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1、概論その一
戦争と一般に言われるものそのものの性質がフランス革命以降、国民国家成立以降に大きく変貌しており異なっている、従いここでは国民国家以降について書いていきたい、もちろん国民国家以降のヨーロッパと他地域特にはアジア地域でもその様相は大きく異なる。
周知の通り、フランス革命は従来の封建制を廃し国民国家を成立させた、この国民国家と言う概念は前提として民族と言う一つの人間の塊(又はその地域における人間の塊)がまずそこに存在しその想像の共同体としての「国家」が新設された。この国家とは本来封建からの自由な領域を示す意味合いが強く自分を支配していたものを排斥し自由を得たが、その結果他の封建君主が変わって自分達を支配することを恐れた、その為にフランスと言う国民国家が成立したのである、そうしないとブルボン王朝はあったがフランスと言う国はなかったことに成る。
他の封建君主から自国領域を守るために「国境」も新設された。これはいうなればやくざの親分の領域内から親分をたたき出し、民主的に自由な運営を行っていこうとする近代民主主義の発露であることは教科書でも習う。そこで強力な防衛長官ナポレオンは考えた。 「フランスだけではなく、世界中の封建貴族(やくざ)を叩き潰せば、フランスが他の王権(やくざ)におびえることはなくなる」として世界侵略が始まる。
他方ヨーロッパやロシア等でもフランス革命の為した「国民国家」の思想は封建国家の中でも高い人気を得ドイツやイタリア統一の機運は高まっていた。それぞれに国境が策定されていった。
近代戦争史にアジアが登場するまでにはまだ時間がある、アジアでは以前封建が支配し庶民は封建(やくざ)支配の下厳しい生活を強いられ自由は剥奪されていた。日本は小国(小親分)が分裂支配しその上小親分は大親分(徳川)に対して莫大な責務を負わされており庶民の生活たるや惨憺たるものであった。日本と言う国民国家成立までにはまだ時間を待たねばならない。
この時代、近代戦争史初期のころの戦争はいわば軍隊同士の戦争である、都市や住民区が戦場になることはまれであった、都市制圧の際は軍が都市に入ることは厳禁されていた。あくまで郊外で停戦交渉が行われその勝敗は決することになっていた。
そうこうしながら、ヨーロッパの植民地主義は国家の威信をかけて世界を制圧していったアジアではついに清朝にもその毒牙がのどもと深くに食い込んでいた。
日本は震え上がった。「あの強国清朝があれでは徳川などひとたまりもない」ここに日本史上初の「国民国家」統一の機運が芽生え始めた、ペリー来航はそれに拍車をかけた。しかしこれはヨーロッパに見られるような民主運動ではなく日本にいるやくざどもが震え上がっただけの話である。日本のやくざどもはどうしたらよいのか考えたそして国民国家のまねをしなくては、、、。と思ったのが吉田松陰である。誤解の無い様に言っておくが私は松蔭のファンである(^^;
よく現代天皇制の創始者として左翼系からは悪の権化のように語られる松蔭ではあるが、私の評価はそれとは違う、いわば国家の御旗における柱を天皇としたのは時代の限界とも言える、と考えている。それがなければ日本は民主的国家が誕生したとしても小国連合それも本州南部地域と中国・四国・九州がその領土だったに違いない。それでもよかった、いやその方がよかったのかもしれないし経済もその方が大きく庶民はゆとりある生活を出来たかもしれないが、歴史のIFはご法度である。
とにもかくにも松蔭の思想はそれまでの日本民衆の世界観を大きく変えた、狭い領土に閉じ込められていた庶民は日本と言う大きな塊を意識し。言うなればそれまでの国境を意識が超え始めたのである。大きなひとつのパラダイム転換点であったことは確かであろう。
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