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[3400]田中正明「箝口令など布かれていない 」 渡辺 06/10/15(日) 21:30
[3402]Re(1):田中正明「箝口令など布かれていない 」 タラリ 06/10/15(日) 23:23
[3553]敗戦後、田山大隊長が 核心 06/10/28(土) 21:32
[3558]Re(1):敗戦後、田山大隊長が K−K@南京事件資料集 06/10/29(日) 22:42
[3559]Re(2):敗戦後、田山大隊長が 核心 06/10/30(月) 0:11
[3562]捏造事件インサイダーとして 核心 06/10/30(月) 17:03
[3554]Re(1):造言飛語罪と新聞紙掲載禁止 ピッポ 06/10/29(日) 0:48

[3400]田中正明「箝口令など布かれて...
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 渡辺  - 06/10/15(日) 21:30 -

引用なし
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   田中正明は『南京事件の総括』(謙光社,S63)「第十四の論拠」(pp.225-227)で
「箝口令など布かれていない」と主張しています。
(主な内容は下記 url に転載されていますが、誤植や改変があります。)
http://www.history.gr.jp/~nanking/reason15.html

---
教科書には「日本国民には知らされなかった」(中教出版)とある。それならば、「南京事件」について喋ってはいけない、書いてもいけない、という箝口令が軍なり政府なりから出ていたのであろうか。答えは全然「ノウ」である。[p.225]
---

「知らされなかった」からといって「箝口令」があったなどということにはなりません。
また、『「南京事件」について喋ってはいけない、書いてもいけない、という箝口令が軍なり政府なりから出ていた』などという主張は存在しません。

では、この架空の命題はどこから出てきたのでしょうか?
『諸君!』1985年4月号『「南京大虐殺」の核心』という座談会で次のように田中正明氏は発言しています。(p.78)
---
田中 (途中省略)「秦さんの本(『日中戦争史』)のなかに、当時、そういうこと(虐殺事件)があったことは言わないように口止めされていた、すなわち箝口令が布かれていたというくだりがあります。
秦  「報道を禁止された」という表現だったと思います。
田中 ええ、その「報道禁止」があったから南京のことは日本国民に知らされなかったとおっしゃりたいわけでしょう。
 ――それは、日本内地の話ですね。
田中 いや、内地にしろ外地にしろ。
洞  命令はなくても、それに類したことはあったんでしょう。
田中 いや、ないです。絶対にないですよ。
秦  事実上の検閲ということですよ。書けば石川達三の『生きている兵隊』のように発禁になってしまうんですから。
田中 私自身も南京に行っており、また南京に入場した兵隊さんに会うたびに聞くんですよ。「南京のことを内地に帰って喋ってはいかんと口止めされましたか」って。そうすると、答えは「そういうことは全然ない」という。当時の新聞記者諸氏の答も揃って「そういう制約はなかった」といっています。
---

この対談から次のことが分かります。
(1) 「箝口令」の出展は「秦さんの本」(『日中戦争史』)である。(秦『南京事件』が刊行されたのは、1986年。)
(2) 秦郁彦氏は、「報道を禁止された」という表現で「事実上の検閲」の意味だと述べている。
(3) 洞氏は「命令はなくても、それに類したことはあったんでしょう」と述べている。

秦『日中戦争史』(河出書房新社)の問題の部分は次のようなものです。
---
 この事実は日本国内では報道を禁止されたが、世界的な非難を浴びて陸軍中央部は狼狽した。[1972年増補3版, p.286]
---

ということは、「箝口令が軍なり政府なりから出ていた」などと述べている人はいないないのです。
確かに秦氏の表現は南京事件のみについて報道を禁止されたと解釈できないわけではありませんが、秦氏自身がその真意を述べています。
実際、当時、南京事件については海外で報道されていましたが、国内では禁止されており、もし発表すれば石川達三のようなことになったでしょう。

---
「虐殺派」の中には、戦争中、とくに昭和十二年末から十三年の春にかけて、かくかくの発禁処分や処罰を受けたものがいるといって、あたかも南京事件に関して箝口令が布かれていたかのごとく言う論者もいるが、その内実を見ると、それらはことごとく<流言蜚語>に類するもので、流言蜚語取締法にふれたもののリストアップであって、南京事件とは何ら関係ないのである。[p.226]
---

「あたかも南京事件に関して箝口令が布かれていたかのごとく言う」論者とは「命令はなくても、それに類したことはあったんでしょう」という洞氏のことでしょうか。
どうやら、「南京事件に関して箝口令が布かれていた」という論者が存在しないことを田中正明氏は知っているようです。

ところで、「流言蜚語取締法」って何???
報道の内容が本当に流言蜚語かどうかは、どうやって判定するんでしょうか。「その内実を見ると」というのですが、「内実」とは何でしょうか?結局、南京で何があったかを知らない当時の官憲の判断を信じなさいという奇妙な話です。
いずれにしろ、流言蜚語という名目で、南京事件だけでなく日本軍の残虐行為を話すことや報道することを取り締まっていたことは事実です。
在香港総領事・中村豊一は1938年7月25日稿『時局解決ニ関スル一考察』で、内地や現地では事実が隠蔽されていると次のように述べています。
---
然ルニ今次ノ日本軍隊ノ進出ニ當リテ意外ニモ其ノ暴行振リハ支那民衆ノ憤激ヲ買ヒ、彼等ノ日本軍ニ對スル信頼ノ大ナリシタケニ其ノ失望モ亦頗ル大ナルモノアリ 比等ハ内地及現地ニ於テハ事實蔭蔽セラレ居ルモ外國通信員及南支ニ於ケル出版物ニ於テハ忌憚ナク發表セラレ居リ内地ニ於テハ想像モ及ハサルトコロナリ
[「支那事変関係一件・善後措置」p.90 「アジア歴史資料センター」レファレンスコード B2002306664
----

以上のように、そもそも、田中氏がいうような南京事件について「箝口令が軍なり政府なりから出ていた」と主張している者はいません。しかし、南京事件に限らず日本軍の暴行を日本国内で話したり報道することは禁止されていたので、多くの日本人は南京事件を知らなかったのは事実ということになります。

(「知らされなかった」という教科書のあいまいな記述については、クリストファー・バーナードが『南京虐殺は「おこった」のか』(筑摩書房,1998年)pp.26-30 で、その問題点を的確に批判しています。)
32 hits

[3402]Re(1):田中正明「箝口令など布...
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 タラリ E-MAIL  - 06/10/15(日) 23:23 -

引用なし
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   ▼渡辺さん:
「箝口令」とは特定の個人・集団に対する事件の発信を事前に禁止することを要望、命令するものです。
これは事実なかった。

秦郁彦氏が述べたのは報道機関に対する命令があったということです。
これがあったのは事実です。事件の広報が禁止されたということです。

また、これとは別になりますが、流言蜚語取締法があった。
個人であっても、事実の広報はやはり禁止された。
「箝口令」と異なるのは対象が不特定の個人・集団であり、事後の措置・処罰規定であるということです。

田中正明氏の所論は「箝口令」という特殊な報道禁止要請・命令がなかったことをクローズ・アップして事件がなかった、という印象操作を行うものです。

しかしながら、徹底した組織的、言論抑制・弾圧というものは特定の個人や集団に・・・を言ってはいけないと個別的にするものではありません。

そうではなく
1.一般的に国民に求められる、倫理、道徳、規範を指示しそれに沿う発言・報道を求める。
2.それにはずれる発言・報道は特にどこからが言ってはいけない範囲かを明示することなく、もっとも目立つ発言・報道を見せしめ的に厳しく取り締まる。
というパターンをとります。これが広範な言論抑圧の体制です。


もう一点、述べておかなくてはならないことは当時の新聞社がすでに戦争批判の自由がなかったばかりか、積極的に戦争遂行に協賛する体制になっていたということです。また、戦争はいったんおこるや、愛国熱を起こし、従軍記者はどんどん兵士の感情と同調・共感していくものだということです。

読売新聞の小俣行男記者著『戦場と記者』でも当初は戦争に批判的だったものが、徐州戦役のころになると完全に日本兵の思想・行動と一体化してしまう様子が伺えます。

また、一線に立つ新聞記者よりは一歩引いて戦争を眺める余裕のあったカメラマンなどの方にかえって、南京事件の悲惨さをよく記録、記憶するものが多いことでもわかります。このことも兵士に密着する記者が兵士の思想・行動を追体験することによって早くから感化されることの現れです。


いちいち、「箝口令」をしかなくてはならないということは、逆に言うと抜け穴が生じるおそれもある生ぬるい言論統制であるということです。戦争遂行には国民の洗脳が必要で、報道機関の力強い協力が必要とされるのです。


報道規制については日の出講芸さんが、資料をよく集められています。
http://www31.ocn.ne.jp/~hinode_kogei/

渡辺さんの投稿はたぶん、南京FAQプロジェクトに関連してのものだろうと存じますが、田中正明氏のオリジナルから説明されて大変、啓発されました。
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[3553]敗戦後、田山大隊長が
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 核心 E-MAIL  - 06/10/28(土) 21:32 -

引用なし
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   ▼核心さん:

父が福島の戦友会の知人から取り寄せた「毎日新聞 福島」の「56年目の証言」に以下の記述があります。

”65連隊の田山芳雄・元第一大隊長(故人)がかっての仲間の兵を訪ね歩いたのは、敗戦後間もなくのことだった。訪問を受けた第一大隊の元上等兵(現81歳・会津地方在住)は、田山氏から「南京での出来事を内証にしてほしい」と頼まれた。「出来事」とは、1937年12月16日、17日に揚子江近くで中国人捕虜を大量虐殺したことだ。”
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[3554]Re(1):造言飛語罪と新聞紙掲載...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/10/29(日) 0:48 -

引用なし
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   造言飛語罪
=====

中公新書 北博昭著 「日中開戦」では
軍法務局文書から造言飛語罪を説明しています。

◆軍刑法によって、軍人および民間人を取り締まるもの


造言飛語罪とは
軍刑法である「陸軍刑法」の第九十九条と「海軍刑法」の第百条は造言飛語罪を定める。双方まったく同じ条文である。戦時または事変に際し、軍事に関する造言飛語を禁じている。(p150)


常人である民間人も、陸・海軍軍人も、造言飛語罪の対象となる。前者は普通裁判所、後者は軍法会議で裁かれる。
蘆溝橋事件の起きた直後の昭和十二年七月二十一日、海軍省の法務局長潮見法務官ははやくも造言飛語の発生を懸念し、各鎮守府法務長、舞鶴と鎮海の要港部法務長、各艦隊付司法事務官に対して申進を発している。憲兵や警察などとの協力の下に、その取り締まりに万全を期すように、と。
(p151) 


◆「悪質的流言」の該当事項


十四年三月ごろにいたるシナ事変下での造言飛語の内容を、同省法務局はつぎのように分けている(『海軍司法法規」)。

(イ)今次事変は日本側の故意の計画的挑戦に基くものなり、と為す想像的流言
(口)国民の経済生活が極度に窮乏しつつあり、と謂う流言
(ハ)貨幣価値の暴落、インフレーションの襲来等に依る経済機構の破壊を予想する流言
151
(二)国内資源、殊に食糧の欠乏を来すべしとの流言
(ホ)戦況我に不利なりと為す流言、殊に日本軍の敗戦、損害の莫大、戦死傷者に対する処置の不充分、弾薬糧食の欠乏、作戦の過誤、支那軍の優勢、武器の優秀等を説く想像的流言
(へ)事変永(ママ)引けぼ暴動起るべし、との流言
(ト)戦地に於て軍紀紊乱(びんらん)せり、との流言

ここまでは、同法務局が「悪質的流言」とみているものである。
(p151)



◆軍事郵便検閲に依り思想上有害と認め押収削除された造言飛語例

軍隊内の造言飛語については、軍法務部文書から実例をひいている


造言飛語は一般杜会だけでなく、軍隊内でもあった。十五年十二月十二日、支那駐屯憲兵隊司令官矢野音三郎中将は第百十師団長飯沼守中将に、同憲兵隊司令部の作成した「出征軍人軍属の思想状況」を送付した。(p156)
(中略)
そこには、「現役兵の党与上官暴行、侮辱又は抗命、軍中逃亡等の思想上要注意の犯罪三〇件三四名にして従来に比し、若干増加の傾向あり」などと、長引くシナ事変下での将兵たちの注意を要する行為事実が記されている。「憲兵の軍事郵便検閲に依り思想上有害と認め押収削除」された郵便物四六三通の報告もある。そのなかには、「造言輩語」九六通もふくまれている。以下は、九六通中からの、北支那方面軍下における「造言輩語」、すなわち造言飛語の例示である。氏名・階級は原文に記されていない。

☆歩兵第二百三十九連隊の兵。

昨日精神に発作的に異常を来し、兵が自分の銃で咽喉を射って自殺しました。
十数日前、隣の中隊で、下士官と兵が喧嘩をして、銃で射ち合い、二名共死去しました。戦地では滞在期問が長くなるに連れ、此の種の事件が頻々と起きて来るらしい。

☆独立混成第三旅団独立歩兵第六大隊の兵。

「クリーク」の川に敵が毒を入れて居るので、水を呑んだ者は皆病気になり、今は伝染病が多くて困っている。山西の支那兵には捕虜になっている日本軍人も混っています。

☆独立混成第六旅団独立歩兵第二十二大隊の兵。

この部隊は入浴を支那風呂へ行く。
昼食から、点呼だ。外出は日曜と水曜。全く出鱈目な部隊だ。


これらが果たして造言なのかどうか、事実であっても「造言」として取り締まることによって、それは緘口令の効果を十分に発揮したはずである。


◆軍刑法以外でも

当時、造言飛語の取り締まりに用いられていた法条は、軍刑法だけではなく普通「刑法」の第八十六条と「警察犯処罰令」の第二条第十六号もあった。

「刑法」第八十六条

「刑法」第八十六条は、国の外部の勢力と結んで国家の存立を害しようとする外患罪に関するもので、日ごろの生活にはまずかかわらない。この条は、五か条にわたる外患罪の規定を受けて、「前五条に記載したる以外の方法を以て敵国に軍事上の利益を与へ又は帝国の軍事上の利益を害したる者は二年以上の有期懲役に処す」となっている。(p154)

「警察犯処罰令」の第二条第十六号

ふだんの国民生活とかかわるのは、「人を誑惑(きようわく)せしむへき流言浮説又は虚報を為したる者」は「三十日未満の拘留又は二十円未満の科料」とする「警察犯処罰令」第二条第十六号である。ここでの「流言浮説又は虚報」は造言飛語と同義に解してよい。 (p154)


ようするに、憲兵でも警察でも取り締まれるという、2重3重のトラップがかけられたということのようである。


◆取り締まり件数


シナ事変が起きてから昭和十四年三月末日までにおいて、普通裁判所の受理した軍刑法上の造言飛語罪の総件数は七五一件だった。内訳はこうである(『海軍司法法規』)。

「陸軍刑法」違反
起訴   二一六件
不起訴   四九九件
「海軍刑法」違反
起訴  一八件
不起訴  一八件


◆不起訴が多いのは、


これにつき、さきの司法省大竹課長は同じ口演で、「不起訴相当多し。その理由は、影響少なきこと、軍刑法上、罰金刑なきに比照し又勾留日数等参照」したことに求められ、「不起訴或は無罪となりたるものは『事実に対し意見を付したる』に過ぎ」ない事案だった、と語っている(『刑事実務家会同順序』メモ)。


事実の流布を取り締まったからである。


新聞紙掲載禁止
========

◆「新聞紙法」第二十七条にもとづく陸海軍省令

同書には、軍機軍略記事の新聞紙掲載禁止の軍法令根拠にも触れています。

昭和十二年七月三十一日、「新聞紙法第二十七条に依り当分の内軍隊の行動其の他軍機軍略に関する事項を新聞紙に掲載禁止の件」という長い名称の陸軍省令が施行された。内容はその名称どおりのものである。翌月十六日には、陸軍省令の「軍隊」を「艦隊、艦船、航空機、部隊の行動」に置き換えただけの同タィトルの海軍省令も施行された。なお、ふたつの省令には、それぞれ、あらかじめ陸軍大臣または海軍大臣の「許可を得たるものは此の限」りではないと、但し書きがついている。
陸.海軍大臣は、こうした内容の省令を、「新聞紙法」第二十七条によって出すことができた。(p142)

軍の編成、装備、行動などの機密が報じられないように、陸軍、海軍とも、禁止の尺度として、「新聞掲載禁止事項の標準」をさだめたが、さらにその上に、「新聞(雑誌)掲載事項許否判定要領」までもあったという。

十、艦隊、部隊移動の記事は将来の企図を推知せらるる虞あるを以て取扱慎重を要す但し○○(二個)を用い左例程度のものは差支なし

(例)「○○」艦隊は「○○」に向け出港せり
  「○○」部隊は「○○」に移動す
  「○○」戦隊は「○○」を通過せり
尚上海方面に行動する第三艦隊に限り艦隊名を名(ママ)記し差支なし[以下、例は略]
十一、我軍に不利なる記事、写真は掲載せざること
十二、惨虐なる写真は掲載せざること (p147)


◆そのほかにも何重もの法律規制


しかし、報道する側からみれぼ、事実をありのままに伝えるという本来的な機能が奪われてしまったに等しい。軍事に関するかんじんなことは、許可されたいわぼ官製の記事以外に書けないのである。

言論に制約を与えるこのころの法令としては、ここでの「新聞紙法」と陸・海軍省令のほか、外務省令「新聞記事掲載禁止の件」「出版法」「治安維持法」「不穏文書臨時取締法」「国家総動員法」「軍機保護法」「軍用資源秘密保護法」などがある。



◆滑稽な記事

朝日新聞社記者だった野村秀雄の証言「新聞は自らの権威を放棄した」(『文芸春秋臨時増刊 昭和メモ』)を引いている。

事変勃発後は日と共に新聞の統制を強化しながら、戦線をむやみに拡大して泥沼にふみこんだように、抜き差しならぬ窮状に陥った。軍事行動に対する制約は或程度、已むを得ないにしてもその制約は随分ひどかった。記事掲載禁止命令は毎日、毎日その数を増し、記事の事前検閲はなかなか、やかましかった。味方の兵力を知らさぬ意味で上は師団長から下は小隊長まで職名は書いてはならぬ。皆部隊長と書け。との厳しい禁止命令であったが、上海戦線で加納[治雄歩兵第百一]連隊長戦死の記事が戦地から来た。
148
その記事に「加納部隊長は敵弾に中って戦死したが、加納部隊長は死の直前軍旗をにぎらしてくれといったから軍旗をにぎらしたらにっこり笑って死んだ」とその悲壮の状景を現していたが、これを検閲に持って行くと「軍旗は連隊を示すから○○にせよ」といって消された。ところがこれが新聞に現われると「加納部隊長は死の直前○○をにぎらしてくれといったから○○をにぎらしたら、にっこり笑って死んだ」となり、ちっとも悲壮の状景が出ず、却って滑稽な場面を想像せしむるようなこともあった。



◆未検閲記事は銃殺だぞ

ゆうさんのサイトには、大阪毎日新聞記者の五島広作氏の記述が紹介されています。五島氏は「南京虐殺は世界史のウソ」とまで言い切る、いわば「否定派」の先駆け的な人物だそうです。

「南京事件」と報道規制
http://www.geocities.jp/yu77799/houdoukisei.html


『南京事件の真相』(熊本第六師団戦記)より
  未検閲記事は銃殺だぞ

 藤原武情報主任少佐参謀が出発直前に、熊本駅長室に従軍記者代表として、大毎記者五島を命令受領に呼び出す。

 「五島、わが六師団はいよいよ出発征途にのぼるが、オレが情報主任参謀としていっさいの報道関係の責任者だ。従軍記者諸君に伝えろ。よいか、軍に不利な報道は原則としていっさい書いてはいかん。現地では許可された以外のことを書いてはいかん。この命令に違反した奴は即時内地送還だぞ。記事検閲を原則とし、とくに軍機の秘密事項を書き送った奴は戦時陸軍刑法で銃殺だ」

というわけで絶対的な軍命令の報道規制で、報道の自由どころか自由な従軍記事報道は許されない。

「銃殺」の厳命で三すくみにふるえあがるようにして、司令部とともに、二等車に乗って乗船地門司へ行く。

(P191〜P192)



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

これらの総合的効果を『緘口令』というのであって、「緘口令などしかれてなかった」というのはいったい何を根拠にして、いうのでしょうか。

『緘口令』という名前の法律や、命令はなかったから? 

それじゃあまるっきし、ガキの言い逃れですね。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
63 hits

[3558]Re(1):敗戦後、田山大隊長が
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 K−K@南京事件資料集 E-MAILWEB  - 06/10/29(日) 22:42 -

引用なし
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   ▼核心さん:
>父が福島の戦友会の知人から取り寄せた「毎日新聞 福島」の「56年目の証言」に以下の記述があります。
>
>”65連隊の田山芳雄・元第一大隊長(故人)がかっての仲間の兵を訪ね歩いたのは、敗戦後間もなくのことだった。訪問を受けた第一大隊の元上等兵(現81歳・会津地方在住)は、田山氏から「南京での出来事を内証にしてほしい」と頼まれた。「出来事」とは、1937年12月16日、17日に揚子江近くで中国人捕虜を大量虐殺したことだ。”

こんにちは、核心さん。

このことは初耳であり、非常に驚いています。

私も山田支隊に関しては、議論の過程においていろいろ考えて見たのですが、山田栴二少将の日記を含め当時の文書資料と、『南京の氷雨』などに出てくる元将校たちの証言には、大きな隔たりがあることは明白だと思われます。

その原因に関して、以前、どこかの掲示板で、「戦後、口裏あわせをしたのではないか」と書いたことがありましたが、それを裏付ける史料が無かったので、ただの推測ということで終ってしまいました。

今回、核心さんが紹介してくださった史料は、その裏づけととなるものであり、文書史料と証言の食い違いを説明するに、非常に説得力が出てきます。


もしよければ、その引用もとについてもう少し詳しく教えてください。
(1)「毎日新聞 福島」というのは、「毎日新聞」の福島版のことでしょうか?
(2)「56年目の証言」というのは、その地方版の連載記事なのでしょうか?
(3)もし、「毎日新聞」の地方版であるならば、掲載年月日を教えてください。
ぜひ、お願いいたします。
31 hits

[3559]Re(2):敗戦後、田山大隊長が
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 核心 E-MAIL  - 06/10/30(月) 0:11 -

引用なし
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   ▼K−K@南京事件資料集さん:

>(1)「毎日新聞 福島」というのは、「毎日新聞」の福島版のことでしょうか?
>(2)「56年目の証言」というのは、その地方版の連載記事なのでしょうか?
>(3)もし、「毎日新聞」の地方版であるならば、掲載年月日を教えてください。

「毎日新聞」の「福島版」です。
「56年目の証言 南京攻略と会津の65連隊」と言う標題で13回のシリーズになっています。
西野浩史記者の記事です。
第二回目分のコピーに日付が含まれていて「1992年(平成4年)8月12日(水曜日)」となっています。
34 hits

[3562]捏造事件インサイダーとして
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 核心 E-MAIL  - 06/10/30(月) 17:03 -

引用なし
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   ついでに言っておきますと、私も数回、福島県で行なわれた中隊会に父を車で送り迎えしたのですが、この方にお会いしています。
この方は存命中です。
この方からの私信に以下のような文章があります。

”戦争は人間を気違いにする、戦争は絶対にやるべきではないと小生は叫びたい、八十四年八月八日付毎日新聞の貴方様の証言記事を取って有ります、この証言を信じ本当の日中友好と平和はここから出発しなければなりません、相当の勇気が必要で今後とも頑張ってくださいコピーが大変遅れましたがお受け取りください。”

”平成四年九月二十二日”

とあります。
つまり父は戦友会の方には自分の本当の気持ちを伝えてあるんですよ。畠中秀夫氏や板倉由明氏などの捏造記事なんて、端から成り立たないんです。正直なところ父は捏造派の方々にはいい加減に答えてましたから(秦郁彦氏も含めて)。
36 hits

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