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著名な戦史研究家にして終戦時、少佐の森松俊夫氏に私、栗原利一の愚息、核心が嘘をつかれた経緯は以下の通りです。
そのころ私は防衛研修所戦史室の森松俊夫氏、原剛氏の名刺に父が「昭和59年8月8日、午前9時〜午後1時」と記入し、自分の手帳の5月8日欄に同じことを記入しているのを見つけたのですが、私の記憶とは違う(20年以上前のことなので)ので悩んでいました。 最初は原氏の名刺の自宅に電話しました。 (原氏も森松氏も車なら5分もかからないところに住んでいました。) 原氏は電話を変えておられてそれで森松氏に電話を差し上げました。
その時点では私は森松氏がどのような経歴の方かは全く存知あげませんでした。 森松氏は「ああ、剣道の先生だった方ですね。」などと言って気楽そうに応じてくれました。 いつごろ来られたかと聞くと「そうですねえ。7日に毎日新聞を見てそれから5日くらいしてから二人で打ち合わせて、それからお電話を差し上げてからですから1週間くらいはたってからでしょうかねえ。」と言われたのです。 私はこのことを自分の記憶(それ以前の書き込み)と一致していたので、喜んでそのことをここ(「思考錯誤」)にも書き込みをしました。
次に、どのくらいうちに滞留されたのか、それが知りたくなり再度、森松氏にお電話を差し上げました。 この時はグーグルで検索してからお電話を差し上げたので森松氏が著名な戦史研究家であることは判っていました。 私がどのくらい滞在されたか聞くと森松氏はまたも気楽そうに「そうですねえ。1時間半くらいですかねえ。お父さんは駅の近くにコピーをとりに行っていたので余り詳しい話はしませんでしたよ。」と言われました。 (このことも私の以前の書き込みと一致しており、私の記憶とも一致していたので喜んでここ「思考錯誤」に書き込みをしました。) また、森松氏は父は喜んで応対してくれた旨のことも言われました。 私は森松氏に敬意を表する意味でネットで検索して著名な戦史研究家であることは知ってる旨のことをお伝えしました。 (ここいら辺から少し雰囲気が違って来たと思います。) それから少し話して森松氏は父の資料がバラバラであった旨のことを言われました。 私は、あれおかしいな?親父の資料がまとまっていることは複数の人間が知っていることなのに、と思い沈黙しました。
「ジャーナリストの方々がおもしろおかしく書くものだから!」と最後に怒ったように言われて、その後、電話機を通じて電話機の向うの森松氏の無言の大いなる怒りが伝わって来たではありませんか。 (確かに、父が本多勝一氏に詳しい話をした経緯を知らなければそう思うのが当然だろうなあ!と言ったところです。)
それから暫くして森松氏と原氏からの礼状が見つかり(これは「思考錯誤」に公開してあります。)、父が両氏を歓待していたことが判りました。 礼状には森松氏自身の手で日付が8月9日と書かれていました。 それで森松氏が嘘を言われたことがわかりました。
そらから、また暫くして両氏が日本「南京」学会の会員と編集委員であることが判りました。
なあんだ、二人とも捏造派だったんじゃん!と言うことです。
私は森松俊夫氏の人間としてのプライドにかけたのですが。残念!
日本人よ、人間として、いつまで恥ずかしげも無く嘘をつき続けるのか!
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