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[3996]夏淑琴裁判 被告(東中野修道)側準備書面(第4) K−K@南京事件資料集 07/2/5(月) 23:18
[4017]「年齢」考 ゆう 07/2/15(木) 16:16
[4018][投稿者削除]
[4019]Re(2):表の部分 ゆう 07/2/15(木) 22:27
[4020]Re(1):表の部分 2稿 ピッポ 07/2/15(木) 22:44
[4021]Re(2):表の部分 2稿 ゆう 07/2/15(木) 22:53
[4022]Re(2):表の部分 2稿 ピッポ 07/2/15(木) 22:56
[4023]Re(2):表の部分 しつもん ピッポ 07/2/15(木) 23:13
[4024]Re(3):表の部分 しつもん ゆう 07/2/16(金) 3:02
[4025]Re(4):表の部分 しつもん ピッポ 07/2/16(金) 8:25
[4026]表の部分 清書 ピッポ 07/2/16(金) 8:30
[4029]Re(1):タグを使わない、ゆうさんの投稿修正 ピッポ 07/2/16(金) 16:36 [添付]
[4030]なあるほど ゆう 07/2/16(金) 16:43
[4031]Re(1):なあるほど ピッポ 07/2/16(金) 17:19
[4032]Re(2):なあるほど 等幅を外すと ピッポ 07/2/16(金) 17:21
[4033]夏淑琴事件へのja2047さんの言及 ピッポ 07/2/16(金) 18:32

[3996]夏淑琴裁判 被告(東中野修道...
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 K−K@南京事件資料集 E-MAILWEB  - 07/2/5(月) 23:18 -

引用なし
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   ※夏淑琴裁判の被告側準備書面(第4)のテキストデータを掲載します。
※反論を思いついた方は、部分的でも構いませんので指摘していただけると助かります。
※スミ括弧はページ数です。


【1】
平成18年(ワ)第9972号 損害賠償請求事件
原告 夏 淑琴
被告 株式会社展転社 外1名

準備書面(第4)

平成19年1月12日
東京地方裁判所 民事第10部 御中

被告ら訴訟代理人弁護士 高池勝彦
同 弁護士 中島繁樹

第一 本件書籍(「南京虐殺」の徹底検証)の発刊

1.本件書籍の日本語版は平成10年8月に第一刷が発行され、その後、第五
刷まで発行された。平成18年末までの総発行部数は約1万2900部であ
る。頒布地域は日本国内である。
2.本件書籍は日本軍が昭和12年12月の南京占領前後に行ったとされる虐
殺なるものの存否を実証的に検証しようとするものである。その中で被告東
中野は、憶測を排し、史料に基づく実証的検討を行った。その集大成である
本件書籍は広く江湖の迎えるところとなった。埼玉大学教授長谷川三千子氏
は書評の中で、「諸説さまざまあるなかで、本当の意味での決定版と言える
のが本書です。」として、強く推奨されたのであった(『諸君!』平成13
年7月号の「アンケート特集・近現代史を知る500の良書」)。


【2】
3.本件書籍が広く江湖に受け入れられたことが契機となって、いわゆる南
京事件」についての実証的研究の気運が高まり、平成12年10月、日本
「南京」学会が発足した。同学会には「南京事件」の研究をしている多くの
研究者が参加することになり、被告東中野が同学会の会長に選ばれた。同学
会の年報の編集委員には現在、被告東中野(亜細亜大学教授)のほかに、北
村良和氏(愛知教育大学)、杉原誠四郎氏(武蔵野大学教授)、富澤繁信氏
(同学会事務局長)、中垣秀夫氏(前防衛大学校教授)、原剛氏(元防衛研
究所主任研究官)、藤岡信勝(拓植大学教授)らがいる。
4.同学会は定期的に学会誌『南京「事件」研究の最前線』(平成14年版〜
平成19年版)を発行するほか、会員が多くの研究書や論文を世に問うてい
る。そのような研究成果の一つが、平成15年7月発行の『南京事件の核
心』(乙第6号証)である。これは、南京で発生したとされるすべての個別
事件をデータベース化することによって、南京事件を具体的かつ正確に把握
しようとする研究である。
 また、研究成果の一つとして、平成16年9月発行の『「南京安全地帯の
記録」−完訳と研究』(乙第5号証)がある。これは、「南京安全地帯の記
録」(これは徐淑希が南京安全地帯国際委員会の抗議文書をまとめて出版し
たものである。乙第1号証はその一部である。)の完全な翻訳である。個別
事件に関する同時代の史料を正確な形で示そうとするものである。
 また、被告東中野らは、平成17年2月、南京事件の「証拠写真」と言わ
れている写真143枚を取り上げ、総括的な検証を加えて、『南京事件「証
拠写真」を検証する』(乙第7号証)を著した。この中では、いわゆるマギ
ーフィルムについても検証している(同書の186〜196ページ)。
5.本件書籍の中国語版は平成13年、台湾の前衛出版社から発行された。発
行部数は2000部、頒布地域は台湾である。
 本件書籍の英語版は、平成17年、日本の株式会社世界出版から発行され
た。発行部数はハードカバー版3000部、ソフトカバー版1250部であ
る。頒布は国内の直接販売である。


【3】
第二「南京事件」の基本的事実に関する研究の到達点

1.いわゆる「南京大虐殺」とは、もともと中国国民党政府の言論報道統制の
総本山であった「国民党中央宣伝部」が、昭和12年から13年にかけて南
京の欧米人に書いてもらった戦争プロパガンダであり、当初民間人の死者1
万2000人程度の宣伝を目標としていた。今日の中国政府が主張している
「南京大虐殺」は、上記を源流として、昭和21年以降の東京裁判の過程で
大きく誇張して創作されたものである。
 昭和12年当時、国民党の「中央宣伝部国際宣伝処」は、対外宣伝工作の
要綱として、中国人は決して表に出ず外国人の協力者である「国際友人」を
通じて宣伝を行うことに決めていた。当時マンチェスター・ガーディアン紙
中国特派員であったH.A.ティンパーリ記者は、実は「国民党国際宣伝
処」の顧問であり、首都南京の陥落に際し、情報戦の一環として反日プロパ
ガンダ工作の一端を担っていた。さらに、当時、難民保護の名目で南京城内
に結成されていた「南京安全地帯国際委員会」(以下「南京国際委員会」と
いう。)の主要メンバーのうち、少なくともM.S.ベイツ教授、G.フィ
ッチ師ら数人がティンパーリ記者と密接な関係を有し、意識するしないにか
かわらず国民党の対日プロパガンダ戦に協力していた。
2.これらの欧米人エージェント達は、「国民党国際宣伝処」の資金により
『戦争とは何か』(甲第4号証はその一部である。)及び『南京地区におけ
る戦争被害』という2冊の宣伝本を作成した。前者はティンパーリ記者がマ
ンチェスター・ガーディアン紙特派員の肩書きで、後者は「南京救済国際委
員会」の公式記録の名目で刊行した。
 その宣伝本のうち、『戦争とは何か』は、M.S.ベイツ教授及びG.フ
ィッチ師ら(「南京国際委員会」メンバー)が上海にいたティンパーリ記者
と連絡を取り合いながら、匿名で執筆を分担したことが判明している。また
『南京地区における戦争被害』については、序文をM.Sベイツ教授が執筆


【4】
し、本文を「南京国際委員会」書記であったL.スマイス教授が執筆してい
る。
 前者はその内容において現実からかけ離れていた。それが戦争プロパガン
ダであったことは、この本が出版されたころ「国民党中央宣伝部」は毎日の
ように外国人記者との会見を開催しながら、その会見の際に、自ら「編印」
したこの本の中の「南京大虐殺」をプレスリリースしなかったという事実、
外国人記者も「南京大虐殺」を一度も問題にしなかったという事実によって
裏づけられる。
 後者の実態は「国民党国際宣伝処」の資金で作成された宣伝用文書であっ
たにもかかわらず、同書は表向き「南京救済国際委員会」が作成主体となっ
て、復興支援活動を行うための基礎資料として戦争被害調査を行った旨を明
記し、さらに序文でその中立性や学術性をことさらに強調するカムフラージ
ュを行っている。同書には、1万2000人が城内及び城壁付近で殺された
というプロパガンダも記載されていたが、このプロパガンダの部分は後に、
蒋介石政府の軍事委員会に直属する「特殊機関」ないしは「謀略機関」とし
ての「国際問題研究所」が公式資料を基礎として作成した宣伝本において、
4度も削除されている。
 上記のほか、前記の「国民党中央宣伝部」の「国際友人」たちは、外国人
の新聞記者や「南京国際委員会」の他のメンバー、各国の大使館員といった
一見中立的な第三者に対し、虚偽の情報や出所の怪しい情報を提供していた
疑いを否定できない。なお、「南京国際委員会」が「日本軍の不法行為」を
記録し告発したとされる「市民重大被害報告」は、そのほとんどがL.スマ
イス教授の編集とタイプによるものであり、そこには不法殺人の目撃は一件
も記録されていなかった。それが南京のすべてであった。
3.「国民党国際宣伝処」は、上記の手段により、対日情報戦の一環として、
戦場に溢れる流言蜚語や怪情報を、善意の第三者の口を借りてきれいにして
流布するという、「情報洗浄」とも言うべき工作を展開していた。
 今日、南京事件について、「中立的な外国人からの告発」として紹介され


【5】
るものは、そのほとんどが上述の指摘と無関係ではない。

第三 被告東中野の研究

 被告東中野は平成18年5月、長年月にわたる南京事件研究の到達点とし
て、『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』(乙第4号証)を著した。
 被告東中野が研究者として南京事件に取組んで来た姿勢が、同書の冒頭に
記されている。以下、同書7ページ以下の引用である。

《 灯台下暗しとはまさにこのことだった。南京事件を論ずるにあたって、も
はや史料はほとんど出尽くしていると思っていたのであるが、肝心要の史料
が抜けていた。私が見落としていたのは、日中戦争(昭和12年〜20年)
の相手国だった中国でプロパガンダ戦を担っていた国民党中央宣伝部(以下
中央宣伝部と略す。)の史料であった。
 蒋介石の国民党は当初から軍事的に劣勢であったため、昭和12年12月
13日の南京陥落の直前から宣伝戦に総力を挙げていた。「現代の戦争は武
力を用いることを除けば宣伝もまた勝敗を決する一つの要因である」と考え
ていた中央宣伝部は、「宣伝は作戦に優先す」を合言葉に、宣伝戦で日本を
貶め、国際的に日本を孤立させるため、日本軍を非難する材料はないかと、
手を尽くして探していた。
 昭和12年7月7日に盧溝橋事件が勃発し、8月13日に第二次上海事変
が引き起こされ、12月13日に首都南京が陥落したあとの南京の日本軍を
彼らが見逃すはずはなかったであろう。もしも南京の日本軍に瑕疵があった
のであれば、それはどのようなものだったのか、陥落後の南京に最も関心を
寄せ、最も正確な状況把握に努めようとしていたはずである。
 その記録を台湾の史料館で探さなければならないと思い立ったのは、今か
ら3年前、平成15年(2003)のことである。今日、南京大虐殺の重要
な根拠と言われている単行本『戦争とは何か』が、中央宣伝部の宣伝本では


【6】
ないかと感じ始めていたころであった。
 陥落後の南京で日本軍による大虐殺があり、その数は「数万」「十万以
上」「二十万以上」とも断定した東京裁判によれば、南京大虐殺はナチスの
ホロコーストにも匹敵するはずであった。ところが、多数の被害者がいるは
ずの中国においても、多数の関係者がいるはずの日本においても、有罪の判
決を下した連合国においても、ナチスのホロコーストとは違って、長いあい
だ、大部分の人々のあいだで南京大虐殺が話題にのぼることはなかった。教
科書に記載されることもなかった。あたかも南京大虐殺は有名無実であるか
のごとくであった。
 昭和50年(1975)3月に発行された『詳説日本史』(山川出版社)
を開いてみても、そこには次のように記述されているだけだ。
「こうしたなかで1937(昭和12)年7月7日、近衛文麿内閣の成立直
後に、北京郊外の盧溝橋で日中両国軍の衝突事件が発生した(盧溝橋事件)。
近衛内閣は不拡大方針を声明したが、現地軍は軍事行動を拡大した。いっぽ
う中国では、9月末に国民党が共産党と合作して抗日民族統一戦線を結成し
た。こうした抵抗に直面し、日本は大軍を投入して戦線を拡大したが、収拾
の機会をつかむことができず、近衛首相は1938(昭和13)年1月には
〈蒋介石の国民政府を相手にせず〉との声明を発した」
 このように南京大虐殺の記述はない。ところが、今ではわが国すべての教
科書に掲載されている。その経緯を述べれば次のようになる。
 その嚆矢は、東京裁判から四半世紀あまりのちの昭和47年(1972)、
日中国交回復の年に、本多勝一『中国の旅』が出版されたことである。これ
は朝日新聞記者の本多氏が前年に中国に行って取材し、「中国の旅」と題し
て同紙に連載した記事をまとめたもので、ベストセラーとなって大きな反響
を呼んだ。
 本多氏は、「私の訪中目的は、すでに入国申請のときから中国側に知らせ
てあったように、戦争中の中国における日本軍の行動を、中国側の視点から
明らかにすることだった………とくに日本軍による残虐行為に重点をおき、


【7】
虐殺事件のあった現場を直接たずね歩いて、生き残った被害者たちの声を直
接聞きたいと考えた」(傍点原文)と語っている。中国側の視点から、日中
戦争で日本軍がいかに残虐な行為を行ったか、被害者の証言を集めたもので
あった。
 高度経済成長のもとで戦後の復興を成し遂げ、平和を享受していた日本人
にとって、中国側の視点から書かれた「日本軍による残虐行為」は、始めて
読む者には大きな衝撃であった。
 しかし、そのころは南京陥落から35年しか経っていなかった。私たちの
身近なところに南京戦の参戦者が大勢いた。何も知らない大方の人たちは
「まさか」という半信半疑の思いであった。しかも中国人証言者の話には、
それを裏付ける確証が乏しかった。それでも中国人の悲痛な証言によって
「日本軍による残虐行為」が日本人の心に刻まれたことだけは確かである。
 それから1年後の昭和48年(1973)に、大虐殺はあったのだと主張
する人々によって英語版の『戦争とは何か−中国における日本軍の暴虐』が
発掘され、大虐殺の根拠として提示される。
 この本は、上海にいた英国の『マンチェスター・ガーディアン』紙中国特
派員ハロルド・ティンパーリ記者が南京在住の欧米人(匿名)の原稿を編集
して、昭和13年(1938)7月にニューヨークやロンドンで出版したも
のであった。戦争の悲惨さを訴えるろいう趣旨のもと、日中戦争、とりわけ
南京の日本軍の暴行を取り上げたという構成になっていた。まさに第三者的
立場の欧米人が独自に出版した本と読者の目には映った。
 執筆者は匿名であったが、陥落前後の南京にいて一部始終を見たというア
メリカ人の「手紙」と「メモランダム」が、主として南京の日本軍の殺人・
強姦・略奪・放火を告発していた。
 この『戦争とは何か』の評価が一躍高まったのは、その後になって、匿名
の執筆者がマイナー・ベイツ教授と宣教師のジョージ・フィッチ師であると
判明したことからであった。特に、ベイツ教授は東京裁判に出廷し、日本軍
の虐殺を主張していた人物であった。その彼が南京陥落から7ヶ月後に出た


【8】
『戦争とは何か』のなかで、東京裁判における証言と同じことを主張してい
たことが明らかになったのである。これによって東京裁判の判決を裏打ちす
る、新たな証拠が提出される形となった。
 ベイツ教授は有名な宣教師にして社会的地位のある南京大学教授であった。
その彼が嘘の証言をするはずもなければ、嘘をつく理由もない、と思われた。
したがって『戦争とは何か』の内容が検証されることはなかった。
 この『戦争とは何か』を典拠として、それから次々と南京大虐殺を主張す
る本が出た。たとえば南京大虐殺を体験したという被害者の証言を集めた本
多勝一『南京への道』(昭和61年)や、兵士の手紙や日記などを中心にし
た下里正樹ほか編『南京事件京都師団関係資料集』(平成元年)、日本軍関
係者の証言や陣中日記を中心とする南京戦史編集委員会編『南京戦史』なら
びに『南京戦史資料集』(平成元年)などである。
 また平成4年(1992)には『戦争とは何か』の内容をさらに裏付ける
南京事件調査研究会編『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』が出版され
る。この本には南京陥落3日後に南京大虐殺を報じたアメリカの新聞記事や
『戦争とは何か』の出版をめぐる、上海のティンパーリ記者と南京のベイツ
教授の往復書簡も収められていた。
 このころになると、『戦争とは何か』の内容は疑うことのできない不動の
真実となっていく。第三者的立場の欧米人の現地報告が、日本人に、知られ
ざる真実を突きつけることとなった。こうして、南京大虐殺は南京陥落当時
から世界に知らされていたのだと主張されていく。
 平成8年(1996)に放映され、平成15年(2003)に再放送され
たあとCD−ROM化された「NHKスペシャル『映像の世紀』JAPAN
II」は、南京事件の項目を作って、「アメリカのニュース映画」と称する
「パラマウント・ニュース映画」を放映し、「日本国民がいわゆる南京大虐
殺を知るのは戦後の東京裁判で問題とされてからのことでした」という解説
で締めくくっている。
 日本人はこれまで本当のことを知らされていなかったのであって、南京大


【9】
虐殺はやはりあったのだという社会風潮が大きく広がっていく。有名無実の
感のあった東京裁判の判決が、日本人にはあたかも真実の判決であったかの
ように刻印されていく。敗戦から37年後の教科書誤報事件まで記述されて
いなかった南京大虐殺が、こうしてそれ以後はほとんどの歴史教科書に記述
されるようになった。
 たとえば平成13年(2001)発行の日本の中学校歴史教科書(日本書
籍)は「1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中
国軍との衝突がおこり、宣戦布告もないまま、日本軍は中国との全面戦争を
はじめた(日中戦争)。年末には日本軍は首都南京を占領したが、そのさい、
20万人ともいわれる捕虜や民間人を殺害し、暴行や略奪もあとをたたなか
ったため、きびしい国際的非難をあびた(南京事件)」と記述し、その脚注
として「日本人の多くは、この事件のことを戦争が終わるまでまったく知ら
されなかった」と記している。
 中国の教科書には「日本軍は南京を占領すると、南京の人民にたいして血
腥い大屠殺を行い、天をも覆う罪行を犯した………日本軍は南京占領後6週
間で、寸鉄も帯びない中国住民と武器を放棄した兵士30万人以上を屠殺し
た」(『中国歴史』第4冊、1997年)と書かれた。そして今や、昭和6
0年(1985)に建設された南京大虐殺記念館が、世界遺産として登録を
申請されるまでになっている。
 以上が、敗戦から60年後の今日にいたるまでの南京大虐殺論の流れであ
る。『戦争とは何か』が核となって、あるいは芯となって、南京大虐殺は大
きくなったようだ。『戦争とは何か』がなかったならば、南京大虐殺が教科
書に載っただろうか。それほどこの本は大きな影響力を発揮したのである。
 右に見たように経緯から、南京大虐殺を主張する人は必ずと行ってよいほ
ど、「南京大虐殺は陥落当時から世界に知らされていた」と述べる。しかし、
ちょっと待っていただきたい。たしかに、陥落直後にアメリカの新聞が「南
京大虐殺物語」を報じていた。陥落から7ヶ月後に出版された『戦争とは何
か』は南京の日本軍の暴行を目撃したという欧米人の記録を載せていた。し


【10】
たがって「南京大虐殺は当時から世界に知らされていた」という主張も間違
いではない。
 しかし、或ることが「知らされていた」ということと、その「知らされて
いた」内容が事実であったか否かという問題は、別問題なのである。実は私
もまた「南京大虐殺は陥落当時から世界に知らされていた」という不思議な
言葉の力に引きずり込まれて、その区別がはっきりと付けられずにいた。研
究者たちはこの峻別に立って、発掘された史料を学問的に検証しておくべき
であった。
 近年の研究により、南京大虐殺が歴史的事実と決めつけられないことは誰
の目にも明らかになっている。たとえば『戦争とは何か』の描く出来事を他
の史料と付き合わせて検証してみると、本書第6章で論じるように、疑問や
矛盾が続出する。また附録として『戦争とは何か』に収録されている「市民
重大被害報告」を一つ一つ丁寧に読み進んでいくと、本書第5章で論じるよ
うに、そこに書かれた記録は伝聞としか言いようがなく、そのほとんどは確
証がなかったのである。
 しかも『戦争とは何か』に深く関わっていた人たちが、まったくの第三者
的ではなかったことが判明する。編者のティンパーリ記者は『近代来華外国
人名辞典』によれば中央宣伝部の「顧問」であったことが、鈴木明『新「南
京大虐殺」のまぼろし』(平成11年)や、北村稔『「南京事件」の探求』
(平成13年)によって突き止められた。しかも、この『戦争とは何か』に
ついては、鈴木氏は、首都漢口の国民党中央宣伝部が「全力を挙げて………
完成させた」と推定し、北村教授は『曽虚白自伝』や王凌■『中国国民党新
聞政策之研究』を典拠に「宣伝刊行物」であったと論じた。
 戦後出版された『曽虚白自伝』には、中央宣伝部がティンパーリ記者に
「お金を使って頼んで、本を書いてもらい、それを印刷して出版」したとい
う曽虚白[南京大学教授、のちに中央宣伝部国際宣伝処処長]の証言が記さ
れている。さらに次のことも判明した。『戦争とは何か』に執筆し、東京裁
判でも証言していたベイツ教授は、実は中華民国政府の「顧問」であった


【11】
(本書118頁)。もう一人の執筆者ジョージ・フィッチ師も、『チャイナ
・マンスリー』1940年1月号の「編集者ノート」によれば、彼の妻が蒋
介石夫人の宋美齢と「親友」の間柄であった。彼らはいずれも国民党政府と
何らかの関係にあり、『戦争とは何か』は第三者的立場の人たちが独自に出
版した本ではなかった。
 ここでいよいよ、『戦争とは何か』は中央宣伝部の「宣伝本」ではなかっ
たのかという疑惑が浮上してきたのである。
 常識的に考えると、ある事柄に疑問や矛盾があるかぎり、それが事実と判
定されることはない。まして子供たちが学ぶ教科書への記載は許されること
ではない。しかし日本国政府が検定する全教科書に記述され、人々の心に刻
印されてしまった言葉は、一朝一夕には消しがたい。たとえ疑問が指摘され
ても、それは推測に過ぎないではないかと一蹴されてしまう。事実を明らか
にするには、南京大虐殺の核や芯となっている『戦争とは何か』がどのよう
な性格の本なのか、実は国民党の「宣伝本」だったのではないかという推測
の証明が、どうしても必要であった。
 ともあれ私は、「灯台下暗し」を反省して、遅まきながら当の中央宣伝部
の史料を何としてでも探さなければならなかった。
 探し求めていた中央宣伝部の史料は、台北の国民党党史料館に眠っていた。
中央宣伝部には、程其恆編『戦時中国報業』(1944年)によれば、普通
宣伝処、国際宣伝処、芸術宣伝処、出版事業処、新聞事業処、総務処があり、
さらに専員室、指導員室、編審室、人事室があった。また付属機関としては、
中央通信社や中央電影撮影場など9つの機関があった。そのなかの国際宣伝
処の資料の一つが、『戦争とは何か』に関係がある『中央宣伝部国際宣伝処
工作概要 1938年〜1941年4月[民国27〜30年4月]』であっ
た。冒頭に「枢機密」の印が押されている極秘文書は、見るのも手にするの
も初めてであった。
(中略)
 先にも述べたように、私が中央宣伝部の史料を探し求めたのは、『戦争と


【12】
は何か』が国民党の「宣伝本」ではないのかという推測の可否を確定するた
めであった。
 それは極秘文書中の「対敵課工作概況」のなかの「(一)対敵宣伝本の編
集製作」(傍点筆者)の「1、単行本」によってついに判明した。
1、単行本
本書[国際宣伝処]が編集印刷した対敵宣伝書籍は次の二種類である。
A『外人目賭中之日軍暴行[外人目撃中の日軍暴行]』
 この本は英国の名記者田白烈が著した。内容は、敵軍が1937年12
月13日に南京に侵入したあとの姦淫、放火、掠奪、要するに極悪非道の
行為に触れ、軍紀の退廃および人間性の堕落した状況についても等しく詳
細に記載している。
 「田白烈」は「ティンパーリ」の漢字表記であり、『外人目撃中の日軍暴
行』は英語版『戦争とは何か』の漢訳版であった。ティンパーリ編『戦争と
は何か』は、「本処[中央宣伝部国際宣伝処]が編集印刷した対敵宣伝書
籍」とあるように、中央宣伝部が編集製作した2冊の宣伝本のうちの一つで
あった。ちなみにBとして挙げられたもう1冊は、イタリア人が書いたとい
う『神の子孫は中国に在り』(本書61頁)である。
 しかし「本処が編集印刷した」とは、ただ単に国際宣伝処が英語版を翻訳
したということを意味するのではないか、そのような異論も考えられよう。
そこで念のために付言しておくが、英語版の『戦争とは何か』も、漢訳版の
『外人目撃中の日軍暴行』も、ともに1938年(昭和13)7月の出版で
あった。同時出版の事実と、先にも引用したように中央宣伝部がティンパー
リ記者に「お金を使って頼んで、本を書いてもらい、それを印刷して出版し
た」という曽虚白処長の回想を考慮に入れると、その異論は成り立たないで
あろう。
 以上のことから、『戦争とは何か』は中央宣伝部の製作した「宣伝本」だ
ったことが確認された。長いあいだ南京大虐殺の根拠となっていた『戦争と
は何か』とその巻末に収録された資料は、戦争プロパガンダの視点から見直


【13】
さねばならなくなったのである。
 こうして極秘文書発掘の目的が達せられた。誤解のないように言っておく
が、『戦争とは何か』が中央宣伝部の製作した宣伝本だからと言って、それ
がただちに南京大虐殺はなかったということを意味するものではない。した
がって、私はそこで極秘文書から離れ、あとは戦争プロパガンダの視点をも
加えながら他の史料を分析していくつもりであった。
 ところが、平成15年(2003)1月の第一回の訪台で入手した極秘文
書を見直しているうちに、ふと不思議なことに気づかされた。『戦争とは何
か』には「度重なる殺人」といった描写が頻出するにもかかわらず、前述の
「対敵課工作概況」を読んでも、『戦争とは何か』を要約した記述のなかに
「虐殺」はおろか「殺人」という言葉すら見当たらないではないか。誰が
『戦争とは何か』を要約しようが、この本には「虐殺」「殺人」が描写され
ていると要約されて当然であったのではないか。
 また、第一回目の訪台時に複写できた『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』
のB4サイズ43枚のコピーのすべてを丁寧に見ても、どこにも南京の「虐
殺」「殺人」が出てこない。南京で大虐殺があったのであれば、中央宣伝部
のどの課もこれを大いに宣伝したと極秘文書に記していて当然であったのに、
それがなかった。何とも不思議であった。これはいったい何を意味するのか。
私は新たな疑問と矛盾にとらわれてしまったのである。
 そこで以上の疑問を解くために、私は再び台湾に赴いた。第一回目の史料
収集は国民党党史料館の好意で、たまたま43枚をコピーできたが、第二回
目以降は、公開文書であるにもかかわらず、コピーはできなかった。そのた
め私は手書きで筆写した。手書きによる筆写は時間がかかるため、第三回目
の訪台時に台湾の知人に頼み、パソコンに入力してもらった。こうして中央
宣伝部国際宣伝処の極秘文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』はすべて揃
った。
 貴重な史料を入手した私は、極秘文書を読み解きながら、従来の史料をも
う一度新たな視点から解釈し直すという、これまで試みられたことのない作


【14】
業に取りかかったのである。本書はその研究と分析の成果である。》

第4 本件書籍の記述が名誉毀損にあたらないこと

1.被告東中野は、何らかの形での新路口事件の存在および被害者「8歳の少
女」の存在を前提としながら、「マギー師が昭和13年2月10日ころフィ
ルム解説文を書くにあたり認識していた『8歳の少女』は原告と同一人物で
ある」か否かについての判断をした。
 被告東中野は上記の点について否定の判断をし、本件書籍中で「8歳の少
女」と夏淑琴とは別人と判断されると述べた。
 本件書籍の以上の記述は、フィルム解説文の文意の解釈について被告東中
野の見解ないし評価を述べたものであり、このような評価行為は定型的に名
誉毀損行為の概念に該当しない。被告準備書面(第2)の6ページにいう定
型レベルの1にあたるにすぎないものである。
2.本件書籍の以上の記述は被告東中野の見解ないし評価を述べたものではあ
るが、読みようによっては、「8歳の少女は原告と別人である」との事実を
摘示したと受け取られることがあるかもしれない。
 そうであるとしても、本件書籍の記述はその摘示事実そのものが原告の名
誉を毀損する内容を有しておらず、このような事実摘示行為は定型的に名誉
毀損行為の概念に該当しない。被告準備書面(第2)の6ページにいう定型
レベルの2にあたるにすぎない。
3.原告の主張(原告準備書面(1)の3〜4ページ)によれば、本件書籍の記述
は一般読者の判断基準で判断すれば、原告に対する名誉毀損行為に該当する
という。原告はその要件事実として次のとおり指摘している。
 すなわち、1.原告は南京事件で祖父母、両親、2人の姉と妹を殺害され、
自らも3箇所銃剣で刺され、ようやく生き長らえた。2.原告はその後の生活
も孤児同然の苦しい生活を強いられて来た。3.原告は二度と戦争を繰り返し
てはならないとの思いから自らの体験を話すようになった。4.被告らは、原


【15】
告とフィルム解説文中の人物とは別の人物であると記述した。5.その記述は、
上記1.の事実について原告が真実を語らず、更に来日してまで虚偽の話をし
ていると言っているのと同じことである。ーーというのである。
 原告の以上の主張に対する被告らの認否は次のとおりである。
 1.は知らない。何らかの形での新路口事件はあったと言えるかもしれない
が、「日本軍の第114師団兵らが新路口の夏家と哈家の人々に対し違法に
殺人及び強姦に及んだ」との点については厳格な証明が困難であると考えら
れる。
 2.及び3.は知らない
 4.は認める。 
 5.は否認する。本件書籍の記述は新路口事件の核心的部分について疑問を
呈するものであるが、原告がその新路口事件の関係者であったかどうかにつ
いては何も記述していない。原告が虚偽の話をしていると書いたのではない。
被告東中野は「原告は事実を語るべきである」とは書いたが、虚偽の証言を
行っていると誹謗したのではない。
 新路口事件の内容は、いまだ証明されてはいない。その内容について一般
的な共通認識が世間にあるわけでもない。前提として新路口事件の内容が定
まってもいないのに、原告の供述が正しいとか虚偽だとかの批評ができるわ
けでもあるまい。本件書籍の読者は1.の事実が真実かどうかを知らないのが
普通であるから、本件書籍の4.の記述を読んでも原告供述に対する誹謗であ
ると受け取ることはない。

第5 違法性不存在の抗弁

1.被告東中野は亜細亜大学教授として社会思想史を講ずる研究者である。ま
た同人は平成12年に設立された日本「南京」学会の会長でもある。被告ら
が著わした本件書籍は、現在も論争が続いている歴史上の南京事件について
その真相究明のために書かれた研究書である。学問研究者にはその研究成果


【16】
を発表する自由について特別の保障が与えられなければならない。
 前記第3の「被告東中野の研究」において述べたとおり、被告東中野は真
摯に学問研究に取り組んで来た。
 仮に本件書籍の記述によって原告のなにがしかの社会的評価が低下すると
いうことがあり、その点において微弱ながらも違法性が認められることがあ
るとしても、学問の自由の保障の下では、本件のような訴訟手続によって損
害賠償責任を課することは、明らかに相当ではない。
 意見ないし論評については、その内容の正当性や合理性を特に問うことな
く、人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものでない限
り、名誉毀損の不法行為が成立しないものとされている。意見ないし論評を
表明する自由は民主主義社会に不可欠な表現の自由の根幹を構成するもので
ある(最高裁平成16年7月15日判決)。
2.本件書籍中の原告に関する記述は次のとおりである。
《(1)「8歳の少女」と夏淑琴とは別人と判断される。(247〜248
ページ)
(2)「8歳の少女(夏淑琴)」は事実を語るべきであり、事実をありの
ままに語っているのであれば、証言に、食い違いの起こるはずもな
かった。(248ページ)》
 このような表現は、人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱
したものではない。
 これに対し、原告代理人の被告東中野に対する言い方は次のとおりである。
《(1)被告東中野は、あえて原告夏淑琴をニセモノに仕立て上げて誹謗
中傷するために、故意に誤訳をした。(原告準備書面(1)19ペー
ジ)
(2)被告東中野は、確信犯的に誤訳をして原告をニセモノにでっち上
げた。(同21ページ)
(3)被告東中野は、南京大虐殺の事実を何としても否定しようとの卑
しい心根から、意図的に誤訳を行ってまで原告をニセモノ被害者に


【17】
仕立て上げた。(同24ページ)》
 このような人身攻撃に及ぶような言い方は名誉毀損にならないのであろう
か。原告代理人のこのような言い方であっても名誉毀損に該当しない、すな
わち違法性がないというのが原告主張の趣旨なのであろう。そのような判断
基準に従うとすれば、論ずるまでもなく上記本件書籍の記述は名誉毀損に該
当せず違法性がない。

第6 真実性の抗弁

1.本件書籍の記述は、日中戦争の歴史的経緯という公共の利害に関する事実
について、その真実を学問的に究明するという専ら公益を図る目的を持つも
のである。また、その記述は、もっぱら客観的実在としてのフィルム解説文
の記述を意見ないし論評の前提としている。ジョン・マギー師による「フィ
ルム解説文」は昭和13年2月10日付で南京ドイツ大使館公文書綴「日支
紛争」の一部分として収録されているものであり、その存在自体は真実であ
る。そして本件書籍の記述においては、人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評
としての域を逸脱してはいない。よって本件記述は違法性を欠く。
2.本件書籍の記述が意見ないし論評でなく、「8歳の少女は原告と別人であ
る」との事実の摘示であるとしても、その摘示事実は次記のとおり真実であ
り、本件記述は違法性を欠く。
 上記の摘示事実が真実である理由はすでに被告準備書面(第2及び第3)
において述べたところであるが、まとめると次のとおりである。
 第1に、本件書籍の246〜247ページに述べた第9の疑問点の記述の
とおり、フィルム解説文中の「7ー8歳の妹」は刺殺されたと考えられる。
そのように解釈するのが相当である。フィルム解説文中の生存した「8歳の
少女」は、シア夫婦の子である刺殺された「7−8歳の妹」とは別人である
と解される。したがって「8歳の少女」の姓はシア(夏)ではなかった。
 第2に、原告が昭和5年(西暦1930年)ではなく昭和4年(西暦19


【18】
29年)の5月5日生まれであるとすれば、新路口事件当時(昭和12年1
2月)は中国式の年齢(数え年)で9歳であった。当時の中国では数え年で
年齢を言うのが一般的であって、満年齢の8歳を用いることはなかった。そ
の原告が仮にマギー師と面談した少女であったとすると、面談時(フォース
ター師の手紙の記載によると昭和13年1月26日)すでに数え年で9歳で
あった(当時中国の旧暦では昭和13年1月31日が旧正月でありその日か
らは10歳であるが、その5日前はまだ9歳と称していたと考えられる。)
原告が、自分の歳を「7−8歳」(数え年)と説明することは、あり得ない。
フィルム解説文中に記録された人物10名の年齢はいずれも数え年による表
示のはずである(数え年を満年齢表示に換算するのは不可能に近い。マギー
師は聞き取ったままの数え年の年齢を書いたと考えられる。)。フィルム解
説文中の「7−8歳の妹」(数え年)が原告である可能性は全くない。「数
え年9歳の原告」=「数え年7−8歳の妹」=「数え年8歳の少女」という
等式は成り立たない。原告代理人は、「原告は自己の正確な誕生日(5月5
日)を知らない。」というが、仮にそうであっても、それは数え年による年
齢表示において正確な誕生日はあまり意味がないというだけのことである。
原告が自分の年齢を言えなかったということはあるまい。
 第3に、マギー師が「8歳の少女」との面談後まず最初に書いた日記(昭
和13年1月30日付)では、次のように記録されていた。「家主ハ−の8
歳になる娘は重傷を負いましたが、両親の死体に隠れて助かりました。さら
に4歳になる妹も隠れていて助かり、二人はその後14日間も11人の遺体
と、中国人がゴーバ(■巴)と呼ぶ鍋の底の焦げ付いた飯だけで生き延びて
いました。」(滝谷二郎『目撃者の南京事件−−−発見されたマギー師の日
記』85〜86ページ。家主の名前については原文の英文タイプの文字がH
a(ハー)なのかMa(マー)なのか判読がむつかしいが、現在ではHa
(ハー)と読むのが正しいと解釈されているので、上記引用においてはハー
と訂正して引用している)。すなわち、2人の姉妹が生き残ったとされ、そ
の姉の方は家主哈の8歳になる娘であったとされている。


【19】
第7 相当性の抗弁
1.本件書籍の記述は、「8歳の少女と原告とは別人と判断される。」との評
価を述べたにとどまるものであり、そもそも名誉毀損の要件に該当せず、か
つ違法性もないものであるから、帰責事由としての有責性の有無を検討する
必要はない。しかし原告は名誉毀損に該当し違法性もあると強弁しているの
で、以下において念のため、判例のいう免責要件(相当性の抗弁)について
検討する。
2.前記のとおり、マギー師が昭和13年2月10日ころフィルム解説文を書
くにあたり認識していた「8歳の少女」は原告ではない。その理由は前述第
6に記載したとおりであって、被告東中野は最も早い時期の最も詳細な原史
料をその意見ないし論評の基礎としている。その史料解釈の論理的思考は極
めて妥当である。被告東中野が8歳の少女は原告と別人であると判断し、そ
のように信じたことには相当の理由がある。
 また、被告準備書面(第3)の16ページにおいて指摘したことであるが、
本件書籍が発行された平成10年当時、本件書籍以外の刊行物においても、
フィルム解説文にいう「8歳の少女」は原告ではないと解釈されていた。
 すなわち、本多勝一氏は、「7−8歳の妹」は「8歳の少女」とは別人で
あって銃剣で刺殺されており、「8歳の少女」は家主哈(マー)の娘である
と解釈していた(平成3年9月、朝日新聞社刊「貧困なる精神G集」110
ページ、同書掲載の「ナチ=ドイツをも驚愕せしめた南京大暴虐事件」記事、
乙第8号証)。該当部分の記載は次のとおりである。

《同じ部屋にもう一人の7、8歳の妹がいたが、これも刺殺された。
家主「マー」の子供も犠牲になった。2歳の子は刀で頭を斬りさかれ、8
歳の娘は重傷を負ったが、母親のある隣室まではっていった。》


【20】
 また、笠原十九司氏も、平成7年及び平成8年発行の著書『南京難民区の
百日』(甲第16号証)において、本多勝一氏の説に賛同しつつ、本多勝一
氏の前記著書(「貧困なる精神G集」朝日新聞社)を引用している。関連部
分を摘示すれば次のとおりである。

《1.日本兵は、八歳と三歳あるいは四歳の二人の子どもだけを残してその
家にいた者全員、一三名を殺害した。これは、八歳の少女(夏淑琴)が
話したことを彼女の叔父と私を案内した近所の老女に確認してチェック
した事実である。(甲第16号証254ページ)
(略)
2.殺害されたのは、さらに夏淑琴の父と馬という姓の家主とその妻と彼
らの七、八歳の女の子である。(甲第16号証255ページ)》

 本多氏も笠原氏も、「8歳の少女」と「7−8歳の少女」をはっきりと区
別しており、「7−8歳の少女」は殺害された(つまり刺殺された)と明言
しているのである。このことは、被告東中野が本件書籍で記述した内容と同
一の見解が平成10年当時に一般的に存在したということであり、被告東中
野が同様に考え信じたことには相当の理由がある。
 付言すれば、笠原氏は平成17年8月19日に発行された『南京難民区の
百日』の岩波現代文庫版(甲第17号証)では、上記1.の部分を書き変えて
おり2.の部分はない(295ページ以下)。「さらに兵士たちは、部屋にい
たもう一人の7、8歳になる妹を刺した。」とし、その後、この「7、8歳
になる妹」は登場せず、「傷を負った8歳の少女」となり、これは夏淑琴さ
んのことであるとして記述されていくのである。同名の前の著作で刺殺され
たと記述したのに、文庫版では単に刺されて傷を負っただけと変えた理由は
何も書かれていない。ただ、文庫版の巻末に、「本書は1995年6月、岩
波書店より刊行された。現代文庫版では、南京事件研究の新成果を活かして
全章に加筆し、補論は書きおろした。」と書かれているだけである。


【21】
3.被告東中野は本件書籍において、新路口事件の核心としての「日本軍の第
114師団兵らが新路口の夏家と哈家の人々に対し違法に殺人及び強姦に及
んだ」事実は厳格な証明が困難であるとの判断に立って、新路口事件の存在
に種々の疑問を投げかけた。原告はこのことまでも名誉毀損だと主張するの
だろうか。原告の主張がその点までをも含むのであれば、原告はまず原告自
身において新路口事件の存在を立証しなければならないはずである。原告は
この点について、本多勝一氏(甲第18号証)、笠原十九司氏(甲第16号
証、甲第17号証、甲第20号証)、星徹氏(甲第14号証)、及び原告本
人(甲第21号証)の供述をもって立証ができていると強弁するのだろうか。
 そうであるとすれば、被告らとしてはその点についても相当性の抗弁を提
出しなければならないであろう。
 新路口事件に対して被告東中野が持つ疑問は被告準備書面(第3)の6〜
7ページに述べたとおりである。被告東中野がそこで指摘したことがらは論
理上当然の指摘ばかりであり、内容も正当である。南京事件研究者として当
然の指摘である。この点においても被告東中野が指摘の内容を真実と信じた
ことには相当の理由がある。
84 hits

[4017]「年齢」考
←back ↑menu ↑top forward→
 ゆう WEB  - 07/2/15(木) 16:16 -

引用なし
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   さて、時間ができたらこちらにも取り組もうと思っていたのですが、ja2047さんメモリアルサイト、「問答有用」での(どうでもいい)議論もどき、「平頂山事件」への取り組み(未完成ですが、なかなか面白くなりそうです)、と「宿題」が続き、こちらはすっかり遅れてしまいました。


さて、今回の「準備書面」では、東中野氏側は、「年齢問題」にえらく力を入れてきています。

これについては、私が「夏淑琴さんは「ニセ証人」か? 東中野修道氏『SAPIO』論稿をめぐって」で書いた通り、

>東中野氏の「論理」が成立するためには、最低でも、

1.マギーの書き残した「年齢」が確実なものであり、
2.夏淑琴さんの回想する「当時の年齢」もまた確実なものである、


という「大前提」が必要です。どちらか片方だけでも怪しげなものであるのならば、「年齢の相違」を材料に夏さんを「ニセ証人」と決め付けることはできなくなります。

http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/kashukukinsapio.html#3

ということに尽きます。資料によって「年齢」が異なるのであれば、そんな曖昧なデータでもって「決め付け」を行なうことはできません。


以下、今回の準備書面にそって、詳しく見ていきましょう。今ちょっと資料のない場所におりますので、何か勘違いがありましたら、ご指摘いただければ幸いです。


東中野氏側は、「「8歳の少女は原告と別人である」根拠として、3つの点をあげていますが、その「第1」です。

 上記の摘示事実が真実である理由はすでに被告準備書面(第2及び第3)において述べたところであるが、まとめると次のとおりである。

 第1に、本件書籍の246〜247ページに述べた第9の疑問点の記述のとおり、フィルム解説文中の「7ー8歳の妹」は刺殺されたと考えられる。そのように解釈するのが相当である。フィルム解説文中の生存した「8歳の少女」は、シア夫婦の子である刺殺された「7−8歳の妹」とは別人であると解される。したがって「8歳の少女」の姓はシア(夏)ではなかった。

これは、問題外といえるでしょう。原告側は「初歩的な英文和訳の誤り」を指摘し、東中野氏側はいや、やはりこれで正しい、と強弁しているようですが、それ以前、単純な「算数」の問題です。

マギーは、あちこちで、「在宅は13人、うち殺されたのは11人」という「数字」をはっきりとあげています。東中野氏の言う通り、もし「7-8歳の妹」と「8歳の少女」が別人であるのであれば、マギーは「14人、うち殺されたのは12人」と書くはずです。


念のため、並べておきましょう。

「其の家に十三人の人が住んで居つたのでありますが、唯二人の子供だけが逃げたのであります。」(極東軍事裁判 マギー証言)

「日本兵たちが最初に入城したときに、町の東南のある家にやってきて、みんなで13人その家にいた。8歳と3歳か4歳かの二人の小さな女の子のほかは、全部その家で日本兵に殺された。」(マギー日記 1月30日=「この事実を・・・2.」P328)

「それに一度、わたしがある家に行きましたら、そこでは11人殺されていて」(マギー マッキムへの書簡=「この事実を・・・2.」P342)

「第二一九件 ジョン・マギー氏のきくところでは、十二月十三日から十四日にかけて、城南に住む一家の家族一三人のうち一一人が日本兵に殺され、婦人たちは強姦され、手足を切断されたとのことである。生き残った二人の小さな子供が話してくれたのである。〔マギー〕」(「南京大残虐事件資料集 第2巻英文資料編」P116)


こんな初歩的な矛盾を、東中野氏はどのように解決しているのか。久々に「南京虐殺の徹底検証」を本棚から取り出してみて、思わず爆笑です。

第九に、家族の人数が違う。『南京安全地帯の記録』の事例二一九(マギーの説明)では総数は二家族で十三人であった。しかし、「日支紛争」のなかのマギーの記録では、十四人であった。(P246)


*「ゆう」注 「日支紛争のなかのマギーの記録」というのは、おなじみ「マギーフィルムの解説文」のことです。元の文はこちら。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/mondai/kasyukukin.htm#13


念のためですが、この「十四人」というのは、マギーが記した数字ではありません。この「解説文」にはマギーは「人数」を記しておらず、これは、東中野氏が、「ひとり、ふたり」と勝手に数えた結果の数字です。

つまり、「7、8歳の妹」と「8歳の少女」が別人であるというトンデモ解釈を前提として、自分で勝手に一人水増しした数字が、他の記録と違う、と文句を言っているわけです。

「別人だと解釈すると総人数が14人になってしまうから、これは同一人物であると見るのが自然」という当り前の発想を、なぜ持てないんでしょうね。

*なお、フォースターの「フォースター夫人への手紙」には「14人」の文字が見えますが、マギー自身がここまではっきりと「13人」と語っている以上は、単なる勘違い、と捉えておくべきところでしょう。


さて、次。

第2に、原告が昭和5年(西暦1930年)ではなく昭和4年(西暦1929年)の5月5日生まれであるとすれば、新路口事件当時(昭和12年12月)は中国式の年齢(数え年)で9歳であった。当時の中国では数え年で年齢を言うのが一般的であって、満年齢の8歳を用いることはなかった。その原告が仮にマギー師と面談した少女であったとすると、面談時(フォースター師の手紙の記載によると昭和13年1月26日)すでに数え年で9歳であった(当時中国の旧暦では昭和13年1月31日が旧正月でありその日からは10歳であるが、その5日前はまだ9歳と称していたと考えられる。)

原告が、自分の歳を「7−8歳」(数え年)と説明することは、あり得ない。フィルム解説文中に記録された人物10名の年齢はいずれも数え年による表示のはずである(数え年を満年齢表示に換算するのは不可能に近い。マギー師は聞き取ったままの数え年の年齢を書いたと考えられる。)。フィルム解説文中の「7−8歳の妹」(数え年)が原告である可能性は全くない。「数え年9歳の原告」=「数え年7−8歳の妹」=「数え年8歳の少女」という等式は成り立たない。原告代理人は、「原告は自己の正確な誕生日(5月5日)を知らない。」というが、仮にそうであっても、それは数え年による年齢表示において正確な誕生日はあまり意味がないというだけのことである。原告が自分の年齢を言えなかったということはあるまい。

私はこの部分、思わず目を疑いました。東中野氏、以前の論稿と、完全に主張を変えてきているのです。

念のため、「Sapio」論稿からです。

しかし最近になって存在が明らかとなった史料、たとえばマギーの4月2日付マッキム氏宛の手紙は、「中国式計算」で「9歳の少女」と「5歳の子供」が生き残ったと記録していた。マギーは数え年という「中国式計算」があることを知っていたのである。従って「8歳の少女」が数え年9歳(満8歳)であったことは否定できない。
http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/kashukukinsapio.html#3

ここで東中野氏は、はっきりと「数え年9歳」と主張しています。しかしそうであれば、上の東中野氏側主張に従えば「原告」は当時「数え年9歳」なのだから、何の問題もない。

そこで今回、東中野氏側は、わざわざ自分から持ち出した「否定根拠」である「マッキム氏の手紙」を無視する、というアクロバットをやってのけました。この手紙はなかったことにして、「マギーフィルムの解説文」では「7、8歳の妹」であったり「8歳の少女」であったりするのだから、「数え年9歳」の被告と同一人物ではありえない、というわけです。

結局、「マギーにとっても年齢は曖昧であった」と解釈しておくのが、一番自然でしょう。マギーが知りたかったことは「夏淑琴さんの年齢」ではなく、「事件の概要」だったのですから、「年齢」部分は適当に流したとしても、無理なからぬところです。


以下、「第2」についての「おまけ」です。

マギーが残した各種資料にある「被害者の年齢」を、表にしてみました。(どうしてもずれてしまいます。とほほさん、申し訳ありませんが、調整をお願いします)。原文は、K-Kさんの資料集、または私のサイトをご覧ください。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/mondai/kasyukukin.htm#01
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/kashukukinshougen.html


    マギー牧師の解説書 東京裁判証言 マギー日記 マッキム宛書簡
夏家 祖父      76      76     76
  祖母      74      74     74
  父       ?
  母       ?
  長女      16       16     16     16
  次女      14       14     14     14
  夏淑琴   7-8または8    8-9 8 9
妹 4 3-4 5(数え年)
赤ん坊 1 1 1 1歳にもみたない
馬家 父 ?
母 ?
子1 4
子2 2


 「東京裁判証言」では、誰が誰のことであるのかよくわからない部分がありましたので、そこは省略しました。


まずこれらの年齢が「数え」なのか「満」なのか、という問題です。

マッキム宛書簡の「1歳にもみたない」 (less than a year old)という表現に注目してください。おそらくは、「1歳未満の乳児」であったのだろう、と推測されます。しかしこの赤ん坊の年齢、他ではすべて「1歳」になっています。「0歳」という表現が見当たらない以上、これは「数え年」と考えるのが自然です。


さて興味深いことに、生き残った夏淑琴さんと妹以外は、すべての資料で年齢が一致しています。年齢が資料によってまちまちなのは、この二人だけなのです。

どうしてこういうことが起きるのか。以下は、私の全くの想像となります。

まず、夏さんの本当の年齢です。原告側準備書面によれば、こういうことであったようです。
「1929年5月5日という日付は,戦後になって新暦が採用された後に,親族の記憶を頼りに「生まれたのはこの時期だったのではないか」との推測に基づいて,便宜的に定めたものである(これは,中国のこの世代の老人にはよくあることである)。特に原告は,家族が全て殺されてしまっているため,なおさら正確な日付がわからず,1930年生まれだった可能性もある。」

夏さんが本当に自分の「年齢」を正しく認識していたのかどうかは不明ですが、上の「推測」が正しいものとするならば、とりあえずは事件当時は「数え年9歳」ということになります。


「マギー牧師の解説書」にある各人の年齢は、マギーが「叔母」からまとめて説明を受けたものではないでしょうか。その中で、夏淑琴さんは「8歳」または「7、8歳」と紹介されました。しかし、この叔母さんの「年齢認識」がかなりアバウトなものであったことは、私のサイトでも指摘した通りです。

そんな中で、夏さんは、自分の年齢を「9歳」と語ったのかもしれません。あるいは叔母さんが、「7歳」と言ったり「8歳」と言ったり「9歳」と言ったり、ふらふらしていたのかもしれません。

しかしマギーは、このあたりをあまり気にしなかったのか、「7-8歳」なり「8歳」なりでまとめてしまった。同一人物の年齢を「8歳」と書いたり「7−8歳」と書いたりするあたりにも、マギーが「年齢」にあまりこだわっていないことを伺わせます。

ただ後になって、「9歳」という数字を何となく思い出し、マギー自身も夏さんが何歳だったかはっきりとはわからなくなり、「8−9歳」になってみたり「9歳」になってみたりした。

まあ、以上は何の根拠もないただの「想像」ですが、要するにマギーは「年齢」はアバウトな数字で十分だと考えていた、ということだと思います。


さて、最後の「第3」です。

第3に、マギー師が「8歳の少女」との面談後まず最初に書いた日記(昭和13年1月30日付)では、次のように記録されていた。「家主ハ−の8歳になる娘は重傷を負いましたが、両親の死体に隠れて助かりました。さらに4歳になる妹も隠れていて助かり、二人はその後14日間も11人の遺体と、中国人がゴーバ(■巴)と呼ぶ鍋の底の焦げ付いた飯だけで生き延びていました。」(滝谷二郎『目撃者の南京事件−−−発見されたマギー師の日記』85〜86ページ。家主の名前については原文の英文タイプの文字がHa(ハー)なのかMa(マー)なのか判読がむつかしいが、現在ではHa(ハー)と読むのが正しいと解釈されているので、上記引用においてはハーと訂正して引用している)。すなわち、2人の姉妹が生き残ったとされ、その姉の方は家主哈の8歳になる娘であったとされている。


要するに東中野氏側は、「マギー日記」にも「マー(ハー)の八歳になる娘」という表現があるので、これは「夏」家の娘である夏淑琴さんのことではない、と言いたいようです。

しかしどうも、これは滝谷氏の「引用」の方に問題がありそうです。滝谷二郎氏の紹介する「マギー日記」を見ましょう。


一月三〇日。

 今夕、アーネストと私は午後四時半にハンソンさんの家で中国の新年会(春節・旧正月)を祝いました。中国人が招いてくれたものです。中国人というのは一日二食で、朝九時と夕方四時の二回食事をします。今日は、乾燥した米のほか野菜が丼六杯も盛りつけられました。あちこちで祈祷の夕べが催され、集会が催されました。

 この一週間の聞にまたひどい事件を耳にしました。私が近所の人と直接被害者から聞いたことですから、その真偽は疑う余地もありません。

 一二月一三日。南京市内の南東にある新街口五番地にある家に、日本兵三〇人が押しかけました。マーという名の回教徒の家主が扉を開けたとたんに日本兵はマーを射殺し、ひざまづいて日本兵に"どうか他の者を殺さないで下さい"と懇願する同居人のシアも射殺し、さらに"どうして夫を殺した"と怒るマーの妻も射殺しました。

 シアの妻は一歳の子供を机の下に隠し、自分も隠れたのですが日本兵に見つけられ数人に強姦され、銃剣で刺され局部に瓶を突っ込まれ、赤ん坊とともに銃剣で刺し殺されました。日本兵はさらに隣室にいた七六歳と七四歳になるシアの両親、一六歳と一四歳の娘を襲い、娘たちが強姦されそうになったので祖母がかばおうとすると祖母を射殺し、それを助けようとした祖父も殺しました。

 二人の娘は日本兵に強姦され、刺し殺され局部に棒が突っ込まれていました。家主マーの八歳になる娘は重症を負いましたが、母親の死体に隠れて助かりました、さらに、四歳になる妹も隠れていて助かり、二人はその後一四日間も一一人の遺体と、中国人がゴーパ(鍋巴)と呼ぶ鍋の底の焦げついた飯だけで生き延びていました。

(滝谷二郎 『目撃者の南京事件 発見されたマギー牧師の日記』 P85〜P86)


「マギー日記」の原文(英文)は、『Eyewitnesses to massacre』に収められています。しかしその文は、滝谷氏が引用する上の文とは、なぜか全く異なっているのです。

英文→中文→日文という二重翻訳で、かつかなりの「俗訳」ではありますが、加藤実氏の訳によるものを紹介します。

l 月 30 日、日曜日

 午後4 時30分に、フォースターとぽくとぽくらの人たちとで、ハンセンの家に集まって食事したのが、中国の農暦の正月を祝ってのことで、みんながぽくたちを、みんなといっしょに食べるのに招いてくれたんだ。みんないつもは一日二食で、朝 9 時と午後4時とにー食ずつだ。きょうは"乾いた"ご飯のほかに、どんぶり六つの"ツァイ"[Tsai = おかず] もあって、みんなにしてみたら、それだけでもたいへんなご馳走なんで、いつもはほんとに貧弱なものしか食べてないからだ。

 その席でフォースターが奨励をし、ぽくも隣りの部屋で、J.L..陳 [Ch'en] の信徒たちにお奨めをした。午後の2時にも、ぽく小さな礼拝に参加したが、それはJ.L..陳が、シュルツ・パンティンの家にぽくたちと住まっている難民たちのためにやったもので、尼さん数人と若い見習い和尚さんも出席していた。

 4時にフォースターが、自分の人たちのための晩祷もやった。水曜日に難民のための伝道集会をすると、彼が発表していて、金陵女子文理学院や金陵大学や、ぽくたちの住まいに金陵女子神学院でも似たような集会があり、華中メソヂスト教会の瀋 [Shen] 牧師が金陵女子神学院で、の礼拝をするんだ。

 ぽくたちの働き人がこの企てで大きな役割を担っていて、ぼくらの人たちやぽくたちの家屋に住まっている難民たちのためだけでなく、金陵女子文理学院や金陵大学での集会のためにも ( 動いている。

この一週間に、ぼくもっとも恐るべきものを見、もっとも恥さらしな話を聞いたんだが、その真実性に疑いをさしはさむ余地のないのは、ぼくが直接に隣人からと、その場にいた8歳の小さい女の子から聞いて、よく解っているからなんだ。

 日本兵たちが最初に入城したときに、町の東南のある家にやってきて、みんなで13人その家にいた。8歳と3歳か4歳かの二人の小さな女の子のほかは、全部その家で日本兵に殺された。

 その8歳になる子の話すのを、そのおじさんの話や隣の年取った婦女の話と付き合せて、ぼくが確かめたんだが、8歳の子は背中と脇とに三ヶ所刺されたが、死ななかった。

 死んだ人の中には、76歳のおじいさんと74歳のおばあさんに、母親に三人の娘が含まれていて、娘三人の年齢は16歳に14歳に1歳だ。娘さん二人はそれぞれ三回ほど強姦され、それから日本兵が、もっとも残忍でとても口にはできないようなやり方で二人を殺し、1歳の小さな子もいっぺんに刺し殺された。

 似たようなケースを南京でぼくは、みんなで四件聞いている。ドイツ大使館の書記官が、ある婦女がゴルフのクラブを体内に挿し込まれたと話して、「日本的ナ手法デス」と言っている。

 ぼくその母親が、1歳の子供といっしょに死んでいる写真を撮った。あの小さい女の子が言うんだが、大家さんの子供たちの一人で1歳の(上に述べた母親といっしょにいた子供ではないが)が、頭を日本兵の刀で二つに割られ、この8歳の子は、傷つけられてから、母親の死体の転がっている別の部屋まで這っていき、そこで小さな妹と14日間いっしょに過ごし、ふやけたお米と、中国人が”コーパ”[Go-ba 鍋巴]と呼んでいるお釜の底に残ったおこげとを食べ、井戸の水を飲んでいた。

 そこでは、ほかの人たちはみんな安全区に逃げてしまっていたんだ。14日後にこの子のお隣の年取ったおばさんが戻ってきたときに、二人は救い出されたのだ。日本兵が絶え間なくやってきたが、そうするとこの二人の子は、古い敷布の下に隠れたのだった。

(『この事実を・・・2.』P327-P328)


ほぼ同一なのは最初の段落のみ。そこから「この一週間に」の前までの部分は、滝谷氏は完全に省略しています(「省略した」との断り書きもありません)。

そして、「事件」に関しては、「書き出し」だけはほぼ同一です。

(滝谷氏版)この一週間の聞にまたひどい事件を耳にしました。私が近所の人と直接被害者から聞いたことですから、その真偽は疑う余地もありません。

(加藤氏訳)この一週間に、ぼくもっとも恐るべきものを見、もっとも恥さらしな話を聞いたんだが、その真実性に疑いをさしはさむ余地のないのは、ぼくが直接に隣人からと、その場にいた8歳の小さい女の子から聞いて、よく解っているからなんだ。



ただし一緒なのはここまで。滝谷氏の方は、デティールがやたらと詳しくなっています。よく見ると、「マギーフィルムの解説書」とほぼ同一の文章です。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/mondai/kasyukukin.htm#02

「マギー日記」にふたつの異なる版が存在するのであれば話は別ですが(まずありそうにありませんが)、どうやら滝谷氏は、話をよりインパクトの強いものにするために、日記の「事件」に関する部分を「解説書」の方の記述に差し替えた、という可能性がありそうです。

とすれば、「マー(ハー)の8歳になる娘」というのは滝谷氏の(誤った)解釈を付け加えたものであり、原文には存在しない記述であった、ということになります。

(余談ですが、滝谷氏の文章を素直に読むと、「4歳の妹」まで「ハー家の一員」ということになってしまいますね)

実際のところ、滝谷氏がベースにした「原文」を見ないと何ともいえませんが、今私の手元にある情報だけからの判断では、このような解釈が最も無理がないものであると思います。
39 hits

[4018][投稿者削除]
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引用なし
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   この書き込みは投稿者によって削除されました。(07/2/15(木) 22:32)
42 hits

[4019]Re(2):表の部分
←back ↑menu ↑top forward→
 ゆう WEB  - 07/2/15(木) 22:27 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:

はい、ありがとうございます。

「妹」の「3−4歳」は「マギー日記」のものですが、あとはその通りです。

何だか、ややこしいタグを使わないといけなかったらしいですね。

>▼ゆうさん:
>表の部分のテストです。これでいいでしょうか?
>
>
マギー牧師の解説書 東京裁判証言 マギー日記 マッキム宛書簡
夏家 祖父 76 76 76
祖母 74 74 74
長女 16 16 16 16
次女 14 14 14 14
夏淑琴 7-8または8 8-9 8 9
4 3-4 5(数え年)
赤ん坊 1 1 1 1歳にもみたない
馬家
子1 4
子2 2

>
>
>。
43 hits

[4020]Re(1):表の部分 2稿
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 07/2/15(木) 22:44 -

引用なし
パスワード
   ▼ゆうさん:
表の部分、直しました。これでいいでしょうか?

  </td>
 マギー牧師の解説書   東京裁判証言   マギー日記   マッキム宛書簡 
夏家 祖父 76 76 76  
  祖母 74 74 74  
       
      
  長女 16 16 16 16
  次女 14 14 14 14
  夏淑琴 7-8または8 8-9 8 9
  4   3-4 5(数え年)
  赤ん坊 1 1 1 1歳にもみたない
馬家      
       
  子1 4      
  子2 2      

以上13人

(@wikiを、表組みHTMLタグ生成マシンとして利用しました)

.
42 hits

[4021]Re(2):表の部分 2稿
←back ↑menu ↑top forward→
 ゆう WEB  - 07/2/15(木) 22:53 -

引用なし
パスワード
   ▼ピッポさん:
ありがとうございます。この通りです。

ご覧の通り、「7-8歳の妹」と「8歳の少女」を別人であるとしてしまうと、「14人」になってしまいますね。


>▼ゆうさん:
>表の部分、直しました。これでいいでしょうか?
>
>   </td>
 マギー牧師の解説書   東京裁判証言   マギー日記   マッキム宛書簡 
夏家 祖父 76 76 76  
  祖母 74 74 74  
       
      
  長女 16 16 16 16
  次女 14 14 14 14
  夏淑琴 7-8または8 8-9 8 9
  4   3-4 5(数え年)
  赤ん坊 1 1 1 1歳にもみたない
馬家      
       
  子1 4      
  子2 2      

>以上13人
>
>(@wikiを、表組みHTMLタグ生成マシンとして利用しました)
>
>.
44 hits

[4022]Re(2):表の部分 2稿
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 07/2/15(木) 22:56 -

引用なし
パスワード
   脱線ですが、@wikiだと表組みは簡単です。

ウィキソースは
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
| | |マギー牧師の解説書|東京裁判証言|マギー日記|マッキム宛書簡|
|夏家|祖父|CENTER:76|CENTER:76|CENTER:76| |
| |祖母|CENTER:74|CENTER:74|CENTER:74| |
| |父 |CENTER:?| | | |
| |母 |CENTER:?| | | |
| |長女|CENTER:16|CENTER:16|CENTER:16|CENTER:16|
| |次女|CENTER:14|CENTER:14|CENTER:14|CENTER:14|
| |夏淑琴|CENTER:7-8または8|CENTER:8-9|CENTER:8|CENTER:9|
| |妹|CENTER:4| |CENTER:3-4|CENTER:5(数え年)|
| |赤ん坊|CENTER:1|CENTER:1|CENTER:1|CENTER:1歳にもみたない |
|馬家| 父 |CENTER:?| | | |
| | 母 |CENTER:?| | | |
| |子1|CENTER:4| | | |
| |子2|CENTER:2| | | |
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
です。

その結果は、
http://www24.atwiki.jp/ja2047_memorial/pages/759.html
です。

試行錯誤には、そのhtmlソースをコピペしました。(改行タグは除いて)
30 hits

[4023]Re(2):表の部分 しつもん
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 07/2/15(木) 23:13 -

引用なし
パスワード
   ゆうさん、
それぞれの人の被害状況も表の中にいれたらいいかもしれませんね。
13人それぞれの注釈をいただけば、表ぐみしますよ。
裁判史料に利用してもらえれば光栄です。

>   </td>
 マギー牧師の解説書   東京裁判証言   マギー日記   マッキム宛書簡 
夏家 祖父 76 76 76  
  祖母 74 74 74  
       
      
  長女 16 16 16 16
  次女 14 14 14 14
  夏淑琴 7-8または8 8-9 8 9
  4   3-4 5(数え年)
  赤ん坊 1 1 1 1歳にもみたない
馬家      
       
  子1 4      
  子2 2      

>以上13人
>
>(@wikiを、表組みHTMLタグ生成マシンとして利用しました)
>
>.
46 hits

[4024]Re(3):表の部分 しつもん
←back ↑menu ↑top forward→
 ゆう WEB  - 07/2/16(金) 3:02 -

引用なし
パスワード
   ▼ピッポさん:

>それぞれの人の被害状況も表の中にいれたらいいかもしれませんね。
>13人それぞれの注釈をいただけば、表ぐみしますよ。
>裁判史料に利用してもらえれば光栄です。

お申出、ありがとうございます。

とりあえずは「各資料で被害状況が相違している」なんてアホらしい突込みもありませんので、今の時点ではそこまでは不要かと存じます。各資料はすべてK−Kさん及び私のサイトにありますので、見ようと思えばすぐに見られますし。

なお、私は「史実を守る会」の正会員ではありませんし、直接「裁判」に関わっているわけでもありません。念のため。
33 hits

[4025]Re(4):表の部分 しつもん
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 07/2/16(金) 8:25 -

引用なし
パスワード
   ▼ゆうさん:
>とりあえずは「各資料で被害状況が相違している」なんてアホらしい突込みもありませんので、今の時点ではそこまでは不要かと存じます。各資料はすべてK−Kさん及び私のサイトにありますので、見ようと思えばすぐに見られますし。
>
>なお、私は「史実を守る会」の正会員ではありませんし、直接「裁判」に関わっているわけでもありません。念のため。

わかりました。
では、清書した表を別掲しておきます。
51 hits

[4026]表の部分 清書
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 07/2/16(金) 8:30 -

引用なし
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   《表》夏淑琴事件・被害者の年齢記述

ご覧の通り、「7-8歳の妹」と「8歳の少女」を別人であるとしてしまうと、「14人」になってしまいます。

夏淑琴事件・被害者の年齢記述
マギー牧師の解説書 東京裁判証言 マギー日記 マッキム宛書簡
夏家 祖父 76 76 76  
  祖母 74 74 74  
       
       
  長女 16 16 16 16
  次女 14 14 14 14
  夏淑琴 7-8または8 8-9 8 9
  4   3-4 5(数え年)
  赤ん坊 1 1 1 1歳にもみたない
馬家      
       
  子1 4      
  子2 2      

以上13人


.
50 hits

[4029]Re(1):タグを使わない、ゆうさ...
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 07/2/16(金) 16:36 -

引用なし
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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : clip01.jpg
・サイズ : 52.3KB
  
添付画像【clip01.jpg : 52.3KB】 ▼ゆうさん:

表の部分がどうなるか,試しに
1、画面(クリックすると拡大)右下の「等幅」にチェックを入れてみました
2、間隔を一度削除し、全角空白で打ち直しました。(半角空白ではズレが発生します)
3、HTMLタグを使わなくても、表様のものはが簡単に得られるかと思います。

(以下 ゆうさんの投稿)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、時間ができたらこちらにも取り組もうと思っていたのですが、ja2047さんメモリアルサイト、「問答有用」での(どうでもいい)議論もどき、「平頂山事件」への取り組み(未完成ですが、なかなか面白くなりそうです)、と「宿題」が続き、こちらはすっかり遅れてしまいました。

さて、今回の「準備書面」では、東中野氏側は、「年齢問題」にえらく力を入れてきています。

これについては、私が「夏淑琴さんは「ニセ証人」か? 東中野修道氏『SAPIO』論稿をめぐって」で書いた通り、

>東中野氏の「論理」が成立するためには、最低でも、

1.マギーの書き残した「年齢」が確実なものであり、
2.夏淑琴さんの回想する「当時の年齢」もまた確実なものである、


という「大前提」が必要です。どちらか片方だけでも怪しげなものであるのならば、「年齢の相違」を材料に夏さんを「ニセ証人」と決め付けることはできなくなります。

http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/kashukukinsapio.html#3

ということに尽きます。資料によって「年齢」が異なるのであれば、そんな曖昧なデータでもって「決め付け」を行なうことはできません。


以下、今回の準備書面にそって、詳しく見ていきましょう。今ちょっと資料のない場所におりますので、何か勘違いがありましたら、ご指摘いただければ幸いです。


東中野氏側は、「「8歳の少女は原告と別人である」根拠として、3つの点をあげていますが、その「第1」です。

 上記の摘示事実が真実である理由はすでに被告準備書面(第2及び第3)において述べたところであるが、まとめると次のとおりである。

 第1に、本件書籍の246〜247ページに述べた第9の疑問点の記述のとおり、フィルム解説文中の「7ー8歳の妹」は刺殺されたと考えられる。そのように解釈するのが相当である。フィルム解説文中の生存した「8歳の少女」は、シア夫婦の子である刺殺された「7−8歳の妹」とは別人であると解される。したがって「8歳の少女」の姓はシア(夏)ではなかった。

これは、問題外といえるでしょう。原告側は「初歩的な英文和訳の誤り」を指摘し、東中野氏側はいや、やはりこれで正しい、と強弁しているようですが、それ以前、単純な「算数」の問題です。

マギーは、あちこちで、「在宅は13人、うち殺されたのは11人」という「数字」をはっきりとあげています。東中野氏の言う通り、もし「7-8歳の妹」と「8歳の少女」が別人であるのであれば、マギーは「14人、うち殺されたのは12人」と書くはずです。


念のため、並べておきましょう。

「其の家に十三人の人が住んで居つたのでありますが、唯二人の子供だけが逃げたのであります。」(極東軍事裁判 マギー証言)

「日本兵たちが最初に入城したときに、町の東南のある家にやってきて、みんなで13人その家にいた。8歳と3歳か4歳かの二人の小さな女の子のほかは、全部その家で日本兵に殺された。」(マギー日記 1月30日=「この事実を・・・2.」P328)

「それに一度、わたしがある家に行きましたら、そこでは11人殺されていて」(マギー マッキムへの書簡=「この事実を・・・2.」P342)

「第二一九件 ジョン・マギー氏のきくところでは、十二月十三日から十四日にかけて、城南に住む一家の家族一三人のうち一一人が日本兵に殺され、婦人たちは強姦され、手足を切断されたとのことである。生き残った二人の小さな子供が話してくれたのである。〔マギー〕」(「南京大残虐事件資料集 第2巻英文資料編」P116)


こんな初歩的な矛盾を、東中野氏はどのように解決しているのか。久々に「南京虐殺の徹底検証」を本棚から取り出してみて、思わず爆笑です。

第九に、家族の人数が違う。『南京安全地帯の記録』の事例二一九(マギーの説明)では総数は二家族で十三人であった。しかし、「日支紛争」のなかのマギーの記録では、十四人であった。(P246)


*「ゆう」注 「日支紛争のなかのマギーの記録」というのは、おなじみ「マギーフィルムの解説文」のことです。元の文はこちら。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/mondai/kasyukukin.htm#13


念のためですが、この「十四人」というのは、マギーが記した数字ではありません。この「解説文」にはマギーは「人数」を記しておらず、これは、東中野氏が、「ひとり、ふたり」と勝手に数えた結果の数字です。

つまり、「7、8歳の妹」と「8歳の少女」が別人であるというトンデモ解釈を前提として、自分で勝手に一人水増しした数字が、他の記録と違う、と文句を言っているわけです。

「別人だと解釈すると総人数が14人になってしまうから、これは同一人物であると見るのが自然」という当り前の発想を、なぜ持てないんでしょうね。

*なお、フォースターの「フォースター夫人への手紙」には「14人」の文字が見えますが、マギー自身がここまではっきりと「13人」と語っている以上は、単なる勘違い、と捉えておくべきところでしょう。


さて、次。

第2に、原告が昭和5年(西暦1930年)ではなく昭和4年(西暦1929年)の5月5日生まれであるとすれば、新路口事件当時(昭和12年12月)は中国式の年齢(数え年)で9歳であった。当時の中国では数え年で年齢を言うのが一般的であって、満年齢の8歳を用いることはなかった。その原告が仮にマギー師と面談した少女であったとすると、面談時(フォースター師の手紙の記載によると昭和13年1月26日)すでに数え年で9歳であった(当時中国の旧暦では昭和13年1月31日が旧正月でありその日からは10歳であるが、その5日前はまだ9歳と称していたと考えられる。)

原告が、自分の歳を「7−8歳」(数え年)と説明することは、あり得ない。フィルム解説文中に記録された人物10名の年齢はいずれも数え年による表示のはずである(数え年を満年齢表示に換算するのは不可能に近い。マギー師は聞き取ったままの数え年の年齢を書いたと考えられる。)。フィルム解説文中の「7−8歳の妹」(数え年)が原告である可能性は全くない。「数え年9歳の原告」=「数え年7−8歳の妹」=「数え年8歳の少女」という等式は成り立たない。原告代理人は、「原告は自己の正確な誕生日(5月5日)を知らない。」というが、仮にそうであっても、それは数え年による年齢表示において正確な誕生日はあまり意味がないというだけのことである。原告が自分の年齢を言えなかったということはあるまい。

私はこの部分、思わず目を疑いました。東中野氏、以前の論稿と、完全に主張を変えてきているのです。

念のため、「Sapio」論稿からです。

しかし最近になって存在が明らかとなった史料、たとえばマギーの4月2日付マッキム氏宛の手紙は、「中国式計算」で「9歳の少女」と「5歳の子供」が生き残ったと記録していた。マギーは数え年という「中国式計算」があることを知っていたのである。従って「8歳の少女」が数え年9歳(満8歳)であったことは否定できない。
http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/kashukukinsapio.html#3

ここで東中野氏は、はっきりと「数え年9歳」と主張しています。しかしそうであれば、上の東中野氏側主張に従えば「原告」は当時「数え年9歳」なのだから、何の問題もない。

そこで今回、東中野氏側は、わざわざ自分から持ち出した「否定根拠」である「マッキム氏の手紙」を無視する、というアクロバットをやってのけました。この手紙はなかったことにして、「マギーフィルムの解説文」では「7、8歳の妹」であったり「8歳の少女」であったりするのだから、「数え年9歳」の被告と同一人物ではありえない、というわけです。

結局、「マギーにとっても年齢は曖昧であった」と解釈しておくのが、一番自然でしょう。マギーが知りたかったことは「夏淑琴さんの年齢」ではなく、「事件の概要」だったのですから、「年齢」部分は適当に流したとしても、無理なからぬところです。


以下、「第2」についての「おまけ」です。

マギーが残した各種資料にある「被害者の年齢」を、表にしてみました。(どうしてもずれてしまいます。とほほさん、申し訳ありませんが、調整をお願いします)。原文は、K-Kさんの資料集、または私のサイトをご覧ください。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/mondai/kasyukukin.htm#01
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/kashukukinshougen.html


      マギー牧師の解説書 東京裁判証言 マギー日記 マッキム宛書簡
夏家 祖父     76       76      76
   祖母     74       74      74
   父      ?
   母      ?
   長女     16       16      16     16
   次女     14       14      14     14
   夏淑琴  7-8または8     8-9      8     9
   妹      4              3-4    5(数え年)
   赤ん坊    1        1      1   1歳にもみたない
馬家 父      ?
   母      ?
   子1     4
   子2     2


 「東京裁判証言」では、誰が誰のことであるのかよくわからない部分がありましたので、そこは省略しました。


まずこれらの年齢が「数え」なのか「満」なのか、という問題です。

マッキム宛書簡の「1歳にもみたない」 (less than a year old)という表現に注目してください。おそらくは、「1歳未満の乳児」であったのだろう、と推測されます。しかしこの赤ん坊の年齢、他ではすべて「1歳」になっています。「0歳」という表現が見当たらない以上、これは「数え年」と考えるのが自然です。


さて興味深いことに、生き残った夏淑琴さんと妹以外は、すべての資料で年齢が一致しています。年齢が資料によってまちまちなのは、この二人だけなのです。

どうしてこういうことが起きるのか。以下は、私の全くの想像となります。

まず、夏さんの本当の年齢です。原告側準備書面によれば、こういうことであったようです。
「1929年5月5日という日付は,戦後になって新暦が採用された後に,親族の記憶を頼りに「生まれたのはこの時期だったのではないか」との推測に基づいて,便宜的に定めたものである(これは,中国のこの世代の老人にはよくあることである)。特に原告は,家族が全て殺されてしまっているため,なおさら正確な日付がわからず,1930年生まれだった可能性もある。」

夏さんが本当に自分の「年齢」を正しく認識していたのかどうかは不明ですが、上の「推測」が正しいものとするならば、とりあえずは事件当時は「数え年9歳」ということになります。


「マギー牧師の解説書」にある各人の年齢は、マギーが「叔母」からまとめて説明を受けたものではないでしょうか。その中で、夏淑琴さんは「8歳」または「7、8歳」と紹介されました。しかし、この叔母さんの「年齢認識」がかなりアバウトなものであったことは、私のサイトでも指摘した通りです。

そんな中で、夏さんは、自分の年齢を「9歳」と語ったのかもしれません。あるいは叔母さんが、「7歳」と言ったり「8歳」と言ったり「9歳」と言ったり、ふらふらしていたのかもしれません。

しかしマギーは、このあたりをあまり気にしなかったのか、「7-8歳」なり「8歳」なりでまとめてしまった。同一人物の年齢を「8歳」と書いたり「7−8歳」と書いたりするあたりにも、マギーが「年齢」にあまりこだわっていないことを伺わせます。

ただ後になって、「9歳」という数字を何となく思い出し、マギー自身も夏さんが何歳だったかはっきりとはわからなくなり、「8−9歳」になってみたり「9歳」になってみたりした。

まあ、以上は何の根拠もないただの「想像」ですが、要するにマギーは「年齢」はアバウトな数字で十分だと考えていた、ということだと思います。


さて、最後の「第3」です。

第3に、マギー師が「8歳の少女」との面談後まず最初に書いた日記(昭和13年1月30日付)では、次のように記録されていた。「家主ハ−の8歳になる娘は重傷を負いましたが、両親の死体に隠れて助かりました。さらに4歳になる妹も隠れていて助かり、二人はその後14日間も11人の遺体と、中国人がゴーバ(■巴)と呼ぶ鍋の底の焦げ付いた飯だけで生き延びていました。」(滝谷二郎『目撃者の南京事件−−−発見されたマギー師の日記』85〜86ページ。家主の名前については原文の英文タイプの文字がHa(ハー)なのかMa(マー)なのか判読がむつかしいが、現在ではHa(ハー)と読むのが正しいと解釈されているので、上記引用においてはハーと訂正して引用している)。すなわち、2人の姉妹が生き残ったとされ、その姉の方は家主哈の8歳になる娘であったとされている。


要するに東中野氏側は、「マギー日記」にも「マー(ハー)の八歳になる娘」という表現があるので、これは「夏」家の娘である夏淑琴さんのことではない、と言いたいようです。

しかしどうも、これは滝谷氏の「引用」の方に問題がありそうです。滝谷二郎氏の紹介する「マギー日記」を見ましょう。


一月三〇日。

 今夕、アーネストと私は午後四時半にハンソンさんの家で中国の新年会(春節・旧正月)を祝いました。中国人が招いてくれたものです。中国人というのは一日二食で、朝九時と夕方四時の二回食事をします。今日は、乾燥した米のほか野菜が丼六杯も盛りつけられました。あちこちで祈祷の夕べが催され、集会が催されました。

 この一週間の聞にまたひどい事件を耳にしました。私が近所の人と直接被害者から聞いたことですから、その真偽は疑う余地もありません。

 一二月一三日。南京市内の南東にある新街口五番地にある家に、日本兵三〇人が押しかけました。マーという名の回教徒の家主が扉を開けたとたんに日本兵はマーを射殺し、ひざまづいて日本兵に"どうか他の者を殺さないで下さい"と懇願する同居人のシアも射殺し、さらに"どうして夫を殺した"と怒るマーの妻も射殺しました。

 シアの妻は一歳の子供を机の下に隠し、自分も隠れたのですが日本兵に見つけられ数人に強姦され、銃剣で刺され局部に瓶を突っ込まれ、赤ん坊とともに銃剣で刺し殺されました。日本兵はさらに隣室にいた七六歳と七四歳になるシアの両親、一六歳と一四歳の娘を襲い、娘たちが強姦されそうになったので祖母がかばおうとすると祖母を射殺し、それを助けようとした祖父も殺しました。

 二人の娘は日本兵に強姦され、刺し殺され局部に棒が突っ込まれていました。家主マーの八歳になる娘は重症を負いましたが、母親の死体に隠れて助かりました、さらに、四歳になる妹も隠れていて助かり、二人はその後一四日間も一一人の遺体と、中国人がゴーパ(鍋巴)と呼ぶ鍋の底の焦げついた飯だけで生き延びていました。

(滝谷二郎 『目撃者の南京事件 発見されたマギー牧師の日記』 P85〜P86)


「マギー日記」の原文(英文)は、『Eyewitnesses to massacre』に収められています。しかしその文は、滝谷氏が引用する上の文とは、なぜか全く異なっているのです。

英文→中文→日文という二重翻訳で、かつかなりの「俗訳」ではありますが、加藤実氏の訳によるものを紹介します。

l 月 30 日、日曜日

 午後4 時30分に、フォースターとぽくとぽくらの人たちとで、ハンセンの家に集まって食事したのが、中国の農暦の正月を祝ってのことで、みんながぽくたちを、みんなといっしょに食べるのに招いてくれたんだ。みんないつもは一日二食で、朝 9 時と午後4時とにー食ずつだ。きょうは"乾いた"ご飯のほかに、どんぶり六つの"ツァイ"[Tsai = おかず] もあって、みんなにしてみたら、それだけでもたいへんなご馳走なんで、いつもはほんとに貧弱なものしか食べてないからだ。

 その席でフォースターが奨励をし、ぽくも隣りの部屋で、J.L..陳 [Ch'en] の信徒たちにお奨めをした。午後の2時にも、ぽく小さな礼拝に参加したが、それはJ.L..陳が、シュルツ・パンティンの家にぽくたちと住まっている難民たちのためにやったもので、尼さん数人と若い見習い和尚さんも出席していた。

 4時にフォースターが、自分の人たちのための晩祷もやった。水曜日に難民のための伝道集会をすると、彼が発表していて、金陵女子文理学院や金陵大学や、ぽくたちの住まいに金陵女子神学院でも似たような集会があり、華中メソヂスト教会の瀋 [Shen] 牧師が金陵女子神学院で、の礼拝をするんだ。

 ぽくたちの働き人がこの企てで大きな役割を担っていて、ぼくらの人たちやぽくたちの家屋に住まっている難民たちのためだけでなく、金陵女子文理学院や金陵大学での集会のためにも ( 動いている。

この一週間に、ぼくもっとも恐るべきものを見、もっとも恥さらしな話を聞いたんだが、その真実性に疑いをさしはさむ余地のないのは、ぼくが直接に隣人からと、その場にいた8歳の小さい女の子から聞いて、よく解っているからなんだ。

 日本兵たちが最初に入城したときに、町の東南のある家にやってきて、みんなで13人その家にいた。8歳と3歳か4歳かの二人の小さな女の子のほかは、全部その家で日本兵に殺された。

 その8歳になる子の話すのを、そのおじさんの話や隣の年取った婦女の話と付き合せて、ぼくが確かめたんだが、8歳の子は背中と脇とに三ヶ所刺されたが、死ななかった。

 死んだ人の中には、76歳のおじいさんと74歳のおばあさんに、母親に三人の娘が含まれていて、娘三人の年齢は16歳に14歳に1歳だ。娘さん二人はそれぞれ三回ほど強姦され、それから日本兵が、もっとも残忍でとても口にはできないようなやり方で二人を殺し、1歳の小さな子もいっぺんに刺し殺された。

 似たようなケースを南京でぼくは、みんなで四件聞いている。ドイツ大使館の書記官が、ある婦女がゴルフのクラブを体内に挿し込まれたと話して、「日本的ナ手法デス」と言っている。

 ぼくその母親が、1歳の子供といっしょに死んでいる写真を撮った。あの小さい女の子が言うんだが、大家さんの子供たちの一人で1歳の(上に述べた母親といっしょにいた子供ではないが)が、頭を日本兵の刀で二つに割られ、この8歳の子は、傷つけられてから、母親の死体の転がっている別の部屋まで這っていき、そこで小さな妹と14日間いっしょに過ごし、ふやけたお米と、中国人が”コーパ”[Go-ba 鍋巴]と呼んでいるお釜の底に残ったおこげとを食べ、井戸の水を飲んでいた。

 そこでは、ほかの人たちはみんな安全区に逃げてしまっていたんだ。14日後にこの子のお隣の年取ったおばさんが戻ってきたときに、二人は救い出されたのだ。日本兵が絶え間なくやってきたが、そうするとこの二人の子は、古い敷布の下に隠れたのだった。

(『この事実を・・・2.』P327-P328)


ほぼ同一なのは最初の段落のみ。そこから「この一週間に」の前までの部分は、滝谷氏は完全に省略しています(「省略した」との断り書きもありません)。

そして、「事件」に関しては、「書き出し」だけはほぼ同一です。

(滝谷氏版)この一週間の聞にまたひどい事件を耳にしました。私が近所の人と直接被害者から聞いたことですから、その真偽は疑う余地もありません。

(加藤氏訳)この一週間に、ぼくもっとも恐るべきものを見、もっとも恥さらしな話を聞いたんだが、その真実性に疑いをさしはさむ余地のないのは、ぼくが直接に隣人からと、その場にいた8歳の小さい女の子から聞いて、よく解っているからなんだ。



ただし一緒なのはここまで。滝谷氏の方は、デティールがやたらと詳しくなっています。よく見ると、「マギーフィルムの解説書」とほぼ同一の文章です。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/mondai/kasyukukin.htm#02

「マギー日記」にふたつの異なる版が存在するのであれば話は別ですが(まずありそうにありませんが)、どうやら滝谷氏は、話をよりインパクトの強いものにするために、日記の「事件」に関する部分を「解説書」の方の記述に差し替えた、という可能性がありそうです。

とすれば、「マー(ハー)の8歳になる娘」というのは滝谷氏の(誤った)解釈を付け加えたものであり、原文には存在しない記述であった、ということになります。

(余談ですが、滝谷氏の文章を素直に読むと、「4歳の妹」まで「ハー家の一員」ということになってしまいますね)

実際のところ、滝谷氏がベースにした「原文」を見ないと何ともいえませんが、今私の手元にある情報だけからの判断では、このような解釈が最も無理がないものであると思います。
37 hits

[4030]なあるほど
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 ゆう WEB  - 07/2/16(金) 16:43 -

引用なし
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   右下の「等幅」にチェックを入れて、全角で間隔を空ければいいわけですね。

また「表」を作る機会がありましたら、試してみます。
50 hits

[4031]Re(1):なあるほど
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 ピッポ E-MAIL  - 07/2/16(金) 17:19 -

引用なし
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   ▼ゆうさん:
>右下の「等幅」にチェックを入れて、全角で間隔を空ければいいわけですね。

はい、
半角で間隔を空けるとなぜずれるかというと、半角スペースを幾つ連続でうっても、1個分しかカウントしないからです。半角スペースは、文字としての扱いを受けません。それに対して、全角スペースは文字としての扱いをうけますので、N個打てばN個分の間隔が空くという訳です。

「等幅」とは、文字の形に依らず、1個の文字の幅を全て同じにするフォントを使うということです。「等幅」文字を使った日本語は、上下の文字位置が揃ったものになります。


MSゴチック=等幅
MSPゴチック=等幅ではない

ーーーーーーーーーーー

ただし、これは全角文字を使う日本語島国根性だけで通用することです。
34 hits

[4032]Re(2):なあるほど 等幅を外す...
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 ピッポ E-MAIL  - 07/2/16(金) 17:21 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>▼ゆうさん:
>>右下の「等幅」にチェックを入れて、全角で間隔を空ければいいわけですね。
>
>はい、
>半角で間隔を空けるとなぜずれるかというと、半角スペースを幾つ連続でうっても、1個分しかカウントしないからです。半角スペースは、文字としての扱いを受けません。それに対して、全角スペースは文字としての扱いをうけますので、N個打てばN個分の間隔が空くという訳です。
>
>「等幅」とは、文字の形に依らず、1個の文字の幅を全て同じにするフォントを使うということです。「等幅」文字を使った日本語は、上下の文字位置が揃ったものになります。
>
>例
>MSゴチック=等幅
>MSPゴチック=等幅ではない
>
>ーーーーーーーーーーー
>
>ただし、これは全角文字を使う日本語島国根性だけで通用することです。
41 hits

[4033]夏淑琴事件へのja2047さんの言...
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 ピッポ E-MAIL  - 07/2/16(金) 18:32 -

引用なし
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   夏淑琴事件に関するja2047さんの言及

http://www24.atwiki.jp/ja2047_memorial/?cmd=search&keyword=%E5%A4%8F%E6%B7%91%E7%90%B4&andor=and
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