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[2322]南京地図 熊猫 06/4/9(日) 9:54
[2323]国都界線図 熊猫 06/4/9(日) 9:56 [添付]
[2324]Re(1):国都界線図 熊猫 06/4/9(日) 21:54 [添付]
[2325]Re(2):国都界線図:民国18年末です 渡辺 06/4/9(日) 22:20
[2326]Re(3):国都界線図:民国18年末です 熊猫 06/4/10(月) 8:55
[2328]Re(4):国都界線図:民国18年末です 渡辺 06/4/10(月) 18:58
[2329]Re(5):国都界線図:民国18年末です 熊猫 06/4/10(月) 22:21
[2330]主語を勘違いしていたようです。 熊猫 06/4/10(月) 22:36
[2334]Re(1):主語を勘違いしていたようです。:南京区画 渡辺 06/4/11(火) 0:58
[2340]Re(2):主語を勘違いしていたようです。:南京区画 熊猫 06/4/12(水) 9:05
[2341]Re(3):主語を勘違いしていたようです。:南京区画 渡辺 06/4/12(水) 12:43
[2382]20世紀に建造された南京の城門 熊猫 06/4/28(金) 13:20 [添付][添付]
[2346]鐘阜門とは、小東門のことです! 熊猫 06/4/17(月) 2:10 [添付]

[2322]南京地図
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 熊猫 E-MAIL  - 06/4/9(日) 9:54 -

引用なし
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   提示した地図は国都界線図です。南京市の地図なのですが浦口だけでなく境界線が、揚子江の北側にあります。
時代が解かりませんので断定は出来ませんが、南京市は私の認識より広かった可能性があります。戦後の地図かも知れません。
25 hits

[2323]国都界線図
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 熊猫 E-MAIL  - 06/4/9(日) 9:56 -

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【添付ファイル】 〜添付ファイル〜
[削除されました]
  
失礼しました。地図の添付を忘れていました(汗)
28 hits

[2324]Re(1):国都界線図
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 熊猫 E-MAIL  - 06/4/9(日) 21:54 -

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【添付ファイル】 〜添付ファイル〜
[削除されました]
  

1928年1月に設立した「首都建設委員会」によって作成されたもののようです。正式な年代は解かりませんでしたが、1928年〜1937年であり戦後の可能性はありませんでした。
1929年12月に国民党政府により「首都計画」が公布された際に、国都界線図があったかどうかが気になるところです。

「国都境界線は、南は牛首山より、北は常家営まで、西は和尚路、東は青龍山とし、境界線の全長は117.2km、面積855ku。」(首都計画:熊猫訳)
200万人都市を構想していました。
今回も出血大サービスで最高のURLを紹介します。
http://www.yxl.cn/Info/20060131,232316,2588.html
南京の地理的歴史資料満載!


20 hits

[2325]Re(2):国都界線図:民国18年末...
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 渡辺  - 06/4/9(日) 22:20 -

引用なし
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   ▼熊猫さん:
>

1928年1月に設立した「首都建設委員会」によって作成されたもののようです。正式な年代は解かりませんでしたが、1928年〜1937年であり戦後の可能性はありませんでした。
>1929年12月に国民党政府により「首都計画」が公布された際に、国都界線図があったかどうかが気になるところです。

「国都境界線は、南は牛首山より、北は常家営まで、西は和尚路、東は青龍山とし、境界線の全長は117.2km、面積855ku。」(首都計画:熊猫訳)
200万人都市を構想していました。



南京日本商工会議所『南京』の、6〜8頁に「首都計画」の解説が、境界を示す地図が7頁にあります。「周囲一一七.二粁、面積八五五平方粁」とありますので同じものです。
「...蒋介石は首都建設委員を組織して米人マーフィ、クーリツヂの両技術顧問を聘し、...、彼は民国十八年末首都計画なる一書を編纂し、...」(p.6)
「蓋し右計画はあまりにも広地域に亘るものであつた為建設委員会の評議に登らなかつたものと思はれる」(p.8)とあります
熊猫さんはかなりの貴重品をお持ちのようです。
25 hits

[2326]Re(3):国都界線図:民国18年末...
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 熊猫 E-MAIL  - 06/4/10(月) 8:55 -

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   ▼渡辺さん:
>「蓋し右計画はあまりにも広地域に亘るものであつた為建設委員会の評議に登らなかつたものと思はれる」(p.8)とあります
これは日中戦争のため頓挫しただけであり、計画途上だったのではないかと思います。「首都計画」が作成された時点では6年間で完成させる予定になっていましたが、公共工事が遅れるのは古今東西を問わず珍しいことではありません。
画像検証板で渡辺さんから指摘をされた「漢中門」も「首都計画」によるものなのかも知れません。
1937年6月には、国都界線図またはそれに類する地域が南京市になったのではないかと推測しています。
ラーベの上告書にある7月の南京の人口135万人というのは、荒唐無稽なものではなく南京市の地域を拡大したために増えた部分もあるのではないかと思います。
「日中関係が緊迫したことによる、人口流入と地域拡大による急激な人口増加があった。」残念ながら、まだまだ危険な推測の域を出ていません。

>熊猫さんはかなりの貴重品をお持ちのようです。
誤解をまねいて申訳ございません。画像は南京図書館のURLからのパクリで、景気付けに提示しました。「首都計画」そのものは南京図書館だけではなく、他のURLでも見ることが可能です。
27 hits

[2328]Re(4):国都界線図:民国18年末...
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 渡辺  - 06/4/10(月) 18:58 -

引用なし
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   ▼熊猫さん:
>ラーベの上告書にある7月の南京の人口135万人というのは、荒唐無稽なものではなく南京市の地域を拡大したために増えた部分もあるのではないかと思います。

『南京』は現地の事情に詳しい人が資料に基づいて書いたようで、内容はしっかりしています。この場合は、書かれているとおりに受け取っていいんじゃないでしょうか。
135万は、どの統計から出てきた数字か分かりません。
しかし、首都警察発表の1938年3月の人口は 1,190,667人だったという報道もありますので、全くありえない数字というわけでもないようです。
http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/8/tbuqrf/tbuqrf.html
もっとも、数字が誤植だったということもありえますが。

>誤解をまねいて申訳ございません。画像は南京図書館のURLからのパクリで、景気付けに提示しました。「首都計画」そのものは南京図書館だけではなく、他のURLでも見ることが可能です。

納得(^^)
28 hits

[2329]Re(5):国都界線図:民国18年末...
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 熊猫 E-MAIL  - 06/4/10(月) 22:21 -

引用なし
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   「都市計画」は1929年に公布されていますので、計画に登らなかったというのは間違いと判断するべきではないでしょうか。
46 hits

[2330]主語を勘違いしていたようです...
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 熊猫 E-MAIL  - 06/4/10(月) 22:36 -

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   >「蓋し右計画はあまりにも広地域に亘るものであつた為建設委員会の評議に登らなかつたものと思はれる」
「右計画」というのは、「首都計画」のことではなくて「国都界線」を指しているのではないでしょうか?
42 hits

[2334]Re(1):主語を勘違いしていたよ...
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 渡辺  - 06/4/11(火) 0:58 -

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   ▼熊猫さん:
>>「蓋し右計画はあまりにも広地域に亘るものであつた為建設委員会の評議に登らなかつたものと思はれる」
>「右計画」というのは、「首都計画」のことではなくて「国都界線」を指しているのではないでしょうか?

引用が短すぎたので、もう少し長く転載します。
繁体字の多くは現在の字体に直してありますが、かなづかいはそのままです。[ ]のところは、私が読みをいれました。

---
 扨[さて]、国民政府が南京に都を奠むるや、蒋介石は首都建設委員を組織して米人マーフィ、クーリツヂの両技術顧問を聘し、又国都設計技術専員辧事處を設置して林逸民を其處長とし、彼は民国十八年末首都計画なる一書を編纂し之を首都建設委員会に送り首都建設の参考に供した。次いで翌十九年四月十五日より三日間愈々[いよいよ]首都建設委員会第一次全体会議が開かれ各種計画が討議された。同会議に於て各提案中より採択されたる首都分区計画は劉紀文の提案であつた。然し之は単に主として城壁内の分区計画であつて城外には及んでゐない。
 国都設計技術専員辧事處編の「首都計画」による首都境界線は、別図『南京特別市区画図』に示す様に周囲一一七.二粁、面積八五五平方粁に亘る非常に広大な地域を包含してゐる。之は東及南は霊山、獅子山及牛山等の山峯を以て区画し、西は江北の揚子江沿岸を含めて浦口西方の頂山大頭山等を以て区画し、北は同じく江北の揚子江沿岸をも含めたものである。この計画は第一に天然の山河を利用して水陸交通の便を考慮し、第二に軍事的見地から南京周囲の諸山を入れ、第三には将来南京が政治・交通・商業の中心となるに於ては人口も二百万に達するものと予測し之に必要なる地域を考慮に入れて百年の計を建て(全面積八万五千五百万平方米、周囲十一万七千二百米であるが、右の面積より計算すれば周囲は十万三千八百米となり、約一万三千四百米の差で殆ど円形に近い)、第五に揚子江両岸を区域内に入れ或は村落の中間を区画線が通らぬ様にして法律的・経済的紛糾を避けることとし、第六には南京周囲の名所旧跡を含めて市民の慰安を考慮したものである。然し之は単なる計画に終わり、大会に於て討議された記録がない。蓋し右計画はあまりにも広地域に亘るものであつた為建設委員会の評議に登らなかつたものと思はれる。
 斯くて民国二十三年十月に行はれた各省市区分に於て決定された南京市の区画は、北及西は揚子江を以つて区画し只下関対岸の浦口は之を区画内に入れ、東部は烏龍山より明朝時代外廓の尭化門・仙鶴門・麒麟門・蒼波門・高橋門の諸門を繋ぐ線を以つて画し、南は鉄心橋をつなぎ江岸の大勝関に至る線を以つて区画されたのである。そして城内を八自治区(下関を含む)に分ち城外を燕子磯区(城北)孝陵区(城東南)上新河区(城西南)の三自治区に分つた。
(『南京』pp.6-8)
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37 hits

[2340]Re(2):主語を勘違いしていたよ...
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 熊猫 E-MAIL  - 06/4/12(水) 9:05 -

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   ▼渡辺さん:

わざわざ貴重な資料の提示をしていただき有難うございます。
同会議に於て各提案中より採択されたる首都分区計画は劉紀文の提案であつた。然し之は単に主として城壁内の分区計画であつて城外には及んでゐない。
私はこの部分が理解できなかったから、混乱してしまったのでしょうね。つまり、「首都計画」というのは複数案あって劉紀文の提案が採用されたのであり、「国都界線図」は「首都計画」の複数ある提案の一部でしかなかった。多少の修正はあったかもしれませんが、1929年に公布された「首都計画」には、「国都界線図」は無かったということのようですね。
斯くて民国二十三年十月に行はれた各省市区分に於て決定された南京市の区画は、北及西は揚子江を以つて区画し只下関対岸の浦口は之を区画内に入れ、東部は烏龍山より明朝時代外廓の尭化門・仙鶴門・麒麟門・蒼波門・高橋門の諸門を繋ぐ線を以つて画し、南は鉄心橋をつなぎ江岸の大勝関に至る線を以つて区画されたのである。そして城内を八自治区(下関を含む)に分ち城外を燕子磯区(城北)孝陵区(城東南)上新河区(城西南)の三自治区に分つた。
これはプロセスではなく最終決定ということのようですね、私はプロセスと解釈していました。


追伸
漢中門のあった場所は、「漢中路と城壁が交差する場所(漢西門のすぐ北隣)」が自論ですが、漢中門(1931年)・漢中路(1932年)と建設時期が1年ほど食い違っていることに気がつきました。先に門が完成して後から道路が完成したと解釈できなくもありませんが・・・・・・。
41 hits

[2341]Re(3):主語を勘違いしていたよ...
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 渡辺 E-MAIL  - 06/4/12(水) 12:43 -

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   ▼熊猫さん:
>追伸
>漢中門のあった場所は、「漢中路と城壁が交差する場所(漢西門のすぐ北隣)」が自論ですが、漢中門(1931年)・漢中路(1932年)と建設時期が1年ほど食い違っていることに気がつきました。先に門が完成して後から道路が完成したと解釈できなくもありませんが・・・・・・。

はいはい、分かりました。
要するに、位置的には漢西門の北側の漢中路が城壁にぶつかるところに漢中門を造ったということですね。ですから、現在の地図でみると漢中路が漢中門を通っていて不自然ではないのですが、1937年頃は過渡期で、至誠堂の地図では漢中路はあるけど漢中門が載っていないというようなことが起きているわけです。
漢西門でも漢中門でも実質的には同じ場所ということになりますね。
47 hits

[2346]鐘阜門とは、小東門のことです...
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 熊猫 E-MAIL  - 06/4/17(月) 2:10 -

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ピッポさんの「太西門」ネタをきっかけに、南京の城門について調べていた関係で潜伏しておりましたが、面白いことに気がつきましたので、小ネタをば一つ・・・・。

小東門とは本来、明の時代(1368年〜1386年)によって造られた里十三門のひとつである「鐘阜門」のことです。
小北門は1931年に国民党によって造られたものであり、「鐘阜門」とは時代も違えば場所も違う全く別のものです。


『最新南京地図』小山吉三(至誠堂)
『南京事件「証拠写真」を検証する」東中野修道(草思社)p39
『「南京大虐殺」のまぼろし』鈴木明(文藝春秋)p223最悪!興中門まで間違えています。
『本当はこうだった南京事件』板倉由明(日本図書刊行会)原剛も一緒に間違えてる。
『南京戦史』南京戦史編集委員会(偕行社)p35
『南京事件』笠原十九司(岩波新書)p108
これらの資料は間違っています。探せばまだまだあるかも知れません。
『証言・南京大虐殺』南京市文史資料研究会(青木書店)p205に明時代の鐘阜門の位置が解かる図が掲載されています。

新民門の位置に不安はあるのですが、1937年当時の城門の位置図をつくってみました。
28 hits

[2382]20世紀に建造された南京の城...
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 熊猫 E-MAIL  - 06/4/28(金) 13:20 -

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画像は、明の時代の城門とは別に20世紀になって新たに建造された城門の位置図(左)と新民門の位置を探すために使った地図です(右)。混乱を防止するため戦後に建造された解放門と集慶門は省略しました。あくまで日本軍が南京を攻略する際にあったであろう城門に限定しました。明の時代に建造された城門と合わせて、全部で22箇所の城門があったはずです。

草場門 1908年
玄武門 1909年に豊潤門として建造しましたが後に改築して玄武門となりました。
ゆう江門 1913年に海陵門として建造。(1915年3月に竣工完了との記述もあり年代については今後とも調査します。)
武定門 1929年
漢中門 1931年 間西門の北側に建造され1970年代に撤去されたそうです。
中央門 1931年と1933年の記述がありますが、1933年が正しいようです。
小北門 1931年。多くの研究者が、明の時代に建造された鐘阜門と勘違いしている城門です。陸地測量部の地図(昭和7年)も間違えています。
新民門 1934年。この城門が記述されている地図は見つけることは出来ませんでした。新民路と城壁が交差する場所にあると判断します。
雨花門 1935年と1936年の記述がありました。
中山門 1929年に朝陽門の北側に建造し、1931年に南側にあった朝陽門の方は撤去しました。1931年に建造されたとの記述もあります。

</p>
25 hits

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