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[3367]美しい国のほころびを露呈した田中さんたち ピッポ 06/10/9(月) 0:25
[3368]Re(1):田中隆吉訊問調書 eichelberger_1999 06/10/9(月) 14:32
[3375]Re(2):田中隆吉訊問調書 ピッポ 06/10/10(火) 12:55

[3367]美しい国のほころびを露呈した...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/10/9(月) 0:25 -

引用なし
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   南京事件を勉強し始めて、まだ1年半ぐらいで、しかもやらねばならないことが遅々として進みません。

そんななかで、気がつくのは、この事件の関与者に田中さんがとても多いということです。田中軍吉さんは南京法廷の被告ですし、まぼろしを見たのは鈴木明さんですが、捏造をしたのは田中正明さんです。そうしてもう一人の重要人物が、田中隆吉さんです。

田中隆吉さんが、東京裁判でどれだけ重要な役割を担ったか、それは秦郁彦さんの達者な筆致で振り返ることにします。

ところで、この文章のテキスト化は、Ja2047さんが御下賜くださったスキャナ&ソフト「たなか君」によって行なわれました。「たなか君」を使ってテキスト化すると、その作業を通して最低4回は文章を熟読します。私が神童と呼ばれていた10歳の頃だったら、もしかすると文章をみな暗記できたかもしれません。

いまは、繰り返し読むことで、感じっこがつかめます。

で、
皆さんへのお願いは、ロッキード事件で田中さんを有罪に導く骨格を作ったコーチャン証言にも似た田中隆吉証言の内容が、今みなさんの研究レベルによってどのように評価されるべきかを、ぜひ述べていただきたいのです。それが、東京裁判の骨格としての信頼度を占うことになるかもしれません。

中公新書「南京事件−虐殺の構造」秦郁彦著
p28〜32

怪物田中隆吉の告発

往年、シカゴのギャング退治で勇名をはせた東京裁判の主席検事ジョセフ・キーナンが、三八人の米検事団一行をひきっれて羽田空港に到着したのは、終戦の年もおしつまった昭和二十年十二月六日のことである。

こういった書き出し、アメリカを象徴するギャングからワグナーの世界へ転じるなんざ、笠原十九司さんにはない秦さんの文才です。

ナチスの戦争指導者たちを裁くニュルンベルク裁判はすでにスタートしていたが、東京裁判を主宰する連合国最高司令官(GHQ/SCAP)マッカーサー元帥と担当の検事局の準備は大幅におくれていた。GHQはとりあえず九月から、東条内閣の閣僚クラス数十名を逮捕して巣鴨拘置所に収容・そのなかには南京事件の最高責任者と目された松井石根(いわね)大将もふくまれていた。

だが、日系二世の下級スタッフを除くと、日本語の文書書を読みこなせる担当官はきわめて少なく、まして戦前期日本に特有の国家体制や複雑な人脈に通暁した専門家は、皆無に近いといってよかった。加えて、日本軍部は終戦と同時に戦時中の公文書を大量に焼却処分してしまったため、訴追に必要な文書証拠は裁判所側の手で収集せねぱならなかった。

このような悪条件を考慮して、キーナン検事は、本人を免責する代りに協力者に仕立て、仲間の悪事を告白させる、いわゆるFBI方式を採用するが、折からこの役割を果すにふさわしい人物が現れた。元陸軍省兵務局長田中隆吉少将である。

田中さんを追い落としたコーちゃんの役割が、東京裁判では田中さんだったのですね。でも、やっぱり、苦労の末みつけた証人だったようです。

田中は陸軍有数の謀略家で、昭和七年の第一次上海事変で駐在武官として火つげ役をやり、十年から十二年にかけては関東軍参謀として内蒙工作や冀東密輸による中国経済の擾乱を手がけた。武藤軍務局長と並んで初期東条政権を支えた政治軍人でもあり、額面どおり査定すれぱ、A級戦犯に指名されてもおかしくない大物であった。

検事団が田中に着目したのは、『東京新聞』に発表した「敗北の序章」という連載手記がきっかけだったようで、二十一年二月十八日国際検察局に田中を呼び出して、翌日から尋間が始まる。六月まで二二回、三〇〇ぺージにのぽる尋問調書は米国立公丈書館(ナシヨナル・アーカイブス)に保管され、最近、ほかの国際検察局文書(IPS Records RG 331)もろとも粟屋憲太郎氏によって要点が紹介された(「東京裁判への道」『朝日ジャーナル』連載、昭和五十九年十月十二目号より)。

検事団は、南京事件については、見聞した外人記者の報道や国際安全区委員会の記録を入手し、来日した向哲濬中国政府検事から南京地方法院検察処が、前年十一月から組織的に収集した「敵人罪行調査報告」を受けとっていた。しかし、いずれも被害者側の個別体験を集約したものに限られ、られ、加害者である日本軍の実情に触れるものではたかった。被害者がいくらそろっても、加害者やその責任者が特定できないと公判の維持は困難である。

米軍はレイテ戦で全減した第十六師団の日本兵捕虜にまで当って、生き証人を探したが、はかぱかしい成果を得られず、焦っていたところだったから、免責と引きかえに提供された田中隆吉の内部告発は貴重な材料となった。

次に三月二十二目と五月二十四目の尋問調書から、南京事件に触れた田中の陳述を抜き出してみよう。


さて、尋問調書の抜粋ですが、こんな短い抜粋の中に、要点が皆放り込まれているのには驚きます。長勇が、中支那方面軍軍の参謀ニ課長として慰安所設置案を作成したことまで適確に浮き彫りにしています。


 南京残虐事件(レイプ・オブ・ナンキン)に松井大将は関係があるか。
 松井大将が命じたものではないが、彼の部下が史上最悪の残虐行為をやったのである。
 松井はそれを知ってやめさせる命令を出したと思うか。
 あとで松井はわたしに、やめさせるため全力をつくしたが、力が足りなかった、責任を感じると話した。
 松井は責任者を処罰したか。
 イェス。しかし処罰は軽いもので、マネゴト程度にすぎなかった。松井は南京占領と同時に講和しようと考えていたが、この事件でだめになってしまったと語った。
 松井は責任者の名前を言ったか。
 中島(今朝吾)第十六師団長の名をあげ、この部隊は上海の日本商店すら掠奪した、と怒っていた。
 他にもいるか。
 谷寿夫中将、佐々木到一中将である。とくに佐々木が悪かった。
 陸軍は事件の調査をやったことがあるか。
 イェス、憲兵隊が実施し、わたしはその報告書を読んだ。
 それによって軍法会議が開かれたか。
 十四年春、我々は松井大将、中島師団長を軍法会議にかげるよう主張したが、中島(鉄蔵)参謀次長の猛反対で実現しなかった。
 この件で松井と会ったか。
 彼は兵務課長だったわたしを二度訪ねてきた。彼は大アジア主義者で米英との開戦を主張していた。
 あなたが事件のことを初めて知ったのはいつか。
 十三年三月頃だ。私は朝鮮で連隊長をしていたが、松井軍の参謀から同じ師団の連隊長へ移ってきた長勇大佐から聞いた。
 彼は何と言ったのか。
 南京東方の鎮江付近で多数の捕虜を殺したこと、兵士たちの強姦があまりひどいので慰安所を開設した、と述べた。
 ティンパーリーの著蓄、石川という小説家の作品を知っているか。
 聞いたことがある。石川が書いたのは真実だと思う。


以上のの、一行一行を順番に確認していけば、南京事件があったか無かったかは、わりと簡単に明瞭になるような気がしています。わたしは、二人の田中君や、東中野君に惑わされて、凄い遠回りの道に誘導されちゃってるかもしれません。

秦郁彦さんのリズミカルな筆致が、フォローします。


田中は他にも、中島師団長が蒋介石の私財を内地に送りこんだのを憲兵に摘発させたエピソードなどを紹介しているが、彼のこうした率直すぎるほどの内部告発で、検事団は事件の責任関係について輪郭をつかみ、かねてからの心証を補強したと思われる。

ところが責任者として松井、中島、谷(第六師団長)、佐々木(中島の支隊長)、長という顔触れがそろったとはいえ、長は沖縄で戦死、中島は終戦直後に病死、佐々木はソ連抑留中で、残るは松井と谷の二人にすぎなかった。あえて加えれぱ、松井の下の軍司令官だった朝香宮鳩彦(やすひこ)王中将(上海派遣軍)と柳川平助中将(第十軍)の二人がいたが、柳川は病死し、朝香宮は天皇を戦犯にしたいという最高方針が決ったことで対象圏外に去った。

三月二目から英国、中国などおくれて到着した各国検事も交え、検事会議でA級被告の選定審査が始まった。十一日の会議で、日中戦争を担当したモロー米検事は、「朝香宮を非難するのではないが、南京を掠奪」たのは朝香宮が軍司令官だった部隊だった」という松井の陳述を紹介したのち、松井を被告に選定せよと主張した。

これに対し、根拠がやや弱いとの異論が出て結論は留保されたが、最終的に松井は二八人のA級被告に加えられ、谷はB・C級として中国軍事法廷へ引き渡すことで決着した。


というわけで、この田中隆吉調書は、いわば、「南京事件シノプシス」ともいえるものだ、と秦さんはいっています。

※以上、「たなか君」を下賜くださったJa2047さんへのお礼を兼ねて投稿しました。
※10/9 00:18、一部修正しました。
145 hits

[3368]Re(1):田中隆吉訊問調書
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 eichelberger_1999 E-MAIL  - 06/10/9(月) 14:32 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>皆さんへのお願いは、ロッキード事件で田中さんを有罪に導く骨格を作ったコーチャン証言にも似た田中隆吉証言の内容が、今みなさんの研究レベルによってどのように評価されるべきかを、ぜひ述べていただきたいのです。


 ピッポさんの要請に対するお答えになりませんが、田中の供述について、補足させていただきます。

 秦『南京事件』が刊行されたあと、極東国際軍事法廷検察局がおこなった、田中隆吉に対する尋問の調書は日本語に翻訳されました。粟屋憲太郎・安達宏昭・小林元裕編、岡田良之助訳『東京裁判資料 田中隆吉尋問調書』(大月書店、1994年)がそうです。

 今手もとに同書がないので、確認できないのですが、数年前に読んだときにつくった摘要がありますので、ご参考までに紹介しておきます。
 なお、調書原文そのものはかなりの長文でして、一問一答形式でつくせるものではありません。秦本の紹介もじつは調書の要約というべきものです。

 南京大虐殺に関係するのは、1946年3月22日と1946年5月24日の2回です。まず、1946年3月22日のほうを紹介します。

A:1946年3月22日の田中供述の要約

1.松井が命令しなかったにもかかわらず、彼の部下たちは「世界史上最もひどい残虐行為」を犯した。

2.松井はどのような事態が起こったか知っていた。田中が陸軍省兵務課長をしていた時【eichelberger_1999の注:田中の兵務課長は、1939年1月から40年3月まで】、南京戦の参加者であった第16師団長中島今朝吾中将の略奪容疑(蒋介石の住居から大量の財宝を日本に持ち帰った)の調査を命じられ、松井大将にも事情を聞いた。
 その際、松井は中島が松井の命令を無視して掠奪をはたらいたことを認めるとともに、南京事件についても田中に語り、「私(松井)は、それをやめさせるために、できるだけのことはすべてしたのだが、しかし、私の力ではどうすることもできなかった。したがって、私は、その責任を負わなければならないだろう」と述べた。

3.松井は、部下の何人かを処罰したが、その処罰は軽く、形式的なものにすぎなかったと言わざるをえない。

4.松井は蒋介石がトラウトマンによる和平斡旋を拒否したのは、南京での日本軍の残虐行為が原因であると考えており、そのことを田中に語った。

5.松井は残虐行為をやめさせたいと望んでいたが、あれが精一杯であったと田中に何度も述べた。

6.松井は田中に、残虐行為の責任者として、中島第16師団長を名指ししたことがある。

7.松井の部下で田中が責任ある者として名をあげたのは、谷寿夫第6師団長、佐々木到一第33旅団長。ほかに柳川と朝香宮をあげている。【eichelberger_1999の注:これはこの二人が残虐行為をはたらいたというのではなく、この二つの軍(上海派遣軍と第10軍)が残虐行為をはたらいたという意味であろうと思われる】

8.事件後憲兵隊が調査をおこない、田中のもとに報告書が提出された。

9.田中らはその報告にもとづき松井以下を軍法会議で処罰するよう主張したが、陸軍首脳部(参謀本部)の反対でうやむやになってしまった。 

 このように、田中は日本軍が南京で「世界史上最もひどい残虐行為」を犯したことを認めており、そのことを当時の日本軍中枢部も知っていたと述べています。さらに事件の責任者として高級指揮官クラスの軍人を名指しであげています。
 ただ、中支那方面軍司令官松井石根大将については、松井は残虐行為のあったことを知ってはいたが、それ松井の命令によるものではなく、部下が勝手におこなったものであると弁護し、松井をはそれをやめさせたいと思っていたが、部下をコントロールできなかったと、主張しています。

 ところが、1946年5月24日の供述では、松井に対する発言が変わります。

B:1946年5月24日の田中の供述

10.田中が兵務課長時代に、中島第16師団長の掠奪行為を取り調べたとき、南京で大量虐殺のあったことを知った。この件で松井にも事情を聞いたが、松井は「大量虐殺」については「知らない」と答えた。

11.中島は中国から高価な美術品・骨董品・家具を大量に持ち帰った。京都憲兵隊に命じて事実をつきとめ、品物の中国への返還を命じた。

12.田中が大量虐殺のことを知ったのは1938年3月で、上海派遣軍参謀であった長勇中佐から聞いた。長は朝鮮軍司令部で南京戦について講演をし、その時南京東方の鎮江で多数の捕虜をどのような方法で殺害したのかを語った。また、長は将兵があまりにもしばしば強姦するので、それを防ぐために南京に売春宿を開設したとも語った。ただし、長はその時捕虜の殺害については語ったが、一般人の殺害については言及しなかった。

13.1943年8月に松井大将の別荘で南京事件について話をし、それが真実であるかどうか質問したが、松井はそれに関しては何も知らなかったと言い、話を聞いて非常に驚いていた。また、この時田中は松井から、蒋介石が和平に応じなかったのは、南京における日本軍の行為を知り、憤慨したためであるとの話を聞いた。

14.田中が兵務課長時代、南京事件について憲兵隊に調査を命じたことも、報告書を受け取ったこともない。

 すなわち5月の供述では、松井は南京で「大量虐殺」があったことを知らなかったと、前回の言明の一部を否定する供述をおこなっています。また、憲兵隊の調査についても否定しています。いっぽうで、中島師団長の非行や長参謀の捕虜殺害や慰安所設置の話を供述していることから、南京で「残虐行為」があったこと自体は認め続けています。

 つまり、この時には、最初の松井弁護の方針を変更して、「松井や軍中央は事件を把握していたが、それを止めることはできなかったし、処罰もできなかった」から、「松井や軍中央はそもそも事件を知らなかったのだから、それを止めることもできなかったし、処罰も問題とはならなかった」に論点をずらしたことがわかります。
 田中の南京事件に関する検察訊問への供述が変化していることは、最近刊行された粟屋憲太郎『東京裁判への道』上(講談社選書、2006年)でも指摘されています。

 松井は1945年11月に南京事件を主たる容疑として逮捕されていますが、その起訴を国際検察局が確定するのは、1946年4月1日と4月8日の会議です。つまり、田中の2回の供述の間に、松井の起訴確定がはさまっているわけです。

 ところで、秦氏は田中はA級戦犯クラスだと指摘していますが、田中が検察当局に免責保証(戦犯容疑者として逮捕されない)と身の安全を求めたのは事実ですが、田中の経歴からしてはたして彼がA級戦犯として逮捕・起訴されたかどうかは疑問です。
 じっさい、GHQの逮捕者リストをはじめ、連合国側の用意した逮捕者リストには彼の名前があがっていません(粟屋憲太郎『東京裁判論』大月書店、1989年による)。その中には彼が新聞紙上で暴露記事を公表する前のものも含まれています。検察局もどうやら最初から彼を戦犯容疑者ではなく情報提供者としてマークしていたようです。
188 hits

[3375]Re(2):田中隆吉訊問調書
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 ピッポ E-MAIL  - 06/10/10(火) 12:55 -

引用なし
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   ▼eichelberger_1999さん:
> ピッポさんの要請に対するお答えになりませんが、田中の供述について、補足させていただきます。

> 秦『南京事件』が刊行されたあと、極東国際軍事法廷検察局がおこなった、田中隆吉に対する尋問の調書は日本語に翻訳されました。粟屋憲太郎・安達宏昭・小林元裕編、岡田良之助訳『東京裁判資料 田中隆吉尋問調書』(大月書店、1994年)がそうです。

> 今手もとに同書がないので、確認できないのですが、数年前に読んだときにつくった摘要がありますので、ご参考までに紹介しておきます。
> なお、調書原文そのものはかなりの長文でして、一問一答形式でつくせるものではありません。秦本の紹介もじつは調書の要約というべきものです。

eichelberger_1999さん
詳しいフォローありがとうございます。

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