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[3024]日本の戦争遂行能力 たんこなす 06/7/31(月) 16:44
[3029]Re(1):おたずねします 熊猫 06/8/1(火) 8:56
[3032]Re(2):おたずねします たんこなす 06/8/1(火) 12:18
[3033]Re(1):おたずねします ja2047 06/8/1(火) 12:50
[3034]Re(2):おたずねします たんこなす 06/8/1(火) 13:25
[3041]Re(3):おたずねします ja2047 06/8/1(火) 21:39
[3042]Re(4):おたずねします たんこなす 06/8/1(火) 22:10
[3051]Re(1):おたずねします eichelberger_1999 06/8/3(木) 18:16
[3052]Re(2):おたずねします たんこなす 06/8/3(木) 22:40
[3053]Re(3):おたずねします たんこなす 06/8/3(木) 23:02
[3058]Re(1):おたずねします とほほ 06/8/4(金) 16:56
[3060]Re(2):おたずねします たんこなす 06/8/4(金) 17:39
[3061]Re(2):お願いします たんこなす 06/8/4(金) 17:43
[3070]Re(3):お願いします たんこなす 06/8/5(土) 12:48
[3066]Re(1):日本の戦争遂行能力 タラリ 06/8/5(土) 8:52
[3073]Re(2):日本の戦争遂行能力 eichelberger_1999 06/8/5(土) 19:33

[3024]日本の戦争遂行能力
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 たんこなす E-MAIL  - 06/7/31(月) 16:44 -

引用なし
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   あのー
日中戦争時の日本の戦争能力についてお尋ねします。

(1)1937年当時、日本は外国から兵器を輸入していなかったのでしょうか?
(2)1937年当時、日本は英国から戦略物資をどれくらい輸入してたのでしょうか?米国ではどうでしょうか?
(3)上記について、日英同盟解消いらいの変動はいかに

どなたか、そうしたことを調べたり、読んだりしたことのあるご経験はありませんか?

私は、当時日本が偉そうなことを言っていても、日中戦争を維持するためには、物質的には英米に頼っていたのではないか、と直感します。なぜなら、真珠湾開戦と同時に、フィリピン、インドネシア、インドシナを接収したことから。しかし、それだけでは推測に終ってしまいます。

[管理人一回修正:タイトル]
25 hits

[3029]Re(1):おたずねします
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 熊猫 E-MAIL  - 06/8/1(火) 8:56 -

引用なし
パスワード
   (1)「準正式兵器(輸入兵器)」は時代を限定するとちょっと自信がないです。

(2)(3)については■『貧国強兵』森本忠夫(光人NF文庫)、入門書としてはこれがよいかと思います。
46 hits

[3032]Re(2):おたずねします
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 たんこなす E-MAIL  - 06/8/1(火) 12:18 -

引用なし
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   ▼熊猫さん:
>(2)(3)については■『貧国強兵』森本忠夫(光人NF文庫)、入門書としてはこれがよいかと思います。

熊猫さん、いつも情報有難う御座います。こんど図書館で探して見ます。
で、その前に
丘の向こう側 http://www.warspite.jp/ というサイトを見つけましたので、事前学習してみます。
47 hits

[3033]Re(1):おたずねします
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 ja2047  - 06/8/1(火) 12:50 -

引用なし
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   ▼たんこなすさん:

>(1)1937年当時、日本は外国から兵器を輸入していなかったのでしょうか?

サンプル購入程度で、主力兵器についてはほとんどないと言ってよろしいかと思います。
例外的にある程度まとまった数が使用されたものとして、海軍特別陸戦隊が市街戦用にベルグマンMP18機関短銃(とその発展型のハーネルMP28)を装備していたのと、
http://www8.plala.or.jp/hall3001/newgun/custam/mp18.htm
陸軍が双発爆撃機フィアットBR20を72機だけ購入して使用したケースがありますが、それぐらいだと思います。
http://military.sakura.ne.jp/ac/i_siki.htm

2,3はすでに熊猫さんがお答えなので、付け加えることははありません。


>私は、当時日本が偉そうなことを言っていても、日中戦争を維持するためには、物質的には英米に頼っていたのではないか、と直感します。

資源はそうですね。
英はよく知りませんが、石油にしろ鉄鋼、屑鉄にしろ、アメリカからの輸入が途絶えたらたちまち干上がる状態でしょう。
重慶爆撃でアメリカ世論が沸騰したのも、「我々の輸出した資源で大量殺人が行われている」と言われたからですね。

 
42 hits

[3034]Re(2):おたずねします
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 たんこなす E-MAIL  - 06/8/1(火) 13:25 -

引用なし
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   ▼ja2047さん:
>陸軍が双発爆撃機フィアットBR20を72機だけ購入して使用したケースがありますが、それぐらいだと思います。
>http://military.sakura.ne.jp/ac/i_siki.htm

>重慶爆撃でアメリカ世論が沸騰したのも、「我々の輸出した資源で大量殺人が行われている」と言われたからですね。

Ja2047さん、ご回答有難う御座います。

http://military.sakura.ne.jp/ac/i_siki.htm
を読みますと、「大陸奥地用」のこのイタリア製の爆撃機が、重慶爆撃したかに思ってしまいますが、陸軍も重慶爆撃に参加したのですか?
46 hits

[3041]Re(3):おたずねします
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 ja2047  - 06/8/1(火) 21:39 -

引用なし
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   ▼たんこなすさん:
>http://military.sakura.ne.jp/ac/i_siki.htm
>を読みますと、「大陸奥地用」のこのイタリア製の爆撃機が、重慶爆撃したかに思ってしまいますが、陸軍も重慶爆撃に参加したのですか?

重慶初空襲は1938年12月26日に陸軍によって日本製の九七式重爆12機とイタリア製のイ式重爆10機で行われています。
このあとは海軍の九六式陸攻が中心で、陸軍の九七式重爆も加わりながら行われますが、1939年になるとイ式重爆は重慶爆撃には使われていないと思います。
 
57 hits

[3042]Re(4):おたずねします
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 たんこなす E-MAIL  - 06/8/1(火) 22:10 -

引用なし
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   ▼ja2047さん:
>重慶初空襲は1938年12月26日に陸軍によって日本製の九七式重爆12機とイタリア製のイ式重爆10機で行われています。
>このあとは海軍の九六式陸攻が中心で、陸軍の九七式重爆も加わりながら行われますが、1939年になるとイ式重爆は重慶爆撃には使われていないと思います。

おお、重慶初空襲にはイ式が使われていたんですか。
有難う御座います。

写真を探してみました。
ラバウル、火山の噴火で火山灰に埋まった九七式重爆
http://akabori.web.infoseek.co.jp/A-02.new%20guinea%20war%20memory.htm
双発爆撃機フィアットBR20(JAさん情報)
http://military.sakura.ne.jp/ac/i_siki.htm
九六式陸攻
http://homepage2.nifty.com/may-fly/may-fly/hikouki.htm

なお、重慶爆撃についてはこんなやり取りが見つかりました。

「正論」平成16年6月号   ハイ、せいろん調査室
http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2004/0406/hi-se.html
 
▼質問=武蔵野市の長○○○さん(78歳)から。

 日本軍による重慶爆撃について、具体的なことをお教え頂きたいのです。

 広島・長崎への原爆投下と、三月十日の東京大空襲は、市民に対する無差別攻撃であることはよく分かりますが、これと同列に並べて、重慶爆撃が市民に多くの犠牲をもたらす大規模空爆であったとする昨年八月八日の朝日新聞の「窓 論説委員室から 吉田文彦」のコラムに疑問があるのです。

 日本軍の飛行機は、双発の九六式陸上攻撃機だろうと思いますが、積載量は米軍機の半分にも満たないだろうし、当時の我が国の国力から考えて参加機数も僅かであったろうと思います。

 軍事施設を狙った爆弾が外れ、たまたま一般市民に死傷者が出た程度だったのではなかろうかとも想像しておりますが、大新聞の論説委員さんの署名入りのコラムなので、日本を悪者にするために敢えて嘘を書いたとも思えず悩んでおります。

 各爆撃の参加機数・投下爆弾の種類数量・死傷者数などを具体的にお教え下さい(四月号)。

  ======================
 ▽回答=富士宮市の慈○○○さん(71歳)から。

 この重慶爆撃は、主に海軍航空隊によって行われたもので、昭和十三年二月十八日を皮切りとして、同年には三次、十四年には十三次、十五年には四十六次、そして大東亜戦争の始まる直前の十六年には、重慶さえ叩けば蒋介石政府が手を上げるだろうとの見当違いの予想のもとに特に激しく行われ、五月三日から九月二十八日までの間に海軍航空隊だけで三十二次も重慶を空襲したとのことです。特に八月中旬から月末にかけて行われた第二十六次から第三十次の攻撃は凄まじく、この間昼夜のべつまくなしの波状攻撃で、漢口の基地から重慶に飛んだ海軍の重爆撃機は、延べ二千四百機、投下した爆弾は一万五千個と記録されているそうです。

 この間重慶空軍の反撃はほとんど無く、対空砲火は有ったでしょうが、たいした抵抗は受けず、我が軍の損害はほとんど無かったそうです。この重慶定期便もいたずらに爆弾を消耗するだけで、一向に効果が上がらないうちに大東亜戦争となり、海軍航空隊は南方戦線に転進して、重慶爆撃は一段落したとのことです。以上、元毎日新聞社ラジオ報道部副部長、益井康一氏の『大陸航空決戦の實相』に記述されています。

 このことから考えると、ほとんど無抵抗の都市にこれだけの攻撃を加える軍事基地が有ったとは考えられず、残念ながら無差別爆撃であったと言われても、よほどの証拠が無い限り反論の余地は少ないものと思います。

 なお、私は終戦当時中学二年生で、軍隊経験は有りません。


引用にあたって名前は一部伏字にしました。
83 hits

[3051]Re(1):おたずねします
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 eichelberger_1999 E-MAIL  - 06/8/3(木) 18:16 -

引用なし
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   ▼たんこなすさん:
>あのー
>日中戦争時の日本の戦争能力についてお尋ねします。
(略)
>私は、当時日本が偉そうなことを言っていても、日中戦争を維持するためには、物質的には英米に頼っていたのではないか、と直感します。

 1937年11月、すなわち日中戦争がはじまって、3ヶ月ほどたった時期に、当時の近衛内閣は、中華民国に対して宣戦布告すべきか否か、その利害得失を検討するために、内閣に秘密裡に第4委員会なるものをつくりました。その委員会での検討の結果、宣戦布告は得策でないとの結論にいたります。

 なぜ、宣戦布告が得策でないと判断されたのか、そのいちばん重要な理由は、アメリカの中立法の発動です。
 日本または中国が宣戦布告をすると、アメリカの中立法が発動され、その結果、交戦国に対して
1.兵器弾薬及び軍用器材の輸出禁止
2.上記以外の物品・材料(石油・くず鉄等)の輸出禁止
3.金融上の取引制限(米国での公債募集やクレジット供与の禁止)
がとられます。
(2.3の措置は、1941年夏に日本が南部仏印に進駐した時にとられたものと同じです。)
 1から3の措置がとられると、戦争を継続することが、非常にむずかしくなるので、宣戦布告すべきではないということになったわけです。

 その結果、日中戦争は、宣戦布告なき「事変」のまま、継続されたのでした。
25 hits

[3052]Re(2):おたずねします
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 たんこなす  - 06/8/3(木) 22:40 -

引用なし
パスワード
   ▼eichelberger_1999さん:
> なぜ、宣戦布告が得策でないと判断されたのか、そのいちばん重要な理由は、アメリカの中立法の発動です。
> 日本または中国が宣戦布告をすると、アメリカの中立法が発動され、その結果、交戦国に対して
>1.兵器弾薬及び軍用器材の輸出禁止
>2.上記以外の物品・材料(石油・くず鉄等)の輸出禁止
>3.金融上の取引制限(米国での公債募集やクレジット供与の禁止)
>がとられます。
>(2.3の措置は、1941年夏に日本が南部仏印に進駐した時にとられたものと同じです。)
> 1から3の措置がとられると、戦争を継続することが、非常にむずかしくなるので、宣戦布告すべきではないということになったわけです。

eichelberger_1999さん
解答有難う御座いました。

近衛内閣第4委員会も米国中立法も知りませんでした。

「中立法」で検索しましたら、次のものがヒットしました。一部引用します。

新聞記事文庫 海運(33-142)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00160093&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA&TOP_METAID=00160093
 
京城日報 1939.9.20-1939.9.22(昭和14)
今次の欧洲大戦と我国の海運界 (上・中・下)
山県勝見(寄)辰馬汽船社長

(前略)
我国海運の特異性

更に我国の海運は其の貿易に依存するところ大であるが欧洲大戦に依り参戦諸国に対する我国の輸出が増加し、又従来参戦諸国より物資を輸入せし諸国に対する我商権の進出が一応期待さるるとは謂え、現在の如く我国の戦時体制が依然として継続せらるる限り、繊維製品等の平和商品以外の輸出は大して望まれず、然も平和産業に於ては原料品の輸入、生産設備及労働力等の点に於て相当の制限を受くることは不可避であり、又他面生産力拡充に必要なる資材の輸入の如きも欧洲諸国よりの輸入は固より、米国よりの輸入も中立法の発動等に依り今後相当困難を加うるに至るべく、斯くて欧洲大戦と云う天恵の機会に際会しながら我国の対外貿易は相当の制限を受けているのであり、自然我国海運の対外進出もその範囲に於て制約せられているのである
(後略)

39 hits

[3053]Re(3):おたずねします
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 たんこなす  - 06/8/3(木) 23:02 -

引用なし
パスワード
   ▼たんこなすさん:
>新聞記事文庫 海運(33-142)
>http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00160093&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA&TOP_METAID=00160093


これは、神戸大学図書館、新聞経済記事文庫からでした
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html
 
新聞記事文庫とは?
「新聞記事文庫」は、神戸大学経済経営研究所によって作成された明治末から昭和45年までの新聞切抜資料で、「新聞切抜文庫」とも呼ばれています。六十年以上にわたって営々と積み上げられた切抜帳は約3200冊、記事数にすれば約50万件という膨大な量になっています。


マイクロフィルムの画像だけでなく、電子テキストも副えられています。
52 hits

[3058]Re(1):おたずねします
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 とほほ E-MAIL  - 06/8/4(金) 16:56 -

引用なし
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   ▼たんこなすさん:
>(1)1937年当時、日本は外国から兵器を輸入していなかったのでしょうか?
>(2)1937年当時、日本は英国から戦略物資をどれくらい輸入してたのでしょうか?米国ではどうでしょうか?
>(3)上記について、日英同盟解消いらいの変動はいかに

参考までに「日中全面戦争と海軍、笠原十九司、青木書店」より抜粋しておきます。
P306〜P311

3 日米戦争への構図――――戦争指導と国民

石射猪太郎はヒューゲッセン事件に対してイギリスで対日感情が悪化して、経済関係に支障がでてきたというニュースに接して「さもあるべし。英はまだ好い。アメリカを怒らせたらイカン。注意すべきだ。」と日記(一九三七年九月三日)に書いた。

一九三七年の日本の対外貿易においてアメリカが占める比重は、輸入の三三.六パーセント、輸出の二〇.一パーセントを占め、輸入品のなかで、日中戦争に不可欠な軍需品や戦争機材が高い比率をしめていた。たとえば、日本が輸入する石油および重油の七六.六パーセントはアメリカからであったし、同様に、屑鉄は五一.一パーセント、銅九七.一パーセント、燐鉱石二五.二パーセント、機械および部品は四二.一パーセント、自動車および部品は九四.三パーセントとなっていた。

<中略>

その後ブレーキを失って「暴走車」となった日本軍は、とめどもなく侵略拡大をつづけ、国民政府を支持する英米勢力の駆逐をも目指し中国にあるアメリカ人の生命・財産に対する侵害とアメリカの権益への侵犯をエスカレートさせ、アメリカ人勢力を駆逐しようとしていると思われる行為をつづけていく。

<中略>

アメリカ政府が日米通商航海条約の廃棄を通告する(一九三九年七月二六日)以前に、アメリカの世論は、七四パーセントが中国に同情をしめし、六六パーセントが日本商品のボイコットに賛成、七二パーセントが武器・軍需物資の対日禁輸を支持するようになっていた。

1940.7 航空用ガソリンの対日禁輸
1941.8 対日石油輸出完全禁止
1941.12 真珠湾攻撃

31 hits

[3060]Re(2):おたずねします
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 たんこなす  - 06/8/4(金) 17:39 -

引用なし
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   とほほさん、
大変手数のかかる書き起こし有難う御座います。

一九三七年の日本の対外貿易においてアメリカが占める比重は、輸入の三三.六パーセント、輸出の二〇.一パーセントを占め、輸入品のなかで、日中戦争に不可欠な軍需品や戦争機材が高い比率をしめていた。たとえば、日本が輸入する石油および重油の七六.六パーセントはアメリカからであったし、同様に、屑鉄は五一.一パーセント、銅九七.一パーセント、燐鉱石二五.二パーセント、機械および部品は四二.一パーセント、自動車および部品は九四.三パーセントとなっていた。


これでは、アメリカが中立法を発動したら、日本は中国では戦争が継続できませんね。石射猪太郎は当時上海総領事だったのでしょうか?ボヤキまくっていますね。

ヒューゲッセン事件とは
>8月26日  英国駐華大使ヒューゲッセン、日本海軍機の誤射で負傷。
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/ww2/nenpyo01.htm
ですね。
 アメリカ政府が日米通商航海条約の廃棄を通告する(一九三九年七月二六日)以前に、アメリカの世論は、七四パーセントが中国に同情をしめし、六六パーセントが日本商品のボイコットに賛成、七二パーセントが武器・軍需物資の対日禁輸を支持するようになっていた。


そういえば、フィッチが持ち帰ったマギーフィルムが、対日くず鉄禁輸キャンペーンで使われたと書いて有りましたね。

http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/mg_images/youshi.htm(サイト主訳)
http://humanum.arts.cuhk.edu.hk/NanjingMassacre/NMMage.html(原英文)
 
ジョージ・フィッチと「彼の」フィルム
An e-mail from Sharon Kuykendall
Date: Wed, 17 Apr 1996 18:44:39 -0400

  ジョージ・フィッチが合衆国に戻り、多くの人にフィルムを見せたのは、一体何が起きているのかをアメリカの人に知らせるためでした。ちょうどその時、鉄くずの合衆国から日本への輸出の実行という時事問題がおこり、フィッチたちは、「鉄くずは兵器になり中国人や友人達に敵対する」ことを特に強調して、政府を説得しました。多くの人にフィルムを見せれば鉄くず輸出が止められると思ったわけです。

  残念にもジョージ・フィッチは体を壊し、上映のスケジュールがこなせなくなりました。彼は、一度上映会で出会った私の祖父Arthur N. Bierkleにフィルムのコピーを託したのです。私の祖父は既に、日本へのサポートに反対する活動に熱心でした。なぜなら、南京大学に1年学んだことを含めて1925-1933の間、中国で暮らしていたからです。かれは、フィッチが離脱せざるを得なかった場所、主に南カルフォルニアを選んで上映会を開いたのでした。

35 hits

[3061]Re(2):お願いします
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 たんこなす  - 06/8/4(金) 17:43 -

引用なし
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   とほほ様
勝手なお願いですが、このスレッドのタイトルを、

「日本の戦争遂行能力」

とかに、お閑なときに変えて下さらないでしょうか?
50 hits

[3066]Re(1):日本の戦争遂行能力
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 タラリ E-MAIL  - 06/8/5(土) 8:52 -

引用なし
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   ▼たんこなすさん:
>あのー
>日中戦争時の日本の戦争能力についてお尋ねします。
>
>(1)1937年当時、日本は外国から兵器を輸入していなかったのでしょうか?
>(2)1937年当時、日本は英国から戦略物資をどれくらい輸入してたのでしょうか?米国ではどうでしょうか?
>(3)上記について、日英同盟解消いらいの変動はいかに
>
>どなたか、そうしたことを調べたり、読んだりしたことのあるご経験はありませんか?
大日本帝国データベースというのが役に立ちそうです。

石油
http://www.luzinde.com/database/resources_oil.html

ほか、いろいろあります。もともと圧倒的な生産力の違いがあったことは知っていましたが、このデータを見て対米戦の直前にはものすごく増産、備蓄に努力した、という事実にも驚かされました。

重工業の生産増強がこれだけされていた。しかもこの生産増強はなんら国民生活に資するものではなかった、すべて軍儒だった。よく、昭和16年になってからの仏印進駐だの、ハルノートだのを戦争への分岐点のように言われるが、実態としては日中戦争以来、対米英戦または対ソ戦の準備に邁進していたことを示していると思われます。
37 hits

[3070]Re(3):お願いします
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 たんこなす E-MAIL  - 06/8/5(土) 12:48 -

引用なし
パスワード
   とほほ様
さっそくタイトル修正くださり
ありがとうございました
56 hits

[3073]Re(2):日本の戦争遂行能力
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 eichelberger_1999 E-MAIL  - 06/8/5(土) 19:33 -

引用なし
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   ▼タラリさん:

>よく、昭和16年になってからの仏印進駐だの、ハルノートだのを戦争への分岐点のように言われるが、実態としては日中戦争以来、対米英戦または対ソ戦の準備に邁進していたことを示していると思われます。

 厳密に言えば、日本が対米戦および対ソ戦準備のため軍備充実に着手するのは、日中戦争がはじまる前からです。ご存知のことだと思いますが、1936年6月に帝国国防方針の第三次改訂がおこなわれ、海軍はアメリカを主敵、陸軍はソ連を主敵と想定して、相応の戦時兵力の整備に着手することが国策として決定されます。
 その整備目標は、以下のとおりです。だいたい1941年末までに完成させる計画でした。
【陸軍】
・常設師団20、戦時50個師団
・航空140中隊
(1936年末の時点で、陸軍の師団数は17、戦時動員予定師団数は30。
 これが1941年末には常設・動員あわせて師団数51に増えます)
【海軍】
外戦部隊 主力艦12、空母10、巡洋艦28、基地航空兵力65隊
(1936年末:主力艦10、空母6、巡洋艦31)
(1941年末:主力艦11、空母10、巡洋艦35)
陸軍は陸軍軍備充実6ヵ年計画、海軍は第三次海軍補充計画(3.計画)により、上記の整備目標を達成します。

 もっとも、対ソ、対米にしろ次期戦争は総力戦争ですので、日本の重工業の高度化をはからなければ、軍備拡張計画も絵に描いた餅にすぎません。そこで、陸軍は日本の工業水準を飛躍的にアップする野心的な計画案(重要産業五カ年計画)を近衛内閣に提示して、その実行を迫ります。まだ、日中戦争がはじまる前のことです。

 近衛内閣はいちおうこの計画そのものには同意しますが、すでに当時の日本経済は昭和初期の不況から脱出して、好況局面にはいっていますから、このような大規模な投資計画はインフレと国際収支の悪化をひきおこしかねません。ですので国内的には経済界を中心に憂慮をもつ者も多く、総論賛成、各論反対で、そのままでは軍の計画がのぞみどおりに進まなかった可能性も多々ありました。

 しかし、日中戦争は、そのような懐疑的空気を一掃します。軍部は、国内の反対にわずらわされることなく、臨時軍事費という白紙小切手をもらい、いっぽうで中国との戦争を進めつつ、他方でそれを利用して次期戦争(対米または対ソ)に対する準備を着々と進めていったのです。
 第三次海軍補充計画の目玉は戦艦大和、武蔵ですが、どちらも中国相手の戦争には役に立たない兵器です。中国には海軍はありませんし、いくら大和の大砲がすごいといっても、重慶までは届きませんから。日本海軍は、中国との戦争中に、直接その戦争には役にたたない兵器を、巨額の予算を使って建造したわけです。もっとも、大和型戦艦がアメリカとの戦争ではたして役にたったかどうかは、いささか疑問ですが。
 
 アメリカに対する国力の劣勢をよく認識していた日本海軍の首脳部が、1941年9-10月に対米戦に踏み切る決心を固めたのは、「今ならば、対米7割の兵力でもってあたれるが、今をはずすと、今後日米の海軍力の差は絶望的に広がり、もはや勝ち目はない」と判断したことがあげられます。
 この対米7割の兵力なるもの、これこそが日中戦争中の軍備拡充によって可能となったものです。これがなければ、1941年秋に海軍首脳部は対米戦争に踏み切る決心がつかなかったはずです。
45 hits

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