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[2056]更新のお知らせ:盧溝橋事件 ゆう 06/2/11(土) 8:42
[2111]全面改訂 「盧溝橋事件 中国共産党陰謀説」 ゆう 06/2/20(月) 22:28
[2114]「盧溝橋事件」最初の一発は論点ではない。 熊猫 06/2/22(水) 2:44 [添付]
[2115]Re(1):「盧溝橋事件」最初の一発は論点ではない。 とほほ 06/2/22(水) 16:09
[2117]Re(1):「盧溝橋事件」最初の一発は論点ではない。 ゆう 06/2/22(水) 20:04
[2119]Re(1):「盧溝橋事件」最初の一発は論点ではない。 熊猫 06/2/22(水) 23:34
[2122]Re(2):「盧溝橋事件」最初の一発は論点ではない。 eichelberger_1999 06/2/23(木) 11:57
[2129]Re(3):「盧溝橋事件」最初の一発は論点ではない。 熊猫 06/2/24(金) 2:14
[2136]Re(4):「盧溝橋事件」最初の一発は論点ではない。 eichelberger_1999 06/2/24(金) 13:51
[2143]Re(5):「盧溝橋事件」最初の一発は論点ではない。 熊猫 06/2/26(日) 16:29 [添付]
[2144]Re(6):「盧溝橋事件」最初の一発は論点ではない。 eichelberger_1999 06/2/26(日) 19:46
[2159]Re(7):「盧溝橋事件」最初の一発は論点ではない。 熊猫 06/2/28(火) 9:07
[2162]Re(8):「盧溝橋事件」最初の一発は論点ではない。 eichelberger_1999 06/2/28(火) 20:45
[2164]Re(9):「盧溝橋事件」最初の一発は論点ではない。 熊猫 06/3/1(水) 4:11
[2171]Re(10):「盧溝橋事件」最初の一発は論点ではない。 eichelberger_1999 06/3/1(水) 18:42
[2152]Re(5):「盧溝橋事件」最初の一発は論点ではない。 eichelberger_1999 06/2/27(月) 21:01
[2118]Re(1):お久しぶり 更新のお知らせ タラリ 06/2/22(水) 23:34
[2121]支那駐屯軍の永駐制 eichelberger_1999 06/2/23(木) 11:37
[2151]Re(1):支那駐屯軍の永駐制 eichelberger_1999 06/2/27(月) 20:23
[2142]御礼、そして今後 ゆう 06/2/25(土) 6:30
[2145]Re(1):御礼、そして今後 とほほ 06/2/26(日) 22:04
[2148]Re(2):御礼、そして今後 ゆう 06/2/27(月) 4:20

[2056]更新のお知らせ:盧溝橋事件
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 ゆう WEB  - 06/2/11(土) 8:42 -

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   お久しぶりです。ここしばらく、「盧溝橋」にハマっていたのと、Wikipediaであの竜馬クンとおぼしきアラシユーザーの対応に追われていたので、すっかりこちらはご無沙汰しておりました。

さて、新コンテンツ「盧溝橋事件 拡大への道程 三個師団派兵決定」を完成しましたので、ご案内します。事件の「拡大過程」をわかりやすく解説した、と自負しております。自信作です(笑)
http://www.geocities.jp/yu77799/rokoukyou/kakudai.html

あと、ゴテゴテして読みにくくなってしまった「兵三倍増強問題」を整理すれば、とりあえず「盧溝橋事件」シリーズは完成です。「7月11日から7月28日まで」が空白ですので、そのうちこちらにも手をつけなければいけないのかもしれませんが、これは機会があれば、ということで。
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[2111]全面改訂 「盧溝橋事件 中国...
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 ゆう E-MAILWEB  - 06/2/20(月) 22:28 -

引用なし
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   このコンテンツをアップしてからはや1年4か月。その間に私の「認識」もだいぶ進歩しておりますので、折角勉強したこの機会に、全面改訂を行ないました。

http://www.geocities.jp/yu77799/rokoukyou/inbou1.html

この種の議論については、これがネットでの「決定版」となるものと、自負しております(笑)
35 hits

[2114]「盧溝橋事件」最初の一発は論...
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 熊猫 E-MAIL  - 06/2/22(水) 2:44 -

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【添付ファイル】 〜添付ファイル〜
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前年の豊台事件により一触即発な状況であったにもかかわらず、夜間軍事演習を行った非常識さが問題なのです。

北京議定書 第九条
清国政府は千九百一年十一月十六日の書簡に添付したる議定書を以て各国か首都海浜間の自由交通を維持せむか為めに相互の協議を以て決定すへき各地点を占領するの権利ヲ認めたり即此の各国の占領する地点は黄村、郎房、楊村、天津、軍糧城、塘沽、盧台、唐山、[シ樂]州、昌黎、秦皇島及山海関とす
どう考えても盧溝橋は北京議定書の範囲外であり、そこに日本の軍隊がいること事態がおかしいのではないかと思います。
暴論ですがそもそも、中国の領土内で誰が銃を撃とうが中国の勝手であり、日本には関係のないことではないかと思います。


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[2115]Re(1):「盧溝橋事件」最初の一...
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 とほほ E-MAIL  - 06/2/22(水) 16:09 -

引用なし
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   ▼熊猫さん:
>暴論ですがそもそも、中国の領土内で誰が銃を撃とうが中国の勝手であり、日本には関係のないことではないかと思います。

なーるほど、これでこの件に関する理論武装バッチシです(笑)
北京議定書の件、頭に叩き込んでおきます。一人おつむの固いおバカサヨクが盧溝橋は中共の陰謀と言っているので(誰とは言いませんが、小林哲夫某です)今度こんなことを言い出したら突きつけてやります。(^^;
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[2117]Re(1):「盧溝橋事件」最初の一...
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 ゆう E-MAILWEB  - 06/2/22(水) 20:04 -

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   「冷戦時代」に例えると、こんな感じでしょうか。

19××年、ソ連の武力侵攻により、「北海道−東北人民共和国」が樹立されました。

これだけでも、日本にとっては大変な「脅威」なのに、その5年後、今度は「千葉−茨城防共自治政府」なるソ連の傀儡政権が樹立されてしまいました。

それでも、まだ「ソ連の進出」は止まりません。新潟あたりの「独立武装蜂起」を支援してみたり(日本軍の反撃により失敗に終わりましたが)、「東京議定書」なるものに基づき元首都東京の西方(首都は京都、ということで)、立川あたりに駐留している部隊を「居留民保護のため」と称して突然3倍に増やしてみたり。

そして毎日のように、その立川で「大演習」を行なっている。これで「反ソ感情」が高まらなかったら、その方が不思議です。(以上のアナロジー、おわかりですよね。「東北−北海道人民共和国」は「満洲国」、「新潟あたりの独立武装蜂起」は「綏遠事件」、「千葉−茨城防共自治政府」は「冀東防共自治政府」と読み替えてください)

「盧溝橋事件」は、こんな状況で起きたわけです。「中国軍の挑発行為」なるものに「事態拡大の責任」を求める方も散見されますが、このような背景を考えたら、「挑発行為」が起きて当たり前。

そして全面戦争に突入し、ソ連軍は「大阪湾上陸作戦」なるものを敢行、どさくさに首都京都まで陥れて「京都大虐殺」と称される事件を引き起こす・・・とまで行くと、ワルノリですのでこのあたりで止めておきましょう。

「盧溝橋」の荷を下ろした後は、このあたりの「前史」が、今の私の関心になっています。成果の発表は・・・う〜ん、1年後、というところかなあ。「盧溝橋」も、完成まで1年半かかりましたし。
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[2118]Re(1):お久しぶり 更新のお知...
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 タラリ E-MAIL  - 06/2/22(水) 23:34 -

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   ▼ゆうさん:
こちらもながらくご無沙汰のタラリです。
ゆうさんの永年の研究のまとめ、大変ご苦労様です。

この場を借りて盧溝橋事件についての私の考えを述べさせていただきます。

盧溝橋事件の共産党某略説は大局的な観点からして信じがたいものがあります。

 第一に、中国共産党が華北において日中の軍事的衝突を主体的に起こしえる組織・力量があったかどうか。たとえ、日中の軍事衝突を望んで、あれこれの策略をめぐらしたことは事実としても、国民党駐留部隊を動かすことができるほどの力量はなかったと判断されます。

 共産党某略説は共産党の各級の指導的人物が自ら「共産党が盧溝橋事件を起して、国民党を抗日に踏み切らせ、ひいては革命を容易にした」と発言したと伝えられるところから提起されたものです。しかしながら、それらの発言の中で正確に収録、記録されたものはゆうさんの研究の限り存在しないようです。

 共産党が主体的に日中の軍事衝突を引き起こしたのだという、そのような宣伝をすることが、共産党の権威を高め、人民の支持を得られるような、そういう時代というものはあったでしょう。そういう背景の上で、各級の政治指導者の中に私こそが盧溝橋事件を引き起こすのに力があったと自慢するものがあったとしても不思議はないと思います。

 しかし、そういう発言があったとして、事実であったかどうかはまた別の問題です。まず発言内容を正確に収録し、確かにその人物がいついつ誰に対して発言したものなのか、発言した人物が事件当時どのような活動に従事していたものなのか、そのことをもって信憑性を検証する必要があります。そのような検証を経た発言はいまだないようです。

 一方、日本の右翼は「日本は『盧溝橋事件』ではハメられた、日中戦争は罠にはまった」という主張をしています。日本の主体的な関与を否定することで戦争責任を否定し、責任を他になすりつけることで精神的な負担から解放されよう、という感情が働いているのを見ることができます。

 笑うべきは、いやしくも、敵方にまんまとだまされたと自らの恥を公言する馬鹿馬鹿しさです。盧溝橋事件の銃弾一発で8年にもわたる日中戦争を遂行したのはいったい賢いことなのか、どうなのか。にもかかわらず、だまされたと信じた方がまだしも侵略戦争の責任から逃れられる故に中国共産党謀略論にしがみつくわけです。滑稽なことになことに、中共のホラ吹きと右翼の「共闘」が成立するわけです。

 ゆうさんの盧溝橋事件の研究も非常に進んできました。内容はこれまでに発刊された研究書の総括という感じです。その中でも秦郁夫氏の研究水準は一頭地を抜いており、ゆうさんの結論もほぼその要旨に沿っていると見ております。秦氏はかなり頭のいい方で、私はその口調の歯切れのよさに魅力を感じるものの一人です。しかし、私は彼に文献主義の限界というものを感じます。たとえば南京事件では虐殺という事件の性質上、中国側文献資料が非常に限られています。後年の被害者証言は歴史を再構成する上で欠かせないものですが、彼はこの分野には興味が薄いようです。また、秦氏自身、文献学的考察と資料の収集には大変な能力を示していますが、自身の素のままの歴史観は細かな論証考察能力とつながってはおらず、意外なほど通俗的、保守的であるようです。

 ゆうさんの研究は「発言」が確かにあったのか、というもので、結論は確認されたものはない、ということになります。これはこれで妥当な結論となるべきものですが、研究の方向として大局的な見方からして「陰謀説」あるいは盧溝橋事件そのものがどのように位置づけられるべきものかについても考察が欲しいと思います。

 ゆうさんのHP冒頭に右翼に対する反論として研究を開始したことが書いてあります。「発言は、疑われるが確認されない」という結論では右翼は納得しないのです。たとえばラーベが武器商人であった、シーメンスは軍需産業だったという論調と通じています。

 発言があったとしても、発言内容の信憑性は非常に疑わしいということ、当時の共産党にそれだけの力量は客観的に存在しなかった、事件を拡大したのは日本軍の責任である、ということまで書き進めて欲しいと思います。もちろん、頭の悪い右翼はそこまで書いても納得することはないでしょう。しかし、そこまで書くことによって私たちは前進することが出来るのだし、これから日中戦争のことを勉強しようと考えている若い人たちにアピールすることができるのです。

 盧溝橋事件「陰謀説」は「発言」があったか、どうかで決定されるものではありません。党の指導者が確かにそのような内容を発言したとしても、実際に党の組織をどのように動かして事件を起こしたのかという「文献資料」がないことには陰謀説は確定できません。この点で右翼の論者の言説はすべて「推論」に過ぎません。逆に「文献資料」がないからといって否定もされません。過去には吹聴までしたが、その後都合が悪くなったので隠した、という右翼の反論もあるでしょう。

しかし、直接的な「資料」のあるなしにかかわらず、同時代の共産党の活動記録を集積して見れば、日中の軍事衝突を引き起こすように画策していたかどうかはおのずと明らかになります。しかしながら、中国側資料は現在、まだ研究者が自由に使用できる環境にありません。盧溝橋事件「陰謀説」の完全な否定も完全な肯定も中国側資料の全面公開が前提である、という事実だけを指摘しておきます。

#同時代の慧眼な観察者は盧溝橋事件が発生する以前に、2.26事件の発生をもって、日本軍国主義は遠からず中国侵略を開始することを見抜いていました。もし、中国側資料のすべてが閲覧可能な状況になれば、直接的な資料によらずとも、陰謀説は破綻するでしょう。
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[2119]Re(1):「盧溝橋事件」最初の一...
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 熊猫 E-MAIL  - 06/2/22(水) 23:34 -

引用なし
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   即此の各国の占領する地点は黄村、郎房、楊村、天津、軍糧城、塘沽、盧台、唐山、[シ樂]州、昌黎、秦皇島及山海関とす

占領する地点には地図に赤い印をつけました、印はありませんが軍糧城は天津の都市です。この文章から判断して北京議定書の「天津」は狭い範囲を意味するのではないかと思います。
そして12箇所の占領する地点に、盧溝橋という文字はないことは明白です。

『ウィキペディア(Wikipedia)』より
【引用開始】--------
日中戦争の端緒となった盧溝橋事件において「なぜ日本が中国の領域深くまで当然のように兵を置いていたのか」という疑問を聞くことがあるが、これは日本からすれば北京議定書に基づく正当な権利の行使ということになる。
【引用終了】--------
議定書の12箇所の地域においては正当な権利かもしれませんが、盧溝橋に日本軍が兵を置くのは正当な権利ではなく、既に侵略行為でしかありません。

更に酷いのは「軍事演習の通知をしていた。」などと意味不明な論調があります。
通知さへすれば何をしても良いと思う思考回路がそもそも狂っているのです。通知をしたかどうかは関係ありません。軍事演習に必要なのは「通知」ではなく「許可」です。私の知る限り盧溝橋事件において、中国の許可を受けていた資料は今のところありません。
許可が不要で通知だけで好き勝手なことが出来るのであれば、その状況こそが侵略行為です。

盧溝橋事件の銃声は日中戦争の論点を、はぐらかすためのトリックだと思えてなりません。
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[2121]支那駐屯軍の永駐制
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 eichelberger_1999 E-MAIL  - 06/2/23(木) 11:37 -

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   ▼ゆうさん、お久しぶりです。

 「兵三倍増強問題」を拝読しました。よく整理されていると思います。
 拝読していて思ったのですが、1936年の改編で交代制から永駐制に移行したことのもつ重要性につき、もう少し強調されてもよかったのではないかと考えます。駐屯兵力が量的に増加したにとどまらず、永駐制になったことで質的にも変化したのではないでしょうか。
 交代制の時期には、支那駐屯軍司令部は恒常的な組織ですが、その指揮下にある部隊は支那駐屯歩兵隊は、日本内地の各師団で編成されて派遣されたものです。今年は第8師団から、次の年は第5師団からというように、順番で兵力を抽出して派遣されます。だから、支那駐屯歩兵隊の各隊は、それぞれ内地に原隊をもっていました。
 これはある意味で当然のことで、支那駐屯軍の駐兵区域は外国であって、日本の植民地ではありませんから、内地や植民地のように軍管区を設定して師団や聯隊を置くことはできません。実質植民地に等しい関東州ですら、国際法上はあくまでも租借地ですので、満洲事変以前は、駐屯師団も独立守備隊も交代制をとっていました。
 ところが、1936年の改編で、支那駐屯軍の下に、支那駐屯歩兵聯隊や砲兵聯隊がつくられました。これらの聯隊は内地ではなくて、天津と北平が原駐地になりますから、もやは軍旗をいただいて帰るところが内地にはありません。永駐制とはそういう意味です。
 つまり、これ以降の支那駐屯軍の各部隊は、軍の編制上は、朝鮮に設置された歩兵第73聯隊や野砲兵第28聯隊等と同じ扱いとなるのです。
 植民地でもない、あるいはそれを許す軍事同盟を結んでいない外国にこのような部隊単位を設置することの重大性を考えてみてください。
35 hits

[2122]Re(2):「盧溝橋事件」最初の一...
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 eichelberger_1999 E-MAIL  - 06/2/23(木) 11:57 -

引用なし
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    たぶん、熊猫さんは承知のうえで、仰有っているので、よけいなお節介だとは思いますが、誤解される方もいるかもしれないので、一言。

▼熊猫さん:
>即此の各国の占領する地点は黄村、郎房、楊村、天津、軍糧城、塘沽、盧台、唐山、[シ樂]州、昌黎、秦皇島及山海関とす
>
>占領する地点には地図に赤い印をつけました、印はありませんが軍糧城は天津の都市です。この文章から判断して北京議定書の「天津」は狭い範囲を意味するのではないかと思います。
>そして12箇所の占領する地点に、盧溝橋という文字はないことは明白です。
>

 日中戦争が泥沼化した時点で、石原莞爾は第一部長時代の自分の作戦指導を
反省して、豊台に日本軍を駐屯させずに、当初の計画通りに通州にしておけば、あるいは盧溝橋事件はおこらずにすんだかもしれないと、述べています。それができなかったのは、通州では条約(すなわち北京議定書)違反になるからで、陸軍省の強い反対で、やむをえず豊台を駐屯地としたと石原は回想しています。
 石原にすれば、条約などにこだわらずに、通州にしておけばよかったということになるのですが、このことは豊台なら条約には違反しないと、日本側が認識していたことを意味します。
 ゆうさんのページに紹介されている文献からもわかりますように、豊台にはかつてイギリス軍が駐屯していたこともあり、北寧線の沿線であることからも、条約上問題ないとされたのだと思われます。それが盧溝橋事件を起こす部隊となったわけです。

 もちろん、そもそも1936年の支那駐屯軍の改編・増強がなければ、盧溝橋事件はなかったでしょうから、その責任者である石原莞爾がいまさら駐屯場所を云々しても、それは些末なことにすぎません。
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[2129]Re(3):「盧溝橋事件」最初の一...
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 熊猫 E-MAIL  - 06/2/24(金) 2:14 -

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   「郎房」は「郎坊」と訂正します。

当然のことですが北京議定書に反してなければ、軍事演習は「許可」は必要なく「通告」だけで問題ありません。

日本の駐兵権の割り当ては1570人であるはずなのに1771人いたことからして、厳密に北京議定書を遵守する意思はなかったのではないでしょうか。それが更に5774人に増員されているのですから論外ではないかと思います。
また、陸軍次官梅津美治郎が反対しなければ、通州に駐屯させていたかもしれないような軍に北京議定書を守る意思があったとは考えられません。遵守するつもりであれば、通州などという案は最初からないと思います。
清国の時代は必要上やむをえない処置として通告し承認を得て所要の場所に駐屯させたのに対し、許世英駐日大使から抗議文を受取る日本とでは本質的に違います。
イギリスの場合と日本とでは本質的に違っており、中国側は北京議定書に違反していると判断していたのではないでしょうか。
豊台の日本軍が北京議定書に違反するかどうかは、石原や梅津が如何に判断していたかとは関係がないのです。
豊台は北京議定書の12箇所の占領地ではありませんので、慣例として中国の承認が必要であり、許世英から抗議文を受けた時点で違反行為とみなすべきではないでしょうか。

豊台には中国軍がいましたし個人的な見解ですが豊台事件が起きた原因は北京議定書により、豊台の管轄統治権は中国にあると判断されていたからではないでしょうか。
30 hits

[2136]Re(4):「盧溝橋事件」最初の一...
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 eichelberger_1999 E-MAIL  - 06/2/24(金) 13:51 -

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    熊猫さん、御返事ありがとうございました。
 
 まず最初に断っておきますが、1936年の支那駐屯軍の改編と増強は、北京議定書の想定している事態をはるかに超えていますので、条約の許容範囲を逸脱していると、私は考えています。
 支那駐屯軍の増強改編の目的は、当時日本が推進していた華北分離工作の後ろ盾とさせるものですから、北京議定書第9条ではどう考えても正当化できるものではありません。
 北京議定書では正当化されえない目的のために、北京議定書が許している駐兵権を利用したわけですから、これは条約の悪用、権利の濫用にほかなりません。
 また、増兵の表向きの理由の一つとされている日本人居留民の増大ですが、これ自体が、塘沽停戦協定以降、開港・開市場以外の都市に日本人が多数居住するようになったために生じたできごとで、開港・開市場以外への治外法権国民の居住および営業は、厳密に言えば条約違反です。つまり、表向きの理由を信じるにしても、支那駐屯軍は多数の日本人不法滞在者を保護するために増強されたことになります。

 ですから、盧溝橋事件当時の支那駐屯軍の存在が条約では正当化できないと考える点で、熊猫さんと私とが同意見であることを、まずご理解ください。

 私が前便を書いたのは、条約違反として熊猫さんがあげられている理由と説明が必ずしも正確ではないと感じたからでした。以下にその点を列挙しておきます。

1.日本軍は豊台に駐屯していたのであって、盧溝橋(宛平県城)に駐屯していたのではない。

2.問題の第8中隊が演習していた地点は、盧溝橋の近くではあるが、正確に言えば、その東北にあたる龍王廟と一文字山の間である。

3.日本軍の割り当て兵数1570というのは、天津還付の時点(1902年)での連合国軍約8200人のうちの割合であって、必ずしも固定的なものではない。時期によっては、8200人を超える兵力が駐屯していた時もある。1927年には11880人に膨れあがり、うちアメリカ兵が5078人をしめた。、ちなみに1902年の時点でのアメリカ兵は150人にすぎない。以上兵数は、安井三吉『盧溝橋事件』p.97の表による。

4.北京議定書第9条では豊台の地名はあげられていない。しかし議定書に基づく列国の鉄道守備範囲割当てで、北京から楊村までの京奉線の守備は英国の担任とされ、その英国守備兵は、議定書に指定されている郎坊や黄村ではなくて、豊台に駐屯していた。なぜ、郎坊や黄村ではなくて、議定書に言及されていない豊台が選ばれたのか、詳細は不明。
 よって、豊台は議定書に基づく占領可能地として中国側にも認められていたと考えられる。

5.豊台が郎坊もしくは黄村にかわる駐屯地であるならば、そこへの日本軍の駐屯そのものは条約に違反するものではなくなり、それゆえ演習も通告だけですむことになる。このことは熊猫さんも認めている。
 ただし、列国の協定では、日本軍の鉄道守備範囲は山海関とらん州の間なので、鉄道守備のために豊台に日本軍が駐屯するのは、列国との協定に違反する。鉄道守備のためでなく豊台に駐屯することは、北京議定書において認められていない。
46 hits

[2142]御礼、そして今後
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 ゆう WEB  - 06/2/25(土) 6:30 -

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   いやあ、正直な話、ここまで「反響」をいただけるとは思っておりませんでした。それも、私が右翼さんの側だったら、どこぞの掲示板で1対1でやりあうことは絶対にご遠慮申し上げたい、錚々たる面々。

しかし、ここでの「盧溝橋」論議のレベルの高さ。私もこの一年間、あちこちの「盧溝橋」論議をある程度注意して見てきたのですが、ここまで質の高い論議を目にしたことはありません。まあ、論者の一方がたいてい「陰謀説」鵜呑みの右翼さんであることもあるのでしょうが、おそらくそんな右翼さん連中には、そもそも皆さんが何をおっしゃっているのかさえ、わからないかもしれません(^^)


それで、皆さん、実にご明察。見事に私の思考の「進化」の方向を先取りしてしまっています。私も最初は、「盧溝橋」のスター論議である「中国共産党陰謀説」「第一発問題」に華やかさに幻惑され、そればかり見ておりました。しかし、「勉強」が進むに従って、そんなものは大局的には、実はほとんどどうでもいい議論である、ということに気がつき出したのですね。

例えて言えば、過飽和溶液の最後の一滴。その一滴のためにビーカーの水が溢れ出したことは事実でしょうが、そもそもなぜビーカーの中の液体が発生し、どのようにしてどんどん量を増してきたのかを見なければ、「最後の一滴」ばかり問題にしていても何の意味もない。おそらくそれが、右翼さんたちに欠けている「思考」なのでしょう。

「満州国」を手中にした日本が、いかに「次の段階」の「華北分離工作」を進めていったか。その過程で、いかに中国人たちの反感を買ってきたか。そして、それまでほとんど無抵抗であった中国人が、なぜ「反抗」を決意したのか。このような「背景」を考えなければ、「盧溝橋」は語れません。

これで「盧溝橋」は「卒業」するつもりだったのですが、よく考えると、私が勉強すべき「世界」は、まだまだ広大無辺であるようです。
23 hits

[2143]Re(5):「盧溝橋事件」最初の一...
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 熊猫 E-MAIL  - 06/2/26(日) 16:29 -

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eichelberger_1999さん

>1.日本軍は豊台に駐屯していたのであって、盧溝橋(宛平県城)に駐屯していたのではない。
この件は、私のミスです。ご指摘に感謝します。

>よって、豊台は議定書に基づく占領可能地として中国側にも認められていたと考えられる。
内容は不明ですが北京議定書というのは、別途それぞれの国別の詳細があったのではないでしょうか。「イギリスが駐屯していたから」とはならないと思います。
イギリス軍の駐屯とは異なり、日本の場合は「許世英駐日大使から抗議文」を受取っていますので承認手続きはされていないと考えるべきではないでしょうか。
またそのイギリス軍にしても、馮玉祥の部下であった張自忠が豊台に進軍した際に、イギリスは北京議定書に違反していることを認めたと判断するべきだと思います。この時の中国の見解(張自忠の見解と言うべきでしょうか)は豊台は中国の領土との認識であり、イギリス軍の撤退要求を拒否して戦闘をしています。
その後、中国軍が豊台に常駐し続けて豊台事件が起きています。これらは中国側では北京議定書が文面どおりに解釈されていたということではないでしょうか。
そして日本軍が豊台に駐屯したのは、それらの経緯があった後のことです。
51 hits

[2144]Re(6):「盧溝橋事件」最初の一...
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 eichelberger_1999 E-MAIL  - 06/2/26(日) 19:46 -

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    熊猫さん、長文ですがお許しを。

 私と熊猫さんは、1936年の支那駐屯軍の増強は北京議定書に違反するものと見る点では共通しているのですが、その理由づけが少し異なるようです。

 前便で言いましたように、この時の支那駐屯軍の改編増強は、華北分離工作の軍事的後ろ盾とするためのものですので、その目的からして北京議定書の想定外のことであり、権利の濫用であるというのが、私の解釈です。日本側の増強の動機が北京議定書の想定を超えるものであることは、参謀本部が最初は通州に兵力を駐屯させるつもりであったこと、陸軍省の反対でやむなく豊台に変更した事実が逆に証明しています。熊猫さんのご指摘のとおりです。

 それに対して、熊猫さんは、増強された支那駐屯軍が新たに兵力を置いた、豊台そのものが、北京議定書で正当に認められていない地点であるから、豊台駐屯そのものが、条約違反であるとの意見だと思われます。それに対して、豊台にはイギリス軍が駐屯していたことがあるので、豊台への駐屯そのものは条約違反でない(ただし、その駐屯の目的は交通線の確保に限定されているべきだが)というのが、私であったわけです。

 となると、どちらの解釈が妥当かを判定するためには、豊台のイギリス軍の駐屯がはたして条約に抵触するものであったのかどうか、検討しなければいけませんが、これはなかなかむずかしそうです。これに関してアジア歴史資料センターで興味深い文書を見つけたのですが、それを紹介するまえに、重要でない問題をかたづけておきます。

>内容は不明ですが北京議定書というのは、別途それぞれの国別の詳細があったのではないでしょうか。

 それはないと思います。北京議定書は11ヶ国の全権と清朝側の全権とが署名したものですので、条約正文のテキストは同一です。熊猫さんが添付された簿冊の写真中、下の段の右端の「辛丑各国和約」というのが、北京議定書とそれに関連する外交文書集です。それ以外の簿冊は、イギリスならイギリスとの条約を集めたものだと思います。写真にはポルトガルのものがありますが、ポルトガルは議定書の調印国ではありませんから。

 それから、許世英の抗議ですが、はたしてそこでは豊台という駐屯地点のみが抗議の対象となったのでしょうか。それとも、増兵全体が抗議の対象となったのでしょうか。許世英の抗議の原文をみていないので、何とも言えませんが、争点が駐屯地点の違法性だけだったとは考えられません。

 さて、アジア歴史資料センターで見つけたというのは、1936年3月4日の日付をもつ、支那駐屯軍参謀長永見俊徳大佐の陸軍次官宛報告「軍兵力並配置ニ関スル参考資料送付ノ件」です。同センターのレファレンスコードC01004192300。

 支那駐屯軍の増強はすでに既定のものとなっていますが、いざそれを実行するにあたって、増加した兵力をどこに配置すべきかという問題、および戦時や事変時あるいは中国の動乱時でもないのに、前例にない兵力の大増加を国際的にどのように弁明するかを検討するための材料として、陸軍省に送られたのがこれです。

 その中にズバリ「英国軍ノ豊台守備ノ経緯ト日本軍ヲ配置セントスル能否調査」というものが含まれています。
 これによると、イギリス軍の豊台駐屯は、列国軍の撤退後1911年まではなく、1911年11月すなわち辛亥革命の時からはじまり、1926年に撤退とのことです。最初の数年は180名程度が駐屯し、1915年から撤退までは、20名程度で、多いときでも40名強でした。
 
ここで問題になるのは、以下の2点です。
1.1911年の駐屯開始の時にイギリスは中国側の承認を得たのか。
2.1926年の撤退はいかなる理由によったのか。

上記2に関するので、私の方から熊猫さんに質問したいのですが、

>またそのイギリス軍にしても、馮玉祥の部下であった張自忠が豊台に進軍した際に、イギリスは北京議定書に違反していることを認めたと判断するべきだと思います。この時の中国の見解(張自忠の見解と言うべきでしょうか)は豊台は中国の領土との認識であり、イギリス軍の撤退要求を拒否して戦闘をしています。

 この事件は、1925年あるいは26年のことなのでしょうか。つまり、熊猫さんが紹介された事件がきっかけとなって、イギリス軍が豊台から引き揚げたのでしょうか。もし、そうならば、撤退によりイギリスは豊台は北京議定書の許す駐屯地点ではないことを認めたことになり、日本軍の豊台駐屯も条約違反ということになります。私は中国史に疎いので、上記のことはまったく知りませんでした。

 ところで、先ほどの「英国軍ノ豊台守備ノ経緯ト日本軍ヲ配置セントスル能否調査」にもどりますが、支那駐屯軍が下した日本軍の豊台配置の能否についての結論ですが、それは以下のようなものでした。
「豊台ニハ日本軍ノ法的根拠ナキモ従来ノ慣習ニ従ヒ不取敢一部隊ヲ臨時形式ヲ以テ派遣シ時日ノ経過ト共ニ之ヲ永駐化スルヲ賢明ナリトス」

 支那駐屯軍側は、熊猫さんと同じで豊台への駐屯は法的根拠に欠けるとみなしていたようです。ここでいう「従来ノ慣習」とは、列国が北京議定書の締結後、議定書の想定を超える目的で多数の兵力を配置したり、議定書に明記されていない地点に駐屯させたりしたことが多々あったことを指しています。つまり、条約にはないが前例があるから、今回もO.Kということであるわけです。
 「法的根拠なし」とする理由をさらに紹介しておきますと、北京議定書の第9条は、「黄村以北北平周辺付近ハ含マレアラス」というのが、支那駐屯軍の解釈で、それゆえ豊台に日本軍を駐屯させる理由付けとしては、議定書第9条ではなくて、豊台は交通の要衝であり、華北在住日本人の増加および北平の日本人人口の増加に鑑み、居留民保護の見地から一部兵力の派遣を要するという居留民保護をとるべしという意見をとっています。それならば、「条約上差支ナシ」というのが支那駐屯軍の提示している理由です。

 どうやら、日本側の見解に照らしても、北京議定書と豊台駐屯の関係については、熊猫さんの解釈の方が有利なようですね。ただ、私としては1926年の英軍撤退の状況をもう少し詳しく知りたいです。
54 hits

[2145]Re(1):御礼、そして今後
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 とほほ E-MAIL  - 06/2/26(日) 22:04 -

引用なし
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   ▼ゆうさん:
>いやあ、正直な話、ここまで「反響」をいただけるとは思っておりませんでした。それも、私が右翼さんの側だったら、どこぞの掲示板で1対1でやりあうことは絶対にご遠慮申し上げたい、錚々たる面々。

と言うことで(^^ゞ
[#2056]のタイトルを
「更新のお知らせ:盧溝橋事件」
と変えさせていただけませんでしょうか?
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[2148]Re(2):御礼、そして今後
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 ゆう WEB  - 06/2/27(月) 4:20 -

引用なし
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   >[#2056]のタイトルを
>「更新のお知らせ:盧溝橋事件」
>と変えさせていただけませんでしょうか?

了解しました。
41 hits

[2151]Re(1):支那駐屯軍の永駐制
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 eichelberger_1999 E-MAIL  - 06/2/27(月) 20:23 -

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    豊台駐屯は条約違反か否かをめぐる熊猫さんとの議論の材料を、アジア歴史資料センターで漁っていると、支那駐屯軍関係のいくつかの資料に出くわしました。

 それからわかったことですが、私が述べたことの中に、訂正もしくは補足説明を要するものがあるのに気づきました。ただし、細かい事実関係の考証ですので、大局的な議論をお好みの方は、読まずにスキップして下さい。

 eichelberger_1999は以下のように述べましたが、これは厳密には誤りでした。

> つまり、これ以降の支那駐屯軍の各部隊は、軍の編制上は、朝鮮に設置された歩兵第73聯隊や野砲兵第28聯隊等と同じ扱いとなるのです。

 アジア歴史資料センターで閲覧可能な資料に昭和11年軍令陸乙18号「陸軍平時編制改定ノ件」(昭和11年5月23日制定、6月1日より施行)というのがあります(レファレンスコードC01007515600)。
 陸軍平時編制というのは、陸軍の平時の組織とその編制を規定した軍令であり、これをみれば日本陸軍の常備兵力の詳細がわかります。ところが、この平時編制には支那駐屯軍は含まれていません。司令部はもちろん、その下の支那駐屯歩兵旅団も支那駐屯歩兵第1、第2聯隊も、平時編制において含まれてていないのです。
 それに対して朝鮮にある朝鮮軍司令部、第19、20師団さらには歩兵第73聯隊から80聯隊などの部隊はすべて平時編制に含まれます。また、台湾に駐屯する台湾軍司令部およびその指揮下にある台湾守備隊司令部や台湾歩兵聯隊も同様です。

 つまり、陸軍の編制上、改編・増強された支那駐屯軍と朝鮮軍や台湾軍とは扱いが異なっていたわけです。朝鮮軍や台湾軍は常備軍だけれども、支那駐屯軍はそうではない。この点で、上記の私の説明は訂正を要します。

 常備軍でない支那駐屯軍は、軍の編制上、臨時編成部隊という位置づけになります。これは、特定の任務を実行させるために、平時編制に定められた常備諸隊をもとに、臨時に編成してつくったものです。ただし、戦時の動員部隊とは異なります。戦時には、常備軍をもとに戦時編成部隊がつくられますが、これは陸軍戦時編制によって定められた部隊構成に従います。
 平時編制でもなく、さりとて戦時編制でもない、臨時につくられる部隊が臨時編成部隊なわけです。現在で言えば、自衛隊のイラク派遣隊がこれにあたります。

 支那駐屯軍はそれが誕生して以来、ずっと臨時編成部隊でした。平時編制とは別に支那駐屯軍編成という名の独立の軍令で毎年その組織が定められていたのです。これはあたりまえで、外国に派遣している軍隊をそのまま常備軍にするわけにはいきません。
 イラクに派遣されている自衛隊も、常備兵力の中から抽出されて派遣されているわけですが、日本の自衛隊の常備編成表のなかに、第2師団(旭川)や他の部隊とならんで、イラク駐屯隊(サマワ)と書くわけにはいきません。イラクに永続的に駐屯するわけではありませんから。

 ところが、1936年の改編以後の支那駐屯軍は永駐制をとって、中国の北平・天津区域に永続的に駐屯することにしてしまったのです。それにともなって、支那駐屯軍編成という名の軍令も毎年作られることはなくなります。
 これは軍の編成からいって、じつにおかしな現象と言わざるをえません。こういう例はあまり外にはないのですが、それと同等なのが、1934年に臨時編成され、満洲に永駐することになった独立混成第1旅団と独立混成第11旅団です。
 改編支那駐屯軍はこの満洲の新編独立混成旅団をモデルにして作られたものと見てよいと思います。その意味で、満洲事変が華北に持ち込まれたのであると言ってもよいでしょう。支那駐屯軍の改編増強の経費も満洲事件費から支出されているはずです。
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[2152]Re(5):「盧溝橋事件」最初の一...
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 eichelberger_1999 E-MAIL  - 06/2/27(月) 21:01 -

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    自己発言の補足訂正の第2弾目です。

 発言#2114で紹介した、支那駐屯軍参謀長永見俊徳大佐の陸軍次官宛報告「軍兵力並配置ニ関スル参考資料送付ノ件」(アジア歴史資料センター:レファレンスコードC01004192300)の記述から、eichelberger_1999の以下の記述は不正確であることがわかりました。

> ただし、列国の協定では、日本軍の鉄道守備範囲は山海関とらん州の間なので、鉄道守備のために豊台に日本軍が駐屯するのは、列国との協定に違反する。鉄道守備のためでなく豊台に駐屯することは、北京議定書において認められていない。

 紹介の報告の中に以下のような記述があるのを発見しました。


九、昭和五年十二月二二日列国軍司令官会議ニ於テ英国軍司令官ノ提議ニ依ル協同動作計画ノ重要改正条項左ノ如シ
 一、京奉鉄道自由交通維持ノ為平時ヨリ守備区域分割主義ヲ廃止シ状況ニ応シ軍司令官会議ニ於テ定ムルコトトセリ 而シテ鉄道守備以外ニ軍隊派遣ヲ認メタルモ直接守備ニ関スル条項ハ削除セリ
 二、現在兵力ニ於テハ北京 塘沽間ノ交通維持ヲ行フ 但シ現ニ配置シアル塘沽、秦皇島、山海関等ノ部隊ハ関係軍司令官ノ必要ト認ムル期間存置ス 
十、豊台ハ明治四十四年以来昭和五年ニ至ル迄列国軍司令官会議ノ決議ニ依リ概ネ英国軍ノ守備区域ト定メラレアリテ 上記ノ表(略)ニ示ス如ク大正元年ヨリ大正十五年迄守備兵ヲ配置セラレアリタリ


 意味不明の箇所もあるのですが、このことから1930年の軍司令官会議で、それまでの鉄道守備地域の分担が廃止されたことがわかります。それだけでなく、「直接守備ニ関スル条項ハ削除」とか、「現在兵力ニ於テハ北京 塘沽間ノ交通維持ヲ行フ」とかの記述から、実質的に列国軍はこの時、列国軍兵力による鉄道守備をあきらめた(権利は留保しつつ)のでないかと思われます。
 このことから、1936年の時点で、鉄道守備区域の分担に関する列国協定が生きていたかのように述べている、私の前言は訂正を要することがわかりました。そういう協定は1930年に消失したわけです。しかし、それじゃ日本側が好き勝手できるかというと、そうではなく、「状況ニ応シ軍司令官会議ニ於テ定ムルコト」になったわけですから、鉄道守備区域の現状変更につながる駐屯地の変更には、軍司令官会議の了解が必要だったことになります。

 しかしながら、支那駐屯軍の永見参謀長はこういう言い方をしています。
「以上ニ依リ観察スルニ鉄道守備ノ任務ヲ有セスシテ 演習又ハ兵営狭隘ノ為或ハ法人保護等ノ目的ト北支現時局ノ状況ニ依リ一部隊ヲ派遣駐屯セシムルハ列国協同動作計画ノ条文ニハ何等抵触セズ 又列国軍司令官ニ之カ実施方ヲ協議スルノ必要モナシ」
 わかりやすく言うと、豊台駐屯の根拠を北京議定書第9条(鉄道守備)におくと、列国協同動作計画に抵触するおそれがあり、また列国軍司令官と協議しなければいけないが、それ以外の目的(居留民保護等)をあげるならば、そのおそれもないし、協議の必要もないと、永見大佐は進言しています。

 豊台駐屯の法的根拠を北京議定書第9条に求める論者に、一度聞かせてやりたい議論ではありませんか。
35 hits

[2159]Re(7):「盧溝橋事件」最初の一...
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 熊猫 E-MAIL  - 06/2/28(火) 9:07 -

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   張自忠は盧溝橋事件のときには29軍38師の師長(師団長)になっていました。
出所は昨年(2005年)5月に出版されました、『梅花上将 張自忠伝奇』李萱華・陳嘉祥(重慶出版社)です。著作権に関する概念が日本とは異なるのでしょうか、本を買わなくても下記のURLで見ることが出来るのが中国の凄いところです。
http://lz.book.sohu.com/serialize.php?id=2314
「第一部 好男要当兵 豊台挫英軍(1)〜(3)」にそのことが書かれています。
じつは肝心の時代が書かれていません。「豊台是中国的領土(豊台は中国の領土である)」というのは、著者あるいは後世に意図的に作られたものである可能性がありますが、張自忠がそのような事を言ってないにしても、中国が軍を派遣しイギリスの撤退勧告を無視して駐屯した大義名分は「豊台が中国の領土である」という解釈のもとであることには間違いないでしょう。

>2.1926年の撤退はいかなる理由によったのか。
北伐の影響が大きいのではないでしょうか。豊台については国民軍と手を結んだほうが賢明であると、言わば「金持ち喧嘩せず」で中国の国内情勢に合わせたイギリスの外交上手ではないでしょうか。

『北京議定書』というのは力のある者が好き勝手にその内容を解釈していたにすぎないと思います。各国への通告に対し「沈黙する」のは、承認していたのではなく黙っていただけのこと解釈すれば解りやすいと思います。
46 hits

[2162]Re(8):「盧溝橋事件」最初の一...
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 eichelberger_1999 E-MAIL  - 06/2/28(火) 20:45 -

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   熊猫さんへ

▼熊猫さん:
>http://lz.book.sohu.com/serialize.php?id=2314

 中国語はわかりませんが、上記Webページの漢字を拾い読みしました。

>「第一部 好男要当兵 豊台挫英軍(1)〜(3)」にそのことが書かれています。
>じつは肝心の時代が書かれていません。

 前後の流れからすると、「豊台挫英軍」の事件がおこったのは、第二次奉直戦争中の1924年9月末から10月にかけてのことだと思われます。張自忠が衛隊旅第一団を率いて長辛店に進出したのが、1924年9月22日、そこで呉佩孚の交通兵団を打破したあと、豊台移動を命じられたとあるので、そう推測できます。

「豊台是中国的領土(豊台は中国の領土である)」という張の主張の意味なのですが、論理的に考えると、これには二通りの解釈がありえます。

1.豊台は中国の領土であるから、中国軍が駐屯するのは当然の権利であり。豊台に駐屯するイギリス軍が中国軍に撤退を要求する権利はない。北京議定書はそのような権利を外国に認めるものではない。

2.豊台は中国の領土であるから、外国軍が駐屯する権利はない。北京議定書はそのような権利を外国に与えていない。よって、豊台に駐屯するイギリス軍は不法な存在であり、そのようなものが逆に中国軍に撤退を要求する権利がありうるはずもない。

 熊猫さんが紹介されたWebページの記述を読むかぎり、この張自忠伝の著者およびこの書物に描かれた張自忠の当時の考えは、1であったように思われます。
 少なくとも2でないことは確実です。張自忠は豊台駅を接収し、そこにいたイギリス部隊を撤退させた後、豊台駅から撤退するように求めた豊台駐屯のイギリス軍司令官の要求をはねつけますが、イギリス軍に豊台から撤退するようにとはイギリス側に要求していないからです。現に、イギリス軍はこの事件中もまた事件後も豊台から撤退していません。
 また、熊猫さんも以下のように書いておられるので、どちらかと言えば、1の解釈であるように推測されます。

>張自忠がそのような事を言ってないにしても、中国が軍を派遣しイギリスの撤退勧告を無視して駐屯した大義名分は「豊台が中国の領土である」という解釈のもとであることには間違いないでしょう。

 しかし、以前の発言#2143では以下のように仰有っています。

>またそのイギリス軍にしても、馮玉祥の部下であった張自忠が豊台に進軍した際に、イギリスは北京議定書に違反していることを認めたと判断するべきだと思います。

 この発言で熊猫さんは、張自忠が豊台に進軍した際に、「豊台に駐屯することは北京議定書に違反しているとイギリスが認めた」と判断できると主張されています。

 しかし、張自忠の主張が1だとすると、この時問題になったのは、「イギリス軍の豊台駐屯は北京議定書違反か否か」ではなくて、「中国軍の豊台駐屯は北京議定書(正確には天津還付の際の公文)違反か否か」であったことになります。とすれば、この時イギリスが認めたのは、「中国軍の豊台駐屯は北京議定書違反ではない」ということであって、「イギリス軍の豊台駐屯は北京議定書違反である」ではないと結論せざるをえません。

 つまり、張自忠の「豊台挫英軍」事件に関する上記Webページの記述は、それだけでは、外国軍の豊台駐屯が北京議定書違反であるとの主張の正しさを証明するものとはなりえないのです。


>>2.1926年の撤退はいかなる理由によったのか。
>北伐の影響が大きいのではないでしょうか。豊台については国民軍と手を結んだほうが賢明であると、言わば「金持ち喧嘩せず」で中国の国内情勢に合わせたイギリスの外交上手ではないでしょうか。

 ご指摘のように中国情勢の変化が第一の理由であり、第二にはイギリスの財政難だと思われますが、しかしそれだとすると、イギリスの豊台撤退は、必ずしも豊台駐屯が北京議定書違反だとイギリスが認識したために行われたとは言えないことになります。
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[2164]Re(9):「盧溝橋事件」最初の一...
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 熊猫 E-MAIL  - 06/3/1(水) 4:11 -

引用なし
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   eichelberger_1999さん

eichelberger_1999さんから教えていただいた内容からすると、豊台のイギリス軍の駐屯は北京議定書の直後からではなく、辛亥革命から北伐の期間であり偶然ではなく政治的配慮によるものと思います。
当初は1個中隊ほどの軍人を駐屯させていたのが、20人〜40人の状態であったということは、認識できていませんでした。50人にも満たない人数というのは占領しているというレベルではなく、「手出しをしなければそれでよし」の状態ではなかったのでしょうか。豊台駅の銃撃戦を大げさに考えていました。イギリス軍の規模が記述されていないのは、張自忠を偉大に見せるため著者の意図的なミスリードのような気がします。
当時の中国(ここでは1924年)は、国のあちこちに外国軍が駐屯しており人数が少ないので問題外であったと考えるのが妥当ではないでしょうか。
イギリスが何故豊台に駐兵したのか解かりませんが、状況から判断して例外的処置として判断するのが妥当ではないでしょうか。辛亥革命のような先の見えない状況への対処ではなかったかと思います。その後、20人〜40人ですので北京議定書を盾に追い出すようなことはしないのではないでしょうか。

『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>』-77-を読む限り、イギリスは豊台には駐兵してませんでしたが1936年時点で、1000人規模の駐兵をしており北京議定書の範囲内に駐兵していたのではないでしょうか。防衛庁防衛研修所(戦史叢書)が引用した資料とは異なりますが、やはり同じような数字が見られますので提示します。1934年のことですので2年ほど違いますが『時局解説 百科要覧』平凡社-241-より
次に北京及山海関を含む、北支駐屯軍の兵備を見るに、軍司令官として少将が一名、将校が四〇名、准士官下士兵が九八八名で、一大隊に相等してゐる。兵器としては重機関銃が三二。迫撃砲が六門。野砲が三六門。其他軽機関銃、歩兵砲、山砲若干。
やはり、豊台にこそ駐兵していませんでしたが、周辺には1000程のイギリス兵がいたのは間違いないでしょう。

「第一部 好男要当兵 豊台挫英軍(1)〜(3)」を読んで、私は大規模な戦闘があってイギリス軍が豊台から全面撤退したと解釈しましたので、ちぐはぐな論証になってしまいました。まあ20人〜40人程度の部隊が相手なら、張自忠でなくても勝てたのではと思うのですが、eichelberger_1999さんがイギリス軍の人数と撤退時期を調べていただなければ勘違いをしていたままでしたので有難うございます。

>1.豊台は中国の領土であるから、中国軍が駐屯するのは当然の権利であり。豊台に駐屯するイギリス軍が中国軍に撤退を要求する権利はない。北京議定書はそのような権利を外国に認めるものではない。
この解釈は無いと思います。北京議定書は占領することを認めていますので、地域の統治権は占領軍にあると思います。豊台以外での中国軍の行動を調べる必要があるようですね。議定書の12箇所の地域に中国軍が駐兵したのか?上記解釈だと豊台以外のところにも中国軍が入り込むのではないでしょうか。
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[2171]Re(10):「盧溝橋事件」最初の...
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 eichelberger_1999 E-MAIL  - 06/3/1(水) 18:42 -

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   熊猫さん、またまた長文ですが、お許しを。

>当初は1個中隊ほどの軍人を駐屯させていたのが、20人〜40人の状態であったということは、認識できていませんでした。50人にも満たない人数というのは占領しているというレベルではなく、「手出しをしなければそれでよし」の状態ではなかったのでしょうか。豊台駅の銃撃戦を大げさに考えていました。イギリス軍の規模が記述されていないのは、張自忠を偉大に見せるため著者の意図的なミスリードのような気がします。

 20〜40人というのは、何もない時の駐屯兵力ですので、張自忠が豊台に進出した時のイギリス軍の兵力が50人にも満たなかったかどうかは、別途検証の要があります。第二次奉直戦争が起こったわけですから、鉄道の要衝である豊台を確保するために、臨時に増派されていた可能性も否定はできません。

 ご紹介のWebページでも、「駐扎有一个営的英軍」とあり、また交渉に来たイギリス将校が「我是英国駐貴国豊台駐軍司令官約翰少校的代表麦克中尉」と自己紹介したとあるので、この本では、少佐の率いる一大隊規模の部隊がいたことになっています。実際には、多くても1個中隊程度規模にすぎなかっただろうとは思いますが、少なくともこの本の想定では、50人に満たないといった状態だとは考えられません。

>イギリスが何故豊台に駐兵したのか解かりませんが、状況から判断して例外的処置として判断するのが妥当ではないでしょうか。辛亥革命のような先の見えない状況への対処ではなかったかと思います。

 イギリス軍が豊台に駐屯をはじめたのは、辛亥革命時に鉄道の要衝を確保するためだと推測されます。京漢線が全通するのが1908年ですので、京奉線と京漢線の分岐点である豊台の戦略的価値が1901年当時とは大きく異なっていることが背景にあるのではないでしょうか。

>やはり、豊台にこそ駐兵していませんでしたが、周辺には1000程のイギリス兵がいたのは間違いないでしょう。

 私が先に紹介した1936年の支那駐屯軍参謀部の調査では、1930年以降1936年まで、イギリス軍が駐屯していたのは、北平と天津のみです。北平に230人ほど、残りは天津です。ちなみに、1924年の数字は、北京100、天津180、山海関394、豊台36、の計710です。もちろん、第二次奉直戦争時に、この710のままであったかどうか、それはまた別問題です。威海衛や上海、香港さらにはインドから臨時に呼んでくることもできますから。

>「第一部 好男要当兵 豊台挫英軍(1)〜(3)」を読んで、私は大規模な戦闘があってイギリス軍が豊台から全面撤退したと解釈しましたので、ちぐはぐな論証になってしまいました。

 御紹介のWebページの記述からは、イギリス軍は豊台の駅からは撤退したが、豊台そのものからは撤退していないように読めるし、張自忠はイギリス軍の撤退要求を拒否したが、イギリス軍に豊台から撤退するように要求したのではないことがわかります。


>>1.豊台は中国の領土であるから、中国軍が駐屯するのは当然の権利であり。豊台に駐屯するイギリス軍が中国軍に撤退を要求する権利はない。北京議定書はそのような権利を外国に認めるものではない。

>この解釈は無いと思います。北京議定書は占領することを認めていますので、地域の統治権は占領軍にあると思います。豊台以外での中国軍の行動を調べる必要があるようですね。議定書の12箇所の地域に中国軍が駐兵したのか?上記解釈だと豊台以外のところにも中国軍が入り込むのではないでしょうか。

 まず、御紹介のWebページの記述からは、2のような解釈をするのは無理だということを理解してください。

2.豊台は中国の領土であるから、外国軍が駐屯する権利はない。北京議定書はそのような権利を外国に与えていない。よって、豊台に駐屯するイギリス軍は不法な存在であり、そのようなものが逆に中国軍に撤退を要求する権利がありうるはずもない。

 もし、2のような主張を当時の張自忠がしていたと解釈してしまうと、張の行動は少しも英雄的ではないことになります。なぜなら、彼はイギリス軍の撤退要求を拒否しただけで、不法に豊台を占拠しているイギリス軍に対して撤退を要求もしないし、これを実力で排除することもしていないからです。つまり、不法占拠と認識しておきながら、その存在を容認してしまったことになりますから、賞賛どころか、どこが「好男要当兵」なのかと言うべきところです。

 彼の行為が英雄的と賞賛されるのは、イギリス側の不当な要求をはねのけて中国の正当な権利を認めさせたからです。この場合実現できた中国の正当な権利とは、「中国軍の豊台駐屯」であって、「豊台を不法占拠する英軍の撤退」ではありませんでした。

 次に一般論としてですが、条約で自国内の一定地域を外国軍の占領に委ねることを認めたとしても、だからといって必ずその地域の統治権が占領軍に帰属することにはならないはずです。外国軍は治外法権をもっていますから、その駐屯を認めることは、自国の統治権に大きな制限を課する結果となるの明らかです。
 しかしながら、戦時国際法においても、統治権が全面的に占領軍に帰属するわけではないとされていることからしても、一般的に言って、戦時でない状況で軍が占拠地域において排他的な統治権を有するものでないことも同様に明らかです。外国軍の占領を認めるからといって、その地域への自国軍の駐屯が自動的に禁止されるわけでもなく、そのためには、別途駐兵禁止など非武装ゾーンの設定に関する約束がとりかわされる必要があると思います。

 さらに、個別の北京議定書に関して言えば、北京公使館区域を除けば、議定書本文に中国軍の駐屯を明示的に禁止する条項はなく、附属する1902年の天津還付公文にそれが含まれます。
 しかし、この公文でも、中国軍の進入を明示的に禁止しているのは、天津の周辺20清里の範囲内だけで、鉄道沿線区域については、駐屯する外国軍司令官の裁判管轄権が沿線2マイル以内の地域に及ぶとの規定があるだけです。
 じつは公文の原案では、この箇所は、沿線左右2マイル以内の中国軍兵力の現状維持という内容になっていたのですが、それは過酷すぎるという反対が列国内にもあって(とくにイギリス代表から)、字句が修正されたのです。(詳しくはアジア歴史資料センターのB02031968100を見てください)
 天津還付時に沿線2マイル以内に中国軍は存在しなかったので、上記原案の趣旨は実質的に中国軍の進入禁止を意味するものにほかならなかったのですが、しかし表面上はそういう表現にはできなかった(そこまで中国側の主権をあからさまに制限できないという遠慮があった)ことがわかります。

 ともかく、できあがった公文は玉虫色であり、列国原案の趣旨に則せば、中国軍の進入・駐屯を許さぬ精神を表現したものとなりますが、文字どおり解釈すれば、列国の裁判権さえ容認すれば、中国軍の存在を排除せぬものとなります。

 そして、現実にも天津周辺以外では、列国は中国軍の駐屯を既成事実として認めざるをえず、北京議定書違反であるとして撤退を求めるようなこともしなくなります。もし中国軍の駐屯を条約が認めていないのであれば、山海関事件(1933)や豊台事件(1936)など、の衝突事件がそもそも起こりようがないでしょう。

 ということで、天津周辺を除くと、北京議定書第9条の占領可能地域への中国軍の駐屯は、条約違反ではなかったと思われます。
 それゆえ、張自忠に対する賞賛は、当時の状況にてらせば十分根拠のあるものだと考えます。
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