留意事項 リ ン ク
メンバー登録 T O P
思考錯誤の全投稿をメール配信して欲しい方、クリックして空メールを送信 管理からのお知らせ 思考錯誤ヘルプ
  新規投稿 ┃ツリー表示 ┃スレッド表示 ┃トピック表示 ┃番号順表示 ┃検索 ┃設定 ┃お蔵入り ┃旧思考錯誤 ┃南京事件資料集  
315 / 646 ツリー ←次へ | 前へ→

[3773]父(栗原利一)の回想録(2) 核心 06/12/30(土) 19:12
[3785]第一線へ(1) 核心 07/1/1(月) 13:49
[3788]第一線へ(2) 核心 07/1/1(月) 21:26
[3791]小隊長代理となる(1) 核心 07/1/2(火) 14:50
[3793]小隊長代理となる(2) 核心 07/1/3(水) 10:54
[3796]連隊副官小畠少佐戦死す(1) 核心 07/1/3(水) 17:39
[3799]連隊副官小畠少佐戦死す(2) 核心 07/1/4(木) 12:50
[3800]八百高地攻撃戦(1) 核心 07/1/4(木) 16:50
[3802]八百高地攻撃戦(2) 核心 07/1/4(木) 23:52
[3812]八百高地攻撃戦(3) 核心 07/1/5(金) 13:51
[3820]八百高地攻撃戦、負傷(1) 核心 07/1/7(日) 12:01
[3821]八百高地攻撃戦、負傷(2) 核心 07/1/7(日) 12:39
[3822]八百高地攻撃戦、負傷(3) 核心 07/1/7(日) 14:05
[3823]八百高地攻撃戦、負傷(4) 核心 07/1/7(日) 14:16
[3830]野戦病院から病院へ転送(1) 核心 07/1/7(日) 18:26
[3844]野戦病院から病院へ転送(2) 核心 07/1/8(月) 17:34
[3848]品川駅臨時停車 核心 07/1/8(月) 18:19
[3849]機能回復のための盆踊り 核心 07/1/8(月) 18:33
[3850]中支戦跡を回って 核心 07/1/8(月) 18:42
[3835]文法的誤りなど 核心 07/1/8(月) 8:17

[3773]父(栗原利一)の回想録(2)
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 06/12/30(土) 19:12 -

引用なし
パスワード
   これは昭和62年3月20日発行の「歩65第2中隊会誌第5号」の「残しておきたい私と中隊の一編」の中の父(栗原利一)の分です。
 
 分隊長の手記      編成 栗原利一
 
 征途へ
 
 昭和十二年九月十日充員召集発令、警視庁淀橋警察署勤務召集令状を受領す、とき同署より三名受令者あり署長以下全員と記念写真を撮り見送られて九月十二日郷里福島県伊達郡小国村大字大波字大西六、実家に帰り親戚の挨拶と墓参をして在郷軍人会に見送られて若松連隊に赴く。九月十五日充員召集のため歩兵第二十九連隊留守隊に応召同日歩兵第六十五連隊第二中隊に編入九月十八日動員完結。第二中隊は百八十六名で編成、九月二十五日若松連隊屯営出発、同二十八日大阪の旅館に宿泊九月二十九日大阪港出発、うじな丸一万三千屯軍用船に乗る。一つ不思議に思ったことは甲板上に唐竹束ねたものを積み上げられていた。同十月三日上海呉しょう揚子江の入口である九月三日飯田部隊が敵前上陸したところである。我が部隊もそこから上陸、激戦の跡がまざまざと残っていた。我が駆逐艦からの砲弾により建物の赤煉瓦の壁に弾痕の穴が三米くらい、ポッカリと空いていた。我が部隊の上陸地点には敵の手榴弾や迫撃砲の不発弾や中国兵の鉄帽等も散乱してあった。
 朝方に上陸開始第二中隊は全員無事上陸することができた。その時某中隊に事故発生の情報あり、ある兵が珍しまぎれに不発弾を船内に持ち帰り無知識の兵はそれをいたずらして爆発事故にて三名の重傷者が出たとの秘密情報があった。我が中隊の兵には散乱している不発弾等には絶対手を触れぬよう命令された。
 そして上海ヤンジツポに向かいそこで飯盒炊飯してその夜まで休養した。我等には始めての珍しい用便所を使用した。そこは二間程の長い溝の便所その溝は水が流れて居り又いで用便をする者が同方向に向いて用便するので珍しくも愕いた。その日夕闇に乗じて行動開始である。軍行路を夜行軍で一晩中歩いては休み小休止の繰り返しで月浦鎮に着く。ここで戦闘準備、十月四日から露営天幕生活、毎日雨が降ったりやんだりの日が続く。我が中隊は少し小高い丘だった。その下にクリークがありそのクリークに浮いている中国兵の遺体が上げ潮の時は左の方に行き、引き潮のときは右の方に移動するのである。そのクリークの水を汲んでの飯盒炊飯である。近辺は唐もろこし畑でみな枯れていた。招集兵は中隊編成されたままなので既教育の予備後備兵である。操典に基づく分隊、小隊、中隊の戦闘訓練を突撃態勢までの諸訓練をこの現地で実施したのである。そうしたことで一週間は過ごした。
 
29 hits

[3785]第一線へ(1)
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 07/1/1(月) 13:49 -

引用なし
パスワード
   第一線へ
 
 愈々天幕を撤収して十月十日現場から第一線に出発である。同日下士官適任者は陸軍伍長に任官肩に鉄棒を負い一層の責任感を覚えた。佐藤中隊蓮沼小隊第二分隊長栗原伍長である。七日間の天幕生活で兵は下痢をしている者も多かった。第一線交代のための行動にうつった行動であり、途中行き交う戦傷者が担架の負傷兵包帯に血がにじみ見る姿は心いたいたしく思い幾人となく出会い行交したのである。
 軍行路の橋が爆破されて落ちていたが我が工兵隊の補修により片側を通れたそこを通って榴家口軍行路から右に入った。
 その日は午後になっていた。第一中隊は途中左方の部落に入って行った。第二中隊は右方部落を目ざして進出した。その時第一中隊の方に迫撃砲弾が落下し煙りが上昇するのが見えた。第二中隊は水無しのクリークを遮蔽して通り櫓網湾に着く。全員の背嚢に各々名札を付け、それと戦死しても形見となる遺留品となる品にも名札を付けて個々の背嚢に納めた。十日その夜はそこで仮眠し夜が明けて十一日いよいよ第一線の戦闘に入る。携帯するもの、弾丸六十発、手榴弾一個雑嚢に乾麺×とクレオソート丸、水筒、円ピ、分隊長以上は図嚢も肩にかけて持った。
 第三小隊は櫓網湾から左斜め前方の綿畑に進出、櫓網湾の前の田は刈入れ前で稲は黄金色に実って穂をたれていた。その田のあぜを横切って向うに着くが敵は機関銃を射ってくる。その弾はパンパンパンと一定の間隔で炸裂する。始めて聞いた弾の音に驚くなと兵に士気を鼓舞して進出した。弾は炸裂してから射った方向の音がボンボンボンと聞こえてくる。敵の方向が分かるのであった。稲田の畦道渡った先で犠牲者第一号渋谷上等兵は肩先を負傷した。衛生兵の手当てを受けて下る。我が小隊はその上の畑で進出を拒まれ綿畑の中に陣地をしき各個の壕を堀り遮蔽し陣地を築いた。蓮沼小隊長はどうしてか栗原を力にして頼って居り行動を共にして居たのである。その夜は二人で一つの壕に居ながら、老陸宅から射つ迫撃砲弾は我が小隊の頭上を越えてその先田に中に落下する。落下する弾が激しく炸裂する随分撃ちやがるな、と囁き白笑いしていた。幸い我が小隊には負傷者もなかった。その夜は明けようとする薄暮を利用して進出、一面が綿畑で平らかに見える水無しクリークまで進出した。
28 hits

[3788]第一線へ(2)
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 07/1/1(月) 21:26 -

引用なし
パスワード
    敵は有利に築いたトーチカから撃って来るのである。敵の姿かげを見ることのできない陣地である。前方老陸宅前面綿畑であり、またその間にクリークである。
 左方前方は孟家宅右前方は三ケ村、我が陣地水無しクリークで土を掘って少しでも土が上がる影を見るとパーンと弾が飛んでくる。敵側の陣地構築は非常に緻密にして堅固なトーチカである。陣地偵察と言っても前面、左方、右方と、銃弾の来る方向が分からない。然して斥候を出して敵陣地を偵察せよとの命により、上等兵佐藤一義一等兵布施義信一等兵萱森英治三名を斥候として敵陣地偵察に出したのであるが偵察困難と見えてなかなか帰って来ない夕闇になって佐藤、萱森の二人が戻り偵察困難、布施が戦死した報告を受けた。では直ちに二人で布施義信を引いて連れて来いと命じ闇の中を陣地まで連れ戻る。
 綿畑線上から昼の行動はむずかしく全くのもぐら戦である壕を掘って築き斜形、蛇行形と各個に掘り進んでその陣地から突撃喇叭で突撃をくわだてた。進む先に鉄条網ありその先はクリークである。後方部隊本部からは敵陣に突入し奪取せよの命が下るも、白昼の行動は壕を掘り進むだけ精いっぱいで、薄暮を突いて突撃を慣行したのであった。我が分隊も長以下十一名であったのが兵二人と僕と三名、三浦、荒と三人になっていた。
 進出したが遮蔽して伏射壕前方はクリークであるが僕の真向かいの敵が移動する。敵兵が土×を越えるとき明瞭に見えるその敵を射つと命中して倒れるのが分かる。この時は十月十三日午後三時三十分頃である。余りに敵を百発百中で倒したので自らの直感で前に少し進み二米程前に出た。出て二分ぐらいの時である今まで僕の居た壕の真中に迫撃砲弾が落下した。今そこに出ないでいたら背中に命中して木端微塵になっていた。この瞬間は忘れられない、続いて二発目が僕の出て伏射している銃床脇に迫撃砲弾が落下して銃は飛び鉄帽の上から土を被ってしまった。
 敵は僕を指揮官と見て従ち射で狙いうちしたのである。二弾目がバーンと音の後両側に居た戦友の声分隊長やられたな、と聴こえた。銃も飛んでない鉄兜の頭に土をかぶっても首が動いたので大声で大丈夫だと戦友に知らせたのであった。残った二人の兵から見ても激戦の様子は察せられると思う。
(追記:×××小隊長戦死の状況、中隊会で始めて知ることができた。)
33 hits

[3791]小隊長代理となる(1)
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 07/1/2(火) 14:50 -

引用なし
パスワード
    小隊長代理となる
 
 蓮沼小隊長戦死を知る。蓮沼小隊六名の分隊長中伍長が僕一人となる。然して小隊長のところに行き小隊長の軍刀を帯びて小隊長として活動して見たが、日本刀と銃では銃の重宝なことその格差を知ったのである。僕は当時剣道三段で、心得て居ったが銃の便利さを知り僅かな時間であるが責任を感じ軍刀を帯びたが銃に持ち換えて戦った。これは本当の僕丈けの体験した一つである。(召集解除後靖国神社を参拝して遺物記念品見学した時、硝子箱の中に蓮沼少尉の軍刀、刀身に不動明王の彫刻のあるもの献納されて飾って有ったので遺族は神社の遊しゅう館に寄付されたものと思い懐かしくも感激したことを覚えている)そしてその蛇行形クリークを迂回して渡河したクリークに掛けた竹のたばねた橋は工兵隊が掛けた竹の橋である。このとき大阪港出港時甲板上のなぞがとけた。その工兵隊は掛けるとすぐに敵弾に倒れたのでその重みで竹の橋は沈んで居たが遮蔽しながら渡るとき足の先にさわるもの橋をかけてくれた工兵隊である。この時戦友許せよと心でとないで渡河した触覚は幾十年たった今尚脳裡の中に忘れることができないのである。そしてその先は水田であり奪取の目的陣地は老陸宅であるがその前の竹藪に進出するのであるが竹薮の手前が水田稲は刈られていないが水があった。銃を前に突き出しては稲につかまり這い匍匐前進である稲の高さより体が出れば一発で戦死である。竹薮を目的に水田を這い竹薮前に小さな三米程のクリークを越えて竹薮を占領した敵は我が方に向かって築いた陣地である。今度は竹の根陣地を反対に陣地構築に苦辛した。老陸宅はその藪の向かいで広いクリークを隔てての向い側である鉄筋で固めたトーチカである。部隊本部からは早く老陸宅を奪取せよの命が届く。致し方無しクリークを渉りトーチカに爆薬を投げ込む作戦、決死隊の志願者を募った。上等兵を長として五名決死隊、武装を脱いで中の衣袴丈けで泳いでクリークを渉るのである。爆薬は頭上水につかぬようにして死角からで導火線にマッチで火をつけて投げ込む作戦である。(現在考えると全くの拙劣な考え方であった)がこの作戦不成功に終わった爆薬が水にぬれないようにして持って行ったが導火線に水が入って火がつかないので着火しないため導火線を短く切って火をつけたが導火線が短いため火をつけるとその場で爆発してしまったため決死隊は負傷して不成功に終り、隊に戻って野戦病院に送った。(この時のその一人僕の現役時の初年兵喇叭手、××君、現在××県××市××病院に入院療養中である)この竹薮は百坪程であった。
36 hits

[3793]小隊長代理となる(2)
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 07/1/3(水) 10:54 -

引用なし
パスワード
    後方からの食事は輜重兵第一線に届ける任務であり炊いた麦飯を小さな南京袋におにぎりにして紙に包んで袋に入れたものを背負って稲田の中を這いながら来るのであるが、途中田の中で戦死して動かない、僕は部下を出して取りにやれば危険は承知それよりも自分で軽便に行動して持って来ようと覚悟を決めてそこに行き戦死した兵から袋をはづし稲田の中を引きずって敏活に持って来た。兵は皆空腹であった。幾日も洗ったことのない土で汚れているこの手で袋からさくり取って壕の中に兵の手のひらに配ったのである。麦のご飯は紙まじりであるがそんなこと気にならずつぶれたおにぎり形がある筈がない。この時の食事ほどおいしく感じたことは未だ忘れることはできない。そして命をつないだのであった。またその夜は陣地を死守して壕の中では沈黙して送った。その晩に敵の射った弾丸でこの竹薮の竹が全部敵側に向って倒れてしまった一本も立って居る竹がなかったのに驚いた。大きな太い立木だけが残って立っていた。敵も弾を射ちつくし我部隊も全滅したものと思ったようである。
 十六日朝もやを突いて第一大隊山口大隊長と突入老陸宅を占領したのであった。我が大隊の右翼は第三大隊平大隊である。山口大隊老陸宅完全占領の連絡をしなければならない。命令栗原伍長以下五名で山口大隊長の命により三大隊に向って出発。途中クリーク伝いの対岸はまだ敵陣地であるからクリークに出る手前壕の中に四名を留めて待たせて置いて、もし途中僕が倒れた場合誰か変わって任務を完うするように打ち合わせして一人でこの任務を完うし無事帰還したのであった。この老陸宅の建物内は迫撃砲の空箱の山一箱に三発ずつ入る箱その数数千個有った。よくもこんなに射ったものだと驚かざるを得なかった。老陸宅を陥し引き上げて櫓網湾に来て我蓮沼小隊全員で十三名であった。そこで第一次補充隊として来た、太田少尉、島少尉、寺島准尉、外四十名補充され時将校で残った高橋少尉は中隊長となり、再編成したのである。(追記:飯坂の中隊会で山口准尉の戦死状況を始めて知ることができた。)
43 hits

[3796]連隊副官小畠少佐戦死す(1)
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 07/1/3(水) 17:39 -

引用なし
パスワード
    今度は再び馬家宅の攻撃である。このころコレラ患者が発生して居り飲水に注意することを厳重に注意を促された。然して第一線馬家宅の近辺まで迫り進出するも敵陣堅固なり、敵側は平に広がる綿畑の地形を利用しての布陣トーチカから射つ弾は百発百中である。そう簡単に進めないのであるが部隊本部からは早く陣地を攻撃せよの命令である。遮蔽しての進撃は匍匐前進である。そうして居るところへ本部から小畠少佐連隊副官が激励にやって来た。第一線での危険度は未だ未知である。僕は副官殿それは危ないですよと言うのをきかず、兵の銃を借りてこうして射てばと膝射の姿勢をとった瞬間敵から狙撃され頭部貫通一言もない即死の戦死である。後方では早く突撃し攻略せよの督励だがとても白昼の突撃は無理であり薄暮を期して砲兵隊の援護射撃の直後に乗じて突撃突っこむのであった。一斉射撃の折は命令の声も射ち合う音と轟音の中突進し壕の中の敵を敏捷に射ち殺して壕に飛び込んだのであった。突撃前には手榴弾も投げ果して突っこむのだった。馬家宅に突撃を貫行した轟音もやんだ戦死負傷者も続出し僕も右手甲を負傷したが軽傷で戦闘に支障なく続けた。この折小野一上等兵は援護射撃の砲弾で打撲傷を負った。伏射しているとき後方で射った砲弾が腹の下を通って真空の弾道に風が入るその勢いで腹部を従に打撲傷で青黒くなった。瞬間転倒したそうである。この打撲傷は黒い痣になっていた。これが今少し高く弾が通ればその弾で田楽ざしで戦死していた。危険の深さを感じらせたのであった。
41 hits

[3799]連隊副官小畠少佐戦死す(2)
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 07/1/4(木) 12:50 -

引用なし
パスワード
    馬家宅攻撃でも小畠少佐以下戦死戦傷の犠牲者が大であった。十月十一日から十一月三日まで約二十日余の戦いで戦死した兵は武装したまま腐乱の姿は見るも悲惨であった。髭はボーボ頬は痩せこけ眼丈けがくぼんで光って見えた。第一線を交代して北筧橋万年橋付近に於ける防御戦闘、中隊は毎日使役兵を出して戦場掃除と言って戦死者の遺体整理に向い遺骨の集収に当たり老陸宅、馬家宅の戦死者計六十五名防御戦闘中中隊本部は遺骨遺留品の整理、反面戦傷者調査、また戦闘詳報、功績調査戦死者の戦闘状況を功績調査簿に調べ整える作業があり寺島准尉と功績調査事務に当たった。この功績調査事務に当っては無き戦友を偲び遺族には奮戦の状況も知らせねばならず徹夜で全力を尽くしたのである。兵はシラミがわいていた話をするので俺には居ないと言ったがムズムズするので腹巻を脱いで見たところ腹巻一面にベッタリとシラミがわいていて驚いた。早速支那鍋に湯を沸かして煮て殺した。その筈泥水の中クリークの中這い戦い九月二十五日に入浴以来四十日もの間、温血動物としての人は温度を保つが汚と温度の中ではたまらない。
 この所において遺骨遺留品を揃えて本部に送り次期作戦に備えたのであった。
34 hits

[3800]八百高地攻撃戦(1)
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 07/1/4(木) 16:50 -

引用なし
パスワード
    指揮班編入

 昭和十三年九月九日我が中隊は八百高地を遠く対面する小高い部落において背嚢に名札と遺留品からなるかたみの品にも名前をつけて背嚢に入れて集積した。我中隊は田圃を隔てた一文じ山から攻撃を開始した。戦闘の中隊編成に当たり寺島准尉は僕に対し、栗原伍長は編成から一度も第一線を休まずに戦闘を続けて来て居る。君丈けなんで特に大切なんだから今度は指揮班に編成する。それで行動してくれ。と言って中隊本部指揮班に編成された。けれども自分の今までの経験からしては突撃は先頭を切って一番乗りでないと敵の手榴弾で負傷することが多いので、もし突撃になった時はまっ先に出て敵陣を奪取すればよいので、自分ではそう決めていた。
34 hits

[3802]八百高地攻撃戦(2)
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 07/1/4(木) 23:52 -

引用なし
パスワード
    敵の緻密な作戦計画に驚き感心
 
 八百高地攻撃に当たりその夜は水無しクリークまで進出して攻撃開始し陣地を布陣した。敵側はそれを見込んで我が陣地後方に藁屋根の一軒家を残してあった。夜暗くなるとその家に焼夷弾を打ち込んで藁家は燃え上がり、付近一帯は明るくなった。そのために我が陣地の兵は少しも動くことができない。その家が燃え終わるまで皆でじっとして動くことができなかった。家が燃え終わると今度は我が陣地の上部に八百高地方向から照明弾を射ってよこしてその照明弾は宙に浮いて止ってあたりを照らす精巧なものであった。敵側は外国から取り入れたものと思うが驚き入ったのである。そしてその夜は明けて九月十日晴天。
37 hits

[3812]八百高地攻撃戦(3)
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 07/1/5(金) 13:51 -

引用なし
パスワード
    突撃貫行決断勇気実行の日である
 
 今日は敵陣地に突撃を貫行し陣地を奪取しなければならない。独立機関銃中隊も我が中隊の左翼に配属されて居た。我が中隊の前面は刈り取った稲田である。この前面二百米先が八百高地の山足である。敵は前面に布陣し我が部隊に抵抗し交戦したのである。我が大隊の左翼は第二大隊である愈々午後三時を期して突撃貫行となり友軍爆撃機による爆撃投下した××に合わせて砲兵隊から一斉射撃で援護のもとに爆煙が早く昇り晴天のため余りに煙が早く上昇し突撃貫行の機を失したため、作戦二度目の空からの爆撃と砲兵隊の一斉援護射撃により機を失せず射撃がやんだ瞬間に敵陣に勇敢に突入した。案の定敵はその機に乗じて中腹陣地から手榴弾を投げて敗走するのであった山足まで一挙に駆け進み、よじ登り敵の第一線を奪取したのである。我が方も山足まで登らずに田圃に伏せた者には被害は多かったのである。僕は一番先に山の左方中腹平らな藁みよう、二ツ有るところまで登り交戦の敵は逃走した。そこに下から登って来たのが軽機関銃を持った射手と擲弾筒を持つ筒手、二人を前に布陣して折撃の姿勢で右前に軽機の射手、左前に擲弾筒手そこから見おろす右凹地の焼け落ちた家の壁の陰に逆襲する敵を目がけて擲弾筒でその頭上を目がけてエーカで射たせ逆襲を阻止奮戦す。
40 hits

[3820]八百高地攻撃戦、負傷(1)
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 07/1/7(日) 12:01 -

引用なし
パスワード
   爆弾筒から出る煙を目標にして狙撃
 
 一発二発三発射って炸裂し逆襲阻止に成功と見届けて指揮中筒先から上る煙を目がけて八百高地右上方から指揮官目がけて狙撃された。その弾が僕の右前に置いた軽機関銃の装填架にポッと煙のようなものが見た瞬間折り敷きの姿勢で指揮して居たので、僕の左内股に敵弾の挑弾が命中して後ろぞりに倒れた。その時何か棒で強く殴られた感じがしてやられたと思い、股は動脈が切れて血が流れている。お湯が流れているような感じがした。すぐ後方にさがり衛生兵を呼び山内衛生兵が駆けつけた現場は坂の綿畑で軍袴を降ろし袴下も降ろしたところ、ピューッピューッと血が三十センチほどはじいて綿の木の葉に血がかかった。衛生兵は急いでガーゼを射口に当て押えて裏側を見て、班長殿盲貫だと言って三角巾で包帯した。動脈が切れているためたちまち左脚は棒のようになってしまった。我が中隊も敵の第一線陣地を奪取したが大谷少尉は戦死し高橋中隊長も負傷し犠牲者が多く出たのである。僕が指揮した軽機関銃分隊も射手一人擲弾筒分隊も射手一人になっていた。この二個分隊から察してもわかるように突撃を貫行しての戦死戦傷者が大きかったのである。僕がこの弾が当たったとき衛生兵に盲貫銃創ですと聞いたとき、とうとうこれでは生きられない人生となった、終りだと思って諦めたのであった。というのは経験上盲貫銃創者はみんな瓦斯イソにかかって戦傷死しているからである。
57 hits

[3821]八百高地攻撃戦、負傷(2)
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 07/1/7(日) 12:39 -

引用なし
パスワード
    奇跡運のいい弾の当り方で命拾い
 
 負傷者仮収容所で警視庁巡査の同期生と出合い、その晩は激戦現地裏の遮蔽の小屋である。その頭上を越えて迫撃砲弾が落下炸裂するが幸い頭越しで重傷患者は沢山居たが事なく過ごし得た。僕の頭部のところに警視庁の同期生網野上等兵が居た。栗原君か、そうだと名乗りこの日の昼に僕も網野君に似ていると思い網野君は栗原に似ているが、下士官なので言葉かける機会を失ったと言う。独立機関銃中隊長の公用当番兵をつとめていた。本人は特科隊なもんで下給品も歩兵と違い豊富に携帯しており、僕に羊かんの缶詰やチョコレートと甘味品を食べさせてくれた。僕も終りだよ、よろしく頼むと言い、元気づけられて別れた。(解除後網野君も無事で凱旋して僕のところを尋ねてくれて二人で当時を語り懐かしい一時を送ったのである)註、この僕には運のいい弾の当り方と言うか、そのあした担架で運ばれる途中目標となり迫撃砲弾が近くに落ちると運搬の兵も担架を投げて伏せる。幾度か危険を繰返しながら野戦病院に着いた。負傷して三日目の晩は師団野戦病院の第四病棟支那家屋一番奥死室に運ばれて居たのである。確かにその時は意識不明になっていたからである。僕は全然知らない。九月十四日の朝アンペラ一枚の土間にて目を醒めると腰を起こしかけられた天幕を腰に寄せて右の人も左の人もつめたく固いので、これは死室だなと感じた。明るい方を向いていると一人の衛生兵が巡回にやって来て僕の顔を見て×驚して急に踵を返して帰って行った。
46 hits

[3822]八百高地攻撃戦、負傷(3)
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 07/1/7(日) 14:05 -

引用なし
パスワード
    すぐ担架を持って来て乗せて手術室に運ばれた。置かれた隣りに中隊の長谷川上等兵が居たのである。なんだ奥に居たのは班長殿かと言って一寸言いにぶったので何か尋ねたら、それはさっき衛生兵が65の下士官生きったよと言って驚いて帰ってきて担架を持って行ったのでしたと教えてくれたのである。死に強いと言うか生きて居たので拾ってこられたのである。これがほんとの命拾いかも知れない。手術室では腕を切断される場面も見た。今度は俺の番である感念していた。左の脚は黒ずんでいた左脚を元から切断されるか死ぬよりはましだ仕方ないと諦めて他の兵の処置を見ていた。そのとき昨夜手榴弾で腹部に数ヶ所弾が入ってる重傷患者が架ぎ込まれてその患者は三十数発の弾が入って居て手術中に呼吸がとまり戦傷死である。その日は夕方になった。ローソクの灯では手術できないので、その日は見送りとなる。その夕は支那茶わんで一パイのおかゆを食べて休んだ。明けて朝に軍医が股に聴診器を当てて診断し血液の流れ具合を首をかしげたりしてニッコリ笑顔でよし後送しようと決定され脚の切断はしないで済む、僕に当った弾は盲貫であっても動脈を半分切れて血液がふき出したとき射口は血で洗浄されたため運のいい弾の当り方だったのである。これは神の守護によるか命の運の分かれ目であったと思うほかない。軍隊は運隊であるとも言われたように。
52 hits

[3823]八百高地攻撃戦、負傷(4)
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 07/1/7(日) 14:16 -

引用なし
パスワード
    人の魂は火の玉となって故郷へ
 
 運の別れ目不思議なことがおこっていたことを召集解除になり挨拶回りしていたとき聴いたことであるが、人の魂は何千キロも火の玉で飛ぶという。我が村の信仰している僕のところを無事に帰還するよう拝んでくれていた高橋清蔵太夫さん、去る十三年九月十三日夜中に神棚でカラカラカラと鈴の音がする。誰も起きて居ないのに不思議でならぬため起きて拝んだところ今度は音が止んだのである。人の魂は幾千キロでもスーッと飛ぶんなそうだが屍室に入ったその夜魂丈けが故郷の旅をしたことか、後で聞かされて不思議な出来事であるこの話を記録した次第である。
49 hits

[3830]野戦病院から病院へ転送(1)
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 07/1/7(日) 18:26 -

引用なし
パスワード
    野戦病院から病院へ転送
 
 野戦病院もそれから次から次へと送られ巣湖を通り撫湖に後送されて来た。ところ、ここには同村の菅野亘衛生伍長、同菅野上等兵青年時代一緒に活動した大波竹次郎召集衛生兵さんと三人も知人が居た。ここでの一週間は看護も助けられて援助が有難かった。更に後送南京病院に着いたところ支河河畔で戦闘で右腕上×貫通で骨が折れた時応急手当をしてくれた橋本上等兵から敬礼されて×驚した上×がねじれて骨が着いたため敬礼すると手の平が肩の方向を向いてしまうのであった。だが治って元気そうな姿を見たので嬉しかった。
 そして上海病院に送られ上海病院は病棟も多くレントゲン診断したが弾はこのままで治した方が良いと今度は広島病院に転送股の盲貫銃創で脚も曲がり、腰も曲がって、松葉杖での担送兵である。
 広島桟橋に着き担送兵なので看護婦に背負われて内地に上陸である。この時の感激の涙は忘れない。この俺があの戦地で部下や上官が一緒に戦い、なんと二中隊僕が扱って内地帰還した。遺骨丈けで百二十一柱もありこの俺は生きて帰り、戦死した戦友に何と申し訳ない唯々胸にこみ上げて看護婦の背中で涙でぬらしたのであった。戦友と激戦に激戦を重ねたそれが召集令状受けた満一ヵ年目九月十日の負傷であった。僕は内地の土を踏めた。生還したが戦死されて遺骨となって今は無き戦友は郷里に戻っている。その遺族の方々に逢ったら何と言い訳しようか、そしてどう慰めたらいいのだろうかそのことが病棟に寝て深く考え入ったのであった。
51 hits

[3835]文法的誤りなど
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 07/1/8(月) 8:17 -

引用なし
パスワード
    句読点など文法的誤りが多々見受けられますが栗原利一資料集にアップする時は修正する予定です。編集に誤りがあるようです。
45 hits

[3844]野戦病院から病院へ転送(2)
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 07/1/8(月) 17:34 -

引用なし
パスワード
    広島病院は一級設備の病院、完備しているからここで弾を取ってくれるかなと予測したが、レントゲン診断もしたが、又転送となる。僕は二本の松葉杖で歩行できるようになった。だが腰と脚は曲がっている。いよいよ仙台に送られるニュースを聞いたので東京の家族に品川駅で面会できるかもと言っておいた。僕の列車は担送兵で列車長を命ぜられた。途中鉄橋を渡るとき内地で川の流れる水の奇麗なこと、透明である。日本の水はこんなにきれいな水なんだ。心も洗浄される気がした。一年半も中国で送った日々、こんな水は見ることがなかったからである。驚いてゴウゴウと橋を渡りながら中国戦線を思い出し、上海呉しょう、鎮口、南京、黄河、徐州、凰台、ろ州と揚子江岸を歩いたが、クリークを流れる水も濁っているのが普通であった。
58 hits

[3848]品川駅臨時停車
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 07/1/8(月) 18:19 -

引用なし
パスワード
    そして品川駅に着いた。僕は列車のデッキに松葉杖をついて白衣に戦闘帽、軍曹の肩章である。列車がカタンと停まった。その真前に家内が居た。これには驚くばかり、縄を張ってあったが停まった真前に妻が居たのは不思議の一つである。対面して妻は泣いている、嬉しかったのは片足が無いと思っていたらしく、その脚が付いているのを見て感激の涙であったと後で聞いた。友人や父も別のところに居て、皆に知らせて逢えて、慰問の土産を貰って仙台病院へ転送、見送られた。
73 hits

[3849]機能回復のための盆踊り
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 07/1/8(月) 18:33 -

引用なし
パスワード
    今度は宮城の原病院、青葉城の下、午後になると機能回復させるため訓練で音楽に合わせて踊りを実習させられたのである。
 一週間ほどで若松病院に転送されたが今度は飯坂分院で温泉治療である。電波治療である。股にコブシ大に固まった血液を電波で分散、散らして大・小便の中に分解して出すのである。腰も脚も伸びてほとんど元の身体に回復した。飯坂分院入院中に両角部隊長は第一線を交代されて僕達を慰問された。その時、記念写真を一緒に撮って、慰めお帰りになる。第一線で一緒に過ごした寺島准尉のご家族たちも、父の兄で掛田町々長であった伯父も、大きな重箱を重ね、箱を風呂敷に包んで両肩に負い、下駄履き姿のニコニコ顔でぼたもちを持って来て食べさせてくれた。どんなに嬉しいことか伺われた。早や過ぎて四十九年になる。
58 hits

[3850]中支戦跡を回って
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 07/1/8(月) 18:42 -

引用なし
パスワード
    昭和六十年三月二十六日〜四月二日、日中友好親善使節団二十四名の顧問として上海に赴き、その折単独で老陸宅、孟家宅、馬家宅を地図で探したが、上海は工業地帯、開けて元の戦闘地は見当たらず、トーチカは残っていた。そのクリーク前の畑で線香を焚いて拝んで来た。四十八年振りで、ようやく上海の激戦地に赴き、戦地跡に香を焚いて思いを果たしたのである。
78 hits

315 / 646 ツリー ←次へ | 前へ→
  新規投稿 ┃ツリー表示 ┃スレッド表示 ┃トピック表示 ┃番号順表示 ┃検索 ┃設定 ┃お蔵入り ┃旧思考錯誤 ┃南京事件資料集  
ページ:  ┃  記事番号:   
320262
(SS)C-BOARD v3.8(とほほ改ver2.2) is Free
タブブラウザ Sleipnir 公式ページ(上級者向け) Get Firefox Get opera goo RSSリーダー
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送