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[4252]「郷土部隊戦記1」の虐殺に関する記述(1) 核心 07/3/4(日) 20:46
[4253]「後記」抜粋など 核心 07/3/4(日) 22:46
[4254]両角部隊は虐殺に関係なし(1) 核心 07/3/5(月) 8:27
[4255]両角部隊は虐殺に関係なし(2) 核心 07/3/5(月) 13:52
[4256]捕虜を殺せの軍命令を蹴る(1) 核心 07/3/5(月) 16:01
[4257]捕虜を殺せの軍命令を蹴る(2) 核心 07/3/5(月) 21:30
[4258]捕虜を殺せの軍命令を蹴る(3) 核心 07/3/5(月) 22:38
[4259]郷土部隊に虐殺の証拠なし(1) 核心 07/3/6(火) 7:59
[4260]郷土部隊に虐殺の証拠なし(2) 核心 07/3/6(火) 8:19
[4261]郷土部隊に虐殺の証拠なし(3) 核心 07/3/6(火) 8:39
[4262]感想など 核心 07/3/6(火) 10:31
[4265]Re(1):感想など タラリ 07/3/6(火) 13:31
[4266]とりあえずここまで 核心 07/3/6(火) 15:39
[4263]Re(1):「郷土部隊戦記1」の虐殺に関する記述(1) 熊猫 07/3/6(火) 10:49
[4264]花の白虎部隊 核心 07/3/6(火) 11:40

[4252]「郷土部隊戦記1」の虐殺に関...
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 核心 E-MAIL  - 07/3/4(日) 20:46 -

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   今回、たまたま「南京戦史」の栗原証言の捏造を調べていて分かったのですが、幕府山の捕虜虐殺の否定や矮小化の元は「郷土部隊戦記1」にあるようです。
この本の成り立ちと虐殺に関する記述を紹介しておきたいと思います。
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[4253]「後記」抜粋など
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 核心 E-MAIL  - 07/3/4(日) 22:46 -

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   共同企画者
 福島県遺族会
 福島県郷友会
 福島県傷痍軍人会
 福島民友新聞社
 
序文
 国務大臣・防衛庁長官   福田篤泰  昭和39年1月 3日
 福島県知事        佐藤善一郎 昭和39年2月 1日
 当時歩兵第六十五連隊長 
 元第三十師団長・陸軍中将 両角業作  昭和38年7月20日
 
「後記」抜粋

”第一巻の”花の白虎部隊”は、昭和三十六年十二月中旬から三十七年六月下旬まで連載したものを中心に集録した。”
 
”編集のさいは、歩兵第六十五連隊長両角業作氏の手記、第百三旅団長山田栴二氏の日記をはじめ、終戦と同時に散逸していた多くの記録を収集、また千余人におよぶ参戦者から実戦談を取材、真実の郷土部隊の姿を追い求めた。”
 
”南京攻略戦で落としてならないのは、日本軍による大量虐殺事件であった。世上、同事件には郷土部隊が重要な役割を演じたようにみられていた。しかし事実を追及してみると、郷土部隊が数千の捕虜集団に対し発砲したことは事実だが、実際には軍命令の”みな殺せ”に背反し、捕虜の集団逃亡を画策中、偶発事件のため発砲のやむなきに至ったことが明るみに出た。郷土部隊は戦場における異常な心理のなかでも、ヒューマニズムを忘れることはなかった。”
 
編集委員 大内武夫
     高橋良一郎
     大平信吉
     阿部輝郎
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[4254]両角部隊は虐殺に関係なし(1...
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 核心 E-MAIL  - 07/3/5(月) 8:27 -

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   ”南京虐殺事件の真相
 
 両角部隊は虐殺に関係なし
 
 南京攻略戦のなかで、どうしても書きとめておかなければならぬことがある。いわゆる南京事件である。
 南京に入城した日本軍は捕虜や市民数万人を虐殺し、暴行略奪など日本の軍隊にかってない汚点を残し、のちの東京裁判で、その責任を問われた当時の上海派遣軍司令官松井石根大将と第六師団長谷寿夫中将は絞首刑に処せられた。
 世上、わが両角部隊もこの暴挙に加わったのではないかと流布されている。しかし事実は両角部隊は南京事件とはなんの関係もなかったのである。いまわしい事件から二十七年の歳月が流れた今日、この郷土部隊戦記編さんのために収集した資料によって両角部隊に対する疑惑はとけた。わが郷土部隊の名誉のためにも、どうしてもその真相を明らかにしておく必要があるのである。
 まず事件はどのようなものであったか、その惨状を見たアメリカの新聞記者エドガー・スノーのリアルナな描写を一読してみよう。
 「日本軍は十二月十二日、南京にはいった。そのときなお中国軍や市民はただひとつ残された城門を抜けて揚子江の北岸にひこうとした。極度の混乱がつづいた。数百万の人々が河を渡ろうとしているとき、日本軍飛行機の機銃掃射を受けたり、水死したりした。また数百人の人々は下関に通ずるあい路でとらえられ、死屍は累々として四フィートも積み重ねられた...。
 日本軍は南京だけで四万二千人以上の市民を殺した。しかもその大部分は婦人子どもであった。上海、南京の進撃中に三十万人の非戦闘員が日本軍に殺されたと見積もられている。それは中国軍が被った損害とほとんど同数のものであった。
 約五万のこの城内の軍隊は近世にどこにもみられなかったほどの暴行、虐殺、略奪、その他あらゆる淫腐の一ヶ月を過したのである。一万二千戸の商店と家屋は、あらゆる商品と家具類を略奪されたあと、放火された。市民はすべて財産を奪われ、日本の兵士と将校はそれぞれ自動車や黄包車など運搬用具を盗み、彼らの略奪物を上海に運んだ。外国の外交官たちの家々も侵入され、使用人は殺害された。兵士たちは彼らの欲するままに行動した。将校たちは自分も参加するか、あるいはかかる部下の行動を、被征服民として中国人は『特別の考慮』を受ける権利はないとの弁明をもって許した」(スノー著「アジアの解放」)
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[4255]両角部隊は虐殺に関係なし(2...
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 核心 E-MAIL  - 07/3/5(月) 13:52 -

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   ”これに対して両角部隊の行動はどうか−。連隊は十五日は幕府山砲台ふきんで多数の捕虜を得たが、その実数は一万四千七百七十五人(山田旅団長の陣中メモによる)である。うち非戦闘員をただちに釈放して、残った約八千人の捕虜を幕府山砲台の付属建て物に収容し、砲台地下室にあった中国軍の食糧(小麦粉、野菜、かん詰めなど)をもって自分たちで給養するよう指示した。部隊は山田旅団長指揮のもとに幕府山に五日間宿営し、二十日に下関から揚子江をわたって浦口に進み、二十五日は全椒の駐留地にはいったのである。連隊は入城式のとき集成一個中隊が南京にはいったほかは、連隊主力はまったく南京城内にはいらなかったし、五日間の宿営間も、あとでのべるように城内にはいってないのである。スノーが指摘しているような情景は、両角部隊の行動経路からは明らかに考えられないものとなるだろう。
 両角部隊の奮戦をえがいた「白虎部隊」(昭和十四年六日刊、改造社)の著者、秦賢助氏は昭和三十二年二月二十五日号の日本週報に「捕虜の血にまみれた白虎部隊」と題する文章を執筆し「白虎部隊は南京入城に際して約二万の捕虜をおみやげにつれてきた」と書いているが、これは全く事実とは違う。だいいち両角部隊は南京に入城していないし、十七日の入城式には山田旅団長と、軍旗を奉じた両角連隊長に軍旗護衛の一個中隊が参加したにすぎない。秦氏自身も上海上陸から南京を経て徐州、漢口にいたる期間は両角部隊に従軍していないし、事件のときに南京にはいなかった。
 それなら、両角部隊の捕虜約八千人は、いったいどうなったのか−。疑惑の焦点はここにあったわけだ。
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[4256]捕虜を殺せの軍命令を蹴る(1...
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 核心 E-MAIL  - 07/3/5(月) 16:01 -

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   ”捕虜を殺せの軍命令を蹴る
 
 幕府山砲台で得た約八千人の捕虜の処置に困った山田旅団長は、その日のうちに本間騎兵少尉を南京の軍司令部に派遣して指示を仰いでいる。ところが軍司令部の考えは「みな殺せ」という驚くべき意向だった。日本軍でさえも食うや食わずの進撃を続けて、各隊とも食糧に欠乏している矢さきで、捕虜の給養などは思いもよらなかったろうし、さらに軍司令部は十七日の入城式を前に不穏な事態の発生を心配したらしい。それにしても戦闘中ならいざ知らず「無抵抗の捕虜八千人をみな殺しにしろ」には山田旅団長も驚いた。両角連隊長と相談してその日は砲台の付属建て物にとりあえず収容したのである。
 ところがその夜の九時すぎ、捕虜たちが夕食の炊事中に火事を起こし、混乱に乗じて約半数が逃亡してしまった。捕虜の警戒には田山第一大隊から出た四、五人の兵がその周囲を監視していただけなので、直ちに連隊から一個中隊が出動して制止したが、多勢に無勢、逃亡は彼らの思うままだった。火事そのものが逃亡するための彼らの計画的放火に違いなかったのである。だが連隊幹部は今後の捕虜の給養などを考えて内心「少なくなってホッとした」と思ったことは事実であり、連隊長は上司に報告しなかったし、捕虜に対して火事の責任も追及しなかった。”
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[4257]捕虜を殺せの軍命令を蹴る(2...
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 核心 E-MAIL  - 07/3/5(月) 21:30 -

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   ”翌十六日、山田旅団長は副官相田中佐を軍司令部に派遣して”捕虜を殺すことはできぬ。軍みずから収容すべきである”とかけ合わせたがやはりダメであった。将校だけは、軍司令部に連れてゆかれたが、そのごの消息は不明で、これは取り調べのうえ殺されたものとみるほかない。その日、こんどは逆に軍司令部から憲兵将校(階級、氏名不詳)が旅団司令部に調査にやってくる始末だったが、山田旅団長はこの若い憲兵将校をじゅんじゅんとさとし、かえって「閣下のお考えはよく分かりました」と帰っていったのだ。しかし最後にはついに「捕虜は全員すみやかに処置すべし」という軍命令が出されたのである。通信兵が電話で鉛筆がきで受けた一片の紙きれにすぎないのだが...。
 十七日は晴れの入城式である。軍司令部と対立している山田旅団長の胸中を察した両角連隊長は、入城式に出発する前、ひそかに田山大隊長を招いて指示した。逃げ残った捕虜を全員、今夜暗やみに乗じて揚子江対岸に解放しろ、というもので、付近の部落から舟とこぎ手の徴集、警戒のために二箇大隊分の機関銃の配属を命じたのである。軍命令を蹴って連隊長の独断専行である。こうして山田旅団長、両角連隊長らは入城式に参加して夕刻帰営、両角連隊長は田山大隊長から、予定どおり江岸に捕虜の集結を終わった旨の報告を受けた。”
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[4258]捕虜を殺せの軍命令を蹴る(3...
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 核心 E-MAIL  - 07/3/5(月) 22:38 -

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   ”しかし思わぬ事態が発生した。夜十二時ころ、十数隻の小舟にのって一回目に渡河した二、三百人が中流までいったところ、対岸の中国軍が日本軍の渡河と見誤ってにわかに発砲してきたのだ。この銃声にこちらの岸に集結していた捕虜は「日本軍はわれわれを江上にひき出して銃殺する」と誤解してしまった。たちまち大混乱が起った。彼らは猛然と警戒のわが兵を襲い出した。約四千人近い大集団が死に物ぐるいで一度に、いきり立ったのだからたまらない。いくら制止しても聞かず、恐怖を感じた兵は発砲するほかない。部隊でも将校一人、兵六人が捕虜の群れにひきずり込まれて死亡した。
 翌朝、江岸には不幸な捕虜の死体が残った。しかしその数は千人を上回った程度で、ほとんどは身のたけはゆうにある江岸のアシを利用し、あるいは江上にとび込んで逃亡したのである。これが事実のすべてである。全員解放というわが方の意図は突発事故のために結局実らないでしまい、遂にわが方も人的損害を出してしまった。国際法によれば、逃亡する捕虜は射撃して差しつかえないことになっているが、両角部隊の場合は、当然これに該当するものと思われる。もしこれが戦犯部隊であるとするならば連隊長らはとうに処断されているはずだ。無実の例証はさらにある...。
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[4259]郷土部隊に虐殺の証拠なし(1...
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 核心 E-MAIL  - 07/3/6(火) 7:59 -

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   ”やむを得なかったとはいえ千余の捕虜に銃火を浴びせたということは、やはりあと味はよくないものである。しかし事実は事実として正しく認識しておかなければならない。とすれば、この事件はさらに当時の異常な戦場心理というものも加えて分析しなければならない。
 わが将兵は上海上陸いらいの悪戦苦闘で極度に敵がい心が強烈だったことは容易に想像できる。両角部隊には関係ない南京城内の虐殺もその爆発だったのだ。戦争は人間に理性を失わせ、血に狂うまで追いやるものであることを深く教訓としなければなるまい。まして兵は山田旅団長と軍司令部との応酬、軍命令を蹴ってまでの両角連隊長の解放意図などは何ひとつ知らなかった。江岸の捕虜を警備せよ、という局部的なひとつの命令を忠実に受け、抵抗する捕虜に興奮の余りに銃撃した兵があったとしても、ある程度は許されるのではなかろうか。両角部隊の兵には、捕虜を後手にしばり上げて一列に並ばせ、笑いを浮かべながら殺すことがなかっただけでもせめてもの救いだった。”
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[4260]郷土部隊に虐殺の証拠なし(2...
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 核心 E-MAIL  - 07/3/6(火) 8:19 -

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   ”問題は山田旅団長に対して”捕虜を処置すべし”と命令した軍司令部である。松井大将は虐殺の責任を問われて絞首刑となったが、すでに史実は松井大将の無実を明らかにしている。大将は軍司令官としての責任を回避せずに従容として絞首台の露と消えた。とすれば悪い奴はだれか、軍司令官の名をかたって殺せと命令したもの、それはごく一部の軍司令部内の高級将校たちであろう。そういう狂熱的なファシストたちが軍主流を形成して将軍たちをあやつり、戦争までひき起こしたのだ。
 南京事件の直後、十三年二月に松井大将と交代して中支派遣軍司令官となった畑俊六元帥は、生前の昭和三十七年四月、記者につぎのように明言した事実を付記しよう。
「第十三師団が南京事件に関係のないことは私が証明する。私は松井君にかわって南京のあとかたづけをやったから全部知っている。第十三師団の兵はそんなことをする資質の兵ではない。私もA級戦犯として巣鴨にはいったが、松井君は直接南京事件の責任者というのでまことにお気の毒だった。東京裁判で検事は南京事件のぼう大な裏付け資料を出してきたが、第十三師団関係は何もなかった。両角君の第六十五連隊の行動は間違っていなかった。私がいつでも裏付けしてやる」
 この畑元帥の談話に加えて元外相、故重光葵氏がその回想録「昭和の動乱」の中で「中島兵団が南京でバカげたことをやったので信用を失ってしまった」とのべている事実も、荻州第十三師団が事件に関係のない一証明といえるのである。”
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[4261]郷土部隊に虐殺の証拠なし(3...
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 核心 E-MAIL  - 07/3/6(火) 8:39 -

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   ”後年、両角大佐は中将となり、朝鮮×興にあった第三十師団をひきい、一年半にわたり、フィリピンのミンダナオ島の防衛に任じた。ルソン島の軍司令官山下奉文大将との連絡も断たれ、ジャングルのなかで終戦も知らずに二十年九月七日まで米軍と死闘をくりかえした。米軍が持参した山下大将の降伏命令によってついに降伏したのであるが、二個師団をひきいた敵将セパード少将は守将の豪勇をたたえ、一夜デルモンテ飛行場の司令部に両角中将を招き、宴席の中央にすえて歓をつくした。両角中将もまた米軍をたたえ、会津の名匠関光弘作の愛刀を記念に贈ったのである。このとき米軍はすでに両角中将の軍歴のすべてを調べつくしていた。×興を発つ直前にうつした本人も見ていない記念写真や、第三十師団の全将校名簿さえ米軍は入手していたのである。中将はそのごモンテルンパ収容所に二年余を過し二十二年一月に復員している。両角中将が南京事件の責任者のひとりとするなら、連合軍はこのときすでに中将を処断していなければならぬ。米軍の諜報網はすべて知っていたのである。さきに復員した事件当時の旅団長山田中将もまたしかりといえるだろう。
 両角部隊は決して捕虜の血にまみれはしなかった。突発事故によって千余の捕虜に銃火を浴びせはしたが、解放しようとした善意にかかわらず、そういう不幸な事態が起り得る可能性があること自体”戦争の悲劇”と結論するほかない。”
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[4262]感想など
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 核心 E-MAIL  - 07/3/6(火) 10:31 -

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   父(栗原利一)はこの本にも書き込みをしています。
捕虜の人数には「13,500」と書き込まれています。
 
結論からするとこの本の「幕府山の捕虜虐殺」はデタラメです。
父の証言と較べれば旧軍指導者をかばうために作られた話であることは歴然としています。
防衛研修所の森松俊夫氏と原剛氏もこのことを認識しており、父の話が真実であることも認識しています。
防衛研修所戦史室も同様です。
65 hits

[4263]Re(1):「郷土部隊戦記1」の虐...
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 熊猫 E-MAIL  - 07/3/6(火) 10:49 -

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   >”第一巻の”花の白虎部隊”は、昭和三十六年十二月中旬から三十七年六月下旬まで連載したものを中心に集録した。”

 『花の白虎部隊』という書籍は実在するのでしょうか?秦賢助氏の著書に『花の白虎部隊』はないと認識しているのですが、その著者が解ったら教えてください。
 http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=2381;id=sikousakugo#2381
 
45 hits

[4264]花の白虎部隊
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 核心 E-MAIL  - 07/3/6(火) 11:40 -

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   ▼熊猫さん:
> 『花の白虎部隊』という書籍は実在するのでしょうか?
 
「郷土部隊戦記1」の副題のようです。
 
 郷土部隊戦記
 1 燃えさかる大陸戦線へ
 
 花の白虎部隊
 覆面部隊徐州へ
 
と構成されています。
51 hits

[4265]Re(1):感想など
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 タラリ E-MAIL  - 07/3/6(火) 13:31 -

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   ▼核心さん:
>父(栗原利一)はこの本にも書き込みをしています。
>捕虜の人数には「13,500」と書き込まれています。

核心さんは否定派がよってたかって、お父上に捕虜数4000−5000人と誘導したことを書かれています。お父上が圧力をかけられたにしろ、一時的には4000人だったかも知れないと書いたことは重視しなければなりせん(板倉氏の手紙の中への書き込みです)。
そこで、確認したいのですが、その本への書き込みはいつですか。板倉氏の手紙への書き込みとどちらが後先ですか。

>結論からするとこの本の「幕府山の捕虜虐殺」はデタラメです。
>父の証言と較べれば旧軍指導者をかばうために作られた話であることは歴然としています。
>防衛研修所の森松俊夫氏と原剛氏もこのことを認識しており、父の話が真実であることも認識しています。
>防衛研修所戦史室も同様です。

森松俊夫氏と原剛氏が「郷土部隊戦記1」の内容がデタラメと認識したということを核心さんは今までに書かれましたか。もし言われていたとしたら、すみませんがその投稿を教えてください。
森松俊夫氏と原剛氏がお父上の話が真実であることを認識していた、ということも核心さんは今までどこかで言われましたか。もし言われていたとしたら、すみませんがその投稿を教えてください。
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[4266]とりあえずここまで
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 核心 E-MAIL  - 07/3/6(火) 15:39 -

引用なし
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   ▼タラリさん:
 
私も(以前から何度も個人的にも)お答えしているように全てを回答するつもりはありません。
75 hits

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