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▼フナずしさん: >こんばんは、フナずしです。 >先日鷹嘴さんのブログを見ていたら、またもや「一言言えば」氏なる人物が「遅れた文明の自分で近代化も出来ない朝鮮を近代化してやったのだから日本に感謝すべきだ」という趣旨の書き込みをしていました。
いや、ちょっとその手の方々とは関係ないかもしれないのですが、もしかしたらこういう人々と同類なのかな?と思ってもしそうならあまり関わりあいたくない(^^; ちょっとよその掲示板に書いた内容を転載します。
ttp://anti-antijapan.com/16.php しかしここの反日ブログ監視所って読んだことがないけど、この静流とか言う人典型的なネトウヨじゃん(^^; この手の連中との議論は本当資料とか言うのがあったら「本ねた」を確認せよですな(^^;
ポストコロニアリズムについてちょっと読んだけど、完全なレトリックですよ、トリミングというか一部だけ引用して勝手な解釈しているだけ。例えば「ポストコロニアリズム、本橋哲也」を以下のように引用している。
●ポストコロニアリズムとは? まずはじめに本橋のいうポスコロの定義を確認しなければならないだろう。
それは字義どおりには、「植民地主義以降」と解することができるかもしれない。しかし・・・・・ ポストコロニアリズムの「ポスト」とは単に時間的な「後」を示す言葉ではない。植民地主義による支配の構図を反省し、反転し、反抗するという意図がそこにはある。・・・・・ 「ポスト」というひっくり返しの姿勢は、そうやって排除されてきた他者が、逆に中心を侵す過程・・・・・ 「あなたたちは以前、呼ばれもしないのに私たちの国にやってきた、だから今度は、私たちの方がここにいるのだ」。こうしたいわば反転と逆襲の論理がポストという接頭語には含意されているのである。 本橋の言うポスコロとは、植民地主義を反省して二度と繰り返さないということではなく、宗主国と植民地を反転させ、嘗ての植民地が嘗ての宗主国に反抗し、逆襲し、中心を侵すことである。 と言う結論付けをしているわけでしょう(^^;
では実際には本橋は反転をどう説明しているのかと言うと、宗主国と植民地という事象は宗主国から植民地と言う方向ではなく植民地から宗主国と言う方向でも植民地主義は存在する、つまり宗主国側に植民地から移住者が多くいて、外形的に植民地主義が廃されても宗主国そのものの中に植民地主義の遺産(記憶かな?)として残っている、と言う主張をしているのだね(笑)それを反転と言っているのだが静流はそれを植民地からの逆襲、と言う風に説明するためにトリミングしているのです(というより完全に文章を捏造している)。植民地対宗主国と言う二項対立構図を常に創作して他者を騙す手口は歴史修正主義の典型。
以下は「ポストコロニアリズム、本橋哲也」から引用 色字はこの静流とか言う御仁の引用(というより抜き出し)箇所
「反転としてのポスト」
以上からお分かりのように、ポストコロニアリズムの「ポスト」とは単に時間的な「後」を示す言葉ではない。植民地主義による支配の構図を反省し、反転し、反抗するという意図がそこにはある。植民地における支配者は、<自己>を理想的なものとして確立するために<他者>を生産し、自分たちより劣った周辺的存在として排除しようとしてきた。「ポスト」というひっくり返しの姿勢は、そうやって排除されてきた他者が、逆に中心を侵す過程に注目する。
例えば現在、かって植民地を保有していた宗主国には、植民地時代にも独立後にも植民地から多くの人々がやってきて生活している。そして彼ら彼女らは、それらの国々の重要な一部分を成しているのだ。まさにポストコロニアリズムの落とし子にして証人である、彼ら彼女らは次のように言うかもしれない。「あなたたちは以前、呼ばれもしないのに私たちの国にやってきた、だから今度は、私たちの方がここにいるのだ」。こうしたいわば反転と逆襲の論理が、ポストという接頭辞には含意されているのである。
この人の引用(^^;(^^;(^^;、あまりにおかしな引用なのでよく調べたら、
最初の 【それは字義どおりには、「植民地主義以降」と解することができるかもしれない。しかし・・・・・】 と言う行と 【ポストコロニアリズムの「ポスト」とは単に時間的な「後」を示す言葉ではない。植民地主義による支配の構図を反省し、反転し、反抗するという意図がそこにはある。・・・・・】 と言う行の間には6ページくらいの文章があるのだ(笑) その6ページの間には章でいえば3章くらい(^^;
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