、もっとも残忍でとても口にはできないようなやり方で二人を殺し、1歳の小さな子もいっぺんに刺し殺された。
似たようなケースを南京でぼくは、みんなで四件聞いている。ドイツ大使館の書記官が、ある婦女がゴルフのクラブを体内に挿し込まれたと話して、「日本的ナ手法デス」と言っている。
ぼくその母親が、1歳の子供といっしょに死んでいる写真を撮った。あの小さい女の子が言うんだが、大家さんの子供たちの一人で1歳の(上に述べた母親といっしょにいた子供ではないが)が、頭を日本兵の刀で二つに割られ、この8歳の子は、傷つけられてから、母親の死体の転がっている別の部屋まで這っていき、そこで小さな妹と14日間いっしょに過ごし、ふやけたお米と、中国人が”コーパ”[Go-ba 鍋巴]と呼んでいるお釜の底に残ったおこげとを食べ、井戸の水を飲んでいた。
そこでは、ほかの人たちはみんな安全区に逃げてしまっていたんだ。14日後にこの子のお隣の年取ったおばさんが戻ってきたときに、二人は救い出されたのだ。日本兵が絶え間なくやってきたが、そうするとこの二人の子は、古い敷布の下に隠れたのだった。
(『この事実を・・・2.』P327-P328)
ほぼ同一なのは最初の段落のみ。そこから「この一週間に」の前までの部分は、滝谷氏は完全に省略しています(「省略した」との断り書きもありません)。
そして、「事件」に関しては、「書き出し」だけはほぼ同一です。
(滝谷氏版)この一週間の聞にまたひどい事件を耳にしました。私が近所の人と直接被害者から聞いたことですから、その真偽は疑う余地もありません。
(加藤氏訳)この一週間に、ぼくもっとも恐るべきものを見、もっとも恥さらしな話を聞いたんだが、その真実性に疑いをさしはさむ余地のないのは、ぼくが直接に隣人からと、その場にいた8歳の小さい女の子から聞いて、よく解っているからなんだ。
ただし一緒なのはここまで。滝谷氏の方は、デティールがやたらと詳しくなっています。よく見ると、「マギーフィルムの解説書」とほぼ同一の文章です。 http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/mondai/kasyukukin.htm#02
「マギー日記」にふたつの異なる版が存在するのであれば話は別ですが(まずありそうにありませんが)、どうやら滝谷氏は、話をよりインパクトの強いものにするために、日記の「事件」に関する部分を「解説書」の方の記述に差し替えた、という可能性がありそうです。
とすれば、「マー(ハー)の8歳になる娘」というのは滝谷氏の(誤った)解釈を付け加えたものであり、原文には存在しない記述であった、ということになります。
(余談ですが、滝谷氏の文章を素直に読むと、「4歳の妹」まで「ハー家の一員」ということになってしまいますね)
実際のところ、滝谷氏がベースにした「原文」を見ないと何ともいえませんが、今私の手元にある情報だけからの判断では、このような解釈が最も無理がないものであると思います。
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