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[3855]父(栗原利一)の回想録(3) 核心 07/1/11(木) 9:46
[3857](中支戦線) 核心 07/1/11(木) 14:25
[3858](中支戦線 続き) 核心 07/1/11(木) 18:07
[3859](陛下側近の警衛) 核心 07/1/11(木) 18:31
[3860](マッカーサー夫人) 核心 07/1/11(木) 20:39

[3855]父(栗原利一)の回想録(3)
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 核心 E-MAIL  - 07/1/11(木) 9:46 -

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   昭和58年12月2日付けで発行された「警視庁五十周年記念誌 第三二六期生」の中の父の分です。
 
 思い出の回顧
 
一、生い立ちから拝命まで
 
 いま七十二才、前半三十六年は吾が大日本帝国は教育勅語と軍人勅諭が国民の社会規範で歩んできた。その中に生き抜いたのであった。それが科学の進歩に負けて敗戦となり、民主主義社会に生活し、後半の三十八年は平和な社会とは言え激動の中に生活を続けている。これからも永遠に平和な社会で過ごせることを祈念する。
 私は福島県伊達郡小国村大字大波(現在福島市大波)農家の長男として明治四十四年二月二十六日生れ、大正七年十一月母は三十三才で流行性感冒で亡くなる。小学校一年七才、弟四才であった。父は大農の三男坊養子である。それから親子三人で暮らし、育てられた。祖母が隠居家から見てくれた。当時は二宮金次郎の話が身にしみて家庭の道徳を守り通した。家から福島市まで十二キロ三時間かかった歩いた。今は道路も改善されて福島駅前からタクシーで十五分で家の玄関に着ける。家から小学校まで二キロの道を六年、高小掛田町まで四キロ二年通学した。
 青年学校に五年学び、徴兵検査に甲種合格となり兵隊に行く。昭和七年一月九日会津若松歩兵二十九連隊第九中隊留守隊に入営。当時は兵隊に行けば上等兵になることがあこがれの的であった。三月十八日一期検閲も無事終了、成績発表されて驚く、九十五名の初年兵中に大卒二名、中卒五名も居た。それが一番先に栗原利一と呼ばれたとき、ハイの返事は驚きの返事であった。
 三月二十四日新潟港を出発し、三月三十日大連上陸、三月三十一日奉天着、関東軍司令下奉天駐×隊第二中隊に編入、上等兵候補者の教育を受けながら占領地の警備に当る。突発する匪賊討伐に出動しては交戦し、戦死負傷者も出る戦いを幾度も経験した。十二月末内地帰還の前日、警備現地での戦闘は激しかった。吾が大隊長佐伯少佐、その隣りで戦友木下一等兵戦死した。その時私にも弾が当りましたが雑嚢内の歩兵須知と靴下で弾が止まり助かったのであった。弾痕のある操典は大切に保管してある。
 十二月三十一日まで満州事変参加、一月三日釜山出発、一月六日宇品港帰着、一月十日歩兵上等兵を命ぜられた。初年兵教育に励んだ。青年訓練修了資格者は七月九日帰休除隊、柔剣道初段証書(連隊で三名合格)頂けるものは全部手中にした。
 故郷は不景気のどん底、田畑少しばかりの五反百姓ではとても生き抜くには困難と思い、恩師と相談して警視庁巡査試験を八月二十一日に練習所で受けた。当日は八百数十名受験した。夕方合格者発表四十四名その中に入ることが出来たことは僥倖である。
 身許調査も早々に終り十月五日第三二二期生として入った。その夜に帰休兵召集の令状が来て帰郷した。十月十八日から二十八日間秋季大演習のため分隊長として参加、責務を果たし十二月一日予備役に編入され、十二月二日第三二六期生として入所、警視庁巡査を拝命した。
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[3857](中支戦線)
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 核心 E-MAIL  - 07/1/11(木) 14:25 -

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   三、応召して中支戦線で負傷した折、同期生網野富司君に慰労を受けた
 
 戦争は悲惨なもの人と人の殺し合い、多く殺され損害の多い方が負け、今は体験談も風化しつつあるが、私にはあの二分間が心の底深く残るので記すことにした。
 昭和十二年七月日支事変が起きた。九月十五日第十三師団に充員召集により勇躍若松歩兵第六十五連隊に応召、戦時編成の分隊長として上海戦から参加、この戦闘の激烈であったことは言語に絶する戦いであった。
 十月三日上海上陸、第一線は苦戦の情報入る。戦闘準備のための雨の中の天幕生活の野営。七日間現地で中、小、分隊の戦闘訓練、散開、突撃の訓練をした。十月十日夜愈々第一線に就く。行く途中第一線からの負傷者が担架で後方野戦病院に担がれた後送されて行く姿は哀れだ。十一日朝櫓網湾の家屋の中で各自の背嚢に遺品となるものに各自名札を付けて残した。戦闘の為の携行品は弾薬、天幕、円ピ、雑嚢、乾面包、水筒を持って、第一線の綿畑に散開して陣地構築して、突撃又突撃で進撃した。前面敵陣地老陸宅、左前方孟家宅、右斜方向は馬家宅とその中にあって十字砲火の抵抗を受けての戦いであった。
 この戦闘で吾が一個中隊一九八名が七日間の戦いで最後に残ったのが、兵十九名伍長三名曹長一人、その曹長も後方大隊本部に居たので助かったのである。
 私はこの戦闘の中であの時あの壕にあと二分間壕から前に進まないで居たならば背中の真中に敵の迫撃砲が命中して木っ端微塵に散って居たのである。十月十三日午後三時三十分のことである。この時、勘の働きがどうしても剣道をやっていたお陰と思うのである。
 分隊の兵も十名の部下が二名になっていた。その兵を右と左に散開した形で壕を掘り、遮蔽伏射して前方移動する敵兵をねらい射ちしていた。第二弾が私の銃の前に落下し銃は横に飛び鉄帽の上から土をかぶってしまった。迫撃砲が落下、爆発した。直後に分隊の兵の声、分隊長やられたな、と聞こえた。私は土をかぶったが首を動かしてみると動くので、大丈夫だと言って兵に知らせた。敵は私を指揮官と見てねらい射ちの迫撃砲での縦て射で射ったのである。一弾と二弾の間、僅か二米半、その中での死中の生であった。幾年たってもあの時、あの勘で二米進み出なかったならと一番胸裏深く刻み残っている。
 この戦闘で我が中隊丈けで戦死者六十五名負傷者コレラ患者合わせて百余名。陣地占領後戦場掃除と言って戦死者を火葬し、遺骨遺留品を整理するのであるが一度に六十五名もの遺骨を収集整理したのであった。各戦闘毎に将校、下士官、兵を補充して戦闘は続行するのである。
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[3858](中支戦線 続き)
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 核心 E-MAIL  - 07/1/11(木) 18:07 -

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    私が負傷した大別山八百高地の戦闘までは第十一回補充し、私が負傷するまで中隊の戦死者で扱った遺骨は百三十二名であった。
 上海戦から追撃進撃で南京陥落は昭和十二年十二月十二日七万五千の捕虜であった。
 次に徐州大会戦、この戦闘の前日に小隊長が日射病でたおれて入院、古参伍長の私が小隊長として岩中戦車隊と徐州に突入し一番乗りを果たし、栗原小隊が中央五重の塔に日章旗を掲げたのであった。(この時の小隊の兵が両脚切断手術××××君健在で××県××に在住する。)とき昭和十三年五月十九日午前七時五十分である。それから武漢三鎮攻略戦となり、大別山脈八百高地の激戦は昭和十三年九月十日午後三時、空からと野砲隊の援護のもとに突撃して陣地を占領し、のち逆襲する敵に対し攻撃、指揮中敵の狙撃弾により左大腿部盲貫銃創を負い第一線をさがる。負傷者が収容されている中に、その晩同期生の網野上等兵が機関銃中隊長の当番兵を勤めて居た。暗闇の中で逢って驚く。昨日栗原君のように思ったが軍曹だから声をかけなかったとのこと、その収容所で網野君は歩兵と違い特科兵には馬があるので持っている、貰って食べた羊羹の缶詰とドロップその味は有難かった。その後私は淀橋署に復職して居り網野君も無事凱旋して尋ねてくれたので戦傷時の思い出話に花を咲かせたのであった。この戦傷で野戦病院に後送されたが負傷後三日目人事不省に陥る。その晩に四棟ある一番奥の屍室のすのこの上に寝かせ天幕を掛けられたのであった。明くる朝、目をさめてみると右の人も左の人も皆な死んでいる。屍の中に私一人が生きて居たのである。巡回に来た衛生兵が私も見て驚いて踵を返して行き担架も持って来て手術室に運ばれたのであった。
 「昭和十五年四月二十九日支那事変の功により勲七等並びに功六級金鵄勲章を授与さる」
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[3859](陛下側近の警衛)
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 核心 E-MAIL  - 07/1/11(木) 18:31 -

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   四、函館にて観兵式の折、陛下側近の警衛の任、光栄に浴す
 
 北海道においての特別大演習は昭和十一年十月、御警衛のため淀橋署から十五名選抜された、その一人。警視庁から千五百名二列車で二十日間出張応援の御警衛に従事した。演習最後の日、函館練兵場において観兵式の折、私は陛下が閲兵する台の左下側近において御警衛の任に当る光栄に浴した。侍従武官、宮様方、県知事、陛下側近の方たちと同席に在って御警衛できたことである。
 その際、陛下は四坪ほどの高い台の中央にお立ちになり、台の左方の角には天皇御旗を支えて立つ近衛騎兵曹長が、台の中央前方には陸軍軍楽隊、その向うが指揮官が横隊の中央にて頭右、の号令に対し、陸軍大元帥の正装で、一個部隊毎に挙手の答礼をされる。部隊は八歩の間隔である。それに上げてはおろしの繰返し、それが延々二時間続いた。その間陛下は微動だにせずのご偉容には深い感銘を与えられた。あの印象は警察官であればこそ、この光栄に預かることができたのだと脳裏に残って居る。
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[3860](マッカーサー夫人)
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 核心 E-MAIL  - 07/1/11(木) 20:39 -

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   六、マッカーサー夫人に握手で激励受く
 
 終戦と同時に剣道は禁止されていたが昭和二十一年十一月教養課の命により、司令部に行ってマッカーサー夫人に剣道試合を見せるため剣道助教三十二名が呼び出され、本庁からバスで行き剣道試合を見せることになった。
 その際、ヤーと言う気合は出さないこと、打突する部位の呼称のみに留めて行なうこと、試合について注意を受け、会議室の机を片付けて、中央に見学席机が置かれて、その席で夫人は観戦された。
 トーナメントで、最後は最上位に栗原の名前が記された。すると夫人が立って出て来られて、ミスター栗原と言って手を差し延べ握手を求められた。優勝に対しての激励の握手である。日本占領下の最高司令官夫人から求められての握手である。誰よりも誇りと光栄の感激に浴したことを剣道生活の中に忘れえぬ思い出として記す。
                       (終り)
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