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[3612]民主主義と全体主義 とほほ 06/11/28(火) 18:23
[3779]Re(1):民主主義と全体主義 Anpontan 07/1/1(月) 5:24
[3780]Re(2):民主主義と全体主義 とほほ 07/1/1(月) 6:24

[3612]民主主義と全体主義
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 とほほ E-MAILWEB  - 06/11/28(火) 18:23 -

引用なし
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   私たちは共産主義嫌いです(笑)、なぜなら子供の頃から大人からもアメリカからもカルト宗教のように聞かされてきましたし、実際にその体制の行っていることを心から嫌悪しました。が、しかし共産主義で一番嫌悪していた事はないかといえば「全体主義」です。自由の制限です。この問題は非常に難しく正に綱渡りのようにバランスをとって操縦せねば成りません、共産主義とは「平等」の追求であり資本主義(共産主義に資本主義を対比させるのは思想的には不適当なので、西側民主主義と言う言葉のほうが適当かもしれません)とは「自由」の追求です。

これは「自由」を追求する事は「平等」を損なうことと同意です。その逆もしかりで「平等」を追求することもまた自由を損ないます。このバランスを失ったときに台頭するのがどちらの体制でもファシズムです。近代民主主義の概念で一番大切なものが「博愛」なのです。「博愛」を失った「自由」も「平等」もともに理想社会を実現させることはできません。

親日だの反日だの親中・韓だの反中・韓だのと言う概念を持っている時点でどちらの体制もファシズム体制なのです。

では、以下は以前に書いた文章から
【最近、日の丸君が代を毛嫌いする政党、教職員団体への白眼視が進んでいるように思います。他人事の様に書きましたが、私自身も、そういった団体を怪訝な気持ちで見ております。】

以上は[471]Re(1):今、教育現場の最前線では。
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=400;no=471;id=sikousakugo#atop
において佐藤氏が臆面も無く公言した言葉である。確かにこの手の佐藤氏のようなろくでもない人間が増えてゆけばそうした【白眼視】をされる人々も増えていくだろう。佐藤氏はこれが差別である事に気がついているのだろうか?石原慎太郎や小林ヨシノリがこうしたことを公然と発言する尻馬に乗っかってネットの匿名性をいい事に糞小便を撒き散らす輩にもまことに困ったものである。

歴史に学ばない人間はこれが所謂【ファシズム】の基本エネルギーである事に愚かにも気がつかない。唾棄すべきファシストと言えよう。
「考えるのは自由、しかし、、、」
馬鹿ではないか、自分の考え通りに行動することを【自由】というのだ。

日本の社会では個人が政治的な信条を主張することが、何か「偏っている人間」
と見られがちだ。これは政治を執り行う人間とは権力闘争団体の人間であって、政治とはそれらの権勢の単なる覇権争いに過ぎない、と言う時代の名残である。
つまり庶民が権力の奴隷であった時代の考え方であり、まさに奴隷根性の伝統である。

民主主義とは政治の主体が民衆にある体制のことである、個人個人が政治参加する体制のことである。日本国憲法の精神からすると偏っているのは当たり前なのである。言葉の使い方に語弊があるかもしれないが、これは誰でも他者から見れば偏っているのである。
貴方から私を見れば偏っているし私から彼を見れば偏っている、その偏っているもの同士が共存共栄する社会を民主社会と言うのであって、そうした政治的な偏りを根拠に「白眼視」する体制・社会こそが【全体主義】体制なのだ、そして統一された政治理念、一党独裁、独裁へと進むのだ。

私は共産主義については恥ずかしながら勉強不足で妥当な評価であるか否かはわからないが、少なくとも既存の共産主義体制国家に言えることが正にこの全体主義であり、我々がもっとも忌むべき考え方である事をしっかりと声に出して弾劾せねばならない。

当掲示板では何度目かの提示([#116])になるがもう一度提示しておきたい。

渡辺洋三『日本国憲法の精神』(新日本新書)---

国民主権の考え方からすると、国民は一人ひとりが政治の主体でありますから、中立ということはありえないことです。日本語の「中立」というのは、たとえばAとBという人が争っている、その争いにたいして関係のない第三者のCという人が中立だ、という意味です。けれども、政治についてはすべての国民が当事者ですから、第三者にあたる人はいないわけです。そういう意味で、国民主権の原則からは政治的中立という考え方は出てくる余地がありません。国民は、どんな立場でもいいのですが、とにかくなんらかの政治的立場を持っていなければならないはずです。ところが日本では「どの立場にも属さない」ことが政治的中立という言葉で語られています。こういうことが通用するのは日本ぐらいではないでしょうか。 日本人は自分の政治的立場を明らかにして議論するということをしません。私はこれを日本社会の非政治的体質と呼んでいます。自分の政治的立場を明らかにして行動すると、何か片寄っているというようにみられがちです。ほんとうは、片寄っていない人というのはいないはずなのです。例えば自民党から見れば共産党は片寄っているし、共産党から見れば自民党は片寄っているわけで、つまり、相対的なものです。それが日本では、どこにも属さないことが片寄っていないことになるという変な理解とすりかわってしまいます。これは非常に大きな問題です。
日本の社会で政治運動がたいへんやりにくいということも実はこれと関係があります。政治運動を行うと、片寄っている特別な人間のように見られるという社会的土壌は、根本的に民主主義の歴史が浅いというところからくるのだと思います。
このように、日本社会における政治的後進性というべきものが国民の意識の中にもあるのです。
(23p)
こうした一部佐藤氏のような卑屈な人間の考え方が例のイラクで人質になった人たちへの不条理なバッシングを引き起こす、まことに恥ずかしい日本社会である。

今回、フランスの女性ジャーナリストが開放されたそうだ。それを国家的行事のように祝うフランスの政治家や民衆や活動家や体制と、やれ「自己責任だ」「他人の迷惑も考えろ」等とのたまう首相や国民とでは正に【民度】が歴然と異なるであろう。

AMLより抜粋。
From:   hagitani ryo <gitani@sa.netlaputa.com>
Reply-To: "〓" <aml@list.jca.apc.org>
To:<略>
Subject: [AML 1902] 人質の仏女性記者とイラク人ガイド150余日で解
放!!

 オブナさんの事件は、全ヨーロッパが関心をもち、心配していたと言っていいでしょう。日本とのあまりの違いには、言う言葉もありません。
 彼女が捕らえられて以来、大勢の人が助命嘆願のデモや集会やアピールを繰り返し、政府も協力して、二人の大きな写真があちこちの公共の場に掲示されたのです。
 イタリアのNGOの女性職員(二人のシモーナ)や、イル・マニフェスト(共産主義者の新聞)の記者、ジュリアーナ・ズグレーナさんのときも、解放のときは、お祭り騒ぎでしたが、ビデオ画像で心身ともに衰弱の様子を見せていたオブナさんの無事の帰国をフランス人はどんな騒ぎで迎えることでしょうか。

49 hits

[3779]Re(1):民主主義と全体主義
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 Anpontan  - 07/1/1(月) 5:24 -

引用なし
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   とほほさんの問題提起、大変興味深く読ませていただきました。
特に、以前のとほほさんの投稿は、民主主義を支える人間にとって一読の価値はあるのではないでしょうか。私もこれに関して最近思うことが多いので僭越ながら意見を述べたいと思います。

日本の国民をして、「投票日だけの有権者だ」という評価を以前耳にしたことがあります。政治運動には、為政者に常に民意に沿った政治を行わせる(あるいは、民意に沿わない政治をストップさせる、でもよい)という意義があり、民主主義の核心である投票行動と表裏一体のものだと考えられないでしょうか。ですから、政治運動自体を白眼視する一方で、「定率減税廃止されたら困る」などと不平をぐちぐちとこぼしている、という状況は民主主義国家としては理解しがたい現象だと言えるでしょう。政治運動の方法・主張に反対すること(これは、とほほさんの仰る「自由」の追求、ということになるかと思います)と、政治運動自体に反対することは全く違います。政治運動自体を否定することは、民主主義を半身不随にしてしまうことに等しいのです(にも関わらず、政治運動自体を白眼視しながら、堂々と北朝鮮やイラクと違って日本は民主主義国家だと主張している人間もいるのはおかしくも恐ろしいことです)。

労働組合に関しても、似たようなことが言えるのではと感じています。ホワイトカラーエグゼンプションの施行は、現場で働く人間が不安と不満を感じているにも拘らず、具体的に対策を打てていないように感じます。これは労働組合の組織力が落ちてしまっていることが原因だとは考えられないでしょうか?労組の組織力を(イデオロギーから離れて)高める必要があるのでは、というのが今の私の見解です。

最後に、とほほさんの意見に関して質問をしたいのですが、「親日」や「反日」といった概念を持つこと自体がファシズムだという点について、具体的に説明していただけないでしょうか?民主主義では、個々の人間が、自身の考えが「中立公正」とか、「中道」、「客観的」というように認識しているよりは、自身の思想の偏頗を認識している(以前のとほほさんの投稿になぞらえれば、「私」の考えを「偏っている」と感じている「彼」がいることを「知っている」ということになるでしょうか)いるべきだ、というのが私の考えなのですが…。
35 hits

[3780]Re(2):民主主義と全体主義
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 とほほ E-MAILWEB  - 07/1/1(月) 6:24 -

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   ▼Anpontanさん:
>とほほさんの問題提起、大変興味深く読ませていただきました。

ども、ありがとうございます。(^.^)/

>最後に、とほほさんの意見に関して質問をしたいのですが、「親日」や「反日」といった概念を持つこと自体がファシズムだという点について、具体的に説明していただけないでしょうか?

これはそんなに難しいことではないと思うのです。
単純に「親日本」とか「反日本」と言うところの「日本」とは何のことなのか?と言う思考から民主主義を考えるとわかりやすいのではないでしょうか?

ここで言う「日本」が体制や政権や自民党のことであるならば、民主主義の概念からして、それに反対するものを反日とする事は論理的に成立しません。
「日本社会」と言う広義の意味での概念のことであれば、そもそも「反日本社会」と言う概念を意味するものがつかめてこないわけです。

これまで私が何度か書いていることなのですが民主主義を以下のように定義した場合、「社会」と言うのは個人個人の関係式なわけですから、地域であるとか社会であるとかの前に個人個人の関係式が先に成立してなくてはならないからです。
民主主義とは何か?
民主主義とは、自由、平等、博愛のスローガンのもと、民衆が主権を持ち司法行政立法の三権を施行するという思想。この思想の成り立たない社会はいかなる国家体制経済体制にあろうとそれは民主社会ではない。逆に共産主義体制であろうとこれが成り立っておればそれは民主主義である。

では民主社会の「民」すなわち民衆とは何か?
それは個人個人の集まりである、個々人の集合が「民」である。
「主」は主権の事であり民衆が主権を持つと言う意味になる。
では「社会」とは何か?
これはつまり集結した個々人の関係式に相当する。
つまり、民主主義に(国民国家的)国境は要らないのです。従って反日であるとか親日と言う概念はナショナリズムの上にしか成り立ちません。民主主義にナショナリズムは必要ないわけです。誤解のないように付け加えますが、ナショナリズムは決して人間が社会を形成していく上で不必要だと言っているのではないです。むしろ不可欠なものであるともいえるかもしれません。

私の先の論考は、それ以前の論考の蓄積の上にあります、もし暇でもあったら下記の論考も読んでやってください(^^ゞ
日本人のお行儀(2004/09)
都教委の強制(2004/07)
【署名協力願い】小学校6年生の拘禁+送還
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