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[4214]下関(シャーカン)の虐殺 核心 07/2/26(月) 18:25
[4215]Re(1):下関(シャーカン)の虐殺 とほほ 07/2/26(月) 18:33
[4216]Re(2):下関(シャーカン)の虐殺 とほほ 07/2/26(月) 18:52
[4217]Re(3):下関(シャーカン)の虐殺 とほほ 07/2/26(月) 19:08
[4218]Re(3):下関(シャーカン)の虐殺 核心 07/2/26(月) 19:34
[4222]Re(1):下関(シャーカン)の虐殺 タラリ 07/2/27(火) 21:19
[4224]Re(2):下関(シャーカン)の虐殺 核心 07/2/27(火) 23:24

[4214]下関(シャーカン)の虐殺
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 核心 E-MAIL  - 07/2/26(月) 18:25 -

引用なし
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   父(栗原利一)が昭和30年に私に話した虐殺の話は下関(シャーカン)の捕虜虐殺だと思います。近年、私がこれを幕府山の捕虜虐殺と間違えていて、父に確認した時に、父が「ああ、あれは別の話だ。」と言った件です。南京大虐殺研究札記(ノート)に『侵略−中国戦線従軍記者の証言』(現代史出版会)から以下の引用がありました。

”そこで、揚子江岸の下関(シャーカン)へ、捕虜を連れていって首を切った。日本兵は捕虜を一列にならべて首を切った。最初の列の処刑が終わると、次の列を前進させて、死体を揚子江に投げ込ませて、それから前と同じように一列にならべて処刑した。こうして朝から晩まで、つぎつぎに首をはねたが、一日に二千人しか斬れなかったという。
−彼らの話はまだつづく。
二日目には手が疲れてきたので、機関銃をかつぎ出した。二台の重機をすえて十字砲火を浴びせた。河岸に向って一列に並ばせて、ドドドドッと、重機関銃の引き金を引いた。捕虜たちはいっせいに河に向って逃げ出したが、岸までたどりついたものは一人もいなかったという。”

この前半の処刑に父は加担していたと思います。

また、この引用の続きは以下のようなものです。

”そこへ軍命令がきた。「捕虜は殺してはならぬ。後方に送って、道路工事やその他の使役に使う。」
 そのときは、すでに数知れぬ捕虜が処刑されたあとだった。揚子江は中国兵の死体がいっぱい浮き、河の水は真っ赤で正視できぬ惨状だった、という。」”

「軍命令がきた。」というのは終戦後の作り話だと思います。日本兵でさえ生麦、生米を食べている時に捕虜を使役で使うという発想自体が終戦後のものだと思います。
36 hits

[4215]Re(1):下関(シャーカン)の虐...
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 とほほ E-MAIL  - 07/2/26(月) 18:33 -

引用なし
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   ▼核心さん:
>父(栗原利一)が昭和30年に私に話した虐殺の話は下関(シャーカン)の捕虜虐殺だと思います。近年、私がこれを幕府山の捕虜虐殺と間違えていて、父に確認した時に、父が「ああ、あれは別の話だ。」と言った件です。南京大虐殺研究札記(ノート)に『侵略−中国戦線従軍記者の証言』(現代史出版会)から以下の引用がありました。

あれ(^^;
そうだったのですか、すみません(^^;(^^;
幕府山の戦闘で捕らえられた捕虜を下関で虐殺したと言う流れだと勘違いしてました、今更ながらアホな私です。
37 hits

[4216]Re(2):下関(シャーカン)の虐...
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 とほほ E-MAIL  - 07/2/26(月) 18:52 -

引用なし
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   ▼とほほさん:
>あれ(^^;
>そうだったのですか、すみません(^^;(^^;
>幕府山の戦闘で捕らえられた捕虜を下関で虐殺したと言う流れだと勘違いしてました、今更ながらアホな私です。

中国の旅、で確認したところここで紹介されているのは幕府山捕虜の処理ですね、と言うことはこれとは別に利一氏は捕虜虐殺に関わっていたと言うことでしょうか?
としたら、核心さんの聞いた話を記憶を辿っていただいてお伺いしたいものです。(すでに投稿済みであればすみませんm(__)m)
38 hits

[4217]Re(3):下関(シャーカン)の虐...
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 とほほ E-MAIL  - 07/2/26(月) 19:08 -

引用なし
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   ▼とほほ:
>中国の旅、で確認したところここで紹介されているのは幕府山捕虜の処理ですね、

すみません、確認したのは「南京への道」のほうでしたm(__)mm(__)m
61 hits

[4218]Re(3):下関(シャーカン)の虐...
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 核心 E-MAIL  - 07/2/26(月) 19:34 -

引用なし
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   ▼とほほさん:

>と言うことはこれとは別に利一氏は捕虜虐殺に関わっていたと言うことでしょうか?

おっしゃる通りです。
幕府山の捕虜虐殺と下関(シャーカン)の捕虜虐殺に係ったということです。
K−Kさんのサイトのコメントにも書いてあります。具体的に父から地名は聞いてなかったのですが虐殺の模様は全く同じです。
43 hits

[4222]Re(1):下関(シャーカン)の虐...
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 タラリ E-MAIL  - 07/2/27(火) 21:19 -

引用なし
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   ▼核心さん:
>父(栗原利一)が昭和30年に私に話した虐殺の話は下関(シャーカン)の捕虜虐殺だと思います。

以前、捕虜を次々と斬殺して揚子江が血で赤く染まった、という話をお父様から聞いて、それが幕府山の捕虜虐殺のことか、と思っていた、という話のことですね。

山田支隊が下関の虐殺に加わっていた、という資料はみたことがありません。下関での殺戮は第十六師団の手によるものはいろいろ資料がありますが、他の部隊がしたという資料はこれまで見たことがありません。

山田支隊は上元門と幕府山西麓の揚子江岸当たりに宿舎をとっています。12月14日に第4中隊などが南京城内に行ったおり、下関近辺を通ったことはあるでしょうが、当日は、行き帰りで大量の捕虜を捕獲しており、彼らを処分する暇はありません。

また、仮名の一山砲兵氏が浦口へ渡る日に下関に来て、道に並べられた死体の山を見て、大湾子での殺戮など目じゃない、と書いたことが記されており、間接的ではありますが、山田支隊が殺戮したのではないことが伺えます。


>南京大虐殺研究札記(ノート)に『侵略−中国戦線従軍記者の証言』(現代史出版会)から以下の引用がありました。
>
>”そこで、揚子江岸の下関(シャーカン)へ、捕虜を連れていって首を切った。日本兵は捕虜を一列にならべて首を切った。最初の列の処刑が終わると、次の列を前進させて、死体を揚子江に投げ込ませて、それから前と同じように一列にならべて処刑した。こうして朝から晩まで、つぎつぎに首をはねたが、一日に二千人しか斬れなかったという。
>−彼らの話はまだつづく。
>二日目には手が疲れてきたので、機関銃をかつぎ出した。二台の重機をすえて十字砲火を浴びせた。河岸に向って一列に並ばせて、ドドドドッと、重機関銃の引き金を引いた。捕虜たちはいっせいに河に向って逃げ出したが、岸までたどりついたものは一人もいなかったという。”

その資料に山田支隊が関わったということが書いてありますか。

>この前半の処刑に父は加担していたと思います。

それならお父様の証言が何か得られたはずではないですか。毎日新聞、本多記者が熱心に取材したはずですから。

>また、この引用の続きは以下のようなものです。
>
>”そこへ軍命令がきた。「捕虜は殺してはならぬ。後方に送って、道路工事やその他の使役に使う。」
> そのときは、すでに数知れぬ捕虜が処刑されたあとだった。揚子江は中国兵の死体がいっぱい浮き、河の水は真っ赤で正視できぬ惨状だった、という。」”
>
>「軍命令がきた。」というのは終戦後の作り話だと思います。日本兵でさえ生麦、生米を食べている時に捕虜を使役で使うという発想自体が終戦後のものだと思います。


榊原参謀が南京の捕虜を上海に後送して、戦場整理などに使役する積もりであったことは本人の証言もありますし、当時、榊原参謀から聞いたという証言者もいます。

■『南京事件』、秦郁彦聞き取りによる
1938年1月上旬南京に出張した参謀本部の稲田中佐が、榊原派遣参謀から、「収容所の捕虜を上海で労役に使うつもりでいて、数日出張した留守に殺されてしまった」(稲田正純談)

■榊原主計氏の宣誓口供書(東京裁判弁護側書証二二三七)
「俘虜は南京に行く迄は軍司令部まで送付されたものは多く入城後約四千位の俘虜を収容しましたが、その半数は上海へ送り、半数を南京で収容して居た」

核心さん、事実確認には慎重を期さなければ、思わぬことから否定派の攻撃材料にされることがあります。
42 hits

[4224]Re(2):下関(シャーカン)の虐...
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 核心 E-MAIL  - 07/2/27(火) 23:24 -

引用なし
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   ▼タラリさん:

父は当時、剣道三段でしたから、声がかかったという程度の解釈をしていますが。
別にどの部隊がとか限定的にとらえるほどのことでも無いと思いますが。
(いずれにしろ父の説明に該当するのは今のところ下関の捕虜虐殺だけです。)
56 hits

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