|
刑法学の大家で、最高裁判事も務めた団藤重光氏の『死刑廃止論』(有斐閣)からの引用です。
死刑廃止論の理由づけにはいろいろの論点があります。しかし、他の論点については賛否が論者の立場によって岐れてきますが、誤判の問題だけは、違います。少々の誤判があっても構わないという人はいても、誤判の可能性そのものを否定することは誰にもできないはずです。その意味で誤判の問題は死刑廃止論にとってもっとも決定的な論点だとおもうのです。 (中略)
誤判の問題は何も死刑事件に限りません。死刑以外の、どんな事件についてもあることです。そうして、どんな事件についても、誤判はあってはならないことです。ですから、死刑問題を議論するのに、誤判の問題は別にして考えるべきだという意見が、
有力な学説の中にもあるくらいです。例えば、懲役刑などにしても、長いこと刑務所に入って、後で無実だということがわかって出されても、失われた時間、失われた青春は再び戻って来ないという意味では、これもたしかに取り返しがつかないものです。しかし、そういう利益はいくら重要な、しかも人格的(その意味で主体的)な利益であろうとも人間が自分の持ち物として持っている利益ですが、これに対して、生命はすべての利益の帰属する主体であるところの人間そのものです。死刑は、すべての元にあるその生命そのものを奪うのですから、同じ取り返しがつかないと言っても、本質的にまったく違うのであります。その区別がわからない人は、主体的な人間としてのセンスを持ち合わせない人だというほかありません。そういう人には、無実で処刑される人の気持ちがどんなものであるか、身につまされてはわからないでしょう。そういう人は、無実の人を処刑することがいかにひどい不正義であり、どんあことがあろうとも絶対に許されるべきでない不正義であるかということを、身をもって感得することができないのでしょう。死刑事件における誤判の問題は、決して単なる理屈の議論ではないのであります。(第四版、p96-98)
刑事訴訟法(三一七条・三一八条)の規定によれば、「事実の認定は証拠による」のですが、「証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる」ということになっています。法廷に出された適法な証拠の全体を前提として、裁判官として自由な心証によって認定をすることになります。では有罪の認定にはどの程度の心証が必要かといいますと、それは、結局、「合理的な疑いを超える心証」です。つまり、常識のある人が合理的に考えて、これだけの証拠関係のもとでは、この事実を認めても間違いがないと思うような場合ならば、有罪判決になるわけです。ところが、事件の証拠関係は今までいろいろ申して来ましたように、実に複雑で微妙なもので、それを裁判官の自由心証によって判断するのですから、訴訟における真実ははじめから絶対的な真実というようなものではないのです。 しかも、「合理的な疑い」は超えていても、それでは絶対に間違いがないかと言えば、そうは言えないのです。私じしんの経験でも、前に第I部でお話ししたように、なるほど記録からは「合理的な疑いを超える心証」がとれないとは言えないが(上告審では「事実誤認」が認められるときにかぎって原判決を破棄するのですから、こういう消極面から見ることになります)、それでは、神の目からみても間違いないのだろうか、絶対に一抹の不安もないのかと言われれば、そうは言い切れないということがありました。これでは原判決を事実誤認で破るわけには行かないのです。これは、死刑以外の事件ならば割り切って考えるほかないのですが、死刑事件でしたから、私は深刻な苦悩を味わったのでした。私は、これは誤判の苦悩というよりは死刑制度そのものの苦悩にほかならないと思うのです。(第四版、p117-118)
学者によっては、誤判は死刑に限ったことではないのだから、死刑存廃の議論には、誤判の問題は括弧に入れて、およそ「人を殺した者」に対して死刑を科する道を残しておくべきかどうか、という純粋な形で問いと答えを出さなければ、議論に夾雑物がはいって来るという意見の人がいます。これは制度ということを忘れた議論だと思います。哲学の議論ならこれでいいかも知れませんが、法律の議論としては、これでは通らないのです。(第四版、p6-7)
| |