|
▼KIMさん: 私の読み取りに少し難があったようですね。 そのようにお考えであるとは知らず、長々と申し訳ない。 KIMさんの申されるように事実無根の嫌韓を広め、 不当に韓国を貶めようとしている輩はけっして褒められる人間でもないし、 またその様な人間は非難されるべきでしょう。 繰り返しになりますが、他を認め他に関し礼節をもって接している方々に対しては、敬意を表すべきである。 逆に土足で踏みにじるような人間に対しては非難すべきである。 私の信条の一つでありますゆえに、 後者であるならば看過することができなかった。 ただそれだけです。 不快に感じさせてしまったようで、大変申し訳なく感じております。 いや、本当に申し訳ありませんでした。
▼たんこなすさん: なるほど私の論拠が確かではない、 私の批判部位が明らかではないと申されるか。 ならば以下引用させていただく。
(コムド(韓国剣道)公式サイト・剣道の歴史より全文引用) ・・・ (以上引用了)
上述はコムドの公式サイトより転載している。 コムドの言う剣道の歴史だ。 画像による文以外は全文転載できているはずだ。 書面での取り寄せ等は時間の都合上現実的ではないので以上を一次ソースとさせていただく。 さすがに、これが正確な骨子でないと申されることはないであろう。 翻訳サイトなどを通して読まれると良いだろう。
上述の文章を読んでいただければ理解できるとは思うが、 明らかに現代剣道の母体として朝鮮勢法なるものがあると記述されている。 また、現存剣法の世界最高最古で誇らしい私たちの遺産等と語っている。 また韓国(当時朝鮮)において、 1896年治安の為に警察教習科目で実施されたのが現代剣道の嚆矢(翻訳ミスであろうか?正確な意味が汲み取れない) とある。 これは日本統治以前であるとは思うが、 日本において警視庁剣道が黄金期を迎えることになった明治20年頃というのと重なるのも偶然ではあるまい。 以下剣道日本からの引用
(剣道日本・剣道の歴史・撃剣興行と警視庁剣道より全文引用) 明治維新によって、日本は大きく変わります。文明開化の波の中で、脱刀令、廃刀令が相次いで公布され、身分制度も廃止されて武士階級は消滅しました。府県によっては剣術の稽古そのものを禁ずるところもあり、一般に剣術は時代遅れと罵られ、顧みられることが少なくなります。その結果、時代に取り残された士族の生活は、困窮の一途をたどることになりました。 こうした状況の中で、直心影(じきしんかげ)流の榊原鍵吉は、明治6年、最初の撃剣興行を行ないました。剣客を相撲のように東西に分け、一組ずつ立ち合わせるものでしたが、この興行がおおいに人気を呼び、東京府内37カ所で行なわれ、東北、九州、四国など地方へも飛び火しました。ところが、次第に見世物に堕したために、またたくまに下火になっていきます。しかしながら、没落士族を救っただけではなく、衰退した剣道の命脈を保ったという意味では、撃剣興行は大きな功績を残したと言えるでしょう。 明治10年になると、西南戦争を鎮圧するにあたって、東京警官隊の中から選抜された抜刀隊の大きな働きがあり、これを契機として、警視庁では剣道が見直され、奨励されるようになったといわれています。おりから、自由民権運動が全国的に盛り上がりを見せており、これに対処するという目的もあったと考えられます。 明治12年には、巡査に剣術を教えることになり、梶川義正、上田馬之允(うまのすけ)、逸見(へんみ)宗助らが招かれ、その後も有名剣士がぞくぞくと迎えられるようになりました。警視庁流撃剣形や階級が制定され、明治20年代にかけて警視庁剣道は黄金期を迎えることになったのです。また、この頃には、他府県の警察でも剣術が採用されるようになっています。さらに同じ頃、無刀流を起こした山岡鉄舟(てっしゅう)は、この時代においては特異な存在といえ、門下から名剣士を輩出し、後世に大きな影響を残しました。 (以上引用了)
(剣道日本・剣道の歴史・剣道の隆盛と戦争への道より全文引用) 大正時代から明治神宮国民体育大会、東京帝大、京都帝大が主催する高専大会などが盛んに行なわれていましたが、昭和3年には全日本学生剣道連盟が結成され、第1回大会の全国大学高等専門学校剣道大会が開催されました。翌々年からは全国中学校剣道大会も始まっています。また、早大のアメリカ遠征、全日本学生選抜軍の満州遠征など、この時期、学生剣道界は、剣道界全体をリードするような活発な動きを示して、めざましい発展を遂げました。 日本が戦争への道をまっしぐらに歩んでいくとともに、剣道も国策と結び付けられるようになり、中学校や国民学校(小学校)での武道教育が義務づけられるようになりました。それとともに、日本が植民地化した満州、朝鮮、樺太などにも多くの剣道家が渡り、紀元二千六百年奉祝天覧武道大会などにはそういった地域の代表選手が参加しました。 この昭和15年には、紀元二千六百年を祝って、このほかにも各種の記念大会が行なわれています。その中でも、宮崎神宮大会(紀元二千六百年奉祝全国武道大会)は、戦後の東西対抗大会の原形となりますが、2万人もの大観衆を集めたビッグイベントでした。こうして剣道が隆盛を極めるのですが、翌昭和16年に太平洋戦争が勃発します。 (以上引用了)
次に全日本剣道連盟より引用させていただく。
(全日本剣道連盟・剣道の歴史より全文引用) 剣道の歴史を遡るとき、欠くことのできない基本的な段階がいくつかある。 その源は日本刀の出現である。彎刀で鎬(しのぎ)造りの刀は日本独特で、平安時代(794〜1185)の中頃に出現した。その原形は日本列島東北地方に住み騎馬戦を得意としていた部族が平安初期には既に使っていたと思われる。以来、武士集団に使われ、日本最初の武士政権,鎌倉幕府末期に製作技術は飛躍的に進歩した。「鎬をけずる」といわれる剣の技は、日本刀とともに日本に生まれたものであると言っても過言ではない。
室町幕府(1392〜1573)の後半、応仁の乱が始まってから約百年間、天下は乱れた。この頃に剣術の各流派が相次いで成立している。1543年種子島に鉄砲が伝来した。日本には河床に沈積した品質の良い砂鉄があり、たたらふき法で製鉄し、刀を鍛造していたが、短期間に同じ方法で質のよい鉄砲を大量に生産することに成功した。それによりそれまでの重装備の戦闘方式は軽装備の白兵戦へと大きく変化した。そうした実践体験を踏まえて刀を作る技術の高度化・専門化が進み、洗練された刀法が確立され、新陰流や一刀流などの諸流派に統合されて後世まで継承されている。
江戸幕府(1603〜1867)の開府以後、平和な時代が訪れるに従い、剣術は人を殺す技術から武士としての人間形成を目指す「活人剣(かつにんけん)」へと昇華し、技術論のみでなく生き方に関する心法まで拡がった。幕府初期には柳生宗矩の「兵法家伝書」,第三代将軍家光のために「剣と禅」を宗矩にたのまれて沢庵が解説した「不動智神妙録」,宮本武蔵の「五輪の書」などは、そうした思想を集大成した兵法書である。中期・後期にも各流派の理論が出され、夫々は今日でも多くの剣道家に示唆を与える名著になっている。 これらの書が武士に問いかけたことは、如何にして死を超越して生に至るかという問題であり、それはそのまま武士の日常生活の教育でもあった。武士は、これらの指導書,また教養書を学び、日常生活は厳格で質素であり,才能を磨き,武術に励み,善悪を知り,一旦緩急があれば藩のために国のために命を捧げることを知っていた。通常の仕事は現代でいうと官僚であり軍人であった。ここで生まれた武士道の精神は264年に及ぶ平和の中で養われ、封建制度の幕府が崩壊しても日本人の心として現代に生きている。
他方、太平の世が続き、剣術は実践的な刀法から華麗な技がつくられていく中で、新たな基軸をうちだしたのが直心影流の長沼四郎左衛門国郷である。長沼は正徳年間(1711〜1715)に剣道具(防具)を開発し、竹刀で打突し合う「打込み稽古法」を確立した。これが今日の剣道の直接的な源(みなもと)である。その後、宝暦年間(1751〜1764)に一刀流の中西忠蔵子武が鉄面をつけ、竹具足式の剣道具(防具)を用いて打込み稽古法を採用すると、またたく間に多くの流派に波及した。寛政年間(1789〜1801)ころには、流派の壁を越えて他流試合も盛んになり、強い相手を求めて武者修行をする者も相次いだ。
こうして江戸幕府後期には、「袋しない」よりも腰の強い「四つ割り竹刀」が発明され、胴もなめし革をはり漆で固めたものが開発された。俗に「江戸の三大道場」といわれる千葉周作の玄武館,斎藤弥九郎の練兵館,桃井春蔵の士学館などが勇名を馳せるのもちょうどこの頃である。千葉はまた、竹刀打ち剣術の技の体系化をはかり、打突部位別に技を体系化した「剣術六十八手」を確立した。千葉が命名した「追込面」や「摺揚面」など、多くの技名は今日でもそのまま使われている。 明治維新(1868)になり、新政府が設置されて武士階級は廃止され、続いて帯刀が禁止されたことにより失業者は激増し、剣術は下火になった。 その後、明治10年西南の役を契機に警視庁を中心に復活の兆しが見えはじめた。明治28年(1895)には、剣術をはじめとする武術の振興を図る全国組織として大日本武徳会が設立された。ほぼ同じころの1899年に武士の思想の集大成とも言うべき『武士道』という書が英文で出版され、世界に影響を与えた。 大正元年(1912)には剣道と言う言葉が使われた「大日本帝国剣道形(のち「日本剣道形」となる)」が制定された。流派を統合することにより日本刀による技と心を後世に継承すると共に、竹刀打ち剣道の普及による手の内の乱れや、刃筋を無視した打突を正した。竹刀はあくまでも日本刀の替りであるという考え方が生まれ、大正8年、西久保弘道は武本来の目的に適合した武道および剣道に名称を統一した。
第2次大戦敗戦後、連合国軍の占領下におかれた日本で、剣道は抑圧されていたが、昭和27年(1952)独立回復後、全日本剣道連盟が結成されるとともに甦った。今日では、学校体育の重要な一部分を構成するとともに老若男女を問わず、庶民の間に拡がり、数百万人に及ぶ幅広い年齢層の愛好家が竹刀を持ち、ともに稽古に励んでいる。
また、世界各地で剣道を愛好する外国人も増え、昭和45年(1970)には国際剣道連盟(IKF)が結成され、第1回世界剣道選手権大会が日本武道館において開催された。平成15年(2003)7月にはイギリスのグラスゴーにおいて第12回世界剣道選手権大会が開催され、41カ国・地域から選手が集まった。
(以上引用了)
次に剣道日本より引用
(剣道日本・剣道の歴史・刀剣と剣術の発生より全文引用) 金属製の刀剣は、紀元前の遺跡からも発掘されますが、大陸から伝来した当時の刀剣は、武器としてよりも所持者の権威を象徴するもの、あるいは祭祀的な色彩の強いもので、狩猟や部族間の争いには、弓や投石のほうが主であったと言われています。しかしながら、『日本書記』の中に刀剣をとって戦うことを意味する撃刀(たちかき)という言葉があるように、統一国家に発展するような集団の戦いが繰り返される中で、次第に刀剣が使われるようになったことも事実です。ちなみに、7〜8世紀になると、日本国内でも刀が製作されるようになっています。 武士階級が現われた平安時代からは、それまでの直刀に代わって、鎬(しのぎ)造りの弯刀(わんとう)である日本刀の原型ができあがり、『平家物語』には十文字、蜻蛉(とんぼ)返りといった技法名が顔を出しています。また鎌倉時代、室町時代の武家社会になると、剣術、鍛刀技術とも大きく発展し、実際の戦場では定寸の日本刀ではなく、五尺以上もある大刀や槍などが主役になりました。そして戦国時代には、いわゆる三大源流[飯篠長威斎家直(いいざさちょういさいいえなお)の天真正伝神道流など]をはじめとし、塚原卜伝高幹(つかはらぼくでんたかもと)の卜伝流、上泉伊勢守秀綱(かみいずみいせのかみひでつな)の新影(しんかげ)流など、流派剣術の起こりを見ることができます。 この頃までの剣法は、実際に戦場で使うことを目的にしていたため、甲冑(かっちゅう)を着用するものでしたが、流派剣術の発生とともに、実戦に備えた稽古の場では、甲冑を着けず、真剣あるいは刃引きで、相手の体に当てぬように一、二寸前で止める形稽古が行なわれるようになりました。
(以上引用了)
(剣道日本・剣道の歴史・形稽古から防具剣道へより全文引用) 江戸時代前半になると、実戦的な殺伐とした剣術が影を潜め、形稽古一色となり、多くの流派が起こりました。それとともに、二天一流の宮本武蔵玄信、心形刀(しんぎょうとう)流の伊庭是水軒秀明(いばぜすいけんひであき)、示現(じげん)流の東郷藤兵衛重位(とうごうとうべしげたか)、タイ捨(しゃ)流の丸目蔵人佐徹斎(まるめくらんどのすけてつさい)などの剣豪も現われました。 また、幕府が柳生新陰流と小野派一刀流を御流儀とし、各藩もそれぞれの流儀を立てて師家をもてなすようになりました。さらに士農工商の身分制度が確立して、剣術は武士のたしなみとなりましたが、世の中が安定し、実戦から遠ざかっている時期が長くなるにつれて、形稽古中心の剣術は理論に走り、精神主義的な傾向が強くなって、迫力のないものになっていきました。 こうした傾向が、防具と竹刀の登場によって一変します。18世紀中頃に直心影流の長沼四郎左衛門国郷により防具が改良されて打ち込み稽古が行なわれるようになり、すこし後に一刀流中西派の中西忠蔵子武によって、それまでの袋じないに代わり現在のものに近い竹刀を使っての防具剣道が始められ、打ち込み稽古が盛んになりました。この頃までには各流派でそれぞれに防具や竹刀が考案されていたようです。 幕末になると、国防意識の高まりとともに、新しく生まれた流派の江戸三大道場[北辰一刀流千葉周作成政の玄武館、神道無念(しんとうむねん)流斎藤弥九郎善道の練兵館、鏡新明智(きょうしんめいち)流桃井春蔵直正(もものいしゅんぞうなおまさ)の士学館]や、幕府の設けた講武所などをはじめとして、剣術界が活況を呈し、他流試合や農民の剣術も盛んになりました。幕末から明治維新にかけての志士たちにも、剣術を学習した者が多かったそうです。 剣道という言葉は、江戸時代にも使われることがありましたが、定着したのは明治時代後半以降のことで、それ以前は時代によっていろいろな呼称が用いられています。 (以上引用了)
読んでいただければわかるだろうが、コムドなる団体との言が大きく異なるのがわかるだろうか。 コムドなる団体は起源他その一切において日本について語られていない。 ところが現実には現状のコムドなるものが使用する防具・竹刀・制度に剣道との差異は認められない。 その防具を使用するに至った経緯、竹刀の登場等等一切において説明が無い。 段位制度・審判制度何をとっても同一のものであるがその内別理由・歴史・根拠等が語られていない。 (日本のその制度の内別を知りたければ日本剣道形を読まれることをお勧めする。) むしろ日本の剣道家が朝鮮に渡っているとの記述すら見られる。 コムドなるものが模倣ではなく剣道そのものなのであることも容易に理解できるであろう? にもかかわらず、朝鮮勢法が現代剣道の母体と語っているのだ。 元が剣術であれば似たような形になると仰られるかもしれないが、 西洋剣術のフェンシング等は剣道とは似ても似つかぬ競技となっている。 またその制度においてもだ。 ルーツが違う物であれば自然差異が出てくるだろう。 逆に差異がないのであればルーツは同じものなのだろう。
昨日より私が述べているように、 「何度も申し上げているが、他国の文化に理解を示し、そのことに関し礼節をもって接している方々に対しては、敬意を表すべきである。 逆に土足で踏みにじるような人間に対しては非難すべきである。」 上記のことは何度も申し上げている。 事この件については公式コムド団体は後者であろう?
私が申したいのは剣道韓国起源説なるものはネット上の妄想ではなく、 韓国公式団体すら語っている事実である。 この一点に過ぎない。 この文章も何度目だろうか? 紛れもないこの事実を認めていただきたい、 それだけでしかない。 先日までの文章において、その意思を汲み取っていただけないのであろうか?
以上をもって貴殿への返論とさせていただく。 これでもまだ「幼児性排外趣味サイトの請け売りに終始」している、とされないことを願う。
では、逆に前日より拘っておられる「護国神社の鳥居くぐり云々」がこの件にどう関与するのか私に説明していただきたい。 私はその件について全くといって良いほど情報を持たない。 故に軽はずみな発言を控えさせていただくとしか申し上げることができない。 しかしながら剣道起源との関連性があるのであれば、ぜひともご教授願いたいものである。 論点をそらすことを狙っているわけではないのであれば、剣道起源との関連性もあるのであろう。
以上乱文にて失礼。
[管理人一回修正:引用部表示不能に付削除]
| |