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[2596]捏造原稿のコピーについて 核心 06/6/7(水) 9:06
[2598]Re(1):捏造原稿のコピーについて 核心 06/6/7(水) 20:38
[2600]Re(2):捏造原稿のコピーについて 核心 06/6/8(木) 3:32
[2601]Re(3):捏造原稿のコピーについて 核心 06/6/8(木) 7:26
[2602]Re(3):捏造原稿のコピーについて 核心 06/6/8(木) 21:44
[2603]Re(4):捏造原稿のコピーについて 核心 06/6/9(金) 15:16
[2604]Re(5):捏造原稿のコピーについて 核心 06/6/9(金) 17:16
[2610]Re(6):捏造原稿のコピーについて 核心 06/6/10(土) 10:58
[2612]Re(6):捏造原稿のコピーについて 核心 06/6/10(土) 13:49
[2614]Re(7):捏造原稿のコピーについて 核心 06/6/10(土) 20:50
[2619]Re(8):捏造原稿のコピーについて 核心 06/6/11(日) 17:39
[2624]Re(7):捏造原稿のコピーについて 核心 06/6/12(月) 5:02
[2625]Re(6):捏造原稿のコピーについて 核心 06/6/12(月) 7:26
[2633]Re(7):捏造原稿のコピーについて 核心 06/6/16(金) 23:40
[2644]Re(7):捏造原稿のコピーについて: 4列50m 渡辺 06/6/22(木) 22:52
[2645]Re(8):捏造原稿のコピーについて: 4列50m タラリ 06/6/23(金) 13:18
[2646]Re(9):捏造原稿のコピーについて: 4列50m 核心 06/6/23(金) 14:38
[2647]Re(10):捏造原稿のコピーについて: 4列50m 核心 06/6/23(金) 15:05
[2650]Re(10):捏造原稿のコピーについて: 4列50m タラリ 06/6/23(金) 22:45
[2654]Re(11):捏造原稿のコピーについて: 4列50m 核心 06/6/24(土) 2:29
[2659]阿羅聞き取りの解析 タラリ 06/6/25(日) 18:35
[2660]Re(1):阿羅聞き取りの解析 タラリ 06/6/25(日) 18:58
[2664]Re(2):阿羅聞き取りの解析 核心 06/6/26(月) 1:49
[2665]Re(2):阿羅聞き取りの解析 核心 06/6/26(月) 2:29
[2661]Re(1):阿羅聞き取りの解析 核心 06/6/25(日) 21:18
[2666]Re(2):阿羅聞き取りの解析 タラリ 06/6/26(月) 12:29
[2669][投稿者削除]
[2670]Re(4):阿羅聞き取りの解析 とほほ 06/6/26(月) 21:28
[2671]Re(5):阿羅聞き取りの解析 核心 06/6/26(月) 22:40
[2672]Re(6):阿羅聞き取りの解析 とほほ 06/6/26(月) 22:57
[2674]Re(7):阿羅聞き取りの解析 核心 06/6/27(火) 4:18
[2662]Re(1):阿羅聞き取りの解析 核心 06/6/25(日) 21:29
[2746]Re:核心さんへのお願い ピッポ 06/7/7(金) 6:41
[2748]いいですよ 核心 06/7/7(金) 8:25
[2749]Re(1):いいですよ ピッポ 06/7/7(金) 10:17
[2751]Re(2):いいですよ 核心 06/7/7(金) 10:47
[2752]Re(3):いいですよ ピッポ 06/7/7(金) 11:53
[2784]テストリライトについて ピッポ 06/7/9(日) 13:18
[2785]テストリライト(1)捏造原稿のコピーについて ピッポ 06/7/9(日) 14:21
[2795]南京関係の本 核心 06/7/10(月) 0:21
[2786]Re(1):テストリライトについて 核心 06/7/9(日) 16:29
[2789]Re(2):テストリライトについて ピッポ 06/7/9(日) 18:08
[2788]テストリライト(2)畠中秀夫氏の捏造記事について ピッポ 06/7/9(日) 18:04
[2834]Re(1):テストリライト(2)畠中秀夫氏の捏造記事について 核心 06/7/13(木) 9:09
[2840]Re(2):テストリライト(2)畠中秀夫氏の捏造記事について ピッポ 06/7/13(木) 9:35
[2841]Re(3):テストリライト(2)畠中秀夫氏の捏造記事について 核心 06/7/13(木) 10:15
[2842]Re(4):テストリライト(2)畠中秀夫氏の捏造記事について ピッポ 06/7/13(木) 10:35
[2843][投稿者削除]
[2844][投稿者削除]
[2846][投稿者削除]
[2847][投稿者削除]
[2848]Re(9):テストリライト(2)畠中秀夫氏の捏造記事について 核心 06/7/13(木) 14:13
[2849]Re(10):テストリライト(2)畠中秀夫氏の捏造記事について ピッポ 06/7/13(木) 14:29
[2851]記事の引用・転載について とほほ 06/7/13(木) 14:48
[2853]Re(1):記事の引用・転載について 核心 06/7/13(木) 15:50
[2855]Re(2):記事の引用・転載について とほほ 06/7/13(木) 16:34
[2854]Re(1):記事の引用・転載について 核心 06/7/13(木) 16:16
[2856]Re(2):記事の引用・転載について とほほ 06/7/13(木) 16:45
[2857]各社などの対応 核心 06/7/13(木) 19:10
[2858]Re(1):各社などの対応 ピッポ 06/7/13(木) 20:59
[2860]Re(2):各社などの対応 核心 06/7/13(木) 23:26
[2862]ヒツウチ表示の無言電話 核心 06/7/14(金) 2:29

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[2596]捏造原稿のコピーについて
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 核心 E-MAIL  - 06/6/7(水) 9:06 -

引用なし
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   私の父(栗原利一)の証言は毎日新聞、朝日ジャーナルに記事が掲載された後にいろいろな方に捏造されてきたことはOFF会で述べた通りです。
自宅まで来られた方で父の証言を捏造された方の原稿のコピーが、つい最近見つかりました。
作成者は不明です。
多分、父に取材後に確認の意味で送られてきたものだと思われます。
原稿は女性の筆跡で清書されたものです。
筆者が捏造に苦慮した部分は細かい文字での挿入文が多用されています。
原稿のコピーを見ただけでも外観的に捏造であることの分かる文面になっています。
どの部分が父と長年暮らして来た者として不自然であり、ここ数年、父と話している話と食い違うか説明して行きたいと思います。

40ページにわたる原稿ですので最初の部分から記述してゆきたいと思います。

 昭和12年12月に日本は中国の首都南京を陥落させたが、後にこの時、大虐殺がおきたとされた。この南京大虐殺に関しては林房雄氏が15年ほどたってからおおよそ次の様に述べている。「かくすことも誇張も必要ない。日本人自身の手によってはっきりさせるべきだ」今から20年前のことである。
私は林氏のこの意見には全く同感で、しかもこの林房雄氏の問題提起に結論は出たと思っていた。しかし、新聞、教科書などをみていると社会一般は私の思っていたものとちがうようだ。そこで私なりに南京大虐殺について調べ始めた。改めて当時書かれたものや戦後発表されたものを読むと百人百様である。当時の南京を詳しく述べているのに虐殺については一言も言及してしていない書物もある。これらを別にしても、南京で殺された人は百人か2百人という人から30数万人という人まで様々である。
既に歴史上の出来事になっている訳でもないのにあまりにもくいちがっている。そう思った時、まだ当時の南京を知ってる人がいるだろうから直接その人に会って確かめるのが手取り早いと思った。昭和12年12月に南京に行った人は20才すぎの若い兵隊から60才の松井中支派遣軍総司令官まで、多くの人がいた。それから47年。大東亜戦争緒戦の嚇々たる戦果、敗戦、経済困窮、高度経済成長、石油ショック、様々な出来事があり、ほぼ半世紀を経過している。
当時もっとも若かった人でも既に68・9才になっており、大部分は既に亡くなっている。しかし誰もいない訳ではなく、この半年の間に10人ほどの人に会えた。会っただけでは無意味なので聞き書きをしてそれを公表するようにしている。この聞き書きはその一部である。

第65連隊の兵士として南京攻略戦に参加した栗原利一さんを知ったのは毎日新聞の社会面に載った記事からである。昭和59年8月7日の毎日新聞に次の様な見出しが載っていた。
 南京捕虜1万余人虐殺
 元陸軍伍長、スケッチで証言
ドキッとするような見出しである。内容は東京小平市に住む栗原利一さん(73才)の話と証言で、記事によると南京攻略中の第13師団(仙台)の第65連隊(会津若松・連隊長両角業作大佐)は12月14日、南京城外の幕府山で1万3千余名の捕虜をとらえ、17日か18日にこの捕虜を揚子江岸につれて行き、四方から一斉射撃をして殺した。
栗原さんも65連隊の一兵士として捕虜を連行し射殺した。栗原さんはそのことを自ら証言し、当時書いたスケッチも証拠としてもっている、というものである。証言するにいたった動機は「真実はきちんと後世に伝えたい」からと毎日新聞は伝えている。
幕府山の捕虜については既に当時から知られており、昭和12年12月の東京朝日新聞は鳥龍山、幕府山で14、777を捕虜にしたと伝えていた。また福島民友新聞社の昭和14年の戦史は2万人の捕虜があったと伝えている。この捕虜戦果が捕虜虐殺に一転したのは20年後である。昭和12年当時福島民友新聞の記者だった秦賢助氏が昭和32年の「日本週報」に「捕虜の血にまみれた白虎部隊」と題する回想記を書き、その中で12月15日、白虎部隊は2万の捕虜を虐殺したと暴露した。白虎部隊とは65連隊の編成地からとった別称である。
昭和40年、福島民友新聞は第65連隊についての歴史「郷土部隊戦記」を連載した。これは微に入り細に渡ったもので、両角連隊長、従軍作家、兵士ら健在であった多数の証言をてらしあわせた正確なものであった。この中ではさきほどの秦氏の証言をもとりあげ、昭和12年当時秦氏は従軍しておらず、虐殺はなかったと断定している。昭和47年、洞富雄氏が自著「南京事件」のなかで再び1万4千余人の捕虜のことをとりあげた。
洞氏は「東京朝日新聞」と「日本週報」は知っていたが「郷土部隊戦記」のことは知らないらしく、自著「南京事件」の冒頭で冒頭でこの捕虜がどうなったかと疑問を投げ、結局虐殺されたといっている。その直後、鈴木明氏が南京大虐殺のルポルタージュにとりくみ「”南京大虐殺”のまぼろし」を発表した。この時は両角部隊長は亡くなっていたが、その上にあたる山田栴二旅団長は86才で健在で、鈴木氏は福島、仙台に行って取材をしている。それによれば8千人くらいの捕虜を揚子江の向こうに釈放する途中暴動がおき混乱の中で射殺した、ということであった。
鈴木氏の著書はベストセラーになった上、今も文庫本になって読まれているのは言うまでもない。この鈴木氏の説が今では定説になっている。
今回の栗原さんの証言と証拠はこれを覆すものである。鈴木氏のルポルタージュは何人かからの取材である。一方、栗原さんの証言は一人ではあるが当時のスケッチという証拠もある。どちらが正しいのだろうか。どちらかに虚偽の証言があるのか。

(この部分は父の証言はありませんので特に説明することはありません。)
73 hits

[2598]Re(1):捏造原稿のコピーについ...
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 核心 E-MAIL  - 06/6/7(水) 20:38 -

引用なし
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   あるいは間違って記憶していたのか。さもなくば記者による何らかの操作か。これらのうちのどれかしかない。一体どれなのか私は確かめたかった。そしてそれ以上に、栗原さんが当時の南京を知っていると聞いたからには是非会わねばならないと思った。
毎日新聞に載っていた住所をたよりに、一度お会い出来れば、と葉書を差し上げた。一週間たっても二週間たっても返事はこない。折から「朝日ジャーナル」では本多勝一氏が「南京への道」を連載中で、さっそく21回目(9月7日号)と22回目(9月14日号)でこの証言をとりあげた。
栗原さんは「南京への道」では田中という仮名で登場、捕虜全員虐殺というストーリーの中で決定的な証言をしている。朝日ジャーナルによれば、証言するにいたった動機は「南京陥落後、無抵抗の捕虜を大量処分したことは事実だ。この事実をいくら日本側で否定しても、中国に生き証人がいくらでもいる以上かくしきれるものではない。事実は事実としてはっきり認め、そのかわり中国側も根拠のない誇大な数字は出さないでほしいと思う。
あと20年もたてば、もう事実にかかわった直接当事者は両国ともほとんどいなくなってしまうだろう。今のうちに、本当に体験した者が、両国ともたがいに正確な事実として言い残しておこうではないか。真の日中友好のためにはそのような作業が重要だと思う」ということである。また朝日ジャーナルには「もし田中さんに何らかの連絡をとりたい方があれば、責任ある手紙をくだされば仲介しますが、匿名など不審なものは黙殺します」とあった。
私は本多氏に今まで何度か質問、依頼などしたことがある。無視されるか、せいぜい3ケ月以上たってから印刷物が送られてくるだけである。いそがしい人だから、それは仕方がないが、今回は念のため仲介を希望した。しかし、3ケ月以上も待てないので迷惑だろうとは思いつつも直接栗原さんの家に伺うことにした。ウィークデーのある日、地図をたよりに郊外を走る私鉄のある駅におりたった。しかし、捜す家は見当たらなかった。新聞に載っていた住所にそんな家はないのである。
あの住所は本当なのかと思いはじめた。そんなことがあってから数日、ひょんなことから栗原氏に関してもう一つの住所がわかった。葉書を出すとともに今度は日曜日に伺ってみた。毎日新聞に載っていた住所は故意かミスか新しく聞いた住所と微妙にちがっていた。新しい住所は同じ駅をはさんで逆と方向である。こんどは簡単に見つかった。しかし留守らしい。玄関の小さな電気はついているがベルを押しても誰も出て来ない。30分ほどまわりをうろうろしていたが結局あきらめた。翌日、おもいきって電話をかけてみた。
奥さんがでてきて、栗原さんは旅行中で今夜帰ってくる、あすの朝もう一度電話を下さい、という。なんとか会えそうな気がして来た。翌日、9時すぎ電話をすると栗原さんが電話口に出た。奥さんから既に聞いていたらしく、こちらの用件はわかってくれたが会いたくないという。私の一方的なお願いだからそういわれるととりつく島もない。栗原さんの都合の」いい時間で結構ですからとくいさがる。あすは剣道大会の審査、あさっては会合、と連日予定があり無理だという。
それなら今日はどうですか、と伺うと11時10分に出かけるからだめだという。じゃその前に10分だけでも、とお願いするとあきらめたらしく本当に10分だけですよと承諾してくれた。それでもすぐこれるか、とか乗り換えが大変だ、とか断りたいらしくいろいろと言う。すぐ行きます、と答えると11時までに来てほしいという。そうすれば10分間の時間はある訳だ。新宿でなく高田馬場から急行に乗れば早いともいう。こっちからみれば一度行っているから栗原さんの玄関がチラチラしている。
大丈夫、わかります、といって電話をきった。もうその時は靴をはいていた。地下鉄、国電、私鉄とすべてタイミングが良く、栗原さんの門の前に立ったのは10時10分だった。一分ほどはずむ息を静めながらベルを押した。栗原さんが出てきた。予想以上に早いのでびっくりしている。「娘に柿を送ってやろうと思ってね」といいながら梱包していた箱を片付けて居間にとうしてくれた。
駅の近くで買い求めた菓子折りをさしだすと「いただく筋のものではありません」と断られた。二千円ほどの菓子折りは、一方的に訪問して話を伺うことに対しての気持ちであり、常識的なことであろう。どういう訳か栗原さんはかたくなっている。その上「簡単にお願いします」と機先を制せられた。「わかりました。お聞きしたいことが二十くらいありますので一つ三十秒づつどんどんお聞きしたいと思います」と答えた。居間に通してくれたものの栗原さんは中腰で顔と口調は緊張している。
「何を知りたいのですか」つっけんどんな言葉がとんでくる。「栗原さんの体験したことは毎日新聞と朝日ジャーナルを読んで充分知っています。それでもよくわからないところがありますのでお聞きしたいのです」

(父の名刺に日付が書いてあるので分かったのですが毎日新聞の福永平和氏が来られたのは8月1日です。本多勝一氏が来られたのは8月10日です。8月7日に毎日新聞に記事が掲載されてからは脅迫手紙や脅迫電話がひっきりなしに続いていましたので柿の荷造りの時期には父はこの件ではどなたともお会いしたくなかったと思います。直接の証言には言及されていませんのでこの部分も特に言うことはありません。)
65 hits

[2600]Re(2):捏造原稿のコピーについ...
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 核心 E-MAIL  - 06/6/8(木) 3:32 -

引用なし
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   栗原さんは応じない。私は続けた。「ああいった体験を発表すると反響がずいぶんあるでしょうね」
まだのってこない。毎日新聞や朝日ジャーナルに証言している位だからインタビューにはなれているはずなのに、といぶかりながら黙っている訳にもいかず困ってしまった。その時ちょうど奥さんが外から戻って来て、お茶を入れてくれた。栗原さんが「どうぞ」とすすめてくれる。指はふとく、手全体がふっくらとしている。剣道八段と書いてあったが、そのせいかなとふとおもった。お茶に手を出しながらいろんなことを考える。
これでは栗原さんの自主的な話は聞けそうもない。こちらの疑問点をどんどんぶつけるしかない。そう思った。
「私が聞いている限り南京で大虐殺があったとは思えません。私は毎日新聞や朝日ジャーナルとは違います。しかし私は南京を見ていない。私が南京大虐殺はなかったといっても栗原さんがあったというのならあったのでしょう。
今まで私は南京にいった人は何人かに会いましたが誰も大虐殺はあったといってません。あったのなら栗原さんから直接聞きたいのです」
栗原さんの顔から緊張の色がとけはじめた。
「スケッチブックという証拠もあるので栗原さんの話は嘘ともおもえません。でも聞く人によって証言が微妙に違って来ます。栗原さんの話を直接自分で聞いて今迄証言されたものと照し合わせてみたいのです」
栗原さんの証言を読んで私なりに何点か疑問がある、1万3千余人の死体といったら5、6階建てのマンションいっぱいの死体である。本当にそんなにいたのか。そして数えたのか。四方から一斉射撃したというが日本兵にあたる恐れはなかったのか。等々。こうなったらハッキリそこまで聞くつもりでいた。

(まず、私の父に幕府山の捕虜虐殺について話したほうがよいと薦めたのは後にも先にも私だけです。軍隊仲間にも知り合いにも身内にもいません。私の場合も結果的にそうなっただけなのですけど。最も面倒みた戦友からも「話したほうがいいなんていう息子は馬鹿息子だ」なんて言われてましたから。
『何人かに会いましたが誰も大虐殺はあったとはいってません。』というのは本当の話でしょう。その戦友の方が生前、この騒動以来、梨を毎年送ってこられるようになるのですけど。軍隊仲間ではこの話は外部には話さないということが当然の如く話されていたのだと思います。長い間、県知事を勤められていた木村守江さんは65連隊の軍医でしたから、そういったことも影響していたのでしょう。父は県人会の旅行で福島に行くときは必ず木村守江さんをお訪ねしていました。)
60 hits

[2601]Re(3):捏造原稿のコピーについ...
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 核心 E-MAIL  - 06/6/8(木) 7:26 -

引用なし
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   (木村守江さんは歩65残桜会の最高顧問でした。父の名刺によると平林貞冶氏は昭和61年9月13日にお会いしていますが歩65残桜会の当時の会長です。)
72 hits

[2602]Re(3):捏造原稿のコピーについ...
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 核心 E-MAIL  - 06/6/8(木) 21:44 -

引用なし
パスワード
   「私が聞いている限り南京で大虐殺があったとは思えません。私は毎日新聞や朝日ジャーナルとは立場が違います。しかし私は南京を見ていない。栗原さんは見ている。私が南京大虐殺はなかったといっても栗原さんがあったというのならあったのでしょう。今まで私は南京にいった人と何人かに会いましたが誰も大虐殺はあったといってません。あったのなら栗原さんから直接聞きたいのです。
栗原さんから緊張の色がとけはじめた。「スケッチブックという証拠もあるので栗原さんの話は嘘とも思えません。でも聞く人によって証言が微妙に違ってきます。栗原さんの話を直接自分で聞いて今まで証言されたものと照らし合わせてみたいのです」
栗原さんの証言を読んで私なりに何点か疑問がある。1万3千余人の死体といったら5・6階建てのマンションいっぱいの死体である。本当にそんなにいたのか。等々。こうなったらハッキリそこまで聞くつもりでいた。すると、
「あなたが今まで書いたものとかありますか」と栗原さんはいった。あわててバックを捜すと偶然に私が今迄書いたコピーがあった。「こういうものを私なりに書いています」と出すと、ちょっとそれを見ながら「毎日新聞には言いもしないことを書かれました。自分の言いたいことが逆になった」という。私はびっくりした。「それはどういうことですか」と聞くと、それまで中腰だった栗原さんは座りなおして語りはじめてくれた。

(まず私の父は軍隊で報告書を書くのは自分の役目であり、上官はそれをまとめ書きするだけだ。つまり父の書いた内容が最終、隊の報告書になるのだと言ってました。父は達筆で習字は何段かだったと思います。長兄を中村春堂さんに習わせていたくらいですから。春堂さんから頂いた新築祝いの額もあります。当時の編成表なども残っていますがとてもきれいな字体です。また両角さんくらいになると現場のことは全く分からないのだとも言ってます。当然、現場にもいってなかったということです。
また父は幕府山の虐殺について『自分の言いたいことが逆になった』などと言うことは一度も口にしていません。なぜ話すことを禁じられるのか分からないということです。父を知っている人は誰でも知っている父の口癖は「俺は正直だ、俺は嘘をつかない」です。嘘なんてものがつけないのだと思います。『言いもしないことを書かれた』なんてことも一言も聞いたことはありません。
この筆者の捏造の第一のポイントは父は間違ったことを書かれたと言ったとしている点です。こんな話は聞いたとこがありません。上述の話で戦友に「子供も話した方がいいと言う子供もいる、話さない方がいいと言う子供もいる」とは言ってますが、間違ったことを書かれて困っているなんてことは一言も口にしていません。)
59 hits

[2603]Re(4):捏造原稿のコピーについ...
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 核心 E-MAIL  - 06/6/9(金) 15:16 -

引用なし
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   栗原さんの語ってくれた半生と戦争体験そして南京での出来事は次のようなものであった。
栗原さんは明治の末に生まれ、初年兵として満州事変に出征し、支那事変を青年のまっただ中でむかえ、応召兵として再び出征した。そして満州事変、上海上陸、南京攻略戦、徐州会戦、漢口攻略とつねに最前線で戦ってきた。血と汗と涙の体験の連続である。殺して、殺される、そういう日々だった。人間としてぎりぎりの日々を体験した。満州では排便に使った泥だらけの手で戦友に御飯を与える。与えざるを得なかったし、戦友もそれを食べる。戦友に御飯を持って行こうと敵弾の中を匍匐前進する兵。その兵が敵弾に当たって死んでも手も足も出せない自分。まわりに迫撃砲が炸裂する最前線。二メートル前進した時、二分前まで立っていた場所で迫撃砲が炸裂した。両親が見守ってくれていると思った。前進中、近くで迫撃砲が炸裂し「分隊長がやられた」と部下の叫ぶ声を土の中で聞いた時もある。
徐州大会戦では、徐州の中心地に分隊長として最初に入った。あとで入って来た岩仲戦車隊は栗原さんを中国兵とおもって撃って来た。間もなく中心の塔を占領したが日本の飛行機は塔のまわりに爆弾を投下する。ゆれる塔からあわてて日の丸を出した。このような経験を何度もした。

(この部分は捏造にはほとんど関係ありません。最後の一文だけ小文字の挿入文です。)
63 hits

[2604]Re(5):捏造原稿のコピーについ...
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 核心 E-MAIL  - 06/6/9(金) 17:16 -

引用なし
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   南京攻略戦では戦友を次々失った。鳥龍山近くに来た時は半分以下に減ってしまった。誰が死んでもおかしくない状況だった。幕府山近くで、栗原さんが分隊長をしている11人は120人の捕虜をつかまえた。武装解除して進む。他の部隊も捕虜をつかまえその合計は13500人捕虜をつかまえたと聞いていた。南京攻略戦全体では7万の捕虜だとも聞いた。捕虜は廠舎に収容した。自分たちにも充分食べるものがなかったがそれでも捕虜たちには中国の茶碗一杯づつおかゆを食べさせた。
次の日はもう食べる物がなくて捕虜の半分にしかゆきわたらなかった。まもなく捕虜を揚子江の中洲に放すというので一個大隊、135人で護送した。13500人とは聞いていたが実際の捕虜の数は4千から6千ぐらいだったろう。捕虜の仲には教導総隊のみるからにしっかりした兵もいた。4列か8列かにして護送した。栗原さんは列の一番最後にいた。最初に江岸についた捕虜は座って待っていたが全員が着く迄2・3時間かかった。薄暗くなってきた。栗原さんがまだ護送している頃、江岸に着いていた先頭では暴動がおきた。日本の将校が殺されたと聞いた。そんな動揺が伝わってきて混乱がおき、その中で射撃がはじまった。ほぼ全員射殺で、日本側も何人か死んだ。最初から射殺するつもりで江岸に集めたのではない。上のほうはどうだったのかわからないが殺すか殺されるかの戦争の継続の中で虐殺ではない。
栗原さんの戦争体験、南京体験はこのようなものであった。

(ここは思いっきり捏造されている部分です。捕虜に食べさせた食料は捕虜の投降した砲台で保管していた食料をです。『実際の捕虜の数は4千から6千ぐらい』なんてことも聞いてません。父はこのような曖昧なものの言い方が出来る人ではありませんから父を知る人には奇異に感じる内容です。『2・3時間』もつじつまあわせの表現です。『暴動がおきた』ではありません。必死になった捕虜の一人が紐をほどき将校の刀を抜いて襲い掛かったという話です。事前に「なにかあったら一斉に撃て」と言われていて、その時をキッカケに一斉射撃、水平撃ちが三方から始まったのです。日本側に死者はいません。事前に機銃(?)を隠しておいて捕虜から見えないようにしていて一斉射撃をしたと言ってます。
父は『虐殺』と言わず「処分」といいますが具体的事実は同じです。)
66 hits

[2610]Re(6):捏造原稿のコピーについ...
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 核心 E-MAIL  - 06/6/10(土) 10:58 -

引用なし
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   戦争の苦しさ、つらさを充分に体験しているように見えた。戦友の一人は今でも両足切断で国府津にいるという。栗原さんは満州事変から徐州作戦まで働いたということで金鵄勲章をもらったが誇りにおもっている。徐州作戦では「麦と兵隊」で有名な第13師団として参加している。現在はマメで世話好きなこともあり、老後とはいえいそがしい毎日を送っている。いたって元気ではあるが73才とはいえ平均寿命に近い。
その栗原さんが7月22日の毎日新聞を手にびっくりした。社会面のトップには「南京大虐殺、中国側、初の史料で立証」という大きい見出しがでており、中国側の史料によれば中国側の史料によれば30余万人が南京で虐殺された、と報じていたからである。
これを読んで栗原さんは「正義感に燃え」、毎日新聞に抗議の電話をした。今まで大虐殺があったと新聞などは伝えていた。しかしこれほどの大々的な記事ははじめてである。このままにしていたら日本人が30万人の中国人を殺してことになる。南京攻略戦に参加し、自分の目でみてそれはありえない。そう思って抗議した。電話のやりとりがあり、記者が栗原さんを訪れることになった。訪れた毎日新聞の記者に栗原さんは私に話してくれたと同じ体験を話した。その時昭和13年、漢口攻撃戦で負傷して入院中に書いたスケッチブックをみせ「捕虜の殺戮は戦争の一部であり虐殺ではなく、中国の本に載っているようなことはなかった」と語った。
その話が8月7日に記事になった。読んでみてびっくりした。毎日新聞では4〜6千人の捕虜が「13500人」になり、暴動と混乱の中で攻撃が始まったのが「後ろ手に縛られ、身動きもままならなかった捕虜が集団で暴動を起こすわけない。虐殺は事実」になった。
「言ってないことが記事になり、30万人虐殺に抗議したのが一転して虐殺の証人になった。全く逆になった」と栗原さんはくやんだ。

(この部分は殆ど捏造です。この筆者は毎日新聞の記者から父がどのように聞かされて取材を受けたのか全く知らないようです。私が確認したところでは「父がもっともよく知っていると聞いて取材に来た」と聞きました。毎日新聞の記者の方は南京事件や幕府山の捕虜虐殺につき事前に福島などで取材し、それで父を知ったということだったようです。それに毎日新聞に載った記事を見て父がビックリしたというのもありえません。ビックリしたくらいなら直後に本多さんの取材はうけるハズがありませんから。また父は新聞社に抗議の電話をするようなタイプの人間ではありません。)
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[2612]Re(6):捏造原稿のコピーについ...
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 核心 E-MAIL  - 06/6/10(土) 13:49 -

引用なし
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   新聞に栗原さんの証言が出ると、「嘘つき」「馬鹿野郎」という抗議の手紙が十通ほどきた。昔の戦友からも一通きた。後輩なのでこれは事実をいってわかってもらった。逆に同じくらいよく告白してくれたという激励の手紙も来た。変な気持ちになったそうだ。
手紙のほかに人が尋ねてきた。防衛庁の戦史の方も二人が来た。5分だけどと言って朝の9時ごろ来たが結局午前中いた。
「防衛庁の人は黙って話を聞いていたが防衛庁でも事実は知ってるはずですから私の話に納得したはずです」という。
世界日報の記者が来た。朝日新聞の本多記者も来た。何年か前、南京大虐殺とよくいわれるようになった。その時から栗原さんは南京大虐殺に関する本を読んで自分なりにしらべはじめた。自分の個人的体験から大虐殺はなかったと思っているし、大虐殺を主張する本を読んでもあったとも思わないと確信している。
「本多記者は中国人の言う嘘ばかり書いている。ジャーナリストは気が狂っているのではないかと思う。それでも私の家に来た時は毎日新聞の記者に話したような自分の体験を話した。しかし、ここでも裏切られた。朝日ジャーナルを読むと自分の言ったことは書いてあるが、全体として私が言おうとしていることとは別のことになっている。のせられた。自分では捕虜が4千から6千と思うと言ったが1万3千にすりかわっている。
捕虜にはラーメンなどを食べる大きい茶碗で食べさせたが、それが中華料理などで使われる小さな支那茶碗にかわっている。
私は護送だけだったのに小銃で撃ったように書いてある。

(この部分も捏造だらけですね。『後輩』から電話もきました。福島で虐殺を話した方がよいと言うかたは一人もいません。この後輩の方から「話した方がいいなんて言うのは馬鹿息子だ」と言われてしまったのですから。本多氏に父が詳しく話したのはOFF会で話したように私が「歴史的な出来事なので事実を正確に話したほうがよい」と勧めたからです。別に本多さんにのせられたからではありません。
『朝日ジャーナルを読むと』というのも変な話です。父は朝日ジャーナルなんて週刊誌はその存在さえ知らなかったと思います。大体、父は月刊誌や週刊誌の類は購入したことがありませんから。剣窓とか剣道日本とかを定期購読しているだけですから。
『気が狂っている』という言葉は長兄のことを考えれば父の口からは出ない言葉でしょう。明治44年生まれで鬼畜米英で戦ってきた人間には『ジャーナリスト』なんて言葉も不釣合いです。父が横文字言葉を使うのは聞いたことがありません。
究極的な捏造は『護送だけだったのに小銃で撃ったように書いてある』でしょう。これはありえません。)
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[2614]Re(7):捏造原稿のコピーについ...
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 核心 E-MAIL  - 06/6/10(土) 20:50 -

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   江岸での出来事は戦争の流れの一つで、みせたり書いたりすることではないと思っている。
謝家橋鎮では私の部下の松本が負傷して後送される大激戦があったのに本多記者の本には何もなかったと書かれていた。基本的な間違いが多いといってやったんだがね」
本多氏と会った時のことをこう述べているが、この間、何度も「のせられた」と語った。
時間は既に11時を過ぎていた。「防衛庁の時と同じで十分間といってもやっぱり午前中かかるな」といいながらも「満州事変記念写真帳」や「夕陽千万峰」といって栗原さんの所属していた65連隊2中隊の記録などをとりだして説明してくれた。
南京大虐殺についてもスクラップをはじめ十冊ほどの関係書をとりだしてきて説明する。
洞富雄氏の著作を「一部だけとりだして虐殺があったといっている。殺すか、殺されるか、その流れの中の行動であって虐殺ではない。中国兵をこの野郎と思い、にくらしいと思っていた兵隊の気持ちは分からないでしょう。何故こんなことを書くのだろう」

(この筆者はなにか脅しみたいことを言ってきた人だと思います。「お前は人を殺していないことにしてやるから、こっちが書きたいように書くから黙ってろ」みたいな話だったと思います。うちの父が本多さんや洞さんの著作についても批評したことは聞いたことがありません。)
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[2619]Re(8):捏造原稿のコピーについ...
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 核心 E-MAIL  - 06/6/11(日) 17:39 -

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   と手きびしい。
栗原さんの話は八割ほどが戦争・戦闘の話で、残り二割が南京での話である。
戦争のつらさ、生死が背中合わせの状況、敵へのにくしみ、死んでいく戦友、そして戦争が終わった時たまたま栗原さんが生きていた。それが栗原さんの実体験であり実感である。
南京での出来事はその中の一部であり、戦争・戦闘の延長上に捕虜の殺戮があったので、虐殺ではなかった。これも栗原さんの実感である。南京全体のことは一兵士の栗原さんは知る由もないが。

(ということでお仕舞いです。基本的に全く任意に捏造されていることがお分かりいただけたかと思います。この記事の作者と本が分かる方がおりましたら教えていただけますか?掲示板で明らかにすることに差しさわりがある時はメールで教えてください。できたら国会図書館などで確認したいと思います。法的に問題がなければ捏造であることを指摘してK−Kさんのサイトででも掲載していただこうかなと考えているところです。)
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[2624]Re(7):捏造原稿のコピーについ...
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 核心 E-MAIL  - 06/6/12(月) 5:02 -

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   (水平撃ちの時間について以前父に確認した時に、本多氏への証言では1時間になっていますが、私が疑問に思い「1時間では少ないのではないか?」と聞いた時に「2時間か3時間か、いずれにしろ人柱が何回か出来て立っている人がいなくなるほど撃ち続けたんだ」と言ってましたから。)
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[2625]Re(6):捏造原稿のコピーについ...
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 核心 E-MAIL  - 06/6/12(月) 7:26 -

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   (私は父が「数えた」という13500と言う数字は合理的な数だと考えています。135人で50メートルごとに2人づつで警備し、4列から6列ですから、50メートルごとの捕虜の数は200人あまりでしょう。それを60倍すれば12000人ですし、70倍すれば14000人ですから。)
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[2633]Re(7):捏造原稿のコピーについ...
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 核心 E-MAIL  - 06/6/16(金) 23:40 -

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   筆者は「ゼンボー昭和60年3月号」の畠中秀夫氏のようですね。
国会図書館ででも調べてきます。
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[2644]Re(7):捏造原稿のコピーについ...
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 渡辺 E-MAIL  - 06/6/22(木) 22:52 -

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   核心さん:
>(私は父が「数えた」という13500と言う数字は合理的な数だと考えています。135人で50メートルごとに2人づつで警備し、4列から6列ですから、50メートルごとの捕虜の数は200人あまりでしょう。それを60倍すれば12000人ですし、70倍すれば14000人ですから。)

これは、気がつきませんでした。
栗原証言のとおりに、50mおきに2人の兵が 135人配置されると、捕虜の列は約3.3キロの長さに及び、捕虜の前後の間隔を約1mとすれば、証言では4列ですから、確かに3,300x4/1=13,200(人)となりますので、13,500人いたという話と符合します。
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[2645]Re(8):捏造原稿のコピーについ...
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 タラリ E-MAIL  - 06/6/23(金) 13:18 -

引用なし
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   ▼渡辺さん:
>核心さん:
>>(私は父が「数えた」という13500と言う数字は合理的な数だと考えています。135人で50メートルごとに2人づつで警備し、4列から6列ですから、50メートルごとの捕虜の数は200人あまりでしょう。それを60倍すれば12000人ですし、70倍すれば14000人ですから。)

>これは、気がつきませんでした。
>栗原証言のとおりに、50mおきに2人の兵が 135人配置されると、捕虜の列は約3.3キロの長さに及び、捕虜の前後の間隔を約1mとすれば、証言では4列ですから、確かに3,300x4/1=13,200(人)となりますので、13,500人いたという話と符合します。

栗原さんの証言に自身が13500人を数えたという具体的な証言はありません。列については前記阿羅(畠中)聞き取りでは「4列か8列かにして」とあり、確定したものではありません。「50メートルごとに2人づつで警備し、」は証言のどのバージョンにそう書かれているのでしょうか。

何列か、列の前後の間隔が何メートルかは確実な数字がなく、どの仮定をとるかで数はガラガラと変わります。13500人という数字が他の数字と較べて特に合理的であるという根拠は見出せません。

栗原さんの13500人説は捕虜獲得の早期の数字がそのまま、護送のときまで更新をうけず、保存されたものと私は受け取っています。

毎日新聞聞き取りでは
・「第一大隊百三十五名で一万三千余捕虜を降し、敵を武装解除」。
・わが部隊(が殺したたの)は13500であった。
と獲得時と殺害時が(ほぼ)同数です。

十二月十四日早朝からの捕虜獲得において一挙に多数が獲得された時点があったようで、それは目黒福治日記の一万三千人から始まっています。(原文では十二月十三日であるが、後でまとめて書いたための誤記のようである)。当日中に幕府山南麓の収容所において一万五千人を突破したのは確実で、17025人が逐次集計の最後の数字のようです。

捕虜数が何人かという情報の伝播の状況は一律ではなく、栗原さんの場合はその後の増加の情報を得ておらず、当初の数字を連行時までもっていたのだと考えています。
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[2646]Re(9):捏造原稿のコピーについ...
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 核心 E-MAIL  - 06/6/23(金) 14:38 -

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   私はここ数年、自分で疑問に思うことを直接確認しています。
捕虜の数字の13500人についても確認したときに非常に強い調子で「数えた。」と断定的な回答を得ました。
私の受けた感じでは捕虜を出発するときに「数えた」と受け取ったのですが。
捕虜を数えもせずに「処分」することの方が不自然かと考えていたのですが。
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[2647]Re(10):捏造原稿のコピーにつ...
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 核心 E-MAIL  - 06/6/23(金) 15:05 -

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   とりあえず目に付く残桜会関係の資料をあげておく予定でいます。
昭和47年当時、鈴木明氏が平林貞冶氏に聞き取り調査しても事実を話せる状況では無かったことを説明しておきたいと思います。
正直なところ平林氏の証言は殆ど意味がありません。
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[2650]Re(10):捏造原稿のコピーにつ...
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 タラリ E-MAIL  - 06/6/23(金) 22:45 -

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   ▼核心さん:
>私はここ数年、自分で疑問に思うことを直接確認しています。
>捕虜の数字の13500人についても確認したときに非常に強い調子で「数えた。」と断定的な回答を得ました。
>私の受けた感じでは捕虜を出発するときに「数えた」と受け取ったのですが。
>捕虜を数えもせずに「処分」することの方が不自然かと考えていたのですが。

そうですか。捕虜の数字は数えたとおっしゃったのですか。
実際にお聞きになった方には失礼かもしれませんが、数々の証言を比較したり、聞き取りをしたり(これは職業上のこと)、資料をまとめてHPのページを作ったことがある私の立場からすればいろいろ疑問があります。

まず第一に捕虜の数は江岸への連行前に数えた、とおっしゃったのでしょうか。
連行時には捕虜の一人一人をひもで縛ってひもが足りなくなって時間がかかったことが知られています。時間が押しているのに人数を数える余裕があったかなと思います。また、捕虜の概数の認識は持っていたはずで、なぜ、連行時に改めて数え直すだろうか、という疑問があります。

捕虜獲得前に数えたことには何の疑問もありません。未曾有の捕虜を捕まえたということで、いったい何人の捕虜を捕まえたのだろう、とすべての兵士が関心をしめしました。捕虜数に対する関心が一番高かったのがこの時点です。兵士もほとんどのものが日記にそれぞれ捕虜数を記しています。

しかし、その後は急速に捕虜に対する関心は薄れ「支那饅頭うまかった」と日常への関心が高くなります。兵士の日記で捕虜連行前に改めて数えたことを示唆する記述はなく、獲得した捕虜数を充てているか、あるいは殺害後の隊長の訓示の中に出てきた数字を引用するものだけです。

捕虜を収容した14日には14777人で、当日中に17000人以上に増加しています。15日にもさらに捕虜は百の単位で何回か増加しています。同時に少数ずつ引っぱり出しての殺害もあったようです。幕府山西麓にももう一ケ所、収容所があったことは少数の日記でわかります。それらの経過についてはまったく記されておらず、当時からご存じなかったものと思います。

その間の増減を知らなかった、そして捕虜獲得時と連行時の数字が一致している、そういう兵士が他にもいました。目黒福治 伍長(第3大隊)がちょうど栗原氏と同じ認識のようで、獲得時、殺害時ともに1万3000人です。

毎日新聞、本多記者、阿羅聞き取りのいずれでも、連行前に数えたという具体的な証言はありません。捕虜獲得時には兵士個々人でも数えたものが少なくないと思います。これからすると獲得時捕虜数=連行時捕虜数と考えていた可能性は大きいと思います。

それから、もし、連行時に数えたというような証言を最近になってされたとしても、記憶が改変されて、そう思いこむようになったという可能性を否定できません。私は過去多数の聞き取りをしたことがあります。また最近家内は被爆者の聞き取りをしていますが、実に記憶がいい加減なのです。10年前、20年前に別の証言集に書いた内容とものすごく違っているのです。どういう変化を遂げるかというと、印象深い出来事、数字はそれがよりくっきりと出るように改変されてしまい、残余のことが省略され、時間の順序が違ってきたりするのです。

 南京大虐殺関連では最近、裁判になって証言に立った佐藤振寿氏の例があります。
新聞記事では二少尉を一緒になって誉めたとおぼしき箇所があり、1970年頃の週刊新潮の記事では当番兵を交換して斬った人数を数えているという返事を聞いて「それならば話はわかった」と言っているはずなのに、今回の法廷では、「記者はホラを書いた」と思ったと証言しているのです。

これは思うに、最初に聞いたときは、本当かいな!!と強く思った。その記憶の方が本人の心の深部を刺激していて、二少尉がホラを信じさせた言葉は心の表層しか届かなかった。長い年月のうちには表層の記憶が剥落して、本当かかいな!!という感情の方が強く出てきたのです。もちろん、記憶がより鮮明なときであった「週刊新潮」の証言の方が事実です。


捕虜獲得時の13500人が脳に刻みこまれ、数えたやり方も多少記憶に残っている。その記憶が強いと連行前にも数えたかのように、後になると錯覚してしまう。そういう可能性は否定できません。
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[2654]Re(11):捏造原稿のコピーにつ...
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 核心 E-MAIL  - 06/6/24(土) 2:29 -

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   ▼タラリさん:

基本的に私が話したい事は、否定派や矮小派の方たちにより捏造された部分を否定しておきたいだけですから、それ以外の部分は一つの見解として考えていただければ結構です。
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[2659]阿羅聞き取りの解析
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 タラリ E-MAIL  - 06/6/25(日) 18:35 -

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   阿羅聞き取りが捏造であることは明らかですが、聞き取りをした上で、すべてを大幅に作りかえるということはできるものではありません。書き換え、付け加えを行った部分はありますが、逆に言えばそれ以外の部分は真実です。外部に対して証言を始めてから間もない時期であるだけに、記憶はそれ以後よりも保たれています。阿羅聞き取りを毎日新聞、本多聞き取りと較べれば、真実の部分とそうでない部分もある程度区別が付くと思います。

■ [2604]Re(5):捏造原稿のコピーについて■中の阿羅聞き取りの解析

「他の部隊も捕虜をつかまえその合計は13500人捕虜をつかまえたと聞いていた」

たとえば両角連隊長のノートでは初期の捕虜数15300人ですから、「13500人」は阿羅にとって特にじゃまではないはずです。この文章の後半がもし「その合計は私も数えたが13500人だった」であったとしても、「13500人捕虜をつかまえたと聞いていた」と書き換える必然性はありません。この時点における栗原さんの記憶は「13500人捕虜をつかまえたと聞いていた」で間違いありません。

「まもなく捕虜を揚子江の中洲に放すというので」
ここは議論のあるところです。捕虜にそう説明した、ということなのか、それとも軍の方針がそうであると聞かされたというのか、どちらともとれる文章になっています。

◆毎日「中央の島に一時、やる(送る)ためと言って」、「沖合いに中洲があり『あの島に捕虜を収容する』と上官から聞いていたが」、
◆本多「上からの「始末せよ」の命令のもと」、「捕虜たちにはその日の朝「長江の長洲(川中島)へ収容所を移す」と説明した」とあります。

栗原さんの先行する証言が毎日と本多聞き取りで違っています。本多聞き取りの方が正確なのかも知れませんが、一部の兵士や栗原さんは「中洲に収容所を移すと捕虜に説明せよ」、「しかし、何かあれば発砲せよ」と聞かされていた可能性も否定はできません。


「13500人とは聞いていたが実際の捕虜の数は4千から6千ぐらいだったろう」
ここはおかしな書き方です。「13500人とは聞いていたが」−誰かに対して反論を意識したような書き方で証言として不自然。「4千から6千ぐらいだったろう」−もし、(目算で)四千から六千しかいなかったことを見つければ、「おや、十四日と較べて捕虜の数がへっているな、と感じた」などと具体的な【気づき】の記憶を伴ってしかるべきです。

「4列か8列かにして護送した」
聞き取りの時点でそういう記憶であったということです。収容所を出るときは8列でもいいでしょうが、江岸の道は狭いと他の証言にありますから、少なくともそこでは4列にしていると思われます。

「全員が着く迄2・3時間かかった」
この一文はおかしい。すぐ後に出てくるが「列の一番最後にいた」はずの栗原さんが全員が着くまでの時間がどうしてわかったのだろう。本多聞き取りのように栗原さんが「丘陵側の日本兵の列のうち最も東端に近いところ」にいたとすればある程度の時間はわかると思われる。

#核心さんはこの一文を辻褄あわせ、とおっしゃっていますが、どうしてですか。(むしろ、この一文を正としますと、「護送中に暴動発生」が捏造と確定します)

「栗原さんは列の一番最後にいた」、このへんからは、どこと指定は出来ませんが、全体的に文章の流れが悪くなります。
「栗原さんがまだ護送している頃、江岸に着いていた先頭では暴動がおきた」は、本多「このとき田中(栗原)さんがいた位置は、丘陵側の日本兵の列のうち最も東端に近いところだった」とは対立します。阿羅聞き取りでは平林証言の立ち位置と同じになります。

「栗原さんがまだ護送している頃、江岸に着いていた先頭では暴動がおきた」
臨場感がなく、ゆるみのある表現です。
「日本の将校が殺されたと聞いた」
暴動が起きたという状態において護送中の栗原さんにそのような情報が届くことはありえません。
列の最後尾にいたという平林(田中聞き取り版)は
−翌朝私は将校集会所で、先頭付近にいた1人の将校(特に名は秘す)が捕虜に帯刀を奪われ、刺殺され、兵6名が死亡、10数名が重軽傷を負った旨を知らされた。−
つまり、日本の将校が殺された、と知ったのは翌日です。

「その中で射撃がはじまった。ほぼ全員射殺で、日本側も何人か死んだ」
ほぼ全員射殺(つまり、四千ないし六千)というのは両角連隊長の「僅少」、平林証言の千から三千を上回る。

ところで平林証言では護送中の捕虜までが暴れ出したかのように書き、軍刀を振り回しつつ逃げた、という。かなりおかしな状況説明だが、栗原さんの阿羅聞き取りではさらに不審な点が出てくる。
この証言では、結果は「ほぼ全員射殺」とあるから、護送中の捕虜も殺したことになる。しかし、江岸の細い道を護送中の捕虜は逃げようとしても逃げにくいし、護送中の兵士も捕虜を射撃することは困難である。ところが、なにがあったのか一切説明がない。状況の説明もまったくなく、殺した経過についてもまったく書かない。殺した経過は特に強い印象が残る記憶となり、必ず証言があるべきである。その証言がない聞き取りというのは改竄に間違いない。

「最初から射殺するつもりで江岸に集めたのではない。上のほうはどうだったのかわからないが殺すか殺されるかの戦争の継続の中で虐殺ではない」
真実を言うものは、このような言い訳のような説明はいちいちしない。証言した状況だけで意図の説明は終わるのである。

連行捕虜数は事実を削除して両角ノートや平林証言をつぎはぎしたと考えられる。それでも数が六千と脹らんだ。ウソを書くときはなかなかズバッと書けず、幾分かは遠慮が出るものです。その気後れが六千という数字を思わず許容したと考えられます。

虐殺場面には平林証言をつぎはぎしたと考えられる。なぜ、つぎはぎをしたかと言えば、捕虜を包囲したあとでの栗原さんの動作を創作することが困難だったためである。機関銃八挺、機関銃若干数と歩兵銃135挺で包囲していて、捕虜が反逆、逃亡を企てるという説得力のある経過を具体的にイメージすることが困難であった。そこで平林証言でも江岸の広場で捕虜が反逆した経過は、護送中なので見ていないことにして避けたのである。阿羅聞き取りも、新たな虐殺場面の創作は困難であると見て、すでにある、平林証言をベースにして栗原証言を書き換えたと考えられる。

その上で13500人はまったく可能性のない数字ではありません。魚雷営での虐殺時に私が推定した幕府山南麓の収容所から3500人くらいを抽出、連行したという可能性も否定はできません。
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[2660]Re(1):阿羅聞き取りの解析
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 タラリ E-MAIL  - 06/6/25(日) 18:58 -

引用なし
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   私は「南京事件の真実」−「平林証言の田中正明聞き取り版」において、

◆一言で言うとこの聞き取りは両角回想ノートと田中正明聞き取りによる栗原証言をつなぎ合わせるための接着剤であった

と書きました。ところが『南京事件の総括』を今回読んでみますと田中正明は栗原氏に会っていませんでした。この点は訂正しないといけません。私が「田中正明聞き取りによる栗原証言」と誤読していたのは阿羅による栗原証言聞き取りでした。

もうひとつ、私は「阿羅による栗原証言聞き取り」が先に成立していて(独立して成立していて)、その後に平林証言の田中正明聞き取り版が成立したと思っていましたが、どうもそうではないようです。結論的には阿羅と田中によるコラボレーションであって、同時捏造・改竄のようです。

つまり、両角回想ノート(昭和四十年頃?)、
平林証言の鈴木明聞き取り版(四十七年)があり、
その後に栗原証言の毎日新聞(五十九年八月七日)、
本多聞き取り(五十九年九月七日、十四日)が出てきた。
危機感を抱いた阿羅(当時は畠中を名乗る)が直後に毎日、本多聞き取りを否定すべく、栗原さんに会見をした(五十九年十月末か十一月頃)、ということになります。

#核心さん、阿羅会見の日付は特定出来ますか。また、原稿が送られてきた日付は特定できますか。(会見については柿の出荷時期と核心さんは書いておられます)

阿羅が栗原聞き取りを改竄して紙上に発表したのは「ゼンボー」(六十年三月号)です。毎日、本多聞き取りに反撃するためとしては時期が遅い感じです。なぜ、遅くなったのか。


田中正明もまた、栗原さんに会おうとしたと書いています。

―――――――引用開始 『南京事件の総括』 pp187――――――――――――――
 実は筆者も電話で栗原氏に真意をきいてみた。氏は電話口で、「毎日新聞にも本多氏にも、言いもしないことを書かれた。自分の本当に言いたいことは書かないで、結果的には逆なことになってしまった。悔やんでいる」としきりに嘆いていた。
 二度電話したがアポイントがとれないので、私は福島にとび、この捕虜事件に関係した第六十五連隊の連隊砲小隊長平林貞治氏(当時少尉)にお目にかかり事件の真相を聴取した。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

ところが田中正明が栗原さんに会って真意を確かめる必要は、平林貞治氏への聞き取りが済むと消失したらしい(笑)。その後は会おうとしていない。ここからすると、電話口では栗原氏の一貫した主張に手を焼いて会見は放棄した。その代わり平林証言を捏造して阿羅版栗原証言と内容は同じだからこちらのほうが真実だ、という捏造をしたということでしょう。

その結果できあがった平林証言田中聞き取り版は鈴木明聞き取り版とは似てもにつかぬもので、栗原証言阿羅聞き取り版と共通点があります。では、どちらが先に捏造されたのか−平林証言田中聞き取り版でしょう。

なぜなら、平林証言は砲兵である平林氏が軍刀、部下の兵士はゴボウ剣を振り回して逃げる、など具体的な状況が書かれていますから、田中正明が平林氏と膝詰めで創作したと思われます。阿羅版栗原証言は殺害場面は平林証言の骨格部分ですから、平林証言が元で阿羅版栗原証言はそれを移植したものと思われます。

また、阿羅は取材が十月末から、十一月、発表が翌年三月号とちょっと間があります。この間に阿羅と連絡を取り合った田中正明が平林証言田中聞き取り版を捏造し、それを下敷きにして阿羅が栗原証言の重要部分を改竄したと思われます。

なので、田中正明が栗原氏に電話した時期や、田中正明が平林氏にあった時期がわかれば面白いわけです。また、田中正明が昭和六十二年二月初版以前において平林証言を雑誌などに発表していればその日付に興味が持たれます。
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