留意事項 リ ン ク
メンバー登録 T O P
思考錯誤の全投稿をメール配信して欲しい方、クリックして空メールを送信 管理からのお知らせ 思考錯誤ヘルプ
  新規投稿 ┃ツリー表示 ┃スレッド表示 ┃トピック表示 ┃番号順表示 ┃検索 ┃設定 ┃お蔵入り ┃旧思考錯誤 ┃南京事件資料集  
336 / 645 ツリー ←次へ | 前へ→

[3597]防毒は帝國臣民の思想鍛錬 ピッポ 06/11/17(金) 20:56

[3597]防毒は帝國臣民の思想鍛錬
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 06/11/17(金) 20:56 -

引用なし
パスワード
   永井荷風の『断腸亭日乗』昭和12年11月に、1週間の燈火管制の記事があり、「おやまあ早々と」と思っていたところ、それは1937年どころか、なんと1928年から行なわれていたということではありませんか。

早稲田大学の水島朝穂さんが、ご自分のサイトに文章を公開しています。

平和憲法のメッセージ
http://www.asaho.com/jpn/
「防毒マスクが似合う街」 水島朝穂
 〜『三省堂ぶっくれっと』No.116 July, 1995
http://www.asaho.com/jpn/sansei/116.html

そのごく一部です

「空襲だ!水だ!マスクだ!スウヰッチだ!」

 1928(昭和二)年7月5日から三日間、大阪市で日本初の都市防空演習が実施された。市内各所で、防毒、消防、救護、灯火管制の訓練が行われた。翌一九二九年には、名古屋で同様の訓練が行われた。1930年代に入ると、軍港や軍事施設のある都市を中心に、防空演習が盛んに行われるようになる。しかし、当時は、空襲のリアリティは希薄で、市民の関心はいま一つ盛り上がらなかったようである。この頃の防空演習は、焼夷弾よりもむしろ毒ガス攻撃に対する防毒訓練のほうが重視されていた。一般的な消火・避難訓練よりも、国民の危機感をあおり、緊張を強めて地域社会・市民の「下から」の動員をはかり、管理・統制する上で効果的と判断されたからだろうか。


毒ガス戦準備は、まず自国民の思想教育から、ということだったのでしょうか? あるいは、こうして世界一流「毒ガス保有国」仲間入りを目指そうとしたのでしょうか? げんざい某国が「核保有国」仲間入りを目指しているように。
 
1929(昭和三)年から、陸軍は広島県竹原沖の大久野島で、毒ガス製造を大規模に開始していた(後に中国戦線で実戦使用)。


つづく文章は、当該ページの写真を見ながら読むとわかりやすい。

家庭での毒ガス対策

 防空法(1937年4月5日法律第四七号)一条には、「防空」の定義として、「陸海軍以外ノ者ノ行フ灯火管制、消防、防毒、避難及救護竝ニ此等ニ関シ必要ナル監視、通信及警報」とある。防毒は「防空」の不可欠の構成部分をなしていたわけである。防空法制定直前に出された東部防衛司令部編纂『わが家の防空』(軍事会館出版部発行、1936年)の裏表紙には、次のようなスローガンが掲げられている。「空襲だ!水だ!マスクだ!スウヰッチだ!」、「一に灯管〔灯火管制〕・二に防火・三に防毒・四に笑顔」、「防火防毒洩らすな灯火・断じて守れ国の空」。この時期、関西方面でも全く同じスローガンが掲げられていた(第四師団司令部編『家庭防空』神戸・防衛思想普及会発行、1936年)。これらの資料には、毒ガス対策が、焼夷弾よりも大きなスペースを割いて紹介されている。そのなかで、「都市に対するガス空襲は市民を殺傷する効力よりも寧ろ精神的脅威を與へる効果が大である」(前掲『家庭防空』30頁)とされているのが注目される。姿が見えず、何処ともなく忍び寄る「毒ガス攻撃」の恐怖や不安を煽ることは、地域社会や市民の管理・統制には実に効果的であったといえよう。


このような形で「毒ガス思想先進国」の座を得て、日中戦争においては、中国側の防毒マスクの劣等なるをもって、毒ガス戦推進が図られたのですね。

☆南京攻略戦においても予定されていた[3582]参照
▼「南京攻略に関する意見送付の件 」昭和12年11月30日
丁集団参謀長から陸軍次官あて、南京攻略に関する意見。

※なお民間防空のアホらしさ、ナンセンスについては、
桐生悠々が「関東防空大演習を嗤う」一九三三(昭和八)年八月十一日にて指摘しています。
▼桐生悠々『他山の石』の言論抵抗
http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/~maesaka/021226_contents/kiryuuyuuyuutotazannnoishi_20040406.pdf
▼防空演習(弊サイト)
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/404.html

関東防空大演習は一九三三(昭和八)年八月九、十、十一日の三日間にわたり、人口五百万人の帝都・東京を中心に一府四県にわたって実施された。演習地域は帝都を中心に直径三百キロに及び攻撃方は陸海軍の航空部隊や航空母艦の艦上機がこれに当り、防衛方には陸軍の戦闘機三個中隊が回った。史上空前の大規模な演習であった。
(中略)
問題となった桐生の社説は、演習二日目の模様を報ずる第一面左横に掲載された。「関東防空大演習を嗤う」(八月十一日)と、特に嗤う″という挑戦的な見出しがついていたが、内容は冷静、科学的に防空演習の目的、狙いを分析して批判、提言しており、決して反軍的というものではなかった。
(中略)
「この名(「関東防空大演習」)の如く、東京付近一帯に亘る関東の空において行われ、これに参加した航空機の数も非常に多く、実に大規模のものであった。若しこれが実戦であったならば、その損害の甚大にして、しかもその惨状の言断に絶したことを予想し、痛感したであろう。というよりもこうした実践が将来決してあってはならないこと、又あらしめてはならないことを痛感したであろう。と同時に、私たちは将来かかる実戦のあり得ないこと、従ってかかる架空的なる演習を行っても、実際には、さほど役立たないだろうということを想像するものである。

将来若し敵機を帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ、人心阻喪の結果、我は或は、敵に対して和を求めるべく余儀なくされないだろうか。なぜなら、是の時に当り我機の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を射落すこと能わず、その中の二三のものは、自然に、我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来り、爆弾を投下するだろうからである。


23 hits

336 / 645 ツリー ←次へ | 前へ→
  新規投稿 ┃ツリー表示 ┃スレッド表示 ┃トピック表示 ┃番号順表示 ┃検索 ┃設定 ┃お蔵入り ┃旧思考錯誤 ┃南京事件資料集  
ページ:  ┃  記事番号:   
314965
(SS)C-BOARD v3.8(とほほ改ver2.2) is Free
タブブラウザ Sleipnir 公式ページ(上級者向け) [AD-SIZE] Get opera goo RSSリーダー
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送