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▼ピッポさん:
>1)旧宮家竹田の宮は男系を遡れば、39親等とか69親等とかの系図であらせられるとかや?
旧竹田宮家のいちばん新しい世代(恒貴、恒好、恒智、恒泰)と明仁天皇との間の等親数は、37等親だと思います。ということは、皇太子・秋篠宮とは38等親、その子供(愛子内親王や今度生まれた悠仁親王)の世代とは39等親となります。 両者の系図がクロスするのは、伏見宮貞成親王(さだふさ、1372-1456)で、はるか昔、南北朝時代にまでさかのぼります。旧竹田宮家のいちばん新しい世代(恒貴、恒好、恒智、恒泰)からそこまでが18等親、貞成親王から明仁天皇までが19等親、あわせて37等親という計算です。
ふうつはここまで離れていると、伝統的な日本の家観念からみても、もはや同じ「家」とはいえません。これだけの遠い関係を「同族」とするには、氏族制度的な観念によらざるをえないでしょう。
なお、竹田宮家の男系の祖先で、いちばん最近に天皇位にあったのは崇光院(北朝3代、在位1348-51)。これも南北朝時代にさかのぼり、旧竹田宮家のいちばん新しい世代から数えると、20等親にあたります。
>2)竹田の宮が、明治天皇の御代に宮家となったのは、女系をたどれば一番親等数が少なかったからではないか?すなわち宮家とは、男系を基準に選んだのではなく女系を頼りに選んだ、のよ。
竹田宮の第一代は恒久王(1882‐1919)ですが、この人は北白川能久王の庶長子です。北白川宮を継承した成久王(1887‐1923)よりも早く生まれたのですが、母親が正妻ではなかったので、北白川宮を継承できなかった。
そこで明治天皇は恒久王のために、1906年に新しく宮家を創ったのですが、それは自分の娘である内親王の嫁入り先とするためでした。恒久王は明治天皇の第6女昌子内親王と結婚しています(1908年)。 ですので、旧竹田宮家のいちばん新しい世代(恒貴、恒好、恒智、恒泰)の曾祖母は明治天皇の娘にあたります。彼らの父方を男系でたどると天皇は20世代前にさかのぼらなければいけませんが、曾祖母を介してならば、5等親で明治天皇とつながります。 つまり、明治天皇が竹田宮家をつくった時点で、竹田宮恒久王と明治天皇の間は、男系では32等親です。昌子内親王との間に生まれた恒徳王は明治天皇の外孫ですので、女系では2等親のつながりとなります。 旧竹田宮のいちばん新しい世代は、男系では明仁天皇と37等親ですが、母方をたどると8等親でつながります。このくらいであれば天皇家の親戚といっても、すこしもおかしくはありません。その意味では、男系ではなくて、「女系」で数えるほうがはるかに血縁は近い。 ということで、上記2)には誤解が含まれています。竹田宮が皇族にとどまれたのは、明治天皇に娘が4人いて、その嫁入り先として年齢的に適格だったからです。ちなみに、成久王(この人も明治天皇の娘と結婚しました)以外の恒久王の弟はみな臣籍に降下しています。
そうすると、旧竹田宮家の使命は、皇族女子と結婚することにあると言えるかもしれません。自ら皇族に復帰することを望んだりするよはり、おそらく嫁入り先を探すのに苦労しているであろう、三笠宮や高円宮の女王を受け入れてあげてはどうかと思います。
しかも、秋篠宮妃の懐妊でタナ上げになった、有識者会議の皇室典範改正案では、皇族女子も結婚後、引き続き皇族であることが可能となりますので、その配偶者も皇族となりますから、皇族になって皇統を保存するのが自らの義務だと考えるなら、その方法もありえるわけです。
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