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父(栗原利一)が昭和30年に私に話した虐殺の話は下関(シャーカン)の捕虜虐殺だと思います。近年、私がこれを幕府山の捕虜虐殺と間違えていて、父に確認した時に、父が「ああ、あれは別の話だ。」と言った件です。南京大虐殺研究札記(ノート)に『侵略−中国戦線従軍記者の証言』(現代史出版会)から以下の引用がありました。
”そこで、揚子江岸の下関(シャーカン)へ、捕虜を連れていって首を切った。日本兵は捕虜を一列にならべて首を切った。最初の列の処刑が終わると、次の列を前進させて、死体を揚子江に投げ込ませて、それから前と同じように一列にならべて処刑した。こうして朝から晩まで、つぎつぎに首をはねたが、一日に二千人しか斬れなかったという。 −彼らの話はまだつづく。 二日目には手が疲れてきたので、機関銃をかつぎ出した。二台の重機をすえて十字砲火を浴びせた。河岸に向って一列に並ばせて、ドドドドッと、重機関銃の引き金を引いた。捕虜たちはいっせいに河に向って逃げ出したが、岸までたどりついたものは一人もいなかったという。”
この前半の処刑に父は加担していたと思います。
また、この引用の続きは以下のようなものです。
”そこへ軍命令がきた。「捕虜は殺してはならぬ。後方に送って、道路工事やその他の使役に使う。」 そのときは、すでに数知れぬ捕虜が処刑されたあとだった。揚子江は中国兵の死体がいっぱい浮き、河の水は真っ赤で正視できぬ惨状だった、という。」”
「軍命令がきた。」というのは終戦後の作り話だと思います。日本兵でさえ生麦、生米を食べている時に捕虜を使役で使うという発想自体が終戦後のものだと思います。
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