テストリライト(1)
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捏造原稿のコピーについて
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[2596]捏造原稿のコピーについて
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2596;id=sikousakugo#atop
につづくスレッドのうち、核心さんの報告部分をリライトしました。
#001-------------------------------------------------------[2596]
私の父(栗原利一)の証言は毎日新聞、朝日ジャーナルに記事が掲載された後にいろいろな方に捏造されてきたことはOFF会で述べた通りです。---#k001
自宅まで来られた方で父の証言を捏造された方の原稿のコピーが、つい最近見つかりました。作成者は不明です。多分、父に取材後に確認の意味で送られてきたものだと思われます。---#k002
原稿は女性の筆跡で清書されたものです。---#k003
筆者が捏造に苦慮した部分は細かい文字での挿入文が多用されています。---#k004
原稿のコピーを見ただけでも外観的に捏造であることの分かる文面になっています。どの部分が父と長年暮らして来た者として不自然であり、ここ数年、父と話している話と食い違うか説明して行きたいと思います。---#k005
40ページにわたる原稿ですので最初の部分から記述してゆきたいと思います。---#k006
昭和12年12月に日本は中国の首都南京を陥落させたが、後にこの時、大虐殺がおきたとされた。この南京大虐殺に関しては林房雄氏が15年ほどたってからおおよそ次の様に述べている。
「かくすことも誇張も必要ない。日本人自身の手によってはっきりさせるべきだ」
今から20年前のことである。---#n001
私は林氏のこの意見には全く同感で、しかもこの林房雄氏の問題提起に結論は出たと思っていた。しかし、新聞、教科書などをみていると社会一般は私の思っていたものとちがうようだ。そこで私なりに南京大虐殺について調べ始めた。改めて当時書かれたものや戦後発表されたものを読むと百人百様である。当時の南京を詳しく述べているのに虐殺については一言も言及してしていない書物もある。これらを別にしても、南京で殺された人は百人か2百人という人から30数万人という人まで様々である。---#n002
既に歴史上の出来事になっている訳でもないのにあまりにもくいちがっている。そう思った時、まだ当時の南京を知ってる人がいるだろうから直接その人に会って確かめるのが手取り早いと思った。昭和12年12月に南京に行った人は20才すぎの若い兵隊から60才の松井中支派遣軍総司令官まで、多くの人がいた。それから47年。大東亜戦争緒戦の嚇々たる戦果、敗戦、経済困窮、高度経済成長、石油ショック、様々な出来事があり、ほぼ半世紀を経過している。---#n003
当時もっとも若かった人でも既に68・9才になっており、大部分は既に亡くなっている。しかし誰もいない訳ではなく、この半年の間に10人ほどの人に会えた。会っただけでは無意味なので聞き書きをしてそれを公表するようにしている。この聞き書きはその一部である。---#n004
第65連隊の兵士として南京攻略戦に参加した栗原利一さんを知ったのは毎日新聞の社会面に載った記事からである。昭和59年8月7日の毎日新聞に次の様な見出しが載っていた。---#n005
南京捕虜1万余人虐殺
元陸軍伍長、スケッチで証言
ドキッとするような見出しである。内容は東京小平市に住む栗原利一さん(73才)の話と証言で、記事によると南京攻略中の第13師団(仙台)の第65連隊(会津若松・連隊長両角業作大佐)は12月14日、南京城外の幕府山で1万3千余名の捕虜をとらえ、17日か18日にこの捕虜を揚子江岸につれて行き、四方から一斉射撃をして殺した。---#n006
栗原さんも65連隊の一兵士として捕虜を連行し射殺した。栗原さんはそのことを自ら証言し、当時書いたスケッチも証拠としてもっている、というものである。証言するにいたった動機は「真実はきちんと後世に伝えたい」からと毎日新聞は伝えている。---#n007
幕府山の捕虜については既に当時から知られており、昭和12年12月の東京朝日新聞は鳥龍山、幕府山で14、777を捕虜にしたと伝えていた。また福島民友新聞社の昭和14年の戦史は2万人の捕虜があったと伝えている。この捕虜戦果が捕虜虐殺に一転したのは20年後である。昭和12年当時福島民友新聞の記者だった秦賢助氏が昭和32年の「日本週報」に「捕虜の血にまみれた白虎部隊」と題する回想記を書き、その中で12月15日、白虎部隊は2万の捕虜を虐殺したと暴露した。白虎部隊とは65連隊の編成地からとった別称である。---#n008
昭和40年、福島民友新聞は第65連隊についての歴史「郷土部隊戦記」を連載した。これは微に入り細に渡ったもので、両角連隊長、従軍作家、兵士ら健在であった多数の証言をてらしあわせた正確なものであった。この中ではさきほどの秦氏の証言をもとりあげ、昭和12年当時秦氏は従軍しておらず、虐殺はなかったと断定している。昭和47年、洞富雄氏が自著「南京事件」のなかで再び1万4千余人の捕虜のことをとりあげた。---#n009
洞氏は「東京朝日新聞」と「日本週報」は知っていたが「郷土部隊戦記」のことは知らないらしく、自著「南京事件」の冒頭で冒頭でこの捕虜がどうなったかと疑問を投げ、結局虐殺されたといっている。その直後、鈴木明氏が南京大虐殺のルポルタージュにとりくみ「”南京大虐殺”のまぼろし」を発表した。この時は両角部隊長は亡くなっていたが、その上にあたる山田栴二旅団長は86才で健在で、鈴木氏は福島、仙台に行って取材をしている。それによれば8千人くらいの捕虜を揚子江の向こうに釈放する途中暴動がおき混乱の中で射殺した、ということであった。---#n010
鈴木氏の著書はベストセラーになった上、今も文庫本になって読まれているのは言うまでもない。この鈴木氏の説が今では定説になっている。---#n011
今回の栗原さんの証言と証拠はこれを覆すものである。鈴木氏のルポルタージュは何人かからの取材である。一方、栗原さんの証言は一人ではあるが当時のスケッチという証拠もある。どちらが正しいのだろうか。どちらかに虚偽の証言があるのか。---#n012
この部分は父の証言はありませんので特に説明することはありません。---#k007
#002-------------------------------------------------------[2598]
あるいは間違って記憶していたのか。さもなくば記者による何らかの操作か。これらのうちのどれかしかない。一体どれなのか私は確かめたかった。そしてそれ以上に、栗原さんが当時の南京を知っていると聞いたからには是非会わねばならないと思った。---#n013
毎日新聞に載っていた住所をたよりに、一度お会い出来れば、と葉書を差し上げた。一週間たっても二週間たっても返事はこない。折から「朝日ジャーナル」では本多勝一氏が「南京への道」を連載中で、さっそく21回目(9月7日号)と22回目(9月14日号)でこの証言をとりあげた。---#n014
栗原さんは「南京への道」では田中という仮名で登場、捕虜全員虐殺というストーリーの中で決定的な証言をしている。朝日ジャーナルによれば、証言するにいたった動機は
「南京陥落後、無抵抗の捕虜を大量処分したことは事実だ。この事実をいくら日本側で否定しても、中国に生き証人がいくらでもいる以上かくしきれるものではない。事実は事実としてはっきり認め、そのかわり中国側も根拠のない誇大な数字は出さないでほしいと思う。
あと20年もたてば、もう事実にかかわった直接当事者は両国ともほとんどいなくなってしまうだろう。今のうちに、本当に体験した者が、両国ともたがいに正確な事実として言い残しておこうではないか。真の日中友好のためにはそのような作業が重要だと思う」
ということである。また朝日ジャーナルには、「もし田中さんに何らかの連絡をとりたい方があれば、責任ある手紙をくだされば仲介しますが、匿名など不審なものは黙殺します」とあった。---#n015
私は本多氏に今まで何度か質問、依頼などしたことがある。無視されるか、せいぜい3ケ月以上たってから印刷物が送られてくるだけである。いそがしい人だから、それは仕方がないが、今回は念のため仲介を希望した。しかし、3ケ月以上も待てないので迷惑だろうとは思いつつも直接栗原さんの家に伺うことにした。ウィークデーのある日、地図をたよりに郊外を走る私鉄のある駅におりたった。しかし、捜す家は見当たらなかった。新聞に載っていた住所にそんな家はないのである。---#n016
あの住所は本当なのかと思いはじめた。そんなことがあってから数日、ひょんなことから栗原氏に関してもう一つの住所がわかった。葉書を出すとともに今度は日曜日に伺ってみた。毎日新聞に載っていた住所は故意かミスか新しく聞いた住所と微妙にちがっていた。新しい住所は同じ駅をはさんで逆と方向である。こんどは簡単に見つかった。しかし留守らしい。玄関の小さな電気はついているがベルを押しても誰も出て来ない。30分ほどまわりをうろうろしていたが結局あきらめた。翌日、おもいきって電話をかけてみた。---#n017
奥さんがでてきて、栗原さんは旅行中で今夜帰ってくる、あすの朝もう一度電話を下さい、という。なんとか会えそうな気がして来た。翌日、9時すぎ電話をすると栗原さんが電話口に出た。奥さんから既に聞いていたらしく、こちらの用件はわかってくれたが会いたくないという。私の一方的なお願いだからそういわれるととりつく島もない。栗原さんの都合のいい時間で結構ですからとくいさがる。あすは剣道大会の審査、あさっては会合、と連日予定があり無理だという。---#n018
それなら今日はどうですか、と伺うと11時10分に出かけるからだめだという。じゃその前に10分だけでも、とお願いするとあきらめたらしく本当に10分だけですよと承諾してくれた。それでもすぐこれるか、とか乗り換えが大変だ、とか断りたいらしくいろいろと言う。すぐ行きます、と答えると11時までに来てほしいという。そうすれば10分間の時間はある訳だ。新宿でなく高田馬場から急行に乗れば早いともいう。こっちからみれば一度行っているから栗原さんの玄関がチラチラしている。---#n019
大丈夫、わかります、といって電話をきった。もうその時は靴をはいていた。地下鉄、国電、私鉄とすべてタイミングが良く、栗原さんの門の前に立ったのは10時10分だった。一分ほどはずむ息を静めながらベルを押した。栗原さんが出てきた。予想以上に早いのでびっくりしている。---#n020
「娘に柿を送ってやろうと思ってね」
といいながら梱包していた箱を片付けて居間にとうしてくれた。---#n021
駅の近くで買い求めた菓子折りをさしだすと
「いただく筋のものではありません」
と断られた。二千円ほどの菓子折りは、一方的に訪問して話を伺うことに対しての気持ちであり、常識的なことであろう。どういう訳か栗原さんはかたくなっている。その上
「簡単にお願いします」
と機先を制せられた。---#n022
「わかりました。お聞きしたいことが二十くらいありますので一つ三十秒づつどんどんお聞きしたいと思います」
と答えた。居間に通してくれたものの栗原さんは中腰で顔と口調は緊張している。---#n023
「何を知りたいのですか」つっけんどんな言葉がとんでくる。「栗原さんの体験したことは毎日新聞と朝日ジャーナルを読んで充分知っています。それでもよくわからないところがありますのでお聞きしたいのです」---#n024
父の名刺に日付が書いてあるので分かったのですが毎日新聞の福永平和氏が来られたのは8月1日です。本多勝一氏が来られたのは8月10日です。8月7日に毎日新聞に記事が掲載されてからは脅迫手紙や脅迫電話がひっきりなしに続いていましたので柿の荷造りの時期には父はこの件ではどなたともお会いしたくなかったと思います。直接の証言には言及されていませんのでこの部分も特に言うことはありません。
---#k008
#003-------------------------------------------------------[2600]
栗原さんは応じない。私は続けた。
「ああいった体験を発表すると反響がずいぶんあるでしょうね」---#n025
まだのってこない。毎日新聞や朝日ジャーナルに証言している位だからインタビューにはなれているはずなのに、といぶかりながら黙っている訳にもいかず困ってしまった。その時ちょうど奥さんが外から戻って来て、お茶を入れてくれた。栗原さんが
「どうぞ」
とすすめてくれる。指はふとく、手全体がふっくらとしている。剣道八段と書いてあったが、そのせいかなとふとおもった。お茶に手を出しながらいろんなことを考える。---#n026
これでは栗原さんの自主的な話は聞けそうもない。こちらの疑問点をどんどんぶつけるしかない。そう思った。
「私が聞いている限り南京で大虐殺があったとは思えません。私は毎日新聞や朝日ジャーナルとは違います。しかし私は南京を見ていない。私が南京大虐殺はなかったといっても栗原さんがあったというのならあったのでしょう。
今まで私は南京にいった人は何人かに会いましたが誰も大虐殺はあったといってません。あったのなら栗原さんから直接聞きたいのです」---#n027
栗原さんの顔から緊張の色がとけはじめた。
「スケッチブックという証拠もあるので栗原さんの話は嘘ともおもえません。でも聞く人によって証言が微妙に違って来ます。栗原さんの話を直接自分で聞いて今迄証言されたものと照し合わせてみたいのです」---#n028
栗原さんの証言を読んで私なりに何点か疑問がある、1万3千余人の死体といったら5、6階建てのマンションいっぱいの死体である。本当にそんなにいたのか。そして数えたのか。四方から一斉射撃したというが日本兵にあたる恐れはなかったのか。等々。こうなったらハッキリそこまで聞くつもりでいた。---#n029
まず、私の父に幕府山の捕虜虐殺について話したほうがよいと薦めたのは後にも先にも私だけです。軍隊仲間にも知り合いにも身内にもいません。私の場合も結果的にそうなっただけなのですけど。最も面倒みた戦友からも「話したほうがいいなんていう息子は馬鹿息子だ」なんて言われてましたから。---#k009
『何人かに会いましたが誰も大虐殺はあったとはいってません。』というのは本当の話でしょう。その戦友の方が生前、この騒動以来、梨を毎年送ってこられるようになるのですけど。軍隊仲間ではこの話は外部には話さないということが当然の如く話されていたのだと思います。長い間、県知事を勤められていた木村守江さんは65連隊の軍医でしたから、そういったことも影響していたのでしょう。父は県人会の旅行で福島に行くときは必ず木村守江さんをお訪ねしていました。---#k010
#004-------------------------------------------------------[2601]
木村守江さんは歩65残桜会の最高顧問でした。父の名刺によると平林貞冶氏は昭和61年9月13日にお会いしていますが歩65残桜会の当時の会長です。---#k011
#005-------------------------------------------------------[2602]
「私が聞いている限り南京で大虐殺があったとは思えません。私は毎日新聞や朝日ジャーナルとは立場が違います。しかし私は南京を見ていない。栗原さんは見ている。私が南京大虐殺はなかったといっても栗原さんがあったというのならあったのでしょう。今まで私は南京にいった人と何人かに会いましたが誰も大虐殺はあったといってません。あったのなら栗原さんから直接聞きたいのです。」
栗原さんから緊張の色がとけはじめた。
「スケッチブックという証拠もあるので栗原さんの話は嘘とも思えません。でも聞く人によって証言が微妙に違ってきます。栗原さんの話を直接自分で聞いて今まで証言されたものと照らし合わせてみたいのです」---#n030
栗原さんの証言を読んで私なりに何点か疑問がある。1万3千余人の死体といったら5・6階建てのマンションいっぱいの死体である。本当にそんなにいたのか。等々。こうなったらハッキリそこまで聞くつもりでいた。すると、
「あなたが今まで書いたものとかありますか」
と栗原さんはいった。あわててバックを捜すと偶然に私が今迄書いたコピーがあった。---#n031
「こういうものを私なりに書いています」
と出すと、ちょっとそれを見ながら
「毎日新聞には言いもしないことを書かれました。自分の言いたいことが逆になった」
という。私はびっくりした。
「それはどういうことですか」
と聞くと、それまで中腰だった栗原さんは座りなおして語りはじめてくれた。---#n032
まず私の父は軍隊で報告書を書くのは自分の役目であり、上官はそれをまとめ書きするだけだ。つまり父の書いた内容が最終、隊の報告書になるのだと言ってました。父は達筆で習字は何段かだったと思います。長兄を中村春堂さんに習わせていたくらいですから。春堂さんから頂いた新築祝いの額もあります。当時の編成表なども残っていますがとてもきれいな字体です。また両角さんくらいになると現場のことは全く分からないのだとも言ってます。当然、現場にもいってなかったということです。---#k012
また父は幕府山の虐殺について『自分の言いたいことが逆になった』などと言うことは一度も口にしていません。なぜ話すことを禁じられるのか分からないということです。父を知っている人は誰でも知っている父の口癖は「俺は正直だ、俺は嘘をつかない」です。嘘なんてものがつけないのだと思います。『言いもしないことを書かれた』なんてことも一言も聞いたことはありません。---#k013
この筆者の捏造の第一のポイントは父は間違ったことを書かれたと言ったとしている点です。こんな話は聞いたとこがありません。上述の話で戦友に「子供も話した方がいいと言う子供もいる、話さない方がいいと言う子供もいる」とは言ってますが、間違ったことを書かれて困っているなんてことは一言も口にしていません。---#k014
#005-------------------------------------------------------[2603]
栗原さんの語ってくれた半生と戦争体験そして南京での出来事は次のようなものであった。
栗原さんは明治の末に生まれ、初年兵として満州事変に出征し、支那事変を青年のまっただ中でむかえ、応召兵として再び出征した。そして満州事変、上海上陸、南京攻略戦、徐州会戦、漢口攻略とつねに最前線で戦ってきた。血と汗と涙の体験の連続である。殺して、殺される、そういう日々だった。人間としてぎりぎりの日々を体験した。満州では排便に使った泥だらけの手で戦友に御飯を与える。与えざるを得なかったし、戦友もそれを食べる。戦友に御飯を持って行こうと敵弾の中を匍匐前進する兵。その兵が敵弾に当たって死んでも手も足も出せない自分。まわりに迫撃砲が炸裂する最前線。二メートル前進した時、二分前まで立っていた場所で迫撃砲が炸裂した。両親が見守ってくれていると思った。前進中、近くで迫撃砲が炸裂し「分隊長がやられた」と部下の叫ぶ声を土の中で聞いた時もある。---#n033
徐州大会戦では、徐州の中心地に分隊長として最初に入った。あとで入って来た岩仲戦車隊は栗原さんを中国兵とおもって撃って来た。間もなく中心の塔を占領したが日本の飛行機は塔のまわりに爆弾を投下する。ゆれる塔からあわてて日の丸を出した。このような経験を何度もした。---#n034
この部分は捏造にはほとんど関係ありません。最後の一文だけ小文字の挿入文です。---#k015
#006-------------------------------------------------------[2604]
南京攻略戦では戦友を次々失った。鳥龍山近くに来た時は半分以下に減ってしまった。誰が死んでもおかしくない状況だった。幕府山近くで、栗原さんが分隊長をしている11人は120人の捕虜をつかまえた。武装解除して進む。他の部隊も捕虜をつかまえその合計は13500人捕虜をつかまえたと聞いていた。南京攻略戦全体では7万の捕虜だとも聞いた。捕虜は廠舎に収容した。自分たちにも充分食べるものがなかったがそれでも捕虜たちには中国の茶碗一杯づつおかゆを食べさせた。---#n035
次の日はもう食べる物がなくて捕虜の半分にしかゆきわたらなかった。まもなく捕虜を揚子江の中洲に放すというので一個大隊、135人で護送した。13500人とは聞いていたが実際の捕虜の数は4千から6千ぐらいだったろう。捕虜の仲には教導総隊のみるからにしっかりした兵もいた。4列か8列かにして護送した。栗原さんは列の一番最後にいた。最初に江岸についた捕虜は座って待っていたが全員が着く迄2・3時間かかった。薄暗くなってきた。栗原さんがまだ護送している頃、江岸に着いていた先頭では暴動がおきた。日本の将校が殺されたと聞いた。そんな動揺が伝わってきて混乱がおき、その中で射撃がはじまった。ほぼ全員射殺で、日本側も何人か死んだ。最初から射殺するつもりで江岸に集めたのではない。上のほうはどうだったのかわからないが殺すか殺されるかの戦争の継続の中で虐殺ではない。
栗原さんの戦争体験、南京体験はこのようなものであった。---#n036
ここは思いっきり捏造されている部分です。捕虜に食べさせた食料は捕虜の投降した砲台で保管していた食料をです。『実際の捕虜の数は4千から6千ぐらい』なんてことも聞いてません。父はこのような曖昧なものの言い方が出来る人ではありませんから父を知る人には奇異に感じる内容です。『2・3時間』もつじつまあわせの表現です。『暴動がおきた』ではありません。必死になった捕虜の一人が紐をほどき将校の刀を抜いて襲い掛かったという話です。事前に「なにかあったら一斉に撃て」と言われていて、その時をキッカケに一斉射撃、水平撃ちが三方から始まったのです。日本側に死者はいません。事前に機銃(?)を隠しておいて捕虜から見えないようにしていて一斉射撃をしたと言ってます。---#k016
父は『虐殺』と言わず「処分」といいますが具体的事実は同じです。---#k017
#007-------------------------------------------------------[2610]
戦争の苦しさ、つらさを充分に体験しているように見えた。戦友の一人は今でも両足切断で国府津にいるという。栗原さんは満州事変から徐州作戦まで働いたということで金鵄勲章をもらったが誇りにおもっている。徐州作戦では「麦と兵隊」で有名な第13師団として参加している。現在はマメで世話好きなこともあり、老後とはいえいそがしい毎日を送っている。いたって元気ではあるが73才とはいえ平均寿命に近い。---#n037
その栗原さんが7月22日の毎日新聞を手にびっくりした。社会面のトップには「南京大虐殺、中国側、初の史料で立証」という大きい見出しがでており、中国側の史料によれば中国側の史料によれば30余万人が南京で虐殺された、と報じていたからである。---#n038
これを読んで栗原さんは「正義感に燃え」、毎日新聞に抗議の電話をした。今まで大虐殺があったと新聞などは伝えていた。しかしこれほどの大々的な記事ははじめてである。このままにしていたら日本人が30万人の中国人を殺してことになる。南京攻略戦に参加し、自分の目でみてそれはありえない。そう思って抗議した。電話のやりとりがあり、記者が栗原さんを訪れることになった。訪れた毎日新聞の記者に栗原さんは私に話してくれたと同じ体験を話した。その時昭和13年、漢口攻撃戦で負傷して入院中に書いたスケッチブックをみせ
「捕虜の殺戮は戦争の一部であり虐殺ではなく、中国の本に載っているようなことはなかった」
と語った。---#n039
その話が8月7日に記事になった。読んでみてびっくりした。毎日新聞では4〜6千人の捕虜が「13500人」になり、暴動と混乱の中で攻撃が始まったのが「後ろ手に縛られ、身動きもままならなかった捕虜が集団で暴動を起こすわけない。虐殺は事実」になった。---#n040
「言ってないことが記事になり、30万人虐殺に抗議したのが一転して虐殺の証人になった。全く逆になった」
と栗原さんはくやんだ。---#n041
この部分は殆ど捏造です。この筆者は毎日新聞の記者から父がどのように聞かされて取材を受けたのか全く知らないようです。私が確認したところでは「父がもっともよく知っていると聞いて取材に来た」と聞きました。毎日新聞の記者の方は南京事件や幕府山の捕虜虐殺につき事前に福島などで取材し、それで父を知ったということだったようです。それに毎日新聞に載った記事を見て父がビックリしたというのもありえません。ビックリしたくらいなら直後に本多さんの取材はうけるハズがありませんから。また父は新聞社に抗議の電話をするようなタイプの人間ではありません。---#k018
#008-------------------------------------------------------[2612]
新聞に栗原さんの証言が出ると、「嘘つき」「馬鹿野郎」という抗議の手紙が十通ほどきた。昔の戦友からも一通きた。後輩なのでこれは事実をいってわかってもらった。逆に同じくらいよく告白してくれたという激励の手紙も来た。変な気持ちになったそうだ。---#n042
手紙のほかに人が尋ねてきた。防衛庁の戦史の方も二人が来た。5分だけどと言って朝の9時ごろ来たが結局午前中いた。
「防衛庁の人は黙って話を聞いていたが防衛庁でも事実は知ってるはずですから私の話に納得したはずです」
という。---#n043
世界日報の記者が来た。朝日新聞の本多記者も来た。何年か前、南京大虐殺とよくいわれるようになった。その時から栗原さんは南京大虐殺に関する本を読んで自分なりにしらべはじめた。自分の個人的体験から大虐殺はなかったと思っているし、大虐殺を主張する本を読んでもあったとも思わないと確信している。---#n044
「本多記者は中国人の言う嘘ばかり書いている。ジャーナリストは気が狂っているのではないかと思う。それでも私の家に来た時は毎日新聞の記者に話したような自分の体験を話した。しかし、ここでも裏切られた。朝日ジャーナルを読むと自分の言ったことは書いてあるが、全体として私が言おうとしていることとは別のことになっている。のせられた。自分では捕虜が4千から6千と思うと言ったが1万3千にすりかわっている。---#n045
捕虜にはラーメンなどを食べる大きい茶碗で食べさせたが、それが中華料理などで使われる小さな支那茶碗にかわっている。---#n046
私は護送だけだったのに小銃で撃ったように書いてある。---#n047
(ピッポ註:栗原発言としての引用符はまだ閉じず)
この部分も捏造だらけですね。『後輩』から電話もきました。福島で虐殺を話した方がよいと言うかたは一人もいません。この後輩の方から「話した方がいいなんて言うのは馬鹿息子だ」と言われてしまったのですから。本多氏に父が詳しく話したのはOFF会で話したように私が「歴史的な出来事なので事実を正確に話したほうがよい」と勧めたからです。別に本多さんにのせられたからではありません。---#k019
『朝日ジャーナルを読むと』というのも変な話です。父は朝日ジャーナルなんて週刊誌はその存在さえ知らなかったと思います。大体、父は月刊誌や週刊誌の類は購入したことがありませんから。剣窓とか剣道日本とかを定期購読しているだけですから。---#k020
『気が狂っている』という言葉は長兄のことを考えれば父の口からは出ない言葉でしょう。明治44年生まれで鬼畜米英で戦ってきた人間には『ジャーナリスト』なんて言葉も不釣合いです。父が横文字言葉を使うのは聞いたことがありません。---#k021
究極的な捏造は『護送だけだったのに小銃で撃ったように書いてある』でしょう。これはありえません。---#k022
#009-------------------------------------------------------[2614]
江岸での出来事は戦争の流れの一つで、みせたり書いたりすることではないと思っている。---#n048
謝家橋鎮では私の部下の松本が負傷して後送される大激戦があったのに本多記者の本には何もなかったと書かれていた。基本的な間違いが多いといってやったんだがね」
(ピッポ註:栗原発言としての引用符はここで閉じられる)
本多氏と会った時のことをこう述べているが、この間、何度も「のせられた」と語った。---#n049
時間は既に11時を過ぎていた。
「防衛庁の時と同じで十分間といってもやっぱり午前中かかるな」
といいながらも「満州事変記念写真帳」や「夕陽千万峰」といって栗原さんの所属していた65連隊2中隊の記録などをとりだして説明してくれた。---#n050
南京大虐殺についてもスクラップをはじめ十冊ほどの関係書をとりだしてきて説明する。---#n051
洞富雄氏の著作を
「一部だけとりだして虐殺があったといっている。殺すか、殺されるか、その流れの中の行動であって虐殺ではない。中国兵をこの野郎と思い、にくらしいと思っていた兵隊の気持ちは分からないでしょう。何故こんなことを書くのだろう」---#n052
この筆者はなにか脅しみたいことを言ってきた人だと思います。「お前は人を殺していないことにしてやるから、こっちが書きたいように書くから黙ってろ」みたいな話だったと思います。うちの父が本多さんや洞さんの著作についても批評したことは聞いたことがありません。---#k023
#010-------------------------------------------------------[2619]
と手きびしい。
栗原さんの話は八割ほどが戦争・戦闘の話で、残り二割が南京での話である。---#n053
戦争のつらさ、生死が背中合わせの状況、敵へのにくしみ、死んでいく戦友、そして戦争が終わった時たまたま栗原さんが生きていた。それが栗原さんの実体験であり実感である。---#n054
南京での出来事はその中の一部であり、戦争・戦闘の延長上に捕虜の殺戮があったので、虐殺ではなかった。これも栗原さんの実感である。南京全体のことは一兵士の栗原さんは知る由もないが。---#n055
ということでお仕舞いです。基本的に全く任意に捏造されていることがお分かりいただけたかと思います。この記事の作者と本が分かる方がおりましたら教えていただけますか?掲示板で明らかにすることに差しさわりがある時はメールで教えてください。できたら国会図書館などで確認したいと思います。法的に問題がなければ捏造であることを指摘してK−Kさんのサイトででも掲載していただこうかなと考えているところです。---#k024