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[3390]ラーベの日記などブログ ピッポ 06/10/13(金) 13:17
[3441]Re(1):ラーベの日記 10月13日 熊猫 06/10/20(金) 18:27
[3442]Re(2):ラーベの日記 10月13日 ピッポ 06/10/20(金) 21:10
[3454]Re(3):ラーベの日記 9月21日 熊猫 06/10/21(土) 13:11
[3510]Re(4):ラーベの日記 9月21日 ピッポ 06/10/25(水) 10:19
[3535]Re(4):ラーベの日記 9月21日 渡辺 06/10/25(水) 18:36
[3542]Re(5):ラーベの日記 9月21日 ピッポ 06/10/26(木) 0:12
[3505]Re(3):ラーベの日記 10月13日 とほほ 06/10/25(水) 9:33
[3508]Re(4):ラーベの日記 10月13日 ピッポ 06/10/25(水) 10:15
[3512]Re(3):ラーベの日記 10月13日 ピッポ 06/10/25(水) 10:52
[3549]「拉貝日記」 ピッポ 06/10/26(木) 17:13
[3550]Re(1):「拉貝日記」 ピッポ 06/10/27(金) 2:51
[3551]Re(2):「拉貝日記」 熊猫 06/10/27(金) 10:22
[3552]“蔡”か“曹”か ピッポ 06/10/28(土) 8:56
[3610]Re(1):11月23日分ヴォルフ・シェンケの手記 ピッポ 06/11/23(木) 11:02
[3613]11月27日分、ローゼンの経歴 ピッポ 06/11/28(火) 19:31
[3636]Re(1):中文ラーベの日記には12月14日の項あり ピッポ 06/12/8(金) 14:05
[3663]Re(2):中文ラーベの日記には12月14日の項あり ピッポ 06/12/13(水) 17:09
[3702]Re(3):12月13日の外国人の行動 ピッポ 06/12/21(木) 19:17
[3674]Re怪人関口大尉 ピッポ 06/12/15(金) 11:02
[3753]Re(1):労働班に組み入れたいだけだ ピッポ 06/12/28(木) 0:27
[3854]Re(1):「ささやかな暴動」で「死刑」??? ピッポ 07/1/9(火) 10:33
[3865]Re(1):写真のソースは? ピッポ 07/1/12(金) 11:19
[3868]Re(2):写真のソースは? 熊猫 07/1/13(土) 16:51
[3874]Re(3):写真のソースは? ピッポ 07/1/14(日) 11:29
[3879]Re(4):写真のソースは? 熊猫 07/1/14(日) 21:42
[3880]Re(5):写真のソースは? ピッポ 07/1/14(日) 22:19
[3866]Re(1):国際本部家宅捜索、フィッチの言及は? ピッポ 07/1/12(金) 16:23

[3390]ラーベの日記などブログ
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 ピッポ E-MAIL  - 06/10/13(金) 13:17 -

引用なし
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   ラーベの日記など基本文献を、実際の日付とともに引用進行するブログを始めました。誤訳などのご指摘を「つっこみ欄」でしてくだされば幸甚です。

http://latemhk.tdiary.net/
54 hits

[3441]Re(1):ラーベの日記 10月1...
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 熊猫 E-MAIL  - 06/10/20(金) 18:27 -

引用なし
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上海から派遣されたジーメンスのエンジニア、リーべが腹の具合が悪いといって帰ってきた。下痢だ。
10月13日の日記は続きがあります。

(中国語版では「下痢だ。」とは訳してません。)コレラではないことをひたすら願う。【以下省略された箇所】神の加護を!神の加護を!神の加護を!

 新聞各社の報道は中国機が塘沽の日本人倉庫を空爆したニュースと、依然としてアドルフ・ヒトラーが中国からドイツ顧問を召還した一件を、ベルリンの方は少しも知らない。しかも記事によれば、ドイツ軍官は全員が私人であり、身の振り方は自分で決定してよいことになっている。ロイター通信のローマの報道によれば、イタリア政府は中国から空軍顧問を撤回した報道を否定した。


 英語版は手許にありませんので解りませんが、日本語版は随分と省略されています。またその省略は日本独特の基準があったのか、訳者の意図なのかは解りません。


59 hits

[3442]Re(2):ラーベの日記 10月1...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/10/20(金) 21:10 -

引用なし
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   ▼熊猫さん:
さっそくのご指摘ありがとう御座います。

上海から派遣されたジーメンスのエンジニア、リーべが腹の具合が悪いといって帰ってきた。下痢だ。
10月13日の日記は続きがあります。

すると後半は、こういうことですか?
確認ねがいます。


上海から派遣されたジーメンスのエンジニア、リーべが腹の具合が悪いといって帰ってきた。コレラではないことをひたすら願う。神の加護を!神の加護を!神の加護を!

新聞各社の報道は中国機が塘沽の日本人倉庫を空爆したニュースと、依然としてアドルフ・ヒトラーが中国からドイツ顧問を召還した一件を、ベルリンの方は少しも知らない。しかも記事によれば、ドイツ軍官は全員が私人であり、身の振り方は自分で決定してよいことになっている。ロイター通信のローマの報道によれば、イタリア政府は中国から空軍顧問を撤回した報道を否定した。
(ここで、10月13日の日記がおわる)


ということですか?
こんなに意味を変えたり、削除してしまっては「第1級資料」を貶める訳書だと疑われてもしかたありませんね。

> 英語版は手許にありませんので解りませんが、日本語版は随分と省略されています。またその省略は日本独特の基準があったのか、訳者の意図なのかは解りません。

やはり、講談社版「ラーベの日記」は、ある程度公開しなくては、その是正に至りませんね。わたしは、熊猫さんが中国語版との異同をお確かめになる間、しばらくここをOpenにしておくことにします。
◆15年戦争資料庫>「ラーベの日記」index
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/176.html
(今は、9月10月分と、12月の一部だけのテキスト化)
(只今サーバーが少し以上でアクセスが18:00〜23:00まで時間帯は遅いです)
◆1937年秋冬コレクション
http://latemhk.tdiary.net/
64 hits

[3454]Re(3):ラーベの日記 9月21...
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 熊猫 E-MAIL  - 06/10/21(土) 13:11 -

引用なし
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    はい、その通りです。私の翻訳はドイツ語から中国語そして日本語の二重翻訳ですので、資料価値としては高くはありませんが、少なくとも翻訳されていない箇所は解ります。
 随分と意味が違う箇所があるのが気になるところですが、原文を見ないことにはコメントのしようがありません。
 「中国語版は、こう書かれているんだ。」程度の解釈をしていただければよいかと思います。
 9月21日の日記を比較してみます。随分と省略された記述があり、誤訳と言うよりは違う文章と言ったほうが早いかもしれません。
 私はついに肚を決めた。そして留守に使用人たちが掘った陥没寸前の汚い防空壕を作り直し、頑丈なものにした。
 そこへわが家の薬箱をそっくり持ちこんだ。とっくに閉校になった学校からも運んできた。毒ガスにそなえて、酢にひたしたマスクも用意するつもりだ。飲食物は篭と魔法瓶につめた。
 本来なら、この後の省略された部分のみを提示するところですが、同じ箇所の翻訳が随分と違っています。誤訳を指摘するためではありませんので、丁寧に訳してはいませんが明らかに違う文章になっていることが判ると思います。
そこで、私たちは汚い防空壕の整理に行い、新しく配置しなおした:堅固な梁木を加え、床板を敷き、砂袋を積み上げた(今日は空袋1つの値段が1元だった)、もちろん右側に入り口と出口がある。私達は梁木の1本が折れてる危険を発見した時も、私達は落胆することなく、骨折りながらもやはり別の1本と交換した。わずか一晩でこの中の直ぐに3分の2が終わってしまった。
 爆弾の爆発による爆風に対処するため、私達はまだ2つの入り口の穴に砂袋を積み始めた。私は全ての家庭用薬品とすでにこの期間に閉鎖している学校の全ての薬品を防空壕の中に運び入れた。そして毒ガスにそなえて酢をしみこませた包帯を準備した。
 午前11時から、事前に篭と魔法瓶の中に食品と飲み物を準備して置いてるのだが、しかし今はもう午後3時30分だ、日本野郎共はまだ空に姿を現していない。全く信用できない連中だ!既に彼らは厳しい警告を出してるのに、来ないのはどういうことだろう?きっと彼らは私が堅固な防空壕を掘るところを見たので、来ることが出来ないんだろう。
 私はラジオニュースからこの情報を得た:「上海は雨である!」
 これが日本人が来ない原因か?これが好いのではないか?私は何故、気をもんでいるのか!むしろ私の面子なんかどうでもよいし、日本人に来て欲しくない。さすがに一回の出来事で把握することは出来ない。
 中国語の『拉貝日記』には日本鬼子(日本野郎と訳しました)と書かれていますが、ドイツ語版では如何なる表現だったのか気になるところです。
67 hits

[3505]Re(3):ラーベの日記 10月1...
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 とほほ E-MAIL  - 06/10/25(水) 9:33 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>ということですか?
>こんなに意味を変えたり、削除してしまっては「第1級資料」を貶める訳書だと疑われてもしかたありませんね。

えっと、私も以前に「南京の真実」を大分電子化してますので参考までにリンクをおいておきます、
十月十三日
 薄曇り。不穏な日だ。だがこのあたりは無事だった。八時に空襲警報。だが、十五分後に解除された。警報のたびに男も女も子どももみな、貧しい人たちが大ぜいわが家のそばを駆け抜け、五台山へと逃げていく。かなり大きな空爆があるのだ。これだけでもひさんきわまりないというのに、小さい子どもを抱えた母親たちのおびえようといったら!見ていられない。きょうはそういう人たちが四回もここを通り過ぎていった。

 防空壕をまた広げよう。ドイツ語の話せる沈(セン)さんと馮(フォン)さんが、わが家の近くの支局に転勤してきた。空襲警報が鳴ると二人ともここへ避難してくる。いつも郵便物を配達してくれる二人も常連だ。そのうち泊めてくれといってくるだろうが、場所があるだろうか。私自身はここのところまったく防空壕に出入りしていない。上海から派遣されたジーメンスのエンジニア、リーベが腹の具合が悪いといって帰ってきた。下痢だ。

http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=1215;id=sikousakugo#1215 より

69 hits

[3508]Re(4):ラーベの日記 10月1...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/10/25(水) 10:15 -

引用なし
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   ▼とほほさん:
>えっと、私も以前に「南京の真実」を大分電子化してますので参考までにリンクをおいておきます、

ありがとう御座いました。忘れてました。すぐ忘れてしまいます。
(;^_^A アセアセ・・・

でも、
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1019;id=sikousakugo#atop
こちらは、これからOCRしようとしたところなので助かります。
じゃんじゃん利用、転載させていただきます。
92 hits

[3510]Re(4):ラーベの日記 9月21...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/10/25(水) 10:19 -

引用なし
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   ▼熊猫さん:
> 9月21日の日記を比較してみます。随分と省略された記述があり、誤訳と言うよりは違う文章と言ったほうが早いかもしれません。

ほんとうですね。ひとこと「訳者要約」とエクスキューズすれば済むものを!
さっそく、熊猫さんのご指摘をここに反映させておきます。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/195.html

ありがとうございました。
94 hits

[3512]Re(3):ラーベの日記 10月1...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/10/25(水) 10:52 -

引用なし
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   熊猫さん、
ありがとうございました。

ご指摘を反映しておきました。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/204.html
86 hits

[3535]Re(4):ラーベの日記 9月21...
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 渡辺  - 06/10/25(水) 18:36 -

引用なし
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   熊猫さん:
> 9月21日の日記を比較してみます。随分と省略された記述があり、誤訳と言うよりは違う文章と言ったほうが早いかもしれません。

> 午前11時から、事前に篭と魔法瓶の中に食品と飲み物を準備して置いてるのだが、

ドイツ語原書(pp.30-31)と英訳(p.6)に「午前11時から」の部分以降は掲載されていません。
翻訳は、原書が刊行される前に出版されたので、あちこち違いが生じています。
なお、中文訳のマギーのフィルムリストに写真が掲載されていますが、これはラーベ所蔵のリストに添付されていることが、中国で刊行されている写真集から分かりました。
このあたりのことについて全く説明がなく、独原書においても粗雑な取り扱いで困ります。

>中国語の『拉貝日記』には日本鬼子(日本野郎と訳しました)と書かれていますが、ドイツ語版では如何なる表現だったのか気になるところです。

ということで、不明ですが、類似の個所はあります。
日本語でいうと「西洋の悪魔」「日本の悪霊」とありますので、「西洋鬼」「東洋鬼」からきたものでしょう。もちろん、冗談で使っているわけです。
ちなみに、中国でいう「鬼」は、日本の「オニ」とはちょっとちがうものであることはご存知かと思います。
76 hits

[3542]Re(5):ラーベの日記 9月21...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/10/26(木) 0:12 -

引用なし
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   ▼渡辺さん:
>> 午前11時から、事前に篭と魔法瓶の中に食品と飲み物を準備して置いてるのだが、

>ドイツ語原書(pp.30-31)と英訳(p.6)に「午前11時から」の部分以降は掲載されていません。
>翻訳は、原書が刊行される前に出版されたので、あちこち違いが生じています。
>なお、中文訳のマギーのフィルムリストに写真が掲載されていますが、これはラーベ所蔵のリストに添付されていることが、中国で刊行されている写真集から分かりました。
>このあたりのことについて全く説明がなく、独原書においても粗雑な取り扱いで困ります。

平野響子氏の訳者あとがきには

資料を含めると膨大なこの日記は、ラーベを直接に知っており、第二次大戦中、外務省の広報官として日本と中国で勤務していたヴィッケルト氏というまたとない編者を得ることで、理想的な形を与えられた。編纂作業と翻訳は同時に進行し、ラーベの南京日記と上申書は全訳、編者の解説と資料は抄訳となっている。

編纂作業と翻訳は同時に進行とありますから、必ずしもヴィッケルト編独語版が底本というわけではなかったのですね。

ヴィッケルトによる前書きには、

帰国後、ラーべは日記を清書し、資料とあわせて八百ぺージからなる二巻本にまとめ、『南京爆撃』と名づけた。本書はこの『南京爆撃』から、最も重要と思われる部分を抜粋したものである。なお、はじめの日記からも二、三ヵ所引用してある。

とありますから、編纂作業と『南京爆撃』からの翻訳作業とが併行して行なわれた。

さらに、訳者あとがきには、

本書は、ドイツはもちろん、中国、アメリカでもほぼ同時期に出版される。江蘇省新聞出版局、江蘇人民出版杜からは中国版をお送りいただき、参考にさせていただいた。

とありますから、中国語版の作業が少なくとも日本語版よりも先行していた、ということですね。

すなわち
ラーベ自身が、資料とあわせて八百ぺージからなる二巻本にまとめ、『南京爆撃』と名づけた。これの完訳があれば、歴史の一次資料としてはいちばん望ましいということになのかも知れませんね。


熊猫さん

日本語版と中国語版では、取り上げた日記の月日は同じなのでしょうか?文章だけでなく、月日の選択にも違いがあるのでしょうか?
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/176.html を参照の上、比較してくだされば幸いです。
80 hits

[3549]「拉貝日記」
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 ピッポ E-MAIL  - 06/10/26(木) 17:13 -

引用なし
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   けさ,ある人より情報あり。

WEB上に中国語版「拉貝日記」
http://www.bjpeu.edu.cn/~pengs/novel/story/novel/labei/labei.html

熊猫様、渡辺様、
鑑定をお願いします。

私は、10月25日,26日の項を比較してビックリしました。

日文10月25日中文10月25日
日文10月26日中文10月26日

中国語版の底本は、ヴィッケルト版ではなく、ラーベ本人版『南京爆撃』ではないかと。(あるいは、ヴィッケルトが二様を編纂)
74 hits

[3550]Re(1):「拉貝日記」
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 ピッポ E-MAIL  - 06/10/27(金) 2:51 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>中国語版の底本は、ヴィッケルト版ではなく、ラーベ本人版『南京爆撃』ではないかと。

出版説明によれば、そうかもしれません。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/279.html
熊猫さん、中国語、助けてください。

ヴィッケルト版は、ラーベ本人版『南京爆撃』から編纂したものだそうです。

それがどのようにして起こったか、ラーべは克明に日記に記し、大使館への手紙、新聞記事、手紙、写真などを挿入した。その結果、これは二千五百ぺージにものぼる膨大なものとなった。
帰国後、ラーべは日記を清書し、資料とあわせて八百ぺージからなる二巻本にまとめ、『南京爆撃』と名づけた。本書はこの『南京爆撃』から、最も重要と思われる部分を抜粋したものである。

(『南京の真実』>「ラーべの日記とその時代」エルヴィン・ヴィッケルト より)

72 hits

[3551]Re(2):「拉貝日記」
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 熊猫 E-MAIL  - 06/10/27(金) 10:22 -

引用なし
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    それはあくまでも推論です。私は英語版にも『南京の真実』に書かれていない箇所が記述されていると聞いています。英語版と中国語版の内容を比較する必要があると思います。日本語版が省略されているのは間違いありませんね。
 私自身は、ラーベの日記は中国語版から先に読んでいましたので日本語版の翻訳者か中国語版の翻訳者のどちらかは随分と誤訳が多いなあと思っている程度でした。マギーやウイルソンの日記、大田寿男供述書も中国語で読みました。私が南京事件と係わったのは、「中国語の本がほしい!」と言うと妻がどこからともなく入手したのがきっかけです。妻としては南京事件ではなくタダで知人から貰えたという理由からのようです(^^;

 翻訳はどうしてもその国の言語では翻訳できない言葉というものがあります(クマさんの問答有用でもありましたが、「鍋巴」なども辞書には適切な訳が書かれていません)。このような言葉があった場合には、二重翻訳だと随分と意味が変わるということに留意しなくてはいけません。

 「省略されたラーベの日記」としてアップしようと何度も思ったのですが、上記理由と試行錯誤のメンバーは英語・ドイツ語のラーベの日記を読んでいる豪傑がいますので意味がないと思っていました。
 史料価値としては疑問がありますが、日別にアップしましょうかね。

ラーベの日記の価値
 「書かれていることは伝聞である」などと惚けた事を言う人は信用しないことです。むしろ日本側の資料と付き合わせると実に事実を正確に書いていることに驚かされます。ジーメンス(シーメンス)の支社長という重職を任されたラーベの実務力の高さは、同じサラリーマンとして脱帽します。
 他の資料を引用して、その信憑性の高さを再確認すると面白いでしょうね。
 
85 hits

[3552]“蔡”か“曹”か
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 ピッポ E-MAIL  - 06/10/28(土) 8:56 -

引用なし
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   チーズが食べたいんだ

十月二十八日
九時十分空襲警報。だが間違いだった。それ以外は仕事に追われて、平穏な一日だつた――晩にある事件が起こるまでは。コックの曹保林は、いい加減なやつで、夕食にチーズを出すようにいわれていたのに、用意しなかった。叱られると、腹を立て、来月の一日かぎりで暇をとりたいといいだした。けんかに負けたかわり、そうやって格好をつけたのだ。出て行くならとっとと出てけ! かまうもんか! そんなことで折れると思ったら大間違いだぞ。俺はチーズが食いたいんだ!
(『南京の真実』平野訳、p40)

ところで!
中文では“厨師(コック)蔡”とある。“曹保林”ではないようだ。また、コックのほうが暇をとりたいといったのではなく、ラーベのほうから解雇を申し渡したことになっているみたい。「けんかに負けたかわり、そうやって格好をつけたのだ。」という心象描写もない。ドイツ語原版や英語訳書ではどうなのだろうか?

10月28日
天空有些云,尽管如此,9时10分还是有警报。但只是一场虚惊,9时40分就取消了。除此以外,这一天很平静,是工作忙碌的一天。晚上出了一点小事,据说调皮的厨师蔡为晚餐准备了奶酪,但吃饭时却没奶酪。我发了火,骂了他,并说要在下月1日就解雇他。他斗不过我,转身就走开了。走就走吧,就我而言,我不会让步,我要我的奶酪!
(文字化けなし⇒http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/295.html


“コックの曹”さんを調べてみると、同じ平野訳『南京の真実』の、十一月二十七日の日記と十二月八日の日記に登場している。それらでは、ラーベは多忙な中にあって、病気に掛かってしまった曹に細やかな気遣いをしている。11月1日に“辞めて”もいないし“解雇”もされていなかった。フルネームで“曹保林”と書いてあれば確かな自信でそう訳したように思ってしまう。
92 hits

[3610]Re(1):11月23日分ヴォルフ・シ...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/11/23(木) 11:02 -

引用なし
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   >http://latemhk.tdiary.net/

日本語訳本で脱落している ヴォルフ・シェンケの手記
〜〜〜〜〜〜
英文ラーベの日記には、Wolf Schenke の手記が添付されています。p29
Wolf Schenke: Nanking's Final Days

  On my return I found remaining behind: three members of the embassy staff who had been assigned to stay at their posts and Herr John H. D. Rabe, in whose house I had always been a welcome guest on earlier visits to Nanking. Herr Kroger from Carlowitz & Co. and Herr Sperling had likewise remained behind, though I did not have occasion to meet them. Each painted the most dreadful picture of the imminent capture of the city. Each was aware that his remaining behind might well prove to be a matter of life and death. It was less that they feared the shelling of the city by Japanese artillery and airplanes. That danger was really nothing compared to what was to be expected from the flood of retreating Chinese troops. They considered all eventualities, but the results of their deliberations were anything but hopeful. Had not the troops of the Kuomintang under Chiang Kai-shek murdered foreigners and raped foreign women upon their arrival in Nanking in 1927?


  They had seen the Szechuan soldiers march to the front, looking like the semibandits they were. In previous wars it had been standard practice for Chinese soldiers, especially those of defeated and retreating armies, to burn, sack, and pillage the local population. They pictured the retreating army defeated and emoralized by the Japanese, flooding through Nanking. Would not their rage and hate be directed against the whites? The old enophobia would surely break out anew.


  They recalled events that had occurred in Canton a decade before. These included scenes of bestial cruelty beyond the imaginings of a European brain. It is not easy to brazen out that sort of future. But that is what those who remained behind in Nanking did.


  Unless I obtained a press card from the Chinese foreign ministry it would be impossible for me to send press telegrams home. After a long conversation with the remaining staff at the embassy it was agreed that I should continue on to Hankow.


  Herr Scharfenberg quickly scanned the mail I had brought with me (from Shanghai), culled out what was secondary and put the important items in a new envelope. We wanted to take them on with us to Wuhu, where the German ambassador Dr. Trautmann was on board the Kutwo.


  Despite our haste, I wanted to say goodbye to Herr Rabe. Hurter turned off the main road toward "Siemens City," as the Germans in Nanking called the grounds of Siemens China Co., where there was a little German school, which owed its foundation primanly to Herr Rabe. Johny Rabe was sitting at his typewriter in his office, writing his diary. Rabe had not remained in Nanking for business reasons, but in order to erect a zone of refuge for the 200,000 noncombatants of
Nanking, similar to that created by Pater Jacquinot in Shanghai.


  I was personally very skeptical of the plan, since the committee lacked the authority to maintain law and order and prevent either Chinese or, later on, Japanese soldiers from entering the zone. Rabe said: "Well, after working here for 30 years and spending most of your life here, it's worth taking the risk."


  In our brief conversation he still kept his old good humor, but it seemed to me to be more of a gallows humor now. Although I had every good reason to leave Nanking, somehow in the presence of Rabe and Hurter I felt like someone who is saving his own neck while others march toward an almost certain death.




Taken from Wolf Schenke, Reise an der Gelben Front: Beobachtungen eines deutschen Kriegsbereichterstatters [Journey to the Yellow Front: Observations of a German War Reporter] (Oldenburg and Berlin, 1943), pp. 60 ff. (excerpt).


撤退する国民党軍が第1次南京事件のときのような蛮行をするのではないかと、Wolf Schenke はとても心配したのだが・・・・いずれにしても、ラーベ達の静かな勇気を称えています。
81 hits

[3613]11月27日分、ローゼンの経歴
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 ピッポ E-MAIL  - 06/11/28(火) 19:31 -

引用なし
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   11月27日分、ローゼンの経歴

日本語訳「南京の真実」11月27日(p65)には、『ゲオルク・ローゼンの身上書より』というヴィッケルトの一文が挿入されていますが、英訳書に書かれている、編者ビッケルトによるローゼンの経歴説明はもっと長いのです。
ttp://latemhk.hp.infoseek.co.jp/@wiki/27NOVEMBER.htm

日本語訳「南京の真実」11月27日(p65)には」勝手な省略と誤訳があるようです。「身上書より」という書き方自身がおかしいのです。p66の()で括られているところも、その前の()で括られていないところもヴィッケルトの文章の要約です。訳者もしくは編集者は、自分が見てもいない『身上書』を記法の違いによって脚色してしまいました。

おそらく講談社の編集部に『ワル』がいたのでしょう!!

(※ URLが妙な表記に変換されてしまいますのでhを抜かしました)
50 hits

[3636]Re(1):中文ラーベの日記には1...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/12/8(金) 14:05 -

引用なし
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   ドイツ語版にも日本語版にもない12月14日の項が
WEBのなかにありました中文ラーベの日記にありました。

その写し、12月13日分と12月14日分です。
簡体字中国語なので、この掲示板に掲載できないのが残念です。

12月13日
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/438.html
12月14日
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/439.html

これらの内容を併せたうえ、一部を省略したのが、
ドイツ語版、日本語版、英語版の12月13日の項になっているようです。

正確な照合をするには正しい翻訳が必要です。
どなたか、ご助力願えないでしょうか。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
日・英語版12月13日には次の内容があります。
----------------------------------------
(1)日本軍は昨夜、いくつかの城門を占領したが、まだ内部には
(2)国際赤十字協会をつくりあげ
(3)委員会のメンバー二人で野戦病院に行く 
(4)外交部にいく道ばたには、死体やけが人がいっしょくたになって
(5)我々はメインストリートを非常に用心しながら・・・日本軍がむこうから・・
・中国軍の3部隊を
(6)・・・・鉄道部のあたりでもう1部隊みつけて武装解除し
(7)どこからかいきなり弾が飛んできた。
(8)我々はまだ希望を持っていた。
(9)本部に、入ると入り口にすごい人だかりがしていた。留守の問に中国兵が大ぜ
いおしかけていたのだ
(10)町を見まわってはじめて被害の大きさがよくわかった。百から二百メートル
おきに死体が転がっている。
(11)日本軍は十人から二十人のグループで行進し、略奪を続けた。
(12)我々はフォースターといっしょに太平路にある英国教会にいってみた。
(13)二百人ほどの中国人労働者の一団に出会った。安全区で集められ、しばら
れ、連行されたのだ。
(14)外交部のなかの病院に入れてもらえない。
(15)日本軍につかまらないうちにと、難民を百二十五人、大急ぎで空き家にかく
まった。
(16)被害を調べるため、今朝六時からずっと出歩いていた。韓は家から出ようと
しない。
(17)絶望し、疲れきって我々は寧海路五号の本部へ戻った。あちこちで人々は飢
えに苦しんでいる。我々はめいめいの車で裁判所へ米袋を運んだ。ここでは数百人が
食べる物もなく苦しんでいる。

しかし、中国語版の12月13日の項には、
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/438.html
---------------------------------
(1)〜(9)の内容が記されてた上に、
「日本軍の掃蕩による襲撃を避けるための公告」が転記されて、
おわっています。
(10)以降は12月14日の項です。


中国語版の12月14日は、
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/439.html
---------------------
はじめ、
(A)日本軍司令官に渡すために書かれた手紙の内容
(B)通訳によれば谷将軍に渡るのは明日か明後日になること
があって
そのあと(10)〜(17)があり、
さらに、日本語版、英語版にない

(C)中国語版訳注として谷寿夫の戦犯容疑の説明
さらに、『12月14日、晩上』として
(D)「芸術に無智とは言わないまでも殆ど詩歌など読まない私だが」
といいつつ、たぶん日記にはさまれた「生命」という詩を引いて、
妻への感謝のことば。
生命
脈拍を一回打つたびに 必ず勝つ信念
日光を一回受けるたびに 尽きない闘志
生命。
----
(E)ニューヨークタイムズのダーディン記者に、上海シーメンス洋行宛の電報をた
くした
(F)しかし、ダーディンは上海に行けないで戻ってしまった

と続いて終っています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
以上


51 hits

[3663]Re(2):中文ラーベの日記には1...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/12/13(水) 17:09 -

引用なし
パスワード
   >中文ラーベの日記には12月14日の項あり

中文とその他語版との異同について表にしました。
「12月13日と14日分、各語版のContents比較」
http://latemhk.tdiary.net/19371214.html#p01

なぜ語版同士に異同があるかを考察してみました。
「語版関係図」
http://latemhk.tdiary.net/19371213.html#p01

宜しくご批判ください。
70 hits

[3674]Re怪人関口大尉
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 ピッポ E-MAIL  - 06/12/15(金) 11:02 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>ラーベの日記など基本文献を、実際の日付とともに引用進行するブログを始めました。誤訳などのご指摘を「つっこみ欄」でしてくだされば幸甚です。
>
>http://latemhk.tdiary.net/


ラーベの日記12月15日には、
 
十二月十五日
朝の十時、関口大尉来訪。大尉に日本軍最高司令官にあてた手紙の写しを渡す。

とありますが、この関口大尉(平野訳は関口鉱造少尉と誤訳)は、海軍砲艦勢多の次席です。本人は後年の手記(「証言による南京戦史」11回)では、ラーベに会ったことも、手紙を受けたことも書いていません。その手記の武勇伝にはあきれ返りますが、私には特務機関とのかかわりなどを後年に至っても秘匿しているかに疑われます。

ところで、ティンパリーの「戦争とは」にはこの関口大尉のこと、12月15日の事実関係については、どう書いてあるのでしょうか?

畝本正巳氏が引用した日本語訳は以下のとおりです。

なお、十五日朝、福田氏は日本軍代表関口とともに当所を訪問。正午当委員会代表は特務機関長と交通銀行で面談した。

「戦争とは」の英文原著はどのような表現でしょうか? また、ソースを書いたのはだれですか?

お教えくだされば幸いです。
52 hits

[3702]Re(3):12月13日の外国人の行動
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 ピッポ E-MAIL  - 06/12/21(木) 19:17 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>>中文ラーベの日記には12月14日の項あり

ラーベたちの行動を読み解くために必要な議論を発見しました。
今ごろ気がついて慌てています。

拙サイト
■ [ラーベの日記][国際委員会] 安全区外国人の行動
http://latemhk.tdiary.net/20061213.html#p06

> (2006/12/21追記)
> なお、この日、12月13日の安全区外国人の市街巡察行動については、ラーベの行動だけでなく、他の外国人の行動と関連して検討する必要があるようです。手分けして城内の状況を把握しようとしたようです。4年前ですが、ゆうさんと渡辺さんのディスカッション があります。そして、それを反映した、ゆうさんのページもあります。
■12月13日、外国人の行動
http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/4/gtuqrf/gtuqrf.html#gtuqrf
■12月13日、ラーベの行動
http://www.geocities.jp/yu77799/rabe2.html

> ただし、ラーベの「ヒトラーへの上申書」は、12月13日の行動と14日の行動が、城内内部の状況として、混ざって書かれているような気がするのでが。
75 hits

[3753]Re(1):労働班に組み入れたいだ...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/12/28(木) 0:27 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>ラーベの日記など基本文献を、実際の日付とともに引用進行するブログを始めました。誤訳などのご指摘を「つっこみ欄」でしてくだされば幸甚です。
>
>http://latemhk.tdiary.net/

12月28日のラーベの日記より
http://latemhk.tdiary.net/20061228.html

今日、ほうぼうから新たな報告が入った。あまりの恐ろしさに身の毛がよだつ。こうして文字にするのさえ、ためらわれるほどだ。難民はいくつかの学校に収容されている。登録前、元兵士がまぎれていたら申し出るように、との通告があった。保護してやるという約束だった。ただ、労働班に組み入れたいだけだ、と。何人か進み出た。ある所では、五十人くらいだったという。彼らはただちに連れ去られた。生きのびた人の話によると、空き家に連れていかれ、貴重品を奪われたあと素裸にされ、五人ずつ縛られた。それから日本兵は中庭で大きな薪に火をつけ、一組ずつひきずり出して銃剣で刺したあと、生きたまま火の中に投げこんだというのだ。そのうちの十人が逃げのびて塀を飛び越え、群衆の中にまぎれこんだ。人々は喜んで服をくれたという。

これと同じ内容の報告が三方面からあった。もう一つの例。これはさっきのより人数が多い。こちらは古代の墓地跡で突き殺されたらしい。ベイツはいまこれについて詳しく調べている。ただ、いざ報告するときには、誰から聞いたか分からないよう、よくよく気をつけなければならない。知らせてきた人にもしものことがあったら大変だ。

※古代の墓地跡(英文では)"in the graveyards in the West City"。どこだろう?

12月28日のヴォートリンの日記より

 キャンパスにいる男性を集めた。まず最初に、通訳を介して彼らに訓示があり、そのあと、以前兵士だった者は正直に申し出ること、その場合、危害を加えられることはないが、労働隊に入れられると説明があった。最近まで兵士であったという意味なのか、かつて兵士であったという意味なのか、わたしにははっきりはわからない。

 最初に申し出た男は、Y・H・陳の奉仕者仲間の一人だった。彼が兵士だったのは最近のことではないということがその後わかったので、解放してもらうよう目下努力しているところだ。

 男性は四列縦隊に並び、登録票を渡されたあと、登録場所になっている陳春芳の家(キャンパスの北東隅にある)へ向かって行進した。わたしは興味があったので、男性の顔つきをしげしげと観察した。概して、彼らは、老人か大怪我をした人か、そうでなければ、足の不自由な人たちだった。 なぜなら、登録に行かれるような若者たちは、みな死んでしまっていないからだ。


この日、“親切な”岡少佐(あるいは中佐)が、ラーベにもヴォートリンにも会っている。

.
49 hits

[3854]Re(1):「ささやかな暴動」で「...
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 ピッポ E-MAIL  - 07/1/9(火) 10:33 -

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   1月8日の日記の平野響子訳には、恐ろしいことが書いてあります。
反日ゲリラ存在の論拠にされてもおかしくありませんが、さすがに『誤訳』を根拠にすることは恥じ入られているのでしょうか?

平野訳

一月八日
ローゼン、ヒュルター、シャルフェンベルクの三氏が、明日イギリス大使館の二人といっしょに南京にくると福井氏が知らせてくれた。ローゼン、ヒュルターの家はどちらも無事だ。ドイツ大使館も。ただローゼン家からは車と自転車、それから酒が数本盗まれた。イギリス人の家の様子はわからない。シャルフェンベルクの家は安全区の外だったこともあって、ひどい荒らされようだった。ヒュルターの家に泊めてもらわなければなるまい。こまったことに、どこも電気や水がとまっている。そこで福井氏にまた手紙を書いた。アメリカ大使館の人たちの家も同じ状態らしい。みな、寒い寒いと言いながら、大使館の大きな暖炉にへばりついているという。電気や水が使えるよう、日本軍に要求すればいいと思うのだが。

福井氏がいうには、日本大使館が国から新しい車を取り寄せるそうだ。ドイツ大使館に、おそらく他の大使館にもだろうが、盗まれた車を弁償するという。

今日、中国人の間で、中国兵たちが南京を奪いかえそうとしているという噂が、またもやひろまった。それどころか、市内で中国兵の姿をみかけた、という話まで出ている。まず、安全区の家々に飾られていた小さな日の丸がそっくり姿を消した。日本の腕章も。中国人のほぼ全員がつけていたのだが。そしてつい今し方、ミルズが教えてくれたところによると、相当数の難民が日本大使館を襲おうと考えていたという。

このときのささやかな暴動に加わった人たちは死刑になった。いままで安全区が平穏でいられて、本当によかった。どうかこういう悲惨なことにならないようにと祈るばかりだ。


「暴動」といえば穏やかではない事態なのに、「ささやかな暴動」というのは「暴動」ともいえない穏やかなことだったのだろうか? と、思いきや、「死刑になった」とくる。穏やかだったけど「死刑」になったのか?

これはまるで禅問答である。しかし、John Rabe は人情には厚いが、非論理的な禅問答を書く人ではない。まして、彼は安全区の治安責任者でもある。きっと誤訳に違いないとgoogleってみましたら、ありました。

「ラーベ日記」(平野訳)の誤訳について
ゆう 2005/02/05 16:16:18
http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/11/blyseh/index.html

以前話題になった、「ささやかな暴動」も登場します。

●1月8日(文庫版P195)
(平野氏訳)このときのささやかな暴動に加わった人は死刑になった。いままで安全区が平穏でいられて、本当によかった。どうかこういう悲惨なことにならないようにと祈るばかりだ。
(桑原氏訳)どんなに些細なものであれ、中国人の不法行為は、日本人によって死をもって罰せられる。これまでのところ我が安全区が完全に保てたことは、本当に喜ばしい。今後もさういふ悲惨なことは経験せずにすむやう祈るばかりだ。

実際には「死刑」にはならなかったようです。


以前の話題とはコレかな
http://members.fortunecity.com/kknanking/log/log11.html

ラーベは暴動として認識してないで。
暴動あったちゅうのは、あんたの六等脳味噌の脳内景色ですがな。

ついでに松尾板に書いた竜馬の訳
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
The least insurrection on the part of any Chinese will be punished by death.

■日記の日本語訳[『南京の真実』p.171]

 このときのささやかな暴動に加わった人たちは死刑になった。

整理部注 時制は明らかに誤り。

■渡辺さんによる英訳からの重訳
 どのような中国人側の小さな暴動ですら死刑で罰せられるであろう。

■竜馬さんによる英訳からの重訳
 このときのささやかな暴動に加わった人たちは死刑になるであろう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
英訳なんかできへんので日本語版の誤訳の中の時制を直しただけやないか。
anyの意味わかってるか。Theは最上級についてるんやで。


そして、こちら。
http://members.fortunecity.com/kknanking/log/log12.html

どうやら結論が出たようです。

 竜馬くんは、以下のように主張しました。
---- 引用 ----
ラーべ自身のThe least insurrection(安全区の 家々に飾られていた小さな日の丸がそっくり姿を消した。日本の腕章も。中国人のほぼ全員がつ けていたのだが。そしてつい今し方、ミルズが教えてくれたところによると、相当数の難民が日本大使館を襲おうと考えていたという)は事実であり少なくとも 日の丸と腕章の件(ささやかな暴動、反乱)はラーべの事実認識として記述されている。
---- 終わり ----

 仮に、竜馬くんの主張である「日の丸」「腕章」をラーベが事実だと認識していたとしましょう。

 その前提に立つとしても、ラーベが記した「The least insurrection(ささやかな暴動・小さな暴動)」が「日の丸や腕章の件」を指すというには、クリアしなければならない問題があります。

 それは、「日の丸や腕章の件」を、ラーベが「暴動」にあたる行為だと認識したかどうかです。ところが、竜馬くんは、この根拠を提示することができません。暴動とは、徒党を組んで治安を乱す行為を指すわけですが、日の丸を飾らなくなったり、腕章を付けなくなったりすることは、治安を乱す行為とは言えません。

 つまり、もし、ラーベが「日の丸や腕章の件」を事実と認識したとしても、その事実が「暴動」にあたる行為ではなければ、「暴動」と記すことは在りません。竜馬くんが、「日の丸や腕章の件」を暴動であるとラーベが認識した根拠を示せないのであれば、やはり、竜馬くんの主張である
「The least insurrection(ささやかな暴動・小さな暴動)」=「日の丸や腕章の件」
 は成り立たないことになります。

 そして、根拠が示せなくなったことが明確になったことにより、竜馬くんの主張が崩壊したという結論に達したことになりました。

81 hits

[3865]Re(1):写真のソースは?
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 ピッポ E-MAIL  - 07/1/12(金) 11:19 -

引用なし
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   http://latemhk.tdiary.net/20070111.html#p03
この写真のソース(初出誌)をご存知の方、教えてください。

The Good Man if Nanking, p123 より
brothel

<英文キャプション):"Japanese soldiers waiting to take rheir turns in a makeshift brothel"

.
65 hits

[3866]Re(1):国際本部家宅捜索、フィ...
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 ピッポ E-MAIL  - 07/1/12(金) 16:23 -

引用なし
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   1月11日の平野訳にまたまたトンデモな誤訳
http://latemhk.tdiary.net/20070111.html#p01

家宅捜索という圧力。日本語版平野訳では「脱走兵が略奪した古着」とあるが、英訳本では "refugee" (独文:"Fluechtling")だから、脱走兵ではなく難民である。また、"a bundle of old clothes" だから「古着の包み1つ」。

平野サンが難民を「脱走兵」と訳したのは、一体全体彼女、どういう料簡なのだろうか?

午後、私がまだ本部にいたとき、日本の警察がやってきて家捜しをした。 脱走兵が略奪した古着を探しているという。その服は、数日前、その兵士からうけとって本部のフィッチの事務所にしまってあった。 難民の一人が盗んだ古着の包みを探しているという。その包みは、数日前、その難民の手を離れ本部のフィッチの事務所にしまってあった。 たまたまフィッチの部屋だけに鍵がかかっていたため、怪しまれてしまった。 警官がドアをこじ開ける前に、クレーガーが現れ、鍵を持ってこさせて、はいよ、と包みを渡した。

まったく日本の警察のやりかたはわけがわからない。おだやかに入ってきても、我々はやはりあっさり渡しただろう。なにも完全包囲することなどないのだ。中国人脱走兵が服を略奪したと聞いて 中国人難民が服を盗まれたと聞いて、 それをネタに「事件」をでっちあげようとしたらしい。今度こういう目に 警察の襲撃があったときのために、大使館と連絡を 緊密にしておかなければ。

これは、中国人難民の中からの密告か? 1月9日のヴォートリンの日記の「2.中国人内部の問題」参照。
なお今後、大使館への通告無しの欧米人への捜索は認められない旨を申し入れたはずだ。

なぜフィッチは、古着の包みをあずかったのか?

難民同士の争いの仲裁にでもはいったのか? フィッチ自身はこの事件に言及してますか? 「英文資料編」にありますか?

.
47 hits

[3868]Re(2):写真のソースは?
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 熊猫 E-MAIL  - 07/1/13(土) 16:51 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
 ラーベの日記の他に、資料と写真が発見されています。「資料と写真」が具体的にどのような内容のものであったかは非常に気になるところです。
 写真の出所については知りませんが、左肩から襷がけで雑のう(もしかすると水筒?)をしていますので、既に占領してしまった地域の巡回調査でしょうか、着剣はしているものの銃口は上を向いており緊張した様子はありません。掃蕩作戦中であれば、二人の兵士は銃を構えていると思います。
 写真からは斜めに赤鉛筆らしき検閲のような跡が確認されます。不許可写真なら毎日新聞が出所と思われますが、見当たりませんでした。国際委員会の誰かが撮影したものであるならば、(赤鉛筆による?)斜めの線の跡は不自然です。
brothel

><英文キャプション):"Japanese soldiers waiting to take rheir turns in a makeshift brothel"
rheir→their
 非公式の売春宿と考えられなくもありませんが・・・・・・。
68 hits

[3874]Re(3):写真のソースは?
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 ピッポ E-MAIL  - 07/1/14(日) 11:29 -

引用なし
パスワード
   ▼熊猫さん:
> 写真の出所については知りませんが、左肩から襷がけで雑のう(もしかすると水筒?)をしていますので、既に占領してしまった地域の巡回調査でしょうか、着剣はしているものの銃口は上を向いており緊張した様子はありません。掃蕩作戦中であれば、二人の兵士は銃を構えていると思います。

写真手前の兵士は銃剣を小太刀のように持っているような気がしたのですが、私の錯覚でっしょうか?

> 写真からは斜めに赤鉛筆らしき検閲のような跡が確認されます。不許可写真なら毎日新聞が出所と思われますが、見当たりませんでした。国際委員会の誰かが撮影したものであるならば、(赤鉛筆による?)斜めの線の跡は不自然です。
>brothel

赤鉛筆らしき、は気が付きませんでした。ご指摘ありがとうございます。

>><英文キャプション):"Japanese soldiers waiting to take rheir turns in a makeshift brothel"
>rheir→their
> 非公式の売春宿と考えられなくもありませんが・・・・・・。

写真左端の女性と、窓から中を爪先立ちでのぞいている兵士が、意味深長いわくありげです。
74 hits

[3879]Re(4):写真のソースは?
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 熊猫 E-MAIL  - 07/1/14(日) 21:42 -

引用なし
パスワード
   ▼ピッポさん:
>写真手前の兵士は銃剣を小太刀のように持っているような気がしたのですが、私の錯覚でっしょうか?
 当初は私もピッポさんと同じことを考えました。右肩に着目していただきたいのですが、小太刀の構えとは手が逆です。構えたときに日本刀と銃剣では手が逆になります。写真の兵士は右手が手前にあるように見えますので、銃剣(あるいは銃)を持っている姿勢であり、小太刀の構えは右手が左手よりも上に上がっているはずです。
 次に、兵士が装着している腰の鞘に着目していただきたいのですが、日本刀ではなく銃剣の鞘です。
 剣先は窓に向けられているのではなく、兵士の左上に向けられているのではないでしょうか。
brothel
>
>赤鉛筆らしき、は気が付きませんでした。ご指摘ありがとうございます。
>
>>><英文キャプション):"Japanese soldiers waiting to take rheir turns in a makeshift brothel"
>>rheir→their
>> 非公式の売春宿と考えられなくもありませんが・・・・・・。
>
>写真左端の女性と、窓から中を爪先立ちでのぞいている兵士が、意味深長いわくありげです。
 検閲に引っかかった写真ならば、何かやましいと判断したのだと思います。写真の上から赤鉛筆で斜線を書くのは、不許可写真の印です。但し、その写真をラーベが所持していたのであれば不自然すぎます。
94 hits

[3880]Re(5):写真のソースは?
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 07/1/14(日) 22:19 -

引用なし
パスワード
   ▼熊猫さん:
> 当初は私もピッポさんと同じことを考えました。右肩に着目していただきたいのですが、小太刀の構えとは手が逆です。構えたときに日本刀と銃剣では手が逆になります。写真の兵士は右手が手前にあるように見えますので、銃剣(あるいは銃)を持っている姿勢であり、小太刀の構えは右手が左手よりも上に上がっているはずです。

よくわかりました。銃剣の剣先を右手に持っているわけではない、ということですね。

> 検閲に引っかかった写真ならば、何かやましいと判断したのだと思います。写真の上から赤鉛筆で斜線を書くのは、不許可写真の印です。但し、その写真をラーベが所持していたのであれば不自然すぎます。

ラーベ所持写真でない可能性はあります。

英語版のラーベの日記 "The Good Man of Nanking" 掲載の写真は、ラーベ本人のファイルからの引用だけではないようです。本文に関しては英語版の方がVickert 編著に忠実ですが、写真に関しては日本語版の方が忠実なような気がしています。ですので「写真のソースは?」と質問させていただいたのでした。
89 hits

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