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[3319]佐藤振壽氏について ピッポ 06/10/5(木) 6:38
[3326]Re(1):佐藤振壽氏について ja2047 06/10/5(木) 20:15
[3332]Re(2):佐藤振壽氏について ピッポ 06/10/5(木) 23:32
[3338]Re(2):佐藤振壽氏について ゆう 06/10/7(土) 5:55
[3340]Re(3):佐藤振壽氏について ピッポ 06/10/7(土) 7:48
[3341]Re(4):佐藤振壽氏について ja2047 06/10/7(土) 9:37 [添付]
[3342]Re(5):佐藤振壽氏について ピッポ 06/10/7(土) 13:49
[3330]Re(1):佐藤振壽氏について K−K@南京事件資料集 06/10/5(木) 23:13
[3333]Re(2):佐藤振壽氏について ピッポ 06/10/5(木) 23:51
[3336]Re(1):佐藤振壽氏について 渡辺 06/10/7(土) 0:32
[3337]Re(2):佐藤振壽氏について ピッポ 06/10/7(土) 2:19

[3319]佐藤振壽氏について
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 ピッポ E-MAIL  - 06/10/5(木) 6:38 -

引用なし
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   佐藤振壽氏の「従軍とは歩くこと」は、偕行社刊「南京戦史資料集II」に所収とのことですが、それはいつ執筆したのでしょうか?
ご存知の方おしえてください。

どこかに、後書きとか奥付とかに、その点書いてありませんか?
手記を元にしてなら、その手記はいつのものでしょうか?

また、「従軍とは歩くこと」は全体で何ページ分くらい有るのでしょうか?

佐藤振壽氏の証言としては、ほかに、
1、週刊新潮に寄せた手記(1972年7月)
2、東京地裁証言(2005)
3、阿羅インタビュー(1985年ごろ?)
などがあるようですが・・・

1と2の要約は「地裁判決」にあります。
3は例の阿羅版「48人の証言」(旧「聞き書き」)。「ゼンボウ」畠中(阿羅)連載版もあるのでしょうか?

他にも、佐藤振壽氏の証言(=書いた物、喋ったもの)はあるのでしょうか?

いつまで毎日新聞に居たかなど、経歴も知りたいところです。
72 hits

[3326]Re(1):佐藤振壽氏について
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 ja2047  - 06/10/5(木) 20:15 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>他にも、佐藤振壽氏の証言(=書いた物、喋ったもの)はあるのでしょうか?

毎日新聞の「一億人の昭和史 不許可写真史」P243〜247に「不許可となった写真たち」の記事があります。
ところが、私の持ってる本には、その部分がすっぽりと抜け落ちています (^^:
いつなくなったか不明です。
ここのメンバーなら、たぶんほかの方が持ってると思います。私も読みたい。
 
 
88 hits

[3330]Re(1):佐藤振壽氏について
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 K−K@南京事件資料集 E-MAILWEB  - 06/10/5(木) 23:13 -

引用なし
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   こんにちは、ピッポさん。

>佐藤振壽氏の「従軍とは歩くこと」は、偕行社刊「南京戦史資料集II」に所収とのことですが、それはいつ執筆したのでしょうか?

詳細は判りませんが、初版の『南京戦史』が出た1989年以降のようです(同史料は、改訂版にのみ所収)。
この『南京戦史資料集』に所収されている飯沼日記の詳細な記録が、手記を書くにあたって参考になったようですし、実際、手記中にもたびたび引用されています。


>手記を元にしてなら、その手記はいつのものでしょうか?

手記というか、戦地でのメモ書きが元となっているようです。
『南京戦史資料集II』P497
 内地へ帰還したのち、旅費の清算をしなければならない。そのためにメモでもよいから、書いておくようにと先輩に教えられた。そのメモ書きと自分が撮影した写真で新聞に掲載されたものが、スクラップされていたので、この両者をつき合わせると、撮影時の状況がビデオ録画のように、記憶の波の中からよみ返って来るのである。


>また、「従軍とは歩くこと」は全体で何ページ分くらい有るのでしょうか?

『南京戦史資料集II』では、P495からP641までの146ページ分あります。


>1と2の要約は「地裁判決」にあります。
>3は例の阿羅版「48人の証言」(旧「聞き書き」)。「ゼンボウ」畠中(阿羅)連載版もあるのでしょうか?

この点は調べ直さないと分かりません…。


>他にも、佐藤振壽氏の証言(=書いた物、喋ったもの)はあるのでしょうか?

確か、1973年前後に鈴木明氏が取材をし、諸君か何かに載っているはずだったと思いましたが、詳細は判りません。


>いつまで毎日新聞に居たかなど、経歴も知りたいところです。

経歴については、「従軍とは歩くこと」の最後に下記のように記されています。
『南京戦史資料集II』P641
佐藤振壽略歴
大正二年二月二十日生 東京都出身
昭和七年二月、東京日日新聞社(現毎日新聞社)入社 写真部勤務。
昭和二十年九月より十三年二月まで、日中戦争上海・南京戦線に従軍取材。
昭和十四年二月より十一月まで、南支方面部隊に従軍取材。
昭和十六年十月、病気のため退社。
昭和十七年一月、財団法人写真協会入社、カメラ雑誌「報道写真」編集部勤務。
昭和二十五年九月、GHQ・CIEより民主化教育用視聴覚教材の制作などを検修のため、ガリオア資金により渡米。
昭和二十九年五月、政府広報グラフ誌「写真広報」編集に携わる。
昭和三十六年五月、時事通信社政府広報グラフ誌「フォト」編集部勤務。
昭和四十年五月、時事画報独立、「フォト」編集長となる。
昭和五十四年十一月、時事画報退社、在社中より写真評論、写真技術などを執筆、現在に至る。
69 hits

[3332]Re(2):佐藤振壽氏について
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 ピッポ E-MAIL  - 06/10/5(木) 23:32 -

引用なし
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   ▼ja2047さん:
>毎日新聞の「一億人の昭和史 不許可写真史」P243〜247に「不許可となった写真たち」の記事があります。
>ところが、私の持ってる本には、その部分がすっぽりと抜け落ちています (^^:
>いつなくなったか不明です。

あれっ!
たれかが、ja1さんの家に空き巣に入って、貯金通牒、保険証、宝石箱等には見向きもしないで、「不許可写真」のページをひっちゃぶいちゃったんですか?

そっちの方が、よっぽど興味津々です。
71 hits

[3333]Re(2):佐藤振壽氏について
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 ピッポ E-MAIL  - 06/10/5(木) 23:51 -

引用なし
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   ▼K−K@南京事件資料集さん:

K-Kさん詳しいレスありがとう御座います。

>>佐藤振壽氏の「従軍とは歩くこと」は、偕行社刊「南京戦史資料集II」に所収とのことですが、それはいつ執筆したのでしょうか?

>詳細は判りませんが、初版の『南京戦史』が出た1989年以降のようです(同史料は、改訂版にのみ所収)。

1989年以降のようだとすると、阿羅健一がインタビューした時より遅いかもしれないのですね。

わたしは、阿羅インタビューの中の振壽氏はあまりも観念情念しているのに、歩くことでは振壽氏は余りにもリアリストです。もちろん、ゆうさんが書き起こした部分しか読んでいませんが。

その落差から、あるくことは、もっと壮年時代に書いた物だと誤解していました。

>この『南京戦史資料集』に所収されている飯沼日記の詳細な記録が、手記を書くにあたって参考になったようですし、実際、手記中にもたびたび引用されています。
>>手記を元にしてなら、その手記はいつのものでしょうか?
>手記というか、戦地でのメモ書きが元となっているようです。
>『南京戦史資料集II』P497
> 内地へ帰還したのち、旅費の清算をしなければならない。そのためにメモでもよいから、書いておくようにと先輩に教えられた。そのメモ書きと自分が撮影した写真で新聞に掲載されたものが、スクラップされていたので、この両者をつき合わせると、撮影時の状況がビデオ録画のように、記憶の波の中からよみ返って来るのである。

そうですか。ロケ清算書はいまでも、確実なドキュメントですね。ドキュメンタリよりも。(笑)

飯沼日記も参謀長らしく恬淡と、脚色がありませんね。


>>また、「従軍とは歩くこと」は全体で何ページ分くらい有るのでしょうか?
>
>『南京戦史資料集II』では、P495からP641までの146ページ分あります。

これは、国会図書館で1回でコピーが取れる分量なのでしょうか?
ここ5年ぐらい行ってないものですから。

>>1と2の要約は「地裁判決」にあります。
>>3は例の阿羅版「48人の証言」(旧「聞き書き」)。「ゼンボウ」畠中(阿羅)連載版もあるのでしょうか?
>
>この点は調べ直さないと分かりません…。

「ゼンボウ」畠中連載は、田中正明氏が引用してるかも。(電脳日本史)

>>他にも、佐藤振壽氏の証言(=書いた物、喋ったもの)はあるのでしょうか?
>
>確か、1973年前後に鈴木明氏が取材をし、諸君か何かに載っているはずだったと思いましたが、詳細は判りません。

これも国会図書館のテーマですね。

>経歴については、「従軍とは歩くこと」の最後に下記のように記されています。
>『南京戦史資料集II』P641
>佐藤振壽略歴
>大正二年二月二十日生 東京都出身
>昭和七年二月、東京日日新聞社(現毎日新聞社)入社 写真部勤務。
>昭和二十年九月より十三年二月まで、日中戦争上海・南京戦線に従軍取材。
>昭和十四年二月より十一月まで、南支方面部隊に従軍取材。
>昭和十六年十月、病気のため退社。
>昭和十七年一月、財団法人写真協会入社、カメラ雑誌「報道写真」編集部勤務。
>昭和二十五年九月、GHQ・CIEより民主化教育用視聴覚教材の制作などを検修のため、ガリオア資金により渡米。
>昭和二十九年五月、政府広報グラフ誌「写真広報」編集に携わる。
>昭和三十六年五月、時事通信社政府広報グラフ誌「フォト」編集部勤務。
>昭和四十年五月、時事画報独立、「フォト」編集長となる。
>昭和五十四年十一月、時事画報退社、在社中より写真評論、写真技術などを執筆、現在に至る。

ありがとう御座います。
その後のプレゼンスを書き加えて
私のWEB書庫に早速転載させていただきます。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/84.html

ピッポ拝
73 hits

[3336]Re(1):佐藤振壽氏について
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 渡辺  - 06/10/7(土) 0:32 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>佐藤振壽氏の証言としては、ほかに、
>1、週刊新潮に寄せた手記(1972年7月)
>2、東京地裁証言(2005)
>3、阿羅インタビュー(1985年ごろ?)
>などがあるようですが・・・
>
>1と2の要約は「地裁判決」にあります。
>3は例の阿羅版「48人の証言」(旧「聞き書き」)。「ゼンボウ」畠中(阿羅)連載版もあるのでしょうか?
>
>他にも、佐藤振壽氏の証言(=書いた物、喋ったもの)はあるのでしょうか?

jaさんとK-Kさんが概ねお答えになっていますが、補足を...

「1、週刊新潮に寄せた手記(1972年7月)」は、
『週刊新潮』1972年7月29日号 pp.32-37 の記事『「南京百人斬り」の"虚報"で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形』のことではないでしょうか?
これは、手紙ではなく取材に答えたものです。取材を受けたときの様子は『48人の証言』に掲載されています。
この記事が佐藤氏の証言の最初のものです。
記事の題名には"虚報"とあるのですが、佐藤氏の回答を得て「まったくのつくり話ではない、少なくとも当人から直接聞いた話なのだ」(p.35)とし、さらに鈴木二郎氏の証言から「記者たちの恣意による完全なデッチ上げ、という形はまずないと見るべきであろう」(p.36)としています。当たり前のことですが。

「2、東京地裁証言(2005)」は、
東京地裁『速記禄(平成16年7月12日 第6回口頭弁論)』(全35頁)という証人調書に掲載されています。
速記禄とありますから、反訳されたものだと思いますが、調書ではごちゃごちゃした発言は丸められている可能性があります。
佐藤氏は『週刊新潮』の記事について最初は肯定していたのですが、休廷を挟むと、自分の発言した個所も新潮の記者が書いたかもしれないなどと言い出しています。
休廷前の部分ですが、稲田弁護士の尋問に対して浅海記者が書いた記事について「うそだと思いましたよ」と答え、稲田が「じゃ、うそをうまいこと書いたなと、そのように思ったと、そういうことですね」というと「はい」と答えています。
実は、ここで誰が「うそ」を言ったのかははっきり言っていません。
証言の後、原告側を代弁するかのような記事が『週刊新潮』2004年7月22日号pp.58-60 に掲載されたのですが、そこでは、「"あいつ、ホラ話書きやがったな"と思いましたよ」(p.60)と述べています。
つまり、「うそ」とは「ホラ話」のこと、すなわち両将校が「うそ」を言ったということになります。
ところで、証人が「〜だと思いました」と言っても裁判では一般的には証拠となりません。証人から聞きたいのは実体験であって感想ではないからです。
最後に裁判官の一人から質問がありました。
これは、百人斬りの話を両将校から聞いたのか、記事に疑問をもったなら「本当だったんだろうか」といった話を浅海記者にしたのかを確認する目的のようです。
佐藤氏は、うそか本当かはっきりしたのかというところまでは追求しないで、そうかいと引き下がりましたね、と述べて証言は終わりました。
結局、うそだと思ったことに対して何も行動しなかったということになります。
ここで、「あのホラ話を記事にしたのか」と浅海記者に言ったと佐藤氏が言えば、これは実体験ですから、とりあえず判決文にも言及されたことでしょう。
もちろん、当番兵をとりかえる話を聞いて、それで分かったと思っていた佐藤氏ですから、百人斬り記事が「うそ」などとは、少なくとも1970年代までは考えていたはずがありません。

以上です。
71 hits

[3337]Re(2):佐藤振壽氏について
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 ピッポ E-MAIL  - 06/10/7(土) 2:19 -

引用なし
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   ▼渡辺さん:
レスありがとう御座います。
渡辺さんは、以下の判決文で要約されていない部分を補足してくださったのだと思います。ありがとう御座いました。


「百人斬り」裁判東京地裁 平成17年8月23日判決言渡<第3−2−(1)−ナ −(ウ)>
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/han/part/p-045.htm

(ウ) 佐藤記者に対する取材記事
佐藤記者は,上記「週刊新潮」昭和47年7月29日号誌上に掲載された記事の中で,取材に答えて,

「  とにかく,十六師団が常州(注・南京へ約百五十キロ)へ入城した時,私らは城門の近くに宿舎をとった。宿舎といっても野営みたいなものだが,社旗を立てた。そこに私がいた時,浅海さんが,"撮ってほしい写真がある"と飛び込んで来たんですね。私が"なんだ,どんな写真だ"と聞くと,外にいた二人の将校を指して,"この二人が百人斬り競争をしているんだ。一枚頼む"という。"へえー"と思ったけど,おもしろい話なので,いわれるまま撮った写真が"常州にて"というこの写真ですよ。  」,
「  私が写真を撮っている前後,浅海さんは二人の話をメモにとっていた。だからあの記事はあくまで聞いた話なんですよ。  」,「  あの時,私がいだいた疑問は,百人斬りといったって,誰がその数を数えるのか,ということだった。これは私が写真撮りながら聞いたのか,浅海さんが尋ねたのかよくわからないけど,確かどちらかが,"あんた方,斬った,斬ったというが,誰がそれを勘定するのか"と聞きましたよ。そしたら,野田少尉は大隊副官,向井少尉は歩兵砲隊の小隊長なんですね。それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして,当番兵が数えているんだ,という話だった。−−それなら話はわかる,ということになったのですよ。  」

と述べた旨記載されている(乙4)。
また,佐藤記者は,平成5年12月8日発行の「南京戦史資料集II」所収「従軍とは歩くこと」の中で,以下のとおり記載している(乙7)。

「  社会部の浅海一男記者が,無錫から同行していた。その浅海記者が常州城門の側の旅館へ筆者を呼びに来た。『将校さん二人の写真を撮ってくれないか。彼らはタバコを切らしているので,タバコもあげてくれないか』というのである。  」
「  タバコを進呈して,将校から何を聞き出すのか。私は浅海記者と将校の話に聞き耳を立てた。将校の−人は大隊副官の野田毅少尉,もう一人は歩兵砲小隊長の向井敏明少尉。なんとここから南京入城までに,どちらが先に中国兵百人を斬るかというすごい話題である。
  二人の将校の話を聞いていて,納得のいかないところがあった。同業の誰かが優れた写真を撮った場合,私はフィルムの種類は?レンズの絞りは?シャッター速度は?と,根掘り葉掘りデータを聞きたくなる。それを聞いてはじめて納得できるのだ。
  これから南京へ着くまでに,中国兵百人を斬るというのだが,誰がその数を確認するのかが不明だ。そうなると正確に百人も斬ったという事実も,証明できない。この点を二人の将校に質すと,次のような返事が返って来た。
  野田少尉の場合,向井少尉の当番兵が,野田少尉が斬った人数を確認する。向井少尉の場合は野田少尉の当番兵が,向井少尉が斬った人数を確認するというのである。
いちおう納得できたが,しかし,実際いつ白兵戦になって,中国兵を斬るのか,腑にちなかった。  」
「  こんないきさつがあったが,筆者が撮った二人の少尉の写真は,浅海記者の書いた『百人斬り競争』という見出しの付いた記事と共に,紙面に大きく掲載されたのであった。
常州で両少尉に一度,会っただけなので,忘れかけていたところ,南京の手前で浅海記者に会った時,『あの二人はまだ競争をやっとるよ,タバコをもう一度用立ててくれないか』と,タバコを無心されたのであった。  」

さらに,佐藤記者は,その陳述書及び当裁判所における証人尋問においても,両少尉から常州において直接話を聞いたことを認めている(甲65,証人佐藤振壽)。


>jaさんとK-Kさんが概ねお答えになっていますが、補足を...
>
>「1、週刊新潮に寄せた手記(1972年7月)」は、
>『週刊新潮』1972年7月29日号 pp.32-37 の記事『「南京百人斬り」の"虚報"で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形』のことではないでしょうか?
>これは、手紙ではなく取材に答えたものです。取材を受けたときの様子は『48人の証言』に掲載されています。
>この記事が佐藤氏の証言の最初のものです。
>記事の題名には"虚報"とあるのですが、佐藤氏の回答を得て「まったくのつくり話ではない、少なくとも当人から直接聞いた話なのだ」(p.35)とし、さらに鈴木二郎氏の証言から「記者たちの恣意による完全なデッチ上げ、という形はまずないと見るべきであろう」(p.36)としています。当たり前のことですが。

>「2、東京地裁証言(2005)」は、
>東京地裁『速記禄(平成16年7月12日 第6回口頭弁論)』(全35頁)という証人調書に掲載されています。
>速記禄とありますから、反訳されたものだと思いますが、調書ではごちゃごちゃした発言は丸められている可能性があります。
>佐藤氏は『週刊新潮』の記事について最初は肯定していたのですが、休廷を挟むと、自分の発言した個所も新潮の記者が書いたかもしれないなどと言い出しています。
>休廷前の部分ですが、稲田弁護士の尋問に対して浅海記者が書いた記事について「うそだと思いましたよ」と答え、稲田が「じゃ、うそをうまいこと書いたなと、そのように思ったと、そういうことですね」というと「はい」と答えています。
>実は、ここで誰が「うそ」を言ったのかははっきり言っていません。
>証言の後、原告側を代弁するかのような記事が『週刊新潮』2004年7月22日号pp.58-60 に掲載されたのですが、そこでは、「"あいつ、ホラ話書きやがったな"と思いましたよ」(p.60)と述べています。
>つまり、「うそ」とは「ホラ話」のこと、すなわち両将校が「うそ」を言ったということになります。
>ところで、証人が「〜だと思いました」と言っても裁判では一般的には証拠となりません。証人から聞きたいのは実体験であって感想ではないからです。
>最後に裁判官の一人から質問がありました。
>これは、百人斬りの話を両将校から聞いたのか、記事に疑問をもったなら「本当だったんだろうか」といった話を浅海記者にしたのかを確認する目的のようです。
>佐藤氏は、うそか本当かはっきりしたのかというところまでは追求しないで、そうかいと引き下がりましたね、と述べて証言は終わりました。
>結局、うそだと思ったことに対して何も行動しなかったということになります。
>ここで、「あのホラ話を記事にしたのか」と浅海記者に言ったと佐藤氏が言えば、これは実体験ですから、とりあえず判決文にも言及されたことでしょう。
>もちろん、当番兵をとりかえる話を聞いて、それで分かったと思っていた佐藤氏ですから、百人斬り記事が「うそ」などとは、少なくとも1970年代までは考えていたはずがありません。
>
>以上です。
74 hits

[3338]Re(2):佐藤振壽氏について
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 ゆう WEB  - 06/10/7(土) 5:55 -

引用なし
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   >毎日新聞の「一億人の昭和史 不許可写真史」P243〜247に「不許可となった写真たち」の記事があります。
>ところが、私の持ってる本には、その部分がすっぽりと抜け落ちています (^^:

このあたりのページ、他の部分と紙質が違うせいか、とじしろがとれやすくなっているようです。私の持っているものも、佐藤氏の記述部分のページは本体からバラバラになってしまっています。

内容は、「不許可写真」に関する一般論で、特に「南京」については書かれていませんでした。
78 hits

[3340]Re(3):佐藤振壽氏について
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 ピッポ E-MAIL  - 06/10/7(土) 7:48 -

引用なし
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   毎日新聞の「不許可写真」には3つのバージョンがあるようですね。

1、隔月刊「一億人の昭和史 不許可写真史」
34,一億人の昭和史 : 不許可写真史 ; 3巻1号通巻11号 1977.1 / 毎日新聞社 , 19770101
2、シリ-ズ20世紀の記憶 「不許可写真 毎日新聞秘蔵 1,2」毎日新聞社 1998.12
3、シリーズ20世紀の記憶 別巻1 「不許可写真 毎日新聞秘蔵 1,2永久保存版
」毎日新聞社 研秀出版 2000.4

2,3はちょっと私の読み取り間違いがあるかもしれません
(東京都図書館検索 http://catalog.library.metro.tokyo.jp/ )


お二人が論じているのは、1ですか?
80 hits

[3341]Re(4):佐藤振壽氏について
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 ja2047  - 06/10/7(土) 9:37 -

引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : fukyokashashinsi.jpg
・サイズ : 168.0KB
  
添付画像【fukyokashashinsi.jpg : 168.0KB】 ▼ピッポさん:
>毎日新聞の「不許可写真」には3つのバージョンがあるようですね。
>お二人が論じているのは、1ですか?

そうです。
こういうムック本はハードカバーと違ってどんどん失われていきます。
私のようにスキャンし倒すと余計に痛みます。

こちらでも、資料が失われて行くことの懸念が少し話題になりました。
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20061002/p1
86 hits

[3342]Re(5):佐藤振壽氏について
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 ピッポ E-MAIL  - 06/10/7(土) 13:49 -

引用なし
パスワード
   ▼ja2047さん:
>こちらでも、資料が失われて行くことの懸念が少し話題になりました。
>http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20061002/p1

ところで、佐藤振壽氏のことから話題がいつのまにか「不許可写真」になりましたが、つまりそれは、1977年「不許可写真」の中心的キャプションライター(或いは編者)が佐藤振壽氏だということですか?

もしそうなら、べつに佐藤振壽氏を揶揄するためでなく、
1)1937年当時の「紙面」や「画報」のキャプションと、
2)1977年当時のキャプションと、どう違うか、
3)さらにその20年後の同一人物による解釈、
これらの比較検討は、

時代を泳がないと商売にならないマスコミ、および職業的ジャーナリストの研究としては、とっても興味深いテーマかもしれませんね。(職業的研究者はやりっこないしw)
89 hits

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