留意事項 リ ン ク
メンバー登録 T O P
思考錯誤の全投稿をメール配信して欲しい方、クリックして空メールを送信 管理からのお知らせ 思考錯誤ヘルプ
  新規投稿 ┃ツリー表示 ┃スレッド表示 ┃トピック表示 ┃番号順表示 ┃検索 ┃設定 ┃お蔵入り ┃旧思考錯誤 ┃南京事件資料集  
404 / 645 ツリー ←次へ | 前へ→

[2863]Rewrite draft for check ピッポ 06/7/14(金) 3:14
[2864][投稿者削除]
[2865][投稿者削除]
[2866]Re(2):栗原利一さんに送った草稿 ピッポ 06/7/14(金) 9:15
[2868][投稿者削除]
[2869]Re(1):習字は不得意な方です ピッポ 06/7/14(金) 10:00
[2872]Re(1):栗原利一さんに送った草稿プレーン版 ピッポ 06/7/14(金) 12:09
[2876]Re(1):栗原利一さんに送った草稿 とほほ 06/7/14(金) 17:57
[2877]Re(2):栗原利一さんに送った草稿 ピッポ 06/7/14(金) 19:34
[2867]Re(1):幕府山捕虜写真 ピッポ 06/7/14(金) 9:42 [添付]
[2870]Re(2):幕府山捕虜写真 核心 06/7/14(金) 10:30
[2871]Re(3):幕府山捕虜写真 ピッポ 06/7/14(金) 10:45
[2873]Re(3):幕府山捕虜写真(スケッチ帳) ピッポ 06/7/14(金) 12:59 [添付]
[2889]Re(2):幕府山捕虜写真 ピッポ 06/7/16(日) 2:32
[2904]Re(3):幕府山捕虜写真 熊猫 06/7/16(日) 18:21
[2880][投稿者削除]
[2883][投稿者削除]
[2884]Re(1):(予稿)ゼンボウ畠中秀夫記事を注釈す 熊猫 06/7/15(土) 22:40
[2885]あらあら、地図を添付するのを忘れちゃいました(^^; 熊猫 06/7/15(土) 22:43 [添付]
[2888]Re(2):(予稿)ゼンボウ畠中秀夫記事を注釈す ピッポ 06/7/16(日) 2:22
[2901]Re(1):乞うご了解 ピッポ 06/7/16(日) 13:52

[2863]Rewrite draft for check
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 06/7/14(金) 3:14 -

引用なし
パスワード
   核心さんからお預かりしたコピーに基づいて

畠中氏が栗原利一さんに送った草稿と
ゼンボウ60・3の記事
その最終推敲のあとを再現しました。

以下、チェック用に仮アップします。
86 hits

[2864][投稿者削除]
←back ↑menu ↑top forward→
   - -

引用なし
パスワード
   この書き込みは投稿者によって削除されました。(06/7/16(日) 13:33)
93 hits

[2865][投稿者削除]
←back ↑menu ↑top forward→
   - -

引用なし
パスワード
   この書き込みは投稿者によって削除されました。
98 hits

[2866]Re(2):栗原利一さんに送った草...
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 06/7/14(金) 9:15 -

引用なし
パスワード
   ▼核心さん:
>畠中氏の捏造は大段落ごとに明確なのでその区別ができるほうがよいと思います。
>先般も書きましたように畠中氏の捏造は方法的には稚拙ですから。

わかりました。
リライトの次のステップとして、核心さんの講評を挿入するつもりです。
まずは第一段階として、原稿そのものを私もチェックしたいので、そうしましたのでご諒承ください。

核心さんのテキストから細かいところで校正した個所が結構あります。
原稿と対照し、点検してくだされば幸甚です。

>私が筆跡を女性の方と言ったのは私の知っている人でこのような文字を書く人がいなかったからです。
>理系の人に多いいような角の丸い縦長の字体です。

わたしら団塊の年代では、小学校習字の教育は疎かでした。
昭和19年生まれではなおさらでしょう。
お道具に金をかけないペン習字が奨励されていた学校もありました。

わたしを含めて男らしい字が書けない男が多いです(笑)。
でも、この「畠中」氏は、字を書くことが苦痛でない人ですね。
エンピツの筆圧が実に一定しています。
作文も得意だったのでしょう。
86 hits

[2867]Re(1):幕府山捕虜写真
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 06/7/14(金) 9:42 -

引用なし
パスワード

【添付ファイル】 〜添付ファイル〜
[削除されました]
  
:
:
:
:
:
:

熊猫さんから送られてきた写真です。
リサイズしてアップしておきます

多分、以下で説明されている写真だと思います。

本多勝一『南京への道』P307-318
栗原利一証言の項 本多氏による導入文章から

  この報道については写真もあり、それは同紙一九日付朝刊の写真ページと、『ア
サヒグラフ』一九三八年一月五日号
とに、同じ現場ながら別の瞬間にとられた写真が
出ている。新聞の方は「南京避難民区内に隠れてゐた敗残兵〔十七日河村=福岡電送〕」の説明だが、『アサヒグラフ』の方は「両角部隊によって南京城外部落に収容された捕虜の一部(十二月十六日上野特派員撮影)」とされている。記事との整合性からすれば後者が正しい。新聞の方は写真説明を日本で勝手に想像してつけた可能性がある。
  ところが、この「一万四千七百七十七名」の捕虜の大群がその後どうなったかについて、続報は全くなかった。かれらはどこに消えたのだろうか。

ではないかと思います。
(栗原利一さんが語った部分ではありません)

77 hits

[2868][投稿者削除]
←back ↑menu ↑top forward→
   - -

引用なし
パスワード
   この書き込みは投稿者によって削除されました。
96 hits

[2869]Re(1):習字は不得意な方です
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 06/7/14(金) 10:00 -

引用なし
パスワード
   ▼核心さん:
>私は昭和20年ですが結構習字はしましたよ。

私は育ちは東京でした。
御地の小学校のほうが充実教育していたかもしれませんね。
117 hits

[2870]Re(2):幕府山捕虜写真
←back ↑menu ↑top forward→
 核心 E-MAIL  - 06/7/14(金) 10:30 -

引用なし
パスワード
   ▼ピッポさん:

比較するためにスケッチ帳の写真をアップして頂いて差し支えありません。
同じ廠舎ですが捕虜の方々が違います。
88 hits

[2871]Re(3):幕府山捕虜写真(スケッ...
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 06/7/14(金) 10:45 -

引用なし
パスワード
   ▼核心さん:
>▼ピッポさん:
>比較するためにスケッチ帳の写真をアップして頂いて差し支えありません。
>同じ廠舎ですが捕虜の方々が違います。

週末自宅からCDを持ってきます。
105 hits

[2872]Re(1):栗原利一さんに送った草...
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 06/7/14(金) 12:09 -

引用なし
パスワード
   栗原利一さんに送った草稿 プレーン版
草稿rw0714plain.htm 24.0 KB ⇒ 添付

================
ある人物が栗原利一さん宅に送った草稿rw0714plain

rw0714plain

《送付草稿》
(ある人物が栗原利一さん宅に送った原稿)

はじめに

  1. 文中緑色の文字は、私ピッポが書き加えた注釈です。
  2. このコクヨ 10×20 原稿用紙40枚に書かれた原稿は、核心さんが作成者不詳のものとして最近みつけたものです。いつ栗原利一さんのもとに送られたのかは不明です。その後図書館で確認した結果、ゼンボウ昭和60年3月号の畠中秀夫による記事の草稿であることが分かったそうです。
  3. 文中の取材時期が9月ですから取材から出版まで半年かかったことになります。文意に従えば、わずか1時間ほどの取材で、「毎日新聞」と「朝日ジャーナル」による捏造を暴いたことになります。
  4. この草稿を見つけた核心さんは、逆にこれの方が父栗原利一さんの証言とは異なる捏造原稿である読み取り、考察を思考錯誤掲示板に連続投稿しました。http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2596;id=sikousakugo#atop
  5. 核心さんはまた、図書館で確認した畠中秀夫による雑誌ゼンボウ掲載記事についても、それが捏造記事であることを連続投稿しました。http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2658;id=sikousakugo#atop
  6. 私ピッポは、それら草稿と記事の、引用の入れ子構造や、筆者による推敲や訂正の跡を知りたくて、HTMLタグを付加するリライトの許しを核心さんに求めました。
  7. 核心さんから快諾を得、またその後、草稿と記事と双方のコピーを送っていただきました。
  8. 以下は草稿のプレイン版です。
  9. 原稿の手直しが多いという外観だけでは捏造とはいえません。問題は内容です。捏造の骨格はこの草稿以前に出来上がっています。
  10. 捏造証明の第一は、栗原利一さんのスケッチの内容との、かけ離れです
  11. 捏造証明の第ニは、栗原利一さんが日頃ご家族に語ってきたこととの、かけ離れです
  12. 捏造証明の第三は、インタビュー環境描写のウソです
  13. 捏造証明の第四は、『毎日新聞』記事『朝日ジャーナル』本多記事(のち「南京への道」所収)からの寸借と、それらへの攻撃の分析です。
  14. 捏造証明の第五は、畠中自身が奉じる『定説』に、畠中が無理やり合わせようとしたことの論証です。すなわち、幕府山事件『定説』化ムーブメントです。

なお私が拝見した限りでは、草稿の文字は男文字で、消すことができるエンピツのような筆記具で書かれたものではないかと思います。吹き出しを使った“小文字による挿入句”も筆跡は同一人です。

 昭和十二年十二月に日本は中国の首都南京を陥落させたが、後にこの時、大虐殺がおきたとされた。この南京大虐殺に関しては林房雄氏が十五年ほどたってからおおよそ次の様に述べている。「かくすことも誇張も必要ない。日本人自身の手によってはっきりさせるべきだ」今から20年前のことである。---原稿#001

 私は林氏のこの意見には全く同感で、しかもこの林房雄氏の問題提起に結論は出たと思っていた。しかし、新聞、教科書などをみていると社会一般は私の思っていたものとちがうようだ。そこで私なりに調べ始めた。当時書かれたものや戦後発表されたものを読むと百人百様である。当時の南京を詳しく述べているのに虐殺については一言も言及してしていない書物もある。これらを別にしても、南京で殺された人は百人かという人から三十数万人という人まで様々である。既に歴史上の出来事になっている訳でもないのにあまりにもくいちがっている。そう思った時、まだ当時の南京を知ってる人がいるだろうから直接その人に会って確かめるのが手取り早いと思った。昭和十二年十二月に南京に行った人は二十才すぎの若い兵隊から六十才の松井中支派遣軍総司令官まで、多くの人がいた。それから四十七年。大東亜戦争緒戦の嚇々たる戦果、敗戦、経済困窮、高度経済成長、石油ショック、様々な出来事があり、ほぼ半世紀を経過している。当時もっとも若かった人でも既に六十八・九才になっており、大部分は既に亡くなっている。しかし誰もいない訳ではなく、この半年の間に十人ほ!
どの人に会えた。会っただけでは無意味なので聞き書きをしてそれを公表するようにしている。この聞き書きはその一部である。---原稿#002

 第六十五連隊の兵士として南京攻略戦に参加した栗原利一さんを知ったのは毎日新聞の社会面に載った記事からである。昭和五十九年八月七日の毎日新聞に次の様な見出しが載っていた。

 南京捕虜一万余人虐殺
 元陸軍伍長、スケッチで証言---原稿#003

 ドキッとするような見出しである。内容は東京小平市に住む栗原利一さん(七十三才)の話と証言で、記事によると南京攻略中の第十三師団(仙台)の第六十五連隊(会津若松・連隊長両角業作大佐)は十二月月十四日、南京城外の幕府山で一万三千余名の捕虜をとらえ、十七日か十八日にこの捕虜を揚子江岸につれて行き、四方から一斉射撃をして殺した。栗原さんも六十五連隊の一兵士として捕虜を連行し射殺した。栗原さんはそのことを自ら証言し、当時書いたスケッチも証拠としてもっている、というものである。証言するにいたった動機は「真実はきちんと後世に伝えたい」からと毎日新聞は伝えている。---原稿#004

 幕府山の捕虜については既に当時から知られており、昭和十二年十二月の東京朝日新聞は鳥龍山、幕府山で一万四千七百七十七名を捕虜にしたと伝えていた。また福島民友新聞社の昭和十四年の戦史はニ万人の捕虜があったと伝えている。この捕虜戦果が捕虜虐殺に一転したのは二十年後である。昭和十二年当時福島民友新聞の記者だった秦賢助氏が昭和三十二年の「日本週報」に「捕虜の血にまみれた白虎部隊」と題する回想記を書き、その中で十二月十五日、白虎部隊はニ万の捕虜を虐殺したと暴露した。白虎部隊とは65連隊の編成地からとった別称である。---原稿#005

 昭和四十年、福島民友新聞は第六十五連隊についての歴史「郷土部隊戦記」を連載した。これは微に入り細に渡ったもので、両角連隊長、従軍作家、兵士ら健在であった多数の証言をてらしあわせた正確なものであった。この中ではさきほどの秦氏の証言をもとりあげ、昭和十二年当時秦氏は従軍しておらず、虐殺はなかったと断定している。昭和四十七年、洞富雄氏が自著「南京事件」のなかで再び一万四千余人の捕虜のことをとりあげた。洞氏は「東京朝日新聞」と「日本週報」は知っていたが「郷土部隊戦記」のことは知らないらしく、自著「南京事件」の冒頭でこの捕虜がどうなったかと疑問を投げ、結局虐殺されたといっている。その直後、鈴木明氏が南京大虐殺についてのルポルタージュにとりくみ、「”南京大虐殺”のまぼろし」を発表した。この時は両角部隊長は亡くなっていたが、その上にあたる山田栴二旅団長は八十六才で健在で、鈴木氏は福島、仙台に行って取材をしている。それによれば八千人くらいの捕虜を揚子江の向こうに釈放する途中暴動がおき混乱の中で射殺した、ということであった。鈴木氏の著書はベストセラーになった上、今も文庫本になって読まれて!
いるのは言うまでもない。この鈴木氏の説が今では定説になっている。---原稿#006

 今回の栗原さんの証言と証拠はこれを覆すものである。鈴木氏のルポルタージュは何人かからの取材である。一方、栗原さんの証言は一人ではあるが当時のスケッチという証拠もある。どちらが正しいのだろうか。どちらかに虚偽の証言があるのか。あるいは間違って記憶していたのか。さもなくば記者による何らかの操作か。これらのうちのどれかしかない。一体どれなのか私は確かめたかった。そしてそれ以上に、栗原さんが当時の南京を知っていると聞いたからには是非会わねばならないと思った。---原稿#007

 毎日新聞に載っていた住所をたよりに、一度お会い出来れば、と葉書を差し上げた。一週間たっても二週間たっても返事はこない。折から「朝日ジャーナル」では本多勝一氏が「南京への道」を連載中で、さっそく21回目(9月7日号)と>22回目(9月14日号)でこの証言をとりあげた。栗原さんは「南京への道」では田中という仮名で登場、捕虜全員虐殺というストーリーの中で決定的な証言をしている。朝日ジャーナルによれば、証言するにいたった動機は「南京陥落後、無抵抗の捕虜を大量処分したことは事実だ。この事実をいくら日本側で否定しても、中国に生き証人がいくらでもいる以上かくしきれるものではない。事実は事実としてはっきり認め、そのかわり中国側も根拠のない誇大な数字は出さないでほしいと思う。あと二十年もたてば、もう事実にかかわった直接当事者は両国ともほとんどいなくなってしまうだろう。今のうちに、本当に体験した者が、両国ともたがいに正確な事実として言い残しておこうではないか。真の日中友好のためにはそのような作業が重要だと思う」ということである。また朝日ジャーナルには「もし田中さんに何らかの連絡をとりぁ
燭な・・△譴弌∪嫻い△觴蟷罎鬚・世気譴价膕陲靴泙垢・・震召覆鰭埒海覆發里鰐杙Δ靴泙后廚箸△辰拭・笋亘楝浸瓩忘・泙撚薪戮・遡筺・様蠅覆匹靴燭海箸・△襦L技襪気譴襪・△擦い爾せ哀鰻邂幣紊燭辰討・薜・・・・・蕕譴討・襪世韻任△襦・い修・靴た佑世・蕕修譴六妬・・覆い・∈2鵑惑阿里燭畸膕陲魎・召靴拭・靴・掘∋哀鰻邂幣綢圓討覆い里婆堆任世蹐Δ箸六廚い弔弔眥樟楫・兇気鵑硫箸忙任Δ海箸砲靴拭・Ε・璽・如爾里△詁サ・録泙鬚燭茲蠅帽抒阿鯀・觧篥瓦里△覬悗砲・蠅燭辰拭・靴・掘∩椶慌箸聾・・燭蕕覆・辰拭・景垢忘椶辰討い申蚕蠅砲修鵑焚箸呂覆い里任△襦・△僚蚕蠅亘榲・覆里・隼廚い呂犬瓩拭・修鵑覆海箸・△辰討・蘓・サ△劼腓鵑覆海箸・薹・胸瓩亡悗靴討發Π譴弔僚蚕蠅・錣・辰拭M媾颪鮟个垢箸箸發忘E戮脇逍eセ忙任辰討澆拭K萋ル景垢忘椶辰討い申蚕蠅聾琉佞・潺垢・靴靴・垢い申蚕蠅犯・砲舛・辰討い拭・靴靴そ蚕蠅脇韻険悗鬚呂気鵑乃佞諒・・任△襦・海鵑匹牢蔽韻妨・弔・辰拭・靴・稽閏蕕蕕靴ぁ8軸悗両・気陛典い呂弔い討い襪・戰襪魏,靴討眞・盻个突茲覆ぁ・綾淑・曚匹泙錣蠅鬚Δ蹐Δ蹐靴討い燭・覿匹△C蕕瓩拭M眛サ△・發いC辰董
電話をかけてみた。奥さんがでてきて、栗原さんは旅行中で今夜帰ってくる、あすの朝もう一度電話を下さい、という。なんとか会えそうな気がして来た。翌日、九時すぎ電話をすると栗原さんが電話口に出た。奥さんから既に聞いていたらしく、こちらの用件はわかってくれたが会いたくないという。私の一方的なお願いだからそういわれるととりつく島もない。栗原さんの都合のいい時間で結構ですからとくいさがる。あすは剣道大会の審査、あさっては会合、と連日予定があり無理だという。それなら今日はどうですか、と伺うと十一時十分に出かけるからだめだという。じゃその前に十分だけでも、とお願いするとあきらめたらしく本当に十分だけですよと承諾してくれた。それでもすぐこれるか、とか乗り換えが大変だ、とか断りたいらしくいろいろと言う。すぐ行けます、と答えると十一時までに来てほしいという。そうすれば十分間の時間はある訳だ。新宿でなく高田馬場から急行に乗れば早いともいう。こっちからみれば一度行っているから栗原さんの玄関が目の前にチラチラしている。大丈夫、わかります、といって電話をきった。もうその時は靴をはいていた。地下鉄、国電、察
篥瓦箸垢戮謄織ぅ潺鵐阿・匹・・・兇気鵑量腓料阿卜・辰燭里禄住・淑・世辰拭0貶・曚匹呂困狢・鮴鼎瓩覆・薀戰襪魏,靴拭7・兇気鵑・个討C拭M汁朧幣紊冒瓩い里任咾辰・蠅靴討い襦・嵬爾乏舛鯀・辰討笋蹐Δ隼廚辰討諭廚箸いい覆・藝i颪靴討い身△鯤夘佞韻撞鏨屬砲箸Δ靴討・譴拭#---原稿#008


 駅の近くで買い求めた菓子折りをさしだすと「いただく筋のものではありません」と断られた。二千円ほどの菓子折は、一方的に訪問して話を伺うことに対しての気持ちであり、常識的なことであろう。どういう訳か栗原さんはかたくなである。その上「簡単にお願いします」と機先を制せられた。「わかりました。お聞きしたいことが二十くらいありますので一つ三十秒づつどんどんお聞きしたいと思います」と答えた。---原稿#009


 居間に通してくれたものの栗原さんは中腰で顔と口調は緊張している。

 「何を知りたいのですか」つっけんどんな言葉がとんでくる。---原稿#010

 「栗原さんの体験したことは毎日新聞と朝日ジャーナルを読んで充分知っています。それでもよくわからないところがありますのでお聞きしたいのです」
---原稿#011

 栗原さんは応じてこない。私は続けた。
 「ああいった体験を発表すると反響がずいぶんあるでしょうね」---原稿#012

 まだのってこない。毎日新聞や朝日ジャーナルに証言している位だからインタビューにはなれているはずなのに、といぶかりながらも黙っている訳にもいかず困ってしまった。その時ちょうど奥さんが外から戻って来て、、お茶を入れてくれた。栗原さんが「どうぞ」とすすめてくれる。指はふとく、手全体がふっくらとしている。剣道八段と書いてあったが、そのせいかなとふとおもった。お茶に手を出しながらいろんなことを考える。もう予定の十分は過ぎようとしている。これでは栗原さんの自主的な話は聞そうもない。こちらの疑問点をどんどんぶつけるしかない。そう思った。---原稿#013

 「私が聞いている限り南京で大虐殺があったとは思えません。私は毎日新聞や朝日ジャーナルとは立場が違います。しかし私は南京を見ていない。栗原さんは見ている。私が南京大虐殺はなかったといっても栗原さんがあったというのならあったのでしょう。今まで私は南京にいった人と何人かに会いましたが誰も大虐殺はあったといってません。あったのなら栗原さんから直接聞きたいのです」---原稿#014


 栗原さんの顔から緊張の色がとけはじめた。---原稿#015

 「スケッチブックという証拠もあるので栗原さんの話は嘘ともおもえません。でも聞く人によって証言が微妙に違って来ます。栗原さんの話を直接自分で聞いて今迄証言されたものと照し合わせてみたいのです」---原稿#016

 栗原さんの証言を読んで私なりに何点か疑問がある、一万三千余人の死体といったら五、六階建てのマンションいっぱいの死体である。本当にそんなにいたのか。そして数えたのか。四方から一斉射撃したというが日本兵にあたる恐れはなかったのか。等々。こうなったらハッキリこまで聞くつもりでいた。すると、---原稿#017


 「あなたが今まで書いたものとかありますか」と栗原さんはいった。あわててバックを捜すと偶然に私が今迄書いたコピーがあった。
 「こういうものを私なりに書いています」
と出すと、ちょっとそれを見ながら
 「毎日新聞には言いもしないことを書かれました。自分の言いたいことが逆になった」

と言う。私はびっくりした。
 「それはどういうことですか」
と聞くと、それまで中腰だった栗原さんは座りなおして語りはじめてくれた。---原稿#018
 栗原さんの語ってくれた半生と戦争体験そして南京での出来事は次のようなものであった。---原稿#019

 栗原さんは明治の末に生まれ、初年兵として満州事変に出征し、支那事変を青年のまっただ中でむかえ応召兵として再び出征した。そして満州事変、上海上陸、南京攻略戦、徐州会戦、漢口攻略とつねに最前線で戦って来た。血と汗と涙の体験の連続である。殺して、殺される、そういう日々だった。人間としてぎりぎりの日々を体験た。満州では排便に使った泥だらけの手で戦友に御飯を与える。与えざるを得なかったし、戦友もそれを食べる。まわりに迫撃砲が炸裂する最前線。二メートル前進した時、二分前まで立っていた場所で迫撃砲が炸裂した。両親が見守ってくれていると思った。戦友に御飯を持って行こうと敵弾の中を匍匐前進する兵。その兵が敵弾に当たって死んでも手も足も出せない自分。前進中、近くで迫撃砲が炸裂し「分隊長がやられた」と部下の叫ぶ声を土の中で聞いた時もある。徐州大会戦では、徐州の中心地に分隊長として最初に入った。あとで入って来た岩仲戦車隊は栗原さんを中国兵とおもって射って来た。間もなく中心の塔を占領したが日本の飛行機はまわりに爆弾を投下する。ゆれる塔からあわてて日の丸を出した。このような経験を何度もした。---原稿#020

 南京攻略戦では戦友を次々失った。鳥龍山近くに来た時は半分以下に減ってしまった。誰が死んでもおかしくない状況だった幕府山近くで栗原さんが分隊長をしている十一人は百二十人の捕虜をつかまえた。武装解除して進む。他の部隊も捕虜をつかまえその時合計一三五〇〇人の捕虜をつかまえたと聞いていた。南京攻略戦全体では七万の捕虜だとも聞いた。捕虜は廠舎に収容した。自分たちにも充分食べるものがなかったがそれでも捕虜たちには中国の茶碗一杯づつおかゆを食べさせた。次の日はもう食べる物がなくて捕虜の半分にしかゆきわたらなかった。まもなく捕虜を揚子江の中洲に放すというので一個大隊、一三五人で護送した。一三五〇〇人とは聞いていたが実際の捕虜の数は四千から六千ぐらいだったろう。捕虜の中には教導総隊のみるからにしっかりした兵もいた。四列か八列かにして護送した。栗原さんは列の一番最後にいた。最初に江岸についた捕虜は座って待っていたが全員が着く迄ニ・三時間かかった。薄暗くなって来た。栗原さんがまだ護送している頃、江岸に着いていた先頭では暴動がおきた。日本の将校が殺されたと聞いた。そんな動揺が伝わってきて混乱が!
おき、その中で射撃がはじまった。ほぼ全員射殺で、日本側も何人か死んだ。最初から射殺するつもりで江岸に集めたのではない。上のほうはどうだったのかわからないが殺すか殺されるかの戦争の継続の中でのことで虐殺ではない。---原稿#021

 栗原さんの戦争体験、南京体験はこのようなものであった戦争の苦しさ、つらさを充分に体験しているように見えた戦友の一人は今でも両足切断で国府津にいるという栗原さんは満州事変から徐州作戦まで働いたということで金鵄勲章をもらったが誇りにおもっている。徐州作戦では「麦と兵隊」で有名な第13師団として参加している。現在はマメで世話好きなこともあり、老後とはいえいそがしい毎日を送っている。いたって元気ではあるが七十三才とはいえば平均寿命に近い。---原稿#022


 その栗原さんが七月二十二日の毎日新聞を手にしてびっくりした。社会面のトップには「南京大虐殺 中国側、初の史料で立証」という大きい見出しがでており、中国側の史料によれば三十余万人が南京で虐殺された、と報じていたからである。これを読んだ栗原さんは「正義感に燃え」、毎日新聞に抗議の電話をした。今まで大虐殺があったと新聞などは伝えていた。しかしこれほどの大々的な記事ははじめてである。このままにしていたら本当に日本人が三十万人の中国人を殺したことになる。南京攻略戦に参加し、自分の目でみてそれはありえない、そうおもって抗議した。電話のやりとりがあり、記者が栗原さんを訪れることになった。訪れた毎日新聞の記者に栗原さんは私に話してくれたと同じ体験を話した。その時昭和十三年、漢口攻撃戦で負傷して入院中に書いたスケッチブックをみせ
 「捕虜の殺戮は戦争の一部であり虐殺ではなく、中国の本に載っているようなことはなかった」
と語った。その話が八月七日に記事になった。読んでみてびっくりした。毎日新聞では四〜六千人の捕虜が「一三五○○人」になり、暴動と混乱の中で射撃が始まったのが「後ろ手に縛られ、身動きもままならなかった 捕虜が集団で暴動を起こすわけない 虐殺は事実」になった。---原稿#023


 「言ってないことが記事になり、三十万人虐殺に抗議したのが一転して虐殺の証人になった。全く逆になった」
と栗原さんはくやんだ。---原稿#024

 新聞に栗原さんの証言が出ると、「嘘つき」「馬鹿野郎」という抗議の手紙が十通ほどきた。昔の戦友からも一通きた。後輩なのでこれは事実をいってわかってもらった。逆によく告白してくれたという激励の手紙も同じくらい来た。変な気持ちになったそうだ。---原稿#025

 手紙のほかに人が尋ねてきた。防衛庁の戦史の方も二人が来た。五分だけどと言って朝の9時ごろ来たが結局午前中いた。
 「防衛庁の人は黙って話を聞いていたが防衛庁でも事実は知ってるはずですから私の話に納得したはずです」

という。世界日報の記者が来た。朝日新聞の本多記者も来た。何年か前、南京大虐殺とよくいわれるようになった。その時から栗原さんは南京大虐殺に関する本を読んで自分なりにしらべはじめた。自分の個人的体験から大虐殺はなかったと思っているし、大虐殺を主張する本を読んでもあったとも思わないと確信している。---原稿#026

 「本多記者は中国人の言う嘘ばかり書いている。ジャーナリストは気が狂っているのではないかと思う。それでも私の家に来た時は毎日新聞の記者に話したような自分の体験を話した。しかし、ここでも裏切られた。朝日ジャーナルを読むと自分の言ったことは書いてあるが、全体として私が言おうとしていることとは別のことになっている。のせられた。自分では捕虜が四千から六千と思うと言ったが一万三千にすりかわっている。捕虜にはラーメンなどを食べる大きい茶碗で食べさせたが、それが中華料理などで使われる小さな支那茶碗にかわっている。私は護送だけだったのに小銃で撃ったように書いてある。江岸での出来事は戦争の流れの一つで、みせたり書いたりすることではないと思っている。

 謝家橋鎮では私の部下の松本が負傷して後送される大激戦があったのに本多記者の本には何もなかったと書かれていた。基本的な間違いが多いといってやったんだがね」---原稿#027


 本多氏と会った時のことをこう述べているがこの間、何度も「のせられた」と語った。時間は既に十一時間を過ぎていた。「防衛庁の時と同じで十分間といってもやっぱり午前中かかるな」といいながらも「満州事変記念写真帳」や「夕陽千万峰」といって栗原さんの所属していた65連隊2中隊の記録などをとりだして説明してくれた。南京大虐殺についてもスクラップをはじめ十冊ほどの関係書をとりだしてきて説明する。 洞富雄氏の著作を---原稿#028


 「一部だけとりだして虐殺があったといっている。殺すか、殺されるか、その流れの中の行動であって虐殺ではない。中国兵をこの野郎と思い、にくらしいと思っていた兵隊の気持ちは分からないでしょう。何故こんなことを書くのだろう」---原稿#029


 と手きびしい。栗原さんの話は八割ほどが戦争・戦闘の話で、残り二割が南京での話である。戦争のつらさ、生死が背中合わせの状況、敵へのにくしみ、死んでいく戦友、そして戦争が終わった時たまたま栗原さんが生きていた。それが栗原さんの実体験であり実感である。南京での出来事その中の一部であり、戦争・戦闘の延長上に捕虜の殺戮があったので、虐殺ではなかった。これも栗原さんの実感である。南京全体のことは一兵士の栗原さんは知る由もないが---原稿#030


(以上)


[管理人一回修正:タグ]
90 hits

[2873]Re(3):幕府山捕虜写真(スケッ...
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 06/7/14(金) 12:59 -

引用なし
パスワード

【添付ファイル】 〜添付ファイル〜
[削除されました]
  
▼核心さん:
>比較するためにスケッチ帳の写真をアップして頂いて差し支えありません。
>同じ廠舎ですが捕虜の方々が違います。

核心さんから、
栗原利一さんの”スケッチ帳”の写真が送られてきました。
リサイズしてアップしました。

栗原さんの自筆のキャプションを読めばわかるとおり、
“捕虜13,500人”は、毎日新聞や本多勝一氏のデッチアゲではありません。
もともと、栗原利一さんの認識だったのです。

“13,500人”を栗原さんが否定してみせるストーリー、
すなわち畠中秀夫(阿羅健一)のインタビュー記事のほうが、
明らかなデッチアゲ=捏造だったのです。

たった1行のキャプションで、バレバレです。
79 hits

[2876]Re(1):栗原利一さんに送った草...
←back ↑menu ↑top forward→
 とほほ E-MAIL  - 06/7/14(金) 17:57 -

引用なし
パスワード
   ▼ピッポさん:
>掲示板上では、HTMLのタグが一部しか働きませんので、

掲示板の表示画面はそれ全体で一個のHTMLファイルです。従ってタグは一個のHTMLファイルに一個だけですしヘッダも一つだけなわけです。タグを掲示板で許可してしまうと掲示板全体が誤動作したり悪意のあるプログラムを実行することも可能になってしまいます。

従って掲示板では原則タグの使用は禁止で、一部のタグの使用を許可しています。よってHTMLファイルを投稿したい場合は添付ファイルでお願いします。
105 hits

[2877]Re(2):栗原利一さんに送った草...
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 06/7/14(金) 19:34 -

引用なし
パスワード
   ▼とほほさん:
>▼ピッポさん:
>>掲示板上では、HTMLのタグが一部しか働きませんので、
>
>掲示板の表示画面はそれ全体で一個のHTMLファイルです。従ってタグは一個のHTMLファイルに一個だけですしヘッダも一つだけなわけです。タグを掲示板で許可してしまうと掲示板全体が誤動作したり悪意のあるプログラムを実行することも可能になってしまいます。
>
>従って掲示板では原則タグの使用は禁止で、一部のタグの使用を許可しています。よってHTMLファイルを投稿したい場合は添付ファイルでお願いします。

はい
了解しています。
不平不満を申したのではありません。
89 hits

[2880][投稿者削除]
←back ↑menu ↑top forward→
   - -

引用なし
パスワード
   この書き込みは投稿者によって削除されました。
83 hits

[2883][投稿者削除]
←back ↑menu ↑top forward→
   - -

引用なし
パスワード
   この書き込みは投稿者によって削除されました。
100 hits

[2884]Re(1):(予稿)ゼンボウ畠中秀...
←back ↑menu ↑top forward→
 熊猫 E-MAIL  - 06/7/15(土) 22:40 -

引用なし
パスワード
  

▼ピッポさん:
>熊猫さん
>謝家橋鎮って何処にあるんですか?

 ご指名を頂いては仕方ありませんね。私が回答することにしましょう。 
 紹興にも同じ地名の場所がありますが、勿論違います。歩兵第六十五連隊は11月17日からの謝家橋鎮の戦闘で多くの死傷者を出したそうです。
 地図に赤色で印をつけていますので確認して下さい。


99 hits

[2885]あらあら、地図を添付するのを...
←back ↑menu ↑top forward→
 熊猫 E-MAIL  - 06/7/15(土) 22:43 -

引用なし
パスワード

【添付ファイル】 〜添付ファイル〜
[削除されました]
  
 ごめんなさいっす!
102 hits

[2888]Re(2):(予稿)ゼンボウ畠中秀...
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 06/7/16(日) 2:22 -

引用なし
パスワード
   ▼熊猫さん:
> ご指名を頂いては仕方ありませんね。私が回答することにしましょう。 
> 紹興にも同じ地名の場所がありますが、勿論違います。歩兵第六十五連隊は11月17日からの謝家橋鎮の戦闘で多くの死傷者を出したそうです。
> 地図に赤色で印をつけていますので確認して下さい。



ありがとうございます。
記しつきに地図までいただいて。恐縮です。

栗原利一さんが、
「謝家橋鎮では私の部下の松本が負傷して後送される大激戦があったのに本多記者の本には何もなかったと書かれていた」(ゼンボー畠中記事)
という不満を本多氏に抱いたとすれば、

それは、
「第一〇軍の杭州湾上陸は戦局を一変させた。いわゆる「日軍百万上陸」の報に猛スピードで逃げる蒋介石軍と猛追する日本軍。田中(栗原)さんの両角部隊の場合、鎮江でやや苦労したあとは大した会戦もなしに長江ぞいに南京へ接近した。」(南京への道)
というぐあいに、本田氏が謝家橋鎮の話題に立ち寄らずに、急ぎ南京へといってしまったことへの不満ですね。

もしそういう不満があったとすれば、
支隊をつくってしゃにむに南京へ急げ、という派遣軍司令部に対する不満と同質のものかもしれませんね。

南京事件肯定派はもっと南京以前についても語れ、という教訓かもしれませんね。
85 hits

[2889]Re(2):幕府山捕虜写真
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 06/7/16(日) 2:32 -

引用なし
パスワード
  
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
熊猫さんから送られた、アサヒグラフキャプションの全文です。

[揚子江喜志沿ひに南京に向けて東方面から進撃した両角部隊は烏龍山、幕府山砲台附近の山地において南京城より敗走の敵約一万五千名を捕虜としたが部隊の方が聊か呆れ気味であつた。写真は南京西部上元門部落の兵舎に収容された捕虜の一部]
(注:旧漢字は新漢字に改めました。最後の文末の「。」はありません。)

アサヒグラフ『支那事変画報 第十一集』は昭和十三年一月二十七日発行
92 hits

[2901]Re(1):乞うご了解
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 06/7/16(日) 13:52 -

引用なし
パスワード
   皆さまへ

予稿を一度はアップしましたが、
精査の必要もあり、
成稿ができるまで取り下げました。

よろしくご理解ください。
104 hits

[2904]Re(3):幕府山捕虜写真
←back ↑menu ↑top forward→
 熊猫 E-MAIL  - 06/7/16(日) 18:21 -

引用なし
パスワード
   ▼ピッポさん:
>
>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>熊猫さんから送られた、アサヒグラフキャプションの全文です。
>
>[揚子江喜志沿ひに南京に向けて東方面から進撃した両角部隊は烏龍山、幕府山砲台附近の山地において南京城より敗走の敵約一万五千名を捕虜としたが部隊の方が聊か呆れ気味であつた。写真は南京西部上元門部落の兵舎に収容された捕虜の一部]
>(注:旧漢字は新漢字に改めました。最後の文末の「。」はありません。)
>
>アサヒグラフ『支那事変画報 第十一集』は昭和十三年一月二十七日発行

すいません!
×揚子江喜志沿ひに
○揚子江岸沿ひに
訂正します(^^;
100 hits

404 / 645 ツリー ←次へ | 前へ→
  新規投稿 ┃ツリー表示 ┃スレッド表示 ┃トピック表示 ┃番号順表示 ┃検索 ┃設定 ┃お蔵入り ┃旧思考錯誤 ┃南京事件資料集  
ページ:  ┃  記事番号:   
316005
(SS)C-BOARD v3.8(とほほ改ver2.2) is Free
タブブラウザ Sleipnir 公式ページ(上級者向け) [AD-SIZE] Get opera goo RSSリーダー
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送