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[3243]竹だの宮は39等身 ピッポ 06/9/19(火) 23:40
[3261]Re(1):竹だの宮は39等身 eichelberger_1999 06/9/24(日) 16:53
[3263]Re(2):竹だの宮は39等身 eichelberger_1999 06/9/24(日) 17:18
[3264]Re(3):竹だの宮は39等身 eichelberger_1999 06/9/24(日) 17:31
[3267]Re(4):竹だの宮は39等身 eichelberger_1999 06/9/26(火) 13:39
[3268]Re(5):竹田宮は37親等〜39親等 ピッポ 06/9/26(火) 19:03
[3269]Re(6):竹田宮は37親等〜39親等 eichelberger_1999 06/9/26(火) 20:55
[3270]Re(7):竹田宮は37親等〜39親等 ピッポ 06/9/26(火) 22:34

[3243]竹だの宮は39等身
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 ピッポ E-MAIL  - 06/9/19(火) 23:40 -

引用なし
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   1)旧宮家竹田の宮は男系を遡れば、39親等とか69親等とかの系図であらせられるとかや?
2)竹田の宮が、明治天皇の御代に宮家となったのは、女系をたどれば一番親等数が少なかったからではないか?すなわち宮家とは、男系を基準に選んだのではなく女系を頼りに選んだ、のよ。

以上わ今晩の飲み屋で会った話をしてると酔いがさめて結局は悪酔いしてしまう、自称「知識びと」さんの受け売りです。

真偽の程はいかに。
468 hits

[3261]Re(1):竹だの宮は39等身
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 eichelberger_1999 E-MAIL  - 06/9/24(日) 16:53 -

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   ▼ピッポさん:

>1)旧宮家竹田の宮は男系を遡れば、39親等とか69親等とかの系図であらせられるとかや?

 旧竹田宮家のいちばん新しい世代(恒貴、恒好、恒智、恒泰)と明仁天皇との間の等親数は、37等親だと思います。ということは、皇太子・秋篠宮とは38等親、その子供(愛子内親王や今度生まれた悠仁親王)の世代とは39等親となります。
両者の系図がクロスするのは、伏見宮貞成親王(さだふさ、1372-1456)で、はるか昔、南北朝時代にまでさかのぼります。旧竹田宮家のいちばん新しい世代(恒貴、恒好、恒智、恒泰)からそこまでが18等親、貞成親王から明仁天皇までが19等親、あわせて37等親という計算です。

 ふうつはここまで離れていると、伝統的な日本の家観念からみても、もはや同じ「家」とはいえません。これだけの遠い関係を「同族」とするには、氏族制度的な観念によらざるをえないでしょう。

 なお、竹田宮家の男系の祖先で、いちばん最近に天皇位にあったのは崇光院(北朝3代、在位1348-51)。これも南北朝時代にさかのぼり、旧竹田宮家のいちばん新しい世代から数えると、20等親にあたります。


>2)竹田の宮が、明治天皇の御代に宮家となったのは、女系をたどれば一番親等数が少なかったからではないか?すなわち宮家とは、男系を基準に選んだのではなく女系を頼りに選んだ、のよ。

 竹田宮の第一代は恒久王(1882‐1919)ですが、この人は北白川能久王の庶長子です。北白川宮を継承した成久王(1887‐1923)よりも早く生まれたのですが、母親が正妻ではなかったので、北白川宮を継承できなかった。

 そこで明治天皇は恒久王のために、1906年に新しく宮家を創ったのですが、それは自分の娘である内親王の嫁入り先とするためでした。恒久王は明治天皇の第6女昌子内親王と結婚しています(1908年)。
 
 ですので、旧竹田宮家のいちばん新しい世代(恒貴、恒好、恒智、恒泰)の曾祖母は明治天皇の娘にあたります。彼らの父方を男系でたどると天皇は20世代前にさかのぼらなければいけませんが、曾祖母を介してならば、5等親で明治天皇とつながります。
 つまり、明治天皇が竹田宮家をつくった時点で、竹田宮恒久王と明治天皇の間は、男系では32等親です。昌子内親王との間に生まれた恒徳王は明治天皇の外孫ですので、女系では2等親のつながりとなります。
 
 旧竹田宮のいちばん新しい世代は、男系では明仁天皇と37等親ですが、母方をたどると8等親でつながります。このくらいであれば天皇家の親戚といっても、すこしもおかしくはありません。その意味では、男系ではなくて、「女系」で数えるほうがはるかに血縁は近い。
 
 ということで、上記2)には誤解が含まれています。竹田宮が皇族にとどまれたのは、明治天皇に娘が4人いて、その嫁入り先として年齢的に適格だったからです。ちなみに、成久王(この人も明治天皇の娘と結婚しました)以外の恒久王の弟はみな臣籍に降下しています。

 そうすると、旧竹田宮家の使命は、皇族女子と結婚することにあると言えるかもしれません。自ら皇族に復帰することを望んだりするよはり、おそらく嫁入り先を探すのに苦労しているであろう、三笠宮や高円宮の女王を受け入れてあげてはどうかと思います。

 しかも、秋篠宮妃の懐妊でタナ上げになった、有識者会議の皇室典範改正案では、皇族女子も結婚後、引き続き皇族であることが可能となりますので、その配偶者も皇族となりますから、皇族になって皇統を保存するのが自らの義務だと考えるなら、その方法もありえるわけです。
486 hits

[3263]Re(2):竹だの宮は39等身
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 eichelberger_1999 E-MAIL  - 06/9/24(日) 17:18 -

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   ▼eichelberger_1999さん:

> しかも、秋篠宮妃の懐妊でタナ上げになった、有識者会議の皇室典範改正案では、皇族女子も結婚後、引き続き皇族であることが可能となりますので、その配偶者も皇族となりますから、皇族になって皇統を保存するのが自らの義務だと考えるなら、その方法もありえるわけです。

 送信したあと、読み直してみると、上記の部分はおかしいことに気づきました。

 有識者会議の皇室典範改正案では、愛子内親王が皇太子の次ぎに皇位につくことになりますから、男系皇統を保存するには、愛子内親王と結婚して、男子をつくらなきゃいけない。旧竹田宮家のいちばん新しい世代はみな30歳前後だから、愛子さんとはまず結婚できません。また、どうやらいずれも子供はいないようですから、今から頑張って、将来の皇婿たるべき男の子をつくっても、間に合わない。

 愛子さんがいわゆる旧皇族外と結婚すれば、その時点でいわゆる「男系皇統」は断絶してしまいますから、三笠宮や高円宮の女王と結婚するのはいいとしても、それでは決して「男系皇統」の保存にはつながりはしない。

 「その方法もありえる」と書いたのは、まちがいだということになります。

 なお、訂正ついでになおしておくと、前稿で「北白川宮能久王」と書いたのは、「北白川宮能久親王」が正解です。

 ついでに指摘しておきますと、現行皇室典範より前の旧皇室典範とその附属令の規定によれば、旧竹田宮家のいちばん新しい世代の4人は、今の年齢ではすべて臣籍に降下しており(恒貴氏以外は、生まれた時からすでに皇族ではないし、恒貴氏も成年になるとともに皇族を離脱し、竹田宮家は恒正氏で断絶となる)、誰も皇族ではありません。

 つまり、GHQの皇室財産処分による皇族の離脱がなくとも、旧皇室典範とその附属令が有効であれば、現時点でなお皇籍にある旧皇族は、北白川道久、久邇邦昭、朝香誠彦、竹田恒正氏とその配偶者(および未婚の娘)だけにかぎられるのです。彼らの息子はすべて成年になれば、皇籍を離脱することになっていました。

 もちろん、上記の4氏は、いずれも皇太子よりは年長ですし、北白川、久邇のお二人は明仁天皇より年長ですから、仮に彼らが皇籍を保持していたとしても、皇位継承はできません。

 天皇家よりも先に、旧宮家の方が断絶する運命にあったのです。
474 hits

[3264]Re(3):竹だの宮は39等身
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 eichelberger_1999 E-MAIL  - 06/9/24(日) 17:31 -

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   またまた訂正です。

▼eichelberger_1999さん:
> つまり、GHQの皇室財産処分による皇族の離脱がなくとも、旧皇室典範とその附属令が有効であれば、現時点でなお皇籍にある旧皇族は、北白川道久、久邇邦昭、朝香誠彦、竹田恒正氏とその配偶者(および未婚の娘)だけにかぎられるのです。彼らの息子はすべて成年になれば、皇籍を離脱することになっていました。

 東久邇信彦氏を忘れていました。ですので、正しくは、

「旧皇室典範とその附属令が有効であれば、現時点でなお皇籍にある旧皇族は、北白川道久、久邇邦昭、朝香誠彦、竹田恒正、東久邇信彦氏とその配偶者(および未婚の娘)だけにかぎられるのです。」

となります。東久邇信彦氏は1945年生まれのはずです。
513 hits

[3267]Re(4):竹だの宮は39等身
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 eichelberger_1999 E-MAIL  - 06/9/26(火) 13:39 -

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   さらに訂正です。

 1932年生まれで、まだご存命の伏見博明氏が抜けていました。
 
 ですので、

「旧皇室典範とその附属令が有効であれば、現時点でなお皇籍にある旧皇族は、北白川道久、久邇邦昭、朝香誠彦、竹田恒正、東久邇信彦、伏見博明氏とその配偶者(および未婚の娘)だけにかぎられるのです。」

となります。これでもう数えもれはないと思いますが。

 「日本の伝統」とやらを重んじるのであれば、明治になってから新しく作られた皇族は伝統にしたがって、臣籍降下するのが筋道というべきであり、じっさい大正天皇はその伝統に復帰する道を選びました。1920年の「皇族の臣籍降下に関する施行準則」がそれで、これによれば500年以上続いた世襲親王家の伏見宮家もいずれ断絶することになります。
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[3268]Re(5):竹田宮は37親等〜39親等
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 ピッポ E-MAIL  - 06/9/26(火) 19:03 -

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   eichelberger_1999 さん
ややっこしい問題を解きほぐして戴いてありがとう御座います。

竹田恒泰(本を出した旧竹田宮家の新しい世代)との間が、明仁天皇とは男系を辿ると37親等、女系を辿ると8親等というわけですね。

旧竹田宮宗家の恒久王は、旧北白川家を踏襲できない臣籍降下すべき庶子であったが、明治天皇の皇女と婚姻する目的で「竹田宮」を賜ったのですね。

「仮に旧皇室典範とその附属令が有効であっても、現時点でなお皇籍にある旧皇族は、北白川道久、久邇邦昭、朝香誠彦、竹田恒正、東久邇信彦、伏見博明氏とその配偶者(および未婚の娘)だけにかぎられるのです。」ということですね。

他の旧宮家の創出基準は何だったのでしょうか?
524 hits

[3269]Re(6):竹田宮は37親等〜39親等
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 eichelberger_1999 E-MAIL  - 06/9/26(火) 20:55 -

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   ▼ピッポさん:

>竹田恒泰(本を出した旧竹田宮家の新しい世代)との間が、明仁天皇とは男系を辿ると37親等、女系を辿ると8親等というわけですね。
>

 お恥ずかしいですが、またもや計算間違いをしておりました。明治天皇は竹田恒泰氏の高祖父ですので、4親等(今までの投稿では、等親と親等を混用しておりましたので、これもここで改めておきます)。ですので、明仁天皇とは、8ではなく、7親等となります。謹んで訂正いたします。
 なお、明仁天皇の母親良子は皇族出身ですので、明仁天皇の女系経由では、竹田氏とは9親等となります。どっちにしろ、女系の方がはるかに近い。

>旧竹田宮宗家の恒久王は、旧北白川家を踏襲できない臣籍降下すべき庶子であったが、明治天皇の皇女と婚姻する目的で「竹田宮」を賜ったのですね。
>他の旧宮家の創出基準は何だったのでしょうか?

 竹田宮と同じ理由で、明治天皇から新たに宮号を許されたのは、朝香宮、東久邇宮です。すべて明治天皇の娘と結婚しています。

>他の旧宮家の創出基準は何だったのでしょうか?

 旧宮家は創出時期により、次の3つにわけられます。

1.江戸時代からの世襲親王家(伏見宮、有栖川宮、桂宮、閑院宮)
 このうち桂宮と有栖川宮は継嗣がいなくて、明治から大正期に断絶しています。また、閑院宮も幕末に血筋は絶え、伏見宮から養子を貰っています。

2.明治初期に皇族の数を増やすために新設された新宮家(華頂宮、山階宮、北白川宮、梨本宮、東伏見宮(のち小松宮)、久邇宮)。
 これらの新宮家の当主となったのはすべて伏見宮邦家親王の子です。皇位継承権をもつ男系男子を増やそうとの意図もあったと思われます。

3.明治30年代につくられた賀陽宮、東伏見宮、竹田宮、朝香宮、東久邇宮。
 まず、あとの3つは明治天皇の娘の嫁ぎ先確保。竹田宮は北白川宮からわかれ、朝香宮と東久邇宮は久邇宮からわかれました。

 賀陽宮邦憲王は久邇宮朝彦王の子ですが、久邇宮を継承した邦彦王より年長であるにもかかわらず、庶子であるため継承できなかったこと、さらに年下の弟、守正王が梨本宮がついでいたことが理由だと思われます。
 
 東伏見宮依仁親王は、明治天皇から世襲親王家と同格とされて、新たに小松宮を名乗った東伏見宮彰仁親王の年の離れた弟で、彰仁親王は彼を自分の跡継ぎにするべく明治18年に養子にしました。ところが、そのあと皇族の養子を認めない皇室典範がつくられたために、彰仁死去の際に依仁を独立させて東伏見宮を再興させたのです。依仁は伏見宮邦家親王の末子ですが、兄達は一人を除くとすべて皇族ですから、今さら皇族の身分を失わせることはできなかったのでしょう。
516 hits

[3270]Re(7):竹田宮は37親等〜39親等
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 ピッポ E-MAIL  - 06/9/26(火) 22:34 -

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   ▼eichelberger_1999さん:
> 旧宮家は創出時期により、次の3つにわけられます。
>
>1.江戸時代からの世襲親王家(伏見宮、有栖川宮、桂宮、閑院宮)
> このうち桂宮と有栖川宮は継嗣がいなくて、明治から大正期に断絶しています。また、閑院宮も幕末に血筋は絶え、伏見宮から養子を貰っています。
>
>2.明治初期に皇族の数を増やすために新設された新宮家(華頂宮、山階宮、北白川宮、梨本宮、東伏見宮(のち小松宮)、久邇宮)。
> これらの新宮家の当主となったのはすべて伏見宮邦家親王の子です。皇位継承権をもつ男系男子を増やそうとの意図もあったと思われます。
>
>3.明治30年代につくられた賀陽宮、東伏見宮、竹田宮、朝香宮、東久邇宮。
> まず、あとの3つは明治天皇の娘の嫁ぎ先確保。竹田宮は北白川宮からわかれ、朝香宮と東久邇宮は久邇宮からわかれました。
>
> 賀陽宮邦憲王は久邇宮朝彦王の子ですが、久邇宮を継承した邦彦王より年長であるにもかかわらず、庶子であるため継承できなかったこと、さらに年下の弟、守正王が梨本宮がついでいたことが理由だと思われます。
> 
> 東伏見宮依仁親王は、明治天皇から世襲親王家と同格とされて、新たに小松宮を名乗った東伏見宮彰仁親王の年の離れた弟で、彰仁親王は彼を自分の跡継ぎにするべく明治18年に養子にしました。ところが、そのあと皇族の養子を認めない皇室典範がつくられたために、彰仁死去の際に依仁を独立させて東伏見宮を再興させたのです。依仁は伏見宮邦家親王の末子ですが、兄達は一人を除くとすべて皇族ですから、今さら皇族の身分を失わせることはできなかったのでしょう。

ほう、養子ですか?
「皇族」同士の養子ですよね、当然。
でないと、Yが怪しくなっちゃう。(もともとYなんて怪しいんだけど)

でも、そうした養子縁組や皇族同士の結婚は、同族結婚の弊害が大きいですね。それを充分に反省した結果が、今の天皇の結婚じゃあなかったんですか。

あ、それから世襲親王家というのは、リザーブの苗代みたいなものですね。
毎年「新嘗祭」を迎えるのも大変だけど、「大嘗祭」を迎えるのは全く持って大変なわけですね。それこそ受粉期にヤマセが吹いたらお終い、おじゃん。
520 hits

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