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昭和58年12月2日付けで発行された「警視庁五十周年記念誌 第三二六期生」の中の父の分です。 思い出の回顧 一、生い立ちから拝命まで いま七十二才、前半三十六年は吾が大日本帝国は教育勅語と軍人勅諭が国民の社会規範で歩んできた。その中に生き抜いたのであった。それが科学の進歩に負けて敗戦となり、民主主義社会に生活し、後半の三十八年は平和な社会とは言え激動の中に生活を続けている。これからも永遠に平和な社会で過ごせることを祈念する。 私は福島県伊達郡小国村大字大波(現在福島市大波)農家の長男として明治四十四年二月二十六日生れ、大正七年十一月母は三十三才で流行性感冒で亡くなる。小学校一年七才、弟四才であった。父は大農の三男坊養子である。それから親子三人で暮らし、育てられた。祖母が隠居家から見てくれた。当時は二宮金次郎の話が身にしみて家庭の道徳を守り通した。家から福島市まで十二キロ三時間かかった歩いた。今は道路も改善されて福島駅前からタクシーで十五分で家の玄関に着ける。家から小学校まで二キロの道を六年、高小掛田町まで四キロ二年通学した。 青年学校に五年学び、徴兵検査に甲種合格となり兵隊に行く。昭和七年一月九日会津若松歩兵二十九連隊第九中隊留守隊に入営。当時は兵隊に行けば上等兵になることがあこがれの的であった。三月十八日一期検閲も無事終了、成績発表されて驚く、九十五名の初年兵中に大卒二名、中卒五名も居た。それが一番先に栗原利一と呼ばれたとき、ハイの返事は驚きの返事であった。 三月二十四日新潟港を出発し、三月三十日大連上陸、三月三十一日奉天着、関東軍司令下奉天駐×隊第二中隊に編入、上等兵候補者の教育を受けながら占領地の警備に当る。突発する匪賊討伐に出動しては交戦し、戦死負傷者も出る戦いを幾度も経験した。十二月末内地帰還の前日、警備現地での戦闘は激しかった。吾が大隊長佐伯少佐、その隣りで戦友木下一等兵戦死した。その時私にも弾が当りましたが雑嚢内の歩兵須知と靴下で弾が止まり助かったのであった。弾痕のある操典は大切に保管してある。 十二月三十一日まで満州事変参加、一月三日釜山出発、一月六日宇品港帰着、一月十日歩兵上等兵を命ぜられた。初年兵教育に励んだ。青年訓練修了資格者は七月九日帰休除隊、柔剣道初段証書(連隊で三名合格)頂けるものは全部手中にした。 故郷は不景気のどん底、田畑少しばかりの五反百姓ではとても生き抜くには困難と思い、恩師と相談して警視庁巡査試験を八月二十一日に練習所で受けた。当日は八百数十名受験した。夕方合格者発表四十四名その中に入ることが出来たことは僥倖である。 身許調査も早々に終り十月五日第三二二期生として入った。その夜に帰休兵召集の令状が来て帰郷した。十月十八日から二十八日間秋季大演習のため分隊長として参加、責務を果たし十二月一日予備役に編入され、十二月二日第三二六期生として入所、警視庁巡査を拝命した。
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