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永井荷風の日記『断腸亭日乗』、昭和十二年七月以降を看て見ました。 いわゆる時局柄の記事の最初は、七月十七日でした。
銀座と浅草、国家と庶民、 銀座で見た異国「ニッポン」の光景と、浅草(吉原)に戻って会った夏の宵、時勢に溺れぬ人びととの、情景対比が鮮やかです。
昭和十二年
七月十七日。快晴。暑気甚しからず。午後始て蝉の鳴くを聞く。されどわづかに一二疋の声なり。夜八時過銀座食堂に往き晩飯を喫す。白瓜の雷干味佳なり。不二地下室に立寄るに千香女史歌川氏等在り。街頭には男女の学生白布を持ち行人に請ふて赤糸にて日の丸を縫はしむ。燕京出征軍に贈るなりと云ふ。いづこの国の風習を学ぶにや滑稽と云ふべし。新橋より電車に乗り吾妻橋の公園に赴き見るに、夜は将に十二時に至らむとするに、人多く芝生の上に横臥す。果物の皮新聞紙等狼籍たり。馬道より砂利場に出で仲之町に至る。絵行燈を掛連ねたり。今宵は両国に花火ありてその帰りとおぼしき客多く、引手茶屋の二階はいつになく賑なり。浪花屋の前を歩み過ぐる時鄰の茶屋の腰掛より余を呼ぶものあれば、顧みるに妓小づちなり。今宵はつぶしに結ひて銀のタケ長を掛けたり。此妓の外に猶二三人招ぎて雑談する中夜は忽ほのぼのと白みかかりぬ。
※「馬道より砂利場に出で仲之町に至る。」は、本所ではなく浅草から吉原に到る町名につき、訂正投稿しました。(11/15)
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