留意事項 リ ン ク
メンバー登録 T O P
思考錯誤の全投稿をメール配信して欲しい方、クリックして空メールを送信 管理からのお知らせ 思考錯誤ヘルプ
  新規投稿 ┃ツリー表示 ┃スレッド表示 ┃トピック表示 ┃番号順表示 ┃検索 ┃設定 ┃お蔵入り ┃旧思考錯誤 ┃南京事件資料集  
325 / 645 ツリー ←次へ | 前へ→

[3638]長師団参謀長からの「勅命」により 核心 06/12/9(土) 8:37
[3640]Re(1):長師団参謀長からの「勅命」により ピッポ 06/12/9(土) 18:30
[3641]筆跡が特徴的 核心 06/12/9(土) 18:49
[3645]Re(1):長師団参謀長からの「勅命」により eichelberger_1999 06/12/10(日) 16:45
[3646]ありがとうございます。 核心 06/12/10(日) 17:49
[3655]Re(2):長師団参謀長からの「勅命」により タラリ 06/12/12(火) 0:28
[3658]この手紙の意図 核心 06/12/12(火) 18:34
[3661]Re(1):この手紙の意図 eichelberger_1999 06/12/13(水) 12:27
[3662]Re(2):この手紙の意図 核心 06/12/13(水) 12:47
[3659]Re(3):長師団参謀長からの「勅命」により eichelberger_1999 06/12/13(水) 12:14
[3660]両角氏をかばうため 核心 06/12/13(水) 12:26
[3666]Re(4):長師団参謀長からの「勅命」により タラリ 06/12/13(水) 21:16
[3667]合計では7万人 核心 06/12/13(水) 22:08
[3668]中国人捕虜の取り扱いに関して 核心 06/12/13(水) 22:16
[3669]このチャンコロめ 核心 06/12/13(水) 22:24
[3671]罪責感を隠すためのウソ タラリ 06/12/13(水) 22:30

[3638]長師団参謀長からの「勅命」に...
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 06/12/9(土) 8:37 -

引用なし
パスワード
   父(栗原利一)のスケッチ帳に加筆された田山大隊長の話のもとになった手紙が見つかりました。
昭和59年8月25日の受け取りで福島県平局から発送された手紙で内容は以下の通りです。

”残暑御見舞い申し上げます。
 五十九年八月八日毎日新聞掲載の南京虐殺の記事近所の方より拝借して拝見いたしました。小生の見たまま聞いたままをお伝えします。幕府山、鳥龍山両要塞より投降した中国兵の件について、田山大隊長は山田旅団長に指示をあおぎ、これが型通り東京へ、東京より畑司令部・宮様の方面軍司令部、十三師団司令部、そして長師団参謀長より「勅命」の二字によって実施を命ぜられた。田山大隊長は「俺はクリスチャン」なのにどうしてこんなことをしなければならないのか男泣きでした。主計少尉佐藤雄三氏の人道主義の立場から極めて強い意見具申をされた。しかし「勅命」の二字には勝つことができないと云われた。四十七年間も当時の将校、兵隊もこのことについて口にしなかったのは累を陛下に及ぶことを恐れたからです。

 日本人の口を封じても、中国人の口を封じることは出来ません。十三師団の一番長く駐留した湖北省は父、夫、子供を上海戦線以来祖国防衛のため捧げている。わが十三師団が上海上陸以来どんな行動をした部隊であるかよく知っている。南京虐殺をまぬがれて(揚子江を渡り)故郷湖北省に帰郷した者がいる。上海戦線での戦死者の御遺族が語る胸中は小生を苦しめ、楽しい日は一日もありません。

 兵は凶なり、徴兵検査、一銭五厘 恐ろしい、悲しい星のもとに生まれた自分を残念に想い、今は静かに日中両国民の為毎朝祈念しています。

 お体を大切に  合掌”
24 hits

[3640]Re(1):長師団参謀長からの「勅...
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 06/12/9(土) 18:30 -

引用なし
パスワード
   ▼核心さん:
>父(栗原利一)のスケッチ帳に加筆された田山大隊長の話のもとになった手紙が見つかりました。
>昭和59年8月25日の受け取りで福島県平局から発送された手紙で内容は以下の通りです。
>
>”残暑御見舞い申し上げます。
> 五十九年八月八日毎日新聞掲載の南京虐殺の記事近所の方より拝借して拝見いたしました。小生の見たまま聞いたままをお伝えします。幕府山、鳥龍山両要塞より投降した中国兵の件について、田山大隊長は山田旅団長に指示をあおぎ、これが型通り東京へ、東京より畑司令部・宮様の方面軍司令部、十三師団司令部、そして長師団参謀長より「勅命」の二字によって実施を命ぜられた。田山大隊長は「俺はクリスチャン」なのにどうしてこんなことをしなければならないのか男泣きでした。主計少尉佐藤雄三氏の人道主義の立場から極めて強い意見具申をされた。しかし「勅命」の二字には勝つことができないと云われた。四十七年間も当時の将校、兵隊もこのことについて口にしなかったのは累を陛下に及ぶことを恐れたからです。
>
> 日本人の口を封じても、中国人の口を封じることは出来ません。十三師団の一番長く駐留した湖北省は父、夫、子供を上海戦線以来祖国防衛のため捧げている。わが十三師団が上海上陸以来どんな行動をした部隊であるかよく知っている。南京虐殺をまぬがれて(揚子江を渡り)故郷湖北省に帰郷した者がいる。上海戦線での戦死者の御遺族が語る胸中は小生を苦しめ、楽しい日は一日もありません。
>
> 兵は凶なり、徴兵検査、一銭五厘 恐ろしい、悲しい星のもとに生まれた自分を残念に想い、今は静かに日中両国民の為毎朝祈念しています。
>
> お体を大切に  合掌”

核心さん

貴重な書簡読ませていただいてありがとうございます。
この手紙どなたからのものか、お名前は公開すべきでないかもしれませんが、きっと田山大隊長の傍にいたからからなのでしょうね。「大体本部付(階級)」の方とか、差し障り無い範囲で差出人の人物像の一端をご紹介いただけないでしょうか?史料的意味を高めるために。
26 hits

[3641]筆跡が特徴的
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 06/12/9(土) 18:49 -

引用なし
パスワード
   ▼ピッポさん:

>差し障り無い範囲で差出人の人物像の一端をご紹介いただけないでしょうか?

筆跡が特徴的なので父宛ての葉書や手紙と較べてどなたか判明したらお知らせしたいと思います。
45 hits

[3645]Re(1):長師団参謀長からの「勅...
←back ↑menu ↑top forward→
 eichelberger_1999 E-MAIL  - 06/12/10(日) 16:45 -

引用なし
パスワード
    核心さん、はじめまして。

 私は、以前、「山田日記」と「飯村日記」をもとに、山田支隊の幕府山捕虜大量殺害事件が、どのような命令系統のもとに実行されたかを分析したことがあります。私の結論は、南京にいた第16師団に捕虜の接収を命じた上海派遣軍司令部が、第16師団の接収拒否にであって、逆に捕虜の殺害を容認し、山田支隊にそれを指示したと推測できる、というもので、K-Kさんの「南京事件資料集」に掲載していただいております。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/butaibetu/yamada/eichel.html

 今回、核心さんが紹介された元山田支隊の一員であった方のお手紙は、幕府山の捕虜大量殺害が、山田支隊の独断によるものではなくて、より上級の上海派遣軍からの指示にもとづくものであったことを示す、きわめて貴重な証言だと思います。

 ただ、事件から50年を経た時点での回想ですので、細かい事実関係にまちがいが含まれるのは、やむをえないことで、それによって証言の本質(「大量の捕虜の扱いについて、山田支隊長が上海派遣軍司令部に指示を仰いだところ、捕虜を殺害せよとの指示が出され、山田支隊はやむなくそれにしたがった」という事実関係)は、いささかも損なわれるものではありません。しかし、世の中には細かい揚げ足をとって、証言の価値を貶めようとする者が少なからずおります。
 すこしばかりの史料批判をおこなうことで、それに対する防止措置をあらかじめおこなっておくと、そのような場合にも安心だと思われますので、この場をかりて、2、3コメントをさせていただきます。


▼核心さん:
>幕府山、鳥龍山両要塞より投降した中国兵の件について、田山大隊長は山田旅団長に指示をあおぎ、これが型通り東京へ、東京より畑司令部・宮様の方面軍司令部、十三師団司令部、そして長師団参謀長より「勅命」の二字によって実施を命ぜられた。

 まず細かい事実関係ですが、「畑司令部」は記憶ちがいで、「松井司令部」が正解です。第13師団は中支那方面軍(司令官は松井石根大将)が解体され、中支那派遣軍(司令官は畑俊六大将)に代わったあとも、長江北岸にずっとそのまま駐屯していましたので、両者を混同する記憶ちがいが生じたのだと思われます。
 「宮様の方面軍」は宮様すなわち朝香宮鳩彦王が司令官をつとめていた上海派遣軍のことですが、「方面軍」ではありません。正しくは「宮様の派遣軍」というべきところです。
 また、ここに「十三師団司令部」とあるのも、記憶ちがいによると思われます。幕府山事件当時、山田支隊は一時的に第13師団司令部の指揮下から外れており、上海派遣軍司令部の直接の指揮下におかれていました。第13師団の本隊は、山田支隊とわかれて、鎮江から長江を渡って対岸に進出しており、山田支隊は派遣軍の命令により、長江を渡らすにそのまま南下して、南京に向かったのです。事件当時の指揮系統は上海派遣軍→山田支隊です。

 さらに「長師団参謀長」も間違いです。長勇中佐は第13師団の参謀長ではなく、上海派遣軍の参謀です。第13師団の参謀長は畑勇三郎大佐で、彼は師団主力と行動をともにしており、幕府山事件とは直接関係をもちません。

 さて、これらの記憶ちがいを訂正して、この証言を再構成すると、以下のようになります。

 田山大隊長は山田旅団長に指示をあおぎ、これが型通り東京へ、東京より松井司令部・宮様の派遣軍司令部、そして長派遣軍参謀より「勅命」の二字によって実施を命ぜられた。

 もっとも、これが事実そのままかというと、かならずしもそうとは言えません。ここには、捕虜殺害は「上海派遣軍からの命令であった」という事実と、なぜそんな不法な命令にしたがわざるをえなかったのか、またそのことをかんたんには公にできない、それなりの理由があるのだという、弁解の論理とが併存しているからです。
 事実でないと思われるのは、「これが型通り東京へ、東京より松井司令部」という箇所です。山田支隊長から指示を求められた上海派遣軍司令部が、より上級の松井司令部および東京の大本営に指示を仰いだというのは、事実ではありません。少なくともそれを裏づける史料や証言は存在しません。

 ただし、上海派遣軍の司令官が皇族であり、その命令は「勅命」に等しいということで、長参謀が山田支隊に圧力をかけたのかもしれませんし、しかしそれよりも、山田支隊が、そのような理屈をたてることで、そのような命令を実行するのを自分たちに納得させたのだと解したほうがいいように思われます。

 また、手紙にもありますように、戦後になっても真相を明らかにしなかったのは、また栗原伍長の証言に対して公にそれを支持する態度を明らかにできないのは、それをすると、累が皇族さらには天皇にまで及びかねないからであるとの、ある種の弁解の論理をなりたたせるためにも、そのような(事実でない)解釈が定着してしまったのだと思われます。

 上記の点を考慮して読めば、この証言は真相をよくあらわしているのでないかと思われます。
23 hits

[3646]ありがとうございます。
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 06/12/10(日) 17:49 -

引用なし
パスワード
   ▼eichelberger_1999さん:

ありがとうございます。
私もこの手紙は筆者が特定できない限りそれほど有効な資料にはならないと考えています。筆者が特定できない場合でも筆跡から年齢などが推定できれば多少は真実性が増すのかなとは思っていますが。むしろ佐藤雄三と言う方が「人道主義の立場から」と言ったことが事実なのかどうか調べるきっかけにでもなればと考えています。
42 hits

[3655]Re(2):長師団参謀長からの「勅...
←back ↑menu ↑top forward→
 タラリ E-MAIL  - 06/12/12(火) 0:28 -

引用なし
パスワード
   ▼eichelberger_1999さん:

> 私は、以前、「山田日記」と「飯村日記」をもとに、山田支隊の幕府山捕虜大量殺害事件が、どのような命令系統のもとに実行されたかを分析したことがあります。私の結論は、南京にいた第16師団に捕虜の接収を命じた上海派遣軍司令部が、第16師団の接収拒否にであって、逆に捕虜の殺害を容認し、山田支隊にそれを指示したと推測できる、というもので、K-Kさんの「南京事件資料集」に掲載していただいております。
>http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/butaibetu/yamada/eichel.html
>
> 今回、核心さんが紹介された元山田支隊の一員であった方のお手紙は、幕府山の捕虜大量殺害が、山田支隊の独断によるものではなくて、より上級の上海派遣軍からの指示にもとづくものであったことを示す、きわめて貴重な証言だと思います。


私はeichelberger_1999さんの「上海派遣軍司令部は当時南京に行ってはおらず、湯水鎮にあったのだから、山田支隊に『皆殺せ、とのことなり』と「命じた」のは十六師団であった」という認識を受け継がせていただきました。

しかし、eichelberger_1999さんとは異なり、殺害は両角連隊長と山田支隊長らの独断である、という説を立てました。その根拠は上海派遣軍司令部が捕虜の上海後送を企画し、第十六師団への接収を指示したまでは資料から断定できるが、殺害命令に切り替えた、という資料がないということにつきます。飯沼日記では接収指示はあるが、殺害指令は書いてなく、また、山田支隊の捕虜虐殺後の「噂話」(これは山田支隊による情報操作でしょう)を榊原参謀から聞いても「遂に要領を得すして帰りしは此不始末の為なるへし」、「下手なことをやったもの」(上村利道日記)と殺害を実行しなかったことに対する怒りはひとかけらもないのです。

核心さんご紹介の手紙は上海派遣軍司令部の殺害命令を支持する資料ですが、これを読んでも上記の理由を修正する必要はないと考えます。

この手紙の特徴はeichelbeger_1999さんご指摘の通り、基本的な間違いが多いことです。手紙の筆者は上級将校のレベルの情報に接する立場にはなく、下へ下へと流れてくる伝聞を記憶に止めている立場にあることを示しています。しかし、基本的な間違いが多いだけで否定をするのではありません。ある種の操作を受けた情報であることが信頼できない理由です。


>田山大隊長は山田旅団長に指示をあおぎ、

この情報も誤りがあると思います。
田山大隊長が指示をあおぐとすれば両角連隊長でなければなりません。

>田山大隊長は「俺はクリスチャン」なのにどうしてこんなことをしなければならないのか男泣きでした。

田山大隊長がクリスチャンとすれば、山田支隊を命令を伝達(?)に来た憲兵将校もクリスチャン、山田支隊長もクリスチャン(『「南京大虐殺」のまぼろし』による)なので、クリスチャンだらけでおかしい。これは伝聞の中で山田支隊長のキャラが田山大隊長に投影ないし移植されたものであろう。田山大隊長が捕虜の殺戮をしぶしぶやったことを示唆する記述はどの資料にも存在しない。

>しかし「勅命」の二字には勝つことができないと云われた。四十七年間も当時の将校、兵隊もこのことについて口にしなかったのは累を陛下に及ぶことを恐れたからです。

「勅命」なるものはこの手紙の筆者の語るストーリーの中で、ちょうど両角手記にある、「しかし、軍は強引にも命令をもって、その実施をせまったのである」と同じ役割を果たしている。

「勅命」や「軍命令」があったのなら、ただ命令により殺害した、と書けば済むことである。なぜ、山田支隊長、両角連隊長、田山大隊長らは一様に「涙を飲」まなくてはならないのであろうか。理由は明快である。軍命令、勅命などなかった、なのに山田、両角の合議で捕虜虐殺を決定したからこそ、罪の意識に堪えられず、「涙を飲んで」という下りを挿入せずにはおられなかったのである。

この手紙の構造は主要キャラクターの役割が両角手記や山田栴二氏の描く幕府山事件の場合と較べて横滑りしているにも関わらず、その基本構造、ストーリー展開は本質的に同じである。

否定派の描く一般的ストーリーはこうである。

1.捕虜を殺害せよと司令部がいってきた
2.○○××長が非情な命令であると悩む
3.軍命令ときつく言ってきた
(4.やむなく捕虜解放をした)
(5.捕虜が騒いだので発砲した)
(6.少数しか殺害しなかった)
7.戦後になっても△△に累を及ぼすので黙っていた
(注:4.5.6.の内容はこの手紙にはない)

否定派の主張は「軍命令」はあったとしても、山田支隊は従わなかった、である。これで否定派の持つ罪責感はあらかた払拭されるが、その上「軍命令」そのものも実は存在しなかったなら、なお罪責感が少なくてすむ。なので長参謀の無法を示唆するのが鈴木明、板倉由明ら否定派の手法の共通項である。

しかし、山田支隊生き残りにとっての期待は「軍命令」(あるいはそれ以上)であれば、自分たちの責任ではなくなる。この手紙では「勅命」まで持ち出して支隊の責任を否定している。これは天皇に累が及ぶことを避けるため黙秘していた、というもうひとつの責任逃れのために創作したウソである。この、黙秘の正当化は山田支隊生き残りにとってのみ必要なことであった。この手紙の筆者はおそらく、幕府山事件が話題になるに及んで、おそらく旧上官からそのような情報操作された出鱈目を吹き込まれたのだと推定される。
32 hits

[3658]この手紙の意図
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 06/12/12(火) 18:34 -

引用なし
パスワード
   ▼タラリさん:

>おそらく旧上官からそのような情報操作された出鱈目を吹き込まれたのだと推定される。

これは正解だと思います。
もしくは相当、意図的な手紙だと思います。
父は私に「あれほどのことは両角さんの指示(了解?)が無ければできない事だ。」と言ってました。
恐らく両角氏をかばう意図での手紙だと思います。
46 hits

[3659]Re(3):長師団参謀長からの「勅...
←back ↑menu ↑top forward→
 eichelberger_1999 E-MAIL  - 06/12/13(水) 12:14 -

引用なし
パスワード
    タラリさんの御説は、前から承知しております。しかし、私自身は自説を変更すべきだとは思いませんでした。
 タラリさんの御説に反論するのは、けっこう手数がかかるので、ここでは、ごく簡単にとどめておきます。

▼タラリさん:
>しかし、eichelberger_1999さんとは異なり、殺害は両角連隊長と山田支隊長らの独断である、という説を立てました。その根拠は上海派遣軍司令部が捕虜の上海後送を企画し、第十六師団への接収を指示したまでは資料から断定できるが、殺害命令に切り替えた、という資料がないということにつきます。飯沼日記では接収指示はあるが、殺害指令は書いてなく、

 たしかに飯沼日記には「殺害指令」は書いてありません。しかし、同様に、山田日記にも両角日記にも、「独断で捕虜殺害を企図した」とは書いてありません。また、飯沼日記にも山田支隊は勝手に捕虜殺害をしたとも書かれてありません。

 山田日記からわかるのは、16師団から捕虜接収を拒否された山田支隊長が、捕虜の処置に困って、相田中佐を派遣軍司令部に送って「打合」させたことです。そして、そのあとから組織的な捕虜殺害がなされました。

 私は、この事実の前後関係から捕虜殺害は派遣軍司令部の了解のもとでなされた、つまり実質的に捕虜殺害の指示が出されたと推論しましたが、タラリさんは、派遣軍司令部が「16師団に捕虜接収」(すなわち捕虜殺害の否定)をあくまで主張してつっぱねたために、処置に困った山田支隊幹部が、独断で捕虜殺害を実行したと解釈されたわけです。
 この「打合」の内容についても、上海派遣軍は殺害を指示したとか、了解したとか、資料には書いてありません。しかし、タラリさんの御説にある
「「何を言う。すでに十六師団に対しても命令は出している。山田支隊は命令通り十六師団に引き取りをしてもらえ」と突っぱねた」を支持するような内容も、同様に書かれてありません。その点では、私の説だけがとくに資料的根拠に欠けるわけではありません。

 かりに百歩譲って、16日に派遣軍司令部が相田中佐に対して「何を言う。すでに十六師団に対しても命令は出している。山田支隊は命令通り十六師団に引き取りをしてもらえ」と言ったとしたとしても、当時山田支隊がおかれていた状況(大量の捕虜をかかえながら、19日には長江を渡って浦口に進出しなければいけない)をかんがえれば、これは事実上、捕虜殺害を使嗾したに等しいものであることは、タラリさんならおわかりになると思います。こういう言い方をすれば、窮地に追いやられた山田支隊が捕虜殺害を実行するであろうことは、おそらく派遣軍司令部の参謀達にもわかっていたはずです。

 その意味では、この言い方は「捕虜殺害の容認」に等しいと言っていいでしょう。ただし、その責任を山田支隊に一方的に押しつける、きわめて卑怯なふるまいです。
 
 つまり、タラリさんの解釈にしたがっても、たしかに派遣軍司令部は表面の言葉の上では「殺害命令を出していない」にはちがいないとしても、山田支隊がそれを実行せざるをえない状況に追い込むことで、ほぼそれと同じ効果を発揮する指示をだしたことになります。
 派遣軍司令部は、16師団に命令を守らせることができない自分たちの無力を山田支隊に転嫁し、彼らに責任をかぶせたのですから、その責任は重大です。

>また、山田支隊の捕虜虐殺後の「噂話」(これは山田支隊による情報操作でしょう)を榊原参謀から聞いても「遂に要領を得すして帰りしは此不始末の為なるへし」、「下手なことをやったもの」(上村利道日記)と殺害を実行しなかったことに対する怒りはひとかけらもないのです。

 飯沼参謀長にしても、上村参謀副長にしても、山田支隊が捕虜の「殺害を実行しなかった」と認識していたのではありません。山田支隊が捕虜を殺害していることを彼らは、当然のことのように受け取っています。日記にみるかぎり山田支隊が「16師団に捕虜接収」(捕虜殺害をするな)という派遣軍の命令を守らずに、独断で捕虜殺害を実行したことに対する「怒りはひとかけらもない」のです。
 彼らが「不始末」「下手なこと」を感じたのは、捕虜の殺害の途中で相打ちをしたこと、一部の捕虜に逃げられたことであって、「捕虜殺害」そのものではありません。

>「勅命」や「軍命令」があったのなら、ただ命令により殺害した、と書けば済むことである。なぜ、山田支隊長、両角連隊長、田山大隊長らは一様に「涙を飲」まなくてはならないのであろうか。理由は明快である。軍命令、勅命などなかった、なのに山田、両角の合議で捕虜虐殺を決定したからこそ、罪の意識に堪えられず、「涙を飲んで」という下りを挿入せずにはおられなかったのである。

 捕虜の大量殺害は、犯罪行為ですから、たとえ命令があったとしても、いざそれを実行するとなれば、大きな抵抗を感じるのはごく普通です。ほんとうはこんなことはやってはいけないことだし、やりたくはない。しかし、命令とあればいたしかたない、「涙を飲んで」やらざるをえない。こういうシチュエーションおよび心理はそれほど特異ではないと思います。

>1.捕虜を殺害せよと司令部がいってきた
>2.○○××長が非情な命令であると悩む
>3.軍命令ときつく言ってきた
>7.戦後になっても△△に累を及ぼすので黙っていた
>(注:4.5.6.の内容はこの手紙にはない)
>
>否定派の主張は「軍命令」はあったとしても、山田支隊は従わなかった、である。

 この手紙の主は、「「軍命令」に山田支隊は従った」と認識していますし、栗原伍長と同様、山田支隊が捕虜を大量に殺害した事実そのものは認めています。さらに両角大佐のように、

>(4.やむなく捕虜解放をした)
>(5.捕虜が騒いだので発砲した)
>(6.少数しか殺害しなかった)

といった主張を、手紙ではひとこともされていません。

 ですから、この手紙の主を、自分の知っている事実を黙秘してきたからといって、「否定派」と同様に扱うことはできません。
32 hits

[3660]両角氏をかばうため
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 06/12/13(水) 12:26 -

引用なし
パスワード
   ここで議論してもあまり意味はないと思います。
家には捏造派の方々の記録がありますが全て同じ調子です。
戦友会の慰霊祭などの資料などと付き合わせて見れば両角部隊、両角氏を擁護することが彼らの目的であることがよく理解できます。
手紙は匿名なので公開してもいいと思います。
内容の割には字が若くて胡散臭い手紙です。
発信局が平局なのもそのことの表れだと思います。
47 hits

[3661]Re(1):この手紙の意図
←back ↑menu ↑top forward→
 eichelberger_1999 E-MAIL  - 06/12/13(水) 12:27 -

引用なし
パスワード
   ▼核心さん:
>▼タラリさん:
>
>>おそらく旧上官からそのような情報操作された出鱈目を吹き込まれたのだと推定される。
>
>これは正解だと思います。
>もしくは相当、意図的な手紙だと思います。

 前にも言いました余蘊、この手紙の「勅命」論は、山田支隊のメンバーがなぜ、あのような捕虜殺害を行い、さらにその事実を戦後秘匿しなければいけなかったのか、それを弁解する論理であることは、まちがいありませんが、「軍命令による殺害」という認識そのものが、デタラメであるとまでは言いきれません。
 手紙の後半は以下のような文章になっています。

>日本人の口を封じても、中国人の口を封じることは出来ません。十三師団の一番長く駐留した湖北省は父、夫、子供を上海戦線以来祖国防衛のため捧げている。わが十三師団が上海上陸以来どんな行動をした部隊であるかよく知っている。南京虐殺をまぬがれて(揚子江を渡り)故郷湖北省に帰郷した者がいる。上海戦線での戦死者の御遺族が語る胸中は小生を苦しめ、楽しい日は一日もありません。

>兵は凶なり、徴兵検査、一銭五厘 恐ろしい、悲しい星のもとに生まれた自分を残念に想い、今は静かに日中両国民の為毎朝祈念しています。


 この部分を読む限り、この方が上官から「情報操作された出鱈目を吹き込まれ」、両角連隊長をかばうための意図的手紙であるとは、思えません。
36 hits

[3662]Re(2):この手紙の意図
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 06/12/13(水) 12:47 -

引用なし
パスワード
   ▼eichelberger_1999さん:

これは父(栗原利一)の証言に関する記述に一般的に言えることなのですが、父の証言は捏造派に否定されるだけではなくて肯定派にも使われるわけです。
その場合の特徴の一つは中国側にも証人がいるうんぬんの話です。
いずれにしろ出所のはっきりしない手紙で議論するのはとりあえず止めにした方がいいと思います。
この掲示板では南京大虐殺があったこととそれがどのようなものであったかを論じられればいいのですから。
みなさんの意見はとても参考になりました。
39 hits

[3666]Re(4):長師団参謀長からの「勅...
←back ↑menu ↑top forward→
 タラリ E-MAIL  - 06/12/13(水) 21:16 -

引用なし
パスワード
   ▼eichelberger_1999さん:

核心さんが心配しておられますが、別にけんかをしているわけではありません。
私も出来るだけ手短に主張を述べたいと思います。

派遣軍司令部が捕虜の接収、後送を撤回し、積極的に捕虜殺害に転じたとすれば、それは飯沼日記、両角日記、両角回想ノート、山田日記に反映されますが、それはありませんから、否定されます。

また、飯沼守は沢田正久中尉が陸士にあったときの「生徒隊長」であり、捕虜の人道的取り扱いを教授した軍人です。捕虜を殺害すれば問題となる、そしてそれは朝香宮を傷つけることになると考えたでしょうから、捕虜殺害を支持することはありません。


eichelberger_1999さんの主張は「捕虜殺害は派遣軍司令部の了解のもとでなされた、つまり実質的に捕虜殺害の指示が出された」です。捕虜の取り扱いの打ち合わせ(問い合わせ)において山田支隊は捕虜の接収を断られたと泣きついたはずですが、派遣軍司令部としては軍司令部のメンツにかけて、「断られたのなら・・・せよ」とは口が裂けても言えません。あくまで接収をしてもらえというしかないでしょう。

ですから、
「何を言う。すでに十六師団に対しても命令は出している。山田支隊は命令通り十六師団に引き取りをしてもらえ」と言うしかないのです。

「捕虜殺害は派遣軍司令部の了解のもとでなされた、つまり実質的に捕虜殺害の指示が出された」と主張するのは自由ですが、ではそのとき山田支隊にどういったのか、再現して見て下さい。そのときのセリフが再現できなければそのような指示は出せなかったのですよ。


> かりに百歩譲って、16日に派遣軍司令部が相田中佐に対して「何を言う。すでに十六師団に対しても命令は出している。山田支隊は命令通り十六師団に引き取りをしてもらえ」と言ったとしたとしても、当時山田支隊がおかれていた状況(大量の捕虜をかかえながら、19日には長江を渡って浦口に進出しなければいけない)をかんがえれば、これは事実上、捕虜殺害を使嗾したに等しいものであることは、タラリさんならおわかりになると思います。こういう言い方をすれば、窮地に追いやられた山田支隊が捕虜殺害を実行するであろうことは、おそらく派遣軍司令部の参謀達にもわかっていたはずです。

違いますね。第十六師団に接収してもらえ、と言われたからには何度でも中島師団長にかけあうのが、山田支隊として軍司令部の命令をまっとうする道です。無駄と分かっていても、それをしていればいいのです。そのうちに榊原参謀が捕虜受領に来ることになっているのですから。

もちろん、第十三師団の渡河命令には遅れることになります。ですから、第十三師団本隊にかけあって、軍司令部の命令実行のため渡河が遅れます、と申し訳する道はありました。事実、板倉聞き取りにおいては第十三師団作戦参謀吉原矩中佐が師団司令部として捕虜を崇明島に送り込んで自活させるよう命令したといいますから、山田支隊は軍司令部と接触した後、せっぱ詰まって本隊司令部に駆け込んだようです。しかし、崇明島に送るなどはmission impossibleであって、師団司令部も責任逃れのいい加減な命令には違いありません。

いい加減な命令ではあっても、捕虜の虐殺は軍司令部も第十三師団も命じていないのですから、捕虜虐殺はあくまでも山田支隊の発意であり、第一の責任は山田支隊長にあります。責任とはそういうものです。

軍司令部の命令を実行しようと努力すれば第十三師団の渡河命令に遅れますが、実際には捕虜の虐殺をしたあと、死体処理のために丸二日を犠牲にしなくてはならなかった。もし、軍司令部が表面上はともかく、捕虜の処分を事実上容認していると受け取っていたのなら死体処理などはほおっておいてさっさと渡河したはずです。

軍司令部と第十三師団がmission impossibleに固執して、捕虜の早期処分がやむを得ないような状況に追い込んだのは事実です。しかし、最後に捕虜虐殺を決断したのは早期渡河というあまり意味のない軍事上の命令を最重要視して、捕虜の人道上の処置にほとんど価値を認めなかった両角連隊長の能動的決断、政治的決定であったと思います。
34 hits

[3667]合計では7万人
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 06/12/13(水) 22:08 -

引用なし
パスワード
   父(栗原利一)は私に7万人について「各部隊の処分した捕虜を合計するだけだから簡単だった。」と言ったような意味のことを言ってます。
斬首の件もそうですが捕虜の処分はごく当然のことのように行なわれたと考えているのですが。私は幕府山の捕虜虐殺の一番実行部隊に近い責任者が両角氏だったと考えているのですが。
53 hits

[3668]中国人捕虜の取り扱いに関して
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 06/12/13(水) 22:16 -

引用なし
パスワード
   ▼タラリさん:

>また、飯沼守は沢田正久中尉が陸士にあったときの「生徒隊長」であり、捕虜の人道的取り扱いを教授した軍人です。

私はその当時の中国人捕虜に対する取り扱いに関しては、日本陸軍がそもそも彼らを捕虜に当ると考えていたのかどうかはなはだ疑問です。
その当時の陸軍に中国人捕虜に対して「人道的に」なんて考えがあったのでしょうか?
51 hits

[3669]このチャンコロめ
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 06/12/13(水) 22:24 -

引用なし
パスワード
   父(栗原利一)の中国兵や中国人捕虜を相手にしたときの話は「このチャンコロめ」と言うのが口癖で中国人蔑視は甚だしいものでしたけど。
55 hits

[3671]罪責感を隠すためのウソ
←back ↑menu ↑top forward→
 タラリ E-MAIL  - 06/12/13(水) 22:30 -

引用なし
パスワード
   ▼核心さん:
>戦友会の慰霊祭などの資料などと付き合わせて見れば両角部隊、両角氏を擁護することが彼らの目的であることがよく理解できます。

いえいえ、そうではありません。自分が所属していた両角部隊を擁護することは目的ですが、両角氏を擁護することは直接目的とはしていません。


>田山大隊長は「俺はクリスチャン」なのにどうしてこんなことをしなければならないのか男泣きでした。

という一文は山田支隊長が田山大隊長に捕虜殺害を命じたことを示しますから、両角回想ノートの捕虜解放説をまっこうから否定しています。

両角部隊の生き残りは必ずしも、ひとつのストーリーを了承して、そのストーリー通りの証言を続けたわけではないと思います。一時は多少の申し合わせがあったとしても、みなはそれぞれの自分の罪責感を消し去るために、後ろめたいことをなかったことのようにするために証言しているに過ぎません。

一番後ろめたいひとが一番言い訳をしなくてはならない、一番ウソを多くつかなくては自分の罪を覆い隠せないと感じているのです。また、自分が後ろめたいと思っている部分にだけウソをついているのです。

事実、角田栄一氏、平林貞治氏などの証言を読みますと、自分の罪責感を消し去るためのウソが一番力が入っていて、両角氏が力を入れたウソを否定していることがときどきあります。

そして、一番後ろめたさを感じていたのは紛れもなく、両角業作氏であった。なぜなら、彼こそは捕虜殺害を決断し、その決定を山田氏の背中を押して呑ませた当人だからです。
ですから、

1.捕虜を殺害せよと司令部がいってきた、と責任をなすりつけ
2.○○××長が非情な命令であると悩む、と自らは人道的であったとアピールをし
3.軍命令ときつく言ってきた  と同情を買うポーズまでして
                それでも気が休まらず                 
4.やむなく捕虜解放をした   と人情家を装い
5.捕虜が騒いだので発砲した  とやむを得ない事情を強調し
6.少数しか殺害しなかった   でようやく、安心した

これは両角がすべて考えたウソです。どのくらい自分がしたことがばれるのを恐れていたか、それを隠すために如何に念を入れてウソをついたかがわかります。

他の兵士はそこまでは言わない。捕虜たちの殺害実行者であったという事実だけが心の重しになっている。この手紙の主においては軍命令だった、勅命だったということで自分の罪責感を麻痺させている。

こう言ってはなんですが、核心さんもおっしゃるように、栗原さんのお父上にとって捕虜殺害は自慢であり、罪責感というのがまったくない。だからウソがないのです。

▼eichelberger_1999さん:

>>「勅命」や「軍命令」があったのなら、ただ命令により殺害した、と書けば済むことである。なぜ、山田支隊長、両角連隊長、田山大隊長らは一様に「涙を飲」まなくてはならないのであろうか。理由は明快である。軍命令、勅命などなかった、なのに山田、両角の合議で捕虜虐殺を決定したからこそ、罪の意識に堪えられず、「涙を飲んで」という下りを挿入せずにはおられなかったのである。
>
> 捕虜の大量殺害は、犯罪行為ですから、たとえ命令があったとしても、いざそれを実行するとなれば、大きな抵抗を感じるのはごく普通です。ほんとうはこんなことはやってはいけないことだし、やりたくはない。しかし、命令とあればいたしかたない、「涙を飲んで」やらざるをえない。こういうシチュエーションおよび心理はそれほど特異ではないと思います。

いえいえ、軍命令があれば虐殺の責任は上官に帰しますから、罪の意識は払拭されます。「涙を飲んで」というのは私の言語感覚では自分や身内の痛みを表現する言葉です。仮にも敵兵であった捕虜に「涙を飲む」ほど同情していたというのはウソだと私は思う。自分はこれほど人道的であったよ、というアピールしか感じられません。

大量殺害することの心の痛みを感じた個人はいたでしょう。しかし、その場合の気持ちはちょっと言葉では表現しにくいものになります。

捕虜殺害を決断した責任者(と私が目している)両角大佐も「涙を飲んで云々」と書いていますが、その文章を読んでも彼の心の痛みなどはさっぱり私には伝わってきません。これらの文章中にある「涙を飲んで」とはそんな軽い使われ方なのです。
43 hits

325 / 645 ツリー ←次へ | 前へ→
  新規投稿 ┃ツリー表示 ┃スレッド表示 ┃トピック表示 ┃番号順表示 ┃検索 ┃設定 ┃お蔵入り ┃旧思考錯誤 ┃南京事件資料集  
ページ:  ┃  記事番号:   
314960
(SS)C-BOARD v3.8(とほほ改ver2.2) is Free
タブブラウザ Sleipnir 公式ページ(上級者向け) [AD-SIZE] Get opera goo RSSリーダー
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送