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▼熊猫さん: > 発刊が何時かではなく書いたのは何時かです。金を渡して書かせるには書く前に金を渡すあるいは、書く前に金を渡す旨を伝えなければいけません。 > 国際宣伝処が機能したのは、1938年の4月、実質的にはそれ以降じゃないですかね。軍事委員会政治部が機能したのは1938年の4月以降のことです。組織はあるが実態がないと言った常態でした。人事も決まっていなければ、予算も決まっておらず、具体的宣伝工作を開始したのは4月以降のことです。南京が陥落してそれどころじゃなかったというのが実態でしょう。国際宣伝処は、軍事委員会政治部とコラボで活動していましたので、機能していなかったと判断して問題ないと思います。
熊猫さんの、お考えは了解いたしました。 鈴木明は第三庁だとか言っていたようですが、北村、東中野は国際宣伝処だと言っているので、書評の読者には理解されないのではないかと危惧します。 東中野は意図的なのか、いいかげんなのか、中国語の文献が『外国人目睹中之日軍暴行』というときに、それが英語原本のことなのか、中国語訳のことなのか混同しています。 北村、東中野がいうのは、本来は英語原本のはずです。
国際宣伝処は、 「1937年11月6日,軍事委員会第五部又改為国際宣伝処」で、 「12月1日,国宣処在漢口召開了第一次外国記者新聞会議,...」 [重慶抗戦叢書編纂委員会編『抗戦時期重慶的新聞界』重慶出版社、1995年、p.100] ということです。 国宣処は国民党中央宣伝部の組織になりましたが、これは副部長であった董顕光が第五部の責任者であったことによるもののようです。しかし、中央宣伝部からも独立した存在であったとされています。 12月に漢口で新聞記者の会合があったことは事実で、Timperleyを始め、著名な在中国の外国人記者が行っています。 Timperleyは蒋介石をインタビューした後、1月始めにには香港経由で上海にもどっています。 もし、漢口で国宣処とコンタクトがあったのであれば、この時期以外にはありません。ということは、Timperleyは南京事件については、知らなかったと考えるべきでしょう。 Timperleyの電報の内容がジャキノ神父やベイツに基づくことからも、南京事件については上海で情報を得たものと思います。 一方、曾虚白の回想では、Timperleyが日本軍占領下の南京にいて、そこから上海にきたので、漢口にきてもらって打ち合わせをし、費用を渡して本をかいてもらったことになっています。 それ自体は筋の通った話ですが、間違いが大分入っています。 軍事委員会政治部は1938年1月12日に陳誠が初代部長となっていますので、このときに創設されたものだと思います。 郭抹若『抗日戦回想録』に、「三庁の成立以来、国際宣伝に関して国宣処はわれわれは協力関係にあった」(p.162)という記述があるのですが、東中野はこの個所から、かなり空想を広げているようです。 郭抹若は、月曜の記者会見、宣伝会報編集を共同し、一種の画報を共同編集したことがあるので、曾とはいつも顔を合わせていたが、「何の友情も感じないかわりに別に反感もおぼえない」程度の関係であったとしています。 協力とはその程度のものでしょう。
> あくまでも、テインパリーの本の出版の表に出ていたのは軍事委員会政治部第三庁(庁長:郭沫若)であり、1938年4月に出来た組織です。
東中野説は国際宣伝処が書かせて出版したことにこだわっています。 そうすると、国民党の組織が、左翼文人で別組織の郭沫若に中国語訳の序文を書かせたという奇妙なことになります。 郭沫若は、1938年4月の宣伝週のときに党本部から「人民」は「国民」に、「祖国」は「国家」に、「崗位」は「職分」に改め「今後、一切の対外文書は部の許可を得て発行すること」という訓令を受けたとしています。(p.75)そして、これらの語は「一般の禁忌となった」としています。 このような、「禁忌」となった左翼的な語が1938年刊行の国民党の組織の出版物に使われるでしょうか?国際宣伝処も第三庁も関係がないとみるべきでしょう。
次に、軍事委員会政治部第三庁も「表」には出ていないと思います。 郭沫若の序文だけでなく、訳者序文も明らかに左派の用語を使っています。肩書きも書かれていません。 これは、Timperleyの本の中国語訳は軍事委員会政治部と関係の無いところで作られたことを示唆していると思います。 いずれにしても、英語原本には中国機関が顔を出さなかったのに、中国語訳にTimperleyから直接原稿をもらいましたと書いたり、郭沫若と関係がありますというのでは、片手落ちというものでしょう。 これらの機関は秘密組織ではなく、通常は刊行物に組織名を書いています。中国機関が顔を出してもよいというなら、軍事委員会政治部、あるいは国際宣伝処発行と明記すればよいわけです。組織の実績になるわけです。
ここで、問題となるのは、国宣処が中国語訳を刊行したとしていることです。 刊行したというのはどの本で、いつのことでしょうか。いろいろな資料があるらしく、実は、よくわからないのです。 例えば『抗戦時期重慶的対外交往』(p.239)では「1940年,国際宣伝処将英国人田伯烈編著的披露"南京大屠殺"真相一書《外国人目睹中之日軍暴行》,在倫敦公開発行,使英国民衆,看到了日本帝国主義又在中国土地上犯下的滔天罪行」となっています。 どうやら、1940年頃の文書に国際宣伝処が1940年に『外国人目睹中之日軍暴行』を発行したというものがあると推測されるのですが、『抗戦時期重慶的対外交往』が何に典拠しているかはわかりません。
国際宣伝処と曾虚白の資料は気をつけたほうがいいと思います。 他の資料でも、国際宣伝処の手柄に書いているところに事実と異なる部分があるようです。また、曾虚白は別件で疑惑があるようです。これは、ある学術書で知ったのですが、後ほど探してきて掲載しましょう。
ということで、国際宣伝処は1938年12月には活動していたので、その点では東中野説に問題はありません。
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