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▼とほほさん: 何度もご丁寧な返信ありがとうございます。 下記文章、ようやく貴殿と建設的な話が出来るものと感じ、安心致しました。 >特攻隊員の死は犬死です。犬死とはその死になんの効果も戦果も挙げられなかった「死」のことです。それが史実であり、真実を語って「それが死者への冒涜になるのであれば、それは真実を語るものの責任ではなく、彼等を犬死させたものの責任です。」 いろいろと言いたい事もありますが、ここで僕が嫌悪感を示した「合理主義」の立場からお話します。 ある文献によりますと、特攻出撃をした神鷲は3,910名、連合軍の被害は艦艇278隻、戦死者12,300名、重傷者36,000名だそうです。実に死者だけで3倍の敵と刺し違えたわけだから、戦果という観点からは十分に果たしたことになります。 もし、それが敗戦したのだから戦果は0とおっしゃるのであれば、そもそも議論の本質はズレまくりますがね。
> >常連さんはもう聞き飽きたかもしれないこの私の主張ですが、これが真実なのですよ。 うーむ、、貴殿はやや傲慢なところがあるとお見受けしますが、 「これが真実なのですよ」というのは、貴殿が神であるかのような主張ですよね。真実て何?という抜本的な問いから言わなければならなくなりますよ、それですと。まあ「私は神である」と主張されるのなら仕方ないですが・・ 僭越ながら僕のほうから言わせてもらいますと。 「真実」ではなく、「解釈」だとするとスッキリするのですが・・
> >虎吉さんは実社会の現実を語りながら公に準ずる事の美しさを説きます。ではもう一つのこの現実、犬死させた公に対する責任をなぜ虎吉さんは問わないのか不思議です。この虎吉さんの思想の延長には「公」の概念が「体制・権力」と同化しており、虎吉さんが「公」と呼ぶものの「体制・権力」の責任逃れに利用されていることに気がつかねばなりません。 全てを「公」のせいにしてしまうことも責任があるんじゃないでしょうか。 僕は、当時のほうが、「公」について真剣に考えていた為政者が多かったと思いますので(逼迫した状況だからなおさらです)、そこで無責任に現代的価値観から「公」「体制・権力」に責任をなすりつけるのもどうかと思います。 貴殿がおっしゃるとおり、個によって公が作られるのであれば、個ひとりびとりにも責任が発生します。 ですが、誰も歴史の必然、世界情勢という大きな流れに反撥は出来ないでしょう。 だから、あの時代、あの情勢で、精一杯仕事をした人たちを賞賛する、というのもひとつの方法なんじゃないでしょうか。 > >真実を語るもの、彼等の死を犬死である、と主張するものは決して死者を冒涜しているのではありません。本来彼等にあったはずの生に対する理不尽な完全否定である頓死に対する怒りであり、虎吉さんは彼等の死ではなく彼等の生、彼等の生き様に思いを寄せねばなりません。 生のみが強調される昨今で、生を語ることは気が引けますが、 生とは、死と対ではじめて成り立つと思います。死を思うことは同時に生への探求に繋がります。僕は、死を背負った彼らだからこそ、彼らの生き様に非常なる思いを寄せます。 また、彼らを犬死とすることも、彼らの死に対する理不尽な完全否定ではないでしょうか。 彼らは死なねばならぬ「公概念」のなかで、死への恐怖と格闘しつつ、私を最後まで保とうとしたことが遺書などからとてもうかがえます。 無駄・無意味を乗り越え、その中に、死ぬ意味を見出し、みっともないマネは少なくとも人前ではしないで、死のうとした人たちです。 犬死なんかじゃありませんよ。彼らひとりひとりの「個」の立場にたてば。
じゃあ逆に、特攻隊員ではなく、現代の我々の死を考えた場合、 寿命で死のうが、病気で死のうが、全ての死は無駄死にだ、と捉えることだってできる。だから我々も、死の意味を模索して生きているんでしょう。
> >本来「公」というものは民主社会において一人一人の個人の集合であり個人が集合するのは平和な安寧を求めるからこそ公を形成しているのです。それを公が私の犠牲を求める事など本末転倒以外の何者でもありません。人の生き方生き様は他者の人権を侵害しない限りにおいて全く自由です。体制に媚びへつらいながらでも最後まで生き抜いた人の生き方もそれはそれで立派な人生であり、個に徹し行き抜いた人の人生もそれはそれで立派です。 もはや、価値観に大分差があり、平行線になるだけですが、 僕は民主主義絶対などと思っていません。民主主義も究極へいけば衆愚政治に堕落すると考えるものです。 例えば、封建制は現代では「もっての外」とハナから拒絶する人もいますが、封建制だってうまくやれば江戸時代のように260年という世界に類を見ない泰平の世を築けます。 論点がズレてきたので戻しますが、 「人の生き方生き様は他者の人権を侵害しない限りにおいて全く自由」というのは、ある種の欺瞞でしょう。「他者の人権を侵害しない」のであれば、援助交際も、ひきこもりも許されてしまう。このようにインターネット上で他人を言葉で冒涜することも許されてしまう。子育て放棄も、仕事放棄も、全て許されてしまう。 挨拶もしない、礼も尽くさない、親孝行もしない、気を使わない、場の雰囲気をフチ壊す、年寄りや妊婦に電車で席を譲らない、年配者へ無礼な口をきく、、などなど その延長上には、公の崩壊があります。 僕は、公が崩壊された国などに住むことは真っ平ゴメンですね。
> >しかし、それは生きたからこそです。死が公に貢献するなどと言う公は抹殺すべきなのです。虎吉さん「公」と「体制・権力」を混同してはいけませんよ。公とは個が形成し個が作り上げていくものなのです。 では、個が公を作る上で基盤とするものは何でしょうか? 何を指標として育めばよいのでしょうか。 それは、育った言語文化環境・祖先からの知恵・その地域での宗教・家柄・身分などなどによりましょう。 特に、近代国家社会の時代からは、その最大公約数が「国」という単位だと思います。(世界単位だとおっしゃりたいのならば、いくらでも反論はできます) 公と個は、どちらが切り離されても存在せず、相互に絡み合って発達してゆくものでしょう。 個の集合体である公を模範的に担うものが「体制・権力」でしょう。 個がバラバラでは、出来損ないのプラモデルのような公しか作れないでしょう。
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