|
”幕府山砲台占領後第二、三大隊は揚子江左岸に渡り前進したのである。 南京市街西方に在る廠舎(軍隊の演習の時使用する)に捕虜兵を収容したのがここまで第一大隊兵全体で百五十人足らずであった。 捕虜兵の数は一万三千五百人と言った。 大変な数である。 捕虜兵は毛布一枚持つのみ。 先ずこの兵隊に食べさせなければならない。 捕虜に聞くと鳥龍山砲台倉庫に米があることを聞き、馬で輜重隊が運んで来た。 戦地の野戦釜で粥を炊いて明くる十三日昼に支那茶碗で一杯づつ与えることができた。 わが軍隊にも食べ物がない。 こうしたおびただしい人数の命を守るには用意ならない苦心をした。 反面、参謀司令部にどう措置すべきか伺いたてながら作戦を練った。 捕虜も大便は出さないが小便は出る。 廠舎の回りの溝に毛布が落ちて留めた形になってそのところに小便がたまっている。 捕虜兵はその小便に顔をつけて飲む者も居る。 二日余で粥一杯。 十四日夕一同揚子江の中央にある島に移すべく全員後ろ手のまま着剣した兵に守られ右岸の凹地に収容した。 君達は向こうにある島に船で送られることを話し聞かせて。 我が軍も捕虜とは言え、この兵に戦友たちが殺されたのだと言う憎しみを持っている、敵愾心がいっぱいである。 先に到着した者と列の最後とでは三時間の持ち適(?)しさがあった。 夕方薄暗さの中、先着した一角で捕虜が反抗して我が将校の軍刀を抜いて殺される事件が起きた(将校一、兵六)。 こうなった場合の反抗に備えた機関銃が一斉に火を吹いた。 闇の中捕虜が弾に当たらないようにしようと人の上、その人の上に登り高くなる。 それが人柱が割れてくずれる。 射殺中二度三度そんな光景が見られた。 三方から間断なく撃ちまくって殺してしまったのである。 次に第二段の措置としてそれに石油を撒いて火をつけた。 服は綿服である。 僕達も昨夕から食事なしで夜中三時までかかって処置した。 次に引き続き柳の枝でかぎを作り揚子江に死体を全部流して証拠を無くしたのである。 廠舎に着いて巻脚絆も軍靴も黒く油を塗った形だった。 脚絆を取って××(?)したのであった。この時は独立機関銃隊が協力され活躍したのであった。”
| |