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昭和54年10月、小平市の明寿会と言う老人会の会報に書かれた父(栗原利一)の回想録です。 他の回想録と重なる部分は省いてあります。これを読むと父は昭和59年より相当前に戦争の記録を留めておくことを意識していたようです。 深刻な私の戦争体験 −いま絵と剣道で− 栗原利一 私の戦争体験から 戦争は悲惨なものですが、私達は今の人達から考えたならば、何と馬鹿なと思うことばかりだと思います。 大正十二年の震災の時は十三才、高等小学校を出て青年学校に五年、それは農業を営む傍ら日曜も祭日も休日などなかった時代です。休日の昼は青年訓練(軍事教練)で過し、冬期間は夜学校で学び、こうして日曜も祭日もなく励み続けたのである。それを怠るものなら怠け者扱いされ後指さされるのです。それが恐かった。村にあっては模範青年で過し、甲種合格して兵隊に入れることが農村青年の誇りでもあった。... ...私は満州事変、支那事変、大東亜戦と応召して何から何までというように体験をしました。青年と壮年までは、教育勅語で学び、軍人勅諭を奉じて忠君愛国の精神と忠孝一本で過ぎて来た人間でした。今は戦後史の変化と平和の中に埋もれている自由社会。戦争は悲惨だ。それは人の殺しくらだからです。戦後に生まれた人が半数以上になった現在、日本の戦争のことを云っても遥かに遠い出来事としか思えない。 だが過去の失敗は繰返させたくないのである。平和の中にこの激動する社会に生き抜く為に欠けている点を憂えているのは私丈ではないと思う。 礼儀、親に孝養、社会人として忠実な歩み、公徳心の欠除、奉仕の心、人を尊重し相手に迷惑をかけない心賭けを学んでいただき度いと思う。 光陰矢の如し。既に三十四年の年月も夢のように流れた。 然し私は剣の道を通して、剣は道なり、健は体なり、謙は心なり、青少年の育成に努力あるのみです。...
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