留意事項 リ ン ク
メンバー登録 T O P
思考錯誤の全投稿をメール配信して欲しい方、クリックして空メールを送信 管理からのお知らせ 思考錯誤ヘルプ
  新規投稿 ┃ツリー表示 ┃スレッド表示 ┃トピック表示 ┃番号順表示 ┃検索 ┃設定 ┃お蔵入り ┃旧思考錯誤 ┃南京事件資料集  
277 / 645 ツリー ←次へ | 前へ→

[4230]平林貞治氏の経歴など 核心 07/2/28(水) 18:40
[4231]「南京大虐殺のまぼろし」における証言 核心 07/2/28(水) 20:00
[4232]嘘の羅列 核心 07/2/28(水) 20:07

[4230]平林貞治氏の経歴など
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 07/2/28(水) 18:40 -

引用なし
パスワード
   昭和59年7月1日付けで発刊された「歩兵六十五連隊戦友名簿(歩六五残桜会編)」の編集委員長は当時の歩六五残桜会長の平林貞治氏です。
巻頭の「刊行にあたって」を執筆されています。
 
平林氏の軍隊経歴が分かりましたのでお知らせしておきます。
異動はiA・II・Rです。
iA(歩兵砲中隊及旧連隊砲中隊)
II(第二大隊本部)
R(連隊本部)
 
歩兵六十五連隊将校職員表
(編成)昭和12年 9月18日 連隊砲中隊小隊長(少尉)
    昭和13年 5月 1日 連隊砲中隊小隊長(少尉)
    昭和14年 1月 1日 連隊砲中隊小隊長(中尉)
    昭和15年 1月 1日 連隊砲中隊中隊長(中尉)
    昭和16年 1月 1日 連隊砲中隊中隊長(中尉)
    昭和17年 1月 1日 連隊砲中隊中隊長(大尉)
    昭和18年 1月 1日 (記載無し)
    昭和18年12月31日 第二大隊長(大尉)
    昭和19年 3月15日 第二大隊長(大尉)
    昭和20年 8月20日 第二大隊長(少佐)
    昭和21年 6月(復員時)連隊本部副官(少佐)
29 hits

[4231]「南京大虐殺のまぼろし」にお...
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 07/2/28(水) 20:00 -

引用なし
パスワード
   鈴木明氏の「南京大虐殺のまぼろし」における平林氏の記述の部分は以下の通りです。

”次に訪問したのは、「六十五連隊の生字引」といわれ、終始隊と行動を共にした平林少佐(終戦時)である。
 いま福島で電気工事会社の専務をやっている平林氏は淡々たる表情で語りはじめた。
「大量に捕虜を収容した、たしか二日目に火事がありました。その時、捕虜が逃げたかどうかは、憶えていません。もっとも、逃げようと思えば間単に逃げられそうな竹がこいでしたから。それより、問題は給食でした。われわれが食べるだけで精一杯なのに、一万人分ものメシなんか、充分に作れるはずがありません。それに、向うの指揮者というのがいないから、水を分けるにしても向うで奪い合いのケンカなんです。庭の草まで食べたという者もいます。ただし、若い将校はしっかりしていました。感心したのを憶えています。」
 僕はいま、どう想像しても、その極限状態を実感として捉えることができない。たしかに、千五百人の疲れ果てた軍隊が、一万あまりの捕虜をかかえた時のあらゆる事態を想定した時、その困惑ぶりはおそらく想像を絶するものがあったろう。日本の兵隊は捕虜のために昼夜兼行で食事を作ったが、作ることより、むしろ配ることの方が難事業だったに違いない。だから、「捕虜を江岸まで護送せよ」という命令が来た時はむしろホッとした。平林氏は、「捕虜は揚子江を舟で鎮江の師団に送り返す」ときいていたという。月日は憶えていない。
 「捕虜の間に、おびえた表情はあまりなかったと思います。兵隊と捕虜が手まねで話をしていた記憶があります。出発は昼間だったが、わずか数キロ(二キロぐらい?)のところを何時間もかかりました。とにかく、江岸に集結したのは夜でした。その時、私はふと怖くなってきたのを今でも憶えています。向うは素手といえでも十倍以上の人数です。そのまま向って来られたら、こちらが全滅です。とにかく、舟がなかなか来ない。考えてみれば、わずかな舟でこれだけの人数を運ぶというのは、はじめから不可能だったかもしれません。捕虜の方でも不安は感じがしたのでしょう。突然、どこからか、ワッとトキの声が上がった。日本軍の方から、威嚇射撃をした者がいる。それを合図にようにして、あとはもう大混乱です。一挙に、われわれに向ってワッと押し寄せて来た感じです。殺された者、逃げた者、水にとび込んだ者、舟でこぎ出す者もあったでしょう。なにしろ、真暗闇です。機銃は気狂いのようにウナリ続けました。次の日、全員で、死体の始末をしました。ずい分戦場を長く往来しましたが、生涯で、あんなにむごたらしく、悲痛な思いをしたことはありません。我が軍の戦死者が少なかったのは、彼等の目的が、日本軍を”殺す”ことではなく”逃げる”ことだったからでしょうね。向うの死体の数ですか?さあ...千なんてものじゃなかったでしょうね。三千ぐらいあったんじゃないでしょうか...」
 平林氏は「鬼哭しゅうしゅう」という古めかしい形容詞を二度も使った。他にいいようがなかったのかもしれない。
28 hits

[4232]嘘の羅列
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 07/2/28(水) 20:07 -

引用なし
パスワード
   父の証言と較べると特に言うことのない嘘の羅列ですね。
平林氏の立場上、将来、検証されることも考えずに言われたのでしょうか。
旧将校たちに共通の嘘も多々あります。
板倉氏が、これでは栗原証言に太刀打できないと考え、父の証言を、スケッチ帳を使ってでも捏造した理由がわかります。
26 hits

277 / 645 ツリー ←次へ | 前へ→
  新規投稿 ┃ツリー表示 ┃スレッド表示 ┃トピック表示 ┃番号順表示 ┃検索 ┃設定 ┃お蔵入り ┃旧思考錯誤 ┃南京事件資料集  
ページ:  ┃  記事番号:   
314936
(SS)C-BOARD v3.8(とほほ改ver2.2) is Free
タブブラウザ Sleipnir 公式ページ(上級者向け) [AD-SIZE] Get opera goo RSSリーダー
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送