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とほほさん
ネベツネ親分とは、すばらしいネーミングですね。 江川る事件のような『寝技』が得意だし、 そもそもニッポンキョーサントートーダイサイボーのキャップから 権力のほうに『転んで』、政治記者→新聞社オーナーとして 大出世した人ですから、
『ネ転べツネ雄』親分
http://ja.wikipedia.org/wiki/渡辺æé
東京大学を卒業して読売新聞社に入社。読売ウイークリー記者を経て、政治部記者となる。警察官僚出身の社長正力松太郎の目にかなって、自民党有力政治家の大野伴睦の番記者になり保守政界と強い繋がりを持つようになった。児玉誉士夫と懇意になり、児玉の指令のもとに九頭竜ダム建設の補償問題や日韓国交正常化交渉の場でも暗躍したとされている。
1977年渡邉は編集局総務局長待遇に就任する。1977年2月18日付社説は百里基地訴訟一審判決の違憲立法審査権の存在意義を説いたが、1981年7月8日付紙面では一転して二審判決の統治行為論を支持し裁判所の政治介入を制限する主張にシフトした。渡邊の主張を取り入れ読売新聞が中道から保守・反共に傾いていった結果だとされている。
1981年取締役論説委員長に就任した渡邉は、1984年からの元旦社説を自ら執筆した。その間、渡邉と意見を異にする論説委員の黒田清・山口正紀らが退社に追い込まれたという(渡邉恒雄氏におけるジャーナリズムの研究〜前澤猛〜から)。
略歴 1926年 現在の東京都杉並区に生まれる 1939年
開成中学校に入学。第4志望だったという。第1志望は府立高校尋常科、第2志望は武蔵高校尋常科だっととのこと。 1943年
東京高等学校に編入学。網野善彦、氏家斉一郎と知り合う。 1945年
東京帝国大学文学部に入学。同年7月に陸軍砲兵連隊に入営するも、終戦の2日前に除隊。
うん、この辺に東条嫌いの大元があるんだな。
1946年 天皇制への嫌悪から日本共産党に入党 1947年
組織のために個人を犠牲することに疑問を抱いて本部を批判、日本共産党を除名される。ただし、日本共産党には除名したという記録は一切ない為、離党して“除名された”と自称していると思われる。
1949年
東京大学を卒業して東京大学大学院に入学する。当時は哲学者、東京大学総長を夢見ていたが、修士論文執筆のためのネタ本を、新宿の公衆便所で紛失。というか紙が無いのでそれで拭いてしまった。「ペンは剣よりも強しというが糞よりは弱い。」どんなに高尚な書物であっても、所詮人間の欲求や生理現象にはかなわないことを悟り、新聞界への就職を決意。
そうか、新宿で酔っ払って公衆便所で・・・これをきっかけに『転んだ』のかナ?
1950年
読売新聞に入社。読売ウィークリーに配属される。高校時代からの学友氏家斉一郎(現・日本テレビ放送網会長)を誘う。 1952年
日本共産党山村工作隊の取材で奥多摩のアジトに潜入し、拘束される。無事釈放されるが、このとき隊のリーダーだったのが、「生きることの意味」の著者、高史明であったという。このスクープが認められて政治部に異動。
この辺が決定的だナ、たぶん。
1954年 結婚。大野伴睦の番記者に。党人派重鎮の威を借りて政界に食い込んでいく。
1956年 中曽根康弘と知り合う。 1958年 児玉誉士夫と知り合う。初の著作『派閥』を上梓。 1959年
中曽根康弘らとサイエンティフィック・ポリティクス研究会を始める。6月には中曽根康弘の岸改造内閣への入閣に尽力。
1960年 安保反対の全学連デモが国会に突入し、その際、東京大学の樺美智子が死亡するが、これに対する内閣声明を執筆。
1964年
大野伴睦の死去に伴い、船田中の番記者になる。九頭竜ダム建設の補償問題で、一千万円の運動費で調停役を依頼された児玉誉士夫のメンバーの一員に。他に中曽根、氏家がいた。この調停は成立せず、1,000万円は返却されたという。
1966年
首相の佐藤栄作が読売に決まりかけていた国有地払い下げの白紙撤回を宣言した為、氏家斉一郎と共に国有地獲得工作に奔走。12月、務台光雄社長が会議で佐藤栄作批判の大演説、それを受けて渡邉が反佐藤キャンペーン記事を執筆。
1968年
1月、政治部次長。12月、ワシントン支局長に就任。政治部長への就任を「児玉誉士夫に読売を乗っ取られる」と恐れた社会部の圧力があったといわれている。
1972年 1月、ワシントンでの任務を終えて、帰国。編集局参与を経て、同年10月に解説部長。 1975年
政治部長兼編集局次長 1976年
ロッキード事件。児玉誉士夫逮捕される。九頭竜ダム補償問題を暴露した著書「権力の陰謀」が出版され、児玉と渡邉の関係が明るみに
1977年 編集局総務(局長待遇)
1979年 取締役論説委員長。読売新聞の論調が保守傾向化するきっかけに
1983年 専務取締役論説委員長 1985年 専務取締役主筆論説委員長 1987年 筆頭副社長主筆
1991年 社長に就任。日本相撲協会の諮問機関横綱審議委員会委員に就任 1996年 読売ジャイアンツのオーナーに就任
1999年 日本新聞協会会長 2003年 日本新聞協会会長を任期満了に伴い退任
2004年
近鉄・オリックス合併問題で経営側との話し合いを求める選手の声に対して所謂「たかが選手」発言。8月に明治大学野球選手・一場靖弘(現・楽天イーグルス)を巡る裏金事件の責任をとってジャイアンツのオーナー辞任
2004年
渡邉恒雄名義の日本テレビ放送網株が実際には読売新聞社の保有であることが判明し、日テレ株は監理ポストに割り当てられた
2005年 横綱審議委員を任期満了で退任 2005年 ジャイアンツ代表取締役会長に就任
おやおや、『江川る』事件が年表に無いぞ。ウキペディアの手落ちかな?
http://ja.wikipedia.org/wiki/æ±å·äºä»¶
江川事件(えがわじけん)とは1978年のドラフト会議前日にプロ野球セリーグの読売ジャイアンツとの電撃的な入団契約を結んだ作新学院、法政大学出身の投手・江川卓の去就をめぐる一連の騒動のことである。空白の一日事件(くうはくのいちにちじけん)とも言われる。
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