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[3189]畠中秀夫氏の捏造記事(II) 核心 06/8/29(火) 22:08
[3193]「記者の目」 核心 06/8/30(水) 10:18
[3194]Re(1):「記者の目」 ピッポ 06/8/30(水) 11:57
[3195]史上最低の卑劣な方法 核心 06/9/3(日) 14:10
[3201]畠中氏の捏造記事に至るまでの経緯 核心 06/9/3(日) 18:28
[3202]名刺の日付が取材日と異なる理由 核心 06/9/3(日) 18:31
[3637]日付の訂正(とても重要) 核心 06/12/8(金) 14:44
[3744]森松俊夫氏からの礼状 核心 06/12/27(水) 10:06
[3203]ゼンボウ記事から抜けてる冒頭部分 核心 06/9/3(日) 20:15
[3204]記事の第一段落について 核心 06/9/3(日) 20:34
[3205]記事の第二段落について 核心 06/9/3(日) 20:42
[3206]記事の第三段落について 核心 06/9/3(日) 21:08
[3207]記事の第四段落について 核心 06/9/4(月) 9:29
[3208]記事の第五段落(1) 核心 06/9/4(月) 21:11
[3209]記事の第五段落(2) 核心 06/9/4(月) 21:32
[3210]記事の第五段落(3) 核心 06/9/4(月) 22:09
[3211]現場検証・南京事件 核心 06/9/4(月) 22:37
[3216]記事の第五段落(4) 核心 06/9/5(火) 20:37
[3217]記事の第五段落(5) 核心 06/9/5(火) 21:40
[3225]草稿の筆跡 核心 06/9/6(水) 1:38

[3189]畠中秀夫氏の捏造記事(II)
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 核心 E-MAIL  - 06/8/29(火) 22:08 -

引用なし
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   畠中秀夫氏のゼンボウ昭和60年3月号に記載された捏造記事についてトピックを追加します。
50 hits

[3193]「記者の目」
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 核心 E-MAIL  - 06/8/30(水) 10:18 -

引用なし
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   以下は昭和59年9月27日の毎日新聞に掲載された福永平和氏による「記者の目」のコラム記事です。

歴史の発掘報道に思う
勇気ある当事者発言
匿名の中傷、卑劣だ
反論、堂々と姿現して

 記者にとって読者からの反響は大変に気になるものだ。新聞社内でも、あれはこうだ、いやちがう、などと言い合うことがあるが、読者からとなると思いもよらぬ視点を開かれることがあるからだ。時に痛いところを問答無用式にばっさりと切られ、歯がみすることもあるが、半面、一方的に中傷、誤解されることもある。そして困るのは、こういう人たちは多く匿名であることだ。しかも、いわれなく取材先の人たちまで巻き込まれるとなると、記者としていたたまれない。今回、この「記者の目」でとりあげたのは、そのケースで、取材した記者としては、見過ごすべきでないと思い、ペンをとった。読者のみなさんと共に考えてみたいと思う。

 発端は八月の末。社会部の電話が鳴った。電話の主は八月七日日付朝刊二社面(東京本社発行最終版、以下本紙掲載日は同)で掲載した「元陸軍伍長、スケッチで証言 南京捕虜一万余人虐殺」の記事で取材し、紙面にも名前の載った東京小平市の退職警察官(73)だった。
 だが、電話の向こうの声は最初からひどく震えたいた。
 「まったくひどい。何とかしてもらえないだろうか。」
記事に載った証言は、鈴木明氏の「南京大虐殺のまぼろし」や防衛庁防衛研修所戦史室の「支那事変陸軍作戦<1>」などの「釈放途中に起きた捕虜の暴動に対する自衛的集団射殺」という定説を覆すものだった。
 電話の主は、この記事が出て以来、次々と「読者」からの封書、はがきが届いたが、これらの多くは中傷で、脅迫まがいのものもあるという。証言者の自宅へ出向いた。
 「恥知らずめ、おぼえておけ。軍人恩給と警察官の恩給を返して死ね」「貴様は日本人のクズだ!!」「思慮の浅い目立ちたがり屋か老人ボケ」
 思いつく限りの悪罵(ば)を投げつけていた。
 もちろん、証言者を勇気づける手紙も何通かあった。
「事実を述べられたこと(教えて下さったこと)の勇気をすばらしいと思います」(三十六歳の主婦)。勇気ある証言は次の証言につながっていく。八月十五日付朝刊の「南京大虐殺、私も加わった」という神戸市の元上等兵(75)の証言である。そしてこの第二の証言者のとことろへも「お前はバカか、平和を乱すようなことはするな」という手紙や電話がきていた。
 こういった非難、中傷、脅迫の手紙は、新聞社にもよく来る。八月十五、十六日付朝刊の七三一部隊関連記事でも「資料はデッチ上げ」という投書があった。共通しているのは匿名ということ。

「子孫にウソを伝えぬために」
 元警察官が証言を思い立ったきっかけは、七月二十二日付朝刊社会面の「南京大虐殺、中国側が”立証”犠牲者は三十余万人」の記事。
「殺したのは殺した。それは事実だけれど、三十万人、四十万人なんて数じゃない。どんなに多くても十万人以下だ。中国側の根拠や資料をうのみにするわけにはいかない。事実をはっきりさせるのは、日本の側も、やったことははっきり認めなきゃいけない。いつまでも”殺してない”とか”自衛のためだ”なんて言ってるのはおかしい。ウソを子孫に伝えるわけにはいかない。あれにかかわったものは、私も含め、もう年だ。今のうちに本当のことを言っておかねば」
 戦後三十九年。戦無世代はもうすぐ人口の60%になろうとしている。かくいう私も戦後生まれである。空襲も含め一切の戦争体験のない世代にとって、戦争とは活字や写真で見るしかなにものである。その活字の輪郭がぼやけていたのでは、戦争そのものの実像がつかめなくなる。南京虐殺も、組織的な大量虐殺があったかどうか、論が分かれている。中国側の主張する三、四十万人という数字は、虐殺があったとする学者の中にも疑問視する人がいる。
 一昨年の教科書検定問題以後、中国では日中関係を考慮しながらも、日本軍の侵略の実像を再調査、生存者の聞き取り、資料の収集をして「まとめ」を進めている。七月二十二日付の記事で紹介した中国人民政治協商会議南京市委員会文資料研究会編の「資料選■(不明文字)」、侵華日軍南京大屠殺資料専(不明文字)」もその一つだ。昨年八月の発行である。同年六月には南京大学歴史系日本小組編の「南京大屠殺」を収めた「江蘇文資料選■(不明文字)、第十二■(不明文字)」も出版されている。さらに昨年五月には、新華出版社の「日本侵華図片史料集」という写真集も発売された。
日本軍による侵略の歴史のまとめ作業は中国だけではない。シンガポールの華字紙「■(不明文字)合早報」の七月九日付によると、日本研究者の蔡史君さんが編集した「新馬華人抗日史料」が十月に出版されるという。千百ページ、八百枚の写真を使った膨大な史料で、シンガポール占領直後の華人大虐殺も史料や生存者の証言で裏付けされている。
 匿名の手紙の中には「日中友好の障害になる」という非難もあった。しかし、七月二十二日付の記事は数日して中国の中、下級幹部用内部新聞「参考消息」に載り、元警察官の証言はその日のうちに、新華社が詳しく伝えた。
 日中友好二十一世紀委員会の開催など、明日の日中友好に向けた動きが活発な中でも、中国は半世紀も前のことに強い関心を示している。
 「日本侵華図片史料集」の編集後記は、その出版意図をこう書いている。

日中友好維持と”逆流”への警戒

 「我が国の戦後生まれの世代は、自ら日本帝国主義の侵略戦争の苦難を経験しておらず、日本帝国主義の罪行を目のあたりにしていない。彼らは日本経済が復興した戦後の情景を知っているだけである。日本帝国主義の中国侵略の歴史を学び、再度復習し、中日関係の新しい発展段階において、中日両国の友好協力関係の維持発展に力を尽くさねばならず、同時に日本軍国主義を復活させようとする逆流を警戒し、批判しなければならない」
 この中国側の意図をどう受け止めるかは、さまざまだろうが、当事者でもある日本側は少なくとも事実をはっきりさせる努力が必要である。
 その意味で、歴史の底に埋もれてしまいかねない「証言」は貴重だ。証言しやすい環境を作る周りの努力こそ大切で、これを妨げたり、戦後四十年近く、やっと明らかになった証言や資料をつぶすようなことはすべきではない。反論があるなら、堂々と名乗って筋を立ててもらいたい。
38 hits

[3194]Re(1):「記者の目」
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 ピッポ E-MAIL  - 06/8/30(水) 11:57 -

引用なし
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   ▼核心さん:

福永平和氏のこの記事を読んで、御父上と毎日新聞の関係が良く分かりました。

>「子孫にウソを伝えぬために」
> 元警察官が証言を思い立ったきっかけは、七月二十二日付朝刊社会面の「南京大虐殺、中国側が”立証”犠牲者は三十余万人」の記事。
> 「殺したのは殺した。それは事実だけれど、三十万人、四十万人なんて数じゃない。どんなに多くても十万人以下だ。中国側の根拠や資料をうのみにするわけにはいかない。事実をはっきりさせるのは、日本の側も、やったことははっきり認めなきゃいけない。いつまでも”殺してない”とか”自衛のためだ”なんて言ってるのはおかしい。ウソを子孫に伝えるわけにはいかない。あれにかかわったものは、私も含め、もう年だ。今のうちに本当のことを言っておかねば」

福永氏が八月七日以降フォローした事情もよく分かりました。

> 発端は八月の末。社会部の電話が鳴った。電話の主は八月七日日付朝刊二社面(東京本社発行最終版、以下本紙掲載日は同)で掲載した「元陸軍伍長、スケッチで証言 南京捕虜一万余人虐殺」の記事で取材し、紙面にも名前の載った東京小平市の退職警察官(73)だった。
> だが、電話の向こうの声は最初からひどく震えたいた。
> 「まったくひどい。何とかしてもらえないだろうか。」

> 電話の主は、この記事が出て以来、次々と「読者」からの封書、はがきが届いたが、これらの多くは中傷で、脅迫まがいのものもあるという。証言者の自宅へ出向いた。
>電話の主は、この記事が出て以来、次々と「読者」からの封書、はがきが届いたが、これらの多くは中傷で、脅迫まがいのものもあるという。証言者の自宅へ出向いた。
>「恥知らずめ、おぼえておけ。軍人恩給と警察官の恩給を返して死ね」「貴様は日本人のクズだ!!」「思慮の浅い目立ちたがり屋か老人ボケ」
> 思いつく限りの悪罵(ば)を投げつけていた。

こうした中で、畠中秀夫らによるマインドコントロールがなされるのですね。
35 hits

[3195]史上最低の卑劣な方法
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 核心 E-MAIL  - 06/9/3(日) 14:10 -

引用なし
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   >ピッポさんへ

>匿名の中傷、卑劣だ
>反論、堂々と姿現して

堂々と姿現して史上最低の卑劣な方法に出たわけです。

本人の口を封じて、本人の名前で反対の証言を捏造するという。
これに国家機関がかかわっていること自体が言論の封殺です。
なんで20年間以上も脅迫電話が続いていたのか理由が分かりました。

暫くは黙って読んでいるだけにしてくださいね。
59 hits

[3201]畠中氏の捏造記事に至るまでの...
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 核心 E-MAIL  - 06/9/3(日) 18:28 -

引用なし
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   ▼核心さん:

1.昭和59年7月22日に毎日新聞に中国側の30万人虐殺説が掲載されました。

2.父(栗原利一)から毎日新聞に抗議の電話を入れ、取材の希望を伝えました。

3.毎日新聞の福永平和氏が訪れ、父に7万人虐殺説を取材しました(名刺の日付は8月1日)。

4.昭和59年8月7日の毎日新聞、全国版社会面に7万人虐殺説が掲載されました。

5.当日の朝に朝日ジャーナルの本多勝一氏が取材の申込みを行い、午後には詳細な虐殺の証言を得ました(名刺の日付は8月10日)。

6.当日、夕方に他の兄弟が訪れ、私は記事の掲載について、職場での反応を聞きました。

7.8月14日以降に防衛研修所の原剛氏と森松俊夫氏が聞き取りに訪れ、父は対応しました(名刺の日付は8月8日)。

8.朝日ジャーナルの9月7日号と9月14日号に詳細な虐殺の模様が掲載されました。

9.8月末に毎日新聞、福永記者に父から電話がありました。福永氏は脅迫手紙などの取材を行いました。

10.昭和59年9月27日の毎日新聞、「記者の目」のコラムで福永氏が取材に至った経緯や脅迫手紙などに言及した記事を書きました。

11.姉の家に「柿を送る」ころ全貌社の畠中秀夫氏が取材に訪れました。

12.ゼンボウ昭和60年3月号に毎日新聞、朝日ジャーナルとは全くの逆の証言が自衛発砲説で掲載されました。
30 hits

[3202]名刺の日付が取材日と異なる理...
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 核心 E-MAIL  - 06/9/3(日) 18:31 -

引用なし
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   ▼核心さん:

4枚の名刺は畠中氏の草稿のコピーのファイルの裏に糊付けしてあります。

名刺の日付は父が畠中氏に説得された後で、畠中氏の記事に沿った体裁にするために記入した日付でしょう。
ちなみに取材時間は正しく記入されています。

8月1日
(毎日新聞、福永平和氏)

8月8日
(防衛研修所、森松俊夫氏、原剛氏)先日、森松氏に電話で確認したところ、毎日新聞の記事を読んで5日以上たってから両氏の都合がついたところで取材の申込みを行い、約束し、取材したということでした。父が8月8日と記入する合理的な理由は畠中氏の記事に合わせたとしか考えられません。

8月10日
(朝日ジャーナル、本多勝一氏)実際には8月7日に取材している本多氏を防衛研修所の両氏よりも遅らせた日付を記入したのは上記と同じく、畠中氏の捏造記事の順序に合わせた体裁にするためだと思われます。

父はこれらのことを認識しておくために草稿のコピーと同じファイルにしておいたのだと思います。
36 hits

[3203]ゼンボウ記事から抜けてる冒頭...
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 核心 E-MAIL  - 06/9/3(日) 20:15 -

引用なし
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   畠中氏の記事の捏造を検証するのには、草稿と記事を較べると非常に分かり易いです。
草稿から最終記事にどのように変わっていったかを較べるのです。
まず草稿にあり、記事にない、草稿の冒頭部分についてですが、これに関しては特に書き足すべき論評はありません。
46 hits

[3204]記事の第一段落について
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 核心 E-MAIL  - 06/9/3(日) 20:34 -

引用なし
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   ▼核心さん:

 果して元陸軍伍長「南京捕虜1万人虐殺」の「証言」は本物か?

この部分は特にいうことはありません。
以下の文章が草稿に追加されたり、または草稿を変更したりしたものですが、父の証言より前に多くの人から証言を得ているということを強調しているだけです。

”両角隊長の手記、山田旅団長の日記、千余人におよぶ参戦者からの実戦談を取材したものという。”
”なお『福島民友新聞』では改めて証言による連載を五十三年から行なって再度確認している。”
”鈴木氏のルポルタージュや『福島民友新聞』の連載は何千人もの多数の人からの取材である。”

草稿にあり記事にはない部分で重要なのはこの段落の最後の以下の一文です。
これでは父が当時の南京について詳細に知っていることになってしまいますから。
上記の修正部分とも矛盾してしまうことになるでしょう。

”そしてそれ以上に、栗原さんが当時の南京を知っていると聞いたからには是非会わねばならないと思った。”
28 hits

[3205]記事の第二段落について
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 核心 E-MAIL  - 06/9/3(日) 20:42 -

引用なし
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   ▼核心さん:

 ”真実”を知るために−と直接栗原さんの家に乗りこむ

ここは全く書き足すことはありません。
父が畠中氏が来るのを嫌がっていたのがよく分かりますから。
51 hits

[3206]記事の第三段落について
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 核心 E-MAIL  - 06/9/3(日) 21:08 -

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   ▼核心さん:

 「言ってもいないことを書かれた」と憤慨する栗原氏

ここは畠中氏が父を虐殺の肯定的立場から否定的立場に逆転させる内容のあるところです。
この段落で草稿にあり、記事から抜けている重要な一文は以下の文章です。

”私は毎日新聞や朝日ジャーナルとは立場が違います。”

父は福永氏や本多氏が左翼だとか、親中的な人間だとかそういったことは全く知りません。
ここで畠中氏は大いに父に吹きまくったものと思われます。
ほとんど脅しだったと思いますが、明治44年生まれで自民党暦何十年の昭和天皇を敬愛してやまない超保守派の人間ですから、ここいらを攻められると弱いですね。
折角、自分から言い出したことなのですが「左翼に協力するわけにはいかない」ということで畠中氏に結果的に協力することになったわけです。

”一万三千人の死体といったら五・六階建のマンションいっぱいの死体である。本当にそんなにいたのか。そして数えたのか。四方から一斉射撃したというが日本兵にあたる恐れはなかったか、”

ここいらは畠中氏が父を責めたてたロジックですね。

”こうなったらハッキリそこまで聞くつもりでいた。”
ではなくて、ハッキリ聞いたのでしょう。
35 hits

[3207]記事の第四段落について
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 核心 E-MAIL  - 06/9/4(月) 9:29 -

引用なし
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   ▼核心さん:

 満州事変から漢口攻略まで、最前線で戦った青春時代

可愛そうに父は畠中氏から攻め立てられてついに泣き泣き自分の生い立ちや戦争体験を語ったわけですね。
父はこういう言語による攻撃にはとても弱い人間です。
畠中氏にしてみれば思う壺だったわけです。
これで父の自主的な話が聞き出せたわけですから。
以下が草稿に無くて記事に追加された主な部分です。

”七万とも七万5千とも”の”とも七万5千とも”
「七万」という数字を曖昧にするとともに証言をも曖昧なものとする印象操作をしているわけです。

”捕虜たちは何日も食べていないらしく、廠舎の側の自分たちの小便を飲む中国兵もいた。本当に可愛そうだった。”
”本当に可愛そうだった。”は畠中氏のキャラ作りすぎ、一人も殺していない人間にするための印象操作なんでしょうが反って逆効果です。

”いくら捕虜とはいえ何千人もいるので一人一人後ろ手に縄で結ぶことにした。それだけで半日以上かかった。”
”それから死体を始末することになった。夜中にいったん戻り、仮眠をとり出直して来た。他の部隊の助けもかり翌日いっぱいかかった。全員を揚子江に流した。”
以上は父の協力を得たり他の記事を見て後日書き加えた部分です。

”自分は射殺するつもりもなかったし、射殺の命令もうけていなかった。”
こういう重要なことを平気で付け加えるあたりが捏造の捏造たる所以でしょう。
27 hits

[3208]記事の第五段落(1)
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 核心 E-MAIL  - 06/9/4(月) 21:11 -

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   ▼核心さん:

 マスコミの良心が問われる『毎日』、『朝日ジャーナル』の”捏造記事”

この捏造記事の書かれた意図はこの第五段落の記事に全て現れています。
構成は後述の通りです。
今までの各段落では草稿と最終記事との間にはそれぞれ相当の違いがあります。
ところがこの段落の2〜4の内容は草稿と最終記事の間に殆ど違いがありません。
つまりこの段落の内容は草稿の段階から、書き手の意図が明確であったため最終記事でも修正する必要がなかったということです。

1.毎日新聞とのやり取り
これは取材の経緯からして畠中氏としても最初にもって来ざるをえなかったのでしょう(ここは草稿と最終記事とはかなり違いはあります)。

2.防衛庁の二氏の来訪
畠中氏はここで事実とは異なり、順序を本多氏と逆転させたわけです。
防衛庁は畠中氏と同じ意見だなどといわなくてもいいことを加えて防衛庁にもボロを出させているわけです。

3.本多氏の取材
これは勿論、全くの捏造記事です。

4.洞富雄氏の著作の批判
父の名前を使って畠中氏は自分の気に入らない研究家の批判までしてしまったわけですね。
ここいらが捏造作家の本領発揮というところでしょうか。
27 hits

[3209]記事の第五段落(2)
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 核心 E-MAIL  - 06/9/4(月) 21:32 -

引用なし
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   ▼核心さん:

1.毎日新聞とのやりとり

”『毎日新聞』は『東京日日新聞』といってた頃から読んでいる。”
この一文は記事にだけあります。
取材に真実味を持たせるために後から確認したのでしょう。

以下は草稿に小文字で書き加えられた文章です。

”今まで大虐殺があったと新聞などは伝えていた。しかしこれほど大々的な記事ははじめてである。”
”そう思って抗議した。電話でのやりとりがあり記者が栗原さんを訪れることになった。”
”みてビックリした。”

ここいらの記述が全くの出鱈目であることは「記者の目」の内容と較べれば一目瞭然です。
8月7日にビックリした人が8月末に電話をすることは無いでしょう。
ビックリしたら、その日のうちに抗議するでしょう。
勿論、ここいらの経緯は私もしっかり憶えています。
それで「記者の目」を思い出したのですから。
当時は私は取材された記者の方が「記者の目」を書いたことくらいしか目にしていません。内容は全く読んでいませんでした。
(ゆうさんに感謝しています。)
26 hits

[3210]記事の第五段落(3)
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 核心 E-MAIL  - 06/9/4(月) 22:09 -

引用なし
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   ▼核心さん:

2.防衛庁の二氏の来訪

この箇所は草稿と最終記事に全く違いがありません。

”朝の九時頃来たが結局午前中いた。”
これは先日の森松氏の話とは全く違います。
森松氏によると「栗原さんが駅前にコピーで出かけていた時間が長かったので、滞在していたのは長くても1時間半です。」と言うことでした。
あくまでも戦史的な見かたからの取材だったそうです。

”「その二人は黙って話を聞いていたが防衛庁でも事実は知ってるはずですから私の話しに納得したはずです。」”

確かに防衛庁の方も森松俊夫氏、原剛氏のお二方が来られていますよ。
ということは勿論、スケッチを見せながらの説明になりますから幕府山の捕虜の処分について説明したわけです。
原剛氏も当然、このことをご存知なわけです。
ところが氏は「現場検証・南京事件」などと言うツアーの解説を行なっていて、あたかも南京大虐殺が捏造であるかのような論陣を張っているわけです。
これは否定派、矮小派の捏造に加担していることになるのではないでしょうか?
(というか実際に加担されてるわけですけどね。)
26 hits

[3211]現場検証・南京事件
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 核心 E-MAIL  - 06/9/4(月) 22:37 -

引用なし
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   ▼核心さん:

これは平成11年8月に父あてに送られてきた旅行の案内です。

現場検証・南京事件

解説:元防衛研究所主任研究官 原剛 先生

期間:1999年10月8日(金)〜10月13日(水)以下略

 1937年(昭和12年)12月13日南京を占領した日本軍により行なわれたといわれている南京事件とは一体何なのか、その実態を見極める<現場検証・南京事件>のツアーを企画しました。
戦史研究専門家解説で南京攻略戦の経過及び日本兵が中国女性を暴行殺害したり、避難中の男性を連行・殺戮したと云われる南京大虐殺の真実とは?等を実際に南京戦跡に立って検証する旅行です。
 日程は今でも租界時代の面影を象徴的に残している上海を見学後、当時と余り変わっていない景色を列車の車窓より眺めつつ南京に移動。
 その後いよいよ3日間にわかって南京攻略戦の実相に迫り、”百聞は一見にしかず・・”、貴方の目で南京事件とは一体何だったのか検証し不毛な『南京大虐殺』論争にとどめを刺して頂きたいと思います。
 南京の宿泊ホテルはラーベらが管轄した安全区の一角にあり、ホテルの最上階からは南京の市街・雨花台が一望できます。
 また南京で見学する所は、中山陵に向かい両手を縛られた汪兆銘の銅像(汪兆銘の墓)、実際には文化大革命時に中国が破壊したにもかかわらず日本軍が破壊したとして平山郁夫画伯ら日本人達がレンガ1個を積み上げるたびに2000円を支払修復した城壁にも参ります。

 サヨクの言うことや朝日新聞等がいかにでたらめかを貴方の目で確かめて下さい。

 南京市内の整備拡張等で当時の城門、城壁がそのまま残っているとは限りませんが、当時と現在の地図を照合しながら戦史研究家と共に南京戦跡を巡れば『南京の真実』の解明が出来るのではないかと思います。
37 hits

[3216]記事の第五段落(4)
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 核心 E-MAIL  - 06/9/5(火) 20:37 -

引用なし
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   ▼核心さん:

3.本多氏の取材

ここは全く問題にしなくていいでしょう。
今まで散々言ってきましたから。
本多氏は8月7日の午後に取材にきたのです。
そして私が「歴史的な事なので正確に話したほうがいい」と父に勧めたから、あれほど詳細な証言が得られたのです。
「『毎日新聞』の記者に話したような自分の体験を話した。」は真っ赤な嘘でしょう。
毎日新聞の記事よりはるかに詳細な証言を得たのですから。

「のせられた」のなら乗せたのは私です。
(もちろん父は「のせられ」て本多氏に詳細な証言をしたわけではありません。)

「気が狂ってい」て申し訳ございません。うちの長兄(利弘)です。

「満州事変記念写真帳」のあたりは父が説得されて協力した結果でしょう。
協力したからと言ってべつに捏造が捏造でなくなるわけではありませんから。
30 hits

[3217]記事の第五段落(5)
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 核心 E-MAIL  - 06/9/5(火) 21:40 -

引用なし
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   ▼核心さん:

4.洞富雄氏の著作の批判

スクラップはスケッチ帳だけです。
一人も殺してない父が話すことなのですから別にどんな架空の話を作るのも勝手ですけどね。
洞氏を父が批判するわけがない(うちは某大学関係者には足を向けて寝れない事情がございます)。
45 hits

[3225]草稿の筆跡
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 核心 E-MAIL  - 06/9/6(水) 1:38 -

引用なし
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   >ピッポさんへ:

草稿には著者の署名はありません。
書き損じもありません。
本人が書いたとは思われない箇所が幾つかあります。

結論から言いますと男性が清書したものだと思います。
(全貌社とか、畠中氏とかいうことでそれが順当なところかとも思います。)
貴兄の言うとおり筆圧の低い、手馴れた人が書いたものだと思います。
47 hits

[3637]日付の訂正(とても重要)
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 核心 E-MAIL  - 06/12/8(金) 14:44 -

引用なし
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   ▼核心さん:

本多勝一氏の証言の採取は「天井から糸を垂らして畳の間近の針の穴を通す」くらいの微小なタイミングで出来たことが分かりました。
また名刺、手帳の日付、時間の記入はある事実から正確であることが裏づけられました。
私は8月7日、8日、10日と家に在宅していました。
夏休みを取っていたと考えられます。

1.昭和59年7月22日に毎日新聞に中国側の30万人虐殺説が掲載されました。

2.父(栗原利一)から毎日新聞に抗議(?)の電話を入れ、取材の希望を伝えました。

父が毎日新聞に電話したのは7月31日です。抗議と言うよりも情報提供の申し出といったところです。

3.毎日新聞の福永平和氏が訪れ、父に7万人虐殺説を取材しました(名刺の日付は8月1日)。

4.昭和59年8月7日の毎日新聞、全国版社会面に7万人虐殺説が掲載されました。

5.当日、夕方に他の兄弟が訪れ、私は記事の掲載について、職場での反応を聞きました。

6.8月8日に防衛研修所の原剛氏と森松俊夫氏が聞き取りに訪れ、父は対応しました(名刺の日付は8月8日)。

7.朝日ジャーナルの本多勝一氏が取材の申込みを行い、8月10日の午後に詳細な虐殺の証言を得ました(名刺の日付は8月10日)。

8.朝日ジャーナルの9月7日号と9月14日号に詳細な虐殺の模様が掲載されました。

9.8月下旬に毎日新聞、福永記者に父から電話がありました。福永氏は脅迫手紙などの取材を行いました。

10.昭和59年9月27日の毎日新聞、「記者の目」のコラムで福永氏が取材に至った経緯や脅迫手紙などに言及した記事を書きました。

11.姉の家に「柿を送る」ころ全貌社の畠中秀夫氏が取材に訪れました。

12.ゼンボウ昭和60年3月号に毎日新聞、朝日ジャーナルとは全くの逆の証言が自衛発砲説で掲載されました。
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[3744]森松俊夫氏からの礼状
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 核心 E-MAIL  - 06/12/27(水) 10:06 -

引用なし
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   ▼核心さん:
 
なぜ森松俊夫氏と原剛氏が父の手帳の記載や名刺の記載通り8月8日に訪れたのかが判ったかと言うと、森松氏の封書の礼状が見つかり、その日付が8月9日だったからです。
それで両氏の訪問と本多氏の訪問の順序を私が逆に記憶していたことが分かりました。
当然、本多勝一氏の訪問は8月10日になります。
詳細はまた別途、説明させていただきます。
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