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問答有用に投稿のあった前田朗さんの記事を許可を得て転載します。当掲示板からの無断転載を禁止します。
私が共感した主要論点は「東京裁判肯定・否定にこだわった議論に意味がない(文意とほほ解釈)」という点です。まず明示的に言えることは事後法だから云々を言うのであれば、東京裁判という国際軍事法廷そのものが事後法的な法廷です。であればこの法廷がなかったほうが良かったのか?敗戦国の犯罪を裁かないほうが良かったのか?と言うことになります。もちろん戦勝国の犯罪を裁かなかったことも問題ではありますが、これを根拠に敗戦国の犯罪を否定はできません。
国際法とは国内法のように決して法整備されてはいません、まずはその整備を積極的に行っていくことこそが大切だと思います。 例えば前田朗さんらが推進する「無防備地域宣言運動」などはそうした活動の一環として非常に高く評価できるものと考えてます。
(1) 日暮本 >
私が関心をもっている問題は、東京裁判の肯定論・否定論、そして、それらの議論の焦点となっている事後法、刑罰法定主義、国際慣習法などに関するものであり、これらは、私個人の関心にとどまらず、東京裁判に関する一般的な関心であろうと思います。しかしながら、この著作では、これらの問題に関して、多くの議論があったことを述べているにとどまり、著者の見解は全くといってよいほど述べられず、むしろこれらの問題は対象とせず、いわば脇においた状態での東京裁判の見方を示すものとなっています。
日暮本の主題は、国際法における<規範>と<権力>の相互関係を解明することです。これまでの東京裁判論が「否定論対肯定論」という、政治的対立を持ち込んだ表面的な論争に過ぎなかったので、そうした不毛な争いではなく、東京裁判を総合的に研究するための一つの地平を切り開いたのです。「東京裁判の肯定論・否定論」にこだわっている読者にはそれがわからないのかもしれませんが。「問題は対象とせず、いわば脇に置いた状態」「肩すかし」というのは、政治的対立の土俵でしかものを考えようとしないからではないでしょうか。
(2)東京裁判に関する一般的な関心? >
前田さまは、【著者がコンパクトな新書本を出してくれるといいのですが】と述べられていますが、私は、果たしてこの著作の新書版を出そうとする出版社はあるのだろうか、という気がいたします。というのは、この著作は、一般的な関心である事後法などの問題を論じたものではなく、通常の読者は肩すかしを食らわされたような読後感を抱くのではないだろうか、と考えるからです。
A 国連システム
国際法の世界では東京裁判は先例であり、「否定論」というものを見たことがありません(ない、とは言いませんが)。現代国際法は圧倒的に国連システムのもとに成立しています。国際法すべてがそうではありませんが、基本は国連システムです。国連総会、安保理事会、国際司法裁判所において「東京裁判否定論」などというものが唱えられたことは一度も聞いたことがありません。国連は、発足時にニュルンベルク決議をしていますし、後にニュルンベルク原則も決議しています。ニュルンベルク憲章や判決の基本的考えは東京裁判と共通です。連合国United
Nationsが事実上はそのまま国連になったのですから、国連システムの基盤がニュルンベルク・東京です。このことに異論を挟んだ政府があるとは聞いたことがありません。国連憲章には敵国条項が残っている通りです(もはや敵国条項は削除されるべきですが、日本外務省の外交音痴のせいで削除もできずにいます)。いやでもおうでも、国連システムが前提なのです。本来ならこれで議論はおしまいです。
B 国際法
国連以外の水準の国際法では、周知のように東京裁判はサンフランシスコ講和条約で確認されています。サ条約が東京裁判のすべての承認を規定したのか判決の執行を確認したのかについては(日本においてだけ)奇妙な争いがありますが、いずれにしろ東京裁判を前提としたサ条約の締結によって日本は「独立」し、国際社会に復帰したのです。「東京裁判否定論」などというものは、基本的に国際法の世界に登場する余地はありません。なお、国連国際法委員会において「人類の平和と安全に対する法典」準備作業が行なわれた中で作成された報告書において、ニュルンベルク裁判の問題点が多数指摘されていますが、それは問題点の指摘であって、ニュルンベルク裁判を発展的に継承しようという立場からのものです。その一部をつまみ食いして、「国際法委員会でもニュルンベルク裁判は否定された」などとデマを垂れ流している人もいますが、問題外です。
C 国際法学(1)
近年の国際法学においても、ニュルンベルク・東京裁判を国際刑法の<先例>としているテキストがいくつもあります。東京裁判について個別にあれこれ疑問を指摘している文献はありますが、国連システムの下での国際法に関する発言をしている国際法学が東京裁判否定論を唱えるということはあまり考えられません。ウィリアム・シャバスも、ジャクソン・ンヤムナ・マオゴトも、エドワード・ワイスとエレン・ポドガーも、東京裁判を<先例>として認めています。この<先例>とは、イングランドのコモン・ローにいう意味での<先例>ですから、有効な判例です。
D 国際法学(2)
東京裁判への法的批判としては、弁護人であった高柳賢三『極東裁判と国際法』(有斐閣、1948年)と、有名なパル(ないしパール)判決を見れば基本的なことは出尽くしています。逆に近年の「東京裁判否定論」は、高柳・パルの土俵で踊っているだけです。にもかかわらず、高柳本を読んでいないし、パル判決すらろくに読んでいない人が多いのですが。パル判決は「日本無罪論」として有名なので、パルがあたかも日本軍の犯罪行為を否定しているかのように思いこんでいい加減なことを書いている人もいますが、パルは日本軍による残虐行為を認定しています。都合の悪いところは隠して、「パル無罪判決」と騒ぐ人が多いですね。パル判決は講談社学術文庫で出ているので比較的容易に入手できます。ただし、長いのと、悪文なので読みにくいですが。
東京裁判への法的批判としては、もう一つ、佐藤和男監修『世界が裁く東京裁判−−85人の外国人識者が語る連合国批判』(明成社、1996年、改訂版2005年)があります。「日本会議(もと日本を守る国民会議)」の宣伝活動の一環としての出版物です。東京裁判否定論の論拠のつもりで「フセインの裁判は誰も言い出さない」などと書いてあるくらいですから、貴重な珍本です(!)。おまけに、東条英機の遺族がTV番組に出て、この本を基にして「東京裁判は国際社会でも否定されている」とのたまっていましたから、フセイン並みを自覚しているのかもしれません。あの世の東条は「フセインと一緒にするな!」と怒っていることでしょう。
E 否定論対肯定論?
日本での議論は、日本の責任をごまかして逃げたい人たちが「東京裁判否定論」を唱えているだけです。それに対して「肯定論」が登場して、政治的対立を繰り返しているだけで、国際法の議論になっていません。それでも、彼らが騒いだおかげで、日本社会においては「否定論」と「肯定論」が繰り返し登場し、あたかも「対等の議論」であるかのようなニセの雰囲気が作られました。彼らの思惑には合致しているでしょうが、ここからまともな議論が出てくることはまずありません。日本の名誉だの伝統だのにしがみつき、そのくせアメリカにこびへつらって、アジア蔑視の差別的言辞を吐いて、それで偉くなったつもりでストレス発散。内輪でしか通用しない独善的な議論に励むのが関の山です。いずれにしろ、上記ABCを完全に無視して、Dの世界だけで議論したつもりになっているのがほとんどです。
(3)人道に対する罪?
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たとえば、私とタラリさんとは、この掲示板でC級犯罪(人道に対する罪)の定義およびその解釈について議論を行っていました。この議論の素材は、藤田久一の「戦争犯罪とは何か」(岩波新書)によって指摘された、C級犯罪の定義がニュルンベルグ条例と極東条例では、若干の違いがあること、ー
具体的には、前者の文言の一部が後者では削除されていること
ー、そして、この削除に関する著者の見解です。さらに、ハーグ法のマルテンス条項なども議論のテーマになっていました。
ニュルンベルクと東京の人道に対する罪の表現が異なることは、平和に対する罪の表現に違いがあることと同様に、当時から指摘されていたことであり、周知の事柄です。それを指摘することにさほど意味があるとは思えません。(ついでに言えば、管理委員会規則第10号の規定、旧ユーゴスラヴィア国際法廷規程、国際刑事裁判所規程の人道に対する罪の規定もそれぞれ少しづつ違いますが、そのことも周知のことです。ニュルンベルクと東京の平和に対する罪の規定も表現が少し違います。)そして、ニュルンベルクとは違って、東京では人道に対する罪は明示的に適用されていないので、「東京裁判における人道に対する罪」は憲章の表現上の問題しか残らなくなってしまっています。だから、東京裁判研究においては人道に対する罪はほとんど登場しませんし、人道に対する罪の研究者は東京裁判には見向きもしないのです。当然です。憲章上の表現の違い以外に論じるべきことがないのですから。
ところが、判決も読まずに東京裁判を批判している人たちが、「東京裁判で人道に対する罪で裁かれたのはけしからん」と異常な主張をしているのです。最近の例として『諸君!』2005年8月号の「特集「東京裁判」を誌上「再審」する(櫻井よし子、橋爪大三郎、庄司潤一郎、八木秀次)」があります。余りにも幼稚でばかばかしい議論なので本当は相手にしたくないのですが、前田朗「東京裁判を超えて」(後述)で批判しておきました。人道に対する罪に関心があるのであれば、東京裁判ではなく、ニュルンベルク、アイヒマン、フィンタ、タディッチ、エルデモヴィッチ、イェリシッチ、セレヴィッチ、フォツア、アカイェス、パポンなどに注目するべきです。
(4)関連文献
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それで、前田さまにお尋ねしたいのですが、東京裁判における事後法などの問題点を扱い、著者の見解を明らかにした著作、しかも、入手し易い著作を推薦していただけないでしょうか。よろしくお願いします。
日暮本の巻末に膨大な文献目録があります。それを見れば、否定論や肯定論の文献は十分すぎるほど出ています。上記以外では、レーリンクが重要です。しかし、「東京裁判における事後法」問題に関連して見るべき法的著作はさしてありません。上記ABCの理由によります。
東京裁判否定論というレベルではなく、「国際刑法における事後法」に関しての文献であれば、旧ユーゴスラヴィア国際刑事裁判所の初期の判決(エルデモヴィッチ事件、タディッチ事件)や、国際刑事裁判所規程の解釈をめぐる多数の文献があります。国際刑事裁判所規程第11条(時間的管轄権)、22条(罪刑法定原則)、24条(遡及処罰禁止)が直接の関連規定です。注釈書や概説書として、例えば、
Otto
Triffterer(ed.), Commentary on the Rome Statute of the
International Criminal Court, Nomos Verlagsgesellschaft,
1999. [*本書はICC設立後、最初に出版された注釈書です。執筆者の多くはローマ会議参加の政府代表や政府顧問たち]
Roy
S. Lee(ed.), The International Criminal Court, The Making of the
Rome Statute, Issues, Negotiations, Results, Kluwer Law
International, 1999.
William A. Schabas, An Introduction to
the International Criminal Court, 2 ed. CambridgeUniversity
Press,2004.
Dominic McGoldrick, Peter Rowe & Eric
Donnelly, The Permanent International Criminal Court, Legal and
Policy Issues, Hart Publishing, 2004.
Antonio Cassese,
Paola Gaeta & John R.W.D. Jones (ed.), The Rome Statute of the
International Criminal Court: A Commentary, Oxford University
Press, 2002. [*本書はもっとも詳細な注釈書で、全3巻2000ページを超えます]
Edward
Wise & Ellen S. Podgor, International Criminal Law, Lexis
Publishing,2000.
大学図書館などで探せば見つかるでしょう。他にも多数ありますが、ICCその他の語で検索すれば見つかるはずですから、紹介は以上にとどめます。日本語では、
安藤泰子『国際刑事裁判所の理念』(成文堂、2002年)
アムネスティ・インターナショナル日本国際人権法チーム編『入門国際刑事裁判所』(現代人文社、2002年)
理論的問題としては、フィンタのいうretrospectiveとretroactiveの違いをめぐる議論が今後どのように影響するのか、まだ十分見えていないように思いますが。
**なお、私の問題関心は五番街さんには参考にならないかもしれませんが、最近書いた関連文章は、
前田 朗「ニュルンベルクの遺産」中帰連33号(2005年)
同「東京裁判を超えて」中帰連34号(2005年) [*未完で、これから続きを書きます。その中で現代国際法学の諸文献(上に紹介したものも含む)が東京裁判にどのように言及しているかを紹介する予定です]
同「ヴェルサイユからローマへ(一)(二)」Let’s 46号、47号(2005年)
同「国際刑事裁判所の管轄権(一)(二)」Let’s 48号、49号(2005年) [*(二)はまもなく出る予定。時間的管轄権にも触れていますが、上記のシャバス本の紹介にとどまります]
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