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[2376]秦賢助氏の情報源は? 熊猫 06/4/26(水) 23:28
[2377]Re(1):秦賢助氏の情報源は? 渡辺 06/4/27(木) 0:42
[2381]洞先生の見解が正しいようですね。 熊猫 06/4/28(金) 2:04
[2583]坂本氏は実在しました。 熊猫 06/6/4(日) 6:52 [添付]
[2688]鈴木明の奇妙な行動! 熊猫 06/6/30(金) 14:48
[2693]箭内正五郎証言 熊猫 06/7/2(日) 0:45
[2695]『支那事変郷土部隊写真史』 熊猫 06/7/2(日) 21:56
[2503]秦賢助氏はどんな人物か? 熊猫 06/5/13(土) 21:47
[2515]Re(1):秦賢助氏はどんな人物か? 熊猫 06/5/16(火) 22:22
[2513]Re(1):秦賢助氏の情報源は? 熊猫 06/5/16(火) 1:58
[2520]Re(2):秦賢助氏の情報源は? とほほ 06/5/17(水) 14:50
[2521]Re(2):秦賢助氏の情報源は? タラリ 06/5/17(水) 20:48
[2522]Re(3):秦賢助氏の情報源は? ja2047 06/5/17(水) 21:58
[2523]Re(4):秦賢助氏の情報源は? タラリ 06/5/17(水) 23:05
[2556]小野賢二氏が知っているようです。 熊猫 06/5/27(土) 18:43
[2557]「鈴木明」のまぼろし 熊猫 06/5/28(日) 1:09
[2558]訂正 熊猫 06/5/28(日) 1:15
[2686]白虎部隊戦記 熊猫 06/6/29(木) 23:04

[2376]秦賢助氏の情報源は?
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 熊猫 E-MAIL  - 06/4/26(水) 23:28 -

引用なし
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   久々に『捕虜の血にまみれた白虎部隊』(日本週報第398号)を読み直して疑問に思うことがあります。

【1】秦賢助氏は歩兵第65連隊の従軍作家(元白虎部隊従軍作家)として南京に行ったのでしょうか?残敵掃蕩は自分で目撃したかのような記述をしています。

【2】これが我国で最初の「幕府山事件」の記述ではないかと思うのですが、その情報は如何にして入手したのか?当時(1957/2/25)既に2万人の捕虜の記述と、両角連隊長の話など、その後の幕府山事件とあまり変わらない記述があり、何らかの取材をしない限り書けない内容です。
『白虎部隊』平凡社(1939年)を執筆中に幕府山事件の知っていたのかも知れません。いずれにせよ、両角部隊では、幕府山の捕虜殺害の話は普通にされていたということではないかと思います。
27 hits

[2377]Re(1):秦賢助氏の情報源は?
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 渡辺 E-MAIL  - 06/4/27(木) 0:42 -

引用なし
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   ▼熊猫さん:
>久々に『捕虜の血にまみれた白虎部隊』(日本週報第398号)を読み直して疑問に思うことがあります。

ちょっとクラシックな議論ですが、洞富雄『「まぼろし」化工作批判 南京大虐殺』(現代史出版,1975年)pp.140-145 あたりに書かれています。
鈴木明氏の取材によれば、秦賢助氏がはじめて中国に渡ったのが昭和14年だそうで、「伝聞記録」とされているようです。
洞氏は、「秦氏はのちに両角部隊に従軍したとき、同部隊の南京での行動についていろいろ知識を仕込んでいたであろうからである」(p.145)としています。

なお、同年1957年(S32)発行の『みんなが知つている 百万支那派遣軍による中国婦女子の受難』(春陽堂書店) にも、幕府山捕虜虐殺に触れた記事があったと思います。
取り急ぎ返信いたします。

>【1】秦賢助氏は歩兵第65連隊の従軍作家(元白虎部隊従軍作家)として南京に行ったのでしょうか?残敵掃蕩は自分で目撃したかのような記述をしています。
>
>【2】これが我国で最初の「幕府山事件」の記述ではないかと思うのですが、その情報は如何にして入手したのか?当時(1957/2/25)既に2万人の捕虜の記述と、両角連隊長の話など、その後の幕府山事件とあまり変わらない記述があり、何らかの取材をしない限り書けない内容です。
>『白虎部隊』平凡社(1939年)を執筆中に幕府山事件の知っていたのかも知れません。いずれにせよ、両角部隊では、幕府山の捕虜殺害の話は普通にされていたということではないかと思います。
28 hits

[2381]洞先生の見解が正しいようです...
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 熊猫 E-MAIL  - 06/4/28(金) 2:04 -

引用なし
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   ■『捕虜の血にまみれた白虎部隊』(日本週報第398号)1957/2/25
■『みんなが知つている 百万支那派遣軍による中国婦女子の受難』(春陽堂書店) 1957/4/15
秦賢助氏は自分で歩兵第65連隊の兵士に取材をしない限り幕府山事件のことを記述することは不可能です。時期は解かりませんが歩兵第65連隊(両角部隊)の従軍作家であったことは事実のようですので、幕府山事件について何らかの情報は入手していたのではないかと思います。
『みんなが知つている・・・・・』この本のことは知りませんでしたので早速注文しました。秦賢助氏の経歴については、もうひとふんばりしてみます。
『「南京大虐殺」のまぼろし』鈴木明(文藝春秋)188p〜189p
「あの人は、自分で会ってもいないのに、人からきいて、自分の体験みたいに書いてしまうんです。昔『花の白虎部隊』という本を出しましたが、私たちが話したことを、自分がインタビューしたように書いて、あとは新聞の切抜きでデッチ上げたんです。南京入城の記事?そんなものがあるんですか。あの人は南京入城を見ているはずがありませんよ。私が徐州会戦から帰ってしばらくたってから、中支に行ったんですから、昭和十四年にはじめて中国に行った人が、昭和十二年の南京入城をみているはずがない。なぜ、こんなことを書いたんでしょうねえ。もう一度注目されようと思って、焦ったんですかねえ・・・・・・」
鈴木明氏によれば秦賢助氏をよく知っている“坂本氏という方”なる人物の証言です。
「昔『花の白虎部隊』という本を出しました」とは、何処の出版社の本でしょうか?秦賢助氏の著書にそのようなものはありません。
昭和14年の『白虎部隊』(平凡社)の別称?、あるいは記憶違いのようです。
35 hits

[2503]秦賢助氏はどんな人物か?
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 熊猫 E-MAIL  - 06/5/13(土) 21:47 -

引用なし
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   秦賢助氏が『白虎部隊』を執筆するに当たり、何をしたのか検証して秦賢助氏の人物像に迫ってみたいと思います。
『白虎部隊』秦賢助(平凡社)1939年6月20日発行
(1p)
   序

 私は、秦君が白虎部隊の実戦記を書くことを希望して来た時、その計画は大変いいが、然し一部隊の戦闘記など容易に書けるものではないと注意した。しかし書くのは誰にも自由であるから敢えて止めはしなかった。秦君は二十貫の巨体を提げ、勇敢に湖北の野で前線へ材料蒐集に出動して行つた。その熱と努力には敬服せざるを得なかった。湖北の野で、赤い夕陽を浴びて稿を起した時は、泣けて泣けて仕方がなかったといふ。老若誰にも読んで、面白く、ためになるものを書きたいと秦君は念願した。課外教科書を書くつもりで、書きたいと念願してゐた。
 私は感激家の秦君を信じている。秦君の熱と努力をもつてして、必ずや本当の皇軍の姿が、描き出されると信じてゐる。敢えて乞はるゝまゝに、文を寄贈して、秦君の壮挙を祝福したい。
  昭和十四年六月
             両 角 業 作
第一に、湖北まで歩兵第65連隊の兵士を取材に行ったことが解かります。鈴木明氏が“坂本氏という方”にどのような質問をしたのかは解かりませんが、秦氏は「南京入場式を見た」等とは一言も言っていません。昭和十四年にはじめて中国に行った人が、昭和十二年の南京入城をみているはずがない。というのは鈴木氏が読者のミスリードを狙ったのではないでしょうか。
(10p)
 両角部隊は私の郷土部隊である。私は身に余る光栄に感激してこの一篇を綴った。湖北の野に、赤い落日を浴びて稿を起こし、漢口の郷土部隊の羽根田軍曹の一室の淡いローソクの灯の揺れる下で書き進め、揚子江上の船の中で、南京ホテルの冷たい一室で、上海のホテルの室で、ひたすら稿を急いだ。幾度か原稿紙の上に、私の涙は落ちた。
 公家軍曹を中心として書いたが、決して公家軍曹を描くのが目的でない。公家軍曹を引きずり廻して、兵隊の本当の姿を描いて見たいと思つたまでである。
第二に当事者の取材だけでなく現地に行っています。公家軍曹というのは公家裕(くげひろし)氏のことで南京事件当時は伍長で、金成(かねなり)少尉の部下で通信班でした。話を聞いた相手が誰なのか明確にしており、“坂本氏という方”と謎の人物のインタビューを記述している鈴木明氏とは信憑性が違います。
 核心さんのほうで、公家裕氏が実在する人物であったかどうか確認できる資料はないでしょうか?


『「南京大虐殺」のまぼろし』鈴木明(文藝春秋)
(188p)
昔『花の白虎部隊』という本を出しましたが、私たちが話したことを、自分がインタビューしたように書いて、あとは新聞の切抜きでデッチ上げたんです。
第三に新聞記者に聞いており、第四に新聞を読んで確認をしています。

秦賢助なる人物
当事者のインタビューをするために危険を冒して湖北まで行き、現場を確認するために南京まで行く。更に新聞記事の引用にあたっては、新聞記者の話を聞いて確認するほど慎重であった。
-----鈴木明氏の秦賢助氏に対する評価への反発もありますが、鈴木明氏よりは秦賢助氏のほうが信頼できる人物であると思います。
48 hits

[2513]Re(1):秦賢助氏の情報源は?
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 熊猫 E-MAIL  - 06/5/16(火) 1:58 -

引用なし
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   自分で質問して自分で回答することになってしまいました。あくまでも推測の域をでていないとは思いますが、それも歴史の面白さということと、熊猫のスキルではこれが限界ということで、ご容赦をお願い致します。

【1】秦賢助氏は歩兵第65連隊の従軍作家(元白虎部隊従軍作家)として南京に行ったのでしょうか?残敵掃蕩は自分で目撃したかのような記述をしています。

実際に南京に行ったのは昭和14年の5月以前であり、秦氏自身が『白虎部隊』にそのことをきちんと記述していました。秦氏が南京に行った頃には、16師団の兵士がいましたので、そこで便衣兵の掃蕩の話を聞いた可能性が高いと思います。


【2】これが我国で最初の「幕府山事件」の記述ではないかと思うのですが、その情報は如何にして入手したのか?
『捕虜の血にまみれた白虎部隊』(日本週報第398号)15p
 軍司令部からは、何回か中央(参謀本部、陸軍省)に請訓された。最初の訓電は「よろしく計らえ」であつた。ばくぜんたるこんな命令では、処理のしようもない。重ねて求めた訓電も「考えて処理せよ」である。どう考えていいのか、迷って、三度の請訓には「軍司令部の責任でやれ」と、命令してきた。軍司令部では、中央の煮えきらぬ態度と見た。朝香中将宮殿下を迎えての入城式を眼前にひかえて、軍司令部は焦つた。
「殺してしまえ」
 この結論は、雑作もなく出た。すでに城内では捕虜を殺しているし、一兵の姿も見ないまで、残敵を掃蕩しつくしている。それに、二万の捕虜を、食糧も欠乏している際、そうするしかないと、考えるにいたつた。
 しかし、両角大佐はさすがに、反対したという。
1957年以前に、この情報を入手するのは自分で取材しないと不可能です。このことを知っているのは両角業作氏かその周辺の限られた人物です。秦氏が『白虎部隊』を書く際に取材した公家裕氏は通信兵であり、それらのやり取りを知っていても何等不思議でない人物です。
『白虎部隊』184p
この戦ひで、残敵実に二万の捕虜を、わが両角部隊は得た。未曾有ともいふべき、この大量捕虜の中には、老陸宅、馬家宅に據つて、両角部隊に悪戦苦闘をさせた約二千の残敵も混つて居た。
『俺達の戦友を斃した奴等だ----』
と思へば、憎い敵ではあつた。
部隊は、あまりにも大量の捕虜を得て、一時は始末に困る程の途方にくれた。飯も食はせてやらねばならぬし、手当てもしてやらねばならぬ。厳重な監視は固より必要だ。一部隊の仕事としては、これだけでも大変である。
昭和14年に出版された秦氏の著書には既に、2万人の捕虜を捕らえた記述があります。秦氏は戦時中から幕府山事件のことを知っていた可能性は、極めて高いのではないかと思います。
31 hits

[2515]Re(1):秦賢助氏はどんな人物か...
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 熊猫 E-MAIL  - 06/5/16(火) 22:22 -

引用なし
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   >核心さんのほうで、公家裕氏が実在する人物であったかどうか確認できる資料はないでしょうか?
 公家裕氏は福島県大沼郡会津高田町出身の実在する人物でした。秦賢助氏は実名を使って『白虎部隊』を書いていることを確認しました。
 公家裕氏は、なかなかの文化人で『家の光』や『陸軍画報』、せんごも色々な雑誌に記事を書いて、脚本や小説を書いて『花の両角部隊』という歌の作詞を手がけています。
『白虎部隊』
196p
 定遠城内に宿営する○○部隊に、松竹キネマの監督小津安二郎がゐることを知つて、公家伍長は訪ねて行つた。恰度慰霊祭の行はれる日で、小津伍長は忙しそうだつたが、喜んで会つてくれた。慰問袋から果物の缶詰などをとり出して、すゝめてくれた。一緒について行つた根本特務兵が、戦車の前に二人並んだ姿をカメラにおさめた。
254p
 沢山の手紙が公家伍長を待つてゐた。懐かしい母から、妻から、そして大勢の友達の手紙の中には、漫画家の宍戸左行、文士の井伏鱒二などのも混じっていた。
 もしかすると秦賢助氏は両角連隊長の粋な計らいで公家裕氏を取材することになったのかも知れません。

秦賢助氏のことを調べるのであれば、公家裕氏を取材すれば詳しいことがわかるはずなのに、何故か鈴木明氏は公家氏を取材していません。
39 hits

[2520]Re(2):秦賢助氏の情報源は?
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 とほほ E-MAIL  - 06/5/17(水) 14:50 -

引用なし
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   ▼熊猫さん:
>自分で質問して自分で回答することになってしまいました。あくまでも推測の域をでていないとは思いますが、それも歴史の面白さということと、熊猫のスキルではこれが限界ということで、ご容赦をお願い致します。

今、「南京への道」での栗原証言の資料を作っていたら、たまたま秦賢介氏についての記述がありましたのでメモしておきます。本多勝一氏は「不正確な伝聞」ということで「捕虜の血にまみれた白虎隊」をあまり評価していないようですね。
[注]
三〇七頁 たとえば藤原審爾『みんなが知っている』(春陽堂・一九五七年)収録の「みんなが知っている」は、このとき捕虜が全員「始末」されたあと、死体処理に動員された部隊の一兵卒からの聞きがきとみられるが、幕府山と烏龍山とを混乱しているらしい。また洞富雄著『南京大虐殺』(前出)も、秦賢介氏の「捕虜の血にまみれた白虎隊」(『日本週報』三九八号)を引用している。ただし秦氏は当時従軍してはいないための不正確な伝聞で、白虎隊が捕虜の大群を南京城内に連行したかに書いてあるが、この連隊は当時城内には入らなかった。他方、福島民友新聞社から一九六五年に刊行された『郷土部隊戦記』は、この捕虜の始末にふれてはいるが、「虐殺」を部隊の不名誉として過小に見積もる努力が著しく、「対岸から中国が発砲」そのほかの無理な追加状況を付した上、大半は逃亡したので殺したのは千人程度としている。防衛庁防衛研究所戦史室の『支那事変陸軍作戦<1>』や児島襄氏氏の『日中戦争』第三巻は、この件の記述のもとを『郷土部隊戦記』にほぼ依拠している。
---南京への道、注釈より---

34 hits

[2521]Re(2):秦賢助氏の情報源は?
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 タラリ E-MAIL  - 06/5/17(水) 20:48 -

引用なし
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   ▼熊猫さん:
>自分で質問して自分で回答することになってしまいました。あくまでも推測の域をでていないとは思いますが、それも歴史の面白さということと、熊猫のスキルではこれが限界ということで、ご容赦をお願い致します。

レスが遅れて、熊猫さんの自問自答にしてしまいましたが、資料を挙げて秦賢助氏の記載の信憑性を完璧に証明して下さったので私はたいそう感謝しています。

鈴木明は「『南京大虐殺』のまぼろし」の中で、当時南京に入る部隊はすべて捕虜を連れて入場した、(鈴木明の引用原文が見つからず、私の記憶による)という記載を見つけて、そのようなことがあるだろうか、と驚き、秦賢助に対する「いかがわしさ」を演出しています。(その後に続く、坂本氏による人格否定発言の伏線にしてあります。このような手法は史実を追求するためには最も適していない方法です。)

捕虜を連れて入場したのがすべての部隊のようにも読めますから、読む人にそれはおかしいだろう、という気持ちを持たせます。しかし、秦賢助が書いたのは両角部隊の各中隊が捕虜を連行して入場したということだったのでしょう。南京攻略の部隊が捕虜を連れて入場するということはまさに第65連隊にとってだけは起こった状況でした。

山田支隊は幕府山南麓の道路沿いに進み、14777人の捕虜を現在の五所村の兵舎に収容し、山田支隊長と一部の部隊はその一帯で掃討をつづけ、駐留しますが、両角連隊長と一部の部隊はそのまま南京に進出します。その道々でも大量の無抵抗の捕虜を獲得しますが、置いていくわれには行かないので、そのまま南京まで連行します。

このことは
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
★佐藤一郎
十二月十四日
朝四時出発。晴れの道だが、どこをどう歩いたか、二時間行軍して夜が明ける。朝十時、残兵五百余と交戦し、二百余を武装解除。警戒しながら戦闘をし、二百夜連れて行軍。途中で揚子江岸を一里余、軍艦が江を上流へ進んで居る。海軍旗がひらひらして、実際に気分良かった。盛んに揚子江岸の残兵に射撃して居り、大砲も射つ。軍艦は四艦だ。夕方、南京城外の支那軍宿舎にて、連隊本部に解除した残兵を引渡す。両角部隊にて約二万五千余名の敗残兵。これをどうするのやら、自分たちの食糧もないのに、と思った。
                          『南京の氷雨』P24
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
★宮本省吾  歩兵第65連隊第4中隊少尉
〔十二月〕十四日 午前五時出発、南京近くの敵の残兵を掃揚すべく出発す攻撃せざるに凡て敵は戦意なく投降して来る、次々と一兵に血ぬらずして武装を解除し何千に達す、夕方南京に捕虜を引率し来たり城外の兵舎に入る無慮万以上に達す、直ちに警備につく、中隊にて八カ所の歩哨を立哨せしめ警戒に任ず、捕虜中には空腹にて途中菜を食ふ者もあり、〈略〉
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
にある通りです。また兵士の日記のうち、自分の居場所を「南京一里半前方」のように南京を起点とした記述にしたり、宿泊場所を「海軍宿舎」などのように記すものは、南京へ進軍した部隊に属するものです。


山田支隊も南京攻略の一翼を担っているのですから、烏龍山、幕府山から江岸を経て南京に至る線を掃討し、また南京市内を担当する部隊に会って報告し、情報を得ることは当然の行動です。また、この進軍の過程でも第十六師団による情け容赦ない大虐殺の模様を見たことは後の行動に影響したと思われます。


▼とほほさん:
>今、「南京への道」での栗原証言の資料を作っていたら、たまたま秦賢介氏についての記述がありましたのでメモしておきます。本多勝一氏は「不正確な伝聞」ということで「捕虜の血にまみれた白虎隊」をあまり評価していないようですね。
[注]
>三〇七頁 たとえば藤原審爾『みんなが知っている』(春陽堂・一九五七年)収録の「みんなが知っている」は、このとき捕虜が全員「始末」されたあと、死体処理に動員された部隊の一兵卒からの聞きがきとみられるが、幕府山と烏龍山とを混乱しているらしい。また洞富雄著『南京大虐殺』(前出)も、秦賢介氏の「捕虜の血にまみれた白虎隊」(『日本週報』三九八号)を引用している。ただし秦氏は当時従軍してはいないための不正確な伝聞で、白虎隊が捕虜の大群を南京城内に連行したかに書いてあるが、この連隊は当時城内には入らなかった。他方、福島民友新聞社から一九六五年に刊行された『郷土部隊戦記』は、この捕虜の始末にふれてはいるが、「虐殺」を部隊の不名誉として過小に見積もる努力が著しく、「対岸から中国が発砲」そのほかの無理な追加状況を付した上、大半は逃亡したので殺したのは千人程度としている。防衛庁防衛研究所戦史室の『支那事変陸軍作戦<1>』や児島襄氏氏の『日中戦争』第三巻は、この件の記述のもとを『郷土部隊戦記』にほぼ依拠している。
>---南京への道、注釈より---


本多氏の「注釈」は一応、当時の認識です。本多氏が現在どう思っているかはわかりません。この時点では「南京大虐殺を記録した日本軍兵士たち」も知られていませんし、秦賢助の取材過程も知られていませんから、注釈のような見方もできます。

しかし、秦賢助は当時の状況において出来るだけの取材をしたもののようです。捕虜虐殺は支那派遣軍の命令に反した行動ですから、両角大佐は連行と虐殺の部分だけは部下の発言についても適宜コントロールしたと思われます。

ところで私が興味を惹かれたのは「この戦ひで、残敵実に二万の捕虜を、わが両角部隊は得た」とあることです(「わが両角部隊」の「わが」は秦氏が両角部隊と心情的に自己同一視していることを示します)。この認識に至る取材は両角大佐の全面的バックアップがあったもののようですから、捕虜二万は両角大佐自身の認識でもあったでしょう。

ところが、戦後の両角手記では「新聞は二万とか書いたが、実際は一万五千三百余であった」と書いています。新聞で二万と書いた記事があったかどうかは確認できませんが、南京大虐殺事件の究明が緒に付いた頃、歴史家の間では新聞記事になった14777名の捕虜はどうなったか、ということが興味を呼んでいましたから、少なくとも目に付く記事ではなかったと思われます。「二万人の捕虜」という新聞記事がそれまでにあったなら、歴史家の間では二万人の捕虜はどうなったか、という問題になったはずです。

両角手記を読むものは誰しも彼が否定しようとしている事実こそが真実なのだな、と察しが付くと思います。熊猫さんの提示された文章によって、両角が否定してみせたのは実は新聞記事の「二万」ではなく、自己の記憶にある「二万」であったことが証明されたわけです。
35 hits

[2522]Re(3):秦賢助氏の情報源は?
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 ja2047  - 06/5/17(水) 21:58 -

引用なし
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   ▼タラリさん:
>ところが、戦後の両角手記では「新聞は二万とか書いたが、実際は一万五千三百余であった」と書いています。新聞で二万と書いた記事があったかどうかは確認できませんが、

以前の熊猫さんの投稿から見て、この新聞とは「福島民報」と推測します。
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=1962;id=sikousakugo#1962
あとは当時の福島民報の記事を確認しないと判りませんので、福島近辺に在住の方がおられれば記事の発掘に期待したいところです。(しらじらしいけど)
63 hits

[2523]Re(4):秦賢助氏の情報源は?
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 タラリ E-MAIL  - 06/5/17(水) 23:05 -

引用なし
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   ▼ja2047さん:
>▼タラリさん:
>>ところが、戦後の両角手記では「新聞は二万とか書いたが、実際は一万五千三百余であった」と書いています。新聞で二万と書いた記事があったかどうかは確認できませんが、
>
>以前の熊猫さんの投稿から見て、この新聞とは「福島民報」と推測します。
>http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=1962;id=sikousakugo#1962
>あとは当時の福島民報の記事を確認しないと判りませんので、福島近辺に在住の方がおられれば記事の発掘に期待したいところです。(しらじらしいけど)

なるほど、二万と書いた新聞は実在するわけですね。その記事も是非見たいものです。

私は、新聞が書いたとしても両角大佐は戦争中に新聞を読むことはないだろうし、戦後に復員して後もわざわざ昔の新聞を引っぱり出して読むことはなかろう、わざわざ新聞記事の否定をする動機はないはずだ、と考えていました。南京くらいですと、百人斬りの少尉のように後で記事が載った新聞を読むことがあるかもしれませんが、もっと奥地だと新聞が届くということもないでしょう。両角大佐は「福島民報」(?)の記者に自ら語ったので、「新聞は書いた」ということを記憶していたのかも知れません。


福島民報取材の時点、あるいは秦賢助取材の時点では捕虜の殺害は派遣軍の命令に対する違背であって、その一部の殺害は大目に見られる。そこで二万という数字までは言った。戦後においては戦争犯罪として罪に問われるので殺害数を出来るだけ小さく言わなければならないので半数解放、さらに半数逃亡まで苦心のウソを連ねた。

いまだに初期の捕虜収容数が八千人だとか主張する否定派がいるが、事件当時あるいは昭和十四年頃において両角自身が二万人を記者らに提供した、あえて否定はしなかったということは否定派に痛打となるでしょう。

ただし、両角大佐の認識といえども、疑ってはかかるべきと思っています。捕虜の総数を逐次把握することよりは捕虜の処置がもっと切実な関心事であった。両角大佐には二十二棟の兵舎のある収容所に15300人という認識で、もうひとつの収容所で5000人と報告を受けたが、その後の増加について無頓着であった、と考えます。捕虜の監視に当たった兵士の一部が最も正確な認識を有していた。私の推定の根拠は現場の兵士たちの認識です。
二十二棟の兵舎のある収容所は17000人以上収容なので、十一棟の兵舎のある収容所で8000人、総数は約25000人という数字でいいはずです。
39 hits

[2556]小野賢二氏が知っているようで...
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 熊猫 E-MAIL  - 06/5/27(土) 18:43 -

引用なし
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『南京事件をどうみるか 日・中・米研究者による検証』青木書店

[46p] もう一人、後に歩兵第六五連隊に従軍した作家、秦賢助氏が「捕虜の血にまみれた白虎部隊」(『日本週報』一九五七年二月二五日号)で「果てしない行列の前途に待っている運命は、まさに、死であった」と、結論づけていた。内容に個々のまちがいは多いが、当事者の話を聞けた立場にいたことと、最低四人の兵の陣中日記を読んでいる立場からの結論は正しかった。

[64p] (3)四人の兵の陣中日記・・・・・・秦賢助著『白虎部隊』(平凡社、一九三九年)は歩兵第六五連隊の兵士の陣中日記からの引用がある。筆者はこのなかの一人の陣中日記を入手した。
 小野氏は熊猫のように、公家裕伍長とは書いていませんが、秦賢助氏は昭和14年の時点で幕府山事件のことで何か知っていたが、『白虎部隊』には捕虜を捕らえた後の処分は記述を避けたと認識しているように思えます。
40 hits

[2557]「鈴木明」のまぼろし
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 熊猫 E-MAIL  - 06/5/28(日) 1:09 -

引用なし
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    可哀想に純情な鈴木明君は、福島でまんまと坂本おじさんに騙されたようです。まあ、『捕虜の血にまみれた白虎部隊』について調べるのに、その本を読んでいない坂本氏に聞くこと事態、常識を疑いたくなる取材ですが、『花の白虎部隊』などとこの世に存在しない書籍の名前を坂本氏が言った時点で、証言の信憑性を疑わない鈴木明の単純な脳ミソにも呆れ果ててしまいました。
『「南京大虐殺」のまぼろし』鈴木明(文藝春秋)189p

 しかし、無責任に書かれたたった一つの文章が、あとにどんな重大な結果を招くかという例を、ここにも見る思いがした。
 鈴木どん!それだけ解かっているのなら無責任な文章は書きなさんな。
『白虎部隊戦記 もぐら兵隊』公家裕(愛読社版)5p-6p

  序
 公家軍曹は、僕の戦友である。なつかしい戦友である。といつても、僕は何も、軍人ではない。公家軍曹と知り合つたのは、昭和十四年四月、中支湖北省の最前線に於いてゞあつた。一文士として、従軍の許可を得た僕は、郷土部隊を慕つて漢口からはるかに奥の、新州といふ小さな町に行つた。そして、十日近くも、一緒に暮らした。
 公家軍曹と生活を共にした、この十日間こそ、僕の生涯にとつて忘れることの出来ない、感懐の深いものである。それ故にこそ、拙著『白虎部隊』は、公家軍曹を主人公として、描いたものであつたのだ。
 公家軍曹の文才は、部隊内でも、大変な評判であつた。事実、文章はいまいものである。あの若さで―――と、僕は、最初は、驚歎したものであつた。
 僕が帰還してから、幾つかの作品が、戦線より、送られて来た。さうして、次々と、雑誌に発表されて、異常な反響をよんだのである。
 これは、九分通り書下しの物であるが、その中に、雑誌に発表されたものもある。どれ一つとして、捨て難い、珠玉の作品である。この作品を通して、公家といふ、一個の文筆家を観る時、この人は、相当のところまで、伸びる人だといふことが確信される。その前途はまさに洋々たるものだ。
 乞ふ、好漢自重せよ。
    昭和十七年四月八日
               秦  賢 助
 公家裕氏の著書に秦賢助氏が「序」をよせていました。鈴木明氏が取材した「坂本なる人物の証言」が如何に的外れなものかが解かります。
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[2558]訂正
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 熊猫 E-MAIL  - 06/5/28(日) 1:15 -

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   ×事実、文章はいまいものである。
○事実、文章はうまいものである。
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[2583]坂本氏は実在しました。
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 熊猫 E-MAIL  - 06/6/4(日) 6:52 -

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【添付ファイル】 〜添付ファイル〜
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 写真は、福島民報社の坂本六良特派員です。福島民報社は上海に65連隊が出兵すると同時に、箭内正五郎特派員を派遣し、坂本氏は箭内氏の後任として両角部隊の従軍記者となった方でした。鈴木明氏が秦賢助氏のことを聞いたのはこの写真の方で間違いないようです。

『「南京大虐殺」のまぼろし』188pより引用します。

僕はとりあえず福島にゆき、地元新聞社を訪ねることにした。
 地元新聞社というのは、「福島民報社」なのか「福島民友新聞社」なのか解かりませんが、そこで秦賢助氏の情報を調べると同時に、秦氏について詳しいと言う坂本氏のことを知ります。
 残念ながら、十年近く前に物故されていたが、彼のことをよく知っている古い新聞記者がいるということで、郊外に、坂本氏という方を訪ねた。
 坂本氏は幸い、日華事変勃発とともに中支に福島民友の特派員として派遣され、当時の事情にくわしかった。
 鈴木明氏は日華事変勃発はいつだと思っているのでしょうか、65連隊が上海に到着したのは10月3日であり、しかもその時派遣されたのは、坂本氏ではなく箭内正五郎特派員です。坂本氏は箭内氏の交代として派遣されたのです。更に鈴木氏の間違いを指摘するならば、坂本氏は福島民友ではなく福島民報の特派員です。

 坂本六良氏がどのくらい秦賢助氏に詳しいのかは解かりませんが、『捕虜の血にまみれた白虎部隊』を読んでいないのは本人の証言からも明らかですし、『白虎部隊』(本人は『花の白虎部隊』と言っている)の証言についてもデタラメなことを言っています。


 自問自答スレになってしまい、非常に恥ずかしいのですが調べれば色々と解かるものですね、とても良い経験をしました。


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[2686]白虎部隊戦記
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 熊猫 E-MAIL  - 06/6/29(木) 23:04 -

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   『白虎部隊戦記 もぐら兵隊』公家裕(愛読社)1942年
 目次(頁省略)
  もぐら兵隊
  風塵
  高粱畑
  甘藷を喰ふ兵隊
  襄東会戦日記
   [小戯曲]
  前夜
  救はれた赤ん坊
  露営焚火

 「もぐら兵隊」の部分が南京戦の記述ですが、南京でのことや幕府山事件については全く触れられていません。内容も、『白虎部隊』秦賢介(平凡社)と似通っています。何も知らずに読んだら盗作だと勘違いしそうなくらい似ています。秦賢助氏が公家裕氏を主人公にして書いた『白虎部隊』と、公家裕氏の自叙伝である『もぐら兵隊』の内容が似通っているのは当然のことです。
 歩兵第65連隊の兵士による書物ということで、期待した私が欲深かったようです(^^)。鈴木明氏の嘘デマが解かっただけでも無駄ではなかったと納得することにしましょう。

『甘藷を喰ふ兵隊』185p
 帰つて来た兵隊達は、四五名の土民ともつかない正規兵ともつかない者をひつぱつて来た。向日葵の咲いてゐる畑の中で、兵隊は彼等をとり巻き、何か訊いてゐるやうであつた。彼らは逃げ出さうとして兵隊の顔色ばかり窺つてゐる。彼らの顔も着物も泥だらけだ。
 私達は再びトラツクの上に帰つた。
「やつちまへ、やつちまへ、面倒臭い奴等だ。」と誰かゞ怒鳴つた。
「それもよい、人斬包丁を持つて来い。」と怒鳴り返すものもゐて、彼等をとりまいてゐる兵隊は相当殺気だつてゐるやうであつた。
 私達のトラツクは間もなく出発した。
 中国人を斬殺すという行為は日常茶飯事だったのでしょう。それにしても戦時中にこの文章が検閲に引っ掛からなかったのは凄い!
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[2688]鈴木明の奇妙な行動!
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 熊猫 E-MAIL  - 06/6/30(金) 14:48 -

引用なし
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    ついでですので、核心さんとのコラボレーションをします。
 「福島民友社」と「福島民放社」は、「赤旗」と「産経」くらい違う新聞です。赤旗の記者が自分を産経の記者と間違えるようなことはありませんし、その逆もありません。福島民友社は戦争に反対した論陣を張り、1941年の元旦号より休刊に追い込まれた由緒正しき新聞社で、戦後読売新聞と提携してから低俗な出版物を発行するようになりました。福島民放社というのは、保守系の特定政党(自由党)の機関紙であり、一般の新聞ではなく、戦後毎日新聞と提携するまでは、軍の広報機関のようなものでした。
 
嘘つきは鈴木明氏か?坂本六良氏か?
 坂本六良氏が、自分が勤務していた新聞社を間違えるはずがありません。またその様な嘘をつく必要もありませんので、鈴木明氏の勘違いでしょう。
 問題はその後です。自分こそ南京戦に従軍していない坂本六良氏から、秦賢助氏は何を聞いたというのでしょうか?
坂本氏は幸い、日華事変勃発とともに中支に福島民友の特派員として派遣され、当時の事情にくわしかった。
『「南京大虐殺」のまぼろし』を読んで疑問に思うのは、鈴木氏は坂本氏から幕府山や南京の様子を聞いて記事にしなかったのでしょうか?
 「南京事件はなかった、見なかった」という、従軍記者であった坂本氏の証言でもあれば、原稿用紙3枚分のネタは稼げたはずです(笑)。南京戦に従軍していない坂本六良特派員から、南京や幕府山のことを聞くことは不可能なのです。つまり、「日華事変勃発とともに中支に福島民友の特派員として派遣され」というのは、完全なる鈴木明氏の創作記事なのです。新聞社も違えば、氏名も「郊外に、坂本氏という方を訪ねた」と解からないように記述したのは、鈴木氏の嘘がばれないためのトリックと考えるのが妥当です。

核心さんの投稿からパクリます。
幕府山の捕虜については既に当時から知られており、昭和12年12月の『東京朝日新聞』は鳥龍山、幕府山で14、777を捕虜にしたと伝えていた。また福島民友新聞社の昭和13年の『支那事変郷土部隊写真史』は2万人の捕虜があったと伝えている。この捕虜戦果が捕虜虐殺に一転したのは20年後である。昭和12年当時『福島民友新聞』の記者だった秦賢助氏が昭和32年の『日本週報』に「捕虜の血にまみれた白虎部隊」と題する回想記を書き、その中で12月15日、白虎部隊は2万の捕虜を虐殺したと暴露した。白虎部隊とは65連隊の編成地からとった別称である。
 畠中秀夫氏も困った御仁である。昭和13年の『支那事変郷土部隊写真史』は福島民友新聞社から出版されていません!正しくは福島民報社です。
 さて「2万人の捕虜があったと伝えている。」この2万人の捕虜を世に伝えたのは、福島民放社の長谷川幸太郎氏(昭和13年4月29日)です。長谷川幸太郎の名前は初公開ではないかと思うのですが、ネタとしては少々物足りないでしょうか?
 この時期、既に特派員の仕事は箭内正五郎氏と坂本六良氏が交代しており、箭内正五郎氏は日本に帰国していますので、捕虜2万人の発信源は箭内正五郎氏という両角部隊の従軍記者ではないかとおもいます。
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[2693]箭内正五郎証言
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 熊猫 E-MAIL  - 06/7/2(日) 0:45 -

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    さて、箭内正五郎氏の名前が出たところで『「南京事件」日本人48人の証言』阿羅健一(小学館文庫)をスルーするのは熊猫らしくないので、さわり程度に軽いツッコミを入れることにします(^^)。
 このスレを再読していただき、阿羅本の福島民報・箭内正五郎記者の証言(151p〜160p)を読んでいただくと非常に面白いのではないかと思います。
『「南京事件」日本人48人の証言』152p〜153p
 第六十五連隊には福島民報、福島民友、福島の新聞記者が従軍した。これら新聞社は同盟通信を通して配信を受けていたので、従軍記者たちは第六十五連隊付として、連隊の兵の消息を中心に報道した。
 三人の記者のうち、福島民友、福島の記者は既に亡くなっており、健在なのは福島民報の箭内正五郎氏一人である。
 当時、福島には大小あわせて五紙の新聞があったが、福島民報はこの中で最大の部数を記録していた。昭和十三年には『支那事変郷土部隊写真史』を発行している。これは上海・南京戦における第六十五連隊の戦いぶりを写真でまとめたもので、従軍から戻っていた箭内氏はこの編集にたずさわり、自分で撮った写真も使った。
 はい!福島民報から南京戦の従軍記者となったのは、箭内正五郎氏ただ一人であり、『支那事変郷土部隊写真史』の二万人の捕虜のことは箭内氏以外の人物には書けないのです。
『「南京事件」日本人48人の証言』155p
―――十二月十四日頃、第六十五連隊は一万五千人とも二万人ともいわれる捕虜を捕まえますね。
「いま申したように私は後方の輜重部隊にいましたので、捕虜を捕まえた時はいませんでした。捕虜を捕まえたことは連隊本部に着いた時、聞きました
―――捕虜はどうしたのですか。
「かかえていても面倒なので逃がしたのではないでしょうか。その頃捕虜は追い払うしかなかったのですが、逃がしたと言うと、叱られてましたから、退却させたとか、殲滅したと言っていたようです
―――捕虜の話は書かなかったのですか。
「書きませんでした。捕虜や戦闘の話よりも兵隊の消息の記事が好評だったので、そういった記事を書いていました。捕虜のことは戦前の『支那事変郷土部隊写真史』が正確だと思います。『支那事変郷土部隊写真史』は事実どおり書いてますから
 要約すれば箭内氏は12月17日か18日に連隊本部で2万人の捕虜を捕らえたことを聞いたと証言しています。つまり2万人の捕虜の情報源は、両角部隊の連隊本部であり14777人の捕虜が、2万人に増えていることを連隊本部は認識しており、両角業作氏の戦後の証言は非常に怪しいものになります。
 捕虜を殲滅したと報告しても叱られないのは驚きです。叱られるどころか国際法違反の軍法会議ものの戦争犯罪なのですが、当時の日本軍は捕虜を殺すことを悪いとは思ってなかったということでしょう。
 普通に考えれば解かることですが、2万人の捕虜を逃がしたら絶対にバレるでしょ!捕まえている間は捕虜ですが、逃げてしまえば敵です。そんな危険なことをするような指揮官はいないでしょう。
57 hits

[2695]『支那事変郷土部隊写真史』
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 熊猫 E-MAIL  - 06/7/2(日) 21:56 -

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   箭内正五郎氏の証言によれば「捕虜のことは戦前の『支那事変郷土部隊写真史』が正確だと思います。『支那事変郷土部隊写真史』は事実どおり書いてますから」とのことです。
『支那事変郷土部隊写真史』福島民報社
『支那事変の一般的概況』8p
感激の南京入城式
世界戦史を飾る一大壮挙
 上海、南京間、揚子江の中央を守る敵の最大の堅陣江影県城を撃破せる我が両角部隊は友軍、添田、倉林の両部隊と分れ、十二月七日田代部隊と共に一路抗日の首都南京目指して再び大追撃戦に移つたが、揚子江沿岸鎮江に於て、今度は田代部隊と袂を分ち、両角部隊のみ南京の直接攻略に参加するに至つた。
 途中、十二月十二日には烏龍山砲台を占領、更に同十三日には既に南京に迫り、南京の郊外、北約二粁の地点、揚子江の沿岸にある幕府山砲台を占領し、残敵約二万の捕虜を得た。その二万の捕虜の中には老陸宅、馬家宅の敗残兵約二千も加つてゐるといふ偶然に遭遇し、我が両角部隊の将士を喜悦せしめた。
 『「南京事件」日本人48人の証言』において、箭内氏は幕府山の捕虜の数は2万人と認識しているにもかかわらず、阿羅氏はそのことの記述は見事に回避しています。2万人の捕虜を逃がしたりしたら、幕府山周辺は捕虜だらけになってしまいますし、第65連隊が南京から離れるときも日本軍は周辺地域の掃蕩作戦の真っ最中ですので、捕まえた捕虜を逃がすような状況であれば、掃蕩作戦そのものを中止していたはずです。
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