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[1936]科学と疑似科学と歴史修正主義 とほほ 05/12/23(金) 2:33
[1937]Re(1):科学と疑似科学と歴史修正主義 七生報国 05/12/23(金) 18:02

[1936]科学と疑似科学と歴史修正主義
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 とほほ E-MAIL  - 05/12/23(金) 2:33 -

引用なし
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   以下の論説は2004年6月に旧思考錯誤に投稿したものですが、私がいろんなことを思考する上での基礎になる論考であり、議論の度々に引用することも多いので、ここ新思考錯誤にも転載しておきます。

疑似科学のことが話題になっている事に触発され昔読んだ疑似科学の批判本を引っ張り出し疑似科学について再考してみた。疑似科学について考えるとき当然ながら科学とは何なのか、科学的手法とはどういうことなのか科学はどのように科学と疑似科学を分別しなぜ科学から排斥できるのか理解が必要である。

なぜなら疑似科学の提唱者やその信奉者の論理的礎となるのが「真理と呼ばれるものは常に流動的なものであり、その時代時代により真理と称されるものは異なり、新しい理論は迫害を受け保守的な科学者の攻撃をうけまた現在支配している理論が説明できず受け入れられる事はないがこの新発見がまぎれもない事実である事は疑いようがないのである」と言う論理であるからだ。
これはこれで正しい論理であって科学者が保守的にならざるを得ず、新しい理論が受け入れられるまで長い時間を要したり、場合によっては無視されたり迫害を受けたりする事もあることが歴史的事実であることには疑いようがない。

が、しかし疑似科学の信奉者がこの論理を使うとき、科学とは何なのか?、科学者はどのような仕事をなし?科学的手法を使うとはどういうことなのか?という事に対する無知や誤解の上からの発言であると言う事は少なくとも言える。

こうした疑問に答える事はネット上で科学者でもない私の言説ではほぼ不可能に近いしまた誤解の生じる恐れもある。私にはそのような能力も知識も時間もない。こうした事を知りたい方は専門家の書いた一般向けの疑似科学に関する書物を読むべきであると考える。一般向けであるがゆえにわかりやすく我々一般人が理解する事も容易である。よって私にも本稿のような考察が可能となる。
とはいえいちいち疑似科学全般に触れる事は困難であるがゆえそれは最低限にとどめ「否定論とは疑似科学なのか」という事に主題を置き考えてゆきたい。

結論から先に述べさせてもらえればホロコースト否定論や南京虐殺否定論などという物は例え「疑似科学」と言う言葉を使うにしても科学などというには程遠い科学どころか疑似科学の範疇にさえ入らない低俗で人間性を破壊する俗悪な思想のなせる屁理屈にしか過ぎない。が、しかし疑似科学について書かれた本を読んでおけば否定論などの馬鹿げた言説に惑わされる事もなくなるであろう。
因みに私が読んだと言う本は
「きわどい科学」マイケル・W・フリードランダー著、白楊社
と言う本であるので私の疑似科学に対する認識はこの本に依拠している。この本には歴史認識問題や歴史修正主義には全く触れてないため念のため(ほんの一行だけアインシュタインへのインタビューの中で、歴史学者はこうした問題によく直面する、とだけ触れている)、、、。
あわせて
「まだわからないことがある」吉永良正著、講談社
等もお奨めする。この本は疑似科学についてではなく科学上未解決な問題がある事を論じたものであるが、読んでおくことによって「科学は科学で解明できない現象や現在の理論で解決できない現象を疑似科学として排斥するのだ」と言う誤解は解けることであろう。
さて否定論が疑似科学の範疇にさえ入らないと言う主張であるが、少なくとも疑似科学と呼ばれるものの中には論理的で科学的手法をとり専門的な知識や科学者による検証作業や厳密な追試等が必要なものも少なくない。が、専門家の解説があれば大抵は学校教育で学ぶ知識と論理性を備えておれば我々にも喝破できるものではあるが、、、。
否定論の中には「新資料を発見」だとか「画期的新学説」だとか仰々しいうたい文句をうつ出版物も少なくない。その実は新発見でもなんでもなくすでによくしられた資料を持ち出したものでありトリミング等の手法で新発見のように装っていたり単なる嘘であったり学説全体にはほとんど影響を与える事のない証言の一部分を取り上げた揚げ足取りであるに過ぎない事は尊敬すべき当掲示板の常連諸氏が再三逐一細部にわたり論証しており否定論と戦う私やROMにとっては大変ありがたいことである。

また私自身の論争経験からも私の否定論に対する評価を肯定するに十分なものがある。

例えば西岡昌紀と言う人物がいる、彼が某MLでホロコースト否定論を主張し他諸氏と論争していた。当時私は南京事件について調べ始めたばかりで歴史修正主義であるとか否定論であるとかの言葉さえ知らない時期でありホロコーストについても常識の範囲内でしか知らなかった。ただ私は疑似科学の批判本は読んだ事はあったので、きちんと科学的手法でこの論争に参加してみる気になった。しかもホロコースト否定論を支持する立場からである。理由は私が判官びいきだからである。それまでの論戦内容からどう客観的に見ても西岡氏の主張は不利であったのだ、それは西岡氏の主張には論理的誤謬が多くおそらくは彼はネットデビューしたばかりでネット上の論争に慣れていないのであろうと考えその部分を補強してあげようと考えたのである。

ちょうど、ホロコーストが行われた根拠のひとつとなるルドルフ・ヘスの「自白調書」は拷問によるものであり信憑性に欠ける為根拠として採用すべきでない。と言う主張をしていたのであるが、この主張には論理的整合性にかける部分が多い、ここではいちいち説明しないが「西岡さん、あっちこっちの疑問にいちいち反応しているからその主張がよくわからなくなるのです、一つ一つ今わかっている事実の範囲内で問題点を処理していきましょう。まずは拷問による証言である、と言う仮説を補強していきましょうよ、西岡さんが挙げられている根拠は○○、○○、、、等ですがなるほど拷問があったことが確かに疑えますね、がしかしこれだけではこれこれこういうわけで不十分です。ホロコーストの真実に関する西岡さんの主張にとってはこの問題は大変重要である程度説得力のある論説に近づける必要がありますのでこの仮説をどんどん補強していきましょうよ」と言うような趣旨の提案をし西岡説の補強をしようとしたわけである。
http://t-t-japan.com/tohoho/aml/aml-stove9.htm

これに対して全く回答がない、別に回答がないこと自体はネット議論では各人開いた時間の中で議論しているわけであるので構わないのであるが、その拷問のあった証拠として、自らが拷問によるものであると主張し採用すべきでないと主張しているヘスの自白調書の記述の中から都合の良い部分だけ持ち出してきたのである。まったくもって非科学的な論理展開である。

西岡氏は専門的研究者ではないが医師であるという科学的権威の持ち主であるし日本においてはホロコースト否定では第一人者と言われる人物でマルコポーロ廃刊事件の当事者である。
いまでこそ否定論者を相手にこんな事で驚いていては否定論批判など精神的負担になるばかりでどうにもならん、と言う事もわかり馬鹿なことをしたものだと思うが、当時は本気であきれ返ってしまい、科学的素養のない医学者などいるものなのだろうか、と本気で考え込んでしまったものである。

その後色んな否定論者と論争を繰り返す中で「この人たちは間違いをわかっていて主張しているのではないか?つまり嘘をついているのではないか?」と言う疑いが持ち上がり、当掲示板でもたまに話題になるM尾氏との論争の中でそれはほぼ確信に近いものとなった。
M尾氏との論争の中である晩チャット状態になった事があるその中で「なぜそんなに怒るのかわからない、わたしはちゃんと資料や出典を明示し資料も公開している、私のトリミングや論法を信じるか否かはその資料を読まない読者に責任があるのであって私には責任はない」と言う趣旨の発言をしたのだ。彼の言っている責任とは良心的に解釈したとして出版物の著者としての法的責任と言う事でその事自体には法的問題はないはずだ、と言うことなのであろうが倫理観にかけるのかまたは自由主義史観研究会の中枢に復帰するためにどうしても否定論を出版せねばならない事情があるのかは知らないが嘘をついている事を認めたことには間違いがない。そのログは当然翌日には削除されていたしもしそのチャット状態を追いかけていたROMがいたとしても傍目には口げんかくらいにしか見えなかったであろうからこの事実を認識できるのは本人と私自身だけであろうので何の証拠もない、私の言説を信じてもらうしかないのでこんな事を書き込んでもせん無き事ではあるが、ただ一度でもM尾氏との論戦に参加してもらえれば私の言い分を納得する事は請け負える。

とまあこのようないきさつもあり、また自由主義史観であるとか新しい歴史教科書を作る会等の政治団体の活動が活発でその思想的背景に否定論があること知るにいたり少なくともネット上では積極的に反否定論の活動を行おうと私は決心したわけである。

科学とは何か?科学的手法とは。

この稿を書くにあたって科学者ではないばかりか大学教育も受けてない私が論じるのは無謀極まりない事である、出来れば「きわどい科学」を読んだ私がどのようにこの本を理解したのか?程度に受け流していただけると幸いである。よって本稿においては「きわどい科学」からの引用が多くなる事はご勘弁願いたい。また特に三分法家や永久機関研究家の方がもし読んでいたらくれぐれも私に議論をふっかけないように、、、。

さて科学とは何かとは「世の中で起こる事象を正しく観測し説明する事である」と言って差し支えないと思う。科学はその長い歴史の中で蓄積されたデータや理論に基づきその理論に対して矛盾したり説明できない事象が観測されたとの報告があればまずその観測の正確さを疑い検証するその間に理論の見直しや新理論の構築に励む科学者もいる。

ただそうした説明できない現象を発見したと言う報告は時々刻々と膨大な量がなされておりその一つ一つを科学的に検証することは不可能なのである。実際少数ではあるが科学者の興味を引き検証された報告が観測方法の間違いであったり中にはデータの改竄や捏造であったりすることがほとんどなのである。まじめな科学者が報告したものであればデータを修正し指摘を受けた実験手法上の間違いを補い自分の観測を再現しようとするが残念な事に成功した例はない。

こうした研究は疑似科学とはよばない、問題は論理的間違いや実験データのあやまりを指摘されてもそれに対する何の説明も研究成果もないに関わらず同じ手法による同じデータで同じ言説が繰り返される場合がある、こうしたものを科学者は疑似科学として処理し相手にしないのではなかろうかと思う。「きわどい科学」より以下を引用する。
それはこの枠に収まらないアイデアが持ち出されたり、発見が排斥されたり受け入れられたりした時に何がおこるのか、と言う疑問である。科学者である我々の反応は、その教育や経緯に大きく支配されている。われわれが受けた教育の大部分は、やがてキャリアの中で遭遇する矛盾に対して準備を整えてはいない。発見を歓迎するけども、保守的になりがちである。うまく我々の役に立つ理論やパラダイムが存在しているところではそうやすやすと、それを投げ捨てるようなもねはしない。
根本的な変革を提唱するのであれば、その人に最初の立証責任がある。自分の主張には発表を正当化できる優れたところがあるとしてレフェリーや編集者を説き伏せる責任がある。いかに定評ある雑誌に掲載されたからといっても、それが正しい事を保証するわけではないが、おそらく注意をかきたてる刺激にはなるだろう。(きわどい科学P120〜P121)
ここまででわかる事は科学(もっと端的に言えば科学アカデミー)というものは結構な権威主義であるということだ、このことが否定論の論理の礎となり否定論が科学者に相手にされない事に対して一般の反権威主義的性格を刺激し興味を引かせる結果に繋がる事もまた否定できまい。
残念な事にこの権威主義的否定論宣伝のトリックに引っかかってしまう人は少なくない。「なぜこうも南京事件に関する論争が絶えないのか」との疑問を呈する否定論信奉者は科学的権威主義というものを理解していないのか無知であるのか、はたまた宣伝目的であるのかどちらかである。
その科学者の過去の実績や大きな功績からデータの改竄や捏造を行わないと言う信頼はもちろんの事論理的構成力をもって科学的手法を用いる事の能力が認められてこその科学的権威なのである。

否定論者への信奉の礎となりその信奉しているものは科学的権威などではなく単なる肩書きにすぎない、肩書きが信用できない事はその社会経験からほとんど一般に浸透している一般に反権威主義的性格が大きいのはその為であるし否定論者もそれを狙っているわけであるのだから、、、。否定論者と議論してみるとわかる、彼らの議論の目的は南京で何がおこったのか?と言う真理追究ではなく如何に読者を信用させる(だませる)かが目的になっているからであるその為には科学的手法も論理さえも平気で無視する。反権威主義をうたい読者の興味を引きながらその議論の内容は肩書きによる権威主義を持ち出し議論相手の権威的失墜を狙おうとばかりする議論内容からもそれは伺える。

木村愛児氏と高橋享氏のWEB論争がその良い一例であるので興味のある方はご一読をお奨めする。
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/holocaust/holocaust.htm

また科学的権威主義とは無批判に権威の論説を採用するものではない、それどころかそれに批判を加え攻撃する事こそ権威に対する科学的礼儀ともいえる。そうした批判や攻撃に耐えうる論理を展開してこそ新しいアイデアは科学の中に組み込まれていくのである。これが科学的手法と言うものであるのだ。

検証不能な論理や必ずしも観測されているわけではない事象を予測する理論が排斥されるわけでもない、それどころか相対性理論や量子論などがその良い一例となるのではないだろうか。これらの理論の予測する事象は観測不可能であることも多くまた多くのパラドックスも抱えている。これらの事象を明確に説明できる科学者などどこにもいないアインシュタインでさえ相対論の抱えるパラドックスを説明できるわけではない。(仮説を立てることは世界中の科学者が挑戦しているので誤解なきよう)

例えば相対論の抱えるパラドックスから一例を引けばとても理解できないのが因果律の時間的逆転現象である、原因があって結果が生じると言う論理には相対論も矛盾しないが観測者の立場によってはそれが先に結果を観測した後原因が観測されると言う事象が起こるというのである。だれがこのような現象を理解できようか。

また量子論においては例えばそこに石ころが転がっているとしてその石ころは何らかの力が加わらない限り決して勝手に動く事はない、量子論によれば石ころを構成する粒子は絶えず任意の方向に運動しておりその平均値として静止の状態が保たれているわけであるがあくまで確率論であるためそれらの粒子がいっせいに同じ方向に動く事は限りなく0に近いとしてもありうる事であるとの結論には代わりがないのだ記憶のみであるがどこかの科学者がその確率の計算を試みたところで全宇宙の中のどこかでそのビッグバン宇宙の予測する年齢時間のうち一回おこるかどうかの確立であり0といって差し支えないとして不確定性原理をもって説明するわけであるが、アインシュタインなどもその説明には納得していない。
不確定原理とは粒子は観測するからこそ粒子として存在するのであり観測していない時には単なる電荷として確率的に存在しているだけであり粒子ではないと説明するものだからだ。
ところが相対論や量子論の予測する事象が次々と観測されその理論が正しい事を示唆しており現代社会がその理論の大いなる恩恵に預かっている事はこれまたまぎれもない事実なのである。

例えが適切ではないかもしれないが私がある否定論者と論争中に「真実とは何か」と言うこと主題にしてこうした量子論的論理を持ち出し私の実証主義歴史学支持を批判してきた人物がいた。ただその人物の理論は所詮不可知論であり不可知論は科学ではないとの私の主張に納得してくれた良心的論者であった為それ以上深入りする事はなかったが「私は昼食にカツ丼を食べたがそれをどのように実証するのか?証拠が存在しない限りカツ丼を食べた事は真実ではないといえるのか」と言う主張をなし議論してみた事がある。

量子論はミクロな世界を記述するために必要な理論でありマクロな世界を扱う歴史学においては全く不必要なものではあるのだが量子論がマクロな世界を説明できないと言う事ではないし科学的手法とはなにかを互いに定義しあうためにも有効であるためあえてこの人の議論に応じたのだ。これは実証史学の限界をも内包しており上野千鶴子氏の実証史学批判にも通じるものがあり実証史学を根拠に主張する私には危険なテーマであり主張であった。

これは否定論との論争の中であらゆる否定論者の反論もどきには有効な主張である。もちろん否定論を論破するにはこの掲示板諸氏のように実証史学の立場から客観的に観測できる事実を提示していく事が最も有効的である。しかしああ言えばこう言うしかも以前に己のなした主張と全く矛盾した内容を言い出す連中が相手であり結構こうした余計な労力も必要になるのである。私などは以前に自分が書いた文章のコピペで済ませる事が多くなってくる始末である。自由主義史観や否定論の社会的道義的俗悪性は十分理解はしており批判はしたいのであるがその労力を考えると躊躇してしまう、とお考えの方にはこう言う論理的側面からの批判も少ない労力で済み有効ではないかと考える。事件に関するまともな本を数冊用意しておけば知識的に否定論者の反論に答えるには十分であるからだ。

うっかり相手のレトリック等にひっかかってしまい相手が、事実と証する、議論全体には意味のない論説に答えねばならない羽目に陥った時にはこの掲示板や常連諸氏のホームページを読むと良い。もっとも疑似科学の批判本や歴史修正主義の批判本を読んでおけばそうしたインチキに引っかかる事もあるまい、注意すべきは知らない事は知らないとして議論すべきで、相手がそうだからと言って相手と同じような議論をしてはならない、誠実論理的科学的に議論を進めるべきである、否定論などというのはその程度で十分に論破できる代物であって否定論との議論をそうした意味で恐れる必要など全くないのである。

おっとまたもや横道にそれてしまったROM諸氏も重々承知な事をえらそうに講釈してしまった申し訳ない、話を元に戻そう。

さて私がカツ丼を食べた、と言う真実を科学的に追究するとはどういうことなのであろう。まずはデータの収集からと言う事が考えられる。店の店員や会社の同僚やもしかしたら私の隣で飯を食っている人がいて私の注文をおぼえておりその証言が得られればかなりの説得力を持つことになるし私のゴミ箱の中からレシートでも見つかれば物証の発見である。こういう調査を行うことが科学的に真実を追究する、ということなのである。

綿密な調査にも関わらず、私の証言しか得られなかったとしよう、これだけでも十分な傍証になり社会通念的にも私の証言を信じて私はカツ丼を食べたと言う真実は真実として認識されるに違いない、嘘をつく理由もないし、もしこうした証言が否定論の言うように証拠がないから真実ではない、というのであればアンケート調査など全く無意味なものになってしまうのである。

否定論は私の証言に対してこう主張する「本人の証言だけでは証拠にならない現に彼は貧乏人である貧乏人がカツ丼のような高級料理を口にすることは通常考えられない、だから彼のカツ丼の昼食はなかったのである」
ここで否定論が非科学的である点は「カツ丼ではなかった」と言う結論への飛躍である。この場合は私の証言しかないので反論は不可能であるが事結論に至っては間違いである事は明白である。「否定論といえどそんなに単純なものでもないだろう」とお思いの方もいるかもしれないが、彼らの主張をよく読んでみると良い、一時が万事これと同じ論法であり事否定論の場合は私のカツ丼事件とは違い膨大な証言証拠資料が存在している事を無視しまるで定説がその一部の証言や証拠に依拠した説であるかの印象を与える工夫の元に成り立っているのである。

カツ丼ではなかった、と言う結論に導くためにはそれこそ私がカツ丼を食べなかった事を立証する責任はそう主張する否定論の側にあるのでありそれが科学的手法と言うものなのであるが否定論者の中でそう言う研究努力をしている人物はただの一人として存在しない。もっともこれではあまりにも単純すぎて結論を書いてしまうと読者の納得を得られないと言う事を知る巧妙な否定論者もおりそう言う人物は決して結論を書こうとはしない。結論を書いてしまうとその立証責任が生じる事を直感的にでも感じているのであろう。

であるから言いたい事だけ言って後は質問と言う形をとる、ネット上の論戦をよくごらんになる方は質問ばかりしている否定論者を良く見かけることであろう。「虐殺をしたのであれば返り血を浴びるはずだが洗濯はどうしていたのだろう」と言う具合である。その問題がどういう風に解決したところで「だからなんなんだ?」と言うだけの話である、疑問を投げかける以上なぜそのような事に疑問をもったのかその問題がこうこう言う風に解ければこうこう言う結論に至る事になる、とでも論理的な質疑提出であればそれに対して批判も共感も反論も同意も可能になる、最低限でもその程度の論陣を張る能力は小学生でも持っているがあえてそのようにはしない。疑問の提出であれきちんと立論し疑問点の解決いかんではこう結論できる等論理的に発言する、それが科学的手法と言う事なのである。
史学というものはそうした検証を行い長期にわたる調査結果や膨大なデータを検証し結論を導き出している。しかも新しい発見やそれまでの結論に対し重大な影響を与えるような発見があればそれを支持する立場からも批判する立場からも検証批判を加え熱心な研究活動が繰り広げられるのである。

つい最近遺跡発掘調査で捏造が行われ大騒ぎになった事は記憶に新しいが、この場合その捏造者が史学会でもある程度の評価を受けており信頼されていた人物であった事と史学上その発見が大きな意味を持つものであった事でで即座に研究者の調査が行われ捏造を見破る事が出来たわけである。

一方南京否定論についてはなぜ史学会はほとんど無視の姿勢をとっているのであろうか。まず考えられる事は否定論の提唱者には史学的権威がないということではあるまいか?
史学というある程度確立された手法を無視しておりその主張が別段目新しいものでもなく史学者の学問的興味をまったく引かない事にある。もちろん社会的な悪影響を重要視してきちんと否定論に反論する史学者もいるしHPを開設している史学者のなかにも慎重ではあるが南京事件に触れている学者もいる。が、遺跡捏造事件のように史学会が大騒ぎするというような事はない。

もちろん我々とて研究者諸氏には学問的に無意味な論争に巻き込まれ貴重な時間を費やすよりは有意義な研究活動に邁進して欲しいことには違いないが否定論のように社会に害悪を及ぼすような言説にはもっと毅然たる態度でのぞんで欲しいとの思いもあり難しい点である。

史学における否定論と同じようなところに位置する論説は他の学問にもある物理学における永久機関の発明だとか数学の直角の3分法問題だとかがそれに当たると思われるがこうした問題はかわいいものでいちいち科学者が相手する必要もあるまい。例えそうした出版物にだまされる人がいたとしても良い頭の体操にはなるのではないだろうか。もっともそうした論説が商業的に利用されるとなると問題ではあるが、、、。

私が解説するのもおこがましいが永久機関とは燃料(エネルギー)を補給することなく永遠に動き続ける機械のことであるがこう言う研究をする人というのはエネルギー保存則と言うものを知識としてはもっていても理解できていないだけである。
直角の三分法というのは昔幾何の問題でああでもないこうでもないと頭を悩ませた経験のある方も多いと思うが「直角を定規とコンパスだけで三つに分割しないさい」と言う問題でありこれは出来ないと言う事が否定的に証明されているのであるが科学者たちの元へは「解けた」と言う手紙が来る事が少なくないそうである。否定的に証明された、という言葉の意味を「だれも解けない」と言う程度にしか理解できてないだけの話でありこう言う問題に挑戦する人がいても手紙を受け取ったかわいそうな科学者以外には実害はない。

こうした問題に対する科学者の態度は南京虐殺否定論に対する日本史学会の態度と似ているつまり南京虐殺否定論とは学問的には永久機関研究や三分法と同等の扱いを受けているわけであるがところが南京事件等をふくめ歴史認識問題は政治や社会問題とからみやすい自由主義史観の「国民の歴史」などは教育者や研究者またはその機関に大量に無料配布されている、それを売れていると勘違いした書店にはベストセラーとして山積みされている。実際にはほとんどの研究者から無視されているのであるがその財力と政治的影響力は決して侮れない。

こうした疑似科学が政治に利用される事は歴史認識問題に限られた事ではなく最も成功したと言われる(きわどい科学)物理を含め他科学上でも多数利用されてきた。しかし歴史認識問題は日常的に政治に利用される。時々政治家の歴史認識を疑う問題発言や差別発言が新聞紙上にぎわす事もあるが報道される事件よりもっと日常的に利用されている。

先日も小泉首相が、イラク派兵は憲法に違反しない、と言う主張をするために「二次大戦の時は国際協調に欠け日本が孤立してしまった為の結果である、しかし今次のイラク派兵は国際協調の下行うものであり二次大戦時とは全く状況が異なる」と国会答弁している。先に批判した否定論の論法との類似性に気が付かれないだろうか?

そう結論を述べていないのである。この答弁は野党の「違憲である」との主張に対して行われたものであるから当然「だから違憲ではない」と帰結されるはずだがあえてそこまでは述べない、述べてしまうと誤謬がはっきりと見えてくるからである。
二次大戦時の日本の孤立化は敗戦の原因のひとつにはなりえるが戦争の原因ではない、孤立化していようが国際協調の下であろうが戦争にはなるのである、現に日本の対戦国である連合諸国は連合国という国際協調の上で日本と戦争したのである、憲法が禁じているのは「戦争」であって「敗戦」を禁じているのではない、よって国際協調だから違憲ではない、と言う結論は全く導き出せない。

おそらくは歴史に学び日本にとって最良の道を選択している、との印象を国民に与える事が目的での発言であろう、もし指摘されても「そんな事は言っていない」と後々言い逃れが出来る、こうした政治家の狡猾性をここで指摘しても始まらないが政治は常に疑似科学を利用しようとするのである。

ナチスのアーリア物理学。この為にユダヤ物理学と呼ばれた相対論と量子論を排したドイツの物理学はほとんど壊滅した。ナチス以前からあった反ユダヤ主義は二人のノーベル賞ドイツ人物理学者の相対性理論、量子論への批判攻撃を圧倒的に支持した。量子論を用いるハイゼンベルグさえも激しい攻撃を受けた、なんとかアインシュタインの名前を出さない事で相対性理論や量子論を用いる事が出来たがドイツ物理学が復興するまでには戦後も多大な時間を要する事になった。

ソビエトのルイセンコ事件。これは簡単に言えばメンデルの遺伝学を排斥したものである。「人の能力や資質は遺伝によるものであるか環境によるものであるか」と言う科学上の問題に政治が圧力をかけてきたものである。後天的獲得資質は遺伝しない、と言う当時にはもう確立されていた理論を排斥したのである。ロシア革命後のソビエトでは農業の生産性の向上が急務であった。後天的獲得資質が遺伝する、と言う理論はミチューリニスト生物学と言うそうであるがルイセンコがこれを復活させ飛躍的生産性の向上を公約しスターリンの支持をうけた。
ルシセンコに対するスターリンの支持は、ただたんに後押しするとか、バビロフの場合に見られたように競争相手を排除するとかいう以上のものだった。ルイセンコの遺伝による影響の否定と、その環境の重要性に関する「証明」は、ソビエトの政治哲学と足並みをそろえていたのである。しかしスターリンはすでに1906年にある論考でダーウインの説を論じており、スターリンはダーウインと社会に対する彼の考え方を実行するために、積極的にルイセンコを登用したのだ。
<中略>
キリル・O・ロシャーフは、農業アカデミーの1948年の会合でルイセンコの行ったスピーチの草稿を見つけ出してきた。この草稿には、スターリン自身の手によるコメント、修正、削除、追加等がふんだん書かれてあった。
<中略>
また彼は無署名での注釈で、ラマルキズムへの支持も表明していた。
(きわどい科学、293P)
ルイセンコ事件のような問題は社会倫理的な側面をもち政治に利用されやすい事は理解できる。私は何も科学至上主義をここで主張するわけではない、科学は純粋に議論されその結果としてあるべきものであり、それをどう利用していくのかはその社会なり政治なり各々の宗教の中に決定権があると考える、がしかし科学を偽ったり捏造したりしてはならない、と主張しているのである。

こうした政治の科学への介入はなにも共産圏だからファシズム国家だからとか独裁政権だからとか言うわけでもない。自由の国の象徴アメリカでも現在進行形の問題がある。
「創造科学」と言う。
これも簡単に言えば、進化論の否定、である、というよりも進化論を学校で教える事を禁止せよ、と言う運動に後援されている。
これは「きわどい科学」によれば
ドイツがそうだったように、科学とは無関係な議事日程が、何を科学として認め、教えるべきかを指図しようとする試みに火を注いだ。(きわどい科学、301P)
ということである。

キリスト教の創世記の記述に反する、としてキリスト教の少数派ではあるが進化論に対するアメリカの反進化論世論は我々日本人には理解できないほど根強いものであるらしい。学校で禁止するか否かはその社会の自由であると思う、もっとも連邦裁判所では違憲であるとしてこうした反進化論運動は壊滅的打撃を受けた、当然と言えば当然であるが地方においてはまだまだ盛んでしかも教育に対する権利は地方が握っているためにコントロールしやすい、と言う事らしい。

進化論を学校で教える事を禁止する、と言う立法化には完全に敗北してしまった反進化論派の次に持ち出してきた戦略が問題となる、創造科学なるものを創出し「進化論を教えるなら創造科学も教えよ、それがバランスのとれた教育である」と主張し始めたのだ。「バランスがとれた」とは自由主義史観主義者が良く使うので思わず苦笑いしてしまいそうであるが、この「バランスがとれた」と言う論理の使い方は否定論者も反進化論者も同じである。正論の対極に虚論を置きその真ん中が正しい、ということは決してありえないのであり日本の政権政党が良く使う「中庸」や「中道」はその用法を誤っておりこうした論理の隠蔽に利用しているに過ぎない。この論理のおかしさは日本人がアメリカの反進化論者を見ていてよく判ると思う。

さて、日本の「新しい歴史教科書を作る会」や「自由主義史観研究会」に対する諸外国の批判は当然的を得ており、その手法や論理が同じである事は日本の否定論者やアメリカの反進化論者も決して認めないであろうが、目くそ鼻くそを笑う、とはまさに、、、、。
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[1937]Re(1):科学と疑似科学と歴史修...
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 七生報国 E-MAILWEB  - 05/12/23(金) 18:02 -

引用なし
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   ▼とほほさん:
 乱筆失礼します。
 南京事件否定論、ホロコースト否定論だけではなく、きわどい科学、似非科学、疑似科学、科学的or神話的権威主義?の類は巷にあふれている上、もはや生活とは切り離せないものなので常に疑いの目を持たねばならないと私も思います。(それでも私は簡単に騙されてしまいます)良くも悪くも私たちの生活には不可欠なものです。似非科学の類なのかそうでないのかの線引きも難しいです。
 マイナスイオン発生器、健康食品、健康サプリメント、市販の風邪薬等々などが最たるものです。
 偉い学者の先生がお墨付きを与えているから、有名人も使っているから、マスコミで報道しているから等の理由で簡単に効能を信用して購入しています。
 放射線、「環境ホルモン」、病気等に関しても同じことが言えると思います。
 最近問題になった構造書偽装問題にしても、「基準をちゃんとみたした家に住んでいる」と思っている人も何時の基準を満たした家に住んでいるか、若しくはその基準というのを満たせば本当に安全なのか考えないし、考えたくない。そこでお上が言ってるから安全だと「思い込む」ことにして不安な自分を納得させる。
 我々は全知全能ではない上使える時間は限られているので、全てにおいて専門家であることは出来ません、そこで何か問題にぶつかったときは、どうしても専門家の意見に従わざるをえません。そこで出来ることは手持ちのうすっぺらい知識といろんな専門家の意見を比べてどれが信用できそうかなぁと思案する以外に無い・・・
麻雀で言えば五巡目でいきなりリーチかけられてどれがアンパイか悩むのに似ていると思います。

 そういう状態にあるからこそ、とほほさんの運営していらっしゃるこの掲示板や2ch等の掲示板は本当に貴重なものだと思います。

http://www.geocities.jp/handwashmethod/jingilessfbd.html
このサイトは相当おもしろいです。この掲示板の読者の方にも是非読んでもらいたいサイトです。

 ご清聴ありがとうございました。
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