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こちらもどうやら投稿できる状態に復帰したようです。「問答有用」板とマルチポストになりますが、こちらのスペースもお借りすることにします。
『正論』今月号(2006年10月号)に、『盧溝橋「当事者」が重大証言! 日本軍からの発砲はあり得なかった』という記事が掲載されています。「支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊」の分隊長として事件の現場にいた、長沢氏の証言です。
タイトルだけを見ると(というか、記事本体を見ても)、一般の読者は、長沢氏というのは「事件」の新証言者なのか、と錯覚します。
しかし実際には、長沢氏はあちこちで「事件」について語っている有名な証言者であり、「証言を得た」こと自体に価値があるわけではありません。私のページでも、過去の長沢証言を取り上げています。 http://www.geocities.jp/yu77799/rokoukyou/daiippatu.html
今回の証言の内容は、要するに、「いかに銃弾の管理が厳しかったか」ということに尽きます。従って、「第一発」が日本軍からの発砲である、ということはありえない。日本軍は何の準備もしていなかったから、日本軍があらかじめ「計画」をもって事件の拡大を図っていた、ということもありえない。まあこのあたりは、日本側研究者の概ねの共通見解であり、問題はありません。
(ただし、「第一発」が日本軍からのものでなかったとしても、また日本軍が「事前の計画」に基づいて事件の拡大を図ったものでないとしても、現場は「突発事態」を受けて「事件の拡大」を図る方向に行動していたことは事実です。また「第一発」は、日本軍が「華北分離工作」を積み重ねた挙句の、「過飽和溶液の最後の一滴」だった、と見ることも可能でしょう。詳しくは私のページをどうぞ)
そもそも『正論』は、何でこのような目新しくも何ともない証言者を登場させたのか。要するに、中国側の「日本軍発砲説」に対する反論を、何とかメディアに載せたい。しかしそれには、何か「新材料」が必要である。そのために長沢氏に再登場を願った。おおよそ、そんなところでしょう。
繰り返しますが、長沢氏の証言自体には、問題はありませんし、特に「通説」をくつがえすような材料もありません。しかし、この「聞き書き」を行った江崎道朗氏のコメントには、「証言内容」を離れた、おおい、ちょっと待て、という点が目につきます。
江崎氏はまず、「日本軍が中国大陸にいたことの是非」から話を始めています。当然ながら氏は、条約に基づいた駐留なのだから問題ない、という古典的擁護論の立場をとりますが、「条約」自体が「押し付け」なのであれば、それで問題なし、というわけにはいかないでしょう。このあたりは私のページの「盧溝橋事件 衝突前史」で説明しておりますので省略。 http://www.geocities.jp/yu77799/rokoukyou/zensi.html
さて、問題となるのが、この記述です。 「三回もの実弾射撃を受けて、その「犯人」が中国の第二十九軍か匪賊であるかを確かめるため、第三大隊が永定河左岸堤防に向け前進すると」(P65)。
「その「犯人」が中国の第二十九軍か匪賊であるかを確かめるため」。こらこら、ごまかしてはいけません。本当は、こうでした。
「こうした事情で攻撃中止を余儀なくせられて、今後の作戦を黙考中であった大隊長の側には、小岩井、荒田両青年将校がいた。大隊長に対して、「攻撃前進を開始しましょう。前進したら撃つでしょう。撃たれたら撃ちましょう」と進言した。大隊長は、「よし、それだ」即座に同意して、休憩中の部隊に前進準備を命じた。」(寺田浄氏『第一線の見た盧溝橋事件史』P65) http://www.geocities.jp/yu77799/rokoukyou/shoutotu.html
要するに、「中国軍から先に手を出させるための「挑発前進」」だったわけです。また、氏はもちろん、その前に牟田口連隊長が「攻撃許可」を出していたが偶然の行き違いから「攻撃開始」は延期されていた、という有名な「史実」には触れません。
それに続く文章です。ちょっとニヤニヤさせられました。
「約二時間後、現地での激戦はいったん収まった。以降、八日の午後三時三十分頃に戦闘が再発するなど一時的な戦闘はあったものの、概ね小康状態にて推移し、北平(現在の北京)及び盧溝橋城(宛平県城)内で、停戦に向けた交渉が行われ、十一日に日本の支那駐屯軍と中国の第二十九軍との間で現地停戦協定が結ばれた」
この文章、見覚えがあるぞ。下の文章と、比べてみてください。
「約2時間後、現地での激戦はいったん収まった。以降、15時30分頃に戦闘が再発するなど一時的な戦闘はあったものの、概ね小康状態にて推移。北平及び盧溝橋城内で、停戦に向けた交渉が行なわれる。」
そっくりですよね。下の文、実は、私がWikipediaに書いた「盧溝橋事件」記事の一部です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ç§æºæ©äºä»¶
今やプロのライターも、ネットの記述を参考にするようになったのですね。まあ、私の文章をそのまま使っていただいた、ということで光栄に思っておきましょう。
氏の文章を続けます。
「しかし、中国側は二十五日に北平東方の廊坊駅付近で、二十六日には北平の広安門で相次いで衝突事件を起こした。さらに二十九日に、北京郊外の通州で中国側の冀東防共自治政府(一九三五年十二月、蒋介石政権から分離して成立した政府)の保安隊が、軍人及び女性を含む日本人居留民を多数殺害する「通州事件」を起こした。かくして日本政府は内地から三個師団を派遣し、全面的な日中対決となったのである」
読んでいると、「通州事件」が「日中戦争」の発端となったように錯覚しますが、もちろんそんなことはありません。
事実経過としては、二十八日に日中国両軍の全面衝突が発生、日本軍の移動によって「通州」に軍事的空白が生じ、ここに「通州事件」が発生した、ということになります。まさかこのあたりをご存知ないとも思えませんが、わざと錯覚を誘うように記述を端折ったのでしょうか。
ついでですが、通常は「中国側の冀東防共自治政府」という表現はとらず、「日本が北支分離工作によって成立させた傀儡政権である冀東防共自治政府」というのが一般的な見方であると思います。北支軍閥が「蒋介石政権」の一部であったかどうかも、微妙なところでしょう。
さて、「解説」で氏は、暴走します。
「第一に、当時の中国駐留の日本軍は弾薬の管理が厳しく、たとえ一発でも無断で実弾射撃をできる態勢になかった。このため、たとえ偶発的であったとしても、盧溝橋事件の「最初の一発」が日本軍によるものである可能性はほとんどないということである」
ここまでは結構。しかし、問題はそのあと。
「ちなみに、中国側の反日宣伝を真に受けて、中国大陸にいた日本軍の兵士たちは規律が乱れ、好き勝手に武器を使って中国の民間人を殺害し、民家に押し入って食糧やお金などを略奪し、女性に暴行を働いていたといった印象を持つ人が多いが、それがとんでもない誤解であることも判る」
判るかあ(笑)。 この方には一度、私のサイトをじっくりと読んでいただきたいものです。
さて、最後の方では、おなじみの「中国共産党陰謀説」。例の「中国共産党の通電」がネタになります。このあたりの記述は、慎重に断定を避けた、ストライクゾーンぎりぎり、といったところ。
でもまあ、どうも「タイプ1」と「タイプ2」のを明確に区別して考えている気配がないなど、私のサイトをご覧になった形跡はありません。読んでいただければ、もう少し書きぶりが変わってきたと思うのですが。 http://www.geocities.jp/yu77799/rokoukyou/inbou1.html
総じて言えば、長沢氏の証言自体はまともなものなのですが、肝心の「聞き書き・解説者」江崎氏が明らかに「政治的意図」をもってこの証言を紹介しているものですから、あちこちに「ほころび」が目立ちます。
しかし長沢氏、ご健在であったのですね。大正四年生まれということは、もう90歳ですか。
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