留意事項 リ ン ク
メンバー登録 T O P
思考錯誤の全投稿をメール配信して欲しい方、クリックして空メールを送信 管理からのお知らせ 思考錯誤ヘルプ
  新規投稿 ┃ツリー表示 ┃スレッド表示 ┃トピック表示 ┃番号順表示 ┃検索 ┃設定 ┃お蔵入り ┃旧思考錯誤 ┃南京事件資料集  
318 / 645 ツリー ←次へ | 前へ→

[3758]父(栗原利一)の回想録(1) 核心 06/12/28(木) 20:39
[3764]使節団に参加して(1) 核心 06/12/29(金) 12:13
[3765]使節団に参加して(2) 核心 06/12/29(金) 12:54

[3758]父(栗原利一)の回想録(1)
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 06/12/28(木) 20:39 -

引用なし
パスワード
   父は昭和59年の騒動の後、いろいろ回想録を随筆風に書いています。最初は昭和60年の相模原武道学園の第3次日中友好少年文化使節団に同行した際の報告を紹介させていただきます。最終的には栗原利一資料集にアップする予定です。 
 
使節団の活躍と私の戦争体験   使節団顧問 栗原利一
 
鄭州少年宮での日中少年交流会
 
 第三次日中友好少年文化使節団は、昭和60年3月30日、鄭州少年宮に於いて鄭州市長始め学校職員生徒及び体育専門学校生徒を交えての交換会が行なわれた。私は幸運にもこの列に連なることができ感激で一杯でした。
 会場入口上部には「日中友好少年文化使節団歓迎」の横断幕、その上部を基点に四方に両国国旗のアーチを張りめぐらされ、歓迎の音楽には日本民謡・花笠音頭・会津磐梯山・大漁唄などと次々に流して、ムードを盛り上げました。誠意溢れる音楽を聞いて、友好の真心の溢れる大会の雰囲気に自ら胸を打たれ涙ぐむ感激を覚えた次第です。
 この大会での式次第は次の様に運ばれました。
一、入場整列少年団両国国旗を振りながら入場
二、中日両国家の斉唱
三、中国人側の歓迎挨拶
四、吉川団長の挨拶
五、中国側少年歓迎挨拶
六、日本側少年稲垣君代表挨拶・流ちょうな中国語での挨拶には好感を受けた。
七、中日両方記念品交換
八、中国少女の歓迎の歌
九、日本少年「太湖の歌」並びに詩吟「江南の春」外
十、琴と胡弓の演奏
十一、栗原顧問の夢想神伝流居合
十二、中国少年の唄
十三、日本吉原秘書長の太極拳、富岡・萩生田秘書の茶道、吉川由紀団員の生け花。尺八の音が流れる中での静の行は実に見事であった。
十四、中国少年独唱
十五、剣道の披露、少年試合トーナメントで行い続いて吉川団長、栗原に対し打ち込み練習を実施した。
十六、中国鄭州少年体育専門学校生徒の個人演技が披露され、これもまた素晴らしく激しい動きとスピードは実に見事なもので、最後に二人組んで行なわれた演技も観客側は目を見張って大拍手を送った次第である。
 すべての行事も終わって記念写真を写したり交歓の意を交えて大盛会のうちに目的を果たした。日中友好のきづなを一層深くし、21世紀に向かいより盛んに躍進されることを期待し信ずる次第である。
 次回には8ミリビデオカメラを携行し写し」、土産にしたいものである。
 この大会は二時間以上続きましたが、鄭州市長胡樹倹先生はこの長い時間、一時市政府に行かれたようであったが、他は全部中央の席に座って、終始日中双方の子供たちの演武演技を熱心に鑑賞して居られる真面目な態度に私は感心したしました。
26 hits

[3764]使節団に参加して(1)
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 06/12/29(金) 12:13 -

引用なし
パスワード
   上海事変の思い出
 
 いつも心に中支上海西方地区の激戦地のことは頭から離れたことがない。48年前のことであるが、あの時のあの2分間が生死の界であったが、今回同行の郭卯応君に案内して頂きその現場に行く事ができ感激で一杯でした。
 それは昭和十二年末のことである。
 呉しょうに上陸しクリークとトーチカには悩まされた。
 今回中国航空で上海に着き宿舎に向かう途中小雨の中窓から見たにごり水のクリークを見て48年前を思い出す。
 この水のクリークに戦友たちが戦死し、水面に腐乱していたことなど、次から次と思い浮かぶことばかりである。どうにかして彼の現場に行ってできることなら供養したいと思った。
 今回皆さんのお許を得て郭さんの道案内で別行動で行くことができたのも英霊が差し向けてくれたのかも知れない。
 回顧すれば南京・徐州と行き一年間に戦った戦闘20回、負傷するまで僕が扱った戦死者遺骨百三十二である。
 現在同部隊の戦友会から中国旅行をするが行かないかと誘いは幾度も受けたが、僕の行きたい方面とは皆違うのである。最初の編成部隊で往って残って居る人は僅かしかない。皆武漢攻略戦以降に補充された方ばかりだし、そして生き残って居る人たちなのだ。今回の誘いは何しろ私の歩いた方面へ行ってくれる予定であったので、思い切って参加した。友人吉川団長のお陰で有難く思っている。
30 hits

[3765]使節団に参加して(2)
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 06/12/29(金) 12:54 -

引用なし
パスワード
   人間は欲があるうちは死なないと言われている。僕は満州事変には現役兵で参加している。大連に上陸し奉天駅前広場に降りてあの広場を見たとき、一個連隊初年兵駅前広場片隅であったことを思い出す。奉天駐屯隊、独立守備隊と隣合せていた。春陽、ハルピン、吉林、屯化、東辺道で馬占山討伐と当時の満州は広大なことを知って驚いて居たのに、今中国地図を開いてみてわかるように上海から南京までに行く間、当時は命を国家にささげての行動、戦争ごっこの殺し合いで多くを殺せば勝ち、殺されれば敗け、これを平気でやり抜くのだから、今から考えると狂人沙汰と言う外はない。
 今回の旅行の計画では、西安・洛陽を見学したあと、鄭州で大会を開きそのあと飛行機で上海に戻る予定が急に列車になったことは私には全くの幸であった。開封ー徐州を通過すると言われた時は胸が高鳴り、間もなく着きます、と言われたとき、48年前の昭和13年5月19日午前7時50分、中隊長命令栗原小隊は徐州城西方角から突撃を命ぜられたことを思い出し、小山子の山が見えた時は感激の涙がこぼれた。嗚呼やはり徐州だった。中央に五重の塔があり、この塔に徐州一番乗り日章旗を立てたのであった。当時両角部隊渡辺大隊高橋中隊栗原小隊は17名の部下と突入したのであるが、戦死者もなく無血攻略であった。
 思い起こしながらの昼食は、感激の余り涙を止めることができなかった。それでもしかしたらこれで戦争終結かと思いしやその翌朝2時、出発命令が出て津浦線に添って戻り合肥に着き装備、次期作戦準備となり武漢攻略戦となる。
 昭和十二年十月三日〜昭和13年9月10日重傷を負うまで継続戦闘を続けた下士官は僕一人、それが負傷してしまい残念このかたなし。傷兵となり松葉杖で無湖南京無錫上海と送られ、広島に上陸。戦友、戦死された友を偲び涙が止まらず申し訳ないと祈るのみであった。
 中国の広いことは行った者でないと分からない。
 内地病院で見る新聞報道によると、勝利勝利と宣伝するが、大陸では占領しても先に進まねばならない。その地を継続して守備できない。内地の病院で、なんだまた放棄したところを占領、攻略したと記事を読まねばならない。今考えると、あの大陸を如何に制圧攻略しても継続して完全占領できなかったのは今になると当然だったと思う。
 第三次日中友好使節団に参加させて頂いたお陰で48年間思い続けた戦跡で亡き戦友に供養できて、大きく変貌した中にまだトーチカが枯草をかぶって在ったのを見て、これで僕は何も言うことはない。特別仕立てのハイヤーで東京工大留学生郭さんと団長のお陰で団員の皆さんには大変お世話になりました。深く感謝し皆様方のご健康で明るいご家庭の円満を祈りペンを止めます。
 本当にありがとうございました。

 ※本誌末尾に筆者の戦歴が記されておりましたが誌面の都合でやむをえず割愛させていただきました。 −編集部−
                             (終わり)
32 hits

318 / 645 ツリー ←次へ | 前へ→
  新規投稿 ┃ツリー表示 ┃スレッド表示 ┃トピック表示 ┃番号順表示 ┃検索 ┃設定 ┃お蔵入り ┃旧思考錯誤 ┃南京事件資料集  
ページ:  ┃  記事番号:   
314958
(SS)C-BOARD v3.8(とほほ改ver2.2) is Free
タブブラウザ Sleipnir 公式ページ(上級者向け) [AD-SIZE] Get opera goo RSSリーダー
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送