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[4240]「南京戦史」(栗原証言)(1) 核心 07/3/3(土) 13:00
[4241]「南京戦史」(栗原証言)(2) 核心 07/3/3(土) 13:08
[4242]「南京戦史」(栗原証言)(3) 核心 07/3/3(土) 18:13
[4243]気ちがい沙汰の板倉氏の捏造 核心 07/3/3(土) 18:29
[4244]1枚目のスケッチの注記 核心 07/3/3(土) 18:39
[4245]「郷土部隊戦記1」(福島民友新聞社) 核心 07/3/3(土) 19:36
[4246]「支那事変郷土部隊写真支」(福島民報社) 核心 07/3/3(土) 19:50
[4247]捕虜護送(1) 核心 07/3/3(土) 22:52
[4248]捕虜護送(2) 核心 07/3/3(土) 23:04
[4249]その他 核心 07/3/3(土) 23:20
[4250]Re(1):その他 タラリ 07/3/4(日) 11:22
[4251]「郷土部隊戦記1」の虐殺に関する記述 核心 07/3/4(日) 20:14

[4240]「南京戦史」(栗原証言)(1...
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 核心 E-MAIL  - 07/3/3(土) 13:00 -

引用なし
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   「南京戦史」(偕行社)の栗原証言について検証して行きます。板倉氏は直接、家に取材に来たことはありません。毎日新聞の福永平和記者や朝日新聞の本多勝一氏よりずっと後の手紙や電話による取材だけです。ただ、板倉氏の捏造記事では毎日新聞や朝日ジャーナルの記事も使用されています。
 
”栗原利一・証言とスケッチ
 第十三師団歩兵第六十五連隊・第二中隊・伍長
 
一、栗原証言要約”
 
表題の箇所には捏造箇所はありません。
54 hits

[4241]「南京戦史」(栗原証言)(2...
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 核心 E-MAIL  - 07/3/3(土) 13:08 -

引用なし
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   ”昭和十三年秋、武漢戦で負傷し南京で入院中に回想して描いたスケッチを基に、栗原氏は要約次のように証言した。”
 
父のスケッチ帳は昭和36年に飯田橋の警察病院に入院中に描かれたものが中心です。
それまでに書き溜めた来たメモやスケッチを整理して描いたものと思われます。
父は昭和13年の負傷後は内地での病院生活の方が長かったので、そのころに基と成るメモやスケッチを描いたのでしょう。
51 hits

[4242]「南京戦史」(栗原証言)(3...
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 核心 E-MAIL  - 07/3/3(土) 18:13 -

引用なし
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   ”昭和十二年十二月十二日、南京攻撃を命じられた山田栴二少将指揮の歩兵一連隊、山砲一大隊は、鎮江を夕刻出発した。”
 
日付に関しては板倉氏の任意の記載です。
(私にとってはこれからの課題です。)
65連隊の部隊編成については父の自筆のメモ書きがあります。
また、第二中隊の詳しい編成についても資料も持っています。
しかし、連隊を超えた部隊編成について知りもしないことを言うような人間ではありません。
この部分は板倉氏の任意の付加です。
45 hits

[4243]気ちがい沙汰の板倉氏の捏造
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 核心 E-MAIL  - 07/3/3(土) 18:29 -

引用なし
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   ”翌十三日、私達の属する歩兵六十五連隊(長・両角業作)第一大隊(長・田山芳雄少佐)は鳥龍山砲台を占領したが、既に敵兵の姿はなく無血占領であった。
 十四日朝、幕府山付近に至ると莫大な投降兵があり、ことごとく武装解除して連行した。私たちは、集積され山のようになった武器の焼却を命ぜられたが、その煙は数キロ離れてから振り返っても天に沖するほどであった。捕虜は四列縦隊で延々長蛇の列となった。”
 
私が昨日ぶったまげたのはこの部分です。
たった135人の田山大隊に弾薬が殆ど無くなったとはいえ13,500人がなぜ突然、投降してくるのか?
なにも、投降しないで逃げてしまえばいいでしょう、誰でもそう思うところです。
ここで捏造派の板倉氏の真骨頂発揮、ばっかじゃなかろかという気ちがい沙汰の捏造を行なったわけです。
 
父のスケッチ画は「栗原利一資料集」で確認できるようにK−Kさんのサイトのスケッチ4→スケッチ1→スケッチ2→スケッチ3と連続しています。
板倉氏は最初の1枚を抜かして話を捏造されたわけです。
47 hits

[4244]1枚目のスケッチの注記
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 核心 E-MAIL  - 07/3/3(土) 18:39 -

引用なし
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   ”烏龍山、幕府山砲台。
白旗を翻し投稿する支那兵。1個分隊で46名か捕りょを降して連れて来た。
この時は敵が1人として抵抗するものなく、実に従順なものであった。が□し戦友が沢山戦死負傷させたのはこの敵と思うとたた敵かい心にもいるのみであった。でも投稿者はすなをに受け入れて取扱った。”
 
1枚目のスケッチには中国兵の投降は少人数であったことが記載されています。これは次に述べる「郷土部隊戦記1」の記述とも一致します。
49 hits

[4245]「郷土部隊戦記1」(福島民友...
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 核心 E-MAIL  - 07/3/3(土) 19:36 -

引用なし
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   「郷土部隊戦記1」(福島民友新聞社:昭和40年7月25日発刊)には”一、幕府山砲台と十万の投降兵”の表題で幕府山の捕虜の投降の経緯が詳しく描かれています。
最後の箇所は以下のような記述です。
 
”幕府山の敵はさすがに抵抗した。蒋介石直系の南京教導隊参謀、沈博施が指揮する少壮精鋭部隊だったのである。しかし角田第五中隊はトーチカに手榴弾を投げ込み、砲座に乗り込んでピストルを撃ちまくった。まっしぐらに山頂をめざしてかけのぼった大槻久市上等兵は、頂上近くの監視所内にいた将校団の中におどり込み、激しい撃ち合いの中で戦死した。こうした激戦のすえひりがえした日章旗だったのである。ここに敵首都南京の完全占領はなった。”
 
この本は大虐殺の否定本ですが、捕虜の投降までは否定することは無いので正確なことが記述されていると思います。
父も南京警察の制服を着たのが2千人とか、蒋介石の正規軍とかも言ってましたから。
53 hits

[4246]「支那事変郷土部隊写真支」(...
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 核心 E-MAIL  - 07/3/3(土) 19:50 -

引用なし
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   「支那事変郷土部隊写真支」(福島民報社:昭和13年6月10日発行)の「両角部隊奮戦記」の八頁に以下の記事があります。
 
”途中、十二月十二日には鳥龍山砲台を占領し、更に十三日には既に南京に迫り、南京の郊外、北約二キロの地点、揚子江の沿岸にある幕府山砲台を占領し、残敵約二万の捕虜を得た。その二万の捕虜の中に老陸宅、馬家宅の敗残兵約二千も加わっているという偶然に遭遇し、我が両角部隊の将士を喜悦せしめた。”
 
という具合に13,500人の捕虜は田山大隊の捕虜では無くて、両角部隊の捕虜なのです。
67 hits

[4247]捕虜護送(1)
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 核心 E-MAIL  - 07/3/3(土) 22:52 -

引用なし
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   ”多分十七日と思うが、捕虜を舟で揚子江岸に渡すということで、午前中かかって形だけ手を縛り、午後大隊全員で護送した。四列縦隊で出発したが、途中で列を外れて小川の水を飲もうとして射殺された者もいた。”
 
「形だけ手を縛り」なら135人で13,500人を護送できないでしょ。50mに二人しか日本兵はいないのだから
61 hits

[4248]捕虜護送(2)
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 核心 E-MAIL  - 07/3/3(土) 23:04 -

引用なし
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   ”丘陵を揚子江側に回りこんでからは道も狭く、四列では歩けなかった。列の両側に五十メートルくらいの間隔で兵が付いた。左側は荒れ地で揚子江の向うの島(注:草蛙州、八卦州ともいう)があり、右側に崖が続き、山頂には日本軍の姿もあったが、中腹に不審な人影を認めた。”
 
この箇所が全くの捏造であることは皆さん、ご承知の通りです。
板倉が勝手に本多氏との論争で捏造した証言です。
ついでに言っておくと「山頂には日本軍の姿もあったが、中腹に不審な人影を認めた。」は本多氏の記事から板倉が勝手に盗用した部分です。
父は本多氏との話のときも、話の経過からそのような話があったかもしれないが、とても回りのことに注意を払える状況ではなかったといってます。
135人で13,500人の中国兵の捕虜を護送しているのです。
当然のことです。父に再確認もせずに盗用するあたりが板倉の馬鹿さ加減なのでしょうか。
66 hits

[4249]その他
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 核心 E-MAIL  - 07/3/3(土) 23:20 -

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   私も板倉のアホと付き合っているのも面倒だから一言、言っておきます。
火事があったの、逃げ出したの、と言うのは嘘ですから。
野戦釜で炊いているのに捕虜が火事を出せるわけがない。
火事がなければ逃げたという話もあるわけがない。
肯定派の方たちは先刻ご承知でしょうけど。
81 hits

[4250]Re(1):その他
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 タラリ E-MAIL  - 07/3/4(日) 11:22 -

引用なし
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   ▼核心さん:
(4242)
>”昭和十二年十二月十二日、南京攻撃を命じられた山田栴二少将指揮の歩兵一連隊、山砲一大隊は、鎮江を夕刻出発した。”

>日付に関しては板倉氏の任意の記載です。

日時・場所は少しだけズレがあります。間違えたとか、捏造したとかの問題ではなく、山田少将の日記資料の不完全な要約でしょう。拙HPの「幕府山事件資料の改竄者たち」をご参照下さい。

(4243)
>”翌十三日、私達の属する歩兵六十五連隊(長・両角業作)第一大隊(長・田山芳雄少佐)は鳥龍山砲台を占領したが、既に敵兵の姿はなく無血占領であった。
> 十四日朝、幕府山付近に至ると莫大な投降兵があり、ことごとく武装解除して連行した。私たちは、集積され山のようになった武器の焼却を命ぜられたが、その煙は数キロ離れてから振り返っても天に沖するほどであった。捕虜は四列縦隊で延々長蛇の列となった。”
(4246)
>という具合に13,500人の捕虜は田山大隊の捕虜では無くて、両角部隊の捕虜なのです。

板倉氏が行った捏造と言われるのはどの部分ですか?
砲台の「無血占領」は事実に反しますが、核心さんはどうやら、板倉氏が「13,500人の捕虜は田山大隊の捕虜である」と捏造した、という指摘をしているように読めます。しかし、板倉氏が13,500人の捕虜すべてが田山大隊のものと書いている部分はないように思いますけど。

板倉氏の文章はスケッチ1の書き込み、
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
第1大隊兵長以下135名であった。(田山大隊)
その部隊に1万3,000名余捕りょを降して
右に集めた敵の武装解除した兵器弾薬の山
我分隊は最後尾に終り右武器を石油をかけて
もして使用不能にした。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
とは特に矛盾ないように思うのですが、どうでしょう?


核心さんは田山大隊が得た捕虜は戦闘の結果である、と受け取っているようですが、大多数は戦闘なしに投降したものです。

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』の日記資料を読みますと、どの大隊が何人という内訳は完全な形で記録が残っていません。当時、大隊ごとの捕虜獲得数を厳密に区別する必要もなかったと思っています。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−
遠藤重太郎 陣中日記
歩兵第65連隊第1大隊本部・大行李・編成 輜重特務兵(1938年1月に一等兵に進級)
 幕府山に着く日の朝五時出発、一里も行軍しない内、まだくらいのに敵兵は白旗を立てて我が軍に服して来た、見れば皆支那兵、服装は四分五裂これでも皇軍にていこうしたのかとびっくり驚いた、そこで一大隊は千八百名武器から馬から皆せんりょうした、二大隊も三大隊も皆
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
原文は最後とぎれていますが、おそらく、「二大隊も三大隊も皆」「千、二千の捕虜を捕まえた」のように続くのだと思われます。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−
荒海清衛 日記 歩兵第65連隊第1大隊本部・上等兵

◇十二月十四日
 朝四時出発。三十分位にて捕虜千名、十時頃二千名位有り。計一万五千名位 。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−

おそらく、千八百に引き続き、千、二千と獲得して行って、三つの大隊で計一万五千名位になったのだと推定されます。

戦闘があったのは幕府山頂上の砲台だけで、幕府山山麓の道を東上していた中国軍兵士はすべて戦わずして投降したと思われます。(戦闘を行ったという記録・証言が一切ない)

(4248)
>”丘陵を揚子江側に回りこんでからは道も狭く、四列では歩けなかった。列の両側に五十メートルくらいの間隔で兵が付いた。左側は荒れ地で揚子江の向うの島(注:草蛙州、八卦州ともいう)があり、右側に崖が続き、山頂には日本軍の姿もあったが、中腹に不審な人影を認めた。”

「道も狭く」「四列では歩けなかった」「左側は荒れ地で」「右側に崖が続き」

は本多聞き取りにはない部分です。この中で「四列では歩けなかった」だけが、おそらく未確認の部分であって、他は地形図である程度は読みとれることではないかと思います。適当に追加したとしても、特に重要な捏造とは思いません。

(4249)
>火事があったの、逃げ出したの、と言うのは嘘ですから。
>野戦釜で炊いているのに捕虜が火事を出せるわけがない。

火事があったことは事実です。幕府山南麓の収容所でも、幕府山東麓の収容所でも火事はありました。証言・日記資料があります。日記資料については『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』を参照。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

否定派の本質的な「捏造」は一般に次の5項目です。
(1)捕虜総数を少なく見積もる
(2)捕虜の中の民間人の解放があった
(3)火事のときに逃亡した(火事そのものは事実)
(4)解放目的の連行
(5)反乱鎮圧のための発砲

今回提示された「南京戦史」の記述部分は上記項目を含んでいません。「捏造」は他の記述部分にあります。
75 hits

[4251]「郷土部隊戦記1」の虐殺に関...
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 核心 E-MAIL  - 07/3/4(日) 20:14 -

引用なし
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   参考にしている本が違うのでこのまま続けてもあまり有意義な結果は得られないと思います。
タラリさんが「郷土部隊戦記1」をお持ちでないなら虐殺に関する記述を掲載したいと思いますが?
100 hits

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