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[2299]みんなの協力で教育基本法改定を阻止しよう つよぽん 06/3/27(月) 1:08
[2302]Re(1):みんなの協力で教育基本法改定を阻止しよう とほほ 06/3/29(水) 10:46
[2507]Re(1):みんなの協力で教育基本法改定を阻止しよう SASKE 06/5/15(月) 0:47
[2509]Re(1):みんなの協力で教育基本法改定を阻止しよう やじろべえ 06/5/15(月) 20:00
[2514]Re(2):みんなの協力で教育基本法改定を阻止しよう パルミーロ 06/5/16(火) 17:30
[2517]少々、感情的ではないかと gallery 06/5/17(水) 1:44
[2519]Re(1):少々、感情的ではないかと パルミーロ 06/5/17(水) 14:18
[2524]Re(2):少々、感情的ではないかと やじろべえ 06/5/19(金) 9:31
[2539]Re(3):少々、感情的ではないかと 指環 06/5/22(月) 21:05
[2589]Re(4):少々、感情的ではないかと やじろべえ 06/6/5(月) 18:16
[2591]Re(5):少々、感情的ではないかと うさぎ 06/6/5(月) 21:55
[2597]Re(6):少々、感情的ではないかと やじろべえ 06/6/7(水) 11:46
[2538]Re(3):みんなの協力で教育基本法改定を阻止しよう 指環 06/5/22(月) 21:00
[2541]Re(4):みんなの協力で教育基本法改定を阻止しよう とほほ 06/5/22(月) 22:07

[2299]みんなの協力で教育基本法改定...
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 つよぽん WEB  - 06/3/27(月) 1:08 -

引用なし
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   はじめましてつよぽんです。教育基本法改定反対について自作呼びかけ文ができたので勝手にのせちゃいます(すみません)

 教育基本法に「愛国心」「伝統」が載ろうとしています。その後には、学習指導要領に愛国心教育・伝統教育の内容が詳細に載り画一的に広がるでしょう。

 学習指導要領に載っている「正しい」愛国心・「正しい」伝統に日本全土が包み込まれるます。その結果どうなるでしょうか。正しさには、道徳的なものも含まれるから田縣神社の「扁之古祭」のような教育上よろしくない伝統文化は教えられません。毎年死者をだすようなお祭りも同様です。そして、改定論者は、神話大好きだから洪水を歯止めたところから「歯の神様」になった大阪の「歯神社」(祭神 歯神大神)のような神話にルーツを持たない地元の神様は教育内容からもれます。その結果、高天原は知っているけれど地元の神社は知らないよという子どもだらけになります。政府によって公認された文化だけが残りあとは廃れる可能性があります。

 また、彼らにとっての「伝統」の家族には働く女性がいなくすべての母親は専業主婦です。女性が働くことは、教育上否定されます。母子家庭や「3ちゃん農業(じいちゃん・ばあちゃん・かあちゃん)」に頼る農家、夫婦でがんばっている八百屋、おばあさん一人でやっているタバコ屋・共働きでがんばっている夫婦は間違った家族形態とされます。教育上正しい家族を目指せば、収入減は確実で離農・廃業が起こり農村の過疎化と商店街のシャッター通化します。都市に人間が集中し失業率があがり都市の一部ではスラム化が起こります。スラム化により貧富の格差が拡大し犯罪が増加します。専業主婦や専業主夫は生き方の一つとして認めますが、専業主婦・専業主夫になれない層・職業は死ねということですか。あと、彼らは母性論者なので父子家庭も否定されます。

 愛国心は愛「郷」心ではなくあくまで愛「国」心なので、愛国心教育で育った子ども達は国のためなら自分の育ったふるさとは捨てるかもしれません。国のためのダム・道・発電所を造るためなら、故郷の自然・歴史遺跡などを破壊するかもしれません。そして、誰もふるさとをかえりみなくなるかもしれません。愛郷心を失った若者はもはや田舎にとどまる理由はなくなり、「不便」な田舎を捨てて都会に出て行くでしょう。

 教育で得る「知識」だけでこれだけの問題を引き起こす可能性があるのです。では次に、心を見ていきましょう。

 教育基本法や学習指導要領に「伝統」や「愛国心」が載れば評価の対象になります。しかし、人が他人の心を評価することは難しいため行動を評価することになります。学習指導要領に従って教師がしゃべった内容にただ従う生徒だらけになります。言われたこと以外のことをやると減点されるかもしれないので言われたことしかしなくなります。その結果自分で考えることをしなくなり、いわれた通りやるいい子ちゃん達は上司の言うことは良く聞くかもしれませんが技術革新(イノベーション)の時代には対応できません。なので、上に言われないとできないので指示待ち族や寄生虫社員(パラサイト社員。あらゆる個人の決定を会社や上司にゆだねる社員)が増え彼らは何の発想を会社にもたらさず会社のお荷物になります。もちろん、模倣なしの発明はありませんが、模倣しかしないものにじゃ発明はありません。

 農村・漁村の皆さん。教育基本法改定は「過疎化」をもたらします。これを推し進めようとする保守政党を支持するのをやめて改定に反対しましょう。地方の伝統文化継承に励んでいる皆さん地域の神社の神主さん寺の住職さん、この改定は「地域文化を破壊」します。この改定に地域文化の保護を期待してはいけません。ふるさとが忘れられる前にこの改定に反対しましょう。母子家庭・父子家庭・農家・漁師・商店街でがんばっている皆さん。この改定は、あなた方の「仕事・生き方を否定」します。改定されたこの法律の考え方が日本の常識となればそれに反する生き方をするあなた方は日本の爪弾き物になります。誤った常識が広がる前にこの改定に反対しましょう。毎日毎時間、刷新に励んでいる会社経営者の皆さん。改定されたこの法律で育った子どもはいい方は悪いですが「奴隷のような若者を生産」します。言われたことしかしない頭の固い社員は会社の刷新または向上の妨げです。自分の会社を倒産させる前に、この改定に反対しましょう。この法律は、貧富の格差を拡大させ、犯罪を増加させます。日本の心あるみなさんこの改定に反対しましょう
16 hits

[2302]Re(1):みんなの協力で教育基本...
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 とほほ E-MAIL  - 06/3/29(水) 10:46 -

引用なし
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   ▼つよぽんさん:
>はじめましてつよぽんです。教育基本法改定反対について自作呼びかけ文ができたので勝手にのせちゃいます(すみません)

ようこそ思考錯誤へ(^.^)
歓迎いたします。

> 教育基本法に「愛国心」「伝統」が載ろうとしています。その後には、学習指導要領に愛国心教育・伝統教育の内容が詳細に載り画一的に広がるでしょう。

そもそも、「子供に愛国心を持たせるために教育する」と言う考え方が本末転倒しているのです。子供に愛国心を持たせるためには教育ではなく、国家が愛国心がもたれるような国家社会に変わらねばならないのです。

伝統の押し付けも論理矛盾です。伝統とは常に発展していくものであり、その時代その時代で伝統の中にある悪性を排除し、より良い伝統に発展していきます。日本の伝統文化を馬鹿にしている子供など一人もいません。ただ、つまらないだけです(笑)
歌舞伎ファンには失礼かもしれませんが(^^;
あんなもの私も見ていて全くつまらないです。最近若手歌舞伎俳優がいろんな工夫をしているようです。こうした工夫こそが必要なことであり。落語人気が衰えないのもその辺でしょう。

私もある伝統を打破したグループの一人です。たいした伝統ではないですが高校時代運動部に所属してましてその伝統である体罰を私の代では一切廃止したのです。私の代が歴代でも最高の成績を収めることができたのでそれが通用したのかもしれませんが、伝統と言う言葉にむやみに惑わされてはいけません。
23 hits

[2507]Re(1):みんなの協力で教育基本...
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 SASKE E-MAIL  - 06/5/15(月) 0:47 -

引用なし
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   ▼つよぽんさん:
 趣旨に賛同いたします。

 既に法案は提案され、また、民主党の更なる右よりのも提案されていて、与党と民主党のすり合わせが出来れば、現教育基本法とはまったく別物の、時代に逆行したものが出来上がります。
 その危険性が、急速に国民の間に知られなければと思います。

 日本教育法学会教育基本法研究特別委員会 編法案に対するコメント
同学会の記者会見用逐条解説版
勉強になります。
34 hits

[2509]Re(1):みんなの協力で教育基本...
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 やじろべえ  - 06/5/15(月) 20:00 -

引用なし
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   教育基本法改悪には絶対反対です。

徳目教育など論外で、もってのほかと言う以外に
ありません。
そんな個人の良心に踏み込むことを一体だれが
政府に許したのか?

何を国民から付託されているのか全く理解せず、
自らを道徳的権威者のように国民の上に置いて
恬として恥じない議員・公務員は全員即刻職を返上すべき。

関係が薄いように思われるかもしれませんが、
刑事裁判での「情状酌量」。
これも思想・心情を権力が裁くものであり、本来は
許してはならないものだと考えます。
こういうところに私たちはあまりにも甘かったのではないか。
そういうことが積み重なっての今日だと
思えて仕方がありません。

個人の尊厳、精神の自由は、誰のどんな場合であれ、
一貫して守るべく闘わねばならないのだと肝に銘じています。
26 hits

[2514]Re(2):みんなの協力で教育基本...
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 パルミーロ  - 06/5/16(火) 17:30 -

引用なし
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   久しぶりに投稿します。パルミーロです。

▼やじろべえさん:
>関係が薄いように思われるかもしれませんが、
>刑事裁判での「情状酌量」。
>これも思想・心情を権力が裁くものであり、本来は
>許してはならないものだと考えます。

たしかに。「情状酌量」は、問題のある制度ですね。アメリカの場合は、たとえば、この間、メーン州で、メーガン法で住所を公開されている性犯罪前歴者二人が、射殺された事件があり、犯人は警察に追い詰められてピストル自殺したという事件がありましたが、もし犯人が、生け捕りにされた場合、まず、性犯罪者の情報を手に入れ、拳銃を用意して殺害したわけですから(しかも犯人と思しき人物はカナダ人。おそらくはわざわざカナダからメーンまで殺しに来たということになる)、たとえ被害者家族であっても、同一州で二件の第一級殺人(謀殺)ですから、逐次執行の終身刑または25年以上の刑二回という判決が出たものと思われます。このように、アメリカでは、情状酌量はきわめて狭い範囲でしか行われません。そのかわりに、重罪は細かく分類され、殺人、誘拐、暴行などは第一級から第三級まで分けられています。第二級以下の殺人(計画性のない殺人、衝動殺人、傷害致死など)の場合には、最初から死刑や仮釈放なしの終身刑は排除されます。
その一方で、異常に重いものもある。
以前テレビで放送された『CSI:科学捜査班』というドラマで、金持ちの男が12歳の自分の娘をレイプしたことが発覚し、男が司法取引を要求すると、主人公が「それはできない。ネバダ州の法律で禁止されているんだ。ネバダでは、14歳以下に対する性的虐待には、取引は一切認められない。例外なく終身刑だ!」と、言い放ちます(ちなみに、フロリダでは、死刑の可能性もあるそうです)。こうなれば、「いい弁護士をやとって云々」は通用しません。アメリカの法制度に色々問題があるのも確かですが、重罪審理では特に、人治的側面が介入しないようにできています。
ひるがえって、日本の刑法は、軽犯罪はともかく、重罪に量刑の幅が大きいことが目に付きます。殺人の量刑は、199条で、「死刑又は無期若しくは五年以上の懲役」(改正前は三年以上)となっています。五年と死刑では天地の差です。つまり、情状によって判決に天地の差が出る可能性があるということです。実際、国家権力にとって有用な殺人が軽く裁かれた例がありました。山本宣治暗殺です。彼は、治安維持法に最後まで抵抗した衆議院議員でした。1929年3月5日、東京・神田の彼の定宿に乗り込んできた右翼団体構成員黒田保久ニによって殺害されました。犯人はに対する判決は、懲役12年。謀殺行為としては異常に軽いと言わざるを得ません。本島元長崎市長暗殺未遂犯に対する判決は12年で、同じ。石井議員殺害犯は無期懲役。「建国義勇軍事件」で、田中均宅に爆弾モドキ(笑)を仕掛けた犯人は懲役13年。これらとくらべても、極めて軽いと言えます。アメリカならば、殺害対象がだれであれ、謀殺は死刑か終身刑です。量刑の幅の広さは、権力に逆利用される可能性もあるのです。もちろん、私は死刑のみのような厳罰化は主張しません(中国じゃないんだから。第一私は死刑廃止論者)。量刑の幅の狭い条項をいくつもつくればよいのです(ちなみに、明治時代にはじめて刑法ができたときは、謀殺、故殺と言う具合に結構細かかったのですが、未遂罪は必ず減刑しなければならなかったので、大津事件の犯人津田を死刑にできなかった。このことがあって、その後の刑法改正で、現在のように殺人罪が一本化され、未遂でも減刑しなくてもよくなったのです。ある意味、大津事件は日本行刑史のターニングポイントだったのかもしれません)。

>個人の尊厳、精神の自由は、誰のどんな場合であれ、
>一貫して守るべく闘わねばならないのだと肝に銘じています。
情状酌量には、この点も問題もありますね。同じ殺人でも「気に入らないから死刑」、「気に入ったから5年」では、法治とはいえないし、山本宣治殺害のように、刑を軽くすることで、被害者を意図的に貶めることも可能なのですから(昔見たサスペンスドラマで、こういうのがありました。主人公の弁護士が、依頼人の無実をあきらかにし、法廷で真犯人に自白させるのですが、真犯人が、「仕方なかったんだ!」と言ったのに対し、主人公は、「仕方なく殺されてたまるか!」)。
あと、アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』では、「殺人」は、次のように表現されています。「一人の人間を他の人間が殺すこと。四種類の殺人、つまり凶悪な殺人、許していい殺人、正当と認められる殺人、賞賛に値する殺人とがあるが、どの種の殺人であろうと殺される人間にとってはたいした違いはない。−こうした分類は法律家には都合よいだろうがだ」(角川文庫版、170頁)。

教育基本法の問題からは外れてしまいましたが、何らかの参考になれば幸いです。
25 hits

[2517]少々、感情的ではないかと
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 gallery E-MAIL  - 06/5/17(水) 1:44 -

引用なし
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   ▼パルミーロさん:
>久しぶりに投稿します。パルミーロです。
>
>▼やじろべえさん:
>>関係が薄いように思われるかもしれませんが、
>>刑事裁判での「情状酌量」。
>>これも思想・心情を権力が裁くものであり、本来は
>>許してはならないものだと考えます。
>
>たしかに。「情状酌量」は、問題のある制度ですね。アメリカの場合は、たとえば、この間、メーン州で、メーガン法で住所を公開されている性犯罪前歴者二人が、射殺された事件があり、犯人は警察に追い詰められてピストル自殺したという事件がありましたが、もし犯人が、生け捕りにされた場合、まず、性犯罪者の情報を手に入れ、拳銃を用意して殺害したわけですから(しかも犯人と思しき人物はカナダ人。おそらくはわざわざカナダからメーンまで殺しに来たということになる)、たとえ被害者家族であっても、同一州で二件の第一級殺人(謀殺)ですから、逐次執行の終身刑または25年以上の刑二回という判決が出たものと思われます。このように、アメリカでは、情状酌量はきわめて狭い範囲でしか行われません。そのかわりに、重罪は細かく分類され、殺人、誘拐、暴行などは第一級から第三級まで分けられています。第二級以下の殺人(計画性のない殺人、衝動殺人、傷害致死など)の場合には、最初から死刑や仮釈放なしの終身刑は排除されます。
>その一方で、異常に重いものもある。
>以前テレビで放送された『CSI:科学捜査班』というドラマで、金持ちの男が12歳の自分の娘をレイプしたことが発覚し、男が司法取引を要求すると、主人公が「それはできない。ネバダ州の法律で禁止されているんだ。ネバダでは、14歳以下に対する性的虐待には、取引は一切認められない。例外なく終身刑だ!」と、言い放ちます(ちなみに、フロリダでは、死刑の可能性もあるそうです)。こうなれば、「いい弁護士をやとって云々」は通用しません。アメリカの法制度に色々問題があるのも確かですが、重罪審理では特に、人治的側面が介入しないようにできています。
>ひるがえって、日本の刑法は、軽犯罪はともかく、重罪に量刑の幅が大きいことが目に付きます。殺人の量刑は、199条で、「死刑又は無期若しくは五年以上の懲役」(改正前は三年以上)となっています。五年と死刑では天地の差です。つまり、情状によって判決に天地の差が出る可能性があるということです。実際、国家権力にとって有用な殺人が軽く裁かれた例がありました。山本宣治暗殺です。彼は、治安維持法に最後まで抵抗した衆議院議員でした。1929年3月5日、東京・神田の彼の定宿に乗り込んできた右翼団体構成員黒田保久ニによって殺害されました。犯人はに対する判決は、懲役12年。謀殺行為としては異常に軽いと言わざるを得ません。本島元長崎市長暗殺未遂犯に対する判決は12年で、同じ。石井議員殺害犯は無期懲役。「建国義勇軍事件」で、田中均宅に爆弾モドキ(笑)を仕掛けた犯人は懲役13年。これらとくらべても、極めて軽いと言えます。アメリカならば、殺害対象がだれであれ、謀殺は死刑か終身刑です。量刑の幅の広さは、権力に逆利用される可能性もあるのです。もちろん、私は死刑のみのような厳罰化は主張しません(中国じゃないんだから。第一私は死刑廃止論者)。量刑の幅の狭い条項をいくつもつくればよいのです(ちなみに、明治時代にはじめて刑法ができたときは、謀殺、故殺と言う具合に結構細かかったのですが、未遂罪は必ず減刑しなければならなかったので、大津事件の犯人津田を死刑にできなかった。このことがあって、その後の刑法改正で、現在のように殺人罪が一本化され、未遂でも減刑しなくてもよくなったのです。ある意味、大津事件は日本行刑史のターニングポイントだったのかもしれません)。
>
>>個人の尊厳、精神の自由は、誰のどんな場合であれ、
>>一貫して守るべく闘わねばならないのだと肝に銘じています。
>情状酌量には、この点も問題もありますね。同じ殺人でも「気に入らないから死刑」、「気に入ったから5年」では、法治とはいえないし、山本宣治殺害のように、刑を軽くすることで、被害者を意図的に貶めることも可能なのですから(昔見たサスペンスドラマで、こういうのがありました。主人公の弁護士が、依頼人の無実をあきらかにし、法廷で真犯人に自白させるのですが、真犯人が、「仕方なかったんだ!」と言ったのに対し、主人公は、「仕方なく殺されてたまるか!」)。
>あと、アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』では、「殺人」は、次のように表現されています。「一人の人間を他の人間が殺すこと。四種類の殺人、つまり凶悪な殺人、許していい殺人、正当と認められる殺人、賞賛に値する殺人とがあるが、どの種の殺人であろうと殺される人間にとってはたいした違いはない。−こうした分類は法律家には都合よいだろうがだ」(角川文庫版、170頁)。
>
>教育基本法の問題からは外れてしまいましたが、何らかの参考になれば幸いです。


情状酌量において「思想」が評価の対象になるのは、確かに許されません。
「法律とは、自在 に伸び縮みするモノサシのごとく」といったのは、毛沢東。
ナチスも、刑法の拡大解釈により次々と反対者を刑務所送りにした実例はあります。
あと、死刑と無期懲役との間に量刑の差があり過ぎるという問題は確かにありましょう。
 〔個人的には、終身刑を設定すべきだと思います。死刑制度には反対。〕

しかし、現在の刑法においては拡大解釈は決して許されておりません(罪刑法定主義)。
情状酌量の余地を削減すれば、犯罪者は罪刑法定主義に従い、条文に書かれた刑罰を
機械的に適用されるだけ。実は法律家(特に判事)にとっては非常に「楽」なのです。
元々は、「目には目を、歯には歯を」のような原理主義的応報刑論からスタートした
刑法理論が、その後、より人間的・社会的に発展したのが、現在の刑法典でして。
それを元に戻すとなると、果たして現実に即した柔軟な対応ができるのかな、と。

例えば、最近多い犯罪としては、親戚友人に借金しまくりの多重債務者〔妻子有〕が
どうしても返済しなければ、と強盗し殺人までイッてしまったケース(強盗殺人)。
これを、愉快犯・確信犯的な強盗殺人と同一視できるかどうか。
殺される人間にとっては同じだといえば、確かにそうなのですが。

更に、現在の日本で顕著な問題となっておるのが、国民が被害者感情への同情から、
義憤と私憤を混同して犯人に過剰な憎しみを抱き、厳罰化傾向に拍車がかかる現象。
http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10012353519.html

安易に国家権力を民間に誘致し、自らの権利を自縛しようとする、危険な傾向だと。
ついでに、厳罰化による犯罪抑止効果が少ないことも、アメリカで立証されております。

「敵を憎むな。判断を誤る」(『ゴッドファーザーPart.3』)
46 hits

[2519]Re(1):少々、感情的ではないか...
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 パルミーロ  - 06/5/17(水) 14:18 -

引用なし
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   どうも、パルミーロです。
▼galleryさん:
>
>情状酌量において「思想」が評価の対象になるのは、確かに許されません。
>「法律とは、自在 に伸び縮みするモノサシのごとく」といったのは、毛沢東。
>ナチスも、刑法の拡大解釈により次々と反対者を刑務所送りにした実例はあります。
>あと、死刑と無期懲役との間に量刑の差があり過ぎるという問題は確かにありましょう。
> 〔個人的には、終身刑を設定すべきだと思います。死刑制度には反対。〕
>
>しかし、現在の刑法においては拡大解釈は決して許されておりません(罪刑法定主義)。
>情状酌量の余地を削減すれば、犯罪者は罪刑法定主義に従い、条文に書かれた刑罰を
>機械的に適用されるだけ。実は法律家(特に判事)にとっては非常に「楽」なのです。
>元々は、「目には目を、歯には歯を」のような原理主義的応報刑論からスタートした
>刑法理論が、その後、より人間的・社会的に発展したのが、現在の刑法典でして。
>それを元に戻すとなると、果たして現実に即した柔軟な対応ができるのかな、と。
>
>例えば、最近多い犯罪としては、親戚友人に借金しまくりの多重債務者〔妻子有〕が
>どうしても返済しなければ、と強盗し殺人までイッてしまったケース(強盗殺人)。
>これを、愉快犯・確信犯的な強盗殺人と同一視できるかどうか。
>殺される人間にとっては同じだといえば、確かにそうなのですが。
>
>更に、現在の日本で顕著な問題となっておるのが、国民が被害者感情への同情から、
>義憤と私憤を混同して犯人に過剰な憎しみを抱き、厳罰化傾向に拍車がかかる現象。
>http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10012353519.html
>
>安易に国家権力を民間に誘致し、自らの権利を自縛しようとする、危険な傾向だと。
>ついでに、厳罰化による犯罪抑止効果が少ないことも、アメリカで立証されております。
>
>「敵を憎むな。判断を誤る」(『ゴッドファーザーPart.3』)

 ごもっともです。
 この辺が、刑事法の難しいところです。アメリカと全く同じにするわけにはいかないでしょう。とくに今の日本政府は、外国の悪いところばかりを取り入れる傾向があるので。
 「拡大解釈」という点から言えば、私は、被告の有利となる解釈は極端なものでなければ、OKという立場です(ナチス末期の白バラ事件でも、フライスラー扱い以外の裁判は3年から5年ですみ、のちに連合軍に解放された例があります)。アメリカでも、機械的に適用すれば死刑しかないが、情状酌量の余地がある、という場合、判事や陪審は、「この法は、自然法に反する」として、減刑することが可能です。
 いずれにせよ、この問題には、安易に答えが出せません。ただ、今日の厳罰化傾向は、ろくに整備されていない政府の被害者保護政策の不備に批判が向かないように、誘導されているのではないかと思います。私も、アメリカ的な刑法にするのはちょっと無理があると思いますし、当面は、厳罰化反対と被害者保護・援助の整備を主張すべきでしょう。
28 hits

[2524]Re(2):少々、感情的ではないか...
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 やじろべえ  - 06/5/19(金) 9:31 -

引用なし
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   パルミーロさん、始めまして。
ご意見をありがとうございました。
私には法律の専門的な知識はなく、情状酌量への異議も直感的なもの
ですので、勉強になりました。


>実際、国家権力にとって有用な殺人が軽く裁かれた例がありました。

実例を教えてくださって、ありがとうございます。
そういうところに端的に現れる、ということですね。

私が基本的に「ここがおかしいのでは」と
違和感を持つのは、逮捕後の反省の有無によって
判決が異なるのではないかという点です。

処罰すべき行為は法で定められても、
「反省すべきことは何なのか」、これは個人の良心の問題
ですから、法律で定めたり警察、検察、裁判官、世論など誰であれ
他人が恣意的に決めて押し付けられることではないでしょう。

反省しているから処罰を軽く、反省しないから処罰を重く、
ということを疑問なく正当とする論理と、強制的思想転向
(警察の取調べ室で類似のことは今でも行われているやに聞きます)や
学校で一定の価値観を植えつけようとする論理は、つながって
いると思えます。

さらに言えば、現行の教育基本法が理解されてきたと
は思えないんですよね。
「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび・・」
なんてくだりを読むと、多くの方が
「そんな教育、私はしてもらわなかった」と断言されます。
私も同感です。

これは教育行政の責任ばかりとは言えません。
上記の論理を多くの人が共有してるからだと思えて
仕方がないのです。


まとまらない文章で失礼しました。
今後ともよろしくお願いいたします。
30 hits

[2538]Re(3):みんなの協力で教育基本...
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 指環 E-MAIL  - 06/5/22(月) 21:00 -

引用なし
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   ▼パルミーロさん:
>久しぶりに投稿します。パルミーロです。
>
>▼やじろべえさん:
>>関係が薄いように思われるかもしれませんが、
>>刑事裁判での「情状酌量」。
>>これも思想・心情を権力が裁くものであり、本来は
>>許してはならないものだと考えます。
>
>たしかに。「情状酌量」は、問題のある制度ですね。

 このご主張には同意できません。
 現行刑法の殺人罪(199条)は懲役5年から死刑までの幅広い法定刑になっていて、酌量減刑(67条)あるいは法律上の減刑事由の存在により懲役2年半に減刑することができ(68条3号、71条)、さらに情状により刑の執行を猶予することが可能になっています(25条1項)。
 このように、殺人罪の量刑には裁判官の広い裁量が認められているわけですが、これは殺人には様々なものが考えられることを理由とするもので、これが不当であるとは単純に決めつけられるようなものではありません。

 仮に、量刑の幅を狭め、裁判官の裁量の範囲を制限したりすればどうなるでしょうか? 被告人にどんな同情すべき事情が存在しても、有罪である以上、裁判官は重い刑罰を科さざるを得なくなり、著しく不合理な結果となるでしょう。
  
 例えば、尊属殺重罰規定を違憲無効と最高裁が判断した事件(最大判昭和48・4・4刑集27-3-265)などは、実父に夫婦同様の関係を強いられてきた被告人が虐待にたまりかねて実父を殺害し自首したという事案で執行猶予判決が下されたわけですが、裁判官の裁量の幅がなくなれば、これのような事案ですら重罰を科すことになりかねません。
29 hits

[2539]Re(3):少々、感情的ではないか...
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 指環 E-MAIL  - 06/5/22(月) 21:05 -

引用なし
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   ▼やじろべえさん:
>私が基本的に「ここがおかしいのでは」と
>違和感を持つのは、逮捕後の反省の有無によって
>判決が異なるのではないかという点です。
>
>処罰すべき行為は法で定められても、
>「反省すべきことは何なのか」、これは個人の良心の問題
>ですから、法律で定めたり警察、検察、裁判官、世論など誰であれ
>他人が恣意的に決めて押し付けられることではないでしょう。
>
>反省しているから処罰を軽く、反省しないから処罰を重く、
>ということを疑問なく正当とする論理と、強制的思想転向
>(警察の取調べ室で類似のことは今でも行われているやに聞きます)や
>学校で一定の価値観を植えつけようとする論理は、つながって
>いると思えます。

 それより問題なのは、被告人が黙秘していることを量刑判断に考慮することが許されるのか、という点だと思います。
 学説の多くは、被疑者・被告人の黙秘権行使の事実から不利益な事実を推認することはもちろん、量刑判断上も黙秘権行使の事実それ自体を被告人の不利益に考慮することは許されないが、被告人に反省や悔悟がないことの一資料として量刑判断に考慮することは許されるとしているようです。
 ただ、それが被疑者・被告人の黙秘権保障の点で問題がないかどうか、やや疑問が残るところではあります。
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[2541]Re(4):みんなの協力で教育基本...
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 とほほ E-MAIL  - 06/5/22(月) 22:07 -

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   ▼指環さん:
>>たしかに。「情状酌量」は、問題のある制度ですね。
> このご主張には同意できません。

ひょえー(^^;
指環さんあれだけ飲んだ翌日に元気ですね(笑)
ありがとうございました。大変楽しい夜でしたね(^^ゞ

> 現行刑法の殺人罪(199条)は懲役5年から死刑までの幅広い法定刑になっていて、酌量減刑(67条)あるいは法律上の減刑事由の存在により懲役2年半に減刑することができ(68条3号、71条)、さらに情状により刑の執行を猶予することが可能になっています(25条1項)。

私はこの問題は「罪刑法定原則」と言うものの趣旨・設立概念と言うものが重要な価値観を構築するものだと考えてます。(って、これはOFF会で酔っ払っていいましたっけ?(^^; )
この原則は権力の理不尽な法家主義から市民を守るための原則であることを忘れてはならないのではないでしょうか?

前田朗さんから引用しましょう。
近代市民法においては、事前の法規定立による予告が必須である。予測可能性がなければ、市民の行動の自由は保障されないからである。こうして、事前に定められた犯罪と刑罰の法律としての刑法のみが有効な刑法ということになる。刑罰法規は文字によって書かれた成分の法律でなければならない。そうでなければ、刑罰権限の濫用につながりかねないからである。
従ってこの原則は市民法においては決して否定できません。

『情状の酌量』と言う言葉が「権力に都合の良い解釈によりなされてはならない」がしかし『市民を守るため』の「情状酌量」はあってしかるべき、と言う結論は根幹の議論に参加された皆様に異論は内容に思いますが、いかがでしょうか?
私も参加したいので、その上で、まずこの点を確認しておきたいと思います。
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[2589]Re(4):少々、感情的ではないか...
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 やじろべえ  - 06/6/5(月) 18:16 -

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   指輪さん、始めまして。
私はモノを考えるのに時間がかかる人間でして、
お返事が大変遅くなり失礼いたしました。

まず私には法律論を闘わせる能力はありませんし、
私が違和感を感じている部分は、根本的な「人権感覚」
の部分ですので、従来一般的であるところの人権感覚が
基になっている(であろうと思われる)法律を細かく
考えても、答えが出るとは正直思えないところです。

どんな価値観を持ち、どんな感情を抱くかにまで
権力に口出しされることへの「嫌悪」という感覚の問題だと
言ってもいいかもしれません。
これが希薄なために、現教育基本法の精神が十分に教育現場に
生かされてきたとは言えないし、改悪反対の声が今ひとつ
盛り上がらないのではないか、というのが私の問題意識です。

教育基本法『改正』の国会審議を聞いていて思ったことですが、
国家が道徳教育を行うことは、思想信条の自由の侵害であるとの
指摘に対し、「道徳は思想信条の内に入らない」という趣旨の
答弁が成されました。

これはまさに戦前そのままの考え方です。
悪びれたところもなく堂々と言うのに驚いて、数秒間固まって
しまいましたが、国家が「正当」と認める道徳観を持つことが、
日本人として処遇される(人権を認められる)最低条件だと
いうわけです。

しかし「道徳観」は「思想信条」の範疇ではない、という
呆れたアクロバットを聞いても、さほど違和感がない人が
少なくとも私の周りでは圧倒的多数なのですよね。
これは以前から薄々気づいてはいましたが。

ここに犯罪行為よりも、その内面を裁くかのような
判決に無感覚な(と私には見える)部分が重なります。
判決までいかずとも、例えば軽犯罪では取調べの段階で
反省と恭順の意を十分に示せば、その場で放免されることが
よくあるらしいですが、変な話です。
私がへそ曲がりなのか、「子供じゃあるまいし、バカにすんな」
と思います。

とにかく、このアクロバット的詭弁を多くの人が反発もなく
受け入れるようでは、「思想信条の自由はない、望むべくもない」
ですし、「法の下の平等」も抽象概念に過ぎないし、「個人の尊重」も
あり得ない。→→教育基本法改悪に十分有効な反対を成しえないことは
明らかな帰結のように思えるのですが、いかがでしょうか。


とほほさん、こんにちは。
お体はもうよろしいのですか?

>『市民を守るため』の「情状酌量」はあってしかるべき、と言う結論は根幹の
>議論に参加された皆様に異論は内容に思いますが、いかがでしょうか?

私は「根幹の議論に参加」してないかもしれませんが、一言
言わせていただくならば、『市民を守るため』の「情状酌量」が
「どんな場合」のどんな「情状」かに依存すると思います。

上に少し書いたように、市民を子ども扱いするような処遇に
屈辱を感じないとしたら、それは市民が子供のような状態のままに
とどまっているからではないか、と疑うからです。
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[2591]Re(5):少々、感情的ではないか...
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 うさぎ E-MAIL  - 06/6/5(月) 21:55 -

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   ▼やじろべえさん:
うさぎと申します。ほんのちょっと読んだだけで脊髄反射で
レスしますが、何故多くの人々が「道徳」と思想信条を別に
考えるか、と言えば普通「道徳」といえば人類普遍の徳目を
思い浮かべるからだと思います。勿論そんなものが本当にあるのか、
という哲学的、根源的な問いもあるでしょうが、普通はそれが
「有りそう」だと思う人々が圧倒的だと思います。
 で、問題はそのような徳目は、敢えてレッテルを貼れば「世界市民」が
共有すべきもので、例えばそれこそ教育基本法に「人類普遍」とか
「世界市民として」とか書けば良い事がそうなっていない事だと
思います。
40 hits

[2597]Re(6):少々、感情的ではないか...
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 やじろべえ  - 06/6/7(水) 11:46 -

引用なし
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   うさぎさん、はじめまして。
ご意見ありがとうございます。
長文になってしまいましたが、ご容赦ください。


>何故多くの人々が「道徳」と思想信条を別に
>考えるか、と言えば普通「道徳」といえば人類普遍の徳目を
>思い浮かべるからだと思います。

>普通はそれが「有りそう」だと思う人々が圧倒的だと思います。

>問題はそのような徳目は、例えばそれこそ教育基本法に「人類普遍」とか
>「世界市民として」とか書けば良い事がそうなっていない事だと
>思います。


恐らく無意識裡に前提になさっていることがいくつかあり、その検討がまず
必要だと思います。

1.「人類普遍の徳目」「世界市民として」が何であるかにしろ、
それが本当に人類普遍で世界中で支持されるものであるとの保障は何か?
単に自分(たち)の価値観が世界中で通用するはず、するべきだと
思い込んでいるだけではないのか?
もし通用する何らかのものがあるとしても、それを法律で他人に
強要してもよいと思える根拠は何か?

2.世界観、人間観、人生観に関わる特定の徳目を、学校で習得させる
ことが可能なのかどうか。

3.もし不可能な場合、それでも強制したり教えたりすることでの
子供に与える影響はゼロだと言えるのか。


1.
>普通はそれが「有りそう」だと思う人々が圧倒的だと思います。

に関しては、私もそう思います。
ただ「有りそう」から「法律で一定のものを強制してもよい」までの
距離はかなりありそうですね。

「人類普遍の徳目」というものがどういうものかは置いておくとして、
実態は、ほとんどの人が現代日本に生きる自分個人を基準に
主観的に「人類普遍の徳目」を想定してるんじゃないでしょうか。
自分の道徳観が「人類普遍の徳目」として共有されていると思い込んで
いることが多いように思いますが、それは正しいでしょうか。
もし違っているとしたら、誰がどのように「これが人類普遍」であり、
ある集団の成員全員がそれを認めるべきだ、と決定し、強制できるのでしょう?

もちろん、私は私なりの「人類普遍の道徳」だと考えている道徳観が
ありますし、私はその道徳観に自発的に従って生きています。
私はこの道徳観を他人に強制することはできませんし、もし強制など
したら頭がおかしいと思われるのがオチでしょう。

なぜ政治権力のみは、それを強制することができるという前提を
受け入れることができるのか、私には大変不思議です。

私は「人類普遍の徳目」については、時代により文化により相当
違った内容の表象が、複数の個人の中で変化しつつ複数存在したし、
現在も変化しつつ存在すると思います。
私であれば、人類普遍のものとして完全に同意できるのは人権概念ぐらいです。
(しかしこれは実際のところ、周囲とはほとんど共有できていません。)
それ以外を国家が固定的に規定するなど、まず越権行為ですし
変化し発展する力を社会から奪い去ることです。

加えて能力の点でも、権力にそんな資格はない、と断定してよいのでは
ないかと思います。
人間の道徳観を客観的に比較考量し、あるものを正当、あるものを
間違っている、と断定することができるとしたら、
普通一般の人間を超越した道徳的高みに立つ存在のみでしょう。
言うまでもないことかもしれませんが、日本政府・立法府が他とは
隔絶した道徳的に優れた人間の集まりだとは誰も考えていないのでは
ありませんか。
天皇がまさにそういう存在なのだ、といまだに主張したい人はいるようですが。

近代国家では、個人の私的領域である家庭や思想信条・宗教などの
内心は、政治権力の及ばない聖域であるはずで、
(はず、が日本ではそうじゃないところが困ったところですが)
だからこそ本来民主主義は担保されるとも言えるのではないでしょうか。
もしも政府が洗脳に近い教育や社会統制を行えば、形式だけ参政権を
与えられても、完全に無意味です。
(確か国連の特別報告担当官の声明に似たような内容が述べられていましたね。)
これがつまり「思想信条・信教の自由」の根幹のひとつではないですか?


ちょっと適切な例ではないかもしれませんが、自分(たち)の道徳観が
普遍的なものだと思い込んでいる例として、今思いついたものを挙げてみます。

厚生省を首になった故・宮本政於氏の本に、面白いくだりがありました。
阪神大震災の直後、神戸検疫所に左遷されていた宮本氏が、米国に
講演に行ったそうです。これが厚生省にとっては氏をクビにする
決め手になったのですが、帰国後の記者会見で氏に対し、
「米国では、あんな災害があったのに、厚生省職員が米国で官僚批判の
講演などしている無責任に対して非難の声はなかったのか」と
「米国でも非難されたに違いない」と言いたげな調子で質問した記者がいた
そうです。
しかし宮本氏は「米国人はそんなことは思わない、従って言われもしない」
と書いていました。
日本で守らなかったとして非難されるべき(とこの記者が考えている)
徳目と、米国でのそれとは違うようで、しかも少なくともこの記者は、
自分の徳目が米国でも通用すると思い込んで疑ったことがないのでしょう。
瑣末なことのようですが、これは人の働き方、生き方に関わる
重大な「道徳観の相違」の表れです。


2.
次に、道徳というものが人に教えたり強制することができるものだ、
という点に疑問はお持ちでないのでしょうか?
私は、個人の内面に関しては、何かを多数決や権威によって押し付けた
ところで無駄だと考えますので、「いい」「悪い」の問題ではなく、
「有効か」「無効か」の話です。

人間とは例えば、「〜〜を愛しなさい」と言われて、はいそれでは、と
「愛する」ことができるようなお手軽な存在ではないと思います、
せいぜい努力してできるのは「愛するフリ」が上達することですし、
そこで苦しむのは、「愛とは何か」などの疑問を持つ能力があったり、
自分自身に誠実でありたいと考える言葉の真の意味で「道徳的な」
子供であり、教師ではないでしょうか。


3.
無効だと言うのなら、どう決めてどう書いても別に構わないではないか、
と考える方がいらっしゃるかもしれません。

しかし子供は、年齢が小さければ小さいほど言葉で意味を捉えて
学ぶ存在ではなく、大人のあり方を真似する存在です。
大体小学生ぐらいまではそうした傾向を色濃く持っています。
これは子供を育てた経験がある方ならば、思い当たることが
おありの方もいらっしゃるはずだと思います。

もし大人(教師や親)が道徳的命令や指示を発しつつ、自分自身は
その言葉を真摯に実践していなかったり、実践しているフリをしたり、
時により正反対の言動を繰り返し示せば、子供は言葉を信じなくなり、
模倣によってやがて身につけるのは、大人と同じ、もっともらしい言動をしつつ、
利己主義的・功利主義的に立ち回ること、上位者次第でコロコロ変節する
主体性なき偽善や内省を欠いた状況功利主義ということになります。

・・今書いてて気づきましたが、これはフロムが「権威主義的人格」として
提出したモデルと似ていると言うかほとんど同じですね。
で、ついでに言うと終戦時、こういう人々が続々と正体を暴露したのに
気づいた人もいたようですね。


どだい道徳などというものを、他人様に教えるなどできるわけが
ないと思います。
それもその道徳を全人格をあげて実践できていない人間が
教える、押し付ける、と言うのならばなおさらです。
仏陀でさえ、出会った全ての人に感化を及ぼすことはできなかったのです。
それを権力で縛られ管理された教員を通じて流れ作業的にやれる、
などと本気で空想しているとしたら、つくづく人間性への理解も
人間の尊厳への畏れもないと思わざるを得ません。


特に人格形成途上の子供に、今以上に白々しい「徳目教育」などをやる
ことで(今も相当に無理のある矛盾したタテマエの押し付けが横行して
いるように思いますので)、思春期以降の子供の精神的成長をさらにゆがめ、
様々な神経症、無気力、社会からの引きこもり、冷笑主義、反主知主義、
突発的な暴力や事実・真実を直視するより好悪感情を優先すること等に
見られる人格的未熟さなどなど・・が一層多発することを危惧します。
完全に無効であるならまだしも、積極的に「破壊的」「有害」ではないかと
申し上げているのです。

さらに、官僚的完ぺき主義と拡大再生産的な模倣の性質上、
これは恐らく2〜3世代で社会の狂気と言えるようなところへまで再び
エスカレートする可能性があると思います。書きながら怖いですが。

現に教育勅語という徳目教育を子供たちに叩き込んだ人々、叩き込まれた
子供たちがいた時、どんなことが起きたのか、現在の私たちは
実例には事欠かないのではないでしょうか。
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