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[3114]またぞろ捏造論の標的に たんこなす 06/8/10(木) 0:50
[3120][投稿者削除]
[3126]Re(2):またぞろ捏造論の標的に たんこなす 06/8/10(木) 12:16
[3130]Re(3):若杉大尉参謀の尉官教育 たんこなす 06/8/10(木) 23:06
[3132]Re(4):"崇仁親王 兄貴と違ってあんたは偉い" たんこなす 06/8/10(木) 23:39
[3129][投稿者削除]
[3133]Re(2):またぞろ捏造論の標的に 福田恒存撲滅会会長 06/8/11(金) 8:42
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[3139]Re(4):またぞろ捏造論の標的に eichelberger_1999 06/8/11(金) 15:46
[3140]Re(5):またぞろ捏造論の標的に たんこなす 06/8/11(金) 18:20
[3142]Re(6):またぞろ捏造論の標的に eichelberger_1999 06/8/11(金) 19:56
[3141]Re(3):[3135]訂正;またぞろ捏造論の標的に たんこなす 06/8/11(金) 18:35
[3134]Re(2):またぞろ捏造論の標的に 福田恒存撲滅会会長 06/8/11(金) 8:58

[3114]またぞろ捏造論の標的に
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 たんこなす  - 06/8/10(木) 0:50 -

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   日経の次に読売が「反日化?」、やがて産経も? ソックリかえる!!
またぞろネトウヨたちの捏造論の標的に
 
三笠宮さまが日中戦争「謝罪」、江主席外遊録に記述

 【北京=藤野彰】昭和天皇の弟の三笠宮さま(90)が、1998年11月に訪日した江沢民・中国国家主席(当時)を歓迎する宮中晩さん会の席上、江主席に対し、日中戦争に関して「日本軍の暴行を今もなお深く恥じて気がとがめている。中国人民に謝罪したい」と語っていたと、このほど中国で公刊された江沢民外遊録に記述されていることが明らかになった。

 天皇陛下はこの晩さん会でのお言葉で先の大戦について触れられなかったが、江主席は答辞の中で「日本軍国主義は対外侵略拡張の誤った道を歩んだ」などと厳しく指摘。中国側が今回、外遊録で三笠宮さまの発言を初めて公開したことは、歴史問題を巡って日中関係が冷却化する中、戦争を経験した皇族の「謝罪」表明として重要視していることをうかがわせている。

 この外遊録は「世界をさらにすばらしくするために」(北京・世界知識出版社)と題した、江沢民外交の記録集。李肇星外相が序文を寄せていることから、党・政府のお墨付きを得た公式文献と言える。

 それによると、三笠宮さまは同年11月26日夜、天皇、皇后両陛下の主催で開かれた宮中晩さん会で、「日本の中国侵略戦争中、旧陸軍の将校として南京に駐屯したことがある。日本軍の暴行を目の当たりにし、今もなお深く恥じて気がとがめている。中国人民に謝罪したい」との考えを江主席に伝えられた。

(2006年8月9日23時11分 読売新聞)

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   この書き込みは投稿者によって削除されました。(06/8/11(金) 12:31)
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[3126]Re(2):またぞろ捏造論の標的に
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 たんこなす  - 06/8/10(木) 12:16 -

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   ▼核心さん:
>日本人が南京大虐殺を正確に知る前に皇室や天皇を使ってフタをしてしまおうという魂胆にも思えるのですが。

三笠の宮産のバヤイは、フタを開けることになるかもしれません。

>日本人は国民主権国家の国民として南京大虐殺を正確に知るべきだと私は考えているのですが。

「三笠宮」でGoogleってみます

http://www.kunaicho.go.jp/02/d02-12.html

崇仁親王同妃両殿下のご略歴
  ○崇仁親王殿下

お名前  崇仁(たかひと)
宮号   三笠宮(みかさのみや)
お続柄  大正天皇第4皇男子
お誕生日 大正4年12月2日
ご称号  澄宮(すみのみや)
お印   若杉(わかすぎ)
成年式  昭和10年12月2日 (ご年齢20歳)
総裁職など 皇室会議 議員
(財) 中近東文化センター 名誉総裁
(財)日本ワックスマン財団 名誉総裁
日本・スリランカ協会 名誉総裁
日本・トルコ協会 名誉総裁
(社) 出版文化国際交流会 名誉会長
日本赤十字社 名誉副総裁
ご学歴など 学習院中等科を経て
陸軍士官学校ご卒業
騎兵連隊でご勤務
昭和16年
 陸軍大学校ご卒業,後参謀としてご勤務


この「お印 若杉(わかすぎ)」「参謀としてご勤務」に注目しますと・・・
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   この書き込みは投稿者によって削除されました。(06/8/11(金) 12:31)
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[3130]Re(3):若杉大尉参謀の尉官教育
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 たんこなす  - 06/8/10(木) 23:06 -

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   ▼たんこなす:
>この「お印 若杉(わかすぎ)」「参謀としてご勤務」に注目しますと・・・

「若杉 参謀」でGoogleります

ゆうさんのサイトがヒット
http://www.geocities.jp/yu77799/nihonjin.html#mikasa

 
三笠宮崇仁インタビュー「闇に葬られた皇室の軍部批判」より
(聞き手 中野邦観・読売新聞調査研究本部主任研究員) 

 ―最近また南京大虐殺について、閣僚の発言が問題になりましたが、同じような問題が何回も繰り返し問題になるのはまことに困ったことだと思います。三笠宮殿下はこの問題についてどのように受け止められておられますか。

三笠宮 最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から「新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる」という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体何だったのかという懐疑に駆られました。

 また、南京の総司令部では、満州にいた日本の部隊の実写映画を見ました。それには、広い野原に中国人の捕虜が、たぶん杭にくくりつけられており、また、そこに毒ガスが放射されたり、毒ガス弾が発射されたりしていました。ほんとうに目を覆いたくなる場面でした。これごそ虐殺以外の何ものでもないでしょう。

 しかし、日本軍が昔からこんなだったのではありません。北京駐屯の岡村寧次大将(陸士十六期・東京出身)などは、その前から軍紀、軍律の乱れを心配され、四悪(強姦、略奪、放火、殺人)厳禁ということを言われていました。私も北京に行って、直接聞いたことがあります。

 日清、日露戦争の際には、小隊長まで「国際法」の冊子をポケットに入れていたと聞きました。戦後ロシア人の捕虜が日本内地に収容されていましたし、第一次大戦の時にはドイツ人の捕虜がたくさん来ていました。彼らは国際法に基づいて保護されていましたから、皆親日になったのです。彼らの中には、解放後も日本に残って商売を始めた人達さえいました。神戸には今でも流行っているパン屋さんやお菓子屋さんがありますね。(「ゆう」注 「ユーハイム」のことだと思われます)

(「THIS IS 読売」1994年8月号 P54〜P56)
 
 
小川哲雄氏「日中戦争秘話」より

  あれは昭和十八年の春頃ではなかったか。総軍の若杉参謀から総軍司令部尉官将校に対し、次のような命令が下された。

 「支那事変が今に至るも解決せざる根本原因について思うところを述べよ。
 但し、三行三十字以内とする。」

 文章は長ければ楽だが、短くすればするほど難しい。われわれ若手将校はあれこれと知恵をしぽって解答を書いた。

 数日後、総司令部大会堂に尉官将校数百人が参集した。壇上には黒板を背にして若杉参謀が立たれ、左右には総軍司令官、以下参謀長、将官、佐官がずらりと居並んだ。陪席という恰好である。
 若杉参謀の講評がはじまった。

「支那事変未解決の根本理由に関する諸官の解答についてつぶさに目を通した」
 参謀はその解答の代表的なものについて一枚一枚手にとって読み上げられた。
 日く、蒋介石の徹底した抗日教育。
 日く、ソ連の延安を通ずる支援。
 日く、英米の物的援助。
 日く、ビルマルートの打通。
 日く、中国大陸の広大さ。等々。

 若杉参謀はその各々について、解説を加え、事変未解決の一つの原因であるかも知れない、とされながら、

 「しかし、そのいずれにも本官は満足しない。諸官の解答は事変未解決の原因の一つだとしても、それは単に枝葉末節的、あるいは部分的原因にすぎない。いずれも本官の考える根本的原因には程遠い。諸官の解答は落第である」

 若杉参謀は机の上に積み重ねた解答の中から一通の答案を取り出し、
 「但し、この解答だけは本官が期待した唯一のものである」
 「沢井中尉、前えっ」

 沢井中尉(大阪在住)は私と軍事顧問部の同僚であり、大阪外語の出身であった。
 沢井中尉は若杉参謀の前に進んだ。
 「読み給え」

 沢井中尉は自分の書いた答案を両手で眼の前に掲げながら、大きな声で読み上げた。

 「支那事変未解決の根本原因は、日本人が真の日本人に徹せざるにあり」

 沢井中尉が読み終わると、間髪を入れず、若杉参謀の声が語気鋭く講堂にひびいた。
 「その通り。事変未解決の根本原因は日本人が真の日本としての行動をしていないからだ。略奪暴行を行いながら何の皇軍か。現地の一般民衆を苦しめながら聖戦とは何事か。大陸における日本軍官民のこのような在り方で、いったい陛下の大御心にそっているとでも思っているのか」

  若杉参謀の前にならぶわれわれ尉官はもとより、左右に居ならぶ総司令官以下、将官佐官、ひとしく頭を垂れ、満堂粛として声がなかった。

 若杉参謀はさらに語をついで
 「わが日本軍に最も必要なことは、武器でもない、弾薬でもない。訓練でもない。これだ」
 若杉参謀はくるりと後ろを向き、黒板に大書された。
 ”反省、自粛”
 「自らをかえりみ、自らをつつしみ、自らの一挙一動、果たして大御心にもとることなきかを自らに問うことである」

 言々火のごとき若杉参謀の一語一語であった。軍の驕慢、居留民の堕落を衝いて余すところなく、今、この時、真の日本人、全き皇軍に立ちかえることが出来ねば支那事変は永久に解決しないであろう、と斬ぜられた。

 満堂、声がなかった。
 私は参謀の御言葉の中に日中事変そのものの不道義性へのお怒りを感じた。

 全員起立のうち、若杉参謀が退席された。
 退席されるや否や、総軍高級副官が冷汗をぬぐいながら、われわれ尉官に対し、「只今のお言葉は、何ともその、恐れ多い次第であるが、その何というか、あまり、いやまあ、なるべくだな、外部には、口外せんようにな」
 汗をふきふき、しどろもどろの高級副官であった。

 若杉大尉参謀は、支那派遣軍総司令部における三笠宮崇仁親王殿下の御名であった。

(P31〜P34)
 


佐久間 哲さんのサイト
ニッポンリポート もヒットしました
http://members.aol.com/Tetsu220/
たいへん勉強になる記述です。


事件史余聞編
三笠宮の中国

http://members.aol.com/Tetsu220/202.html

 三笠宮が健康を害して入院中だ。86歳という高齢だが、この際、三笠宮についての1つのエピソードを紹介したい。
 ことしは日中国交正常化30周年である。正常化は1972年、日中平和友好条約の調印は78年だった。そのころ、皇族の中国訪問が話題になった。
 75年、昭和天皇はタイム誌記者のインタビューに対し、「日中平和友好条約が締結され、中国を訪問する機会が訪れれば、非常にうれしい」と答えている。また、一方で、高齢の昭和天皇にかわって、皇太子(現天皇)の訪中計画もあった。
 皇太子の訪中がクローズアップされる前、第一候補といわれていたのは、三笠宮である。
 三笠宮は古代オリエント史や考古学の学者としても著名だが、「古代中国史にも非常に関心があって、中国に行きたくてしようがないようだ」と、三笠宮周辺の人たちの見方は一致していた。こんな三笠宮の胸中を察してか、中国科学院の郭沫若院長から、歴史学者・三笠宮に中国招請があったのは、日中国交回復前のことだった。このときは、行けないと断ったそうだ。
 国交回復後、「三笠宮に近い人から、招請はまだ有効かどうか中国側に聞いてみてほしいという依頼があった。それで、私が訪中した際、問い合わせたところ、有効だし、いつでも歓迎するという返事だった」と、日中協会の岡崎嘉平太代表世話人は話していた。
 このように、三笠宮が訪中を希望しているのは確かなようだ。しかし、その理由は歴史学者の研究心という理由だけだろうか。
 三笠宮は日中戦争に従軍している。1943年1月から44年1月までの1年間、南京にあった支那派遣軍総司令部に一参謀として勤務したのだ。

「徳川夢声 大変な質問をするようですが、軍人として大陸へ行らしてたときは、直接なにか戦争に関与するようなことをなすったんですか。
 三笠宮 困りましたね、その質問は(笑)。いくらなんでも、戦場ではでませんよ(笑)。参謀でいってるんですからね。
 夢声 つまり、参謀をおやりになったんですか、現実に。
 三笠宮 ええ。
 夢声 ただおられただけじゃないんですね。(まったくこれは失礼な質問だが、敢えてカーテンを破って)。
 三笠宮 わたしは、ただポカンとしているということは、絶対にできない性格なんです。正直の上になにかつくほうでね(笑)。だから、ずいぶん怪文書を書きましたよ。あとで没収されたこともあったらしいけどね(笑)。そのためからか、軍の一部から、どうもわたしは敬遠されていたかもしれない」(週刊朝日、51年12月30日号)

 若かりし正義感に燃えた27歳、陸軍大尉参謀(43年8月に少佐に昇進)三笠宮のバカ正直な行動と聖戦体験。このあたりに訪中希望の大きな動議が含まれているのではないだろうか。戦後、かなり自由に発言した三笠宮だが、いま、戦争のことをあまり話したがらないという。しかし、陸軍士官学校、陸軍大学校の同期会、総司令部の戦友会にはよく出席するという。

 三笠宮が南京に赴任したのは、43年1月のことだった。「軍人の本懐、これにすぎずであった。その前にも戦地に行きたいと思っていたが、なかなかやってもらえず、竹田宮が騎兵の中隊長として、敵兵の中に陣頭指揮された話を聞いて、切歯扼腕していたときであったから」と、三笠宮は『わが思い出の記』に書いている。
 しかし、何といっても、昭和天皇の弟宮のことだから、第一線で敵兵とわたりあうようなことはなかった。総司令部の一参謀としてであり、「とくに対支新政策の具現を監視せしめ」(重光葵『昭和の動乱』)るという天皇直々の重大任務を帯びていた。
「私がことしの1月初め、東京を出発いたしますとき、参内しましたところ、陛下には新方針の決定を非常に満足に思し召されていましたが、その実行については、ことにご心配のご様子に拝察しました。お心のほどは深遠で、到底うかがいしり得ませんが、私がこれまでたびたび拝謁して感じましたところを回顧しますと、少なくとも、この方針は、従来の施策の中で、一番お気に召したものであることは、私の断言してはばからないところであります。私は陛下のご様子を拝し、1月9日新方針発足の第1日に、支那派遣軍参謀の大命を拝し、さらにその責任の重大を感じています」(辻政信『亜細亜の共感』)
 43年9月、上海視察の際、三笠宮はこのように語ったようだが、対支新政策とは、42年12月、御前会議で決定された「大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針」のことである。その目的は、1.国民政府(汪兆銘政権)の対米英参戦で、日支局面打開の一大転機とし、日支提携の根本方針に則り、もっぱら国民政府の政治力を強化するとともに、重慶抗日の根拠名目の転覆を図り、真に更新支那と一体戦争完遂に邁進し、2.世界戦局とにらみあわせ、米英側反攻の最高潮に達するに先立ち、対支諸政策を図ることにあった。
 つまり、太平洋戦争は風雲急を告げ、中国戦線から一兵でも多く太平洋方面に投入したいし、物資もほしい。そのためには、日本のカイライ政権視されて、中国民衆に評判の悪い汪政府にもっと自主性を持たせて、民衆の心をひきつけなければならない。重慶政府との戦いは、武力ではなく政治戦でいこうというものだ。

 さて、三笠宮は、その身分を秘匿するために、南京では、若杉という別名を用いた。この別名の由来だが、皇族は身の回りの品の所有者をあらわすのに、木の名前を使った印を、それぞれが持っている。三笠宮の印が杉だったので、若杉となったわけだ。
 総司令部では、三笠宮が着任する前に、「若杉参謀取り扱いに関する件」という通達を部内に流している。20ページぐらいのもので、こと細かに三笠宮との接し方が書かれていたそうだ。勤務中は、一大尉参謀として遇するが、食堂での食事の際には、三笠宮の来室を起立して、45度の敬礼で迎えることに定められていた。そのため、軍隊以外では、近くにさえ寄れなかった三笠宮と、昼休みに一緒にラジオ体操した思い出は、いまも強く総司令部関係者に残っている。
 三笠宮の日常は多忙であった。「できるだけ中国各地を視察してもらい、実情をしってもらおう」という上官の意向で、公務出張が多かった。その忙しい合間に、中国や中国人をもっとよく理解したいと、中国語の勉強にも取り組んだ。先生は、総司令部のナンバーワン通訳の木村辰男である。総司令部の勤務が終わって、宿舎に帰ると、すぐ、2時間みっちり教わる。
「勉強は非常に熱心で、予習、復習は欠かさずやっておられたらしく、その日の質問事項は、事前に別に準備したノートに書きとめられてあった。ある夏の日、ちょうど勉強の最中、南京に最初の敵機来襲をしらせるサイレンが鳴り響いたことがある。私は即刻退避しなければならぬと考えたが、殿下はいっこう気にとめられるようすがないので、そのまま勉強を続けたことがある」(木村辰男『南京の若杉参謀』)
 木村は、中国語だけではなく、中国生活20数年の体験から、中国事情もありのままを三笠宮に教えた。
 三笠宮は、「南京に着任してみると、とにかく警戒厳重で、司令部内で用をたしにいくときさえ、憲兵がついてくるありさまで、公務出張以外、私用で外出する気にはまったくなれなかった。1年いた間に、中華料理を食べたのは、たったの2回しかなかった」(三笠宮・前掲書)。
 しかし、ときには、「私どもをお供に、変装して、ごみごみした南京の街をぶらつき、みずからの中国語でこまごました買い物をして、喜ばれるよう」(木村・前掲書)なこともあったし、お付き武官をまいて、映画館で中国映画を見ることを楽しみにしていたともいう。

 総司令部第三課(政治・経済・交通・通信担当)の課長として、辻政信大佐が赴任したのは、43年8月のことであった。
 辻は南京飛行場に短刀と着替えの背広の入った小さな手荷物ひとつの姿で降り立った。出迎えの三課員に、「支那事変の解決のためにきたんだ」と豪語した。辻の総司令部勤務は二度目である。最初は総司令部付ということで、参謀ではなく、41年、「支那派遣軍将兵に告ぐ」というパンフレットを板垣征四郎総参謀長名で出し、軍紀粛清を呼びかけるぐらいのものであった。
 しかし、今回は違った。第三課長という地位があり、対支新政策の遂行という大義名分もある。汪政権の強化ということは、とりもなおさず、支那派遣軍の軍紀粛清ということだからである。その上、辻にとって「意を強うするのは、三笠宮殿下が総軍参謀として、範を垂れさせられていることである」(辻・前掲書)。
 三笠宮の宿舎の隣に聚星クラブと通称されていた偕行社があった。総司令部の将校連中は、ここでよく酒を飲んで騒いだものだが、三笠宮は一度も顔を出したことがなかったという。それに、「毎日のご激務を終えさせられたのちも、常に戦場に在すとのご覚悟から、夜間といえどもご就寝まで軍服を召させられ、ご研鑽を積ませられた由」(朝日新聞・44年1月15日付)。
 みずから律するだけではなかった。毎日新聞の益井康一特派員が耳にした話は、次のようなものだった。
「43年夏のある日、広東の第23軍(田中久一司令官)司令部での出来事だ。突然、田中司令官から、司令部の尉官以上の全将校と全軍属に、司令部の大広間に集合せよ、との命令があった。何事だろうと集合すると、総司令部から若杉参謀が広東に来ていて、いまから訓示を与えるというのだ。若杉参謀が入ってきたが、はじめは、三笠宮ということがわからなかった。しかし、話が進むにつれて、三笠宮だということがみんなにわかってきた。
 三笠宮は、はじめから卓をたたき、声が震えるほどの激烈な口調である。
『軍は日支親善を説いたり、東洋平和をいうが、中国民衆に対して、あのように暴れいをすることは何事であるか』
 着任してから半年間、各地の戦場を視察して、この自分の目が見てきたことだと前置きし、軍の破壊行為の数々、家を焼かれ、職を失い、路頭に迷う中国民衆の惨状を克明に述べた。
『本来の趣旨ではなく、まったく逆のことをやっている。お前たちが悪い。反論のある者は遠慮なく申し出てくれ』
 司令官をはじめ、全員シュンとして声はなかった」

 こんな三笠宮の行動に、辻は意を強くしただけでなく、「立派な軍人になったものだ」という感慨もあったのではないだろうか。
 三笠宮が陸軍士官学校に入ったのは34年のことである。そのとき、ぜひとも三笠宮の教育をしたいと申し出て、三笠宮の所属する第一中隊の中隊長になったのが辻であった。辻は、三笠宮に軍人としての心構えを教え込み、三笠宮も辻に心服していたようだ。
 なにしろ、「辻を見習え、は軍の先輩が後輩を激励する合言葉とまでなっていただけに、候補生一同の彼に寄せる権勢と崇拝と憧憬はまるで恋人に対するもののようであった」杉森久英『辻政信』)。
 そういう関係の三笠宮と辻の再会である。2人が手を組んで粛軍にとりかかるのは、当然の成り行きだろう。辻は、猛然と手を下しはじめた。対支新政策の遂行というだけでなく、辻の脳裏に焼きついているガダルカナルの惨状が粛軍に拍車をかけた。
「ガダルカナルでは、兵が貯金通帳を差し出しながら、これで飛行機をつくる足しにしてください、参謀、といって死んでいくような状態なのに……」
 手始めは、総司令部の将校宿舎の整理である。「こんな立派な家に住んでけしからん」と、参謀1人につき1部屋、尉官2人に1部屋の割で、宿舎を決めなおした。第三課などは、それまで蒋政府の財務部長の大きな邸宅を使っていたが、一番粗末な小さな家に引っ越した。このようにして、余った家は汪政府に返却した。
 また、辻は粛軍の決然たる意思をあらわすためか、総司令部第三課長室の模様替えも行った。絨毯とソファを取り去って、長机を置き、入口には、「儀礼と挨拶無用、用談簡潔」と掲示したものだ。
 続々と打ち出す粛軍策は、高級料亭の廃止、麻薬の禁止など、これまで手のつけられなかった領域にも及ぶ画期的なものだった。しかし、成果は十分あったとはいえなかった。
「ある日、殿下は蒋介石氏の故郷の風景数葉を収めた写真帳をご持参になった。
『どうかして、お母さんのお墓だけでも祀ってあげたいですね』
 神意であり、聖旨であると感じた。
『何とか方法を講じてみましょう』」(辻・前掲書)
 三笠宮の発意で、辻が奔走した結果、支那派遣軍と汪政府の合同で行われたのが、蒋介石の母親の慰霊祭だった。これを挙行したのは、中国民衆に、日本の道義を示すことにあったのだろう。
「11月25日午後、戦う敵主将の故郷に着いた。日本軍の一中隊が、その邸のかたわらの武陵中学校に駐屯しているが、軍の意思を体して、その日は歩哨も巡察も一切廃し、銃も持っていない。おびただしい群衆が、狭い村にあふれている。おそらく、数万をもって数える人であろう。波をなして、寺に参詣している。同行した数十人の僧侶の勤行のうちに、盛大な式が開かれた。
 蒋太夫人霊右 日本派遣軍総司令官畑大将の大花輪がひときわ目立って飾られている。汪主席代理について焼香を終わって、山路を群衆とともに、蒋母の墓に詣でた。蒋主席の従姉妹王孫美英の子、王忠国少年が、きょうは敵地区からわざわざお母さまに伴わられて、参拝に来ていた。群衆の大部もまた重慶地区からとのこと。敵味方を超えた仏の世界にのみある姿。
 やがて、墓前祭がおごそかに修せられ、なみいるものも、さすがに感慨無量のようである。墓前に跪座して三拝九拝し、号泣する親戚知人の多いこと。重慶に退いてからまさに5年、孝心ひとしお深い敵主将が、この情景を見たら、どんなに考えるだろう。思わずもらい泣きした。
 花輪を供えた蒋母の墓をカメラにとって下山した。殿下は、慰霊祭の写真数葉をみずから引き伸ばせられ、ご上京の際、両陛下と皇太后様にごらんに供せられた由。ともに、非常によいことをしたとのお言葉があったとか」(辻・前掲書)

 辻の著作は、自己賛美が強く、事実を誇大に書いているという見方もあるが、三笠宮はこのような趣旨のことを実行したのは間違いないことだろう。

 ところで、三笠宮の中国における行動のハイライトとして、関係者の印象に強烈に残ったのは、総司令部で行われた尉官教育であろう。前述した広東での訓示よりももっとショッキングなものであった。吉田利八『金陵雑録』、木村・前掲書、それに、沢井義三中尉の話から、尉官教育の場面を再現してみよう。
 総司令部では、作戦の合間に、尉官教育と称して、部内の少・中尉全員を集めて、戦術や国際状況の教育を行っていた。
 43年の暮れ、尉官教育の実施が通知された。テーマは、「何故に支那事変の解決が遅れるか」ということで、担当は三笠宮であった。三笠宮の参謀としての主要な任務は、第一課の教育担当である。三笠宮は、中国における1年間の戦地視察、研究をもとに、思い切ったことを講演するつもりだった。それだけに、自分と同年代の若い中・少尉がどのように考えているかをしりたかったのかもしれない。尉官教育の形式としては異例なのだが、事前に教育参加者にテーマに対する回答を提出させた。
 部内の中・少尉は約200人。その1人が、沢井義三中尉であった。沢井は、総司令部25号(軍事顧問部)に勤務していた。大阪外語大学出身で、中国語とモンゴル語が話せる。そのため、汪政権の軍事顧問部に配属された。
 中国民衆が日本軍をどのように見ているかをよくしっていたし、満州にも勤務したことがあり、五族協和の実態もわかっていた。もちろん、第一線での戦闘経験もある。第一線部隊の兵舎の壁に、「1、生水飲むな、1、蚊にさされるな、1、強姦するな」という三禁が掲示されていたのを見たときのショックは大きかった。「随分、強姦があるんだな……」。いざ、作戦となると、家を焼くのは当たり前だし、徴発も平然と行われる。捕虜を銃剣で刺すことも行われた。「これでいいのだろうか……」。
 尉官教育の回答提出要求は、沢井に日ごろ思っていることを表に出す機会を与えてくれた。
「ストレートには書いてはいないが、完全に軍の批判です。もしかしたら、軍法会議にかけられるかもしれないが、いま書かないと一生自分は後悔するだろうと思った」
 沢井の回答は、「日本人ノスベテガ神国民ノ真姿ヲイマダ具現シアラザルコト」。
「沢井中尉を寄越してくれ」と、三笠宮から軍事顧問部に電話が入ったのは、尉官教育が実施される前日のことだった。沢井は、何だろうと思いながらも、「失礼になってはいけないから、散髪して、髭も剃っていこう」と、総司令部の地下にある散髪屋に行った。ところが、またまた、三笠宮から顧問部に電話が入ったのだ。
「沢井中尉がまだ来ないが、どうしたんだ」「散髪に行っております」と返事をする。すると、三笠宮は、わざわざ散髪屋にやってきて、「沢井中尉、待っているぞ。終わったら、すぐ来い」と矢のような催促なのである。
 ようやく散髪を終えて、三笠宮の部屋に行くと、三笠宮は、こういった。
「貴官の回答は、まったく同意だ。明日は指名するから、大きな声で、回答を読み上げてくれ」と、うれしそうな声で指示を出した。
 尉官教育は、総司令部内の高等官食堂で行われた。総参謀長以下各参謀も参加している。登壇した三笠宮は、冒頭、きわめて激烈な調子でいった。
「現時戦争遂行の状況下において、諸官が、もし軍の態度に関し忌憚のない批判を加え、あるいは、これに対する公平な意見を吐いたとしたならば、諸官の手はおそらく後ろに回り、憲兵に引き立てられてしまうであろう。したがって、その部分は自分が述べるつもりである」
 このような前置きにたがわない教育が、2時間にわたって行われた。まず、回答に対する講評である。
「米英の後援が重慶政府にあるから」「汪政府が無能だから」「重慶が頑迷だから」「わがほうの物資が不足しているから」などの回答が紹介された。「汪政府が無能だから」という回答に対して、三笠宮は、「虎造の浪花節にもある如く、道に咲いていても花は花、一夜添うても妻は妻、無能なりといえども汪政府をいまさら袖にするわけにはいかぬ。あくまで添いとげるべきだ」と浪花節を引用した。
 余談であるが、三笠宮は浪花節が好きで、「僕がやると猫造だね」などといいながら、よくうなったそうである。45年の空襲で三笠宮邸も全焼したが、そのとき、浪花節のレコードが百数十枚、灰になったほどだ。それで、浪花節の一節が出てきた。沢井中尉は、「どうして、殿下が浪花節なんかしっているのだろう」と不思議に思ったというが、そういうわけなのである。
 さて、三笠宮の講評は続く。「その他の回答もそれなりにもっともで、間違いではないが、もっと根本的な真の原因がひとつある。それは何か。総司令部の中・少尉200名の中で、たった1人だけ正しい回答を出した者がある。軍事顧問部の沢井中尉、貴官の回答を読め」。
 前日の打ち合わせどおりである。三笠宮の指示で、沢井中尉は、悠々と演壇に進んだ。三笠宮から自分の提出した回答書を手渡された沢井中尉の顔は輝いていた。精一杯の声で読み上げる。
「支那事変の解決が遅れる原因は、日本人のすべてが神国民の真姿をいまだ具現しあらざること」
 間髪をいれず、三笠宮も声を張り上げた。
「日本軍が皇軍と称するにもかかわらず、戦場での実際の態度はどうだ。略奪、暴行、放火など、最も皇軍名に反する行為をやっておるではないか。こんなことで支那事変は解決するはずがない。いま、直ちにこうした過ちを正し、真の皇軍に徹することこそが、支那事変を解決する鍵なのだ。ただ1人、この点に着目して回答した沢井中尉に満腔の敬意を表する」
 この「皇軍の名に反する行為」を批判するのは、前述したように、すでに広東で行っていたし、出席した参謀たちにとっても予想していたことであろう。戦地を視察したり、第一課に集まってくる各地の憲兵隊の報告を読んで、周りの参謀に、「聖戦といっても、随分ひどいことをやるな……」と述懐していたからだ。
 しかし、三笠宮の講演は、これから本論に入り、総司令部内に一大旋風を巻き起こすことになる。沢井中尉の回答に敬意を表した後、歴史的な日本軍の恥部を抉っていく。
「支那事変を根本的に解決しようとするならば、そのよって来れる根本原因にまでさかのぼって、冷厳な検討を加える必要がある。それは、昭和6年(31年)9月18日に発生した柳条溝鉄道爆破事件である。この、いわゆる満州事変なるものは、日支関係調整の上に、きわめて重大な意義を持つものであって、その発生原因を単なる日本の自衛権の発動にとどめ、一切を頬かぶりして通すことは許されない。柳条溝事件なるものが、時の関東軍の謀略によって発生したことは明らかな事実である」
「昭和12年(37年)7月7日、華北に発生した蘆溝橋事件である。本事件の発生原因については、現地軍は、宋哲元部隊のほうから先に発砲したといっている。真相は、あるいは日支両軍対峙の間隙をぬった中共のゲリラ部隊が発砲し、両軍の戦闘行動を誘発したものであるかもしれない。しかし、要は、当時の北支派遣軍が、前記関東軍のあげた戦果と、その行賞に刺激されて、事を構えんとして機会をうかがっていたことにある。
 前者と同じく謀略の産物の点では、何ら異なるところがない。天皇の意思による事変不拡大政策も、現地軍は聞き入れず、あえて耳をおおって鈴を盗むの行為をなしたものである」
「華北事変と前後して発生した上海事変なるものは、満州・華北両事変の影響を受けた上海地方民衆の排日風潮ということはあったが、満州・華北両事変においてあげた陸軍側の戦果に刺激され、この際、海軍の存在を明らかにせんとして、ここに仕組まれた海軍の謀略でなかったといい切れるか。戦闘における上海陸戦隊の失敗は、ついに陸軍大部隊の華中進出を余儀なくし、やがて広大な大陸の各地域に日本軍の大規模な作戦を見る結果となったものである」
 つまり、「支那事変なるものは、現地軍が勝手に謀略戦争を行い、その後で、陛下に尻ぬぐいをさせたものと断ぜざるを得ない」と結論し、「陛下は支那事変の早期終結については、ことのほか心を労せられ、余が南京在勤のわずかな期間中においてすら、3回にわたり親書をくださったほどである」。
 三笠宮はその親書をポケットから取り出して見せた。親書には、「対支新政策をなし遂げる以外に日本の生きる道はない」という趣旨の昭和天皇の痛切な気持ちが書かれてあった。三笠宮も、手紙で現地情勢を報告したほか、数回の東京出張の際に、木戸幸一内大臣と会って、自分の意見や情勢を話している。
 三笠宮は、天皇の気持ちが手にとるようにわかった。それだからこそ、軍上層部では「公然の秘密」とされている軍の謀略について、あえて言及して、現地軍の猛反省を促したのだろう。「支那派遣軍は、何よりもまず、真の日本人の姿にかえり、過去並びに現在行いつつある自己の行動に対し、厳格なる反省をなし、悪を捨てて善につき、さらに中国人に対しては謙譲の徳を発揮することこそ最も肝要である」と結んだ。
 まさに軍法会議ものの講演であった。三笠宮が尉官教育を終えて退室した後、「若杉参謀の説明には、適当を欠く箇所ありと思料せらるるをもって、何時、いかなる場所においても、本日の教育内容は他言してはならぬ」と厳重な箝口令がしかれた。しかし、「三笠宮が大変なことをいったそうだ」と口から口へ伝えられた。
 その上、三笠宮は、自分の講演記録をタイプ印刷して、総司令部の参謀以上に配付した。しかし、三笠宮が東京に転勤するやいなや、この記録はすべて集められ、焼却されたのである。ところが、三笠宮の信頼厚いある参謀が、別に印刷して、若手将校に配って回っていたという話もあって、「三笠宮の怪文書」として広くしられることになった。
 この怪文書なるものが、戦後40年ほどして、防衛研究所などから発掘され、全貌が明らかになった。「支那事変ニ対スル日本人トシテノ内省(幕僚用)」というタイトルで、便箋27枚のものだ。

 44年1月13日、三笠宮は大本営陸軍参謀を命じられ、東京に帰っていった。南京を離れる直前の1月8日、三笠宮は、軍人としてではなく、皇族として、「大東亜戦争必勝南京居留民大会」に出席した。
 当時の新聞報道によると、三笠宮は身をつんざくような寒風の中を、馬上から、在郷軍人会、青少年団、大日本婦人会などの分裂行進を巡察した。「身近にご気高き殿下のお姿を仰いだ居留民一同は、恐懼して感涙にむせび、決戦下奉公の誠を誓い奉ったのである」(朝日新聞、44年1月15日付)。
 しかし、機上の人となって中国を離れた三笠宮の心は、居留民の「決戦下奉公」とはかけ離れたものであった。
「わたしが南京に在住していた1年間は、司令官以下、この対華新方針の徹底に最大の努力をした。そのこと自体はまことによい変化ではあったが、すでに手遅れであった。ただ、焼け石に水に過ぎなかった」
「わたしの信念が根底から揺り動かされたのは、実にこの1年間であった。いわば聖戦というものの実体に驚きはてたのである。罪もない中国の人民に対して犯したいまわしい暴虐の数々は、いまさらここにあげるまでもない」
「聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけ離れたものであったからこそ、そして、内容が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないかということである」
「こうして聖戦に対する信念を完全に喪失した私としては、求めるものはただ和平のみとなった」
 三笠宮は、『わが思い出の記』でこのように心境を書いている。「求めるものは、ただ和平のみ」と考えていたときに起きたのが、東条暗殺計画の「津野田事件」である。
「南京の支那派遣軍参謀から、大本営参謀になられたとき、すでに三笠宮殿下の胸中には、深く和平救国の強いご決意があった」と、津野田事件に連座した浅原健三は語っている(朝日新聞、46年12月6日付)。
 浅原健三は、20年、八幡製鉄の大ストを指揮し、「溶鉱炉の火は消えたり」の名文句で有名だ。無産党代議士も務め、満州国協和会に関係し、石原莞爾と強い結びつきを持っていた。38年、治安維持法違反で検挙され、国外追放にあう。上海に落ちついて、軍の払い下げ物資を扱うなど手広く商売をやり、成功していた。浅原の上海の邸は、数千坪の庭に、部屋は3、40あるという豪壮なものだった。中国人相手の商売だけに、中国人をよくしり、中国人にも信頼されていたという。
 浅原の手記『陸軍刑務所ばなし』と前掲の朝日新聞記事などから、津野田事件の概略を説明しよう。
 三笠宮が支那派遣軍参謀だったとき、辻の部下に津野田知重という少佐がいた。三笠宮と津野田とは、士官学校時代からのしりあいらしく、前述した三笠宮の講演記録を配ったといわれるのが津野田である。津野田は前任の北支山西駐屯の第36師団参謀時代、参謀長の今田新太郎大佐の影響を受け、石原莞爾の東亜連盟思想の信者になったという。そのとき、浅原に会えと勧められ、総司令部に転任した後、浅原邸にしばしば出かけていた。三笠宮も津野田に紹介されて、浅原とは面識があったともいう。
 南京で、三笠宮と津野田は、戦局の行方、日本の将来などについて、よく議論したらしい。東条政府のもとでは、日本はだめになるということで、2人の意見は一致したという。
 44年1月、三笠宮は大本営に転任し、6月には、津野田も大本営に異動する。
 5月の下旬、浅原の邸に津野田がやってきて、三笠宮から津野田に送られた手紙を示しながら、「東条崩壊後の内閣はいかなる人物が適任か」「その内閣はいかにあるべきか」「重慶政府との和平方法は」などについて教えてほしいというのだ。
 太平洋戦争に反対だし、日支平和に賛成という浅原は、心よく受けて、巻紙1本にもわたる長文の意見書を書いた。
「全戦域にわたる全面撤兵」「大東亜戦の原因をなした満州の放棄」「日米華による東亜の経済開発」の根本策を提示した。さらに、対米英和平への一段階としての日支和平のための内閣は、国民を承服せしめ、軍政両面を威圧し得る人物でなければつとまらない。それには、直宮か東久邇宮あたりがほんとうに決心して、その衝にあたるべきだというものである。
「三笠宮にご披露する」といって、津野田は東京に行った。
 浅原によると、「殿下のみ心を体し、密かに和平についての奉答書を奉った」のは、浅原のほかに、石原、津野田であった。
 いずれも、重慶を通じての対米英和平であり、東条内閣では、絶対に全面的和平が考えられないし、米支も決して相手にしてくれないというのが大前提であった。
 浅原の奉答書は前述したが、石原莞爾のものは、作戦によって和平の機をつくるというもので、ニューギニア、ラバウル、ビルマの一角を放棄して、圧縮された戦線で、完全な防衛態勢をしいて、静かに重慶を通じて対米英和平を待つというものである。
 津野田の策は、統帥と軍政との不一致を理由に、参謀本部の玄関で東条を斬りつけ、東条を取り巻く主戦派数百名を次々に倒し、一挙に主戦派を抑えて、皇族内閣をいただく。そして、信を世界に問い、正論を持って、当時の歪められた戦争指導の重圧から脱しようとするものであった。津野田が東条暗殺という非常手段を考えたのは、当時の好戦的な情勢から見て、到底尋常一様のことでは不可能と考えたからである。
 三笠宮の手元に届いたであろう3つの奉答書などを中心に、秩父宮、高松宮、そして三笠宮の3人は密かに箱根に集まり、検討したという。
 ところが、この計画は三笠宮自身の手によって崩されてしまった。
「東条一派が首脳を占めている間は、和平はできないと参謀(津野田)は考え出したわけです。そうはいっていたけれども、テロを考えようとは、私も思わなかったし、私もぼんやりしていたんで、まさか大本営の参謀ともあろうものが、東条さんにテロをやろうとは思わなかった。
 そのうちに、その参謀は中国に行った。ところが、テロの材料をとりに行ったということがわかってきたのですよ。それから、私もびっくりして、それはとんでもない話で、東条は悪いかもしらんけれども、いま、とにかく、日本の首脳者を暗殺なんかしたらば、これは国内が目茶苦茶になってしまって、戦どころの騒ぎではないので、やろうという連中は、東条がいなくなれば、石原莞爾なんか上に持ってきて、あっさりゆくというように簡単に考えていたんだけれども、そうはゆかない。
 2・26というような国内、あれは平時でさえ、相当混乱したのに、アメリカといちかばちかやっているときに、2・26の二の舞をやったら、日本はまいってしまうと私は考えたから、参謀には気の毒だったが、すぐ憲兵隊に行って、東条をテロやろうという筋を抑えてしまったわけなんだがね。その参謀は気の毒だったけれども、やむを得ずそうした措置をとったわけなんです。あの連中は戦争中、無茶ですよ」(改造、49年8月号)
 このような考えの三笠宮によって、当局に通報されたものだから、44年9月、浅原、津野田らは、憲兵隊に連行され、軍法会議にふされることになった。石原も取り調べを受けた。
 しかし、軍法会議にふされたものの、この事件に皇族が関係していることははっきりしている。それで、津野田は懲役2年執行猶予2年、首謀者に仕立て上げられそうになった浅原は、奉答書を書いたのは事実だが、暗殺計画のことはまったくしらなかったことなので、不起訴となった。
「ぼんやりしていた」三笠宮は、「私の指導が悪かったため、下級の参謀が誤解を起こして、事を誤り、処罰されたとき、私も責任を負うことに決心したが、(皇族だから)としても正面からはだめだと考えたので、はなはだ申しわけなかったのではあるが、苦肉の策を用いて、ほかの職に左遷していただいた」(サンデー毎日、47年8月3日号)。
 三笠宮は、44年9月、大本営から機甲本部付にかわっている。
 これが津野田事件といわれるものである。東条内閣打倒後の青写真もできていたらしいが、「幻の閣僚名簿」を見ると、首相には東久邇宮、陸相には石原莞爾、参謀総長には小畑敏四郎、文相には竹田宮などであったらしく、三笠宮には、「支那派遣軍総司令官」の席が用意されていたようだ。

 ところで、1年間の南京勤務で、三笠宮は、中国共産党から相当大きな影響を受けた。
「大同の石仏で名高い山西省の山の中で、日本軍は八路軍(中共軍)と対峙していた。長期持久戦であるから、食糧も衣料も自給自足しなければならない。日本軍はともかく戦線の背後に鉄道を持っていたが、相手方の背後には、陜西省の山岳地帯と万里の長城がひかえているだけである。そんなところで、持久戦を遂行することは、日本軍としては非常に困難で、もし敵味方ところを変えてみたらどういうことになったかわからないような情況であった。
 というのは、八路軍の陣地線は延々と連なるまったくの岩山であったからだ。そこに、かれらは土を運んできては盛った。そして、種をまいた。この変化の模様は空中写真でよくわかった。私がその戦線を訪れたとき、第一線の司令官もこれには舌を巻いて、その写真を見せてくれた」
「また、かれらの対民衆、ことに対婦人軍紀は驚くほど厳粛であった。ある北支軍の参謀は、『八路軍の兵士は男性としての機能が日本人と少し違うのではなかろうか』とさえ語った。読者は、これを笑い話とお考えになるかもしれないが、当時としては、決して笑い話どころの騒ぎではないのであって、これを裏返せば、とりもなおさず、われわれの軍自体に対する痛烈な批判にほかならなかったのである。これはたんに精力とかイデオロギーの問題だけでなく、罰則の軽重ということに重要な原因があったと、私は思う。
 しかし、いろいろの例から見て、たんに罰則だけで人間の集団の行動を律することは、一時的にはできるが、長続きはしない。長続きさせるためには、何としても心理的なエネルギーを燃え立たせなければならない。日本軍の非聖戦的行動が中国人の敵愾心を高めたことは疑う余地もない。しかし、私にはそれだけで、すべての問題を解くことはできなかった。そこに残ったのは、八路軍独特の情熱の根源の問題であった」(三笠宮、前掲書)

 中国共産党の行動を非常に評価している。この点は、前述した尉官教育の講演でも触れていた。中共関係の統計図を示しながら、「(汪政府を)ことに中共治下の政治と比較するとき、その官吏の貪汚において、また、経済政策において、はたまた民心の把握において、雲泥の差を見いだすことができる」と、中国共産党の政治を褒め上げている。
 また、北支の前線視察後、総司令部第一課長への報告に、「大本営においては、重慶あるをしりて、延安あるをしらざるが如く、毎事の戦争指導方略中に、延安の字句なきは甚だ遺憾にたえず。必ず対等視を要す。(小官、先回、上京の際、とくに申したることなるも)将来、中共の動向は絶対に軽視を許さざるものあり」と書くほどであった。
 戦後、三笠宮は本格的に歴史の研究をするようになったが、古代オリエント史を選んだのは、中国で見た「山奥の宣教師の姿」であり、「八路軍の素晴らしさ」であった。キリスト教とマルクス主義の源流が、「旧約聖書」の中にあり、舞台が古代オリエントというわけだ。さしずめ、中国共産党は、三笠宮の歴史の先生というところだろうか。
 三笠宮が東大の研究生だった47、8年、「赤い宮様」と呼ばれたことがある。母親の貞明皇太后が非常に心配して、東大総長に調査と対策を依頼したという話も流れたほどだ。この点について、週刊新潮(58年12月1日号)がおもしろいエピソードを伝えている。
「三笠宮をどのように考えるかという議題で、東大細胞の有志が研究会を開いたのも、このころだ。結局、徳川幕府における水戸黄門と同じ役割を果たしていると考えると分析された。水戸黄門は進歩的学者を雇って、幕府を打倒する理論的著作(『大日本史』)を編纂したが、それ自身は天下の副将軍の枠を一歩も出なかったというわけだ。とにかく、助さん、格さんとともに水戸黄門は民衆に人気がある。その人気を利用せよ。これが日共細胞の方針だった」
 確かに、三笠宮はマルクス主義に関心を持ってはいたが、マルクス主義者にはならなかったようである。「あのころは、敗戦ショックで、社会全体がいわば左がかっていたでしょ。三笠宮も、当時の常識的なことをいっただけですよ」と、当時をしる三笠宮の友人は回想している。

 さて、中国での痛烈な戦争体験を経て、「決して、再び日本人が武装して、国外に出ないという覚悟をみなさんにはっきり持っていただきたい。これが私の老婆心であり、かつては正義の戦さと思って戦場に行った一軍人の懺悔でもあります」と青年に訴えた三笠宮。中国訪問を待ち望んでいた三笠宮。現在の状況では、もう無理なようだ。

(2002年8月4日掲載、著作権者・サクマ テツ)

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[3132]Re(4):"崇仁親王 兄貴と...
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 たんこなす  - 06/8/10(木) 23:39 -

引用なし
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   88歳になった“若杉大尉”。

反米嫌日戦線「狼」(美ハ乱調ニ在リ)
http://anarchist.seesaa.net/
より

 
2004 年 04 月 23 日(金)
大日本帝国は嫌いだ
崇仁親王 兄貴と違ってあんたは偉い
http://ch.kitaguni.tv/u/5028/ÂçÆüËÜÄë¹ñ¤Ï·ù¤¤¤À/0000075105.html

NHKラジオ「ラジオ深夜便」にて 三笠宮(88)が「大正、昭和から平成へ」という題で大いに語った。 内容は「よしりん派」諸君が信ずる内容とは大違いで、自ら陸軍参謀として従軍した経験から、日本軍を的確に「批判」。在日にも思いをはせ、プライベートなこともあからさまに答えている、大変興味深いものである。
-------------------------------------------------

内容はネタだらけで、特に重要と思われることを抜粋して掲載する。

●貞明皇后は宮さまにとってどんな母君でいらっしゃいましたか。

○皇后として、ほんとうに立派な方だったと思いますね。ただ一般の家庭と違って、親子という面と、親子でないような面もありましたね。九條家からとはいえ、皇室に入るのは、大変なことだったと思います。普通の家ではお姑さんがいますけれども、昔は女官の古手の方がお姑さんみたいな役回りで、私が生まれる前のことですが、皇太子妃の時代、精神的に非常に悩まれていたようです。たまたま重いチフスにかかられて、しばらく静養されている間に、精神的に持ち直されたということです。

【解説】まさに雅子皇太子妃のことである。歴史は繰り返すとはこのことだ。

(関東大震災について)

○ただ関東大震災を歴史的に見直しますときに、忘れてはならないことがあると思います。(中略)  もう一つ、そういった地震と火事によるパニック状態の中で、多くの在日朝鮮人が虐殺されたことです。震災の起きた九月一日の夕方には「不逞鮮人が襲ってきて、井戸へ毒を入れた」、あるいは「放火、強盗、暴行をほしいままにしている」というようなうわさが飛び交いました。また「社会主義者も加わっている」というようなデマ、流言が広がりました。その結果、殺害された在日の朝鮮人は、政府の発表によれば二百人余りということでしたが、実際はその十倍以上に及んだのではないかと推定されております。 こういうことは、日本と隣国間の民族的感情問題のも関係してまいりますので、歴史的に正しく見直すということが必要ではないかと考えております。

【解説】これはイシハラの暴走発言に対しクギを刺したものと思われる。宮さまは正しい認識をお持ちの方だ。拉致問題も含んでのご発言であろう。

(日露戦争に関して)

○日露戦争の話は「勝った、勝った」という話が多いわけですが、私は陸軍大学校の「戦史」の講義で、日本軍の武力がロシア軍よりも強力ではなかったということを聞きまして驚いたわけです。日露戦争の最初の戦いは、朝鮮半島の北側にあります鴨緑江あたりで起こり、日本軍はロシア軍を撃退して、奉天の線まで追いつめて行ったということになっています。しかし、ロシア軍が奉天の線まで下がったというよりは「日本軍の前進を少しづつ阻みながら、奉天の線まで退却する」戦術だったというのです。

最後はアメリカなどの仲裁で講和条約を締結しましたが、ロシアが条約に調印したのも、決して武力で負けたのではなくて、むしろ国内に政治的問題を抱えていたから戦いをやめたのだと。それを日本人は「勝った、勝った」で提灯行列をやって、戦勝に酔ったのだと思いますね。

それ以来、「日本は強い」「神風が吹く」というような誤った先入観が、一般の国民だけではなく、軍隊にも浸透していき、第二次世界大戦に入っていったのではないかと思うんですね。

【解説】靖国の遊就館のような、「戦争美化」を論破している。日露戦争に学ぶ国会議員の会がいかに馬鹿らしいことか。

(毛沢東の八路軍に関して)

私は陸軍の参謀として支那派遣軍総司令部におりましたとき、いろいろ見聞しました。例えばキリスト教の宣教師が山奥に入り、伝道に努めている。あるいは、当時、日本軍が相手としていました中国共産党の八路軍が北方の太行山脈などで日本軍と対峙していまして、岩山なのですが、どこからか土を運んできて農耕をしていました。日本軍は中国の民衆に対していろいろ問題を起こしていたわけですが、八路軍は婦女子に対する軍規が厳正でした。キリスト教の宣教師の情熱といい、八路軍の軍規厳正なることといい、そのおおもとはどこからくるのだろうかと、いつも考えておりました。

【解説】宮さまは日本陸軍の「モラルの低さを」嘆いており、昭和18年に支那派遣軍総司令部参謀として、一年間、中国に赴任。南京をたつ前に総司令部で将校教育をするよういわれ「支那事変に対する日本人の内省」という文書をのこしている。インタビューでは中国共産党軍のモラルの高さを強調。逆に日本軍が婦女暴行を繰り返した「最悪の軍隊」であることを述べられている。 宮さまは南京に赴任しているが、その時「大虐殺」の報告を受けていると思われる。

○第一線の指揮官が、「従来は攻めていくときに、みんなの家を焼いていたので、後ろから見ていても、自軍の第一線がどこまで進んだかわかった。ところが新しい方針が出て、家を焼いてはいけないということになったので、自分の部下がどこまで進んだかわからない」などと話していました。こういったことが結局、反日思想を培ったので、日本軍の従来のやり方を改めなければいけないと、日本政府が新しい方針を出したのです。私はその直後に南京に赴任しました。支那派遣軍総司令官は、中国全土の日本軍を指揮するので、私は参謀として各方面に行きまして、新方針を伝えました。中国人に対する軍規を厳正にしなくてはいけないということを申し上げたわけです。

【解説】昭和天皇と違い、戦場の現場を回った宮さまはその凄惨な現状を理解していた。「日本陸軍」に対する失望は、いかほどのものだったのだろうか?

最後にイラク戦争にかんして苦言を呈しておられる。

○やはりもう少し指導者が、歴史を考えてほしいですね。今の中近東の諸問題も、第一次世界大戦のときに、ヨーロッパの各国の軍隊が中近東に入ってきたときの歴史から考えねばなりません。そのときの各軍隊の勢力の境界が、今の新しい民族国家になってからの国の境になっているところもありますし。それは直線なんですね。中近東で国々の境が直線になっているところはなぜこうなったのかということを、考える必要があります。 それから、ヨーロッパの軍隊の引き上げ方ですね。後始末を全然しないで引き上げていった場所もあるわけです。そういうことが尾を引いて、いろいろな紛争につながっているのです。それから、中近東の昔からの歴史、民族、ことに部族の歴史、こういったものを研究しなおすことが、これからの世界に対処していく前提条件ではないかと思います。
----------------------------------------------

コイズミ、フクダ、シンゾー、イシバよ!宮さまの想いをどうとるのよ。素晴らしいリベラルな宮さまでした。


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[3133]Re(2):またぞろ捏造論の標的に
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 福田恒存撲滅会会長 E-MAIL  - 06/8/11(金) 8:42 -

引用なし
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    驚きです。
 それにしても息子の寛仁のどうしようもないこと。鳶が鷹を産んだとはよく聴く言葉であるが、三笠宮家の場合には鷹が蝙蝠を生んだとでも言えばいいか。
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[3134]Re(2):またぞろ捏造論の標的に
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 福田恒存撲滅会会長 E-MAIL  - 06/8/11(金) 8:58 -

引用なし
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   ▼核心さん:
>▼たんこなすさん:
>
>>三笠宮さまが日中戦争「謝罪」、江主席外遊録に記述
>
>謝罪というのは自分の行なった行為に対して行なうものですからねえ。
>三笠宮が自分の努力が足りなくてあのような結果になり、とか言うのは勝手ですが他人の行為に対して謝罪されてもねえ。
>そこいらを勘違いされて過ごされたのでしょう、としか言いようが無いですねえ。
  
 日中戦争で皇軍が行った残虐行為は日本人すなわち天皇を君主として奉戴している国の人民が行ったものです。三笠宮はその天皇の一族であり、したがって三笠宮も、日本民族すなわち大和民族が行った行為は自分が行った行為であるとして、残虐行為に対して日本民族の代表として謝罪したのであるから、核心さんの主張は的外れである。

 みおし核心さんの主張が政党であるならば、日本の首相に戦争責任についての謝罪を執拗に求めている中国や韓国の要求はナンセンスなものとなる。また、ナチの残虐行為に対して西ドイツの大統領がドイツ国民を代表して謝罪したことも意味が無いものとなる。

 結局核心さんの主張は世界の常識を知らないトンマのたわごとに過ぎないのである。
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[3135][投稿者削除]
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引用なし
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   この書き込みは投稿者によって削除されました。(06/8/11(金) 20:14)
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[3139]Re(4):またぞろ捏造論の標的に
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 eichelberger_1999 E-MAIL  - 06/8/11(金) 15:46 -

引用なし
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   ▼たんこなすさん:

>高松宮は三笠宮と違って逆の右、2.26事件にも危うく関わろうとしたというではないですか。

それは誤解です。参考として紹介されている、以下のサイトの記述

>(参考)
>http://blog.goo.ne.jp/o_sole_mio00/e/47515fa7f0801ec9d5172895e54bc343

>まず戦前の2.26事件などの軍部の動きが活発だった時期に、軍部の意のままにならない昭和天皇を廃し、高松宮などの弟宮を擁立する動きもあったと言われている。

は、正確な事実ではありませんから。

 2・26事件の時、高松宮は昭和天皇から「高松宮が一番御宜しい」と高く評価されています(『木戸日記』p.468)。

 宮中サイドが、青年将校に担がれるのではないかといちばん心配したのは、高松宮ではなくて、秩父宮の方ですが、その秩父宮に対しても昭和天皇は、「秩父宮は五・一五事件の時よりは余程お宜しくなられた」と、評価しています。

 秩父宮が2・26事件の「黒幕」という説は、保阪正康さんの『秩父宮と昭和天皇』で根拠がうすいと、否定されています。

 2・26事件前の高松宮日記には、青年将校との関係をうかがわせるようなものはまったく出てきません。むしろ、高松宮はワシントン・ロンドン海軍軍縮条約の廃棄
は日本の総合国防にとってかえってマイナスであるという考えを、日記に記しています。彼の立場は海軍の条約派とほぼ同じであったことがうかがえます。

 高松宮と昭和天皇の関係がギクシャクしたものになるのは、太平洋戦争中、ガダルカナル戦以降のことで、とくにマリアナ決戦をめぐって決定的となります。この時の反東条・嶋田工作がたたって、高松宮は軍令部から左遷されてしまいます。

 ただし、1944年夏の高松宮を和平派とよんでいいかどうかは、検討の余地があります。日記をみるかぎり、高松宮はマリアナ決戦論者であり、マリアナ奪回論者に与していたようにおもえるからです。
 
 もちろん、海軍の海上決戦論者は、非・反本土決戦論者であることを意味しますから、海上決戦が客観的に不可能となれば、海上決戦論=反本土決戦論=和平論となるのは理の当然と言っていいわけですが。
67 hits

[3140]Re(5):またぞろ捏造論の標的に
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 たんこなす  - 06/8/11(金) 18:20 -

引用なし
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   ▼eichelberger_1999さん:
>▼たんこなすさん:
>
>>高松宮は三笠宮と違って逆の右、2.26事件にも危うく関わろうとしたというではないですか。
>
> それは誤解です。参考として紹介されている、以下のサイトの記述
>
>>(参考)
>>http://blog.goo.ne.jp/o_sole_mio00/e/47515fa7f0801ec9d5172895e54bc343
>
>>まず戦前の2.26事件などの軍部の動きが活発だった時期に、軍部の意のままにならない昭和天皇を廃し、高松宮などの弟宮を擁立する動きもあったと言われている。
>
>は、正確な事実ではありませんから。
>
> 2・26事件の時、高松宮は昭和天皇から「高松宮が一番御宜しい」と高く評価されています(『木戸日記』p.468)。
>
> 宮中サイドが、青年将校に担がれるのではないかといちばん心配したのは、高松宮ではなくて、秩父宮の方ですが、その秩父宮に対しても昭和天皇は、「秩父宮は五・一五事件の時よりは余程お宜しくなられた」と、評価しています。

どうやら、1944年夏の高松宮と昭和天皇との間に生じた確執から、2.26事件でも確執といった混同をしてしまったようです。2.26事件の首謀者のひとり安藤輝三と親交があったのは歩兵第3連隊の僚友であった秩父宮の方でした。

おそらく私が引用したサイトも同様の記憶の混同があったと思われます。
慎んで先の投稿[#3135]を訂正いたします。

eichelberger_1999さん 丁寧なご指摘ありがとうございました。
64 hits

[3141]Re(3):[3135]訂正;またぞろ捏...
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 たんこなす  - 06/8/11(金) 18:35 -

引用なし
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   >それにしても息子の寛仁のどうしようもないこと。

浪花節好きの体質は受け継いでいるようです。
寛仁は皇室離脱を申し出て却下されたことがありましたね。自分の娘達には早く皇室を離れさせたいのでしょう。
なお、三笠宮寛仁は、高松宮の影響を受けたようです。高松宮は三笠宮と違って逆の右、2.26事件にも危うく関わろうとしたというではないですか。
(参考)http://blog.goo.ne.jp/o_sole_mio00/e/47515fa7f0801ec9d5172895e54bc343

73 hits

[3142]Re(6):またぞろ捏造論の標的に
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 eichelberger_1999 E-MAIL  - 06/8/11(金) 19:56 -

引用なし
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   ▼たんこなすさん:

>eichelberger_1999さん 丁寧なご指摘ありがとうございました。

 こちらこそ、ご丁寧な御挨拶をいただき、傷み入ります。
 
 思い違いや勘違いは、誰にでもあることなので、普通なら目くじらを立てて指摘するまでもない些事にすぎないのですが、いかんせん、ネットの世界というのは、まちがった意見(たとえば「富田メモは捏造だ」とか)が、ただ己の願望にかなうものであるというただそれだけの理由で、まことしやかに流布され、あっという間に増幅されていく、ちょっとコワイ世界であります。

 しかもたんこなすさんは、そのことをつねづね指摘されておられるので、思わぬところで「ミイラ取りがミイラになった」のでは、口惜しいと思い、老婆心ながら、指摘させていただいた次第です。他意はありませんので、ご寛恕のほどお願いいたします。
 なお、この手のやりとりが長く続くのは、この掲示板にはさぞかしご迷惑でしょうから、これに対するご返答はご無用に願います。
66 hits

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