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[2627]1996年、南京大屠殺遇難同胞記念館館長講演録 とほほ 06/6/13(火) 19:15

[2627]1996年、南京大屠殺遇難同...
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 とほほ E-MAIL  - 06/6/13(火) 19:15 -

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   ある縁があって、侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館館長、朱成山氏の1996年12月に広島県三好市で行われた講演録を入手することが出来ましたので許可を得て全文掲載しておきます。

ただし、この講演は1996年に行われたものであり現在では中国側研究も格段進んでおり内容的には古い研究講演であるとのことは認識しておいてくださいとのお話です。しかし、とはいえ研究の最先端とはいえないとしても私たちはしっかり中国の人々の歴史認識も理解しておかねばならないと思います。
こんばんは、今年12月13日は、南京大虐殺事件が発生して五九年になります。今回、われわれ一行は、日本の友人の皆様の招きにより友好活動をおこないにきました。12月3日に日本に入り、金沢・神戸・大阪・枚方・岡山、そして昨日は広島に入り、今日は三好にまいりました。参加者の皆様、寒いところわざわざおいでくださいまして有り難うございました。参加者の皆様、一緒に南京大虐殺事件を振り返ってみて、そういう活動を通じて、これからの中日友好関係をさらに深く促進できるようがんばりたいと思います。

皆さんもご存知のように、1937年7月7日を、中国では七・七事変と言われてますが、日本では盧溝橋事件といわれています。そういうことをきっかけに、日本軍は全面的に中国への侵略を始めました。盧溝橋事件までにすでに中国東北地方では、満州事変がありましたし、すでにその時は、中国華北という地域の大量の土地を占領しました。盧溝橋事件の後、一ヵ月後に、日本軍は南への侵略計画をたてました。それで8月13日に、中国では八・一三事変と言われてますが、日本では上海事変といいましたが、ついに上海への侵略を始めました。なぜ日本軍は上海の侵略を始めたかということについて触れますと、上海の侵略の目的は、当時中国の首都であった南京を占領することにいよって、中国全土を自分のものにしようということでありました。

上海に入ってから中国軍の強い抵抗があって、永く戦いましたが、結果としては中国軍が敗れて、同年の11月12日に上海は日本軍の手に落ちたのです。上海が落ちてから、日本軍はすぐに中国の東北大連に駐在していた第十軍師団を上海に派遣して、上海に駐在していた軍隊と合流させて、当時司令官であった松井岩根の指揮によって、三つの部隊にわけて、南京への侵略を始めました。上海をたって11月の中旬ごろだったのですが、一ヶ月ぐらいかかって、ついに12月13日に南京を占領しました。

南京を占領するまでに、蘇州・無錫・揚州・鎮江、中国でいえば江南という美しいところを侵略して多くの悪いことをしました。今、これらの都市にある資料館の中にも、当時日本侵略軍に攻撃されて殺された人の数や、奪われた財産の数や、強姦された女性の数が保存されています。

日本侵略軍は、南京を占領してから、すぐに大量に人を殺すという行動に移りまして、前後六週間ぐらいかかって、南京に住んでいた市民を含めて、虐殺をはじめました。南京大虐殺は、歴史の上にもない、世界でもまれな大虐殺という事件でありました。

南京大虐殺事件で死んだ人の数は三十万人以上に達したということにつきましては、今の日本では、一部の人が否定してますよね。南京大虐殺事件は中国人のでっち上げとか三十万人なんかどうも考えられなくて、せいぜい二〜三万人ぐらいではないかという話があります。それでは、一体、南京大虐殺事件で殺された人の数はどれくらいああるのかということにつきまして、われわれはいろんな方法で、大量に調査した結果としては、少なくとも三十万人以上に達したということは、否定しようとしても否定できない事実なのです。つきましては三十万人以上に達したという数値の根拠として、次の五点から、皆さんに話したいと思います。

第一は、極東軍事裁判所と、中国にある戦犯裁判所によりまして、南京大虐殺事件を集中的に調査した結果として、極東国際軍事裁判所の判決書にも数値としてはっきり書いてありますし、そういうことは国際的にも認められている事実です。

第二次世界大戦が終わってから、すぐに世界では二つの裁判所が成立しました。その中の一つは、ドイツのナチスの審判のためでした。もう一つは、極東国際軍事裁判所が設けられました。とりわけ、南京大虐殺という事件につきましては、極東国際軍事裁判所で専門的に審理されました。極東国際軍事裁判所はアメリカ人の検察官と中国人の検察官も含まれている調査団を上海や南京に派遣して、南京大虐殺事件の調査を始めたのです。

南京の調査で、遺族たちは、先をあらそってそういう虐殺の事実を積極的に調査団に訴えました。積極的に調査団に訴えました。また、たくさんの人の中から選ばれて、東京にあった極東国際軍事裁判所へ、証人として出ました。極東軍事裁判所は、次のような判決文をだしました。判決書の中にはっきりと書いてあるのは、南京大虐殺事件によって殺された人の総数は、二十万人以上に達したということです。さらには、追記というところでは、二十万人に達したという数値の中には、長江(揚子江)に死体をそのまま投げたり、埋められたりした人の数値は含まれていないということも書かれてあります。しかし、判決所の中には、どれほどの人数の死体が長江に投げられたり、埋められたりしたかということについては書いてありません。

しかし、われわれが調査した結果としては、埋められたり、投げられたり、また焼かれたりした総数は、十五万人に達してます。この十五万人の数値につきましては、また後ほど説明させていただきます。しかし、実は極東国際軍事裁判でも、合わせて三十万人に達したと言うことが認められています。

で、同じ判決書の中に書いてあるもう一箇所のところには、日本軍が南京市内に入ってから一ヶ月のうちで、強姦された女性の事件があったのですけども、合わせてそういう事件の回数は、二万回以上に達したということも書いてあります。もう一つとしては、南京市内にあった建物が三分の一以上焼かれた、破壊されたということも書いてあります。それ以外に、財産を奪われたり、また、いろいろ侵された罪についてもかかれています。

この判決書につきましては、日本政府の代表がアメリカのサンフランシスコでの認定書にはサインしました。以上のように南京大虐殺事件は、歴史的事実としてちゃんと認められてます。

当時、中国戦犯管理所では、乙・丙のランクの戦犯の審理を行いました。当時の中国では、四ヶ所の裁判所が設けられました。四ヶ所としては、北京と瀋陽と広州と南京です。時期は1946年でした。南京にあった戦犯裁判所での調査としては、南京大虐殺事件の中には、集団虐殺として二八件、それ以外に殺された事件としては八五八回あります。当時裁判所によって作られていた調査団は、南京市内にある万人坑(穴を掘ってたくさんの人をその中にいれて埋めた)と言うところの調査や、いろいろな証言者の聞き取りをしました。それによりますと、集団虐殺によって殺された人数は十五万人ぐらいということが分かりました。さらにその調査は、どこにどれほど人が殺されていたかということも詳しく書いてありますし、とにかく、一ヶ所で五万人以上殺された所としては、二ヶ所あります。そして、裁判所の調査によって、判決書としては、首謀者である松井岩根には死刑の判決を下しましたし、それ以外に、谷寿夫という戦犯に対してもそれにふさわしい判決を下しました。

第二は、南京大虐殺事件が発生してから、南京のあちらこちら、いたる所に死体が残されていたということも事実です。当時、南京では、慈善団体が五つありまして、その五つの団体によって死体の処理ということがされましたが、五つの団体の合計した数値によりますと、合わせて十八万五千人の死体を処理したということがはっきり書いてあります。一つの記録としては、今でも南京にある、南京資料館に保存されていますが、その記録の内容によりますと、死体を処理するのにたくさんの人を雇わねばならないし、それにお金を払わなくてはならない、食糧も買わなければならないということで、どれほどのお金がかかったか、どれほどの食糧を配ったということも詳しく書いてあります。そういう資料を見ても、十八万五千人の数値を認めなければならないと思います。

最近、南京に来られた日本人は、よく南京市資料館へ資料を調べに行っています。五つの団体によって死体の処理がされている他には、個人的な人道主義という立場に立って、そのまま置いてある死体は、どうしても人の目にふれる、それはいけないという気持ちで、死体を処理することもよくありました。その数値は統計によりますと、合わせて三万五千人に達します。

死体の処理につきましては、もう一つのことにふれなくてはなりません。当時の政府としては日本軍の傀儡・汪精衛政府によって、死体をそのまま放置してあると南京市内のためにもよくないということで処理した死体は、六千人以上に達しています。
これらの資料も南京市資料館に保存されています。

南京大虐殺事件がおこなわれるとすぐ、こんな悲惨な、非人道的なことは絶対に許せないという世界からの世論の圧力がありまして、日本軍もそういう世論に押されるように、大量の死体を処理しました。そのことにつきましては、もとの南京司令部の少佐・大田という人の告白した調書によりますと。彼は当時、八百名以上の日本軍兵を指揮して、十台のトラックと三十隻の小さい船で死体を処理したということです。
彼の告白によりますと、死体の処理の方法としては、次の三つの方法をとったそうです。一つとしては穴を掘って死体を中に入れて埋めるという方法でした。二つめには、石油とかガソリンをかけて焼くという方法でした。もう一つの方法としては、長江の中に死体をそのまま投げて、水に流したという方法でした。穴を掘って死体を埋めたり、ガソリンなどをかけて焼いた死体の数値としては、三万人くらいでしたが、それ以外船で運ばせて長江の真ん中のところに行くと、そのまま流した死体は七万人ほどで、合わせて十万人になってます。大田の話によりますと、ほかの部隊でも死体の処理ということをやりましたので、それが、五万人ほどじゃないかということで、合わせて日本軍によって処理された死体の総数は、十五万人になってます。大田の告白した書類は、今北京の中央資料館の中に保存されています。大田は戦犯として捕まってから、中国の撫順市にある戦犯管理所の中に6年間いました。

最近、遼寧省の資料館の中から、新しい資料が発見されました。その資料には当時の満鉄が、部隊とはいえないのですが、一つのグループを編成して南京まで派遣して、先ほど言った五つの慈善団体の中の一つの団体と協力して、三万人の死体を処理したということが記録されています。

三点目として、南京は、当時中国の首都として存在していましたので、たくさんの外国人が滞在していましたが、その外国人によって残された資料もたくさん保存されています。南京大虐殺事件につきましては、翌年の1938年にすでに、中国人によって書かれて出版された本もありましたが、それ以外に外国人が資料として、あるいは、本としてしゅっぱんされたものも多かったのです。外国人の中では、アメリカ人・イギリス人またはドイツ人・デンマーク人などがいました。彼らの身分としては、外交官・医者・先生・ジャーナリスト・牧師などいろいろな職業の人たちでした。彼らによって残された資料としては、写真とか、絵とかいろいろありました。例えば、その中の一人としては、アメリカのジョン・マッキーという方ですよね、彼によって、南京大虐殺の場面がフィルムに残されています。もう一つの例としては、ドイツの外交官ロセンという人がいました。彼が報告書という形で、当時のドイツ政府に報告した資料がありましたが、その中にも、フィルムなどがたくさん残されてますし、大量の証拠が残されています。最近ドイツの図書館の書庫の中から当時南京に会社の総代表として駐在していた人の、たくさんの記録が見つかりました。その中には写真も多く含まれていることがわかりました。これらの証拠は南京大虐殺事件の動かしがたい事実として残されています。

第四点目としては、今、南京でも集団虐殺の場所として保存されていますが、それらの場所を見ても南京大虐殺の事実がわかると思います。現在、南京大屠殺遇難同胞記念館の場所としては、江東門というところなんですけれども、江東門は、南京の西のほうにありますが、そこは、虐殺現場の一つとして残されています。今の記念館は、昔の場所としては、南京軍事刑務所でした。日本軍が、南京を占領してから、そこを中国軍人を捕まえて中に入れた所として知られてますが、当時、少なくとも一万人以上の兵士及び市民がそこに入れられました。1937年12月16日、一万人以上の人が、日本軍によって部分部分に分けられて、近くの所につれていかれて、機関銃で一ペンに虐殺されました。そういうことは当時知られてなかったので、翌年の1938年2月に発見されて、死んだ人たちの死体を埋めました。そこの所を万人坑といいます。このような虐殺の場所としては、今、南京では、十七ケ所が残されています。この十七ケ所の所には記念碑が建てられ、その上には詳しく亡くなった人数や、また殺された方法などが彫られています。

五点目は、今、南京でも、大虐殺からまぬかれた生存者がたくさん生きていますが、その人たちも南京大虐殺事件の証人として証言しています。彼らは、歴史の証人として、この目で南京大虐殺を見ましたし、そういう苦しみ、痛みがわかっています。我々の統計によりますと現在生きている幸存者の数字は、千人以上です。

南京大虐殺事件は、最近そんなに話題になったわけではありませんし、中国人は、無理矢理に日本人がそういうことをやったよということにしているわけでもありません。南京大虐殺事件ですよね。これは、歴史の事実として存在しますし、認めたくなくても認めなくてはならない事実です。南京大虐殺事件につきましては、今、日本の国内では一部の人が否定しています。それほどの人数ではない、あるいは、そういうことは全くなかったといったことを言ってますが、われわれ中国人の立場からしますと、人を殺すことは犯罪なんですし、数字の上で、数字がどれほどになるかいうことにつきまして、中国人は拡大したり、人数を増やしたりしたしたことはありませんし、考えたこともありません。例えば、三十万人という数字が三十万人ではなくて三万人、あるいは三百人という人を殺したとしても裁判では死刑になるはずですから、そういう数字については、中国人としてはつくりたいということは、絶対ありません。

しかし、三十万人という人が本当に殺されたから言わねばならないと思います。なぜ南京大虐殺を語らねばならないかというと、歴史を振り返ってみるということによって、新しい未来をつくれるということではないでしょうか。平和の世界をるくるのに、まず歴史の上で起こった事件を教訓にして、われわれは覚えなくてはならないと思います。そういうことを教訓にしないと同じ過ちを再び繰り返す可能性があります。

そろそろ二十一世紀に入ろうとしています。中国であっても日本であってもみんな二十一世紀を迎える準備をしていますが、とにかく、日中両国の友好関係を更に促進しなければならない、真の友好活動をしなければならないと思います。われわれ中国人は、従来から南京大虐殺を起こした罪人は、日本軍国主義者であり、日本人民ではないと思ってます。日本人民が戦争の罪人ではありません。中国人と同じく被害者であります。統計によりますと戦争で死んだ日本人は三百万人以上に達したということも聞きましたし、広島に投下された原爆によって二十万人以上の人が亡くなったということも、戦争による被害者ではありませんか。しかし、日本人としては、被害者でありながら、加害者の意識がなくてはならないと思います。

わたくし個人として、参加者の皆さんは、なんらかの形で中日友好のために力を尽くしてほしいと思います。

以上です。有り難うございました。

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