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[2774]『阿羅=畠中批判』を書き込むスレッド ピッポ 06/7/9(日) 8:59
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[2774]『阿羅=畠中批判』を書き込む...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/7/9(日) 8:59 -

引用なし
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   核心さんにエールを送る意味で、
世の中にある『阿羅=畠中批判』を書き込むスレッドを建てたいと思います。

これまでの著作者によるもの、
これまでの掲示板論争によるもの、
ご自分による阿羅=畠中批判、
情報源を核心さんとともに共有したいと思いますので、
重複を懸念せず、
どしどしここにお書き込みくだされば幸いです。

==============

発想の経緯は、
[2771][2772][2773]を読んでください。

核心さんは、現在2つのスレッドを進行中ですが、
それへの質問をこのスレッドに書き込むことは、
必ずご遠慮ください。

私見ですが、核心さんへの質問は、
核心さんか、掲示板であるとほほさんに
メールで御送りするほうが良いかもしれません。
29 hits

[2778]タラリさんの論考:阿羅健一批...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/7/9(日) 10:08 -

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   まずは、思考錯誤より
タラリさんの投稿 のコピペ
http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/3/tfrqrf/index.html

阿羅健一批判−南京大虐殺否定の手法解析 ー 
タラリ 2002/11/01 21:22:23 

阿羅健一著「『南京事件』日本人48人の証言」批判 (以下阿羅本と略す)

阿羅は南京大虐殺の否定を図って、当時、南京に従軍したり、滞在した多くの日本人証言を集めた。その結果多くの証言者から「虐殺はなかった、見なかった」という証言を得た。また、既に虐殺の証言を行ったひとたちへの反論あるいは前言の撤回も引き出すのにも成功している。しかし、それは証言者を選び、聞き方を工夫して得られたものであり、実は多くの証言者が語っているのは虐殺の認識がないまま「虐殺の一部分、あるいはその痕跡」を目撃あるいは伝え聞いたことを示しているのである。それゆえに虐殺否定の証言の持つ構造を確かめることは、虐殺の証明だけでなく、否定論者の認識の成り立ちを解析するのにも重要である。

阿羅本の問題点

1.そもそも、殺戮の現場に行っていない、見ていない証言者が多い。
 阿羅は軍首脳なら全般的な軍の方針を知っており、広範な情報が集中するからという理由で上級将校である証言者を重視している。実際には上級将校は殺戮を命令していても殺戮の残虐性を感覚的に実感していない。実行者である兵士において殺戮の残虐性をはじめて痛切に認識出来るのである。この点、上級将校の証言からなるこの証言集では虐殺の有無に対する有用な証言は期待できない。

  また、報道関係者なら広く見聞し、偏りのない見方をするだろうと考えたと思われるが、当時の記者は「暴戻支那を庸懲する」という日本政府の方針に沿い、好戦的な内地の世論に向けた扇動記事、戦意高揚記事を書いていた。記者の中には日本軍の先頭部隊と寝食を共にし、中国兵に対する敵愾心を共有したものと、軍首脳のそばにいて全般的な作戦や、交戦状況を書くことを主眼としたものがあった。(ただし、位置の情報はかけない)。そのような記者に虐殺の認識が乏しいのは当然であった。

  これに対して、カメラマン、技師の一部はそのようなイデオロギーに関係なく事実を見ており、虐殺に関する証言が多い。また、記者にあっても陸軍付きの記者より海軍付きの記者のほうが虐殺に対する感覚は鋭敏であった。

2.殺戮やその跡を見ても証言をしていない
  1. 捕虜や敗残兵の処刑を戦闘そのものであるとする見方があった。
  2. 捕虜の処刑が違法であるという認識を欠いたものがあった。
  3. 戦争とはこんなものだという考えがあった。
  4. 中国兵に対する憎しみ、中国人に対する蔑視感からなんとも感じない。
当然、国際法の捕虜に対して取扱規定に詳しいものは処刑に対してより疑問を持った見方をしている。
  
3.虐殺は民間人、あるいは便衣兵の疑いによる摘出、移送、殺害と作業が分担、区分けされその一部を見ても虐殺の一部であるとの認識が生まれにくい。

4.比較的少数の殺戮の現場を見たり、その痕跡を見ても大虐殺との認識に達しない。

5.阿羅の不適切なインタビュー方法
  阿羅は南京において何があったのか、何を見たのか、聞いたのかという偏らない検証ではなく、「虐殺があったか」「虐殺をみたか」「虐殺があったという話を聞いたか」「大虐殺はあったか」という聞き方をしている。これは証言者が虐殺の認識を持っていたか、どうかの聞き取りである。この聞き方では証人が虐殺というものをどう認識していたかによって答えは異なる。虐殺があったかどうかは証言が提示する事実の再構成によって著者ならびに読者で判断されるべきものである。

6.他者の虐殺証言の否定、あるいは撤回発言について
  いくつかの虐殺証言者を引き合いに出して否定させるよう努力したあとが伺える。その手法は証言者の人格攻撃を主としたものである。その当人が当該事実について発言したということは人格攻撃によって崩れるものではない。撤回発言の場合も前証言をすべてうち消すだけの内容に乏しい。私は、いくつかの前証言、肯定証言を発見・提示することが出来たので、うち消すに足る内容を持った証言を阿羅が提示したかどうか見て欲しい。

7.国際的なものの見方を学んだ日本人は外交官の発言など阿羅本にない種類の証言例をあとで掲げる。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
以下、阿羅本の記述を中心にどこを読みとるべきか、提示する。
ところで、田中正明の著書の引用はどこまでであろうか。阿羅本と内容がダブるのはなぜなのだろう。

1)120人の報道員とスメラマンは何をみたか
■東京日々新聞 五島広作氏
  谷寿夫師団長付きの従軍記者である。「師団の司令部にいて師団長と行動を共にすることが多かった」。つまり、現場ではなく師団の中央にいて大所高所の方針を報道しており、虐殺行為は見ていないというのが正しい。記者仲間の話にも「出なかった」というのは、そうであろう。《このことは後述する》

■石川達三
  阿羅は<実刑を受けた石川氏の言葉だけに重みがある>と言いますが、氏が実刑を受けたのは日本軍の残虐さを隠すことなく書いたからであり、「虐殺がなかった」などと書いたためではありません。阿羅=畠中氏は実際には病気入院中のため会えず、手紙での取材であったと書きながら、「世界と日本」でインタビューのような体裁を取りながら書くのは発表形式として不誠実のそしりを免れません。読売ではあれほど雄弁に書いたものが、阿羅の質問にはほんの数行の木で鼻をくくったような返事の「手紙」しか返していないのは解せないことです。捏造の疑いさえ浮上します。
 石川はまだ、南京事件の全容が裁判を通して始めて日本で明らかになる前に、既に次のようなインダューを残しています。

★昭和21年5月9日 讀賣新聞 (木曜日) 第24911号 3版(2)☆☆
裁かれる殘虐『南京事件』<見出し>
  河中へ死の行進
  首を切つては突落す <小見出し>
<以下、石川発言>
 兵は彼女の下着をも引き裂いたすると突然彼らの目のまへに白い女のあらはな全身がさらされた、みごとに肉づいた胸の両側に丸い乳房がぴんと張つてゐた…近藤一等兵は腰の短剣を抜いて裸の女の上にのつそりまたがつた…彼は物もいはずに右手の
 短剣を力かぎりに女の乳房の下に突き立てた―"生きてゐる兵隊"の一節だ、かうして女をはづかしめ、殺害し、民家のものを掠奪し、等々の暴行はいたるところで行はれた、入城式におくれて正月私が南京へ着いたとき街上は屍累々大變なものだつた、大きな建物へ一般の中國人數千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶死させた
 また武装解除した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬つた、しまひには弾丸を使うのはもつたいないとあつて、揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるやうにしておいて、この上へ中國人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切つて河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のやうな捕虜が戸板や机へつかまつて川を流れて行くのを下流で待ちかまへた駆逐艦が機銃のいつせい掃射で片ツぱしから殺害した戰争中の昂奮から兵隊が無軌道の行動に逸脱するのはありがちのことではあるが、南京の場合はいくら何でも無茶だと思つた、三重縣からきた片山某といふ從軍僧は讀経なんかそツちのけで殺人をしてあるいた、左手に珠數をかけ右手にシヤベルを持つて民衆にとびこみ、にげまどふ武器なき支那兵をたゝき殺して歩いた、その數は廿名を下らない、彼の良心はそのことで少しも痛まず部隊長や師團長のところで自慢話してゐた、支那へさへ行けば簡單に人も殺せるし女も勝手にできるといふ考へが日本人全体の中に永年培はれてきたのではあるまいか
 ただしこれらの虐殺や暴行を松井司令官が知つてゐたかどうかは知らぬ『一般住民でも抵抗するものは容赦なく殺してよろしい』といふ命令が首脳部からきたといふ話をきいたことがあるがそれが師團長からきたものか部隊長からきたものかそれも知らなかつた
何れにせよ南京の大量殺害といふのは実にむごたらしいものだつた、私たちの同胞によつてこのことが行はれたことをよく反省し、その根絶のためにこんどの裁判を意義あらしめたいと思ふ

■朝日新聞 橋本登美三郎氏
  このひとは記者15人を束ねる立場であって、現場に出向く立場でなかったことは阿羅本から読みとれる。中島師団長付きだったから、軍上層部の情報を収集する立場である。それにしても具体的な発言内容が乏しく、インタビューの意味がない。

■朝日新聞 足立和雄氏
数十人の中国人の処刑を目撃し、百人単位、二百人単位の処刑の可能性も指摘している。足立氏と行動を共にした友人の記者である守山義雄氏の文集には下記のような文を寄稿している。これも阿羅が引きだした「南京大虐殺はなかった」という証言とは趣を異にする。

★『守山義雄文集』より引用
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
昭和十二年十二月、日本軍の大部隊が、南京をめざして四方八方から殺到した。それといっしょに、多数の従軍記者が南京に集まってきた。そのなかに、守山君と私もふくまれていた。
朝日新聞支局のそばに、焼跡でできた広場があった。そこに、日本兵に看視されて、中国人が長い列を作っていた。南京にとどまっていたほとんどすべての中国人男子が、便衣隊と称して捕えられたのである。私たちの仲間がその中の一人を、事変前に朝日の支局で使っていた男だと証言して、助けてやった。そのことがあってから、朝日の支局には助命
を願う女こどもが押しかけてきたが、私たちの力では、それ以上なんともできなかった。”便衣隊”は、その妻や子が泣き叫ぶ眼の前で、つぎつぎに銃殺された。
「悲しいねえ」
私は、守山君にいった。守山君も、泣かんばかりの顔をしていた。そして、つぶやいた。 「日本は、これで戦争に勝つ資格を失ったよ」と。
内地では、おそらく南京攻略の祝賀行事に沸いていたときに、私たちの心は、怒りと悲しみにふるえていた。(朝日新聞客員)

★ドイツ哲学者篠原正瑛氏の回顧録より引用
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
戦時中、私は留学生としてドイツに滞在していたが、その頃東京朝日新聞のベルリン市局長をしていた守山義雄氏から、南京に侵入した日本人による大量虐殺事件の真相を聞いたことがある。

守山氏は、東京朝日の従軍記者として、その事実をまのあたりに見てきた人である。
南京を占領した日本軍は、一度に三万数千人の中国人、しかもその大部分が老人と婦人と子供たちを市の城壁内に追い込んだ後、城壁の上から手榴弾と機関銃の猛射を浴びせて皆殺しにしたそうである。
そのときの南京城壁の中は、文字通り死体の山を築き、血の海に長靴がつかるほどだったという。守山氏は、このような残虐非道の行為までも、「皇軍」とか「聖戦」とかという偽りの言葉で報道しなければならないのかと、新聞記者の職業に絶望を感じ、ペンを折って日本へ帰ろうかと幾日も思い悩んだそうである。

(『西にナチズム、東に軍国主義』日中文化交流157号)

2)南京入城者の証言
 #雑誌『正論』からの引用らしいが、すでに出版した自分の本の再録とは阿羅も図々しい。

■大西一大尉
長参謀の「(やっちまえという虐殺)命令」の否定について
  大西氏から「聞いていない」という発言を引き出している。しかし、阿羅本にも「偕行」にある角良晴少佐証言、田中隆吉「裁かれる歴史」にある証言がある以上、大西大尉だけが聞いていなかったという可能性を否定出来ないわけである。例によって田中隆吉の態度がおかしいと人格否定発言を引き出しているが、これは事実関係とは無縁である。
阿羅本の岡田尚のところには長勇参謀が「捕虜は殺してしまえ」「戦争なんだから殺してしまえ」と暴言を吐いたことを証言している。暴言であっても、配下の将校にとっては命令としか聞こえないであろう。また、この発言に対して注意する将校もいなかったと証言している。

中島今朝吾師団長の「捕虜はせぬ方針なれば」
この発言を「銃器を取りあげ、釈放せい」という意味だとする否定論者の発言は多い。実態としてそのように釈放された例は本多勝一氏が「中国の旅」で紹介する一例だけであり、その中国人部隊も他の日本軍部隊に再び捕まって全員殺されており、一切、実行されなかったのに等しい。

中島の示した方針はそうだったかも知れないが、より下級の将校に達するときにはすでに下記のような指令に変質していた。上級の命令だからそれがすべてを支配したわけではなく、下級将校が暴走するのは日本陸軍の常であって、兵士に伝えられた命令がどういうものであったかが重要なのだ。

以下5件は『南京戦−閉ざされた記憶を尋ねて』より引用
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
★一六師団の大島副官「二百あろうと、五百あろうと適当のところへつれて行ってころしてしまえ」敗残兵の処理を聞かれたさいに、田中日記より(一六師団歩兵大三十三連隊第一大隊 田中次郎)

★松井岩根大将が、この地方(上海の白茆口)についたとき、あらゆる者は殺せと指示したと聞きました。<注 松井司令官がこれを言ったとは考えにくいが、下にはそう伝わったと言うこと>

★「その時、私は上からの命令文を見ました。『支那人は全部殺せ、家は全部焼け」と書いてありました。」(一六師団歩兵大三十三連隊第三機関銃中隊 依田修) 

★「掃討をやる時は中隊長か大隊長の指揮によってです。注意事項というものはなく『戦争に耐えると思われるような者は全部ころしてしまえ』」田中次郎

★「掃討の時、『各戸をもれなく掃討すべし、外国の権益ある家に潜入する敵ある時は、臨検可』と師団命令がありましたで」(一六師団歩兵大三十三連隊第三大隊 沢田好治)

■岡田尚通訳官
通訳官という地位のためか、虐殺に対する認識は鋭い。十二月十二日の湯水鎮での千人から二千人の捕虜刺殺、下関にある数百の死体を証言している。

■岡田酉次少佐
経済工作の担当者であり、戦闘や虐殺に対する関心が低く、現場に出ていない。

■東京日々新聞カメラマン 佐藤振寿
  十二月十四日に蒋介石直系の八十八師の建物前で日本兵が中国兵を銃剣で殺しているのを目撃している。また、難民区に入ろうとすると中国人から「日本の兵隊に難民区の人を殺さないように言ってくれ」と嘆願されている。十六日には難民区から便衣兵の摘出をしているのを目撃している。
  ところで「多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集まっていた」のは虐殺がなかった何の証拠にもならない。逆に腕章でも付けていないと何をされるかわからない状況だったということを示しているだけである。

★『南京戦史資料集 2』偕行社 より引用
   南京に派遣されていたカメラマンも虐殺現場を目撃しながら、撮影はせず、
 報道もしなかった。東京日々新聞(現毎日新聞)の佐藤振壽カメラマンは、南
 京市内で敗残兵約100人を虐殺している現場を目撃したが、「写真を撮って
 いたら、恐らくこっちも殺されていたよ」と述べている。

■同盟通信部映画部カメラマン 浅井達三
  カメラマンとしていろんな場所を見ている。兵士の徴発物、銀行の略奪、便衣隊の手榴弾運搬、中国人200-300人の列、難民区以外に住む中国人は表に出ない、紅卍字会、中国人は日本軍を怖がっていた、死体は撮らない(撮っても掲載はされない)、やらせ写真について、パネー号沈没など。正確な観察がある。

「中国人が城内を列になってぞろぞろ引かれていくのは見ています。その姿が目に焼きついています。その中には軍服を脱ぎ捨て、便衣に着替えている者や、難民となって南京にのがれてきた農民もいたと思います。手首が黒く日に焼けていたのは敗残兵として引っ張られていったと思います」
−それはいつ頃ですか。
「昼でした。二百人か三百認可の列で、その列が二つか三つあったようです」

敗残兵や便衣隊をやるのが戦争だとおもっていたので、記者仲間では虐殺ということは話題にならなかった、という発言がある。

言及された白井カメラマンの発言を紹介する 
★白井茂(映画カメラマン・東宝記録映画『南京』撮影者)

 「中山路を揚子江へと向かう大通り、左側の高い柵について中国人が一列に延々と並んでいる。何事だろうとそばを通る私をつかまえるようにして、持っているしわくちゃな煙草の袋や、小銭をそえて私に差出し何か悲愴なおももちで哀願する。となりの男も、手前の男も同じように小銭を出したり煙草を出したりして私に哀願する。延々とつづいている。これは何事だろうと思ったら、実はこの人々はこれから銃殺される人々の列だったのだ。だから命乞いの哀願だったのである。それがそうとわかっても、私にはどうしてやることも出来ない。一人の人も救うことは出来ない。
  柵の中の広い原では少しはなれた処に塹壕のようなものが掘ってあって、その上で銃殺が行われている。一人の兵士は顔が真赤に血で染まって両手を上げて何か叫んでいる。いくら射たれても両手を上げて叫び続けて倒れない。何か執念の恐ろしさを見るようだ。 見たもの全部を撮ったわけではない。また撮ったものも切られたものがある。(中略)よく聞かれるけれども、撃ってたのを見た事は事実だ。しかし、みんなへたなのが撃つから、弾が当たってるのに死なないのだ、なかなか。そこへいくと、海軍の方はスマートというか揚子江へウォーターシュートみたいな板をかけて、そこへいきなり蹴飛す。水におぼれるが必ずどっか行くと浮く、浮いたところをポンと殺る。揚子江に流れていく。そういうやりかただった。
  戦争とはかくも無惨なものなのか、槍で心臓でも突きぬかれるようなおもいだ、私はこの血だらけの顔が、執念の形相がそれから幾日も幾日も心に焼き付けられて忘れることが出来ないで困った。私は揚子江でも銃殺を見た。他の場所でも銃殺をされるであろう人々を沢山見たが余りにも残酷な物語はこれ以上書きたくない。これが世に伝えられる南京大虐殺事件の私の目にした一駒なのであるが、戦争とはどうしても起る宿命にあるものか、戦争をやらないで世界は共存出来ないものなのだろうかとつくづく考えさせられる。」
■報知新聞 田口利介
百人斬りの曹長について。「中国人と見ると必ず銃剣でやっていて、殺した中には兵隊じゃない便衣のものもいたと言います。」長参謀についてきかれて「私のような海軍記者から見ると、一般に陸軍の参謀は命令違反は平気ですね。佐藤賢了(中将)、富永恭次(中将)はその典型で、長勇もそんな一人だと思いますよ」の発言が興味深い。

海軍の従軍記者岩田岩二氏が遅れて砲艦で南京入りしたが、「彼は南京が近づくと無数の死体が流れてきたと言っていました。」

■同盟通信無線技師 細波孝氏
12月14日、湯山の近くに1万人が竹囲いの中にいた。湯山では窪地のようなところで何人か捕虜をやったと聞いた。
下関のトーチカに20−30人ずつ捕虜をつめ込んで焼き殺したと思う、そういうのを3−4つ見た。
中山門に通ずる通りで捕虜の移送を見た。八列縦隊で50m位で区切っていくつかありました。湯山の捕虜を何回かに分けて移送したと思う。捕虜は顔が青白く、三途の川を連れていかれるようなものだったな、と捕虜の殺害現場の下関に着いて思った。
12月15日か16日の朝早く、(あるいは同僚だった深沢氏の証言では17日夕かも知れない)下関では湯山の捕虜と思われる死体を見た、1万人をやったと思う、見たのは終わりの方で江岸にあった死体は流されたとらしく、実際に見た死体は百人位である。

#考察
記者と違って見たものをありのまま語っており、貴重な証言と言える。捕虜の収容、移送、殺害現場という流れを見ているので事態がよく把握される。下関に行ってからはじめて移送中の捕虜の顔が絶望的な表情だったのを思い出している。他の報道員にしても移送だけを見ていたとしたら、何の印象も残さず、証言に至ることもなかっただろうと思われる。また、国際法で捕虜を処刑してはいけないということを知っていたことが具体的な証言をしたことに繋がっている。この細波氏にして「死体に免疫」になっており、他の報道仲間で話題にしていないくらいだから、彼のほかの報道員が話題にしなかったのは当然と言える。また、下関には車に同乗して行っている。次の小池記者が「車を持っていなかったので行動半径は限られていた」というのと対称的である。すなわち、行ってないところのものは見ることが出来ず、証言もないのである。また、捕虜の処刑に関して「やっているところは(軍は)見せなかっただろう」としているのも重要である。

■都新聞 小池秋羊記者
  陥落当初に血まみれの民間人が彷徨っていた、陥落当初に難民区に隠れていた敗残兵は補助憲兵が連れだしていたが、その家族が兵隊でないと補助憲兵にすがっていた、10−20人とまとめて連行した。中央ロータリーの死体、ユウ江門のぺちゃんこの死体、下関のドックの何十体の死体を目撃。
「南京全体を見ていた訳ではないので見ていない場所で虐殺があったといわれれば否定はできません」

■読売新聞 樋口哲雄記者
「入城式のあとはブラブラしていた」
遊んだ話が多く、戦闘の話も出てこない。中央ロータリーの死体は長くほおってあったのだが、それにさえ触れていない。

■東京日々新聞 金沢喜雄カメラマン
クリークで何度も死体を見た。殲滅・包囲したためである。南京城内でも難民死体の存在は当然。虐殺は記者仲間でも話題になっていない。

■読売新聞 森博カメラマン
捕虜を江岸に行って放そうとしたが、結局ころした。岸が死体でいっぱいだったと聞いた。上の命令でやったのではなく下士官が単独でやったと思う。分隊長クラスあるいはその上も知っていたかもしれない。

陸軍の下士官の中にはには上官を上官とも思わず馬鹿にしているのがいた。

南京戦の後、下士官から捕虜を斬ってみないかと言われたことがある。やらなくてもいいことをやった。

略奪、放火もやっていた。南京の事件を話題にしたことはない。

■谷田勇大佐
  第百十四師団麾下の部隊の戦闘詳報に捕虜を処刑せよという旅団命令があったかという質問に対して「そんな命令をだすはずがない」谷田氏は捕虜担当であり、「捕虜は国際法規に従って処理すべきだと考えていた。」
十二月十四日十一時十三分頃<中華門付近にはほとんど死体なし。四時に下関に行ったが、埠頭には二千人か三千人死体があった。軍服を着たのが半分以上で普通の住民もあった。戦死体ではなく、城内から逃げたのを第十六師団が追いつめて撃ったものと思う。建物がまだ燃えていた。写真あり。十九日には南京を離れたが、それまでなら死体数は数千ないし一万程度。

莫愁湖にも十人以上の死体があった、軍人か市民かはっきりしない、半分ずつかもしれない。

十四日午後にユウ江門を通ったが死体はなかった。写真あり。雨下台にはなかった。
長参謀は虐殺命令のようなことを言いかねない、しかし成文として命令を出したとは思われず、隷下団隊の参謀に口頭で伝達したのでしょう。噂は長く耳にした。

■吉永朴少佐
  十六、七日頃下関の埠頭で数千人の死体をみた。軍服を着ていない死体も相当あった。軍服でない死体が吊してあった。

第十軍は迅速であったため「糧は敵に依る」はやむを得なかった。

■金子倫介大尉
南京には一−二泊であり印象は薄い。南京では何も見ていない。

■報知新聞カメラマン 二村次郎
  南京城にはいってすぐ長方形で、長さが二,三十メートルくらい、1メートルの深さの穴が掘ってあった。

昼間数百人の捕虜が数珠つなぎにして連れていかれるのをみた。

(3)作家・評論家の南京視察記については資料がなくコメントできない。

以下に、当時の記者、外交官、軍人の南京に対する認識を掲載する。

★第十三師団会津若松第六十五連隊従軍記者 秦賢助氏の回想録
 虐殺事件は、15日の午後から夜にかけて頂点に達した。この日、南京市街を太平門に向かって歩いていく捕虜の行列があった。おびただしいその数は、二万を数えられた。これぞ白虎部隊が、南京入城に際してお土産に連れて来た大量捕虜であった。果てしない行列の前途に待っている運命はまさに死であった。「花の白虎部隊」とまで謳われたこの部隊の捕虜になった彼らを虐殺したのは、果たして白虎部隊の過誤であっただろうか。
人情部隊長とまで言われた両角大佐の意図であっただろうか。それとも、師団長である荻洲部隊長荻洲立兵中将が選んだ処理方法であったろうか。

 軍司令部からは、何回か中央(陸軍省・参謀本部)に請訓された。最初の訓電は「宜しく計らえ」であった。漠然たるこんな命令では、処理のしようもない。重ねて求めた訓電でも、「考えて処理せよ」である。どう考えていいのか迷って、三度目の訓電には「軍司令部の責任でやれ」と命令してきた。軍司令部では、中央の煮えきらぬ態度と見た。
朝香宮中将を迎えての入城式を前にひかえて、軍司令部は焦った。「殺しちまえ」この結論は造作なく出た。すでに城内では捕虜を殺しているし、一兵の姿も見ないまで、残敵を掃蕩し尽くしている。それに、二万の捕虜を、食料も欠乏している際、そうするしかないと考えるに至った。しかし、両角大佐はさすがに反対したという。
 わが手に捕らえて、武装は解除しても、釈放して帰郷させたい肚には変わりがなかった。けれども主張は通らない。部隊長といっても一連隊長にすぎない。それにどの部隊も、大陸戦線において、連戦連勝、有頂天勝っていたのだから気も立っていたのだろう。何でもかんでもやることになった。
(『捕虜の血にまみれた白虎部隊』日本週報398号)

★石射猪太郎氏(外務省東亜局長)の回想

南京は暮れの一三日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告が我々を慨嘆させた。南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取り締まりの用を為さない。制止を試みたがために、福井領事の身辺が危いとさえ報ぜられた。一九三八(昭和一三)年一月六日の日記にいう。

上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ。(略)

これが聖戦と呼ばれ、皇軍と呼ばれるものの姿であった。私は当時からこの事件を南京アトロシティーズと呼びならわしていた。暴虐という漢字よりも適切な語感が出るからであった。
石射猪太郎『外交官の一生』

★重光葵(外交官・事件当時、駐ソ連大使)
「しかし、駐支大使として南京に赴任(一九四二、一)して南京事件の実相を知るに及んで、我軍隊の素質、日本民族の堕落に憤りを発せざるを得なかった。
 日支間の融和を以て東亜の安定および世界の平和の基礎であることを信条としている記者(筆者)にとりては、南京事件を筆頭とする支那に於ける日本軍隊の行為には云ふべからざる悲痛の感を抱かされた。或は支那の他の部分、広東、香港はもちろん、南方方面即比島、馬来その他も推して知るべきのみと深く考えさせられた。さらにまた軍隊のみでなく、軍隊に便乗している実業家、在留民も軍隊に劣らぬ実績を有つものの少からざるに至って殆ど絶望感を抱くに至り、此戦争が敗北に終わっても日本民族として尚正義を主張し得る立場を残さねばならぬことを痛切に思った」
  (重光葵『続 重光葵手記』(中央公論社 1988)より)

★法眼晋作(外交官・元外務事務次官・元国策研究会理事長)
 「電信専門の官補時代に最もショックを受けたのは、南京事件(後述)であった。敗走する中国軍を追って南京を占領(昭和十二年十二月十三日)した日本軍が、筆舌を絶する乱暴を働いた事実である。あまりに乱暴狼藉がひどいので、石射猪太郎東亜局長が陸軍軍務局長に軍紀の是正を求め、広田外相も陸軍大臣に強く注意して自制を求めた。軍は参謀本部二部長・本間少将を現地に送って、ようやく事態は沈静に向かった。
  戦後現在に至って、南京事件の事実を否定し、これがため著書を発行したり、事実無根との訴訟を起こす者も出てきた。また、被害者の数を問題にする者もいる。残虐行為は被害者の数が問題なのではない。私に理解できぬのは、この世界を震駭(しんがい)し、知らぬは日本人ばかりなり (当時、報道が軍の厳重な統制下にあった)と言われた大事件を、如何なる魂胆かは知らぬが否定し、訴訟まで起こす者のいることで、このようなことはまことに不正明なことと言わねばならぬ。
 盗人猛々しいくらいの形容詞では足りぬ。歴史的事実はいかなるものであれ、事実として認めるほうが宜しい。さもなくば、日本は事実を秘匿し始めた、将来またやるかも知れぬ、と案じる外国人 も出てこよう。この未曾有の事件を否定すればするほど、日本の恥の上塗りとなるくらいのことは、常識であると思う」
  (法眼晋作『外交の真髄を求めて』(原書房 1986)より)

 ※法眼氏は元産経新聞本紙「正論」執筆メンバー


 以上、阿羅本がどういう手口で証言を集めたか、そこから何が見えるかを明らかにした。虐殺の否定本と称される本書においても虐殺の証言はそこここに見られるのである。反論資料も掲示したが、これはほんの序の口である。なぜなら、本書は主として残虐行為を時間的、空間的に遠い場所から観察したひとたちの証言であり、残虐行為の実行者たる兵士の証言、残虐行為の被害者証言を併せて、読まないと南京事件の全体像は明らかにならないからである。

12月24日に部分的に加筆・訂正しました。なお、岡村寧次大将の資料は分量が多いことと、事件以後の部分が多いことにより削除しました。
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[2780]Re(1):タラリさんの論考:阿羅...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/7/9(日) 10:16 -

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   同じくタラリさんの投稿から
阿羅の作文能力をもってしても、過去の肯定証言を覆せなかった。
否定派が鬼の首を取ったかのように紹介する

石川達三、鈴木二郎、前田雄二 ら諸氏の件

===========

Re: 阿羅健一批判−南京大虐殺否定の手法解析 
タラリ 2002/11/04 21:29:05 
http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/3/tfrqrf/index.html#ngkqrf

阿羅健一批判の補遺


阿羅は南京大虐殺を肯定した記者などの発言に対し、その否定証言を求めてインタビューをしています。今回、石川達三、鈴木二郎、前田雄二、今井正剛などの肯定発言、長勇中佐の言動についての補強証言を発見しましたので紹介します。

総じていえることは阿羅健一が意図的に否定証言をしているものを選んでインタビューをしていることと、阿羅本の内容を持ってしても、いったん肯定証言をしたものたちの発言そのものを覆すに足る、新発言を得ることは出来なかったこと、そして肯定証言は日本人証言者だけでもこれに数倍、数十倍の規模で存在することです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
■石川達三は東京裁判の閉廷後のインタビュー
「読売新聞」1946年5月9日付けの記事から
 入城式に送れて正月私が南京へ着いたとき街上は死屍累々大変なものだった。大きな建物へ一般の中国人数千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶絶させた。また武装解した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬った。しまいには弾丸を使うのはもったいないとあって、揚子江岸へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるようにしておいて、この上へ中国人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切って河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のような捕虜が戸板や机に捕まって川を流れて行くのを下流で待ち構えた駆逐艦が機銃の一斉射撃で片っぱしから殺害した。

■徳川義親
日本軍に包囲された南京城の一方から揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒濤のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれているとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して、「人を殺すのはこうするんじゃ」と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮になったという。長中佐が自慢気味にこの話を藤田くんにしたので、藤田くんは驚いて、「長、その話だけはだれにもするなよ」と厳重に口止めしたという。(徳川義親『最後の殿様』)《藤田とは藤田勇のこと》

■東京日々新聞 鈴木二郎
わたしはふたたび中山門に取って返した。そこでわたしははじめて、不気味で、悲惨な、谷量虐殺にぶつかった。二十五メートルの城壁の上に、一列にならべられた捕虜が、つぎつぎに、城外に銃剣で突き落とされている。その多数の日本兵たちは、銃剣をしごき、気合いをかけて、城壁の捕虜の胸、腰と突く。血しぶきが宙を飛ぶ。鬼気せまるすさまじい光景である。
神経の凍る思いで、その場を去り、帰途にふたたび『励志社』の門をくぐってみた。さきほどは気づかなかったその門内に、一本の大木があり、そこに十名余の敗残兵が、針金でしばりつけられていた。どの顔も紙のように白く、肌もあらわにある者は座り、ある者は立って、ウツロな目で、わたしをジッと見つめた。そのとき、数人の日本兵がガヤガヤとはいってきた。二,三人がツルはしをもってたっていたので工兵と知れた。そばに立っているわたしには目もくれず、そのなかの一人が、その大木の前に立つと、「こいつらよくも、オレたちの仲間をやりやがったな」とさけぶや、やにわに、ツルはしのさきが"ザクッ"と音をたてて刺さり、ドクッと血がふきだした。それをみたあとの数人は、身をもがいたがどうすることもできず、ほかの兵の暴力のなすがままになってしまった。・・・この捕虜のなかには、丸腰の軍装もあったが、市民のソレとわかるものもいた。
(鈴木二郎「私はあの”南京の悲劇”を目撃きした」−南京入城直後〔十二月十二日のことらしい〕の記事)

■同盟通信記者 前田雄二
軍官学校で”処刑”の現場に行きあわせる。後者の一角に収容してある捕虜を一人ずつ校庭に引き出し、下士官がそれを前方の防空壕の方向に走らせる。待ち構えた兵隊が銃剣で背後から突き抜く。悲鳴をあげて壕に落ちると、さらに上から止めを刺す。それを三カ所で並行してやっているのだ。
 引きだされ、突き放される捕虜の中には、拒み、抵抗し、叫び立てる男もいるが、多くは観念しきったように、死の壕に向かって走る。傍らの将校に聞くと「新兵教育だ」という。壕の中は鮮血でまみれた死体が重なっていく。・・・・交代で突き刺す側の兵隊も蒼白な顔をしている。刺す掛け声と刺される死の叫びが交錯する情景は凄惨だった。私は辛うじて十人目まて゜見た時、吐き気を催した。そして逃げるように校庭を出た。・・・
 午後支局[同盟通信社の野戦支局]を出ると銃声が聞こえる。連絡員の中村太郎をつれて、銃声をたずねていくと、それは交通銀行の裏の池の畔だった。ここでも処刑が行われていたのだ。死刑執行人は小銃と拳銃を持った兵隊で、捕虜を池畔に立たせ、背後から射つ。その衝撃で池に落ち、まだ息があると上からもう一発だ。・・・
 「記者さん、やってみないか」兵隊を指揮していた下士官が、私に小銃を差しだした。私は驚いて手を引っ込めた。すると、中村太郎に、「君はどうだ」と従すすめる。中村はニヤリと笑ってそれを受けとり。捕虜の背中に銃口を接近させると引き金をひいた。ズドンという音とともに男は背中を丸めるようにしてボシャンと池に水しぶきをあげた。それきりだった。(前田雄二『戦争の流れの中に』−十二月十六日の記事より)

■東京朝日新聞 今井正剛 
「先生、大変です、来て下さい」血相を変えたアマにたたき起こされた。話をきいてみるとこうだった。すぐ近くの空地で、日本兵が中国人をたくさん集めて殺しているというのだ。その中に近所の楊のオヤジとセガレがいる。まごまごしていると二人とも殺されてしまう。二人ともへいたいじゃないのだから早く言って助けてやってくれというのだ。アマの後には楊の女房がアバタの顔を涙だらけにしてオロオロしている。中村正吾特派員・・・と私はあわてふためいて飛び出した。
 支局の近くの夕陽の丘だった。空地を埋めてくろぐろと、四五百人もの中国人の男たちがしゃがんでいる。空地の一方はくずれ残った黒煉瓦の塀だ。その塀に向かって六人ずつの中国人が立つ。二三十歩離れた後から、日本兵が小銃の一斉射撃、ウーンと断末魔のうめきが夕陽の丘いっぱいにひびき渡る。次、また六人である。つぎつぎに射殺され、背中を田楽ざしにされていくのを、空地にしゃがみ込んだ四五百人の群れが、うつろな目付でながめている。・・・そのまわりをいっぱいにとりかこんで、女や子供たちが茫然とながめているのだ。・・・
 傍らに立っている軍装に私たちは息せき切っていった。「この中には兵隊じゃない者がいるんだ。助けて下さい」硬直した軍曹の顔を私はにらみつけた。「洋服屋のオヤジとセガレなんだ。僕たちが身柄は証明する」「どいつだかわかりますか」「わかる。女房がいるんだ。呼べば出てくる」返事をまたずにわれわれは楊の女房を前へ押し出した。大声を上げて女房が呼んだ。群衆の中から皺くちゃのオヤジと、二十歳位の青年が飛び出してきた。・・・・
 たちまち広場は総立ちとなった。この先生に頼めば命が助かる、という考えが、虚無と放心から群衆を解き放したのだろう。私たちの外套のすそにすがって、群衆が殺到した。「まだやりますか。向こうを見たまえ。女たちが一ぱい泣いているじゃないか。殺すのは仕方がないにしても、女子供の見ていないところでやったらどうだ」私たちは一気にまくし立てた。既に夕方の微光が空から消えかかっていた。無言で硬直した頬をこわばらせている軍曹をあとにして、私と中村君は空地から離れた。何度目かの銃声を背中にききながら(今井正剛「南京城内の大量殺人」十二月十五日の記事より)
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[2781]Re(2):タラリさんの論考:秦郁...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/7/9(日) 10:21 -

引用なし
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   同じくタラリさんの論考
秦郁彦の阿羅批判の紹介

========
Re: 阿羅健一批判−南京大虐殺否定の手法解析  
タラリ 2002/12/19 17:57:28 
http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/3/tfrqrf/index.html#zymqrf


秦郁彦の阿羅批判


南京事件論争に詳しい歴史家の秦郁彦は『昭和史の謎を追う(上)』(1993)
の中で阿羅氏の著作についてこう発言している。

−−−−−−−−−昭和史の謎を追う(上)−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「十二年十二月と十三年一月に南京にいた人に聞けば本当のことがわかるのではなか
ろうかと考え」て、軍の幹部百五十人、報道関係者三百人、外交関係者二十人ぐらい
を探し、うち六十六人をヒアリングの対象者にしたとある。

その精力的な東奔西走ぶりは感服するが、「数千人の生存者がいると思われる」兵士
たちの証言は「すべてを集めることは不可能だし、その一部だけにすると恣意的にな
りがちだ。そのため残念ながらそれらは最初からカットした」という釈明には仰天し
た。

筆者の経験では、将校は概して口が堅く、報道、外交関係者は現場に立ち会う例は稀
で、クロの状況を語ったり、日記やメモを提供するのは、応召の兵士が大多数である。
その兵士も郷土の戦友会組織に属し口止め指令が行きわたっている場合は、いいよど
む傾向があった。

《中略》

阿羅は最初から兵士にアプローチするつもりはなかった、と宣言しているのだ。
その結果、阿羅の本は「虐殺というようなことはなかったと思います」、「見たこと
はない。聞いたこともなかった」、「聞いたことがないので答えようもない」式の証
言ばかりがずらりと並ぶ奇観を呈している。ここまで徹底すると、クロを証言する人
は避け、シロを主張している人だけをまわって、「全体としてシロ」と結論づける戦
術がまる見えで、喜劇じみてくる。

−−−−−−−−引用終わり−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

私と違って実際にいろんな証言者から聞き取り調査をしているだけあって、阿羅が証
言者を選り好みしている様をはっきりと批判している。
44 hits

[2782]Re(3):タラリさんへ
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 ピッポ E-MAIL  - 06/7/9(日) 10:48 -

引用なし
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   タラリさん

上記3篇、全編引用しましたが、
一定期間内にご承諾がいただけない場合は、
リンク先URLのみに修正いたします。

ピッポ拝
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[2783]「国が燃える」恫喝事件と阿羅...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/7/9(日) 11:08 -

引用なし
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   これは、阿羅=畠中批判ではありません。
阿羅自身の文章です。
集英社への強請恫喝行動の中で、
一人一人がなにをしたか克明な表現、
阿羅健一がどのような役割を果たしたか、
窺い知ることができる文章として興味深いです。

文中に出てくる、犬伏大田区議とは、
クライン孝子しとともに、
デマメール「秘密の大計画」を流布し、
未だに反省の無い実行犯として知られています。
(参照:http://d.hatena.ne.jp/claw/ )

======
平成16年11月号(通巻47号)より

南京事件を無知と歪曲で描いた本宮ひろ志の愚行
集英社「週刊ヤングジャンプ」の連載漫画「国が燃える」の休載は当たり前
ジャーナリスト 阿羅 健一
http://www.tsukurukai.com/07_fumi/text_fumi/fumi47_text02.html


 ●休載措置は常識的な幕引き
 南京大虐殺が描きだされて三回目、連載漫画「国が燃える」の休載が決まった。
 
 南京大虐殺を事実だとするその描き方から、休載は当然だと考える人がいれば、のらりくらり最後まで言い逃れするだろうと予想していた人もいて、彼らにとって休載は拍子抜けだったようだ。確かに拍子抜けした人がいて、しかも彼らの方がはるかに多かったけれど、振り返ってみれば、休載は当たり前で、常識的な幕引であったといえよう。

 「国が燃える」が「週刊ヤングジャンプ」に連載されたのは二年前。著者の本宮ひろ志は、「俺の空」や「サラリーマン金太郎」などで熱血漢を描き若者の間に人気を得ている漫画家。今回の「国が燃える」では、社会の悪と戦う男を、昭和という時代を背景に描いていた。「週刊ヤングジャンプ」は、毎週百数十万部が発行されていて、大学生や若者に人気がある漫画週刊誌であることは言うまでもない。
 
 昭和初期の国や軍部が悪として描かれてきて、九月二十二日発売号では、昭和十二年冬にいたった。

 そこから南京大虐殺が描かれだす。正義に燃える若者の前には、立ちはだかる巨大な悪がなければならない。これまでの流れとこれからの展開から「国が燃える」は南京大虐殺を悪として描かざるを得ないのだろうが、そこに描かれている南京大虐殺は歪曲と無知から成っていた。

 たとえば歪曲とは、法廷の被告席に立つ松井石根大将が「南京事件ではお恥ずかしい限りです…私は皆を集めて軍司令官として泣いて怒った…私だけでもこういう結果になるという事は当時の軍人達に一人でも多く深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい…」と語る場面である。

 中支那方面軍の司令官であった松井石根大将は、東京裁判で南京大虐殺の責任を問われ絞首刑の判決が下された。その松井大将が南京大虐殺を認めたと描かれたのである。

 それは事実だろうか。

 昭和十二年八月、松井大将の率いる日本軍は上海に上陸した。それから半年間、中支の日本軍を率いて戦うのだが、松井大将が軍紀に厳しかったのはよく知られている。苦戦した上海でもそうだったし、南京攻略を前にしても軍紀厳正を十万の日本軍にもとめた。日本軍が南京を陥落させたとき、何件かの不祥事が起き、その報告が大将まで届けられた。報告は松井大将にとってきわめて衝撃で、大将は激怒した。大アジア主義者であり、日中親善を念願としていた大将だから、数件ほどの不祥事にも心をいためたのである。

 敗戦となって突然事件の責任を問われるのだが、南京で事件らしきことの報告は受けたことがなく、責任を問われるようになってからも事件が起こったとは思っていない。「国が燃える」に引用されている言葉は、処刑の直前に松井大将が教戒師に、南京で受けた報告に対する自分の気持ちを述べたものである。

 この言葉は、どんな事件でも無視することなく、軍紀にはきわめて厳しかった松井大将を示しており、むしろ松井大将を賞賛すべきときの言葉である。

 このような言葉を、法廷で述べたように記述し、事件を認めたと描く。だから歪曲というのである。

 無知もたくさんある。「木炭トラックを集落に乗りつけて略奪して来て兵隊達に分けるんだ」「強姦をやらない兵隊なんかいなかった」というセリフが漫画にちりばめられている。この言葉は、南京城内に入ったこともない兵士の作り話で、アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』にも引用されていたものだ。

 研究が足りないし、事件に対する無知からくるとしても、昭和十二年の南京に木炭トラックがあるかどうか、疑問を持たなかったのだろうか。常識からして分かりそうなものである。
南京大虐殺の疑問を中国人にぶつけると、日本人の方が南京大虐殺を主張していると返ってきて返答に窮することがある。南京大虐殺を主張している日本人とはまさしく本宮ひろ志その人である。

 ●あらゆる層から集英社へ抗議
 「国が燃える」に描かれた南京大虐殺が歪曲と無知から成っていることは、現代史に関心を持つ人なら容易に気づくことで、「週刊ヤングジャンプ」が発売になってまもなく、インターネットで広まった。

 西村修平氏は、そのことをインターネットで知った。六年前、中国映画「南京1937」が公開されたとき、公共施設を映写場として貸与してよいものかどうか、西村修平氏は公共施設に質問状を出し、それによって貸与が撤回されたことがある。あの映画を彷彿させる残虐な場面が「国が燃える」にも描かれている。「人類が絶対に忘れてはならない日本軍による愚行があった。いわゆる“南京虐殺事件”である」と本宮ひろ志は断定している。見逃すわけにはいかないと思った西村氏は、さっそくその日、「週刊ヤングジャンプ」の編集部に問い合わせをした。

 あちらこちら回された電話は、最後に切れてしまう。電話で埒があかないと考えた西村氏はすぐに集英社に赴く。

 このときはまともに対応してもらえず、翌日、改めて集英社に向かう。フィクションとはいえ、実在の人物が登場し、南京事件は事実だと描いている。若者をたぶらかすものであり、見逃すことはできない、と西村氏は集英社に繰り返した。

 台風が東京を襲っているときで、雨の中での抗議がつづく。二人で始まった抗議が、三人、五人とふえる。とうとう五日目、集英社は一週間後に返事すると回答をする。

 チャンネル桜の社長をつとめる水島総氏がインターネットで知ったのは西村氏から数日遅れであった。チャンネル桜は、日本のあるべき姿、国益、それらを考える番組づくりを中心にこの夏にはじまった衛星放送である。中国とのせめぎ合いがつづいているなか、まともな史料を参考にしないで南京大虐殺が描かれてはチャンネル桜としてだまっているわけにいかない。チャンネル桜の主力番組は、平日夜八時から二時間の「報道ワイド日本」である。さっそくここで取り上げるとともに、集英社へ取材を申し込む。

 「国が燃える」は本宮ひろ志の企画なのか、南京事件を取り上げるに際してどのような資料選択をしたのか。

 チャンネル桜から数日遅れて知ったのは大田区議会議員の犬伏秀一氏である。犬伏区議会議員もやはりインターネットで「国が燃える」の内容を知った。

 本宮ひろ志と犬伏秀一議員は、航空自衛隊生徒の先輩後輩関係にあった。これまで本宮ひろ志が描く漫画には自衛隊生徒をうかがわせる場面があり、描かれる熱血漢もその流れにあると思っていたけれど、「国が燃える」の南京大虐殺は考証が稚拙であり、史実にない残虐シーンを若者向け雑誌に掲載していいのかも問題だ。

 いつもは外国人参政権などを話し合っている地方議員の意見を聞いてまわった。古賀俊昭都議会議員をはじめ四十三名から、見過ごすべきではないと意見が寄せられた。

 十月四日、犬伏議員は集英社に電話をする。長い間待たされたうえ、抗議があるなら書いて送ってほしいとの返事である。翌日、松浦芳子杉並区議会議員ら四人の議員と集英社に向かった。

 たとえば朝日新聞のように、マス・メディアの多くは自分の間違いを認めようとはしない。また、チャンネル桜の抗議で分かったが、取材はするけれど、取材されることは拒否する。「国が燃える」に抗議をした人たちは、抗議したものの、よい結果は簡単に望めないと思ったであろう。

 しかし、集英社内はそうでなかった。

 いったん抗議がはじまると、毎日二十件ほどの電話や手紙が寄せられだす。これまで集英社ではなかったことだった。インターネットは間違いの多さを批判して書き込みがふえだす。チャンネル桜は連日取り上げる。

 集英社では、連日、対策会議が開かれ、十月八日には最初の答えが出されることになった。事件が描かれて三回目の号が発売された翌日である。

 「国が燃える」は、残虐さが際立っていればいるほどストーリーが生きてくる。そのため南京の残虐な話が集められて描かれたけれど、作り上げられた話ばかりである。加えてニセ写真の引用。さらには裁判で係争中の百人斬り競争まで事実として描かれている。単行本化のとき間違いを訂正すると回答したものの、訂正すればストーリーが成りたたなくなる。

 抗議は、ひとつの組織だけからでなく、あらゆる層に及んでいた。抗議は拡大こそすれ、収束する気配はない。犬伏議員のように、続けながら訂正することを求める人もいたけれど、そうするとストーリーに一貫性がなくなる。

 回答から五日後の十三日、あと二回の連載をもって休載することが決まった。糊塗する道はどうしてもみつからなかったのである。単行本化では、五頁にわたって描きかえ、七頁を全部削除すると決まった。
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[2790]Re(1):『阿羅=畠中批判』を書...
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 タラリ E-MAIL  - 06/7/9(日) 21:48 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>核心さんにエールを送る意味で、
>世の中にある『阿羅=畠中批判』を書き込むスレッドを建てたいと思います。
>

数々のリライト活動ご苦労様です。
私の古い投稿まで日の目を見させていただきました。

私も最新の論考を書きました。
掲示板に書くのはちょっと長いのでhtm化してしてupします。
核心さんが公開されました、畠中(阿羅)の捏造聞き取りを原稿ベースで批判しております。
「栗原証言阿羅聞き取り版批判」
http://www.nextftp.com/tarari/arakikitori.htm

ところで未完の部分については阿羅と田中正明のコラボに関しての詰めが残っています。
『南京事件の総括』田中正明を読みますと、先日私が思考錯誤に書いた推理でよさそうなのですが、もしかすると『南京事件の虚構』田中正明 にも田中正明の「平林証言」聞き取りがあったのかもしれません。

私は『南京事件の虚構』を持っていませんので、持っている人がいらっしゃいましたら、平林証言」聞き取りがいつ最初に行われたのか教えて下さい。よろしくお願いします。
32 hits

[2791]Re(4):タラリさんへ
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 タラリ E-MAIL  - 06/7/9(日) 21:59 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>タラリさん
>
>上記3篇、全編引用しましたが、
>一定期間内にご承諾がいただけない場合は、
>リンク先URLのみに修正いたします。
>
>ピッポ拝

阿羅健一著「『南京事件』日本人48人の証言」批判はその後かなり加筆修正して、html化してupしようとしていたのですが、直し始めるとキリがなくなってまとまらず、放置しています。それからゆうさんも立派な批判を書かれましたので、upする意味が少なくなったのも一因です。

ですが、こうやってサラされますと刺激にはなります。また、まとめて見ることができるのは有用です。特に削除されなくてもよろしいです。ご努力に感謝します。

今回、栗原証言の手口を見ると非常にあくどいので腹がたちます。
ネットウヨは「左翼の主張は捏造証言、捏造日記のオンパレードだ」というようなデマを真に受けているのが多いのですが、田中正明、鈴木明、阿羅健一など捏造のオンパレードだと思います。
45 hits

[2793]Re(2):『阿羅=畠中批判』を書...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/7/9(日) 22:20 -

引用なし
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   ▼タラリさん:
>私も最新の論考を書きました。
>掲示板に書くのはちょっと長いのでhtm化してしてupします。
>核心さんが公開されました、畠中(阿羅)の捏造聞き取りを原稿ベースで批判しております。
>「栗原証言阿羅聞き取り版批判」
>http://www.nextftp.com/tarari/arakikitori.htm

ご承知と思いますが、
畠中(阿羅)の捏造聞き取りの原稿および記事のテキスト化を、
核心さんのご協力で進めています。
来週あたりにもう少しマシなものを提示できると思います。

それぞれ段落ごとの番地もつけるつもりです。

タラリさんら皆さんの批判をいただいて、
底本化できればいいなあと思っています。
36 hits

[2797]Re(1):田中バイブルとその中の...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/7/10(月) 9:25 -

引用なし
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   【謝辞】
ネトウヨ君たちのバイブルである、
田中正明著「南京事件の総括 虐殺否定15の論拠」
http://www.geocities.com/TheTropics/Paradise/8783/15a.html?200610
の一節です。
http://www.geocities.com/TheTropics/Paradise/8783/15a.html

松尾一郎さんが寝食を忘れてタイピングし、電子テキスト化してUPしたものと思われます。ここに、捏造史観のバイブルとして資料掲示できることを、松尾一郎さんに厚く感謝申し上げます。

【適用】
文中、阿羅健一さんと畠中秀夫さんの名前を顕彰して、赤く目立たせました。その他、人名は太字にしました。

【お願い】
このバイブルに対する批判論考をご紹介ください。


============(以下、引用)

目撃者のいない“大虐殺”


 (1) 120人のプレスマンは何を見たか

 鎌倉市よりも狭い南京城内に、日本の新聞記者やカメラマンが、約120人も占領と同時に入城して取材にあたっていながら、前述の今井正剛、鈴木二郎記者の虚構を除くほかは、1人として婦女子の虐殺や一般市民および捕虜の大量虐殺などは見ていないのである。当時、「朝日」「東日」「読売」「日経」など全国紙の各支局をはじめ、地方紙や通信社も、南京に特派員を派遣している。これらのプレスマンが異口同音に言うには、「東京裁判で、南京にあのような大事件があったと聞いて驚いた」である。これは南京に入城した将兵たちもほとんど同様である。当時、読売新聞の上海特派員だった原四郎氏(現在読売新聞社顧問)は「世界日報」の記者にこう述べている(57・8・31)。

 「わたしが南京で大虐殺があったらしいとの情報を得たのは、南京が陥落して3ヶ月後のこと。当時、軍による箝口令が敷かれていた訳ではない。なぜ今頃こんなニュースが、と不思議に思い、各支局に確認をとったが、はっきりしたことはつかめなかった。また中国軍の宣伝工作だろう、というのが大方の意見だった。」

 これと同じ意味のことを東京日々新聞特派員五島広作氏が書いている。氏は昭和41年4月に『南京作戦の真相=第六師団戦史』という著書を熊本日々新聞から出版している。

 「自分が南京戦を終えて上海に帰り、しばらくすると、南京に虐殺事件があったらしいといった噂を耳にした。おどろいて、上海に支局をもつ朝日や読売や同盟など各社に電話を入れてみた。どの社も全然知らぬ、聞いたこともないと言う。おそらく敵さんの例の宣伝工作だろうというのが話のオチであった。」
 これが各紙特派員の当時のいつわらざる実情のようである。

 最近、畠中秀夫氏が、じゅん刊「世界と日本」に『聞き書き 昭和十二年十二月南京』と題して、南京に入城した著名人の聞き書きを書いている。

 その中で死去する少し前の石川達三氏とのインタビューは特に興味深い。石川氏は前述の通り小説『生きている兵隊』で発禁処分を受け、執行猶予付きながら、実刑を科せられているのである。畠中氏はその石川氏と次のような問答をしている。

 「私が南京に入ったのは入城式から2週間後です」
 ―そのときどのような虐殺をご覧になられましたか?
 「大殺戮の痕跡は一ぺんも見ておりません」
 ―いわゆる「南京大虐殺」をどう思いますか?
 「何万の死体の処理は、とても2、3週間では終わらないと思います。あの話は私は今でも信じておりません」(同書14ページ)。

 自著が発禁になり、実刑まで受けた石川氏の言葉だけに重みがある。本多勝一氏は『南京への道』で、石川氏の『生きている兵隊』を引用して、南京大虐殺の有力な立証の材料に使っているが、石川氏に言わせるなら、迷惑千万な話だった訳だ。

 畠中氏はもう一人異色の人物にインタビューしている。当時「朝日」の上海支局次長であった橋本登美三郎氏である。田中内閣の時、自民党の幹事長や運輸大臣まで務め、ロッキード事件に連座して控訴中の人物である。氏は「朝日」の記者15人ほどを引き連れて、南京に一番乗りしたことで有名である。氏は畠中氏にこう答えている。

 「南京の事件ねえ。全然聞いていない。もしあれば、記者の間で話にでるはずだ。記者は少しでも話題になりそうなことは互いに話にするし・・・それが仕事だからね。噂としても聞いたこともない。朝日新聞では現地記者ばかり集めて座談会もやったが、あったのなら、露骨でないにしても、抵抗があったとか、そんな話が出るはずだ」

 もう一人、「朝日」の大先輩でやはり南京特派員であった足立和雄氏畠中氏にこう答えている。

 「私は南京大虐殺なんて見ていません。あなた(畠中)がどういう立場の人か存じませんが、南京大虐殺の証言はできませんョ」

 きつくそう断られたが、押し問答の末、立場をはっきりし、お目にかかった、畠中氏はかねて疑問に思っていた“虐殺目撃者”として名乗り出た「朝日」の記者今井正剛氏について尋ねてみたそうである。足立氏は一言のもとに、今井氏をこう評したと言う。

 「あれは自分で見て記事を書く人ではなかった。人から聞いたことを脚色するのが上手かった。」

 婉曲に彼の「文芸春秋」で発表した2万人の虐殺を見たかのごとき作文など怪しいものである旨示俊したのである。はからずも同じ「朝日」の森山喬氏筆者に語った今井評と一致する。森山氏も彼の虚言を立証している。なぜなら当時彼と一緒に南京で寝室を同じくして取材しているのに、そんな話はついぞ聞いたことがないと言うのである。

 (2) 南京入城者の証言

 阿羅健一氏は、雑誌「正論」に61年5月号から『日本人の見た南京陥落』を連載している。南京戦に参加した新聞記者、カメラマン、将兵等を訪ね、占領後の南京の模様について克明にインタビューし、それをそのまま記録した連載ものである。紙幅の関係で詳述はさけるが、61年5月号から12月号にいたる8回の登場者とその所見は次の通りである。主に“虐殺”の有無について抄出した。番号はその回数である。

(1) 最初の面接者は、上海派遣軍参謀大西一大尉。同大尉は2課の情報参謀で、最年少。引き続き南京特務機関長に就任、約1年在勤。

 「私は長参謀の下にいましたが、長参謀が命令(筆者注・やっちまえという虐殺命令のこと)を出したということは、見たことも聞いたこともありません(中略)。また、情報担当の長参謀が命令するというのもおかしな話です」

 ――第16師団の中島(今朝吾)師団長の日記に「捕虜はせぬ方針なれば」とあり、これが捕虜虐殺の証拠と言われていますが?
 「これは銃器を取り上げ、釈放せい、ということです。中国兵は全国各地から集まっていますが、自分の国ですから歩いて帰れます」
 ――上海派遣軍の中で虐殺があったという話はありませんでしたか?
 「話題になったことはない。第2課も南京に入ってからは、軍紀、風紀の取り締まりで城内を回っていました。私も城内を回った」
 ――何も見ていませんか?
 「一度強姦を見た」

(2)松井軍司令官付陸軍通訳官岡田尚氏 降伏勧告文を翻訳し、軍使に加わる。

 「城内には死体はありませんでした。ですから一般市民に対しての残虐行為はなかったと思います」「火事があったとよくいわれますが、私には記憶ありません」「捕虜の話は聞いています。下関で捕虜を対岸にやろうとして(中略)その渡河の途中、混乱がおきて、撃ったと言うことは聞きました」

(3)上海派遣軍特務部員岡田酉次少佐。

 「あの南京攻略戦を見てますと、中国軍の中には女がいました。私も女の中国兵が倒れているのを見ています。また敗残兵といっても抵抗するのもいたし、便衣兵というものもいて、これらがやられるのを見ました。これらの屍があとで虐殺と言われたのではないでしょうか?」

(4) 東京日々新聞カメラマン佐藤振寿

 ――虐殺があったといわれますが?
 「見ていません。虐殺があったと言われていますが16、7日頃になると、小さい通りだけではなく、大通りにも店が出ました。また、多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集まっていましたから、とても残虐な殺しなどがあったとは信じられません」
 ――南京事件を聞いたのは?
 「戦後です。アメリカ軍が来てからですから、昭和21年か22年頃だったと思います。NHKに『真相箱』という番組があって、そこで南京虐殺があったとの放送を聞いたのがはじめてだったと思います。

(5)同盟通信映画部カメラマン浅井達三氏、

 ――同盟通信のなかで虐殺というようなことが話題にならなかったですか?
 「なりませんでした。その頃、敗残兵や便衣隊がよくいて、それをやる(処刑)のが戦争だとおもっていましたから」

(6) 報知新聞従軍記者田口利介氏、
 ――南京で虐殺があったといわれますが?
 「当時聞いたこともなかったし、話題になったこともありません」

(7) 同盟通信無電技師細波孝氏、

 「トーチカの中だけでなく、揚子江岸にも死体はありました。中には針金で縛ってつないでいたのもありました」
 ――死体の数はどのくらいですか。
 「さあ、どのくらいか。百人くらいでしょうか。湯山にいた捕虜をやったのでしょう」

(8) 都新聞記者小池秋羊氏、 (13日入城)

 「城内はどの家も空き家で、物音一つしない死の都市でした。犬・猫の姿一つ見受けられず、不思議な妖気が漂い、街路は激戦の跡とも見受けられない整然とした街並みで、びっくりしてしまいました」

 ――その他の難民区の様子はどうでした?
 「敗残兵探しの時は難民も動揺していましたが、一般に平静でした。
 また食糧が無く飢餓状態で、食糧をくれと我々にすがりつく人もいました。私たちの宿舎には発見された米が何俵もありましたので、難民区のリーダーを宿舎に連れていき、米や副食品などを大八車2台分やりました。難民区には6、7万人いたので、これだけでは九牛の一毛だったと思います」

 ――南京では虐殺があったといわれますが、そういう死体を見ていますか?
 「虐殺されたものか、戦死体かわかりませんが、中央ロータリーのそばにつくりかけのビルがあり、この地下に数体の死体がありました(中略)。それと、把江門だったと思いますが軍のトラックでここに行った時、車に何度もひかれてせんべいのようになっていた死体が一体ありました(中略)。下関にあるドック、それはグラウンド・スタンドのような円形の造船所ですが、そこに累々たる死体が投げ込まれているのも目撃しました」 

 ――ドックの死体はどのくらいですか?
 「5体や10体じゃなかったと思います。何10体かあったと思います。これは戦死体だと思います」

 ――その他に死体はありませんでしたか?
 「ありませんでした」 

 ――南京で虐殺の話を聞いたことはありませんか?
 「ありません」

 <筆者注>なお小池氏は13日、中正路で火事を見たが、そのとき2台の自動車に分乗した外人記者が街を縦横に疾駆して、パチパチとカメラのシャッターを切っていた、と重要な証言をしている。

(9) 読売新聞技師樋口哲雄氏、

 「自転車を持っていたので、毎日あっちこっちに行きました」

 ――その頃、日本軍による虐殺があったと言われていますが?
 「どこで何があったのか知りません」

 ――見たり聞いたりしませんか?
 「全然解りません。だいいちそういう形跡を見たことがありません。あったとよく言われますが、どこでどんなものがあったのか。中山陵など荒らされていないし、きれいでした。
 やらなきゃこっちがやられるからやったのを虐殺といっているのだと思います」

(10) 東京日々新聞カメラマン金沢善雄氏、

 「戦後、この時、何万人かの虐殺があったといわれていますが、不思議でしようがないのです。私は南京をやたら歩いていますが、虐殺を見たこともなければ聞いたこともありません」
「ここ(南京)には1ヶ月ほどいましたが、戦後言われているような事は何も見ていなければ、聞いてもいません。ですから虐殺があったと言われていますが、あり得ないことです。松井大将が絞首刑になったのも不思議でしょうがないのです」

(11) 読売新聞上海特派員森博氏、

 「住民は敵意を持っていなかったし、日本兵を怖がってもいなかったと思います。逆に、便衣隊がいましたので日本兵の方が中国人を警戒していました。」
「捕虜を捕らえたが、捕虜にやる食糧がないし、収容する所がない。放してもまた兵隊になる。それで困ってやったと言っていました・・・下士官が単独でやったと思います。分隊長クラスの下士官です」

(12) 第10軍参謀谷勇大佐、

 「14日の11時30分頃でした。中華門から入ったが付近に死体はほとんど無かった。3時頃になり私は後方課長として占領地がどんな状態か見ておく必要を感じ、司令部衛兵1個分隊を伴い、乗用車で城内一帯を巡回した。
 下関に行った時、揚子江には軍艦も停泊しており、艦長と会見した。この岸辺に相当数の死体があった。千人ほどあったか、正確に数えれば2千人か3千人位か。軍服を着たのが半分以上で、普通の住民服のもあった」

 ――戦死体と違いますか?
 「城内から逃げたのを第16師団が追いつめて撃ったものと思う。これが後日虐殺と称されているものではないか?」

 ――把江門にも死体があったと言いますが、ご覧になりましたか?
 「ものの本には把江門もだいぶ(死体が)あるように書いてあるようだ。14日午後通ったが、その時は無かったね」

 こう言いながら又アルバムを開く。14日の把江門の写真である。写真は3つの入り口を持った把江門全体が写っているが、周辺一帯に死体らしきものは見当たらない。
 「雨花台でもやったと書かれたものがあるが、そういう死体は全然なかった」

(13) 第10軍作戦参謀吉永朴少佐、

 「13日早朝、中華門から入りました」

 ――その時の南京の様子はどうでしたか?
 「儲備銀行に行く途中、身分いやしからぬ中国人の家族に会いました。そこで私は自分の名刺に、歩哨線を自由に通過させよ、と書いて渡しました。当日(13日)家族が歩ける位ですから、城内が落ち着いていることが解ると思います」
 「2、3日してから作戦上の任務で下関に行きました。揚子江の埠頭に相当数の中国軍人の死体がありました――数千はあったと思います。第10軍は南京の南側からだけ攻めたのではなく、国崎部隊が浦口から攻めましたので、この時の死体と思います。」

(14) 第10軍参謀金子倫介大尉

 「南京に入ったのは13日か14日だと思います。城内では一人の死体も見ませんし、一発の銃声も聞きませんでした」

 ――それでは、そのころ南京事件は聞いたことがなかったのですか?
 「ええ聞いたことはありませんでした。戦後東京裁判で聞いてびっくりしました。
 何か隠しているとか、言い渋っているとか言うことではなく、本当に南京では何も見ていません。南京では印象に残るようなことはなかったのでしょう」

(15) 報知新聞カメラマン二村次郎

 ――南京虐殺ということが言われていますが。
 「南京にいる間見たことがありません。戦後よく人から聞かれて、当時のことを思い出しますが、どういう虐殺なのか私が聞きたいくらいです。逆に人が書いたものを見たりしています。アウシュビッツのように殺す場所がある訳でもないですからね、私が虐殺の話を聞いたのは、東京裁判の時です」

(3) 作家・評論家の南京視察記

 南京に入城したのは約120人の新聞記者やカメラマンだけではない。大宅壮一、木村毅、杉山平助、野依秀市、あるいは西條八十、草野心平、林芙美子、石川達三といった高名な評論家や詩人、作家も陥落とほとんど同時に入城している。このほかにも、南京陥落後、13年の春から夏にかけて、南京を訪れた有名人は大勢いる。これらの人々は、帰国するや色々な雑誌や新聞にレポートを書き、講演もしている。

 例えば、杉山平助氏は朝日新聞に『南京』を連載している。木村毅氏は『江南の早春』を、林芙美子氏は『南京行』を、小林秀雄氏は『杭州より南京』を、詩人の草野心平氏と『実業の世界』の野依秀市社長が期せずして2人一緒に南京に入り、野依氏は同誌に『楽土激土』を書き、草野氏は『支那点々』を書いている。2人とも南京市の城壁の内外を車と足で歩いているが、その視察記はまことにきめ細やかな描写で、臨場感にあふれており、さすがだと思う。しかしそれらの視察記や紀行文の中には“大虐殺”を匂わすような文章はどこにも見当たらない。

 終戦になり、東京裁判が始まって、軍の作戦や旧軍人に対する批判が高まった時でも、これらの作家や評論家や詩人のだれ一人として南京事件を告発したり、あげつらう者はいなかった。批判力旺盛な口八丁、手八丁と言われた大宅壮一でさえ、南京虐殺には終始否定的であった。

 (4) 筆者の見た南京

 実は筆者も、雑誌「大亜細亜主義」の従軍記者として、南京事件の翌年13年8月、南京を約1ヶ月にわたって視察し、9月から始まった漢口攻略戦に、林芙美子氏らと共に第6師団の北岸部隊に従軍し、11月、武漢一番乗りの部隊とともに入城した。

 大亜細亜協会会長松井石根大将から、その後の南京一帯の治安の状況や民心の動向などよく視察してくるようにと言われ、何通かの紹介状も頂いた。従って一従軍記者ではあったが、南京特務機関長や報道部長の特別の便宜を受け、南京城内外の古戦場や近郊の下関、雨花台、紫金山はもとより、湯水鎮、仙鶴門鎮、句容、浦口まで足を伸ばし、くまなく見て回ることができた。 私が宿泊したのは、故楼近くの兵站宿舎であるが、そこは難民区の入り口に当たり、まだ歩哨も立っており、“良民証”の点検も行われていた。難民区内は名物の泥棒市や露天商、マーケットが軒をならべており、活況を呈し、大方巷の一角など早朝から喧騒を極めていた。当時すでに人口は50万近くにふくらみ、昔からの色街の秦匯街あたりは日本人経営の料亭や食堂の女性が夜の南京の街を浴衣姿で歩いている風景さえ見られた。

 東京裁判や国際委員会の報告等にも市街の3分の1以上が日本軍の放火で灰塵に帰したと告発しているが、これは全くのウソで、下関を除けば、焼け跡は予想外に少なく、街は意外に整然としていたのにはむしろ驚いたほどである。

 いうまでもなく、約半年ほど前、南京に“大虐殺”があったなどと言う噂も風聞もきくこともなく、ただ各地で、南京攻略戦当時の激戦の模様につき説明を受けたのみであった。雨花台のトーチカの中で、鎖に足をつないで、死ぬまで抗戦した中国兵の勇敢さと、その鎖を見た印象はいまだに消えない。

 多くの従軍記者やカメラマン、作家、詩人などが口をそろえて言うごとく、「南京大虐殺」などということは、東京裁判が始まるまで、見たことも聞いたこともない事件だったのである。

 最後にこのことを証明するかのように、細川隆元氏が昨年(61)終戦記念日前の日曜日、TBSの『時事放談』で、次のように言われたことを読者も記憶していよう。

「わしが朝日新聞の編集局長であった時だ。南京に特派した記者達を集めて、南京に虐殺事件があったとかどうとか噂を聞くが、本当はどうだ?と、一人一人に聞いてみた。全然その様なことは見たことも聞いたこともありません――というはっきりした返事だった。・・・・何万、何十万なんて言う虐殺など絶対にない。絶対になかったとわしは思う」

という意味の強い発言をしていたことを付記したい。
43 hits

[2801]『"南京虐殺"の虚構...
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 ゆう E-MAILWEB  - 06/7/10(月) 22:06 -

引用なし
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   >『南京事件の総括』田中正明を読みますと、先日私が思考錯誤に書いた推理でよさそうなのですが、もしかすると『南京事件の虚構』田中正明 にも田中正明の「平林証言」聞き取りがあったのかもしれません。
>
>私は『南京事件の虚構』を持っていませんので、持っている人がいらっしゃいましたら、平林証言」聞き取りがいつ最初に行われたのか教えて下さい。よろしくお願いします。

手元の本を確認しましたところ、P192に、平林氏の名が登場します。しかしこれは、鈴木明氏『南京大虐殺のまぼろし』からの引用です。

>「相手は素手といえども刃向って来られたら、こちらが全滅です」と平林少佐はいう。以下は『「南京大虐殺」のまぼろし』の著書の引用である。

以下は鈴木氏の本からの引用ですので、省略します。

一応全ページを繰ってみましたが、「虚構」には平林氏のオリジナル証言は存在しないようです。以上、ご報告まで。
32 hits

[2807]Re(1):石川達三インタビューは...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/7/11(火) 8:15 -

引用なし
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   阿羅健一こと畠中秀夫が一躍捏造史観の旗手となり、百人斬り裁判の会長まで上り詰めたのは、虐殺否定派とは決していえない石川達三の「否定発言」を引き出したからと言われている。

わたしは、これを、阿羅健一こと畠中秀夫自身が自画自賛していることを知った。
他サイトの記録だが、阿羅健一こと畠中秀夫の真実を知るよき資料なので転載させていただく。

サイト名は
管理人 雨奇晴好さんの「歴史研究日誌」です。
http://page.freett.com/souther/
私とは異なる立場から南京事件と阿羅健一に注目している方のサイトなので、ジックリ読んで意見を差し上げるといいでしょう。

その中の一つのページに
【参考資料 南京戦】
・チャンネル桜 阿羅健一
・阿羅健一と石川達三
・NYT指揮官不在
http://page.freett.com/souther/sourcenanking1.html
があります。

以下、3点のうち2点を引用します。


チャンネル桜 報道ワイド日本 阿羅健一

報道ワイド日本ゲストスペシャル 阿羅健一(本放送10月21日)
放送日:11月21日18:00〜23:00
キャスター:三輪和雄・桜林美佐

この番組の中から石川達三氏についての会話を抜き出してみました。

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■三輪
これもあのー私、これは、阿羅さんの時じゃない時も申し上げましたけど、当時あの第1回芥川賞受賞作家の石川達三氏などもね、いたんですけど、彼もですね戦後、石原慎太郎さんが、その石川達三さんに、これは石原さんの本に出てますけど、ほんとにあったんですかと聞いたら、そのぉ言を濁したと。
というのは、あの人は、その社会党シンパのような立場でありましたからね、無いとは言えないんだけれども、しかし〜彼は、戦後も日本軍の旧悪なるものを、どんどん暴露してったわけですから、もしほんとにあったらね、もぉそれはもぉぼんぼん言ったと思いますね。で、あの人が言わなかったというのは、やっぱり作家的な良心があったんでしょうね。
だからねぇわたしもねぇあの〜まあ阿羅さんと、だいたい同じ年なんで、ま幸いにしてね、もうちょっと若いころに、えぇ当時、ま、こういう仕事をするってことがわかってたらもっと取材してたんですけど、ほんとにねぇ世間話のような形で聞いたんですけども、誰からもねぇ聞いたことないですね、あのぉ、ほんとに。
で、この取材の過程で、えー少しはこのー何十万人があったというようなことを感じさせるような証言と言うのは、まったく無かったですか?

■阿羅
ええ、いやもう、まったくありません。
それで今、あの石川達三さんのあのぉ名前が出たんですけどねぇ、やはりあのぉ私も当時石川さんがまだ存命中だったんです、ええ、それで、あの、手紙を差し上げて、その石川さんが南京でどういうのを見たんですかと、その話を聞きたいんです、手紙を差し上げたらですねあのぉ葉書が返ってきて、ええ、それで、あの今、南京事件というのが言われてるようですけど、私は信じませんと。

■三輪
あーそうですか。

■阿羅
そういう、あの。

■三輪
それは石原さんの本よりもすごいわ。

■阿羅
ええ。

■三輪
あーそうですかぁー。

■阿羅
そういうあの葉書をいただいて、それでねそれからねぇ。

■三輪
あーこれ阿羅さんは、いろんなところで言ってくださいよこれは。

■阿羅
ええ。

■三輪
えへへへ。これはすばらしい……

■阿羅
えーでもね、あとで考えてみるとですね、それから一月ほどで、石川さんが亡くなったんです。

■三輪
あーじゃぁ亡くなる……

■阿羅
ええですからもう最後のね、もうとにかく、あの、えー元気だったらたぶん会えたん、会ってくれたんだと思います。ええ、そのことも簡単にここ(本を手にとって)に書いてます。

■三輪
あ、そうですか……あの……でした。これはねーちょっと大変な歴史のねー証言ですわねぇ。あのー特にねー石川達三さんて人が、あの保守派で無いだけにね、これは万鈞の重みがあると思いますねぇ。

---------------------------------------------------

*……はよく聞き取れなかった部分
*阿羅氏が手に取った本は『南京事件 日本人48人の証言』(小学館文庫)
*()は筆者加筆




 阿羅健一と石川達三

■「南京事件」日本人48人の証言 阿羅健一 小学館文庫 P306 補 遺
 生存者のなかで、約半数の方とは会うことができなかった。ほとんどの人が病気であったからである。それでも、多くの方は手紙なり葉書なりで、南京の様子を知らせて下さった。数年間にわたって、度々手紙のやりとりをした方もいる。会えなかった人と、その人たちの見た南京の様子は、次の通りである。

この「会えなかった人」のなかに石川達三氏も含まれているわけです。
次に石川氏について書かれた部分を掲載します。

■「南京事件」日本人48人の証言 阿羅健一 小学館文庫 P312  
 戦後になり、『生きてゐる兵隊』は南京事件を扱った小説と言われるようになった。
 昭和五十九年十月、インタビューを申し込んだが、会うことはできなかった。理由は後でわかったが、それから三ヶ月後の昭和六十年一月に石川氏は肺炎のため亡くなった。インタビューを申し込んだ時は胃潰瘍が良くなりつつあったが、会えるような状況ではなかったのである。しかし、そのおり、次のような返事をいただいた。

「私が南京に入ったのは入城式から二週間後です。大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。何万の死体の処理はとても二、三週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません。」

上の引用文と合わせて考えれば、手紙あるいは葉書でやりとりしたと考えるのが自然だと思うのですが……。

チャンネル桜の方では一月ほどで、石川さんが亡くなったと言っていましたが記憶違いでしょうか? 



なんか凄くアイマイですね。
雨奇晴好さんのききとりが下手だったせいではないでしょう。


畠中秀夫こと阿羅健一は、

・石川達三氏にどのような手紙を送ったのでしょうか?
・質問の文面を明らかにしているでしょうか?
・いきなり葉書で回答がきたのでしょうか?
・葉書はあらかじめ阿羅が質問文に同封してあったものでしょうか?
・活字にするにあたって、石川達三氏にゲラを送ったのでしょうか?
・本人校正は行なわれたのでしょうか?

どうもどうやら
死人にくちなし
のようです。

畠中秀夫こと阿羅健一は、石川達三氏の病状経過と石川氏へのアプローチ、この2つの経過を日付を入れて明らかにすべきです。そして「葉書」の存在も・・・

立場は違いますが、私も雨奇晴好さんと同じく、隔靴掻痒の感を否めません。
32 hits

[2850]Re(1):阿羅健一の経歴
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 ピッポ E-MAIL  - 06/7/13(木) 14:43 -

引用なし
パスワード
   正論のページに阿羅健一氏のじこPRがありましたので
紹介しておきます。

「正論」私の写真館85 
http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2002/0201/myphoto.html
評論家 阿羅健一
より

 あら・けんいち=昭和十九(一九四四)年宮城県仙台市生まれ。東北大学文学部卒業。昭和四十一年キングレコード入社。トム・ジョーンズ、新井満らの宣伝を担当。五十五年に退社、同年編集・校正プロダクション情報出版を設立。代表取締役。かたわら近現代史に関わる評論を手がける。著書に『聞き書き南京事件』(小学館文庫として復刻)、『ジャカルタ夜明け前』(頚草書房)など。


両親は学校教師だそうです。戦後、軍国教師が総懺悔したことに父親が抵抗したそうです。このページで阿羅は


(前略)
戦後教育の中、明瞭に戦前の面影を持つ父母のもとで過ごした日々は、有形無形に私の血肉となっている。長じて「戦後日本」を疑うようになったのは、自分では分からぬ必然があったのかも知れない(談)。
(後略)


しかし3歳違いの私としては、
この文章があまりにも恰好よさ過ぎる。広告文章に手馴れている。
ちょいと指につば。
33 hits

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