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[3298]私の死刑廃止論 とほほ 06/9/30(土) 2:49
[3299]まだまだ復讐代行システムが必要なのです。 熊猫 06/9/30(土) 14:42
[3301]私も死刑廃止論 タラリ 06/9/30(土) 23:51
[3302]Re口先だけの謝罪なんて… フナずし 06/10/1(日) 18:05
[3303]Re(1):Re口先だけの謝罪なんて… タラリ 06/10/1(日) 21:45
[3309]Re(2):Re口先だけの謝罪なんて… フナずし 06/10/3(火) 1:24
[3313]Re(3):Re口先だけの謝罪なんて… タラリ 06/10/3(火) 14:29
[3321]Re(4):Re口先だけの謝罪なんて… フナずし 06/10/5(木) 10:30
[3334]Re(5):Re口先だけの謝罪なんて… タラリ 06/10/6(金) 12:41
[3344]Re(1):Re口先だけの謝罪なんて… 指環 06/10/7(土) 15:26
[3315]私は終身刑にも反対 指環 06/10/4(水) 7:13
[3360]Re(1):私は終身刑にも反対 とほほ 06/10/7(土) 22:40
[3359]Re(1):私の死刑廃止論 とほほ 06/10/7(土) 22:15
[3369]Re(1):私の死刑廃止論 パルミーロ 06/10/9(月) 16:26
[3372]Re(1):私の死刑廃止論 熊猫 06/10/10(火) 0:31
[3373]Re(2):私の死刑廃止論 とほほ 06/10/10(火) 3:04
[3377]Re(3):私の死刑廃止論 熊猫 06/10/10(火) 22:53
[3378]Re(4):私の死刑廃止論 とほほ 06/10/10(火) 23:31
[3379]Re(5):私の死刑廃止論 熊猫 06/10/11(水) 2:25
[3383]Re(6):私の死刑廃止論 指環 06/10/11(水) 18:43
[3382]Re(2):私の死刑廃止論 指環 06/10/11(水) 18:40
[3391](参考資料)団藤重光氏の『死刑廃止論』 指環 06/10/14(土) 1:09
[3392]Re(3):私の死刑廃止論 熊猫 06/10/15(日) 1:18
[3406]Re(4):私の死刑廃止論 指環 06/10/16(月) 2:22
[3393]Re(3):私の死刑廃止論 熊猫 06/10/15(日) 2:58
[3407]Re(4):私の死刑廃止論 指環 06/10/16(月) 2:53
[3409]Re(4):私の死刑廃止論 とほほ 06/10/16(月) 4:36
[3416]Re(5):私の死刑廃止論 熊猫 06/10/16(月) 21:36
[3418]Re(5):私の死刑廃止論 とほほ 06/10/16(月) 21:57
[3539]Re(5):私の死刑廃止論 熊猫 06/10/25(水) 23:17
[3540]Re(6):私の死刑廃止論 タラリ 06/10/25(水) 23:54
[3475]バダンテール死刑廃止演説 全文訳 とほほ 06/10/23(月) 3:03
[3519]【参考資料】韓国議会死刑廃止法案 とほほ 06/10/25(水) 13:28

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[3383]Re(6):私の死刑廃止論
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 指環 E-MAIL  - 06/10/11(水) 18:43 -

引用なし
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   ▼熊猫さん:
>▼とほほさん:
>>どうなのでしょうか?
>>正しい裁定をを下せる裁判官など論理的にありえるのでしょうか?
> ありえません。だからこそ「疑わしきは罰せず」なのです。ところが代用監獄を含むさまざまな問題が日本にはあるのです。
>http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/daiyookangoku.html

 そのとおりです。今日の日本には冤罪の温床と言われる代用監獄が存在します。警察の留置場に長期間身柄を拘束され(つまり警察に生活を全面的に管理・支配され)、厳しい取調べを受け、やってもいない犯罪の自白調書をとられてしまうことが数多くあります。そして、公判で無実を主張し、他に証拠がなくても、捜査段階での自白に任意性があると判断されれば有罪になってしまうのです。

 熊猫さんが、そのことをご認識であれば、冤罪が容易に起こりうる現状が変わるまでは少なくとも死刑の適用ないし執行は停止すべきだということになりませんか?(そうなれば、死刑廃止論とほとんど紙一重ということになります。)
 
 ところが、熊猫さんは[3229]のご投稿では

> 私は現行において死刑を容認していますが、将来的に死刑は廃止するべきだと思います。しかしそれは社会の道徳観を高めた後のことなのです。つい先日、近所で酒を飲んで車を運転して、3人の子供を殺した市役所の職員がいました。後日、同じ場所で検問をしたらそれでも、飲酒運転で捕まる不謹慎な輩がいます。自分の子供が車と一緒に沈んでいく親の気持ちが理解できないのでしょうか?

と、死刑は社会の道徳観を高めた後の将来に廃止するべきであり、現行においては死刑を容認していると仰います。何だか矛盾しているような気がします。
 
 それとも熊猫さんは、現在の日本の刑事司法では冤罪は容易に起こりうるが、凶悪犯罪を抑止する必要性は冤罪のリスクより高い、だから凶悪犯罪抑止のために死刑は容認される、とお考えなのでしょうか?

 [3379]で

>老婆心ですがとほほさんの心の中に「裁判は人間のやることだから、冤罪は仕方がないだろう」という気持ちは絶対に持ってはいけないのです。

と、お書きになっていることからすると、そうお考えになっているとも思えませんが・・・。
86 hits

[3391](参考資料)団藤重光氏の『死...
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 指環 E-MAIL  - 06/10/14(土) 1:09 -

引用なし
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    刑法学の大家で、最高裁判事も務めた団藤重光氏の『死刑廃止論』(有斐閣)からの引用です。
 死刑廃止論の理由づけにはいろいろの論点があります。しかし、他の論点については賛否が論者の立場によって岐れてきますが、誤判の問題だけは、違います。少々の誤判があっても構わないという人はいても、誤判の可能性そのものを否定することは誰にもできないはずです。その意味で誤判の問題は死刑廃止論にとってもっとも決定的な論点だとおもうのです。
 
    (中略)

 誤判の問題は何も死刑事件に限りません。死刑以外の、どんな事件についてもあることです。そうして、どんな事件についても、誤判はあってはならないことです。ですから、死刑問題を議論するのに、誤判の問題は別にして考えるべきだという意見が、 有力な学説の中にもあるくらいです。例えば、懲役刑などにしても、長いこと刑務所に入って、後で無実だということがわかって出されても、失われた時間、失われた青春は再び戻って来ないという意味では、これもたしかに取り返しがつかないものです。しかし、そういう利益はいくら重要な、しかも人格的(その意味で主体的)な利益であろうとも人間が自分の持ち物として持っている利益ですが、これに対して、生命はすべての利益の帰属する主体であるところの人間そのものです。死刑は、すべての元にあるその生命そのものを奪うのですから、同じ取り返しがつかないと言っても、本質的にまったく違うのであります。その区別がわからない人は、主体的な人間としてのセンスを持ち合わせない人だというほかありません。そういう人には、無実で処刑される人の気持ちがどんなものであるか、身につまされてはわからないでしょう。そういう人は、無実の人を処刑することがいかにひどい不正義であり、どんあことがあろうとも絶対に許されるべきでない不正義であるかということを、身をもって感得することができないのでしょう。死刑事件における誤判の問題は、決して単なる理屈の議論ではないのであります。(第四版、p96-98)
刑事訴訟法(三一七条・三一八条)の規定によれば、「事実の認定は証拠による」のですが、「証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる」ということになっています。法廷に出された適法な証拠の全体を前提として、裁判官として自由な心証によって認定をすることになります。では有罪の認定にはどの程度の心証が必要かといいますと、それは、結局、「合理的な疑いを超える心証」です。つまり、常識のある人が合理的に考えて、これだけの証拠関係のもとでは、この事実を認めても間違いがないと思うような場合ならば、有罪判決になるわけです。ところが、事件の証拠関係は今までいろいろ申して来ましたように、実に複雑で微妙なもので、それを裁判官の自由心証によって判断するのですから、訴訟における真実ははじめから絶対的な真実というようなものではないのです。
 しかも、「合理的な疑い」は超えていても、それでは絶対に間違いがないかと言えば、そうは言えないのです。私じしんの経験でも、前に第I部でお話ししたように、なるほど記録からは「合理的な疑いを超える心証」がとれないとは言えないが(上告審では「事実誤認」が認められるときにかぎって原判決を破棄するのですから、こういう消極面から見ることになります)、それでは、神の目からみても間違いないのだろうか、絶対に一抹の不安もないのかと言われれば、そうは言い切れないということがありました。これでは原判決を事実誤認で破るわけには行かないのです。これは、死刑以外の事件ならば割り切って考えるほかないのですが、死刑事件でしたから、私は深刻な苦悩を味わったのでした。私は、これは誤判の苦悩というよりは死刑制度そのものの苦悩にほかならないと思うのです。(第四版、p117-118)
 学者によっては、誤判は死刑に限ったことではないのだから、死刑存廃の議論には、誤判の問題は括弧に入れて、およそ「人を殺した者」に対して死刑を科する道を残しておくべきかどうか、という純粋な形で問いと答えを出さなければ、議論に夾雑物がはいって来るという意見の人がいます。これは制度ということを忘れた議論だと思います。哲学の議論ならこれでいいかも知れませんが、法律の議論としては、これでは通らないのです。(第四版、p6-7)

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[3392]Re(3):私の死刑廃止論
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 熊猫 E-MAIL  - 06/10/15(日) 1:18 -

引用なし
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   指輪さん
> 死刑制度に凶悪犯罪の予防効果があることは何ら証明されていません。死刑を廃止した国で、凶悪犯罪が増加したということはありません。死刑制度が存在する日本でも、凶悪犯罪は相次いでいます。

 「死刑を廃止した国で、凶悪犯罪が増加したということはありません。
 無意味な論争です。指輪さんが死刑廃止国120ヶ国、死刑存続国80ヶ国のデータを元に論じているとは思えないのですが、何か根拠があるのでしょうか?
 イタリアやイギリスでは死刑を廃止して凶悪犯罪が増加しています。それぞれの国の人口は異なりますので10万人あたり殺人認知件数を元に検証します。
イタリア:1994年に死刑制度は廃止されました。
■1995年 1.82
■1996年 1.74
■1997年 1.61
■1998年 4.31
■1999年 4.01
■2000年 4.53 
イギリス:1998に全ての死刑は廃止されました。
■1998年 1.43
■1999年 1.45
■2000年 1.61
 イギリスの場合は通常の殺人事件は1969年に「死刑廃止時限法」の無期限延長を可決廃止されため、23年間で1.7倍に増加。
 さて死刑を継続している日本の10万人あたり殺人認知件数は0.90です。どこか死刑を廃止した国でこれより低い数値の国ってあるでしょうか?クエートとサウジアラビアが日本より低いのですが、どちらも死刑存続国です。
 お遊びはこの程度にして本論に入ります。
 刑罰に抑止力があるかどうかは、その刑罰を導入した後に判断するものであり、廃止した後に判断するべきではありません。死刑が無くなったからと言って悪いことであるのは認識されているのですから、一朝一夕では変わらないと思います。イギリスの事例を見れば死刑の犯罪抑止効果は否定できないと思います。
 
80 hits

[3393]Re(3):私の死刑廃止論
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 熊猫 E-MAIL  - 06/10/15(日) 2:58 -

引用なし
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    再審があろうがなかろうが関係のないことです。再審があるからといって冤罪は赦されるものではありません。冤罪を理由に死刑廃止の矛盾がここにあるのです。冤罪を前提として刑罰を考えるのであれば、全ての刑罰は否定されるべきです。

 無計画な殺人事件に対して、死刑は抑止効果も無いでしょうしこれに関しては死刑反対です。しかし計画的殺人事件に対しては、抑止効果があるのではないでしょうか。私は[3299]にて制度としての「死刑」は後回しにして考えては如何でしょうか?と申しております。
 我が国において、無辜の市民の命を守るという思想が根本的に欠如しているのです。殺人者を守るのではなく、殺人者を出さないことを先に考えるべきだと思います。

 死刑廃止は殺人事件がなくなるような努力や取り組みを行った後にするものであって、銃や麻薬の売買が行われ貧困が放置された状態で無辜の市民の命が守れるとはとても思えません。指輪さんが“凶悪犯罪は相次いでいます。”と指摘しているように、そのような状況を変えた後で死刑廃止をすればよいのです。
69 hits

[3406]Re(4):私の死刑廃止論
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 指環 E-MAIL  - 06/10/16(月) 2:22 -

引用なし
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   ▼熊猫さん:
>指輪さん
>> 死刑制度に凶悪犯罪の予防効果があることは何ら証明されていません。死刑を廃止した国で、凶悪犯罪が増加したということはありません。死刑制度が存在する日本でも、凶悪犯罪は相次いでいます。
>
> 「死刑を廃止した国で、凶悪犯罪が増加したということはありません。
> 無意味な論争です。指輪さんが死刑廃止国120ヶ国、死刑存続国80ヶ国のデータを元に論じているとは思えないのですが、何か根拠があるのでしょうか?

 アメリカで死刑のない13州が死刑存置州より凶悪犯が多いという記録はありません。むしろ死刑のあるフロリダ州で殺人率が高いようです。
 死刑に犯罪抑止力がないとする研究もあれば、統計の取り方によっては、死刑執行によって犯罪が減少するという研究もあったりするようです。

 ただ、少なくとも、死刑の存否と凶悪犯罪発生数の因果関係は科学的に証明されていないことは確かです。熊猫さんが掲載されたイタリアやイギリスの「殺人“認知”件数」の変化にしても、それだけでは死刑の存否と凶悪犯罪発生数の因果関係の証明にはなりません。他の社会要因も考えなければなりません。
 凶悪犯罪の抑止効果が科学的に証明できないのであれば、そのことは死刑制度存置の根拠にはなり得ません。

 それでも熊猫さんが

> イギリスの事例を見れば死刑の犯罪抑止効果は否定できないと思います。

と仰るのであれば、イギリスで死刑廃止と殺人率増減の間に直接の因果関係があることを証明してください。社会状況の変化等が原因ではなく、死刑廃止が殺人事件(“認知”件数ではありません。)増加を直接招くという証明です。

 一般に死刑制度存置論者は、死刑に犯罪抑止効果があることを死刑制度存置の根拠の一つとしています。熊猫さんも[3372]で

> 最初に考えないといけないのは、如何にして犯罪被害者を無くすかであり、事件の後、加害者をどうするかは、後回しでよいと思います。死刑があっても無くても、凶悪犯罪の数が変わらないのであれば、死刑の意味は無
>いと思います。
> その刑罰には違法行為の抑止力があるかどうかがポイントであり死刑をマイナスにとらえるのではなく、死刑があることにより何人の尊い命が救われているのか考えることが最優先されるべきだと思います。
> 悪いのは重い刑罰ではなく、犯罪なのです。刑罰を重くすることで社会の治安を維持しようとするのは短絡的で好きではありませんが、犯罪被害者を救う論議よりも先に死刑廃止論があるべきではないと思います。

とお書きになっていることから、死刑に犯罪抑止効果があるということを前提にされていると理解できます。そうである以上、死刑に犯罪抑止効果があることを、そう主張する論者の側が証明しなければなりません。

 なお、私の立場は「死刑の犯罪抑止効果は肯定も否定もできない。犯罪抑止効果を肯定できない以上、犯罪抑止は死刑制度存置の根拠にならない。」というものです。
104 hits

[3407]Re(4):私の死刑廃止論
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 指環 E-MAIL  - 06/10/16(月) 2:53 -

引用なし
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    さて、一番の問題である、冤罪の問題です。

▼熊猫さん:
> 再審があろうがなかろうが関係のないことです。再審があるからといって冤罪は赦されるものではありません。冤罪を理由に死刑廃止の矛盾がここにあるのです。冤罪を前提として刑罰を考えるのであれば、全ての刑罰は否定されるべきです。

 刑罰というものは誤判や冤罪があり得ることを前提に考えなければなりません。現行の法制度自体が誤判があり得ることを前提に成り立っています。
 三審制度は、裁判に慎重を期すためのものですが、第一審、あるいは第二審の判断に誤りがあり得ることを前提としています。そうであるならば、三審制度によって誤判の可能性は減少するでしょうが、決してゼロにはなりません。たとえ五審制にしようと十審制にしようと二十審制にしようと誤判の可能性はゼロにはなりません。
 また、再審制度が存在するのも、確定判決に誤りがあり得ることが前提になっています。刑事補償法が刑の執行後、無実とわかった者への補償を規定しているのも誤判があり得ることを前提としているのです。
 勿論、誤判や冤罪は回避しなければならないので、現行法はそのための手当てもしています。裁判官の予断を排除するため起訴状一本主義が採られ、証拠法上も任意性のない自白は証拠能力を否定され、反対尋問を経ない供述証拠には証拠能力が要求されます。自白の補強法則という証明力の制限もあります。
 しかし、いかなる手当てを尽くしても、人が人を裁くものである以上、誤判や冤罪を最終的にゼロにすることは不可能なのです。
 つまり、誤判や冤罪の発生の回避を追求しつつ、一方ではそれでも誤判や冤罪がゼロにはならないのだということを考えなくてはならないのです。

 この点で熊猫さんの[3377]の

> 冤罪の本質は裁判官が「疑わしきは罰せず」という本来の被告人の利益を守っているかの問題です。

についても、「疑わしきは罰せず」の原則は裏を返せば、犯罪を行ったことについて疑いようがない(「合理的な疑いを超える」心証が得られれば)罰するということになるわけで、その「合理的な疑いを超える」と判断するのが人間である以上、誤りがあり得ることは否定できません。
 同じく[3377]の

> 充分な根拠もなしに安易に有罪判決を出してしまう裁判所の体質を変えるべき問題です。

も、判決を出す時点では充分な根拠があると裁判官は確信したが、後でその根拠が間違っていたということ(証拠の捏造など)もあり得るわけで、判決を出す時点で充分な根拠があったとしても絶対に誤判や冤罪ではないとは断定できないのです。

 また、熊猫さんの[3379]の

> 誰もが犯人だろうと思う被告に、無罪判決を下した裁判官に対して、その勇気を賞賛するくらいの度量が必要なのです。

も、たいへん問題があります。
 先ず、そもそも「誰もが犯人だろうと思う」のであれば、それは正に、通常人から見て「合理的な疑いを超えている」わけで、犯罪の証明は十分として裁判官は有罪の判決を出さなければなりません。現行法ではそうなります。
 確かに、「誰もが犯人だろう」というのが実は誤りだったのならば、その被告人に無罪判決を下すことで冤罪が回避できるし、無罪判決を下した裁判官の勇気は賞賛すべきことになるでしょう。
 しかし、これもよく考えると変です。これだと、そのような勇気ある裁判官に当れば無罪、当らなければ有罪ということになってしまい、しかも死刑事件の場合、そういう偶然によって生と死が別れて良いのかという問題になってしまいます。
 さらに、通常人から見て合理的な疑いを超えているのに無罪判決を下したのなら、ではいかなる基準によって判断したのかが問題になるわけで、それが裁判官個人の主観であるならば、いよいよどの裁判官に当るかの偶然性が生と死を左右することになってしまい、結局、そういう主観は判断の基準たり得ないということにならざるを得ません。

 さらに[3393]の

> 無計画な殺人事件に対して、死刑は抑止効果も無いでしょうしこれに関しては死刑反対です。しかし計画的殺人事件に対しては、抑止効果があるのではないでしょうか。

にしても、では計画的な殺人か無計画な殺人かをどう判断するのかの問題を生じます。
 実際には、その判断が難しいケースが多く、結局、自白によることになりましょう。そうすると、法律知識がなく、計画的な殺人と無計画な殺人で量刑に開きがあることを知らずに、本当は無計画な殺人なのに計画的な殺人だと「自白」してしまった被告人はどうなるのでしょうか? そんなことで生と死が別れて良いのか、という問題になります。

> 我が国において、無辜の市民の命を守るという思想が根本的に欠如しているのです。殺人者を守るのではなく、殺人者を出さないことを先に考えるべきだと思います。

 ですが、熊猫さんの立場は[3377]で示されたように

> 「一人の罪なき者が苦しむより10人の罪人が免れたほうがよい」----パクリですが素晴らしい格言だと思います。

なのではなかったでしょうか? そうであるならば、冤罪に泣く人を出さないことが第一になるのではないですか?

 なお、この問題での熊猫さんのこれまでのご主張を列挙してみます。

・代用監獄を含むさまざまな問題が日本にはある。
・冤罪は死刑に限ったことではなく、全ての刑罰で許されない問題である。
・将来的に死刑は廃止するべきだが、現行においては死刑を容認している。
・一人の罪なき者が苦しむより10人の罪人が免れたほうがよい。
・我が国においては無辜の市民の命を守るという思想が根本的に欠如している。殺人者を守るのではなく、殺人者を出さないことを先に考えるべきである。

 何だか、あまり首尾一貫しているようには思えないのですが・・・・・・。
76 hits

[3409]Re(4):私の死刑廃止論
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 とほほ E-MAIL  - 06/10/16(月) 4:36 -

引用なし
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   私が一点死刑の抑止力を主張する方の思考でよくわからない点があります。重刑には抑止力があり他の監禁刑にはない、と考えている節が有ることです。これは「死刑に抑止力がある論」からすると全く不合理な結論です。            死刑を重刑と考えるのはなぜなのでしょうか、言わずもがなですが、そこには「死」とう不回帰線があるからに他なりません。                       重刑に抑止力があるならばなぜ晒し首、や市中引き回しの上打ち首極門、釜茹で、磔などを主張しないのでしょうか。残虐刑だから?続く
80 hits

[3416]Re(5):私の死刑廃止論
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 熊猫 E-MAIL  - 06/10/16(月) 21:36 -

引用なし
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   ▼とほほさん:
>私が一点死刑の抑止力を主張する方の思考でよくわからない点があります。重刑には抑止力があり他の監禁刑にはない、と考えている節が有ることです。これは「死刑に抑止力がある論」からすると全く不合理な結論です。            死刑を重刑と考えるのはなぜなのでしょうか、言わずもがなですが、そこには「死」とう不回帰線があるからに他なりません。                       重刑に抑止力があるならばなぜ晒し首、や市中引き回しの上打ち首極門、釜茹で、磔などを主張しないのでしょうか。残虐刑だから?続く

 重刑には抑止力がないのであれば、犯人が逃げたりしないでしょう。
 現在の死刑は“晒し首、や市中引き回しの上打ち首極門、釜茹で、磔”に理解のではないでしょうか。或いはそれ以上かもしれません。わざわざ晒し首や市中引き回しをしなくても、マスコミがやってくれるのではないですかね。最近ではネットもその一端を担っているように思います。
 死刑の手段に対する見識はもっていませんし、取り立てて考える必要もないと思います。ガス・電気・絞首・銃殺・注射・・・・・・無理やり人を殺すのに残虐でない方法なんてないと思います。
 
81 hits

[3418]Re(5):私の死刑廃止論
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 とほほ E-MAIL  - 06/10/16(月) 21:57 -

引用なし
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   極刑、とよくいわれますが、いつから現行の死刑制度が極刑になったのは何時からでしょうか?言える事は江藤新平がフランス法制に習い整備した明治新法からでしょう、しかしその死刑は決して極刑ではなかったわけです。新平は梟手刑即ち晒し首になりました。もちろんそこには政治的な思惑も有ることでしょうか、死刑以外の刑にも、百叩き、であるとか、拷問の種類は様々です。もし刑罰が復讐刑であるならば、なぜこれらの刑罰を禁じているのでしょうか。これ等をかんがみるに近代刑法は復讐原理を立脚点としてはならない事は自明と思われます。
88 hits

[3475]バダンテール死刑廃止演説 全...
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 とほほ E-MAIL  - 06/10/23(月) 3:03 -

引用なし
パスワード
   フランスの死刑廃止に対して大きな貢献を果たしたバダンテール氏ですが、その著書は日本でも有名で私も何冊か所蔵しております。しかし、死刑廃止を達成したときの彼の演説原稿はどうやら翻訳されていないようです、友人が心血を注いで翻訳してくれましたので参考資料として掲示しておきます。

日本は「文化的に死刑廃止になじまない」「日本がそこまで成熟するにはまだまだだ」と言う議論も良く聞かれます、さてではフランスはどうだったのでしょう?悪名高いギロチンの国でどのように廃止されていったのか、、、。
死刑廃止は政治家がリーダーシップをとって民衆を導かねばならない、そうなのかも知れません。
http://www.ladocumentationfrancaise.fr/dossiers/abolition-peine-mort/badinter.shtml

1981年9月17日、フランス国民議会、死刑廃止法案の審議における、法務大臣ロベール・バダンテールの演説全文訳

[...]
大統領(フランソワ・ミッテラン): では、法務大臣にご発言いただきましょう。

法務大臣(ロベール・バダンテール): 大統領閣下、議員のみなさん、共和国政府の名において、フランスにおける死刑廃止を国会にお願いすることは私の名誉であります。

みなさんがそれぞれ、私たちの国の司法と私たちにとっての影響を推し量っていらっしゃる今この瞬間、私はまず、提出された法案の精神を理解してくれた法務委員会に感謝を申しあげます。特に、報告者であるレーモン・フォルニ(訳者注:当時の与党である社会党の議員で法務委員会委員長。この審議では、バダンテール演説に先立って、委員会の名で報告を行なっている。死刑廃止法案提出にいたるまでの歴史に触れ、恩赦権を大統領に預け続けることはもうこれ以上できないと述べ、死刑廃止が国民投票にかけられる問題でない憲法上の理由を示し、世論は死刑存置に傾いているが議会の決定する死刑廃止の成否はいずれ世論が判断することになると説明し、代替刑の創設を急いではいけないと念を押した。また、生きる権利はすべての人に保証されると同時に犯罪犠牲者への配慮も怠らないことも強調した。最後に、議会に諮られる死刑廃止法案は勇気の法令ではなく、人間への信頼の法令であると述べた)に感謝いたします。なぜなら、氏は心と才能を兼ね備えた人であると同時に、過去何年にもわたって死刑廃止のために闘った人であるからです。私たちが経験している大きな政治的変化が生じる前に死刑廃止が決定されるべく、氏だけでなく特に以前の法務委員会で過去何年にもわたって力を尽くしたすべての人々に、その政治的所属を問わず、私は氏と同様に感謝を申し上げます。

この精神の共同体、政治党派のちがいを超えたこの思想の共同体は、今日みなさんの前に開かれたこの議論がまず良心の議論であるということを示しています。みなさん一人一人がするべき選択は個人としての社会的意思表明となるでしょう。

レーモン・フォルニが、ある長い歩みが今日終わると先ほど強調したのは正しかったのです。フランスが経験した最初の議会制議会でルイ=ミシェル・ル=ペルティエ=ドゥ=サン=ファルジョー(訳者注:1760-1793。政治家。暗殺され、フランス革命の最初の殉難者と言われている)が死刑の廃止を求めてから2世紀近い年月が流れています。それは1791年のことでありました。

フランスの歩みをふりかえってまいります。

フランスは偉大です。その力によってだけでなく、その力以上に、その歴史で特別に重要な数々の瞬間にフランスを導いたさまざまな思想の輝き、さまざまな主義主張の輝き、寛容さの輝きゆえに偉大なのです。フランスは偉大です。なぜなら、拷問無しにはフランスの司法は非武装になってしまうだろう、拷問無しには善人は悪人に運命をにぎられてしまうだろう、と主張する用心深い人々が当時この国にいたにもかかわらず、拷問を廃止した欧州最初の国だったからです。

フランスは、今もなお人類の名誉を傷つけている奴隷制を廃止した、世界でも最初の数カ国に名を連ねています。

ここで声を低めて申しあげなければなりませんが、勇気あるこれほどの努力にもかかわらず、西ヨーロッパにおいて、フランスは死刑を廃止する最後の数カ国の一つ、実はほとんど最後の国ということになりそうです。フランスはこれほどしばしば、ヨーロッパの中心であり極であったのにもかかわらずです。

なぜこの遅れが生じたのでしょうか。これが私たちが自らに向ける最初の問いです。

国民の才能のせいではありません。なぜなら、しばしば、フランスから、この場所から、最も偉大な声、人類の意識の最も高く最も深いところに響く声、雄弁によって死刑廃止の主義主張を支えた声が上がったからです。フォルニさん、まさに正しくも、あなたはヴィクトル・ユゴー(訳者注:1802-1885。作家。作品に「レ・ミゼラブル」、「ノートル・ダム・ドゥ・パリ」など。死刑反対をテーマにした作品もある)を思い出させてくれました。作家で死刑廃止を唱えた者として、私はそこにアルベール・カミュ(訳者注:1913-1960。作家。作品に「異邦人」、「ペスト」など。人間存在の不条理をテーマにした作品で知られ、ノーベル文学賞を受賞)を加えます。また、この分野では、レオン・ガンベッタ(訳者注:1838-1882。弁護士、政治家。急進的改革を主張した左派)、ジョルジュ・クレマンソー(訳者注:1841-1929。ジャーナリスト、政治家。左派から保守派に転向し、帝国主義政策を推進した)、そして偉大なるジャン・ジョーレス(訳者注:1859-1914。社会主義政治家で、雄弁家として有名。帝国主義戦争に反対し、熱狂的愛国者に暗殺された)のことを考えずにいられるでしょうか。みな死刑廃止のために立ち上がったのです。みな、死刑廃止の大義を支持したのです。では、なぜ沈黙がかくも頑固に続いたのでしょうか?なぜ、私たちは死刑を廃止しなかったのでしょうか?

これは国民の気質のせいとも思いません。フランス人は他の民族よりもいっそう抑圧的禁欲的であったわけでもなく、人間性が低かったわけでもありません。私は経験でそのことを知っております。フランスの判事や陪審員は他国の判事や陪審員と同じくらいに寛容でもあります。したがって、先の問いに対する答えはここにはありません。その答えはほかのところに求めなければなりません。

私の考えでは、政治的性格のある説明をそこに見い出すのであります。それはなぜでありましょうか。

私が先ほど申しあげたように、死刑廃止は、2世紀前から、あらゆる政治階級の男女を集めてきました。そして、それ以上に、国家のすべての層から支持者を集めてきたのです。

しかし、私たちの国の歴史を考えるなら、死刑廃止そのものは、フランス左派の主義主張の最も偉大なものの一つであり続けたことに気付きます。ご理解いただきたいのは、私が左派と言うとき、それは変革の力、進歩の力、時によっては革命の力、いずれにしても、歴史を進歩させる力という意味で申しあげているということです。(社会党議員席、多くの共産党議員席、一部のフランス民主連合(訳者注:当時の主要な保守派野党の一つ。中道右派)の議員席から拍手。)ただ、真実を検証いたしましょう。では、真実をご覧ください。

私は1791年、最初の憲法制定議会、偉大なる憲法制定議会を思い出します。確かに、その時は死刑は廃止されませんでした。しかし、その当時のヨーロッパとしては驚異的な勇気のあるこの問いかけはなされたのです。その議会は死刑の適用範囲をほかのヨーロッパのどこよりも制限いたしました。

フランスが経験した最初の共和国国民議会、偉大なる国民公会は、和平が回復したらその時からフランスでは死刑を廃止する、と共和国年4年の霧月4日(訳者注:フランス革命直後の革命暦で、西暦では1795年)に宣言いたしました。

アルベール・ブロシャール議員: ヴァンデー県(訳者注:フランス西部、大西洋沿いの県。フランス革命のさなかに蜂起した農民と武装革命勢力との間で戦争状態となった)では高くついたのはわかってるだろ!

数人の社会党議員: 反革命王党員は黙りなさい!

法務大臣: 平和は回復しましたが、それと同時にナポレオン・ボナパルト(訳者注:1769-1821。軍人、政治家。フランス革命後、フランスに帝政をしき、全ヨーロッパを侵略して席巻するも敗北した)が登場し、死刑が私たちの現行の刑法の中に規定されました。たしかに、今や死刑はもうこれ以上長くは続かないことになりますが、しかしとにかく、事態の進行をさらに追いましょう。

1830年の革命によって、情状酌量の拡大が1832年にもたらされました。死刑執行数はすぐに半減したのです。

1848年の革命は政治犯についての死刑廃止をもたらし、フランスは1939年の戦争までそれを見直すことはありませんでした。

その次に死刑廃止の問題が人民の代表に新たに諮られるのは、1900年代にフランスの政界の中心に左派の多数派が形成されるのを待つことになります。まさにここでモーリス・バレス(訳者注:1862-1923。ジャーナリスト、作家、政治家。フランスの国家主義者の代表的人物)とジャン・ジョーレスが討論で対決したのはその時です。雄弁の歴史が敬虔な心で記憶にとどめている生きた思い出の討論です。

私はみなさんの名においてジョーレスに敬意を表します。ジョーレスはあらゆる左派の演説家の中で、あらゆる社会主義者の中で、心の雄弁、理性の雄弁を最も高いところに、最も遠くまで、最も高貴な方法で導いた人です。誰よりも社会主義と自由と死刑廃止に奉仕した人です。(社会党の議員席と一部の共産党の議員席から拍手。)ジョーレスは...(フランス民主連合と共和国連合(訳者注:当時の主要な保守派野党の一つ。シャルル・ドゴールの流れをくみ、フランス民主連合よりも右寄り)の議員席から野次。)

このような名前を聞いて平静でいられない方がまだみなさんの中にいらっしゃるのでしょうか?(社会党と共産党の議員席から拍手。)

ミシェル・ノワール議員: 扇動者め!

ジャン・ブロカール議員: 今あなたは法廷にではなく、議会にいるんだ!

大統領: 野党のみなさん、どうかご静粛に願います。
ジョーレスは、ほかの政治家たちと同じく、私たちの国の歴史に属しています。(同じ議員席から拍手。)

ロジェ・コレーズ議員: だけど、バダンテールはそうではない!

ロベール・ヴァグネル議員: あんたは法服の袖の足りない弁護士さんだね、法務大臣!(訳者注:服の袖に言及しているが、フランス語を母国語とする人にもわかりにくい言い方。いずれにしても、単なる野次。)

大統領: 法務大臣殿、どうぞお続けください。

法務大臣: みなさん、私はバレスに敬意を表しましたが、死刑廃止についての私たちの考察から離れてしまいました。この話に固執する必要はありません。

しかし、ジョーレスの言葉は私たちの中から消えてはいないのは明らかですから、彼が述べた言葉をもう一度想起してください。「死刑は、人間が2000年以来考えてきた最も高邁なもの、人間が夢みている最も高貴なものの対極にある。死刑は、キリスト教精神とフランス革命の精神のどちらにとっても、その対極にある。」こうジョーレスは言ったのです。

1908年、今度はアリスティド・ブリアン(訳者注:1862-1932。政治家、外交官。フランスにおける政教分離を推進。閣僚を歴任し、1932年まで仏独講和を追求。パリ不戦条約は彼の名を入れてケロッグ・ブリアン条約とも呼ばれる。1926年にノーベル平和賞受賞)が、議会に死刑廃止を提議しようと試みました。奇妙なことに、彼はそうするにあたって自分の雄弁術を使わなかったのです。彼は、実証主義学派のその直前の経験が明らかにしたばかりの非常に単純なデータを議会で再び発表して説得につとめました。

社会的、経済的に非常に安定していたその時代に次々に登場した共和国大統領たちがいろいろ異なる気質を持っていたために、10年という年月が2度繰り返されるうちに死刑の実施が特徴ある変遷をとげたことをブリアンは実際に示しました。大統領たちが死刑を執行させた1888年から1897年までの10年間と、エミール・ルーベ(訳者注:1838-1929。政治家)、アルマン・ファリエール(訳者注:1841-1931。政治家)という大統領たちが死刑執行を嫌い、その結果恩赦を一貫して与えていた1898年から1907年までの10年間です。そのデータは明瞭です。死刑を執行していた最初の10年間は3066件の殺人がありました。人々が穏やかになって殺人を嫌悪し、死刑が抑圧的慣行から姿を消した次の10年間には1068件の殺人がありました。ほぼ半減です。

これが、基本方針すら超えてブリアンが、犯罪抑止力がない死刑を廃止することを議会に提議した理由です。当時、死刑に犯罪抑止力がないことをフランスはこのようにデータによって測ったところでありましたから。

一部のジャーナリズムはすぐに、死刑廃止派を批判する非常に激しいキャンペーンを始めるにいたりました。議会の一部には、ブリアンが示した頂上に向かって進む勇気がありませんでした。かくして、1908年には私たちの法律と私たちの慣習に死刑が存続することになったのです。

その時以来、つまり75年以来ということになりますが、死刑廃止の提議をゆだねられた議会は一つもなかったのです。

私はブリアンよりも雄弁ではないと確信を持っており、それは皆さんにとってうれしいことであろうと存じます。しかし、皆さんにはそれよりもなお勇気があると私は信じております。そして、そのことが重要なのです。

アルベール・ブロシャール議員: それが勇気であれば、だけどな!

ロベール・オーモン議員: 今の野次は場違いだぞ!

ロジェ・コレーズ議員: その時期の間には、左派の政府だってあったじゃないか!

法務大臣: 時代は過ぎました。
私たちは自問してもよいでしょう。なぜ1936年(訳者注:1930年代のヒトラーのファシズムの台頭に対抗して、フランス、スペイン、チリで統一政治運動が起き、1936年4月にフランスでは複数の左派政党が連立して社会党のレオン・ブルームを首班とした「人民戦線」と呼ばれる政権が樹立したことを指す。フランスでの有給休暇制度、労働者組合の地位の向上、週40時間労働制度はここに端を発する)には何もなかったのでしょうか?と。その理由は、左翼の時代が終わりつつあったからです。もう一つの理由は、もっと簡単です。戦争が人心にすでに重くのしかかっていたからです。ところで、戦争の時代は死刑廃止の問いを提起するのに適切なときではありません。戦争と死刑廃止は両立しないのは確かなのです。

解放。私としては、解放政府が死刑廃止の問題を提起しなかったのは、混乱していた時代、戦争犯罪、占領の恐ろしい試練のせいで人々がこの件に関して心の準備ができていなかったからだと確信をもって思います。兵器からの平和だけでなく、心の平和も戻ってくる必要があったのです。

この分析は植民地解放の時代についても言えることです。

死刑廃止という大きな問いは、こうした歴史的試練の後でしかみなさんの国会に実際に提議することがかないませんでした。

フォルニ議員がすでに先ほど説明しておりますので、私はこれ以上この問いに深入りはいたしません。しかし、直近の立法議会会期の間にいくつもの政府がみなさんの国会に死刑廃止を付託することを望まなかったのは何故でしょうか?法律委員会やみなさんのうちのこんなにも大勢の方々が勇気をもってこの議論を要求していたのにもかかわらず、です。何人かの政府のメンバー、それも少なくない人数は個人的に死刑廃止に賛成だと表明していました。しかし、死刑廃止を提案する責任を負っていた人々の発言を聞いて、私たちはそこでもまだ、急いで待っている状態だという気持ちでいたのです。

200年待ったのです!

待ちました。死刑、つまりギロチンが、摘み取る前に熟させなければならない果実であるかのように。

待つ、とはどういうことでしょうか。実際、その理由は世論への恐れだったと私たちはよく知っております。代議士のみなさん、そもそも、死刑廃止を可決するというのは世論を無視することになるから民主主義の規則を理解していないことになる、とおっしゃる方々もいるかもしれません。それは全く違うのです。

死刑廃止を議決する瞬間、みなさん以上に民主主義の基本の掟を尊重している人はいないのです。

ある偉大なイギリス人が使ったイメージにしたがうならば、私が参照するのは、議会は国のために闇から道を切り拓く灯台であるという発想だけではありません。普通選挙の意思であり、また、議員にとっては普通選挙の尊重であるという二つのことを意味する、民主主義の基本法則だけを私は参照しております。

さてそこで、この死刑廃止の問題ですが、(訳者補足:1981年の今回の大統領選挙と、それに続く総選挙で)これは2度にわたって世論の前で提起されたことを改めて強調いたします。

個人的感情、つまり死刑に対する嫌悪だけでなく、当選したら死刑廃止の要請を議会に付託するように政府に依頼するという意思をも、共和国大統領(フランソワ・ミッテラン)は非常に明快にすべての人に知らせておりました。この国はそれに対して肯定の意思表示をいたしました。

その後、総選挙がありました。選挙運動期間中、政策プログラムの中で...

アルベール・ブロシャール議員: 何の政策プログラムだ?

法務大臣: ...死刑廃止を公式に表明しなかった左派の政党はありません。この国は左派の多数派を選んだのです。つまり、この国は、死刑廃止を道徳的義務の冒頭に記載した立法プログラムを承認するということを、事情を心得たうえで知っていたのです。

議員のみなさんが死刑廃止法案を可決するというのは厳粛な協約です。選良を国に結びつける協約であり、選良としての第一の義務は選んでくれた人々との約束の尊重であるという協約であり、普通選挙の尊重とみなさんのものである民主主義の尊重というこの手続きなのであります。

死刑廃止はすべての人間の良心に問題を提起するという理由で、国民投票によってのみ死刑廃止は決められるべきだと言う人もいます。もしこの別の選択肢があるのであれば、この問いは考慮するに値するのかもしれません。しかし、みなさんも私同様よくご存知の通り、そしてまた、レーモン・フォルニも先ほどみなさんに指摘したように、この道は憲法上閉ざされております。

次のことは申しあげるまでもないのかもしれませんが、第五共和制の創立者であるシャルル・ドゴール(訳者注:1890-1970。軍人、政治家。第二次世界大戦中、ドイツによるフランス占領に抵抗。第五共和政の初代フランス大統領を1958年から1969年までつとめた。彼の強硬な政治路線はドゴール主義と呼ばれ、フランス政界への影響は大きい)は、社会に関する問題、いわば道徳の問題が、国民投票の手続きで断じられることを望まなかったということを国民議会のみなさんに想起していただきたいのです。

また、これも代議士のみなさんに対して私から申しあげる必要はないと思いますが、憲法の用語でいえば代議士だけが持つ権限に属している中絶の刑法的制裁も死刑の刑法的制裁も、刑法の中に記載されております。

したがって、この問題を国民投票に頼ろうと主張すること、この問題に国民投票によってのみ対応しようとすること、それは憲法の精神と条文をわざと無視することになります。それはまた、世論を恐れるがゆえに、自分の立場を公にすることを、誤った資格によって拒むということを意味します。(社会党議員席と、一部の共産党議員席から拍手。)過ぎ去った年月の間、この世論を照らすために私たちは何もしませんでした。それどころか、死刑廃止国の経験を見ることを拒んできたのです。私たちの近所であり、姉妹であり、隣人である西洋の民主主義大国が死刑なしで経験することのできた本質的事実について問いを発することをしてきませんでした。欧州評議会、欧州議会、犯罪撲滅研究部会という枠内での国連自身も含めたあらゆる大きな国際機関によって行なわれてきた研究を私たちは無視してきました。私たちは、このような諸機関の不変の結論を無視してきたのです。刑法の中に死刑があるかないかということと、血みどろの凶悪犯罪の発生率グラフのカーブの間になんらかの相関関係があると立証されたことは決して、一度もありません。これらの明白な事実をはっきり示して強調するのではなく、私たちは逆に、不安を持ち続け、恐怖を刺激し、混乱を促進してきました。議論の余地がなく、痛みが伴い、それでいて直面しなければならないこの発展に当てる光を私たちはさえぎってきたのです。その発展は経済社会状況、暴力による小規模・中規模の非行の状況に結びついておりますが、いずれにしても死刑とは全く関係ありません。しかし、フランスでの凶悪犯罪発生率は、住民数を考慮に入れても、変化することは決してなく、むしろ滞る傾向があるという事実に、高貴な精神を持った人々ならば賛成することでしょう。そのことについて私たちは口を閉ざしてきたのです。一言で言えば、私たちは選挙のことを考えてきましたので、世論に関しては人々の不安をあおり、世論に対しては理性の弁護をしないできたということなのです。(社会党議員席と、一部の共産党議員席から拍手。)

実は、死刑の問題は、明晰な精神で分析しようとする者にとっては単純なことであります。犯罪抑止効果についても、抑圧手段についても、死刑の問いは提起されようがないのです。政治的選択についてか、あるいは道徳的選択についてしか、死刑の問いは提起されないのです。

すでに申しあげたことでありますが、以前の深い沈黙も見ましたから、すすんで繰り返し何度でも申しあげます。犯罪学者が行なってきたあらゆる研究が示してきた唯一の結果は、死刑と凶悪犯罪率の変遷の間には関係がないという事実が確認されたということです。この点について改めて次のような研究を指摘いたします。1962年の欧州評議会の研究。イギリスが死刑を廃止することを決定し、それ以降2度にわたって死刑復活を拒否する前に死刑廃止国すべてについて行なわれた慎重な研究であるイギリスの白書。同じ方法にしたがって行なわれたカナダの白書。国連によって作られた犯罪予防委員会によって行なわれた研究。その最後の文章はカラカスで昨年練り上げられておりました。最後に、欧州議会によって行なわれた研究。その研究には私たちの友人であるルディさんもかかわっております。そして、それらの研究はこの重要な採決にまでたどりついたのです。その採決を通して本国会では、本国会が代表するヨーロッパ、もちろん西ヨーロッパという意味ですが、そのヨーロッパの名において、欧州から死刑がなくなるようにとの圧倒的多数の意思表明がなされたわけです。すべての人が、私が申しあげた結論に賛成しております。

それに、誠実に問いを発しようとする者にとっては、なぜ死刑と凶悪犯罪の発生率の変遷の間に犯罪抑止的関係がないのか理解することはむずかしくありません。これだけひんぱんに探求に専念しているのに他のところではその根拠を見つけることができない犯罪抑止的関係のことにはあとで立ち戻ります。そのことについて単純に考えるなら、最も恐ろしい犯罪、大衆の気持ちを最も強くとらえるということが理解できる恐ろしい犯罪、すなわち凶悪犯罪と呼ばれる罪は、しばしば、理性の防御までなくしてしまう暴力と死の衝動に我を忘れた人間によって犯されるものだということなのです。この狂気の瞬間、この殺人の激情の瞬間に、死刑であれ終身刑であれ刑罰を想起することは、殺人者にはありえないことなのです。

これらの者たちを死刑にすることはないとはおっしゃらないでください。ここ数年の年報を見直すだけで、それと反対のことを納得できます。処刑されたオリヴィエは、司法解剖の結果、前頭部に異常があったということが明らかになっています。また、ジェローム・カラン(訳者注:この演説の中で後述されるが、精神遅滞のあるアルコール中毒の殺人犯。バダンテール弁護士が弁護を担当。1977年に死刑に処せられた)しかり、ミシェル・ルソー(訳者注:7歳の少女を撲殺した犯人で、アルコール中毒であった。バダンテール弁護士が弁護を担当し、死刑判決が回避された)しかり、ノルベール・ガルソー(訳者注:1952年、27歳の時に若い女性を殺害し無期拘禁刑を宣告された。仮釈放後、再び若い女性を殺害した。インドシナ戦争への従軍の経験が彼に心理的影響を与えていたようだった。バダンテール弁護士が弁護を担当し、死刑判決が回避された)しかりであります。

ほかの者たち、いわゆる冷静な犯罪者たち、つまり、いろいろなリスクを測る者たち、利益と刑罰について熟考する者たち、これらの者たちが死刑台にかけられる危険をおかす状況におちいることは決してありません。理性をそなえた強盗、犯罪から利益を追求する者、準備万端の犯罪者、売春斡旋業者、密輸人、マフィア、これらの者たちは決してそのような状況におちいることはないのです。絶対に!(社会党議員席と共産党議員席から拍手。)

死刑について現実に基づいて記載されている司法年報をひもとくなら、ここ30年の間、「大」ギャングの名前は出てきておりません。もしこの種の者たちを指してこの形容詞を使うことができるなら、ですが。つまり、「民衆の敵」の名は一人も出てきてはいないのです。

ジャン・ブロカール議員: では、ジャック・メスリーヌ(訳者注:1970年代初頭、多くの脱走と武装襲撃で知られた「民衆の敵ナンバーワン」と言われた犯罪者)はどうなんだ?

ヤサント・サントーニ議員: ビュッフェはどうなんだ?ボンタンはどうなんだ?(訳者注:1971年9月、フランス北東部シャンパーニュ地方オーブ県の小さな町クレルヴォーで、刑務所から二人の囚人が脱走を図り、人質をとって立てこもった。脱走を図ったのは、殺人で終身刑を受けて服役中だった元落下傘兵のクロード・ビュッフェと、強盗で20年の刑に服していたロジェ・ボンタンの二人。一昼夜の交渉の末、憲兵隊が突入したところ、人質は殺されており、この事件はフランス中を揺るがせた。オーブ県の県庁所在地のトロワで行われたこの事件の裁判でボンタンの弁護にあたったのがバダンテール弁護士であった。ビュッフェが人質殺害の張本人であり、ボンタンは殺害に手を下してはいなかったが、ボンタンはビュッフェの共犯とされて二人とも死刑を宣告され、破棄申し立ても大統領への恩赦請願も却下され、二人は1972年11月21日に処刑された。バダンテール弁護士はパリのサンテ刑務所の庭で二人の処刑を見た。)

法務大臣: 彼らは、司法年報がまとめていて、私が前に述べた、「ほかの人々」の分類に入ります。

実は、死刑の犯罪抑止価値の存在を信じる人たちは、人間の真実を知らないのです。犯罪の激情は、逆にほかの高貴な激情よりも死の恐怖によってもっと効果的に抑えることができるわけではないのです。

そして、もし死の恐怖が人間を押しとどめるのであれば、偉大な兵士も、偉大なスポーツ選手もいないことになってしまいます。私たちはそういう人たちを賛美しますが、彼らは死の前でためらうことはありません。ほかの激情に我を忘れたほかの人々も同じくためらうことはありません。死の恐怖こそが人間を極度の激情の中で抑制するのだという考えが作られてしまうのは、死刑があるからでしかないのです。その考えは正確ではありません。

ここで、処刑された二人の死刑囚の名前が出ましたので、ほかの誰よりもまず私から、死刑には犯罪抑止効果がないということを証明いたします。トロワ(訳者注:下に出てくるパトリック・アンリによる児童誘拐殺人事件が起こり、その事件の裁判も行なわれたフランス東北部、シャンパーニュ地方オーブ県の県庁所在地。ビュッフェ・ボンタン事件の裁判があったところでもある)の裁判所の周りで、ビュッフェとボンタンが通るときに「ビュッフェを殺せ!ボンタンを殺せ!」と叫んでいた群衆の中に、一人の若い男性がいました。その名をパトリック・アンリといいます。(訳者注:1976年2月、トロワで8歳のフィリップ・ベルトラン少年が身代金目当てで誘拐され、行方不明になった。ベルトラン家と付き合いのあった若い男性パトリック・アンリが容疑者として取調べを受けたが、容疑不十分で釈放になった後、「こんな誘拐事件の犯人は死刑にすることに賛成だ」と発言した。その数日後に、アンリが彼の借りていた部屋にいたところを警察に取り押さえられたとき、ベッドの下から死後約1週間のフィリップ少年の死体が発見された。殺人者アンリへのかつてない憎悪がたちまちフランス全土に広がり、世論は沸騰し、二人の内閣閣僚が三権分立を無視してアンリを死刑にせよとまで発言し、テレビ番組は声高に死刑を叫び、アンリの両親にマイクを突きつけて焦燥した父親に「死刑は息子の行いにふさわしい」などと無理やり言わせるほどだった。フランスにおける凶悪犯罪の代名詞のようになったこの事件で、トロワの近くの町の弁護士会会長ロベール・ボキヨンとともにパトリック・アンリの弁護を引き受けたのがバダンテール弁護士だった。バダンテールの弁護により、最終的に死刑判決は回避され、アンリは終身刑の判決を受けた。)信じていただきたいのですが、このことを知ったとき私は驚愕いたしました。その日、死刑の犯罪抑止価値が何を意味するのか私にはわかったのです!(社会党議員席と共産党議員席から拍手。)
ピエール・ミコー議員: そんなことはトロワに説明に行け!

法務大臣: みなさんはご自分の責任を意識する国会議員です。私たちの友人であり、偉大な西洋の民主主義諸国の運命を指導し、その責任を負う国会議員は、自由の国に属する道徳的価値への欲求が自分の中でどれほど強いものであろうとも、死刑には凶悪犯罪を抑止する価値があるとしてある程度の有用性があると考えたとして、責任あるこれらの議員たちは死刑廃止に賛成票を投じたであろうとみなさんはお思いになりますか?あるいは、死刑を復活させなかったであろうとお思いになりますか?そう考えることは国会議員への侮辱でありましょう。

アルベール・ブロシャール議員: ではカリフォルニアではどうなんだ?レーガン(訳者注:ロナルド・レーガン。1911-2004。元俳優で、1966年にカリフォルニア州知事に選ばれ、アメリカ大統領を1981年1月20日から1989年1月20日までつとめた保守派政治家)はたぶんけったいな奴なんだろう!

法務大臣: レーガンさんにはその言葉をお伝えしましょう。きっとその形容を喜ぶと思いますよ!

いずれにしても、前任の共和国大統領(訳者注:ヴァレリー・ジスカール=デスタン)が死刑への個人的な嫌悪を、通常プライベートながら前向きに告白していたのですから、1974年にフランスで死刑廃止法案が採決されていたならば死刑廃止が正確に何の意味を持っただろうかと具体的に問い直せばよいのです。

仮に死刑廃止が1974年に可決されていたとしたら、1981年に終わった7年間の大統領任期の間に、フランスの安心と安全のためにそれは何を意味したことでありましょうか。以下のことだけです。3人の死刑囚が私たちの教護施設に今いる333人に加わっただけだったでしょう。3人増えるだけ、なのです。

その3人とは誰でしょうか?思い出していただきます。クリスチャン・ラニュッチ(訳者注:少女を誘拐し殺害したとされ、1976年に死刑に処せられたが、警察の捜査と予審に誤りが多いことが明らかになっていて、冤罪の疑いが強い)。彼の件についてはあまりにも多くの疑問が出されていますので、深入りしすぎないように気をつけましょう。正義に燃えた意識を持った人々にとっては、死刑を弾劾するにはこれらの疑問だけでよいと思います。ジェローム・カラン。精神遅滞があり、酔っ払いで、恐ろしい罪を犯しました。しかし、被害者の少女を殺す少し前に、村人みんなの前で彼女の手をとりました。このことは、彼を殺人に駆りたてた力が彼自身にはわからなかったということすら示しています。(共和国連合議員席とフランス民主連合議員席の一部からざわめき。)最後に、ハミダ・ジャンドゥビ(訳者注:チュニジア人の労働者で、仕事上の怪我で片足を切断されていた。その事故までは勤勉で正直な人間と思われていたが、事故後サディストのポン引きになり、若い女性を拷問し殺した。1977年9月10日、フランスで最後に死刑執行された囚人)。彼は片足を失っていた人間で、彼の犯罪がどれだけ恐ろしいものであっても、そして、その恐怖という言葉は強すぎるとは言えませんが、彼は平衡障害のあらゆる症状を呈していました。そんな彼は義足をはずされてから死刑台に運ばれていったのです。

死後の憐みをかけるようにみなさんにお願いしようというのが私の考えではありません。ここはそういう場所でもそういう機会でもありません。しかし、私たちは、最初の人間についてはその無実について、第二の人間については精神遅滞であったことについて、第三の人間については片足を失った人間であったことについて、今もなお問い直していることをお考えいただきたいだけなのです。

もしこの3人の人間がフランスの刑務所に入れられているとしたならば、フランス市民の安全は何らかの意味で危うくなっていると主張できるでしょうか?

アルベール・ブロシャール議員: 信じられない!ここは法廷ではない!

法務大臣: これが死刑の真実であり、死刑の正確な範囲なのです。単にそういうことなのです。(社会党議員席と共産党議員席から長い拍手。)

ジャン・ブロカール議員: 私は審議を放棄する。

大統領: それはあなたの権利です!

アルベール・ブロシャール議員: あなたは法務大臣であって、弁護士ではない!

法務大臣: そしてこの現実は...

ロジェ・コレーズ議員: あなただけにとっての現実だろう!

法務大臣: ...見逃されているように思えます。

みなさんご存知のことでありますが、この問いは犯罪抑止効果の問題あるいは犯罪抑圧の手段の問題として提起されているのではなくて、政治的問題として、特に、道徳的選択の問題として提起されているのです。

死刑に政治的意味があるということを確認するには、世界地図を見さえすればよいのです。欧州議会でお見せしたようには、本国会でそのような地図をお見せできないことを残念に思います。その地図では、死刑廃止国とそれ以外の国、つまり、自由の国とそれ以外の国の分布を見ることができます。

シャルル・ミオセック議員: レッテル貼りのごたまぜ扱いもいいところだ!

法務大臣: 事実ははっきりしているのです。西欧の民主主義国の圧倒的多数、特にヨーロッパにおいて、自由が体制の中に定着していて実践上も尊重されているすべての国では、死刑は廃止されております。

クロード・マルキュス議員: アメリカ合衆国では死刑は廃止されていない!

法務大臣: 私は、西洋のヨーロッパでと申しあげました。しかし、そこに合衆国を加えることは有意義なことです。書き写しはこれでほとんど完全です。自由の国では、共通の法は死刑廃止なのです。死刑こそが例外なのです。

ロジェ・コレーズ議員: 社会主義諸国では死刑は廃止されていないぞ。

法務大臣: そうは言わせませんよ。世界中のあらゆるところで、例外なく、人権への軽蔑と独裁制がはびこっているところではどこでも、血塗られた文字で死刑が法律の中に記されているのです。(社会党議員席から拍手。)

ロジェ・コレーズ議員: 共産党議員たちはそのことをしっかり記憶しただろう!

ジェラール・シャスゲ議員: 共産党議員団は法務大臣の発言を評価しました。

法務大臣: 最初の明白な事実はこれです。自由の国ではほとんどあらゆるところで、死刑廃止が規則になっております。独裁制が支配する国ではどこでも、死刑が実施されているのです。

世界のこの色分けは単純な偶然の一致によるものではなく、一つの相関関係を表しております。死刑の本当の政治的意味は、国家は市民の命を奪うところまで市民を意のままにする権利を持っているという考えに死刑は由来するということなのです。それゆえに死刑が全体主義政体の中には規定されているのです。

まさにその意味でも、司法の現実の中で、また、レーモン・フォルニが指摘していた現実の中にまで、死刑の本当の意味が改めて見えてまいります。司法の現実の中では、死刑とは何でしょうか。12人の男女の陪審員。2日間の審問。事件にまつわることがらの奥底まで触れることは不可能。そして、数十分、時には数分で罪悪性についての非常にむずかしい問題に断定的に判断をくだす。それ以上に、ほかの人の生死を決定するという恐ろしい権利もしくは義務。12人の人が、ある民主主義国で、次のようなことを言う権利があるというわけです。「こいつは生きていてよい、こいつは死ななければならない!」と。私ははっきり申します。この司法の構想は、自由の国のそれではありえません。まさに、そこに含まれる全体主義的な意味のゆえにそう言えるのです。

一方、恩赦権ですが、レーモン・フォルニが改めて言及したように、このことについて問いを発するのは適切なことです。王がこの地上で神を代表していたとき、そして王が神意を聞いていたとき、恩赦権には正当な根拠がありました。ある一つの文明の中、あるいは、体制に宗教的信念が浸透しているある一つの社会の中では、神の代表者は生死を決定する権利を持つことができたというのは容易に理解できます。しかし、共和国においては、つまり民主主義国においては、いかなる人間も、いかなる権力も、その長所がなんであろうとも、また、その意識がどうであろうとも、平時においては誰に対してもそのような権利を持つことはできないのです。

ジャン・ファララ議員: 殺人者に対しては話は別だ!

法務大臣: 今日、死刑について、テロリズムがもたらす重大な脅威から民主主義を守る最後のよりどころの一種、あるいは、極端な防衛手段の一つであるとみなす人々がいると私は知っておりますが、それこそが大きな問題だと思います。ギロチンは民主主義の名誉を汚すのではなくて、場合によっては民主主義を保護するものだとそういう人々は考えているのです。

この論は現実についての完全な無知からきています。実際、死の威嚇の前で決してたじろがない種類の犯罪があるとしたらそれは政治的犯罪であると歴史は教えています。そして、さらに具体的には、死の威嚇によっても後退させることのできない種類の男女がいるとしたら、それはまさにテロリストなのです。なぜかといえば、まず、テロリストは暴力的行為のさなかに恐怖に直面するからです。また、次に、心の底でテロリストは暴力と死に心をかき乱され、魅了されているからです。その魅了の心は与えるものであると同時に、受け取るものでもあります。私にとっては、テロリズムは民主主義に反する主要な犯罪の一つであり、もしこの国でテロリズムが蜂起するとすれば、それは鎮圧され、きわめて厳格に訴追されるでしょう。テロリズムを喚起するイデオロギーがなんであろうとも、テロリズムの合言葉、スペイン戦争のファシストたちの恐ろしい叫びは「ビバ・ラ・ムエルテ!」(死よ万歳!)というものなのです。したがって、死によってテロリズムを止められると信じるのは幻想です。

もっと詳しく述べましょう。もし、テロリズムの餌食になっている隣の民主主義諸国で、その国が死刑を復活させるのを拒んでいるとしたら、それはもちろん道徳的要求によるものですが、それと同時に政治的理由もあるのです。実際、ある種の人々、ことに若者の目からは、テロリストの処刑はそのテロリストを超えて、テロリストをその行為の犯罪的現実から分かつように見えるのです。実は、一つの主義主張に仕えて行動を起こし、たとえその主義主張がどんなに憎むべきものであるとしても自分の道を最後まで貫き通すところまで行ったであろう英雄の一種となるのです。そのときから、一人テロリストが処刑されるたびに陰の中で20名の迷える若者が蜂起する大きなリスクが生じます。これは、友邦民主主義国の政治家が正確に調べたことです。このように、死刑はテロリズムと戦うどころか、テロリズムを育てるのです。(社会党議員席と一部の共産党議員席から拍手。)

このように事実を考えると、ひとつの道徳的与件(訳者注:既知の事実、思考の前提)を加えなければなりません。テロリストに対して死刑を用いることは、民主主義国にとっては、テロリストの価値観をわが物とすることになるのです。テロリストたちが犠牲者を誘拐した後、恐ろしい対応関係を犠牲者から強引に奪い取ったあとに、司法の品位を落とすパロディにしたがって犠牲者を処刑するとき、テロリストたちは忌まわしい罪を犯しているだけでなく、民主主義に最も陰険なわなを仕掛けていることになるのです。それは、この民主国を死刑に頼るように強制することによって、テロリスト自身の流血の顔をその民主国に与えることをテロリストたちに許してしまう、人殺しの暴力の罠なのです。それは、価値観の一種の逆転によって生じるのです。

この誘惑は絶対に退けなければなりませんが、しかし、テロリズムという民主国では容認できない究極の形の暴力に妥協してはなりません。

しかし、テロリズムの激情面のこの問題を調べつくした後で、明晰な精神で最後まで考えをすすめたいなら、死刑の維持か廃止かの選択は、結局、社会にとっても、また、私たちの一人一人にとっても、道徳的選択だということがわかります。

権威の論を用いることはいたしません。なぜなら、それは議会においては場違いになってしまうからであり、この議場の中ではあまりにも安易すぎるからです。しかし、ここ数年で、フランスのカトリック教会、改革教会協議会、ユダヤ教律法学者が死刑に反対して大きく声をあげていることを指摘しないわけにはまいりません。アムネスティ・インターナショナル、国際人権協会、人権連盟といった、自由と人権の擁護のために世界中で闘っている国際的な大きな団体すべてが、死刑廃止を実現するためにキャンペーンをおこなったことも強調しないではいられません。

アルベール・ブロシャール議員: 犠牲者の家族は除いてだ!(社会党議員席から長いざわめき。)

法務大臣: 宗教的、あるいは非宗教的なこれだけの良心ある人々や神のしもべや自由人たちのこの連携は、道徳的価値の危機が絶え間なく語られるある時代にあっては意義深いものです。

ピエール=シャルル・クリーク議員: それから、フランス人の33%(訳者注:直前の世論調査で死刑に反対していたフランス人の割合)もそこに含まれることを忘れないでくれ!

法務大臣: 死刑を支持する方々の選択については、死刑廃止を願う人々も私もいつもその選択を尊重してまいりましたが、その逆は必ずしも真ではなかったと残念ながら申しあげなければなりません。ある深い確信、つまり自由人において私がいつも尊重している信条の表明にすぎなかったものに対して、死刑支持派の方々からしばしば憎悪が向けられます。罪人の死が正義の要求だというのが死刑支持派の方々の主張なのです。死刑支持派の方々にとっては、犯罪遂行者が自分の命を代償にする以外の償いをするにはあまりにも残虐すぎる犯罪があるということなのです。犠牲者の死と苦しみ、この恐ろしい不幸に対して、絶対的で必要な対応物としてもう一つの死ともう一つの苦しみを要求するということなのです。最近のある法務大臣が宣告するには、それがかなわないならば、犯罪が社会の中に引き起こした不安と激情は鎮められないということだそうです。これは、私の考えでは、贖罪の犠牲と呼ぶものだと思います。そして、死刑に賛成する方々は、有罪者の死がこだまのように犠牲者の死に応えないならば正義は成されないと言うのです。

はっきりと申しましょう。これは、数千年にわたって同等報復刑法が人間の司法に共通する必要な法律であり続けるだろうというだけの意味にすぎません。

犠牲者の不幸と苦しみについては、それを引き合いに出す人々よりもずっと、私は自分の人生の中でひんぱんに、その影響の広がりを確かめてまいりました。犯罪が人間の不幸の遭遇点であり地理的場所であるということを、私は誰よりも熟知しております。犠牲者自身の不幸と、それ以上に、犠牲者の親族や近親者の不幸があります。また、犯罪者の親族の不幸もあります。そして、たいへんに多くの場合、殺人者の不幸もあります。そうです。犯罪は不幸であります。そして、感情、理性、責任感ある男女には、まずその不幸と闘おうと望まない者はいないのです。

しかし、自分自身の心の奥深くで犠牲者の不幸と苦しみを感じ、それでいて暴力と犯罪がこの社会の中で退くようにあらゆる方法で闘うという、この気持ちとこの闘いは、有罪者を必ず死刑にすることを意味することはできないでしょう。犠牲者の親族や近親者が罪人の死を望むことは傷ついた人間の自然な反応であり、私はそれを理解いたしますし、それを考えもいたします。しかし、それは人間の自然な反応なのです。一方、司法のあらゆる歴史的進歩は、個人的報復を乗り越えることでありました。まず同等報復刑法を拒否するのでなければ、どうして個人的報復を乗り越えられるでありましょうか。

死刑にこだわる動機の奥底には、しばしば告白されないままの、排除への誘惑があるものだというのが真実です。多くの人にとって耐えられないように思われるのは、刑務所に入った犯罪者の生命よりも、犯罪者がいつの日か再び罪を犯すという恐れなのです。そして、この点に関しての唯一の保証は用心のために犯罪者を死刑に処することだと多くの人が考えているのです。

かくして、この考えでは、司法は復讐のためというよりも慎重さのために殺すのだということになります。したがって、贖罪の司法を超えて排除の司法があらわれ、その天秤(訳者注:公正さ、司法の象徴)の後ろにギロチンがあらわれます。殺人者は死ななければならない、理由は単純で、殺人者を殺せば再犯はなくなる、というわけです。これは非常に単純で非常に正当なように聞こえます!

しかし、正義の名のもとに排除の司法を受け入れるか賞賛するのであれば、どういう方向に進むかをはっきりと知らなければなりません。死刑賛成派からの承認も得るためには、犯罪者を殺す司法は事情を承知して殺さなければならないことになります。私たちの司法は、名誉なことに、心神喪失者を殺すことはいたしません。しかし、司法には心神喪失者を確実に見分けるすべはありません。偶然に非常に左右され、非常に不確実な精神鑑定にそれをゆだねることになるのが司法の現実です。精神鑑定が殺人者に有利な判定を出せば殺人者は死刑を免除されます。その場合、いきどおる者がないようにしながら社会は犯罪者が示すリスクを受け入れることになります。殺人者に不利な判定を出せば殺人者は処刑されることになります。排除の司法を受け入れるならば、歴史のいかなる論理の中に私たちが位置するかを政治の責任者は正確に知る必要があるのです。

私は、犯罪者と同じく心神喪失者や政治的反対者や社会を「汚染する」性格を持っているようだと思われる人々を排除する社会のことを話しているのではありません。そうではなくて、民主主義のうちに営まれている国々の司法だけに話を限っております。

まさに排除の司法の中に埋もれ、隠れて、密かな人種差別がのぞいております。1972年にアメリカ合衆国最高裁が死刑廃止に傾いた理由は主に、黒人は人口の12%しかいないのに、死刑囚の60%は黒人であるということを確認したからです。司法人からみて、何とめまいのするような結果でしょうか。私も声を落としてみなさん全員の方に向き直り、申しあげなければなりません。フランスでさえも、外国人比率は8%なのにもかかわらず、1945年以降に出された36の確定死刑判決のうち、外国人は9名つまり25%を数えます。その中で5人が北アフリカのマグレブ人(訳者注:マグレブ諸国とは、北アフリカ北西部のモロッコ、アルジェリア、チュニジアなどのアラブ圏の国々を指す。フランスがその地方を植民地化していたことから、その地域からの移民をフランスは受け入れている)ですが、フランスでのマグレブ人の人口比率は2%にすぎないのです。1965年以降執行された死刑囚9名のうち、外国人が4人いて、そのうち3人がマグレブ人です。マグレブ人の犯罪はほかの人々の犯罪よりも憎むべきものだったというのでしょうか?あるいは、その瞬間の犯罪者が密かに恐怖を広めていたという理由でより深刻に見えるということなのでしょうか?これは一つの問いかけです。そしてこれは一つの問いかけにすぎませんが、あまりにも差し迫った問いかけであり、あまりにも胸の痛む問いかけです。私たちをこれほどの残忍さで問い詰めるこの問いに終止符を打つことができるのは死刑廃止ただそれだけなのです。

結局、死刑廃止とは一つの根源的な選択であり、人間と司法についてのある一つの構想なのです。人を殺す司法を望む人々は、二重の信念に動かされています。一つは、完全に有罪の人間、つまり自分の行為に完全に責任のある人間が存在するという信念。もう一つは、こいつは生きてよい、こいつは死ななければならないと言いうるほどにその無過誤を確信した司法が存在する可能性があるという信念です。

私はこの歳になって、この二つの断言はどちらも等しく間違っていると思います。彼らの行為がどれだけ恐ろしくどれだけ憎むべきものであろうとも、完全な有罪性を持っていて永遠に完全な絶望の対象にならなければならない人間はこの地上にはおりません。司法がどれだけ慎重なものであっても、また、判断をくだす陪審員男女がどれだけ節度がありどれだけ不安にさいなまれていようとも、司法はずっと人間の行いでありますから、誤りの可能性をなくすことはできません。

そしてまた、社会全体つまり私たちの名のもとに死刑の評決が下されて、死刑が執行された後、死刑囚は無実であると判明することは起こりえることです。そういうことが起こる時、司法が究極の不正義を行なってしまうという理由で社会全体つまり私たち全員がまとめて有罪になるとき、私はただ司法の絶対的過誤についてだけ申しあげているのではありません。私はまた、同じ被告が最初は死刑判決を下されたが形式上の不備で有罪判決が破棄されて新たに裁かれ、事実認定は同じなのに二度目は死刑をまぬがれるという、下された評決の不確実性と矛盾についても語っております。まるで、司法において、一人の人間の命が裁判所書記のペン先の誤りの偶然にもてあそばれているかのようではありませんか。あるいは、これこれの罪人がほんの少しの罪で処刑されるのに、もっと犯罪性の高いほかの罪人が審問の激情と雰囲気と誰それの逆上を利用して命を救われるということもあるでしょう。

人間の命がかかっているときにこの言葉を口に出して感じる苦悩が何であろうとも、この種の司法的くじ引きは容認できません。フランスの最高司法官であるモーリス・エダロ氏(訳者注:フランスの法曹家に最も尊敬されている法律家で、破棄院主席名誉裁判長)は司法に捧げた長いキャリア全体の期間、ほとんどの活動を検事として行なった人ですが、彼は、死刑の適用ぶりが偶然に左右されるのを見るにつれて死刑が耐えがたいものになったと言っています。何かに完全に責任を負うべき人間は存在せず、どんな司法も絶対的に無過誤にはなれないゆえに、死刑は道徳的に受け入れられないのです。私たちのうちで神を信じる人たちにとっては、私たちが死ぬ時期を選ぶ力は神だけにあるのです。すべての死刑廃止賛成者にとっては、人間の司法がこの死の権限を持つことを認めることはできません。なぜなら、死刑廃止を支持する人々は司法が過ちうるものだと知っているからです。

したがって、みなさんの良心にゆだねられている選択ははっきりしています。一つの選択肢は、人をあやめる司法を私たちの社会が拒んで、基本的な価値観の名のもとに、つまりすべての価値のうちで司法を偉大で尊敬できるものにした価値観の名のもとに、恐怖をもたらす者、つまり心神喪失者あるいは犯罪者、あるいはその両方の命を引き受けることを受け入れることです。つまり、それは死刑廃止という選択です。もう一つの選択肢は、何世紀もの経験にもかかわらず、この社会が犯罪者を抹殺することで犯罪をなくせると信じることです。つまり、それは死刑という選択です。

この排除の司法、つまりこの不安と死の司法が決められるとき、偶然の誤差が伴います。しかし、私たちはこの排除の司法を拒否します。私たちがこれを拒否するのは、それは私たちにとって反司法であるからであり、それは理性と人間性を圧倒する激情であり恐怖であるからです。

これで、この重要な法律の精神と着想の源という重要なことは申しあげ終わりました。レーモン・フォルニが先ほど、方向性を示す方針をそこから引き出してくれました。それは単純で明確です。

死刑廃止は道徳的選択ですから、完全にはっきりと態度を明らかにしなければいけません。したがって、いかなる制限もいかなる留保事項も付けずに死刑廃止を可決するよう政府はみなさんに求めます。おそらく、死刑廃止の範囲を制限し、いろいろな犯罪カテゴリーをそこから除くことをめざす修正案が提出されるでしょう。それらの修正案の着想は理解いたしますが、政府はみなさんにそれを否決するように求めます。

その第一の理由は、「忌まわしい犯罪以外について死刑を廃止する」という条文は、現実には死刑に賛成する宣言しか含まないからです。司法の現実では、忌まわしい犯罪以外では誰も死刑を受けません。したがって、それならばむしろ、文体の便宜を避けて死刑支持を表明するほうがよいのです。(社会党議員席から拍手。)

犠牲の内容、ことに犠牲者の特別な弱さあるいは犠牲者が受けるリスクの大きさにかんがみて死刑廃止を排除する提案についても、私たちは犠牲者に寛容の情を抱くものではありますが、政府はそれを否決することを求めます。

これらの排除案は一つの明白な事実を無視しています。すべての犠牲者、私ははっきりとすべての犠牲者と明言しますが、それは同じ同情を誘うのであり、同じ憐憫の情をよびおこすのです。たぶん、私たち各自には、子どもあるいは老人の死は、30歳の女性や責任を負った熟年男性の死よりも容易に感情をよびおこすでしょう。しかし、人間の現実の中では、死は苦痛を伴うことに変わりはなく、この点についてのいかなる区別も不正義を生むことでありましょう!

警察官あるいは刑務官については、その代表機関が、そのメンバーの命に危害を加える者に対しての死刑の維持を要求しています。彼らを突き動かす心配を政府は完全に理解しておりますが、これらの修正案も否決するようにお願いいたします。

警察勤務者と刑務所勤務者の安全は保証されなければなりません。彼らを確実に保護するためのあらゆる必要な措置をとらなければなりません。しかし、20世紀が終わろうとしているフランスでは、警察官と刑務所看守の安全を守る役割をギロチンにゆだねることはいたしません。彼らを襲うかもしれない犯罪への制裁に関しては、それがどんなに正当であろうとも、私たちの法律の中では、この刑罰はほかの犠牲者に対して犯された罪の犯人に与えられる刑罰よりも重くすることはできません。はっきり申しましょう。何らかの職業または団体の利益になる刑法的特権がフランスの司法に存在してはなりません。警察勤務者と刑務所勤務者はそのことを理解してくれると信じております。私たちは彼らの安全について注意深く取り組みますが、フランス共和国の中で他とちがう団体を決して作るわけにはいかないということを警察、刑務所勤務者のみなさんには理解していただきたいのです。

明瞭さという同じ意図で、この法案はいかなる代替刑に関する条項も含んでおりません。

その理由は、まず道徳的なものです。死刑は体刑であり、体刑を別の体刑で置きかえてはならないからです。

また、政治上の理由、法律上の明瞭さという理由もあります。普通、代替刑は安全期間を対象にします。つまり、受刑者が条件付釈放の措置またはなんらかの形の延期措置を受ける可能性がない、法律に記された猶予期間を対象にします。このような刑罰はすでに私たちの法律の中に存在しており、その継続期間には18年におよぶものもあります。

私がこの点について国民議会に、この安全措置を変更することを目指す議論を始めないようにお願いするのは、2年の猶予期間後に、つまり刑法の法律の導入プロセスからみて比較的短い猶予期間の後に、政府は国民議会に新しい刑法の法案を謹んで提出するからです。その新しい刑法法案は20世紀末、そして21世紀の地平線にあるフランス社会に適した刑法になることを私は望んでおります。この機会に、今日と明日のフランス社会のために刑罰体系のあるべき姿をみなさんが定義し、確立し、吟味するのがよいのではないでしょうか。それが、死刑廃止の原則の議論と代替刑についての議論、というよりもむしろ、死刑廃止の原則の議論と安全措置についての議論とを混ぜないようにお願いする理由です。なぜなら、この議論は時期が悪いと同時に無益でもあるからです。

なぜ時期が悪いのかといえば、調和のとれた刑罰体系を作るためには、全部まとめて考慮し定義しなければならないからです。その目的からして必然的に熱がはいることになる議論を利用してはいけないからです。そんな議論では、部分的な解決に達するだけで終わってしまうでしょう。

無益な議論と申しあげたのは、議員のみなさんが私たちの刑罰体系を定義する前に過ぎるであろう2年後か最大でも3年後に無期禁固労働刑を言い渡されることになる人々に、現存の安全措置が適用されることが明らかだからです。したがって、そのために受刑者の釈放の問題がどんな形ででも発生してはならないからです。立法者のみなさんは、新しい刑法の中に書かれた定義が彼らに適用されることになるということをよくご存知です。それは、より温和になった刑法がすぐにもたらす効果によってであるか、あるいは、もしその刑法がより厳格になるならば、条件付き釈放の制度がすべての終身刑受刑者にとって同じく適用されて私たちがそれらの区別をすることができなくなるゆえかのどちらかであります。したがって、今はこの議論を始めないでいただきたい。

明瞭さと単純さという同じ理由で、私たちは法案の中に戦時に関する条項を入れませんでした。命の軽視や死をもたらす暴力が共通の法になるとき、また、平時の本質的な価値のいくつかが祖国防衛の優越性をあらわすほかの価値に置きかえられるときには、そもそも紛争の間は死刑廃止の根拠が集合意識から消えてしまい、もちろん、その場合は死刑廃止が凍結されることになってしまうということを政府は知っております。

今幸いなことに平和である私たちのフランスでみなさんが死刑廃止をやっと決定するこの瞬間に、戦時の死刑の適用範囲があるとしたらどんな場合かと議論することは場違いだと政府には思われました。しかし、戦争を告げるきざしが何もないのは幸いなことであります。もし仮に試練の時が来るならば、戦時立法が求める多くの特別条項と同時にそれに必要な措置をとるのは政府と立法者の役目です。しかし、死刑を廃止する今この瞬間に戦時立法の様式を決めるのは意味がないでしょう。190年の議論の末にみなさんがやっと死刑廃止を表明し決定するこの瞬間においては筋違いでしょう。

私の論はこれで終わりです。

私がおこなった発言、私が申し立てた理性は、みなさんの心とみなさんの良心が私に対してだけではなくてみなさんに対してもすでに伝えていた事柄です。フランスの司法史におけるこの重要な瞬間に、私は政府の名においてそれらのことを想起していただきたかっただけであります。

私たちの法律においては、すべてがみなさんの意志とみなさんの良心にかかっていると私は知っています。みなさんの多くが、多数派与党内においてだけではなく、少数派野党内においても死刑廃止のために闘ったと私は知っています。議会がその唯一の発議によったならば、私たちの法律を死刑から容易に解放することができたことだろうと私は知っております。みなさんは、政府法案という形で死刑廃止をみなさんの採決にかけることを承諾してくださいました。それによって、政府と私自身をこの大きな(立法)措置に参加させてくださったのです。そのことについてみなさんに感謝させてください。

明日、みなさんのおかげで、フランスの司法はもはや人を殺める司法ではなくなるのです。明日、みなさんのおかげで、夜明け方のフランスの刑務所の黒い天蓋の下で人目をしのんでこっそり執行される、私たちの共通の恥である死刑が無くなるのです。明日、私たちの司法の血塗られたページがめくられるのです。

この瞬間、ほかのどんな瞬間にもまして、私は古来の意味において、最も高貴な意味において、つまり、「奉仕」という意味において、私の大臣職の責任を全うしたという気持ちです。明日はみなさんに死刑廃止を可決していただくようお願いします。フランス立法府のみなさん、ご清聴に心から感謝いたします。(社会党議員席と共産党議員席、一部の共和国連合議員席とフランス民主連合議員席から拍手。社会党議員と一部の共産党議員は立ち上がり、長く拍手。)


出典:フランス官報 国民議会審議録 1981年9月17日(木)、第一会議

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[3519]【参考資料】韓国議会死刑廃止...
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 とほほ E-MAIL  - 06/10/25(水) 13:28 -

引用なし
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   2005年に韓国議会で提出された死刑廃止に関する特別法案を友人の方が翻訳してくれましたので、これも参考資料として許可を受けて掲載しておきます。尚、あくまで仮訳なので正確な訳文の必要な方は本文を確認してください、とのことです。

この法案は存置論廃止論の両論併記の上に死刑廃止にむけた終身刑の是非についてまで言及されており論点が非常にわかりやすくなっていると思います。ロベール・バダンテール演説同様大変参考になると思います。

以下、薫のハムニダ日記ハムニダ薫訳、死刑廃止に関する特別法案(ユ・インテ議員代表発議)検討報告

死刑廃止に関する特別法案
(ユ・インテ議員代表発議)
検討報告

2005. 2

法制司法委員会
主席専門委員 キム・ジョンドゥ

 この本案は2004年12月9日にユ・インテ議員等175人から発議され、2004年12月10日に当委員会に回付された。

1. 提案理由

 わが国の憲法第10条は「人間としての尊厳と価値」を明らかに宣言しており、このような人間としての尊厳と価値は生命権を前提としている。 また、人間の生命は人間実存の根拠であるため、絶対的な価値を持っており、したがって他の目的のための手段になってもならず、他の価値との比較対象になってもならない。

 それにもかかわらず国家が犯罪予防と鎮圧の手段として死刑制度を維持することは、国家社会の構成員である人間としての尊厳と価値を毀損するだけでなく、人間の存在自体を根本的に否定する結果になる。 また、国家が生命の絶対的価値を前提として殺人行為を犯罪としていながら、一方では犯人の生命を剥奪することは、それ自体が矛盾である。

 今日、刑罰の目的が犯罪人の改善と更正によって社会復帰を図ることだとすれば、死刑はこのような目的にまったく符合しない刑罰であるばかりでなく、たとえ刑罰の目的が応報と犯罪の予防だとしても生命を剥奪する刑罰である死刑はこのような目的達成に必要な程度を超えたものであり、目的の正当性、その手段としての適正性、被害の最少性、法益の均衡性などの諸原則に反する「残酷で非人道的な刑罰」との非難を免れることはできない。

 また、死刑が犯罪者に対する一般予防的効果もないということは、今までの行刑経験や今日の犯罪的状況が鮮明にしており、世界的な趨勢も死刑制度自体を廃止する傾向にある。

 従って、このような反人権的で非人道的な刑罰だといえる死刑を廃止することで国民の人権を保護・尊重する刑罰体型を樹立し、人権伸張国家として生まれ変わろうとしているのだ。

2. 主要内容

イ. 刑法以外の法律で規定されている刑罰のうち、死刑を廃止してこれを終身刑に代替する(案第2条)。
ロ. この法で“終身刑”とは、死亡まで刑務所内に拘置し、仮釈放できない終身懲役と終身禁固をいう(案第3条)。

3. 検討報告

 この法案は刑法とそれに関連する法律で刑罰の一つとして規定されている死刑を全面廃止すると同時に、死刑を仮釈放が不可能な終身刑に代替することで特別法の立法形式をとっている。

イ. 死刑廃止に関する賛否両論

 (1) 死刑廃止賛成論

一、死刑制度は非人道的で違憲的だという理由

 死刑廃止論は死刑は人の生命を剥奪する制度として非人道的であり、野蛮で残酷な刑罰だという点を出発点としている。

 また、生命権について明示的な憲法規定はないが、人間の尊厳と価値に関する憲法第10条、身体の自由に関する憲法第12条第1項、そして憲法に列記されていない権利までも軽視してはならないという憲法第37条第1項に基づき、生命権は憲法上の基本権として見なすことができ、性質上、制限が不可能な絶対的基本権としなければならないと主張する。

 生命権を相対的基本権として扱い、憲法第37条第2項により制限が可能だとしても、死刑は生命権の本質的内容を侵害するものであるため、違憲であると見なさなければならない。

二、死刑制度は刑罰の目的と矛盾しているという理由

 一般的に刑罰の目的については犯罪人に対する応報だという応報刑主義、一般人の威嚇による犯罪予防だという一般予防主義、そして犯罪人の社会隔離、教育などによる社会復帰という特別予防主義の“結合”と理解している。

 死刑廃止論は死刑は犯罪人の社会復帰という特別予防主義と矛盾している制度であり、死刑が被害者に一時的・応報的満足感を与えることができるが、その遺族の苦痛を緩和したり、実質的補償はもたらしえないため、刑罰の目的とも一致しない面があると主張する。

 また、死刑を宣告された凶悪犯罪のほとんどは瞬間的な興奮による場合が多いため、刑罰の予告によって犯罪を抑制する“威嚇”を事実上期待することはできない。 その例として、死刑廃止国と死刑存置国間、あるいは死刑廃止国の死刑廃止前後の時期を基準に殺人事件の発生率を比べると、死刑廃止と殺人事件の発生率に連関性を見出すことはできない。

三、冤罪による死刑宣告は回復不可能であるという理由

 すべての裁判は冤罪の危険性があるが、死刑が執行された場合は自由刑の場合とは違って、回復が不可能であることから、無辜の人に過酷な結果をもたらしかねない。

 (2) 死刑廃止反対論

一、死刑制度は合法だという理由

 憲法上に羅列されていない基本権である生命権は、相対的基本権として憲法37条第2項による基本権の制限が可能だとする。 ただし、死刑が他人の尊い命を剥奪する結果をもたらすという点から他人の命を否定する不法行為であるとか、それに準ずる公共の利益を侵害する犯罪などに限って死刑を刑罰として規定しているため、憲法的な基本的制限にならないとする。

 また、憲法第110条第4項は非常戒厳下の軍事裁判と関連し、“死刑宣告”を明示していることから、我が国の憲法は死刑を間接的に認めていると見なければならない。

二、死刑の存置が刑罰の目的と符合するという理由

 凶悪な犯罪で他人の生命を否定するものに対しては死刑を宣告することが正当な応報であり、一般国民の正義観念と一致するものとする。

 また、犯罪者の更生および社会復帰という刑罰目的は、究極的に社会防衛のためのものであり、更生が不可能な犯罪者に対しては永久に社会から隔離することがむしろ刑罰目的に符合するものとする。

 そして人間は本能的に生命に対する愛着を持っていることから、死刑を刑罰の種類として例示すること自体が犯罪に対する相当な抑止力を持っていると言える。

三、死刑制度廃止は国民の法感情に反するという理由

 動機のない凶悪犯などが現れている状況で、死刑制度の廃止は一般国民の法感情や道徳観念に反するものである。

 死刑廃止が理想論としては望ましいと言えるが、数世紀もの間、死刑は伝統的な刑罰として運用されてきており、多数の国民の法感情が死刑廃止に反対している状況で、死刑廃止はまだ時期尚早だと主張する。

 各国の事情や時代の変化によって刑罰の種類を含む刑事政策は変わりうるが、重要な政策決定を担当する立法者はすべからく国民の法感情を重要な一つの尺度としなければならない。

 (3) 検討意見

 死刑廃止に関する議論は第15代国会で1999年12月7日にユ・ジェゴン議員が代表発議した「死刑廃止特別法案」、第16代国会で2001年10月30日にチョン・デチョル議員が代表発議した「死刑廃止に関する特別法案」の例のように第15代および第16代国会でも続き、関心事となった問題である。

 しかし、刑罰から死刑を廃止する問題は憲法および17におよぶ関連法にある重要な刑事政策事案である。 単純に生命剥奪という人間の尊厳性の側面を強調するよりは、死刑の実質的威嚇効果、被害者の保護方法、代替刑との関係などを論理的に鑑み、慎重に接近しなければならない事案だと言える。

 死刑廃止に対する外国の趨勢も考慮できるが、各国固有の歴史的・宗教的背景および時代状況とかみ合った政策的問題であることから、世論収斂などの手続きを経てわが国の実情に合った政策決定の導出に重点を置かなければならないと判断される。

ロ. わが国の死刑関連状況

〈最近10年間の死刑執行状況〉
〈死刑未執行者の状況:刑確定年度基準〉
※政権樹立以降42人減刑(98年2人、99年は5人、00年は2人、02年は4人を減刑した)
〈死刑未執行者の犯罪類型〉

ハ. 外国の死刑制度の現況

 (1) 一般現況

 全般的に死刑廃止国は増加趨勢だと言える。 死刑廃止国は80カ国、事実上の死刑廃止国は38カ国、死刑存置国は78カ国で、1999年(廃止、事実上の廃止: 100カ国、死刑存置国: 90カ国)に比べ死刑廃止国の数が増加した。

 (2) 大陸別死刑制度の現況

○アジア地域
 イスラムまたは儒教などの宗教的影響と社会主義などの政治制度の影響により、死刑存置国が多数。
存置国は17カ国、廃止国は5カ国(カンボジア、香港、ネパール、東ティモール、ブータン)、事実上の廃止国は3カ国(スリランカ、ブルネイ、モルディブ)

○ヨーロッパ
 現在CIS5カ国(ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ベラルーシ)以外のすべての国が死刑制度を廃止。
廃止国は48カ国、事実上の廃止国は1カ国(ロシア)、存置国は5カ国。

○アフリカ
 死刑存置国は28カ国、死刑廃止国は25カ国。

○北米
 アメリカは連邦制の下、死刑を法定刑として規定している状態で死刑存置週は38州、死刑廃止州は13州であり、カナダは死刑廃止国に該当する。

 死刑廃止州は大部分が人口500万規模の中小規模の州に当たり、増加するテロ犯罪などに対応するためにクリントン政権の頃、60の犯罪に対して死刑制度を導入した。

○中南米
 カトリックの影響で死刑廃止国が多数。
廃止国、事実上の廃止国13カ国、通常犯罪の廃止国7カ国、存置国13カ国。

○オセアニア
 14カ国すべてが死刑を廃止。

ニ. 死刑廃止による代替刑導入問題

 この法案は死刑を廃止する代わりに死亡時まで仮釈放が禁じられた終身刑(終身懲役刑と終身禁固刑)を導入することを提案している。

 1999年にユ・ジェゴン議員が代表発議した法案には代替刑に関する条文がなく、2001年にチョン・デチョル議員が代表発議した法案には代替刑を導入しない代わりに裁判所が無期懲役または無期禁固を宣告した場合に犯罪の種類や罪質、情状などを酌量し、選択的に15年が経過するまでは仮釈放や赦免などを禁止する趣旨の宣告を共にすることができるようにする法案を選択していた。

 したがって死刑を廃止する場合には代替刑の導入是非およびその種類に関する議論が必要だと考える。

 代替刑導入に関する議論は単純に死刑だけを廃止し、無期刑を法定最高刑とする場合に死刑廃止に対する国民の賛成世論を導くのは難しいという点とも密接に関連している。

 無期刑は辞書的な意味では命が尽きるまで受刑者の身分を維持する刑の種類であるが、10年服役した後には他の有期懲役の仮釈放と用件の差別なく仮釈放が可能であり(刑法第72条第1項)、赦免法によって赦免や減刑も可能であるため、反人倫的犯罪に対する刑事責任に相応な刑罰になりえないと多くの国民が感じているためである。

 死刑廃止による代替刑として頻繁に議論されている刑罰は終身刑である。

 終身刑は仮釈放や赦免などが不可能で、死亡時まで受刑者の身分を維持するようにする“絶対的終身刑”と厳格な要件の下で仮釈放が可能な“相対的終身刑”に区分することができる。

 ドイツ、イギリスやアメリカの14州は相対的終身刑を、アメリカの33州の場合は絶対的終身刑を採択している。

 死刑存置国から死刑廃止国に転換する国の場合、一旦は絶対的終身刑を採択する傾向が強い。 死刑廃止とそれによる国民的不安感などを緩衝するための折衷的考慮だと言える。

 しかし、“絶対的終身刑”も人間の尊厳性との相反、社会復帰を目的とした刑罰の特別予防思想との矛盾などを理由とした違憲性の是非から自由になれない刑罰の種類である。

 ドイツの場合、1949年の死刑廃止当時には絶対的終身刑をとったが、1981年に相対的終身刑に転換し、15年の刑を執行した後に厳格な要件下に保護観察付きの仮釈放を許容している状態である。
 
 1978年、ドイツ憲法裁判所は終身刑の執行方法と関連し、「終身刑の宣告を受けた者も根本的に自由を得られなければならないことから、終身刑の執行を中止できる前提条件の下で終身刑を法で規定することが法治国家の任務」であると宣言し、これを法律に吸収した結果である。

 したがって絶対的終身刑を死刑廃止の代替刑として採択したとしても究極的には刑法の無期刑とその法的性質を同じくする相対的終身刑に変更する可能性が高いということを勘案し、代替刑の導入問題を検討する必要がある。

ホ. 意見

 今までに発議された死刑廃止法案の内容を見ると、第15代国会の法案には代替刑に関する言及がなく、第16代国会の法案では「最小限15年までは仮釈放や赦免などを禁止する無期刑」を採択して相対的終身刑を導入しようとしていた。この法案では「絶対的終身刑」を代替刑として選択することでその内容が整備され、議論の対象を具体化させているとわかる。

 したがって、新しい代案まで提出された状況で、今まで明らかになった様々な立場を中心にしてその受容可否を議論する時点に至ったと判断される。 しかし、最近発生したユ・ヨンチョル連続殺人事件や新生児誘拐を目的とした20代主婦誘拐殺人事件など、反人倫的犯罪が社会問題になっており、また対外的にはテロ犯罪に対する緊張が醸成されているという周辺条件が、法案受容をさえぎる変数として作用すると見られる。

91 hits

[3539]Re(5):私の死刑廃止論
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 熊猫 E-MAIL  - 06/10/25(水) 23:17 -

引用なし
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   今もイスラム法というのがあります。
 盗みをすれば手首を切る、信号無視は3日間拘留、勿論殺人は公開処刑による死刑だそうです。
 殺人事件の発生率は非常に低いのが特徴です。サウジアラビアとクエートの発生率を調べていて気がつきました。
 死刑廃止国で殺人事件が少ないとされているのは、カナダ・イギリス・ドイツくらいでしょうか、それにしても非常に高い犯罪率です。
96 hits

[3540]Re(6):私の死刑廃止論
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 タラリ E-MAIL  - 06/10/25(水) 23:54 -

引用なし
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   ▼熊猫さん:
>今もイスラム法というのがあります。
> 盗みをすれば手首を切る、信号無視は3日間拘留、勿論殺人は公開処刑による死刑だそうです。
> 殺人事件の発生率は非常に低いのが特徴です。サウジアラビアとクエートの発生率を調べていて気がつきました。
> 死刑廃止国で殺人事件が少ないとされているのは、カナダ・イギリス・ドイツくらいでしょうか、それにしても非常に高い犯罪率です。

厳密にいうと死刑廃止にして、殺人が増えるか、減るか、変わらないかは国と国の比較では困難でしょうね。国情などの違いを考えに入れなければなりませんから。死刑廃止前後の統計を数カ国検討しなければわからないでしょう。

とりあえずapemanさんのブログを紹介しておきます。
http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1534355107/E20060626224745/index.html

まあ、それよりも私にとっては人の命というのはかけがえのないもので、それは殺人犯の命でも同じことです。死刑制度を存置するということは国家による殺人を認めるということであり、その殺人も殺人の統計に入れるべきだという立場です。

近頃、犯罪被害者遺族が「死刑を望む」と語ることが、テレビで競うようにして流しているが、この種の報道がはびこる風潮こそゆゆしき問題である。
92 hits
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