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[1923]民主主義とナショナリズムと とほほ 05/12/16(金) 22:44

[1923]民主主義とナショナリズムと
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 とほほ E-MAIL  - 05/12/16(金) 22:44 -

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   民主主義とは何か?
民主主義とは、自由、平等、博愛のスローガンのもと、民衆が主権を持ち司法行政立法の三権を施行するという思想。この思想の成り立たない社会はいかなる国家体制経済体制にあろうとそれは民主社会ではない。逆に共産主義体制であろうとこれが成り立っておればそれは民主主義である。

では民主社会の「民」すなわち民衆とは何か?
それは個人個人の集まりである、個々人の集合が「民」である。
「主」は主権の事であり民衆が主権を持つと言う意味になる。
では「社会」とは何か?
これはつまり集結した個々人の関係式に相当する。

個々人は各個人ごとに全て意見を持ちそれが完全に一致する事はなく多種多様な意見が混在する。この多種多様な意見を統一し(その手法が議論であれ武力であれ権力であれ経済力であれ多数決であれ同じ事である)社会(関係式)をまとめようとするのが全体主義である。そして全体主義が民主主義を廃した事は周知の事実である。よって民主社会とは意見を統一しようとの試みではない、意見の異なるもの同士が如何に互いの人権を尊重できる関係式を構築してゆくか、と言う試みの事である。

しかるに、私の主張は他者がどうあるべきこうあるべき、と主張するものではない。己がこうあるべきとの議論であり、共感を歓迎するが求めるものではない。が。たった一つだけ他者への要求がある、それは知識人諸氏には外国のショーヴィニズムに言及する時、国内のショーヴィニズムに対する厳重な警戒の上に慎重に行っていただきたい。というものである。

パトリオティズムとショーヴィニズムはホモロジー(相同)である。当然この二つは明確に区別される、がホモロジーとして統一できるのである、誤解を避けるために付け加えるとこうした区別が明確に成り立つ事は以前にも「三種の愛国心」を紹介し私も主張している。
国の古を慕い、その歴史の光栄を楽しみ、もしくは国家の屈辱を悲しむのみならず、よく自国の罪過を感覚し、その逃避する責任を記憶し、その蹂躙せし人道を反省するは、愛国心の至れるものにあらずや。(中略)わが国のいわゆる愛国心なるもの、(中略)滔々たる天下歴史に心酔するものにあらざれば、悲歌慷慨外に対して意地を張らんとするに過ぎざるなり。自ら国家の良心をもって任じ、国民の罪に泣くものはほとんどまれなり。甚だしきはこの種類の愛国心を抱くものを非難するに国賊の名をもってす。良心を痴鈍ならしむるの愛国心は亡国の心なり。このために国を誤りしもの、古今その例少なからず。
---植村正久「三種の愛国心」一八九六)---
それでもホモロジーである。私が「区別できるのか?」としているのはホモロジーではなく方向の異なる同一のものではないか?と言う疑問である。

この主張はジェンダー論と論理的アナロジーである為そちらを使って考えてみる。ジェンダー論はジェンダー境界(私の造語である)を撤廃する事により発展してきた。ジェンダー境界の撤廃とは、「パラダイム転換」と上野千鶴子氏が表現するものと同一とみなして構わない。このジェンダー境界の撤廃は、ジェンダー(性差)をホモロジーとして扱う事により為されてきた。ここで誤解があっては成らないのは区別に対しては明確に残っているのである。これは他の差別撤廃論と比較した場合、区別そのものを不当である、とした撤廃論とは異なる事を認識しておかねばならない。

フェミニズムはまず家父長制と言うジェンダー境界を撤廃する事からはじまる。新しい家族制度の提案となる(この提案が実現されているかどうかは別問題である)。この新しい家族制度は夫(男)と妻(女)はホモロジーであり同一の権利を保証する事になる。

権利を獲得したフェミニズムは家父長制と言うジェンダー境界を破壊する事により社会に進出する。その社会で数々のジェンダー境界の存在を知り、そのジェンダー境界を破壊して行く、ジェンダー境界を構築するあらゆる社会規範倫理観等を撤廃していく、こうした運動の中でジェンダー論は聖性(母性)と娼婦性と言うジェンダー境界を発見し戸惑いを覚える、がしかしジェンダー論は初期の段階で家父長制と売春がホモロジーであることを示唆していたのだ、ここでジェンダー論は見事に売春婦差別を克服する事になる。売春が女性差別であり重大な女性に対する人権侵害であることを理論的に実証したのだ。

それと同時にジェンダー論は女性の社会参画の段階で克服できなかった戦争への女性の加担(銃後の母、女性兵士の平等徴用等)を国境を越える事で克服した。すなわち従軍慰安婦問題である。国境を越える事でジェンダー論は戦争を否定し完成を見た。このときジェンダーとはその言葉の本来の意味する「性差」を超越して使われる。

#こうした私のジェンダー論は「ナショナリズムとジェンダー、上野千鶴子著、青土社」ただ一冊に依拠している、ただし上野氏が私のようなジェンダー論を唱えているわけではない事は明示しておく。またジェンダー論は理論的な完成を見ただけであり、これを実現させる道程は長くその具体的手法も確立されているわけではないと私は考える。

さて国民国家である。国境をジェンダー境界に喩えて考えてみる。
実はパトリオティズムとショーヴィニズムのホモロジーによって発展してきた事がわかるのだ。杉山正明氏の言説を借りてみる。
国家や王朝にさきだつ「ア・プリオリ」なものとして、「ネイション」(フランス語で「ナスィョン」、ドイツ語で「ナツィオン」。ただし、語義・内容は微妙にことなる)が想定された。なによりも、まず地位や身分、富や階級をこえた「ネイション」と言う人間のかたまりの「実体」があるとされた。国家(ステイト)は、そのうえに乗る人口の産物と定義された。ある種の神話である。そうしなければ、ブルボン王朝はあっても、「フランス」は存在しなかった。この考えが歓迎されて、ドイツ統一、イタリア統一の気運と道が生まれていった。

十九世紀は、西欧がもっとも輝いた時代であった。世界を、その手の中に分割・支配した。このなかで、近代西欧の価値観、国家観、文明観が無上のものとされた。現在につづく学問・学術上の「知の枠組み」も、ほぼこれとともに形成されていった。

「ネイション」にもとづく「ステイト」、すなわち「ネイション、ステート」の成立は、歴史の当然とみなされた。多くの地域、人びとが、その理想を追いかけ、努力し、血と汗を流した。

その結果、とくに第二次大戦後は、多数の「ネイション・ステート」と称する国家群が簇生した。かなり多くは、現実には「地域国家(リージョン・ステイト)」に落ちついた。特定の部族(ドライブ)だけが中核となった「ネイション・ステイト」にあっては、「国内」対立ははじめから構造化されていた。

しかし、一般にもっとも衝撃となったのは、近年のソ連の崩壊前後からはじまった一連の経緯である。

当初は、東欧の民主化もあって、西欧型デモクラシーの勝利をとなえる人も多かった。しかし、それもしばらくのことで、ほぼ一斉に各地で頻発・激化した「民族自立」「民族紛争」「民族純化」の嵐に、多くの人々が困惑し、うろたえた。「民族」「国家」「国境」「社会」などの既成の概念が、すべて液状化してゆくような現実をまえにして、近代西欧型の文明パターンは急速に色あせた。

<略>

人類の歴史の諸相をふりかえれば、西欧型の「民族」「国家」の考えは、よくできたものではあるけれども、あくまでひとつのパターンにすぎない。西欧文明だけを絶対視・神聖視せずに、平易にこれまでの人間の歩みを見直せば、当然それにおもいいたる。

「ネイション・ステイト」が前提とする美しいストーリーも、じつは冷静に眺めるとほとんどの事例が、「ステイト」があって「ネイション」となった。国家建設のあと、国民建設がくる。
西欧の場合もそうである。

ところが、日本は、西欧型の「ネイション」や「ステイト」の概念を導入しやすい歴史と風土があった。それどころか「民族」「種族」「国家」「領域」「社会」「文明」が、異様なほど等号にちかいかたちでむすばれやすい環境と伝統にあった(もちろん、厳密にはちがう)。西欧型の「ネイション・ステイト」が、本来の意味する以上に、過度にあてはまりすぎた。
---「遊牧民から見た世界史」杉山正明著、日本経済新聞社、28P〜29P---
このようにしてみると、****氏の言説がとてもわかりやすくなるのだ。国民建設の為にナショナリズムは利用されるのだ、それが外に向かったときにはショーヴィニズムとして内に向かうときにはパトリオティズムとして見えるだけなのである。

国家建設の後国民建設が来る。
「中華民国」は明らかに中華圏(現実にこうした圏域が明確に存在するか否かは別問題である)と言う国境を超越したパラダイム転換によるナショナリズムを構築して国家統一を成し遂げたわけだ、「中華人民共和国」はその「中華民国」のナショナリズム(それは往々にして戦時中ショーヴィズムとして機能していた)を排し建国されたのです。ところが「中華人民共和国」がやはり国民国家として成立するためにはナショナリズムが必要となり国民建設に欠かせないものとなった、そこで「中華人民共和国」としてのパトリオティズムによる国民建設がはじまる、が、それは同時にショーヴィニズムを培養していくことは避けようのない現実なのだ。

単純に言及する。
国家建設の後に国民建設がある。
国家建設はショーヴィズムによって為され、国民建設はパトリオティズムによって為される。そのパトリオティズム国民建設が緊急であればあるほどショーヴィズムを利用したほうが効果的なのだ。つまり敵を作る事である。(こんな事は****氏も重々承知である)なぜ中華人民共和国に敵が必要になったのか?これこそが中国の内部紛争にある、内部紛争とは民主化の一つの表れなのである。

しかし、ジェンダー論とはことなり国民国家論は決して国境を越えられない、国境を越えようとする時血が流される。
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